理性の「自然的な使用」から「作為的な使用」へ、
そして「作為的な確信」から「自然的な確信」へ : ラインホルト、ヤコービ、フィヒテの関係(一七九 七年〜一七九九年)
著者 田端 信廣
雑誌名 文化學年報
号 64
ページ 1‑30
発行年 2015‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027522
理 性 の ﹁ 自 然 的 な 使 用
﹂ か ら ﹁ 作 為 的 な 使 用
﹂ へ
︑ そ し て ﹁ 作 為 的 な 確 信
﹂ か ら ﹁ 自 然 的 な 確 信
﹂ へ
││ ラ イ ンホ ル ト
︑ヤ コ ー ビ︑ フ ィ ヒテ の 関 係︵ 一 七 九七 年
〜 一七 九 九 年︶
│
│
田 端 信 廣
は じ め に K・
L・ ライ ンホ ルト は︑ 一七 九〇 年以 降︑ カン トの 批判 哲学 を継 承し なが らも
︑こ れを 抜本 的に 改造 した
﹁根 元 哲 学
︵Elementarphilosophie
︶﹂ の 立 場 を確 立 し た︒ そ れは
︑﹁ 哲 学﹂ を﹁ 学︵Wissenschaft
︶﹂ とし て 確 立 す る に は︑ 彼 が
﹁意 識の 事実
﹂と して の﹁ 意識 律﹂ と呼 んだ
﹁第 一根 本命 題﹂ から
︑他 の後 続諸 命題 を導 出す るこ とが でき る体 系 を 確立 する 必要 があ ると いう 主張 に支 えら れて いた
︒こ の主 張に よっ て︑ そし てそ れが 哲学 界に 与え たイ ンパ クト に よ って
︑ラ イン ホル トは 一躍 初期 ドイ ツ観 念論 の主 役に 躍り 出る こと にな った
︒し かし
︑そ れは 短い 期間 のこ とで あ っ た︒ 一 七 九 四 年 に は
︑よ り﹁ 純 粋 な
﹂超 越 論 的 観 念 論 の 立 場 か ら
︑哲 学 の 原 理 を﹁ 意 識 の 事 実
﹂か ら﹁ 事 行
︵Tathandlung
︶﹂ へ と深 化さ せね ばな らな いと いう 主張 を掲 げた
︑フ ィヒ テの
﹁知 識学
﹂が 登場 して 来る
︒
― 1 ―
だが
︑ラ イン ホル トは 当初
︑こ の﹁ 知識 学﹂ が 自分 の
﹁根 元 哲学
﹂の 立 場 を掘 り 崩 す もの だ と は認 識 し な かっ た
︒ む しろ
︑し ばら くは
︑そ れを
﹁根 元哲 学﹂ の﹁ 援軍
﹂と くら いに しか 捉え てい なか った
︒と ころ が︑ 一七 九七 年に は い ると
︑彼 は何 の前 触れ もな く突 如﹁ 知識 学﹂ の支 持を 表明 する にい たる
︒自 分の
﹁根 元哲 学﹂ の原 理的 不十 分点 を 認 め︑
﹁ 知識 学﹂ の立 場こ そ唯 一正 当な 立場 であ るこ と を 公然 と 表 明す る に い たる の で ある
︒そ れ は︑ こ の年 の 二 月 に
︑ま ず旧 くか らの 友人 たち に宛 てた 書簡 で︑ そし てフ ィヒ テ自 身宛 ての 書簡 で明 らか にさ れ︑ 四月 には
﹃混 成論 文 選 集﹄ 第二 部で 広く 公衆 に宣 言 され た
︒と く にそ の
﹁序 文﹂ に 表明 さ れ た︑
﹁ あっ ぱ れ﹂ と 言う し か ない よ う な﹁ 自 己 批判
﹂宣 言も さる こと なが ら︑ 本稿 が着 目す るの は︑ この
﹁転 向﹂ を正 当化 する ため にラ イン ホル トが 持ち 出し て い るの が︑
﹁ 自然 的な
︵natürlich
︶理 性使 用﹂ と﹁ 作為 的な
︵künstlich
︶理 性使 用
﹂と の 区別 と 連 関と い う 解釈 図 式 で あ る︒ 批判 哲学 ない し﹁ 根元 哲学
﹂か ら﹁ 知識 学﹂ への 進展 の必 然性 は︑ 前者 の理 性使 用か ら後 者の 理性 使用 への 深 化 の必 要性 によ って 正当 化さ れる
︒こ のこ と を︑ ライ ン ホ ルト は 一 七九 八 年 一 月に 公 表 され た
︑﹃ 一 般学 芸 新 聞﹄ 紙 上 での 一連 の﹁ 知識 学﹂ 書評 で明 確に 述べ てい る︒ どこ ろが
︑問 題は ここ から 始ま るの であ る︒ 一七 八九 年晩 秋︑ フィ ヒテ は有 名な
﹁無 神論
﹂論 争に 巻き 込ま れる こ と にな る︒ そし て︑ この 論争 の 渦中
︑J
・H
・ヤ コ ー ビが フ ィ ヒテ に 書 簡 を送 り
︵一 七 九九 年 三 月︶
︑究 極 の
﹁真 な る もの
﹂︵ つ まり
﹁神
﹂︶ は﹁ 知﹂ の外 にあ り︑ それ ゆえ 思弁 的知 によ って は捉 えら れず
︑そ れは ただ
﹁予 感﹂ され る ほ か な いも の だ と批 判 す る︒ こ のヤ コ ー ビ│ フィ ヒ テ﹁ 論 争﹂ に対 し て
︑ラ イ ン ホ ル ト は︑ 自 ら の 立 場 を﹁ 両 者 の 間
﹂に 置く と表 明し なが らも
︑実 質上 はヤ コ ービ に 与 して
︑﹁ 知 識 学﹂ の思 弁 的 知 の限 界 性 を指 摘 し︑ そ の実 在 す る
﹁真 なる もの
﹂は
﹁知
﹂の 外に ある 根源 的感 情と して の﹁ 良心
﹂に よっ て︑
﹁良 心﹂ を通 して しか 覚知 され ない とフ ィ ヒ テ を 批判 す る よう に な る︒ そ して
︑彼 に よ れば
︑こ の
﹁良 心﹂ は 人間 の
﹁自 然 な 確 信
﹂に 基 づ い て い る の に 対 し
「自然的な」理性と「作為的な」理性 ― 2 ―
て
︑思 弁的 知は
﹁作 為的 な確 信﹂ に基 づい てい るに すぎ ない ので ある
︒ かく して
