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一自然愛から理性愛へ一

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一自然愛から理性愛へ一

細川 たかみ

〈目 次〉

はじめに

1. 自然愛と理性愛  1.対立的な態度  2.規制された愛  3.なごやかな会話

IL親子観を支えるもの  1.モンテーニュの教育論  2.ラ・ボエシの「自発的隷従論」

結論 おわりに

はじめに

 教育と親子・家族の関わりを見る上で、親の子どもに 対する関心や親子にっいての考え・親子観を振り返って みることは重要であろう。

 たとえば、ヨーロッパの伝統社会の中で子どもと家族 を論じたアリエスは、16,17世紀における子ども期への 新たな意識の誕生によって、家庭と学校は一緒になって 子どもを大人の世界から分け、厳格な学校世界へと囲い 込むことになったことを指摘する㈲。しかし、アリエ スはそうした時期の個々の教育思想との関連については 詳細に述べていない。

 こうした観点から、親子関係について、とくにヨー ロッパの伝統的な父の概念であるく家父〉観から子ども との人格関係を重視したく子どもの父〉という父観への 変容が17世紀末、フランスの教育思想家7エヌロンにお いてみられること、及びそうした父観がフェヌロンでは 人間性における平等思想を論拠として展開されているこ とを考察してきたし2㌔

 本稿では、このような親子観の変遷の過程をたどる上 で、その著r随想録S( Essai ,1580年刊){3)の中で 教育論と親子関係にっいて述べているフランスのモラリ スト、モンテーニュ(Michel Eyquem de MONTAIGNE,153 3−1592)を取り上げる〔4)。

 モンテーニュの教育論は「博識」よりも「有能」、

「知識」よりも「判断」ということを力説しつつ、〈判 断力〉の形成を提唱することで知られており、近代の教

育学に与えた影響も大きい(S}。

 一方、モンテーニュの教育学の欠点として「モンテー ニュには児童への愛が欠けていた」{6)ということや、

「モンテーニュが教育家たるために不足して居たのは、

彼の子供に対する愛である」(7}、 「モンテーニュは子 どもを愛さないようにするために..自らを制限してい る」 8)ということが挙げられている。

 しかし、モンテーニュは、当時のフランスの子どもへ の「自然愛」に引きづられる親やその影響を受ける子ど もを考察し、親が子を理性的に愛することを奨めるので ある。そうだとすると、モンテーニュには〈愛〉が欠け ていたのではなく、ルネッサンス以来、家産継承や家の 繁栄の目的から親の子どもへの関心が高まってゆく時代 にあって、子どもへの注目や〈愛〉が一般化してくる傾 向を捉え、そうした親子の自然愛に疑問を感じ、その危 険性に警鐘を鳴らしたということではないだろうか{9) 。  本稿では、モンテーニュの親子観を子どもへの愛とい

う視点から取り上げ、モンテーニュの考える理性愛とは 何か、それはモンテーニュの教育論とどのように関わり、

どのような思想課題と結びっいているのか、それらを明 らかにすることによって、モンテーニュの親子観の位置 づけを試みたい。

1. 自然愛と理性愛  L−1.対立的な態度

 アメリカの心理歴史学者ド・モースは欧米の親子関係 の歴史を進化論的に分析し、古代から現代までを、子殺 し的様態(古代一4世紀)、子捨て的様態(4世紀一13 世紀)、対立感情共存的様態(14世紀一17世紀)、侵入 的様態(18世紀)、社会化的様態(19世紀一20世紀半 ば)、助力的様態(20世紀半ばから)の6時期に区分す

るCl o} 。

 ド・モースの分類は、各時代のはじまりの典拠を明確 にしていないが、教育思想史との関連でいえば、 「対立 感情共存的様態」期には、15世紀イタリアのアルベル ティをはじめ、モンテーニュ、フェヌロンといったモラ

リストの教育思想家・教育家が含まれる。

 確かに、アルベルティのr家庭教育論』の記述からは、

(2)

