35 天 明 二年 「三春 行 楽記 」 前 後(四)
天明二年﹁三春行楽記﹂前後四
ー土山宗次郎と朝田伴七を中心にー
藤村潤一郎
一ー五(創価大学入文論集七号)
六‑九(同右九号)
一〇ー一八ロ(同右一〇号)
ハ越後屋孫兵衛と三井京本店
﹁三春行楽記﹂の時期についてみるが︑行論の都合上その前後にもわたって考える︒なお前後の時期については越後屋
孫兵衛の系譜を主としてみる事にする︒
(985)明治四四年八月一一日取材︑斎藤隆三﹁元京本店勤仕泉常三郎談話要領﹂には︑﹁越孫の事﹂として次の通りである︒
それから越孫の事を聞いたのです︒あれは本店の荷物運送方をやつて居つたもので︑奈良物屋三右衛門と全く同じも
のであります︒世間では奈良物屋と称して居るが︑此方の店では越後屋と称して居つた︒名前も違って居りますけれ
ども︑人が二人あるでもない︑店が二つあるでもない︑全く同一のものであります︒
つまり順番飛脚問屋越後屋と奈良物屋は同一としている︒泉常三郎は樋口知子氏によると︑譜代の家柄で幼名常之助︑
安政二年八月一三才で京本店に勤め︑万延元年正月元服して常三郎と改名︑ついで平手代になり︑明治二年上座役︑同四
年組頭︑同六年支配︑大坂為換座へ転勤︑同九年三井銀行勤務︑同一八年迄銀行大阪分店取締︑以後名古屋︑横浜を廻り︑
(謝)東京本店に配属︑同二七年手代三等︑翌二八年退職である︒
三井京本店で越後屋と奈良物屋を同一としているのに︑世間では別扱とする点については︑昭和一四年刊︑長井実編
(謝)﹁自叙益田孝翁伝﹂が参考になる︒明治六年に益田の弟の克徳が幕軍で宮古湾の戦後官軍に降伏し収監されたが︑﹁克徳は
牢から出るとすぐ慶応義塾に入学した︒克徳は名村五八郎へ養子にやってあったから︑名村一郎というておったが︑それ
を元へ戻して益田荘作となって慶応義塾へ入ったのである︒その頃はずいぶん無茶なもので︑これで名村一郎はどこどこ
へ行ったものかわからないことになって︑それでこの事件はうやむやになってしまった﹂とある︒改名が以前との関係を
断ち切る事になるのだろう︒近世も似た面があったのではないか︒越後屋と奈良物屋は同時に存在しているが︑改名と同
様に理解されたのだろう︒
(5)つぎに昭和七年に三井高維は越孫について︑﹁越後屋孫右衛門通称﹃越孫﹄は京都の定飛脚問屋の一員であつて︑特に
三井を以て最も主なる得意先とした﹂とし︑また﹁三井組の早飛脚としては古来特定のものなし︒乍併︑京都の越後屋孫
右衛門通称﹃越孫﹄といふ飛脚屋は三井の出入の飛脚屋でそれが三井組の御為替御用の正金銀の輸送即ち﹃正下し﹄など
にも関係した事実がある︒幕末国事多端の際には世間でも﹃三井組早飛脚﹄として重宝がられたもののやうである﹂とし
ている︒幕末から昭和にかけて三井との関係が強く意識されていたようである︒
文政九年七月付︑本店支配人中宛︑岡本九代目越後屋孫右衛門﹁乍恐口上書﹂を中心とし︑同二年=月付︑本店支配
人中宛︑越後屋孫兵衛︑奈良物屋三右衛門︑藤兵衛︑佐助︑親類惣代加賀屋作兵衛︑別家宰領善兵衛︑小右衛門︑吉郎兵
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衛︑庄九郎︑惣兵衛︑市兵衛︑吉兵衛︑喜右衛門︑治左衛門︑久七﹁乍恐奉願上口上書﹂を副として︑越後屋孫兵衛の経