︑一 七九 七年 春か ら二 年弱 の間 に︑ フィ ヒテ 的な 超越 論的 観念 論の 評価 を巡 って
︑ラ イン ホル トに おけ る
﹁自 然﹂ と﹁ 作為
﹂の 価値 査定 が逆 転し てい るの は明 らか で あ る︒ この 逆 転 の背 景 と 動 因が ど こ にあ る の かを 探 る こ と が︑ 本稿 の課 題で ある
︒ 第一
節
﹁知 識 学
﹂へ の
﹁ 転向
﹂ 声 明│
│
﹃ 混成 論 文 選集
﹄ 第 二部
﹁ 序 文﹂ ライ
ンホ ルト はか の立 場の
﹁転 向﹂ を︑ まず は旧 友バ ゲッ セン に打 ち 明 け てい
る⑴
︒次 い で︑ それ を フ ィヒ テ 自 身 に 伝え
⑵
︑さ らに かつ ての 自分 の 学 生で あ り 友 人で あ る エア ハ ル トに も
︑事 の 次 第を 詳 し く報 告 し てい
る⑶
︒二 月 中 に 書か れた これ ら一 連の 書簡 は︑ それ ぞれ の人 間関 係を 映し 出し
︑そ れな りに 興味 深い もの であ るの だが
︑こ こで は そ れら に紙 幅を 割く こと は控 えね ばな らな い︒ 以下 に︑ 四 月 に公 刊 さ れた
﹃混 成 論 文選 集
﹄第 二 部⑷
の
﹁序 文
﹂に 見 ら れる
︑ラ イン ホル トの 直截 な﹁ 自己 批判
﹂の 概要 を確 認す るに とど める
︒ その
﹁序 文﹂ によ れば
︑ラ イン ホル トは
﹃寄 稿集
Ⅱ﹄ の公 刊︵ 一七 九四 年春
︶以 降︑ ひと つに は自 分の 探求 が進 展 し たこ とも あり
︑ま たひ とつ には 批評 者た ちの さま ざま な批 判も あっ て︑
﹁ 根元 哲学 の理 念﹂ を是 正し よう と決 心し
︑ そ の 作 業に 着 手 して い た︵AuswahlII,v
︶︒ その 際 彼 は︑
﹁知 識 学
﹂を 理 解 し よ う と 何 度 も 努 力 し︑ そ し て﹁ つ い に
︑ 知! 識! 学! を理 解し たと 思い 込ん だ﹂
︒ その とき 彼は
︑﹁ 知識 学が 意識 の純! 然! た! る! 主! 観! か ら︑ 認識 と意 欲の 超越 論的 諸法 則 を
︑あ るい は純! 粋! な! 哲学 の質 料を 学的 な形 式で 導き 出す 試み に成 功し てい るの だ﹂ とみ なし てい た︒ すな わち
︑カ ン ト が﹁ 経験 の可 能性 およ び経 験の 実質 的︑ 形 式的 制 約 とい う 視 点か ら
︑初 め て 発見 し た こと を
﹂︑ そ して 自 分 が﹁ 意!
― 3 ― 「自然的な」理性と「作為的な」理性
識! とい う視 点か ら︑ 事! 実! とし ての 意識 から 出発 し︑ 意識 の規 定さ れた 可能 性を 展開 する こと を介 して
︑発 見し たこ と を
︑知 識学 は︑ 別 の視 点 か ら︑ す なわ ち 純! 然! た! る! 主! 観! の 視 点 か ら︑ 学的 に 根 拠づ け
﹂︵ibid.,vi
︶ よう と し てい る の だ と 思っ てい た︒ その かぎ り︑ フィ ヒテ の試 みと 自分 の企 ては
││ 一年 ほど 前に
︑折 にふ れそ う述 べて いた よう に│
│ な お同 調的 で︑ 軌を 一に して いる と思 い込 むこ とが でき た︒ しか し︑ それ は根 本的 な誤 解で あっ た︒ 彼は その こと に気 づい た︒
﹁ 根元 哲学
﹂と
﹁知 識学
﹂の 比較 検証 を通 して
︑ 彼 は 当 初の も く ろみ と は﹁ 反 対 のこ と
﹂を 確 信さ せ ら れた
︵ibid.,vii
︶︒ フィ ヒ テ は︑
﹁意! 識! の! 純 然 た る 主 観﹂ や そ の
﹁事 実﹂ を 出発 点 と して い る の では な く︑ よ り根 源 的 な﹁ 純粋 な 自 我﹂
﹁ 絶対 的 な 自我
﹂の 純 粋 能 動 性 を 出 発 点 に と り
︑そ こか ら﹁ 意識 の可 能性
﹂を 導出 しよ うと して いる こと を悟 った
︒そ れと 同時 に︑ 自ら の﹁ 根元 哲学
﹂が 自己 矛 盾 を含 んで いる こと を悟 った
︒こ のよ うに 述べ た後
︑﹁ 序 文﹂ は︑
﹁私 は悟 った のだ
︵Ichsahein,daß
︶﹂ と いう 語を 八 回 も九 回も 連発 して
︑自 らの 誤り
︑不 十分 点と
﹁知 識学
﹂の 優位 を告 白風 に書 き連 ねて いる
︒彼 が﹁ 悟っ た﹂ こと を 箇 条書 きに すれ ば︑ 以下 のご とく であ る︒
︵
ⅰ︶
﹁根 元哲 学﹂ が目 指し てい た﹁ ア!
・ プ! リ! オ! リ! に! 規! 定! さ! れ! た! 意識 の可! 能! 性! は︑ 決し て意 識の 純! 然! た! る! 主! 観! には 帰 さ れず
︑む しろ 逆に 意識 の外 部に
︑不 可避 的に 物自 体を
││ それ も意 識の 客観 とし て︑ 前提 にし てい た﹂ こと
︑す な わ ち﹁ 私は
︑意 識の 可能 性の 客! 観! 的! 制 約︵ カ! ン! ト! 風 に言 えば
︑経 験の 可能 性の 実! 質! 的! 制 約︶ を︑ 外! 的! 感! 覚! のう ちに 与 え ら れ たも の と 想定 し て き たの で あ り﹂
︑﹁ 私 は 意識 の 外 的 根拠 を ヌ! ー! メ! ノ! ン! とし て
︑物! 自! 体! とは 区 別 し て き た の だ が
︑そ ん な こと に よ って は
︑私 の 体 系の う ち にあ る こ の矛 盾 は
︑決 し て除 去 さ れな い で あ ろ う﹂
︵ibid.,viif.