子を持っ親の苦労とともに、すでに子どもに対する親の 甘やかしの態度が一般化してくる傾向が窺われる 1)。

モンテーニュでは、そうした傾向はどのように捉えられ るのであろうか。

 まず、自然の親子関係について、モンテーニュは親の 子どもへの愛、「親がその生みの子に注ぐ愛情affecti−

on」(12)を自己保存の本能(「異論がないわけではない が」との断りっきである)に継ぐ「自然の法laloi na−

turelle」{13}であるという基本的な考えを述べる。そ うした「自然の一般法則」に従っている親子について、

モンテーニュの観察によれば、フランスの当時の親の子 に対する態度は「甘やかし」と、冷淡、蔑視、暴力、吝 齎を含んだ「厳格さ」といった対立的な二っの要素に大 別される。

 自然な愛にふりまわされる親の甘い態度の第一は、生 まれたばかりの子を抱きかかえたりする「愛情passion

(=情念)」{1 4}である。次に、子どもの小さい時には甘 やかし、少年期にいたっては暴力をふるい、成長した時 には厳格・吝箇になる親の例が挙げられる。親たちは子 どもの足踏みや子どもらしい遊びなどには感動するが、

後にかれらのちゃんとした行為にはそれほどでない。そ れに自分の感情にかられ、怒りで気違いのように猛り 立って子どもを打ったり傷つけたりしている父母や、子 どもたちの小さい時代には気前よく玩具を買い与えたの に、大きくなるとわずかな出費にさえもけちけちする親 たちをモンテーニュは見ているのである。

 モンテーニュによれば、自然の親子関係においてはた いていのところ、親は自分の感情によって子どもを暇っ ぶしにかわいがったり、逆に罰したりしている。また、

「この自然の情愛cette amour naturelle」{15}は子ど もを鍛えなければならない時に子をかばい、過失を犯し た時に子を罰することをさせず、親を甘くさせてしまう ものなのである。

 そうしたことの子どもへの影響について、モンテー ニュは親の吝齎・厳格の結果、名門の子弟たちが盗みを 働くことになった例を挙げる。とりわけ、当時の貴族階 級の、親が子どもに対して意図的にとる距離感、冷淡さ やみせかけの厳格さにっいて言及する。たとえば、故モ ンリュック元帥の例を挙げ、息子の戦死の直後に心情を 吐露したことばを引用する。そこでは「..あさはかにも 父親ぶった威厳を維持しようとするあまり、しじゅうこ わい顔ばかりしていて、少しもわが子の心持にふれてこ        s

れを十分理解する喜びをもたなかった」ロ6}父親の悲し みが表される。モンテーニュは、父親が「心の中では息 子に深い愛情amitiげ」q7)を抱いていたということを付

け加える。

 このように、子どもをその幼少期に甘やかし、青少年 期に厳格になる親の対立的な態度をモンテーニュは考察 する。では何故、モンテーニュはそうした甘やかしや、

見せかけの冷淡、厳格にひきずられる自然の親子関係を 批判するのか。

 第一に、自然の愛情は人間だけにあるのではなく、動 物も持っているものであるし、それはまた、絶対的では なく習慣によってもかわりうるからである。モンテー ニュは、当時の乳母慣行によって、乳母と預かった子ど もとの間に生じる愛情や、山羊に育てられた下僕の例を 挙げる。また、習慣によっては、親子の間で父が子を殺 したり、子が父を殺したり、虐待しあったりするが、そ れは、古代・外国においてはそれぞれ「愛」と考えられ ていたという。このように、モンテーニュは親子の自然 の愛情を相対化し、一様でないこと、変わりうるもので あるということを指摘する。

 第二に、吝箇・厳格の例に見たように、産みの親と子 という関係の中で、 「絶対の支配権を持っている」us}

〈家父〉としての父親が問題とされる。父たちが家父の 名のもとにいかに外見上の威厳を保ち、家督相続者とし ての子を支配服従関係の中にとどめようとしていること か。モンテーニュは「年たけた子供たちに父となれ親し むことを禁じ、彼らに対してことさらに尊大冷淡な態度 を装い、それで彼らの畏敬と服従を得ようとする」U9)

