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ル ソ ー に お け る 主 権 理 論 の 諸 前 提
ル ソー におけ る主 権理 論 の諸 前提
目次
一二
三
四五 人間の自由について
政治的批判主義﹁社会契約﹂の理念
人民主権と国家の地縁性政府設立の理論 白石正
樹
一人間の自由について
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﹃政治制度論﹄を誰にも知られず執筆していた時の自分の心境を︑ルソーは次のように述べている︒﹁⁝⁝わたし
( 1 )
は︑この仕事に不機嫌や不公平の跡を何らとどめず︑ただ理性(﹁餌一ωO]P口①昌PΦ口け)の全力を投入しようとした︒﹂﹃制度論﹄から抜粋された﹃社会契約論﹄も︑基本的には︑このような推論の所産に他ならない︒それは︑古代ポリスの言
葉の正しき意味における民主政治(結§︒ぎ緯芭を︑近代的個人主義を前提としつつ︑復活させようとした壮大な論理
的試みであるといえる︒
ルソーの政治理論における個人主義的契機は︑第二論文﹃不平等論﹄において︑とくに顕著である︒この論文に展
開された純粋自然状態孤立した自然人1は︑ホッブズ︑ロック以上に個人主義的である︒ルソー自身︑彼らの
自然状態論になお残存していた社会状態の影響を厳しく排除することによって︑完全な自足的単位としての人間に到
( 2 )
達することを意図していた︒歴史以前にさかのぼった仮説的操作による自然人の発見は︑同時に︑人間精神における﹁根源的なもの﹂血.︒円凶αq一舜一お︑自由意志︑自己愛︑ピティエ︑完成能力︑の識別となる︒ルソーの教育論﹃エミール﹄
は︑個人における﹁根源的なもの﹂の無理のない薫育によって︑人間教育を成就しようとする理論を展開している︒
また﹃社会契約論﹄は︑個々人を独立の単位とみなし︑彼らの任意的な契約によって政治体を形成している点にお
いて︑個人主義的理論である︒しかし︑﹃契約論﹄の前提とする人問は︑﹃不平等論﹄の多分に理想的な自然人と異
' ( 3 )
なり︑﹁あるがままの人間﹂ぎ日日︒ω件︒冨ρ¢.凶δ89︑現実の人間である︒人々は︑総体的に﹁入民﹂需ロ覧︒と呼ばれるが︑各人の資質︑性格︑能力は千差万別であり︑地位や財産も互いに異なっている︒そして抽象的︑普遍的人間
でなく︑具体的︑現実的人間が前提である限り︑彼らは﹁人為的なもの﹂α.餌註守一①一によってその根源的性質をおお
われていると想定しなければならない︒しかしまた︑人間は︑個人としても︑人民全体としても︑本来自由な存在と
して︑幸福を享受する資格を有している︒このような人間が︑契約論の素材であり︑対象である︒
第二論文の﹁序﹂において定立された純粋な﹁自然法﹂は︑﹃契約論﹄においても︑専制主義や封建的支配批判の
根拠にすえられているようにみえる︒例えば﹁封建的支配iかつて行なわれたとしても︑自然法の諸原理(嘗9一需ω
含脅︒詳5彗霞︒一)にも︑あらゆるよい政治にも反するばかげた制度﹂(目く・一℃︒巨一く)とある︒
だが︑ルソーにおける自然法上の﹁行為の規範﹂︑娼三似は︑少なくとも表面酌には﹃契約論﹄に現われていない︒
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なぜなら︑ここで取り扱われるのは﹁あるがままの人間﹂であるし︑すでに第二論文において説明されたように︑社会成立以降︑自然のあわれみの情(OObP5P一ω似H9梓一〇ロロ四什自﹃①一一Φ)は︑幾人かの偉大な人道主義的精神の中にしか見いださ
れないからである︒しかし︑このピティエという源から﹁すべての社会的な徳﹂が流れ出るとすれば︑人民の契約に
( 5 )
よって成立する政治社会とくにその倫理的実質性は︑この規範と無関係ではありえないであろう︒次に︑自然法上の﹁行為の権利﹂︑嚢︒日︒霞創⑦ωg,日ゆ日︒についてはどうか︒この原理は﹃契約論﹄においても︑人
問性に由来する最初の法として︑また端的に生存の要請として随所に現われている︒﹁共通の自由は︑人間の自然か
らの帰結である︒その最初の法は︑自己保存(器震o肩08 ω巽く鉾δ口)をはかることであり︑その第一の配慮は︑自分
自身に対する配慮である﹂(い一く・押︒ド一一)︒また﹁各入の力と自由とは︑その生存(雷8霧︒目く巴8)のための最も大
切な手段である⁝⁝﹂(い一く●押9.≦)︒
ヘヘへ注目に値することは︑生命を維持する権利の自然性に関しては︑絶対主義者ホッブズと自由主義者ロックも和解
し︑8ρ三①馨の立場のモンテスキューと8ρ畠匹o詳津おの立揚のルソーも一致しているということである︒これ
は︑一面︑当然ともいえようが︑しかし彼らの理論の前提に︑近代的個人主義があることを明示するものである︒
ところで︑﹁あるがままの人間﹂という﹃契約論﹄の素材ないし対象は︑もはや純粋自然状態に適応する自然人で
ありえず︑﹃不平等論﹄第二部の経緯が示すように︑社会状態に適応する社会人である︒後者において︑自己保存に
向かう﹁自己愛﹂は︑社会生活の中で屈折して9︒目︒霞費88(自尊心︑利己心)に堕し︑悪の誘惑と手を結ぶこともあ