︶ と い う こ と︒
︵
ⅱ︶
﹁ヌ ーメ ノン が理 性の 単な る産 物で あり
︑し たが って 私の こ! れ! ま! で! の! 理! 論! に 従え ば︑ 純! 然! た! る! 主! 観! 以外 のど こ
「自然的な」理性と「作為的な」理性 ― 4 ―
に も 根 拠づ け ら れて い な い 以上
︑感 覚 の 外的 根 拠 は︑ この ヌ ー メ ノン の う ちに は け して 措 定 さ れ え な い も の﹂ で あ り
︑﹁ そ れゆ えま た︑ その 外的 根拠 はい まわ しい 物自 体に 帰さ れる のだ
﹂︵ibid.,viii.
︶と いう こと
︒
︵
ⅲ︶
﹁私 の根 元哲 学が
︑超 越論 的な もの の可 能性 のた めに 経験 的な もの を前 提に し︑ そし て経 験的 なも のの 可能 性 の ため に超 越論 的な もの を前 提に して いる
││ 両! 者! に! 共! 通! の! よ! り! 高! 次! な! 根! 拠! も! な! し! に!
│
│﹂ とい うこ と︑ そし て﹁ 超! 越! 的! な! も! の! の領 域へ の死 の跳 躍を 敢行 する こと によ って しか
︑こ の循 環か ら救 われ ない のだ
﹂︵ibid.,ix
︶ とい うこ と︒
︵
ⅳ︶
﹁哲 学は これ まで 一度 も︑ 厳! 密! な! 真! の! 学! と して
︑純! 粋! な! 自立 し た 哲学 と し て 打ち 立 て られ な か っ た﹂
︑す な わ ち
﹁経 験的 なも のそ れ自 体を 前提 にす るこ とに まっ たく 依存 せず に︑ 哲学 の内 容を 演繹 する こと など 不可 能に 思わ れ て いた し︑ その よう な演 繹を
﹇カ ント の﹈ 批! 判! も
︑﹇ 表 象 能力
﹈理! 論! も 試み な か っ たの だ が︑ し かし 知! 識! 学! は そ の よ う な演 繹を 試み たの だ﹂
︵ibid.
︶と いう こと
︒
︵
ⅴ︶
﹁知 識学 が出 発点 とし てい る純! 粋! な! 自! 我! は︑ 意! 識! の! 純! 然! た! る! 主! 観! では け し て ない と い うこ と
﹂︑ 言 い換 え れ ば
﹁意 識の 純然 たる 主観 は︑ 意識 の純! 然! た! る! 客! 観! と の関 係 に おい て し か思 惟 さ れ えず
︑ま さ に それ ゆ え に︑ 経! 験! 的! 自! 我! で しか ない とい うこ と﹂
︒ それ に対 して
﹁純 粋な 自我 は
︑自 己 意識 に 対 する 反 省 に おい て
︑自 ら を措 定 し かつ 自 ら に よ って 措定 され るも のと して
︑ま たそ うで ある かぎ り主 観で ある と同 時に 客観 であ ると して 告知 され るよ うな
︑根 源 的 能動 性な ので ある
﹂︵ibid.,x
︶と いう こと
︒
︵
ⅵ︶
﹁こ の純! 粋! な! 自! 我! こそ が︑
﹇ カン トの
﹈批! 判! や
﹇表 象 能 力﹈ 理! 論! が! 純! 粋! な! 意! 識! の! 本! 質! の た めに 要 求 して い る よ う な
︑自! 己! 活! 動! 性! の! 特! 性! に 他 な らな い
﹂と い うこ と
︑そ し てま さ に そ れゆ え に︑
﹁ こ の 純! 粋! な! 自! 我! と い う 理! 念!
﹂は
︑ そ の了 解可 能性
︑そ の真 理性
︑確 実性
︑妥 当性 の﹁ 根拠 を︑ 自ら 自身 のう ちに 含ん でい る唯! 一! の! 理念 なの であ り︑ さ ら にま た︑ 学的 であ る哲 学は
︑唯 一こ の理 念だ けを 出 発点 と で き るの で あ り︑ かつ そ う しな け れ ば なら な い﹂
︵ibid.,
― 5 ― 「自然的な」理性と「作為的な」理性
xf.
︶と いう こと
︒
︵
ⅶ︶
﹁こ の純 粋な 自我 のう ちに
︑す べて の認 識の 超越 論的 なも のと 経験 的な もの との 区! 別! と連! 関! の! 絶! 対! 的! で! かつ 内! 在! 的! な! 根! 拠! が︑ 見出 され ねば なら ない
﹂と いう こと
︑そ して この 根拠 は︑ 純! 粋! な! 自! 我! の! 根! 源! 的! 機! 能! と して の絶 対的 な 定! 立!
︑ 反! 立!
︑総! 合! の 間の 区別 と連 関か ら生 じる
﹂︵ibid.,xi
︶ とい うこ と︒
︵
ⅷ︶
﹁一 言で いえ ば︑ 根元 哲学 は哲 学の 学的 基底 を探 し求 めて きた が︑ それ が採 用し てい た方 法で はけ して それ を 見 出す こと がで きな かっ たの だが
︑そ の基 底が 知! 識! 学! に よっ て︑ 実際 に見 出さ れた のだ
﹂︵ibid.