ことを疑問視する。こうした関係の中では、子どもは外 的な権威によって拘束され、屈従を余儀なくされること になるからである。

 では、自然の愛情の法則に対抗する親の愛とは何であ るのか。それは、モンテーニュのことばでは、「よく規 制された真の愛vraie affection bien rざgl6e」〔2°)と 表される。まず、自然の親子関係において見てきたよう な、対立的な極端な親の無分別な情念や甘やかし、冷淡 や厳格の両方はよく規制されなければならない。なぜな らば、真の愛は生みの子だからといって生まれるもので はなく、子どもを知るにしたがって生まれ大きくなって ゆくものである、とモンテーニュは考えるからである。

モンテーニュは、自然の愛にふりまわされず、親は子を 理性によって判断しなければならないという。では、理 性的に判断され、規制される愛とは何であろうか。

1.−2.規制された愛

 自然の愛に対抗する理性的な「規制された愛」の構造 を探るために、モンテーニュの次のような二つの「愛」

を参考にすることができる。

(3)

 第一番目は作品愛である。モンテーニュは人間の精神 の所産である諸々の作品を子どもとみなす。プラトンが 作品を「不死の子ども」(2 1)と言い、その子どものため に父までも不死なもの、あるいは神になると述べたこと ばを引用しっっ、モンテーニュが子どもとして取り上げ るのは、なかでも父と子=作品の組み合わせが特殊であ ると思われる例である。まず、著作や芸術作品で、たと えば善良な司教となまめかしく飾られた物語をはじめと して、焚書の扱いをうけた自著への思いをみずからの埋 葬という形で表したラビエヌスや、不当な死に臨んで自 作の句を口ずさんでいたルカヌス、自分の表した説教を 愛したエピクロス、そして、フィヂアスにとっての彫刻 の例が挙げられる。

 次に、子どもとみなされるのは戦争の勝利や手柄であ る。モンテーニュはアレクサンドルとカエサルを取り上 げ、彼らが後継ぎの子供たちを武功のほまれ以上に願っ たことは信じられないと述べる。このようにモンテー ニュは、古代の人々にならって人間の精神の所産である 作品・思想や勝利・武功を実際の子ども以上に重視する ことができると考える。

 モンテーニュ自身にっいてもミューズとの接触から生 まれる精神の所産を自分の子どもとみなすのだと言う。

そうして自分が「与えられるだけのものを与えた」(221 のはr随想録』そのものであり、それは「自分の伜にち がいない」{23}と述べる。

 このように、モンテーニュが作品を自然の子どもに対 する精神の子どもとして考えるのは、一つには、作品が 不死であること、その永続性を重視するからである。二 つには、自然の親子関係においては、生みの子だからと いっても子どものもつ価値は親のものであるよりも、

「ずっと彼ら(子ども)自身のもの」(24}であり、反対 に作品はすべて自分のものであり、それだけに自分を

「表現し、物語る」(2 5)ものであるということである。

作品における自らの自由な意志が強調される。

 自然の愛に対抗する第二番目の愛は友愛である。モン テーニュは「友愛amitiげ」を様々な文脈の中で用いる。

「友情について」の章でモンテーニュのいう友愛は「親 睦sociざtざの完成の極に達したもの」(26}である。故人 となった親友ラ・ボエシ(後述)を追憶しっっ述べる

「真の完全な友愛ces vraies et parfaites amitiげs」

{2 7)

ニは、 「二っの霊魂が互いに混和し、渾然として一 つになっている」(28〕ものであり、互いの全意志の..」

沈没消失」(29)だという。それは、お互いが心の奥から 契り合い、何も控えたり隠したりしないことを指す。そ

うした交際においては、あらゆる動機が「完全に純粋で

確実」{3 °)であることを要求する。

 このような友愛に比較するならば、普通の友情は何ら かの機縁か、便宜上結ばれた親交にすぎないし、親子や 兄弟、女性の間で成立するということもとうてい無理で ある。自然の親子関係において、モンテーニュは子ども たちが父に捧げるのはむしろ尊敬であるという。 「友愛 1 amit毎は親交から生ずるのであるが、これは父子の 間には、あまりに両方がかけ離れているために、存在し えない。存在すれば、おそらく自然の義務を害するであ ろう」C3 Dと考えるからである。モンテーニュは、子は 親の死滅に依存するようにできているとさえ言う。