(395)歴などを考える︒各時期毎に史料を補足する︒
初代孫兵衛は近江国栗田郡岡本村出生で︑三井高利に取立てられ三井の江戸出店に際し︑江戸下し荷物請負方に従事し︑
以後飛脚商売を継続した︒また諸国廻りには御供したと伝えており︑正徳四年七月二九日に疲した︒天明八年四月付︑本
店支配人中宛︑越後屋孫兵衛﹁乍恐奉願上口上書﹂によると法名は浄心である︒
(495)二代孫兵衛は初代の実子で相続したが︑申(元文五)年一二月二七日付︑宛欠︑本店役人(勘定名代)中川清右衛門
(元文四)(595)﹁覚﹂によると︑﹁仲間混乱二付去年以来江戸表江両度罷下長逗留仕居申候処﹂とある︒これは江戸の十七屋に何かあった
事を示しているが具体的な事は不明である︒當時不如意で元文五年一一月に三井京本店に銀三〇貫目拝借願を出している︒
(5)既に以前から﹁下地仕送リ銀﹂があり願は差置かれたが︑翌一二日に再願があり(京本店支配)白井儀兵衛が吟味すると
損銀が重なっている上に世伜幸次郎の借金が認められた︒後者については元文五年一二月付︑(京本店勘定名代)中川清
(795)(珊)右衛門︑(同店支配)根岸甚右衛門︑(同店支配)山川庄兵衛︑(同店支配)白井儀兵衛︑(不明)小森勝吉宛︑岡本幸次郎
﹁口上書﹂によると︑幸次郎は享保二〇年から元文二年迄島原での遊興費に駄賃銀から少し宛取出し︑他借をした︒その
結果元文元年一二月に森川栄助から金五〇両を借用して借金を払ったが︑金五〇両返済のため升屋吉兵衛の勧めで米市に
手を出し銀五貫目程損銀になり︑結局金四〇〇両程を元文五年盆前迄に返金した︒三井京本店では中川清右衛門が孫兵衛︑
幸次郎を吟味し︑﹁若輩とハ乍申︑彼是以不届千万︑難尽筆紙﹂としながらも︑O家内人数減少︑O孫兵衛︑幸次郎の手
代同前の日用︑◎内証物入減を実施すれば一〇ヵ年で立ち直りと見積り︑﹁岡本嘉七へも通達﹂としている︒
寛延二年九月に残し︑前記天明八年﹁乍恐願上口上書﹂によると︑法名は浄覚である︒
三代孫兵衛は浄覚実子幸治郎で︑前記元文五年﹁口上書﹂によると︑若年の時三井京本店に奉公したが病気のため一七
才で暇し︑宿元で養生し商売に身を入れなかった︒前記の行状である︒
孫兵衛と改名して跡式相続したが借金が嵩み︑元来が武士望みで父方の伯父岡本嘉七が引請けて世話した︒江戸で旗本
株式を求めようとして妓している︒
(珊)岡本嘉七は﹁店々役人名鑑﹂によると︑﹁嘉七(岡本)︹江戸本店︺︹江戸向店︺︹江戸本店︺﹂で︑享保七年三月↓○日
役頭︑同一〇年二月朔日組頭︑同一二年閏正月七日支配︑同一五年七月二五日後見(昇)︑同一九年正月名代︑元文五年
五月勘定名代︑寛保元年六月二九日元方掛名代︑同日江戸向店二転︑寛延元年九月加判名代︑宝暦元年一〇月一四日元〆︑
同三年九月江戸本店二転︑同七年八月二一二日死である︒
四代孫兵衛は三井江戸向店支配水谷与兵衛を大元〆岡本嘉七が見立て三井京本店へ願出て︑京都にきて四代を相続した︒
実子男二人女二人が出生している︒借財を済ませ持家︑有銀を推えた︒(㎜)水谷与兵衛は﹁店々役人名鑑﹂によると︑﹁與兵衛(水谷)︹江戸向店︺﹂で︑寛保三年正月二一二日役頭︑延享三年正月