︶ とい うこ と︒ 上記 の﹁ 告白
﹂に 沿っ て︑ この
﹁立 場の 転換
﹂を 促し た諸 論点 をも う一 度整 理し てお こう
︒ 上 記の
︵ⅰ
︶と
︵ⅱ
︶は
︑二 月 の フィ ヒ テ 宛 書 簡 で も 言 及 さ れ て い た 論 点 で あ り︑ 自 分 の﹁ 表 象﹂
│﹁ 意 識﹂ 論 が
︑そ の外 部に
﹁感 覚﹂ によ る経 験的
﹁質 料﹂ の付 与を 想定 し︑ その
﹁原 因﹂ とし ての
﹁物 自体
﹂を 前提 にし てい た こ とへ の自 己批 判で ある
︒つ まり これ は︑ 自ら の超 越論 的立 場の 不徹 底性 の承 認で ある
︒
︵
ⅲ︶ では
︑ラ イン ホル トは
︑自 分 が﹁ 超 越論 的 な もの
﹂と
﹁経 験 的 な もの
﹂を 相 互 に他 方 の ため に
﹁前 提
﹂し て い たに すぎ ない と告 白し てい る︒ これ は
︑超 越 論的 諸 原 理の 究 明 に 際し て
︑﹁ 経 験的 な も の﹂ を│
│そ の 諸原 理 と 連 関 づけ るこ とな く│
│暗 黙の うち に﹁ 前提 にし てい た﹂ こと を意 味す る︒ する と︑ ここ でラ イン ホル トは
︑ず っと 以 前 に︵ 一七 九一 年八 月︶ マイ モン が︑ カン トは
﹁知 覚の 諸対 象に つい ての 経! 験!
﹂を 前提 にし
︑ラ イン ホル トは
﹁意! 識! 律! を事 実と して 前提 にし てい る﹂ と批 判し てい たこ とや
︑フ ィヒ テが
︑カ ント もラ イン ホル トも なん の証 明も しな い ま ま﹁ 事実
﹂を 前提 にし てい ると 批判 して いた こと
︵一 七九 三年 一二 月六 日付
︑ニ ート ハン マー 宛書 簡︶ の正 当性 を 自 ら認 めて いる こと にも なる
︒
︵
ⅳ︶ は︑ その 相互 前提 とい う不 徹底 さを 廃棄 し
︑フ ィ ヒテ が
﹁純 粋 な﹂ 超越 論 哲 学 の諸 原 理 を初 め て 打ち た て と
「自然的な」理性と「作為的な」理性 ― 6 ―
こ とを 承認 して いる
︒こ のこ とは
︑カ ント や自 らの 理論 に比 べ︑ フィ ヒテ の諸 原理 がも う一 歩メ タレ ベル に設 定さ れ て いる こと
︑そ して その 設定 の妥 当性 を承 認し てい るこ とを 含意 して いる
︒こ れ以 降︑ ライ ンホ ルト は︑ フィ ヒテ の
︵そ して シェ リン グの
︶企 てを
︑カ ント や 自分 の そ れと 区 別 し て︑ しば し ば﹁ 純! 粋! な! 哲 学﹂
︑﹁ 純! 粋! に! 学的 な 哲 学﹂ あ る いは
﹁純! 粋! な! 観念 論﹂ と特 質づ ける よう にな る︒
︵
ⅴ︶ と︵
ⅵ︶ では
︑﹁ 意識 律﹂ に おけ る
﹁意! 識! の! 純! 然! た! る! 主! 観!
﹂が 実 は︵ フ ィヒ テ の 言う
︶﹁ 経 験 的自 我
﹂に す ぎ ず
︑こ れが
︑端 的な 自己 措定 とし て の︑
﹁根 源 的 能動 性
﹂と し ての
﹁純! 粋! な! 自! 我!
﹂ とは 区 別 され ね ば なら ず
︑純 粋 な 超 越論 哲学 の諸 原理 は﹁ こ! の! 純! 粋! な! 自! 我! と! い! う! 理! 念!
﹂か ら 導出 さ れ るこ と を 認 めて い る︒ す ると
︑ラ イ ン ホ ルト は
︑
﹁意 識律
﹂そ れ自 体が
︑意 識の ア・ プリ オリ な構 造で はな く
︑何 ら かの 意 味 でな お 経 験 的性 格 を 帯び て い るこ と を 自 ら 認め てい るこ とに なる
︒
︵
ⅶ︶ それ ゆえ
︑﹁ 超越 論的 なも のと 経験 的な もの との 区! 別! と! 連! 関! の! 絶! 対! 的! で! かつ 内! 在! 的! な! 根! 拠!
﹂は
︑こ の﹁ 純! 粋! な! 自! 我! の! 根! 源! 的! 機! 能! と して の絶 対的 な定! 立!
︑ 反! 立!
︑総! 合! の 間の 区別 と連 関﹂ に求 めら れね ばな らな い︒ かく して
︑︵ 一 連の 二月
﹁書 簡
﹂と
︶こ の﹁ 序 文﹂ は︑ カン ト に 発し た 超 越 論哲 学 の 企て が な お﹁ 経験 の 大 地﹂ と 地 続き であ った のに 対し て︑ その 諸原 理に 関し ては その 繋が りを 断ち 切り
︑初 期ド イツ 観念 論が 純粋 な思 弁的 地平 へ と 旋回 して いく こと を示 して いる 決定 的ド キュ メン トな ので ある
︒
― 7 ― 「自然的な」理性と「作為的な」理性
第二 節
﹁自 然 的 な理 性 使 用﹂ か ら
﹁作 為 的 な理 性 使 用﹂ へ
│
│
﹃一 般 学 芸新 聞
﹄ での
﹁ 知 識学
﹂ 書 評
﹁ 転向
﹂を もた らし た︑ 知識 学理 解の 基本 的視 座 が 何で あ っ たの か は
︑そ の 後公 表 さ れた
﹃一 般 学 芸新 聞
﹄で の 一 連 の﹁ 知識 学﹂ 書評 を検 討す れば 浮か び上 がっ てく る︒ その 書評 は︑ 一七 九八 年の 一月 四日 から 八日 にか けて
︑同 紙 に 五号 連続 で掲 載さ れた
⑸
︒書 評対 象は
﹃知 識学 の概 念に つい て
﹄︑
﹃ 全 知識 学 の 基礎
﹄︑
﹃ 知 識学 の 特 性要 綱
﹄そ し て
﹃哲 学雑 誌﹄
︵第 五巻
︑第 六巻
︶で の一 連の
﹁知 識学 の新 叙述 の試 み﹂ であ る︒ 一月 四日 付の 第五 号で
︑書 評者 はテ キス トの 内容 の論 評に いき なり 入る ので はな く︑ 長い 連続 書評 への 総説 的序 論 に 相当 する もの を開 陳し てい る︒ それ は︑ 書評 の対 象と なる 哲学 が﹁ 従来 のど んな 哲学 とも 決定 的に 異な った ま! っ! た! く! 新! し! い! 哲 学﹂
︵FichteinRezensionen1,286
︶ であ るの で︑ 従来 の哲 学と の対 比を 通し てこ の新 しい 哲学 全体 の特 質 を 解説 しな いと
︑読 者公 衆に その 意義 が理 解さ れな いだ ろう との 配慮 に基 づい てい る︒ 重要 なの は︑ 当然 なが らカ ン ト 批判 哲学 と知 識学 の対 比で ある
︒そ の際
︑両 哲学 の対 比を 際立 たせ るた めに
︑書 評者 は対 をな す非 常に 重要 な鍵 概 念 を使 用し てい
る︒ そ れは
︑﹁ 自! 然! 的! な! 理性 使用
︵dernatürlicheVernunftgebrauch
︶﹂ と﹁ 作! 為! 的! な! 理性 使用
︵derkünstliche
Vernunftgebrauch
︶﹂ と いう
﹁理 性使 用の 二! つ! の! 様! 式!