 モンテーニュは友愛について「我々の自由意志の所産 の中で、情愛・友愛affection et amitσほどふさわし いものはない」{3 2}と述べる。モンテーニュにとって

「友愛」は、自由な意志や判断に依って成立するものな のである。それについてモンテーニュが「真の友愛にお いては友を自分に引きよせるより、むしろ自分を友に与 える」(3 3}と述べるとき、友愛における意志的な主体的 な関わりを見てとることができる。

 このように、モンテーニュは作品愛と友愛の永続性や 自由意志を言うことで子ども愛を逆照射する。それは、

1.−1.で見たような、自然の親子関係を規定する習慣や 外的権威によって成立する、支配服従の原理の対極にあ

る理性的な愛の理念なのである。

 ここからは、自然の親子関係において規制されるべき ものが、親の対立的な感情ばかりでなく、習慣や外的権 威であることが読みとれる。

 モンテーニュは自然の親子においては、このような理 性愛は無理であると述べつつ、一方、何とかその可能性 を探ろうと努ある。では、モンテーニュはそれがいかに 可能であると考えているのかを以下に見る。

1.−3.なごやかな会話

 モンテーニュが親子における子どもへのく愛〉にっい

て語るとき、それはaffection, a皿our, passion, amitiげ(愛

情・情愛、情愛・愛、情念・情熱、友情・友愛)といっ た様々な語で表現されている。amitiげにっいては、上 でみたように親子にはないものとして述べられると同時 に、現にあるものとしても次のように表されている。

 モンテーニュは当時の母親については総じて悲観的な 見方をしており、たとえば、子どもたちが雛鳥の首をひ ねったりすると、それが母親たちのなぐさみになったり、

また、最もひ弱な子どもにおぼれたりする母親の態度を 批判している。

 それに対して、母親と子どもの関係をモンテーニュが

(4)

肯定的に捉えるのは「父の子供に対する愛情について」

の章を献呈する知人の貴婦人の場合である。様々な良い 特質を持ったこの夫人についてモンテーニュは賛辞を惜 しまないが、なかでも、夫人が子どもたちに示した「愛 情1 amit痘(=友愛)」{34,を特記する。配慮prudence によって、いかに子どもの様々な問題に対処してきたこ とか。この人の例こそ「母性愛affection maternelle」

{3 5,の最たるものだというのである。

 父と子の間にしても、前節で挙げた故モンリュック元 帥のように、親が子に友愛をもっことはできる。問題は それを率直に子に対して表し、子との望ましい関係を結 ぶことができないということでなのである。このように、

モンテーニュは友愛が自然の親子の間で不可能であると 述べっっ、可能であることを示唆してもいるのである。

また、友愛は夫婦の間では無理であると述べつつ、結婚 生活でももし「自由で意志的な親交が作られるならば」

{36}

F愛は充分可能であることをほのめかしている。で は、親と子が友愛で結ばれるとしたら、どのようなこと があれば可能であるとモンテーニューは考えるのか。

 親子の間に友愛を成立させ難くする要因をモンテー ニュは、父がく家父〉としての面目や対面から、見せか けの厳しさに囚われていることにあると見る。それは家 産の継承の問題と関わっており、モンテーニュは、財産 の譲渡と引き換えに親の面倒をみることを要求するよう な親を批判する。たとえば、家父は家財の管理を手中に 収めていることから、成人した子どもになかなか家をっ がせようとしない。そうした例として、盗みに入った良 家の子弟や、衰えはてて半死の状態にある年老いた父が 財産を自分一入のものとし、そのために子どもたちは職 にっくことも人々と交わることもできずにいることが挙 げられる。