一九日組頭︑寛延三年春退である︒従って三代孫兵衛は寛延二︑三年頃に残したのだろう︒
この四代孫兵衛の時期と考えられる宝暦一〇年三月一八日付︑本店支配人中宛︑越後屋孫兵衛﹁乍悼以書附奉願上候﹂
と︑同年五月朔日付︑三井八郎右衛門店名代中︑支配人中宛︑越後屋孫兵衛﹁御礼証文之事﹂によると︑前者では亡父存
命中不如意でとあり︑後者では私がとあり︑寛延三年に三井京本店から銀三〇貫目を一〇年賦で借用しているが︑宝暦一
〇年残銀六貫四〇〇目を改めて一〇年賦にしている︒同年三月の江戸大火で荷物引請の場所である十七屋飛脚仲間宿が類
焼したので︑仲間申合で普請料割合金一〇〇両となり︑指出さない場合は仲間省きのため︑三井から借用している︒
つぎに宝暦一二年九月付︑三井八郎右衛門店支配人中宛︑近江屋五兵衛︑越後屋七郎右衛門︑越後屋孫兵衛︑笹屋七郎
兵衛︑奈良物屋三右衛門﹁置証文﹂は︑三井の京店から江戸店へ下しの金銀荷物は全べて奈良物屋三右衛門が請負い︑道
中日限などは仰付け通りにし︑東海道以外の脇道︑船は使用しないとしている︒この事は既にこの時期には越後屋と奈良
物屋が密接な関係にある事を示している︒
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第13表 天明7年4月6子 年7月 迄越 後 屋 不 時入 用表
明和年 中6天 明7未 年春 迄十七屋会所へ出金 十七屋公辺 二付 道中上下, 江戸逗留,京 都 入用金 両替御店御為替刺懸 リ弁 金不足金
本両替万屋甚兵衛利付年 賦返済金
京屋会所取建出金 亥年6普 請造作 金
金 両 歩 朱
1600‑0‑‑0程
235‑3‑0
Aso‐o‐o
500‑0‑0
660‑0‑0程 500‑0‑0程
銀
匁 56.91
銭
貫 文
15,153
五代孫兵衛は四代の長男で︑次男は奈良物屋三右衛門を﹁持居﹂たが︑五代
は御屋敷方勤めを嫌らい︑弟と入替り奈良物屋になった︒
六代孫兵衛は前記次男が改名して相続したが︑天明七年江戸十七屋一件後の
翌八年京大火などで大借ができ︑文化元年に家出して大坂で疲している︒文化
三年九月付︑.本店支配人中宛︑越後屋孫兵衛︑加賀屋作兵衛︑井筒屋庄蔵︑三
文字屋与兵衛﹁乍恐奉願上口上書﹂では文化二年冬に家出となっている︒
この五︑六代の相続の時期は明らかでない︒両者共に宝暦一〇年頃の可能性
もある︒
六代孫兵衛の時期には︑子(寛政四ヵ)年七月付︑上(三井京本店)宛︑越
後屋孫兵衛︑忠兵衛︑奈良物屋三右衛門﹁覚﹂の内容は第一三表の通りである︒
越後屋孫兵衛が十七屋会所へ明和年中から天明七年春迄出金の額は金一六〇
〇両程である︒つまり御買米一件以前の出金である︒
十七屋の御買米が天明七年四月から﹁御公辺﹂になり︑同年七月に越後屋は
勘定所柘植長門守役所からの差紙で︑町役付添で江戸に下り九月に帰京した︒)(106)ついで同年一一月二〇日に町奉行謝山村信濃守役所からの差紙で矢張り町役付(添で再度下り︑翌年八月八日に帰京しており︑その間の道中入用︑江戸逗留︑
京都での入用は金二一二五両︑銀五六匁九分一厘︑銭一五貫一五三文である︒
つぎに三井京両替店の御為替刺懸りで弁金一五〇〇両のため末吉町抱屋敷を
七二貫目で買得した際の不足金で金 六〇両を要している︒