﹂︵ibid.,288ff.,bes.292
︶ であ る︒ 後者 は
﹁純 粋 に学 的 な 理 性使 用
﹂
︵ibid.,292
︶ とも 呼 び かえ ら れ てい る
︒批 判 哲 学に 認 め られ る よ うな 前 者 の 理性 使 用 は﹁ 経! 験! と! 道! 徳! 法! 則! の! 自! 然! 的! な! 概! 念! を!
﹂事 実と して 前提 にし
︑そ れら の﹁ 概 念﹂ を反 省 す るが
︑﹁ 自 然 的な 諸 概 念﹂ そ のも の を 超え て い くこ と は な い
︒そ れに 対し て︑ 知識 学に 認め られ るよ うな 後者 の理 性使 用は
︑そ うし た﹁ 自! 然! 的! な! 概! 念! を! ま! っ! た! く! 前! 提! に! す! る! こ!
「自然的な」理性と「作為的な」理性 ― 8 ―
と! な! く!
﹂︑ それ ら の 概念 の
﹁可 能 性﹂ を︑ か の﹁ 二つ の 理 性使 用
﹂に
﹁共! 通! の! 原! 理! か! ら! 導! 出! す! る!
﹂︵ibid.
︶︑ あ る い は
﹁そ れ ら自 体 と は独 立 し た 基礎 か ら 導出 す る﹂
︵ibid.,293
︶︒ か くし て 書 評者 は
︑こ の 両 術語 を
︑批 判 哲 学 と 知 識 学 双 方 の解 決す るべ き課 題の 存在 境位 の相 違︑ およ び双 方の 哲学 的思 惟の 境位 の相 違を 特質 づけ るた めに 使用 して いる の で ある
︒た しか に︑ フィ ヒテ は﹃ 全知 識学 の基 礎﹄ で﹁ 自然 的な 反省
﹂と
﹁作 為的 な反 省﹂ とを ただ 一度 だけ 対比 し て いた
⑹
︒ラ イン ホル トは おそ らく この 対比 に着 目し て︑ フィ ヒテ が付 随的 に使 用 し た この 対 比 を批 判 哲 学と 知 識 学 の 根本 的差 異︑ 境位 の相 違を 特質 づけ るの に援 用し てい るの であ る︒ たし かに
︑批 判哲 学は
﹁経! 験! と! 道! 徳! 法! 則! の自! 然! 的! な! 諸 概念 へと さ! か! の! ぼ! り!
︑ それ らを その 根! 源! 的! な! 純粋 態に おい て 展 開 す るこ と
﹂を 可 能に し
︵ibid.,289
︶︑ そ し て﹁ 自! 然! 的! な! 理! 性! 使! 用! の 根 本諸 法 則 を 打 ち 立 て
﹂︑
﹁ 純 粋 な 知 を 求 め る 努 力﹂ を︑ 或る 限定 され た観 点か ら﹁ 完 成さ せ た﹂
︵ibid.,291
︶︒ し かし
︑批 判 哲 学 が﹁ 経験 の 制 約を 挙 示 する こ と が で き た﹂ の は︑
﹁そ の 制 約が
︑外! 的!
︑内! 的! 経! 験! 一! 般! の! 自! 然! 的! な! 概! 念! の う ち に含 ま れ て い る か ぎ り で の こ と﹂ で あ り
︑
﹁ま さに それ ゆえ に︑ その 実! 質! 的! 制 約を 説明 する 際に は︑ 単な る 事! 実! と し て の外! 的! 感! 覚! を超 え て いく こ と はあ! り! う! る! は! ず! が! な! か! っ! た!
﹂︵ibid.,292
︶︒ か くし て︑ 批判 哲学 は かの
﹁共 通 の 原理
﹂を 打 ち 立 てる こ と もな か っ たし
︑す べ て の 哲 学が 求め てき た﹁ 純粋 な知
﹂に 到達 する こと もな かっ た︒ ただ し︑ たし かに 批判 哲学 によ って
﹁純 粋な 知﹂ は可 能 に なら なか った とは いえ
︑﹁ 批 判哲 学が なけ れば
﹂そ れは 可能 にな らな かっ たで あろ う︑ と書 評者 は付 け加 えて いる
︒ 批 判哲 学に よっ て﹁ 先行 して 展! 開! さ! れ! て! い! た!
︑ 自! 然! 的! な! 使用 が知 られ てい なけ れば
︑作! 為! 的! な! 使 用は
︑こ れま での 場 合 がそ うで あっ たよ うに
︑独 断論 の虚! 飾!
︵Künsteley
︶ に転 落し てい たに 違い ない
﹂︵ibid.