 モンテーニュは親が初めに子を扶養し、後になって子 が親を扶養することが可能なようにという要求や必要性 から、親が当然のように支醐艮従の関係の中に親子関係 を留めておこうと思うのは間違っていると述べる。それ では愛情affectionとは言えないのである。物質的な援 助はすべきであるがその上で、親は自分自身の資質に よって、すなわち「徳性と能力」〔3ηによって尊敬され、

「その善良さとやさしさ」{3 B)によって愛されるべきで あるとモンテーニュは考える。親は家父としての威厳や 外的な規定によって尊敬を強制するのではなく、自らの 善さややさしさで子に慕われ、両者は結ばれなさナればな

らない。

 反対にいえば、子どもが親とそのような関係を築くこ とができるために、子どもは「理性raisonによって」{3

9} 轤トていなければならないということになるのである。

それにはまず、上で述べたように〈家父〉が財産という、

いはば好餌で子の愛を釣ってはいけないのであり、物質 と愛情を区別し、それぞれ自立したものとみることが必 要だとモンテーニュはいうのである。

 モンテーニュは、家父としての物質的な充分な援助の 役割と精神的な関わりにっいて自らの理想を次のように 述べる。それは、自分は生きている間に自ら主たる家事、

管理・屋敷を子どもたちに譲り渡し、しかし必要な意見 はいつでも与えられるように、また、老いても子どもた ちの歓楽や喜悦をもわかちたのしみたいという希望から、

同じ家ではなく、自分の敷地の中で距離を持って子ども のそばに住み安楽に過ごすことであるという。

 このように、モンテーニュによれば親子における友愛 が可能になりうる第一条件は物質的なっながりと、精神 的なっながりをわけることである。では、物質と切りは なされた親子の精神的な関係において親子の理性的な愛 はどのように結ばれるのであろうか。

 それを表す具体的な中心概念は、モンテーニュの表現 によれば、 「なごやかな会話une douce conversation」

{4°}である。自分は親子の間でのなごやかな会話を望む というとき、モンテーニュは、そうした交わりの中に友 愛が可能であると考えるのである。モンテーニュはその 反対の例を挙げて説明する。たとえば、知人に気難しい 独り暮らしの老人がいる。その老人は自ら人との交際を 断ち独り部屋に篭もり、黙々と書物を読むだけで、一日 に一度食事を運んでくる者とさえ話すことをせず、つい に孤独のうちに死んでいった。自分はそんなふうに、た とえ望みどうりの読書ざんまいにふけることができよう とも、人と語ることもできないようなそういう生きかた はしたくない、とモンテーニュは言う。

 また、先のモンリュック父子に見たように親子が心を 開いて語りあうことがなかったという例を思いおこすこ とができる。モンテーニュは、愛する者を失ったとき、

両者が完全に理解しあっていたという意識をもつている 場合、残された者にとって大いなる慰みとなることを述 べる。しかし、亡くなってからでは遅いのであり、互い に生きているうちに語り会い理解しあうことが大事なの である。そのためにも、こうしたなごやかな言葉による 交流があればこそ親は子どもの内に「強い友愛une vive amitiざ」( )と「みせかけでない好意bieRveillance non feinte」(42》とを養うことができるとモンテー二4 は考える。

 習慣や外的権威の規制された親子関係において、理性

的な子どもへの愛はこのような、なごやかな会話を中心

(5)

に据えることによって実現され得る。次章ではこうした 子ども愛によって構想されるモンテーニュの親子観を支 える論理を探る。

1.親子観を支えるもの H.−1.モンテーニュの教育論

 イタリアルネッサンスの思想に共鳴した父親の主張に よって、モンテーニュは「きわめて静かにそして自由に、

厳格さや窮屈なく」{4 3)育てられるように配慮される。

こうした自分自身の幼児期の家での教育と以後のコレー ジュ教育での体験をふまえ、モンテーニュは同時代の一 般的な学校での教育を、 「威嚇と折濫」(44)で知識を覚 え込ませ、 「悟性を卑屈な臆病なものにする」〔15)もの として批判する。そうした体罰の禁止や主知主義への抗 議を通して、モンテーニュは、教育は人の意見や知識を 記憶させることではなく、自らの意見や判断を形成する