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る︒個人における知的能力﹁理性﹂の発達は︑それに倍加する﹁情念﹂の発達によって相殺されるから︑その実践的判断はしばしば誤まりうる︒︑︑
しかし︑人間の心の底に﹁正義と徳の生得的な原理﹂として存在する﹁良心﹂は︑自分の行動や他人の行動の善悪
を最終的に判断するものとして︑個人における意志の自律を裏付ける︒人間は﹁よいこと(冨玄O昌)を好むように良心
(7)を︑それを知るように理性を︑それを選ぶように自由を﹂与えられている︒このような独立した自由人の育成は︑教
育論の課題である︒
人民は︑社会状態に生きる人々の地域的集合‑自生的人民︑民族ーとして理解されるのであるが︑全体として
の認識や判断の規準︑すなわち︑その機能上︑個人における理性や良心に相当するもの︑を必要としている︒﹁人民
( 8 )
は︑ほっておいても︑つねに幸福を欲する︒しかし︑ほっておいても人民は︑つねに幸福がわかるとはかぎらない︒﹂( 9 )
それ故︑人民に何らかの正当で確実な政治上の規準(ρ器言器話αqδα︑巴日巨︒・#蟄8冨oq三目︒韓ω砕︒)を与えることが要請される︒これこそまさしく﹃契約論﹄の目的であって︑現実の民衆に最適の法制を賦与しようとするこの企て
は︑最初から︑利害と権利の統一︑一︑邑=叡と冨冒︒︒梓帥8の結合という困難な課題を内包しているのである︒
﹃不平等論﹄に比べて︑﹃契約論﹄の文体は簡潔ではぎれがよい︒しかしそれだけに含蓄深く︑行論の理解も難し
い︒﹁社会契約﹂理念の定式化そのものを目指した﹃契約論﹄の第︼編は︑内容的に三つの部分︑すなわち︑主題
(9碧凶鍵o一)︑批判(︒F昌19・<)︑構築(︒巨≦ー︒F一×)からなっている︒
﹁人間は自由なものとして生まれた︒しかもいたるところで鎖につながれている︒﹂この有名な︑主題の冒頭の一
節は︑専制君主論者ボシニ(盲霧切似曇・b︒・.・ω曇§占罎の言葉﹁人間はみな臣民として生まれ麓と対
照的である︒ルソーの出発点には︑孤立した幸福な自然人があり︑その自然人は︑他の動物と区別される特質ー自
由な能因(9αqo巨=耳o)ーを有している︒それは﹁自由の意識﹂ないし﹁意志の自由﹂であって︑そこから﹁選択の
自由﹂﹁行動の自由﹂が導き出される︒こうした自由が︑無制約的である場合﹁自然的自由﹂と呼ばれる︒しかし現
実に︑人間は政治権力の支配下にある︒専制君主制の下で︑臣民はただ服従を強いられるのみで︑政治的自由を有し
ない︒
専制主義を象徴する﹁鉄鎖﹂O訂ぎ︒ω密{巽という語は︑すでに第一論文の中に見いだされる︒しかし︑原初の自
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由と︑社会の鉄鎖とが鋭く対置される第二論文において︑政治的矛盾の暴露はとくに顕著である︒この論文は︑事実
論ないし歴史的仮説として︑専制政府の君臨しゆくさま︑自由の剥奪されゆくさまを叙述したものである︒﹃契約論﹄
の主題は︑しかしながら︑第二論文のような歴史的推論ではない︒個人の自由から政治的支配ほ服従へという変化が
( 11 )
どうして生じたかを︑ルソーは論ずるのでなく︑﹁何がそれを正当なものとしうるか﹂を論じようとする︒それは事実論でなく権利論であり︑政治権力の正当性の問題である︒
もちろん﹃契約論﹄においても︑事実論の立場から︑次のように専制に対する人民の抵抗が是認されている︒﹁人
民が服従を強いられ︑かつ服従している問は︑それもよい︒人民がくびきをふりほどくことができ︑かつふりほどく
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ことが早ければ早いほど︑なおよい︒﹂こうした抵抗の容認は︑治者よりも人民の主体性に力点がおかれていることを除けば︑第二論文の次のような結論と軌を一にする︒﹁⁝⁝専制君主(δ∪⑦碧9①)は最強者である問だけしか支配
者ではない︒そして人々が彼を追放することができるようになるやいなや︑彼はその暴力に対して︑少しも抗議しえ
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ないのである︒﹂専制政治の理論的根拠は︑第二論文において︑実力説︑父権説の批判とともに﹁政府契約﹂の事実へ上の解消が宣言された時︑すでに崩壊していたといってよい︒ルソーが﹁﹃社会契約論﹄の中の大胆なものは︑すで
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に̀﹃不平等論﹄にことごとくある﹂と言い︑﹃不平等論﹄を指して︑﹁わたしの全著作の中で︑無謀とまでいわずとも︑最も大胆に諸原理の表明されている本﹂と述べているのも︑こうした観点から理解されてよいであろう︒
﹃契約論﹄は︑既成の権威にとっては破壊的な第二論文の結論を︑その前提にもっている︒すなわち︑後書の結末
は︑専制H﹁不平等の最終項﹂であり︑﹁円を閉じ︑われわれの出発した起点に接する終極点﹂である︒そして前書
のあらかじめ設定する状況は︑専制11二つの新しい自然状態﹂であり︑人々の生存を妨げる諸障害の耐えがたき状
況である︒
ルソーが﹁入間は自由なものとして生まれた﹂という時︑その自由は︑自然権とほど同じ意義を有している︒ホッ