︶︒ すな わ ち︑ 語 の本 来 の 意 味 での
﹁理 性批 判﹂ を前 提に し︑ これ に依 拠し て初 めて
︑経 験の 示す 自然 的事 実を 超え たか の﹁ 原理
﹂を 解明 する 理 性 の
﹁作 為 的な 使 用﹂ が 可能 に な っ たの で あ り︑ 前者 を 欠 けば
﹁作 為 的 な 理性 使 用﹂ は 再び 独 断 論 に 転 落 し か ね な
― 9 ― 「自然的な」理性と「作為的な」理性
い
︒ラ イン ホル トは
︑こ の段 落で 先の 一連 の二 月書 簡で の自 己理 解に 基づ いて
︑批 判哲 学と 自ら の根 元哲 学の 原! 理! に! 関! す! る! 根本 的限 界を もう 一度 説明 し てい る
︒一 言 で言 え ば︑ そ の限 界 は
︑﹁ 知﹂ の 成立 の
﹁実! 質! 的! 制 約 を 説明 す る 際 に
﹂﹁ 外! 的! 感! 覚!
﹂ の事 実に 訴え てお り︑ その 事実 を前 提に して いた 点に ある
︒﹁ 自! 然! 的! な! 理性 使用
﹂は この 前提 的事 実 を 解明 でき ても
︑こ の事 実そ れ自 身の
﹁可 能 性の 根 拠﹂ を 解明 す る こと は な か った
︒そ の 解 明は
︑﹁ 作! 為! 的! な! 理 性 使 用
﹂に よる しか なか った ので ある
︒
﹁ この 学的 な理 性使 用を
︑こ れま でい かな る独! 断! 論! も試 みた こと はな かっ たし
︑い かな る懐! 疑! 論! も予 感し なか った
︒ 批! 判! 哲! 学! で すら それ につ いて はな! に! 一! つ! 知! っ! て! い! な! い! し
︑そ れ につ い て なに 一 つ 知 るこ と は でき な い︒ と い うの も
︑ こ の理 性使 用の 可能 性は
︑そ の現 実態 に先 立っ ては 先! 取! り! さ れえ ない もの であ り︑ した がっ て批! 判! も され えな いも の だ から であ る︒ この 学的 な理 性使 用と とも に︑ この 理性 使用 によ って
︑哲 学と すべ ての 学に とっ て︑ 一つ の新! し! い! 時! 代! が始 まる に 違 いな い
﹂︵ibid.,292f.
︶︒ ラ イ ン ホル ト は︑
﹁ 作為 的 な﹂
﹁ 学的 な 理 性 使用
﹂の 決 定 的意 義 と 優位 を こ の よ うに 確認 して いる
︒そ して 書評 者は 第五 号で の書 評を
︑次 のよ うな いさ さか 修辞 的な 文章 で結 んで いる
︒知 識学 に よ って 打ち 立て られ た新 たな 哲学 的基 礎に よっ て﹁ 哲学 的な 自立 的思 索者 たち は︑ これ まで の自! 然! 状! 態! を 脱し て社! 会! 状! 態! へ と移 行 す るこ と に な るだ ろ う︑ す なわ ち
︑純 粋 に学 的 な 諸 原理 を 欠 いた
︑こ れ ま での 法! 則! な! き! 自! 由! の! 状! 態! か ら
︑自! 由! な! 合! 法! 則! 性! の状 態へ と移 行す る こと に な ろ う﹂
︵ibid.,293
︶︒ こ う し て︑ ラ イン ホ ル トは
︑知 識 学 が切 り 開 い た 思弁 的思 惟の 原理 の意 義に 最大 限の 賛辞 を送 って いる ので ある
︒ 第 六号 は
︑ま ず﹃ 知 識学 の 概 念に つ い て﹄ を 書評 対 象 とし て い る︒ 書 評は
︑著 作 の 章 分 け
︑節 分 け の 順 序 に 従 っ て
︑論 述内 容を 要約
︑解 説し てい る︒ そし て︑ 知識 学全 体へ のこ の導 入的
︑綱 領的 著作 をひ とま ず通 覧し た後
︑書 評 は 再び 批判 哲学 と知 識学 の区 別の 論究 に立 ち返 って いる
︒そ れは
︑こ の区 別の 観点 から
﹁知! 識! 学! への 入! り! 口! を 探し 出
「自然的な」理性と「作為的な」理性 ― 10 ―
す ため であ る﹂
︵ibid.,298
︶︒ ここ でも
︑﹁ 自 然的 な理 性使 用﹂ と﹁ 作為 的な
﹂︑
﹁ 純粋 に学 的な 理性 使用
﹂の 対比 が繰 り返 し援 用さ れる
︒﹁ 単に 自! 然! 的! な! 理性 使用 の確 信は
︑自! 己! 意! 識! と 経! 験! を諸! 事! 実! とし て前 提に して おり
︑し たが って この 諸事 実の 可! 能! 性! を
⁝︵ 中 略
︶⁝ 規! 定! し! な! い! ま! ま! 放 置し てい る﹂
︒ それ に対 して
﹁哲! 学! 的! な! 理 性 使 用は
︑規! 定! さ! れ! た! 可! 能! 性! を打 ち 立 てる は ず で あ り︑ かの 諸事 実を 思惟 する 際の 無! 規! 定! 性! によ って 生 じて く る︑ 自 然的 な 確 信の 欠! 陥! と 誤! り! を 止 揚す る は ず であ る
﹂
︵ibid.,298f.
︶︒ す なわ ち﹁ 哲! 学! 的! な! 理性 使用
﹂は
︑﹁ 自! 然! 的! な! 理 性使 用自 身が 不断 に反! 省! し なけ れば なら な いか の 諸 事 実 を完 全に 捨! 象! す! る!
﹂﹁ 作! 為! 的! な! 理 性使 用﹂ によ って
︑﹁ かの 諸事! 実! と 諸事 実の 自! 然! 的! な! 概! 念! から 全! く! 独! 立! な!
︑ 事実 の 可 能性 を定 め﹂
︑ した がっ て﹁ 自! ら! 自! 身! に! よ! っ! て! 規! 定! さ! れ! た!
︑ 事実 の可! 能! 性! を定 める
﹂の であ る︵ibid.,299
︶︒ 続い て︑ この
﹁哲 学的 な 理性 使 用﹂ の 核心 が
﹁純 粋 理性
﹂の
﹁自 由
﹂に あ る こと が 示 され る
︒す な わ ち︑
﹁純 粋 な 知 へ と 至る の に 絶対 に 必 要 な︑ すべ て の 事! 実︵THATSACHEN
︶を 捨 象 す る 働 き は︑ 自! 由! の 特 別 な 行 為︵Act
︶ と し て しか 考え られ ない
﹂︒ そ して
︑こ の特 別な 行為 を通 して
﹁理 性は
︑そ れの 単に 自然 的な 使用 の諸 制約 から 解放 され
︑ 純! 粋! な! 理! 性! と して 構 成 され る
﹂︒
﹁ かく し て︑ 純! 粋! に! 学! 的! な! 理性 使 用 は自! 由! に! よ! っ! て! の み 可能 に な る﹂
︵ibid.