ことであると説く。

 なぜ、知識の詰め込み式の教育ではいけないのかと、

モンテーニュは説く。それは、書物を中心とした勉強に よって人は「社交や会話に不向き」〔46)になり、その結 果「立派な職務にそむかせる」(4  )ことにもなるからだ と、モンテーニュはいう。それに知識欲のために愚かに なり、気の利かない人間ができあがってしまう。モン テーニュにとって勉強は文法学者や論理学者を作るため にあるのではなく、自己の内部で思うことが明晰に表現 できるためのものである。しがたって、学ばなければな らないことは、学校にいる間だけの知識ではなく、大人 になってもなおすべきことなのである。

 モンテー・・一ニュの教育論の根底にある人間像は、知識で 満たされた人間ではなく自らの考えと判断において優れ、

言動の一致した有徳の士である。このような人間像に基 づく勉強によって得られる成果は「より賢く、より良く なる」(4 8)ことである。そのためには真に人間を自由に するもの、人生の何であるかを教え人生を生きていく上 で役にたっもの、自らの進退を教えるものを学ばなけれ ばならないのである。

 そうした観点から必要とされるのは、まず、哲学であ る。それは、人々を陽気に歓喜させ、道徳の判断を中心 とした道徳哲学を指す。モンテーニュは「生きることを 教える学問」{49}は子ども時代から学ぶことができると 考える。子どもに人間の生きかたを教えること、それは 具体的には勇気、節度、正義とは何か、野心と吝齎、隷 従と臣従や大胆、武勇、寛大さや何物をも恐れない度胸 などについて学ぶことだとL{う。

 次に、歴史である。歴史の目的は史実をおぼえこませ

ることではなく、史実の判断に用いることである。それ は、「人々との交際pratique des ho㎜es」{5°}として 提示される歴史において、 「今より良かった時代の偉大 な人々と交わる」{5 1}ことになるからである。

 モンテーニュは「人々との交遊la comnerce des ho一

㎜es」〔52)を通して生きた教材に学ぶことを提唱する。

人間の判断力を作るためには、「世間と繁く交わるfrチ quantation du皿onde」(53}ことが必要であり、ここか

ら明察が得られると言う。したがって、世間はわれわれ が自分を正しく知るために覗く鏡であり、それによって 多様な世界の考え、学派、判断や学説、習慣を知り、自 国のそれらを健全に判断することができるようになるこ とが重要であるとされる。モンテーニュによれば、こう してわれわれは相対的にものを見ることで自己の傲慢さ や偏狭を反省させられ、死さえ恐れなくなるという。

 モンテーニュの教育論では、生きることを学ぶために、

交際・交流co㎜erce, pratiqile, frdquantationで表さ れる様々な形態での人間の「交わり」が強調されている。

このように見てくると、自らの判断力の形成のための 人々との交流や交際と、親子の理性愛の中核をなす「な

ごやかな会話」とは、意志的な自由な交わりを目指す点 で同一線上にあることが認められる。それは、いかなる 場合にも外的な権威の下での欲求や必要性、強制や暴力 に屈しない魂、すなわち自らの意志と判断の形成を導く ための教育論であり親子観なのである(5 4)。

 しかし、なごやかな会話や人々との交際を主張するそ の裏面にはモンテーニュの「交わり」についての葛藤が あることをみる必要がある。それは、自らの判断と意志 に従って自由に私人として生きることと、公的義務や公 生活の遂行ということとの葛藤である。次の節ではそうし た葛藤の背景とそれを乗り超えるモンテーニュの論拠を        ラ・ボエシ(Etienne de La Boetie,1530−1563)の「自 発的隷従論Discours de la servitude volontaire」〔5 5}との関連に見る。

H.一一・ 2.ラ・ボエシの「自発的隷従論」

 公的生活と私的生活との葛藤の背景を見る上で、モン テ:・一・Fニュの職業生活をたどることは、時代の社会状況を たどることにもなろう。

 1554年21才のモンテーニュはペリグーの租税法院の審 議官になり、3年後にはボルドー高等法院の予審院評定 官になり、その後1570年に37才で引退を決意するまで13 年間、この職に就く。ここで同僚のラ・ボエシと知り合 い、モンテーニュはラ・ボエシの遺稿「自発的隷従論」

を委ねられる。

(6)

 モンテーニュの編纂によって1571年にラ・ボエシの著 作集が公刊されるが、モンテーニュは「自発的隷従論」

を除いている。次に、1571年から書き始めたr随想録』

の第二巻第28章「友愛にっいて」(1576年前後の執筆と される)はラ・ボエシの追憶に満ちているが、モンテー ニュはこの論文を載せていない。このことについては、

プロテスタントがこの論文の一部をヴァロア王朝の攻撃 の文章と同じ雑誌に入れたことを挙げ、フランスの政情 を乱し変革しようと努める人々によって悪い目的のため に公表されたことを考慮したためだという。

 このように、モンテーニュの生きた社会は彼の高等法 院時代からすでにカトリックとプロテスタンの宗教的争 いがエスカレートしてゆく状況にあり、モンテーニュの いた頃の職場には新旧両派の紛争事件が多く持ち込まれ、

異端者の処刑や新教徒の迫害が様々に行われていた。一一 方、新教は次第にパリの朝廷にも入ってゆき、1562年

シャルル9世の「正月勅令」が出されて新教徒への寛容 が説かれると、今度はカトリック教擁護の動きが活発に なり、ヴァッシーの殺裁をきっかけに王侯の勢力争いと 結びついた血で血をあらう宗教戦争が1572年のサン・バ ルテルミーの大虐殺を含め、8回にわたり始まる。それ はモンテーニュの死後、1598年のナントの勅令の発布ま で熾烈な政治・宗教闘争に発展してゆく。その最中に あってモンテーニュも1562年パリでカトリック教擁護の 宣誓に加わっているが、1571年の引退後は新旧の宗派を それぞれ掲げる王侯間の調停にも暗躍し、1581−84年に かけてはアンリ3世の要請でボルドー市長を二期っとあ

る。

 こうした王侯の政権争いと表裏一体となった宗教戦争 をモンテーニュは冷静に観察し、神をめぐる争いが普通 の内乱にすぎず、人間がいかに非入間的になることか、

人間が宗教をひきまわしていることを遺憾に思うのであ る。しかし、時代は王の権威、神と教会の権威に従うこ とを要求している。そこに、モンテーニュの公人として の義務と、私人として自分の判断、自分自身に属してい るものだけをたよりに生きようとする意図との苦悩があ るのである。社会が要求する権威は認めっっ、しかし、

自分を保っていかにいきることができるか。公職を退い たモンテーニュは一人自宅の離れの搭にこもり、r随想 録』の執筆にとりかかる。

 そこでモンテーニュは次のように自分の決意のほどを 述べる。人は自分自身のなすべき義務は棚に上げ、モン テーニュばかりにそれも義務のないことまで求めながら モンテーニュのことを「公の努めに冷淡な者」〔56)、

「あまりに個人的な者trOp particulier」{57}と非難す

る。しかし、モンテーニュは自分の内にひそかに力強い 決意を抱き、自分の「認識する物事に関して確実な判 断」(58)を欠くことはない。それは、かっていかなる強 制や暴力にも決して降参しなかったモンテーニュの、こ れからもそのように生きるだろうとう決意の宣言なので

ある。

 このようなモンテーニュの個的な生きかたのより所と なる自由な意志と判断にっいての論理的根拠を探るため に、その逆の観点である意志の隷従ということの意味を みてみたい。1. −2で触れたようにモンテーニュがラ・ボ エシを対象に友愛を述べるとき、そこでは自分の魂や全 意志の沈没消失という表現でモンテーニュ自身の意志と ボエシの意志とが同一であることを表した。後に副題に