︶の で あ る
︒そ れ ゆ え
︑書 評 者 は こ の﹁ 哲 学 的 な 理 性 使 用﹂ を﹁ 自 由 な 理 性 使 用
﹂︵ibid.,299,300
︶ と も 形 容 し て い る
︒つ ま り
︑理 性は 自ら の自 由な 行為 によ って
︑自 らを 自由 にす る︑ すな わち
﹁単 に自 然的 な使 用の 諸制 約か ら﹂ 自ら を﹁ 解 放 する
﹂の であ る︒ ここ には 一種 の 循環 が 認 めら れ よ う︒
﹁自 由
﹂と
﹁理 性
﹂と の︑ 次 のよ う な 単純 で な い根 源 的 関 係 も︑ おそ らく この 循環 に由 来し てい る︒ すな わち
﹁自 ら自 身に よっ て規 定さ れた 可能 性を 自由 な理 性使 用に よっ て 打 ち 立 てる 際 に は︑ 自! 由! と! 純! 然! た! る! 理! 性! は︑ 使 用 す る も の︵dasbrauchende
︶ で あ る と 同 時 に 使 用 さ れ た も の
︵das
gebrauchte
︶ であ り︑ 自! ら! 自! 身! を! 特 殊な 意識 の客 観へ と高 める
﹂︵ibid.,300
︶︒ こ の場 合﹁ 使用 する もの
﹂と
﹁使 用 さ れ
― 11 ― 「自然的な」理性と「作為的な」理性
た もの
﹂と いう 不自 然な 言葉 は︑ 自ら を﹁ 規定 する もの
﹂と 自ら によ って
﹁規 定さ れた もの
﹂と 理解 する ほう がよ り 自 然で あろ う︒ つま り︑ 問題 の所 在は
︑理 性の 自由 な自 己規 定作 用と その 被規 定性 との 相互 関係 にあ る︒ こ の 関 係 を︑ 書 評 者 は
︑﹁ 自 由 な 理 性 使 用
﹂の
﹁行 為
︵Handlung
︶﹂ と﹁ 行 為 様 式
︵Handlungsweise
︶﹂ と の 合 致 と し て展 開し てい る︒
﹁ こ! の! 理! 性! 使! 用! そ! れ! 自! 身! は︑ それ の 端! 的! に! 必! 然! 的! な! 行! 為! 様! 式! の う ちに し か 存在 し え な い﹂
︒﹁ 自! ら! 自! 身! に! よ! っ! て! 規 定さ れた 可能 性は
︑自! 由! と! 必! 然! 性! の! 合! 一! とし てし か思 惟さ れえ ず︑ この 合一 は︑ その 必然 性が 自! 由! に! よ! っ! て! 制! 約! さ! れ! た! も! の! と 想定 され るか ぎり での み︑ 思惟 され うる
﹂︵ibid.
︶︒ した が って
︑か の
﹁可 能 性﹂ を打 ち 立 て る とい うこ とは
︑と りも なお さず
﹁自 ら自 身を 自ら 自 身に よ っ て規 定 す る自 由 の 諸 機能 を 挙 示す る こ と︑ あ るい は
︑ 純 然た る理 性の 端的 に必 然的 な行 為を 挙示 する こと
﹂に 他な らな いの であ る︒ さら に︑
﹁ 自由 な理 性使 用﹂ にお ける 自由 と必 然 性 のこ の 一 致を
︑書 評 者 は﹁ 純 粋な 自 我﹂ の 根源 的 諸 活動 に 基 づ け て︑ 解説 して いる
︒す なわ ち﹁ 自由 に発 する
︑被 規定 性を 伴っ た自 己規 定︵SelbstbestimmungmitBestimmtheit
︶ を 思 惟し うる には
﹂︑ 以 下の 三つ の契 機を 考え なけ れば なら ない
︒第 一に
﹁純! 然! た! る! 自! 由!
﹂︑ 第 二に
﹁そ れの 純! 然! た! る! 反! 対! 物!
﹂︑ 第三 に﹁ 自! 由! に! よ! る! 両! 者! の! 統! 合!
﹂︒ ま ず︑
﹁純 然 た る自 由
﹂に お いて は
﹁す べ て の規! 定! が 捨象 さ れ ねば な ら な い
﹂が
︑そ れゆ えこ の自 由は
﹁自! ら! 自! 身! に! よ! る! 純! 然! た! る! 措! 定! 作! 用! とし てし か︑ すな わち 純! 然! た! る! 措! 定! 作! 用! に! よ! る! 純! 然! た! る! 措! 定! 作! 用! と して しか
︑思 惟さ れえ ない
﹂︒ 第 二の 契機
﹁そ れの 反対 物﹂ も︑
﹁同 じよ うに 自ら 自身 によ る純 然た る 反 措 定 作 用 と し て し か
︑す な わ ち 純 然 た る 反 措 定 作 用 に よ る 純 然 た る 反 措 定 作 用 と し て し か
︑思 惟 さ れ え な い
﹂
︵ibid.
︶︒ 第三 の契 機﹁ 自由 によ る両 者の 統合
﹂は
︑こ の両 契機 を﹁ 制! 限! す! る!
﹂こ とに よ って
﹁統! 合! す! る!
﹂ こと に よ っ て しか 成就 しな いの だが
︑こ の相 互制 限の 内実 をな す三 つの 契機 は︑ 明ら かに
﹃全 知識 学の 基礎
﹄第 一部 での 三つ の
﹁根 本命 題﹂ に対 応し てい る︒
「自然的な」理性と「作為的な」理性 ― 12 ―
第六 号は ここ で終 わっ てい るの であ る が︑
﹁知 識 学﹂ の 根本 思 想 につ い て の 以上 の よ うな 解 説 は︑ 総じ て
﹁自 然 的 な 理性 使用
﹂と
﹁作 為的 な︵ ある いは
︑哲 学的 な︑ 自由 な︶ 理性 使用
﹂の 対比 とい う解 釈図 式に 基づ いて おり
︑こ の 図 式 の 援用 を 含 めて
︑書 評 者 ラ イン ホ ル トの 独 自 の観 点 が 開 陳さ れ て いる
︒書 評 対 象に 挙 げ ら れて い る 諸 著 作 の う ち
︑﹃ 概 念に つい て﹄ と﹁ 第一 序論
﹂﹁ 第二 序論
﹂に つい ては
︑書 評は テキ スト の論 述内 容に かな り忠 実に 要約
︑解 明 し てい る︒ それ に対 して
﹃基 礎﹄ と﹃ 特性 要綱
﹄に つい ては
︑こ の両 著か らは
﹁い かな る抜 粋も 不可 能で ある だけ で な く︑
﹇ 議論 の﹈ 連関 から 引き はが して
︑そ の内 容を 厳! 密! に! 学! 的! に! 詳 述 しよ う と す る試 み は どれ も
︑理 解 不能 に な る で あ ろ う﹂
︵ibid.,304
︶ と 書評 者 自 身が 記 し て いる こ と から し て わか る よ う に︑ この 両 著 につ い て は 書 評 者 自 身 の か な り自 由な 要約
︑解 釈が 施さ れて おり
︑第 六号 の後 半と 第七 号の 前半 はそ の部 分に 相当 する ので ある
︒こ こで は︑ そ れ らの 書評 の内 容を 追跡
︑検 討す る紙 幅は ない
︒ 総じ て﹃ 一般 学芸 新聞
﹄紙 上で の 一連 の
﹁知 識 学﹂ 書評 は
︑書 評 者が 前 年 に 到達 し て いた
︑﹁ 知 識 学﹂ の根 本 的 新 し さと 優位 を支 持す る立 場か ら︑ この 新た な哲 学的 思惟 の根 本特 徴を 描写 する こと に成 功し てい ると 言え よう
︒そ の 描 写に 効果 的に 機能 して いる の が︑
﹁自 然 的 な理 性 使 用﹂
︑﹁ 自 然 的 な概 念
﹂と
﹁作 為 的で 哲 学 的な 理 性 使 用﹂
︑﹁ 純 粋 に 学的 な概 念﹂ との 対比 であ る︒ 第三
節
﹁作 為 的 な確 信
﹂ から
﹁ 自 然的 な 確 信﹂ へ
│
│ 根源 的 に
﹁真 な る もの
﹂ の 覚知 を め ぐっ て かの
ライ ンホ ルト によ る﹁ 知識 学﹂ 書評 の公 刊の 十ヶ 月後
︑フ ィヒ テは
﹁無 神論
﹂論 争に 巻き 込ま れる
︒こ の論 争
― 13 ― 「自然的な」理性と「作為的な」理性
の 渦 中 の一 七 九 九年 三 月︑ ヤ コー ビ は 有 名な
﹁フ ィ ヒ テ宛 書 簡﹂⑻ を 送 り︑ 無神 論 と い う非 難 に 対し て は フィ ヒ テ を 擁 護し つつ も︑ この 問題 に関 する 思弁 的観 念論 の危 うさ を指 摘す る︒ その 一週 間後
︑ラ イン ホル トも また この 問題 に 関 連し てフ ィヒ テに 書簡
⑼
を送 り︑ 彼と の立 場の 違い を明 らか に す る︒ だ が︑ 彼は そ の 直前 に
︑注 目 すべ き 小 著﹃ 最 新 の哲 学の 逆説
﹄⑽
︵以 下︑
﹃逆 説﹄ と略 記︶ を公 刊し てい る︒ この 小著 が注 目 す べ きな の は︑ こ こで ラ イ ンホ ル ト が 先 の﹁ 自然
﹂と
﹁作 為﹂ に関 する 価値 査定 を逆 転さ せて
︑ヤ コー ビお よび 自分 自身 の立 場と フィ ヒテ の哲 学的 立場 を 特 質づ けて いる から であ る︒ 1.
﹁思 弁的 理性 の運 命﹂ とし ての
﹁逆 説﹂ この 小著 もま た﹁ 無神 論告 発﹂ を機 縁 とし て 急 遽起 草 さ れた こ と は︑ そ の﹁ まえ が き﹂ か ら明 ら か で ある
︒だ が
︑
﹃逆 説﹄ はフ ィヒ テの
﹁信 仰﹂ や﹁ 神﹂ の概 念を 直接 吟味 し よ うと し て いる の で は ない
︒む し ろ この 小 著 が企 て て い る のは
︑フ ィヒ テの
︵そ して シ ェリ ン グ の︶
﹁最 新 の 哲学
﹂に
﹁特 有 の 特 性﹂ を明 ら か にす る こ とで あ る
︒そ の﹁ 特 有 の特 性﹂ は︑ この 哲学 的思 惟が
﹁純 粋な 知﹂ を求 めて
︑無 際限 な抽 象と 反省 を繰 り返 す﹁ 思弁 的知
﹂で ある 点に 求 め ら れ る︒ だが
︑そ の よ うな 哲 学 的│ 思 弁的 主 張 は︑
﹁自 然 な 確信
︵natürlicheUeberzeugung
︶﹂ を 基 盤 と し た﹁ 自 然 な 悟性
﹂あ るい は健 全な 常識 にと って は︑
﹁ 逆説
︵Paradox
︶﹂ と して しか 映ら ない
︒そ うラ イン ホル トは 主張 する
︒ この 場合
︑﹁ 逆 説﹂ は厳 密な ある いは 本来 的な 意味 で 使 用さ れ て はい な い
︒ラ イ ンホ ル ト によ れ ば︑ 或 る主 張 に つ い て︑ 人が それ を﹁ 思惟 しな けれ ば なら な い﹂ が﹁ 思 惟す る こ とが で き ず﹂
︑ この 両 者 の間 を
﹁揺 れ 動く と き
︑そ の 主 張が 逆説 と呼 ばれ る﹂
︵Paradoxien,43
︶︒ た とえ ば﹁ 自我 の外 の事 物は
︑自 我に 対 して
︑自 我 に よっ て の み存 在 し て い る﹂ とい う哲 学的 主張 は︑
﹁ 自然 な確 信﹂ にと って は 逆 説に 思 え るの で あ る︒ こ の主 張 は﹁ ま った く 理 解で き な い