「または反一人論」とっけられた、ラ・ボエシの「自発 的隷従論」は、 「暴君を排する自由の名誉のために」{5

9) 曹ゥれたとモンテーニュは紹介する。

 ここでは人民が君主に仕えるということを君主制とい う政治的な問題として捉えるのではなく、人々が唯一一人 の暴君の圧制の下に我慢しているのは一体どういうわけ かという被支配者側への問いから考察される。ラ・ボエ シは暴君と人民の関係を人民が自ら進んで唯一人の人の ために自分の方から魅惑されて屈従しているのではない かと疑ってみるのである。それは本来、人間は生まれな がらにして自由であり友人同士であって、自然が誰かを 屈従の内においたということではないと考えるからであ る。それではなぜ人は屈従し、屈従に苦痛を感じなく なってしまうのか。その理由は次のように二つ挙げられ

る。

 第一に、それは習慣と教育である。鞄の下に生まれ、

屈従の中に教育されたものは、生まれたときの状態を天 性のようにみてしまう。しかし、実際は人間が奴隷にな るのは、生まれながら奴隷であると同時に、奴隷として 教育されるからである。習慣や教育次第で人間がかわる

ことがいくっかの例から述べられている。

 第二に、無気力である。暴君の下では人は軟弱になる。

自由を失うと勇気も消えてしまい、奴隷の民は活気を 失ってしまう。たとえば古代の民は、屈従の餌として演 劇や競技をはじめとして、絵画や香料まで与えられ、そ うした「自由の代価、圧制の道具」〔6°)に自らとびっい たという。暴君は、圧制のために時に迷信をふりまいた り、宗教を悪用して、神性を借りもしてきた。

 次に暴君を支える構造にっいて述べられる。暴君の支

配の原動力となる最初は、暴君のすぐ下にっながる4−5

人の小暴君、それぞれの小暴君にっながる600人、それ

ぞれまた下にっながる人々で、最後には10−100万の人々

(7)

がただ一人の頂点の暴君を支えていることになる。私利 私欲にかられて暴君に近づく小暴君たちはそれだけ自分 の自由から遠ざかり、自分の安楽や自由や体も生命もす べて他人に依存して生きてゆかなければならなくなる。

「すべて他人に依存するということ以上に、みじめなこ とがあるだろうか」(61)ということが問われるのである。

こうした状態にあっては自分が自分のものであるといえ ないからである。だが、結局、暴君を取り巻く人々も、

暴君も長寿をまっとうするような最期はみられなかった。

暴君たちの愛人関係、親子関係、女友だちとの悲劇的な 関係などいくっかの例が挙げられ、結論にいたる。

 結論として、暴君は「愛せられたこともなければ、愛 したこともない」{62}ということが述べられる。友愛こ そは聖なる幸福なのである。しかし、万人の上にたつ暴 君には、相互の尊敬によらなければ生じない友愛をもっ ことはできない。友愛は平等の間にこそそれにふさわし い獲物を見出すのであるから、朋友、仲間のいない暴君 にとっては将外であるという。ラ・ボエシの自発的隷従 論は最後に暴君たちの天罰を予告して終わる。

 この論文からは、隷従と暴政は習慣と好餌の力によっ て他人に自ら依存し隷従しようとする人間と、意志的で 平等な信頼関係の上にたっ友愛を知らない人間とが生み だす相互関係であるという主張を読み取ることができる。

しかし、こうした関係を政治的な手段に訴えて解決しよ うとするのでない以上、政治的な制約の枠組の中で、あ とは個々人の内面的な問題として解決するしかないので ある。それは人民の側においては暴君を押しのけたりゆ さぶったりするというのではなく、暴君を支持しないた あに「屈従しまいと決心する」(63}ことであり、精神に おける自由を意味する。そして暴君については不信、不 正にみちた陰謀の世界から、相互の尊敬によってのみ生 じる友愛の世界へと目を向けさせるということになろう。

 ここには、権威への服従を要求する公的生活と自分自 身だけをたよって生きる個的・私生活との葛藤を超えよ うとするモンテーニュ自身の解決策が潜んでいるように 思われる。

 モンテーニュにとって「公的な義務を一般的に負って いることとそれをどのように実行するかとは別」{64}で ある。社会の権威や社会の義務は認めっっ、自分を保っ ことは可能である。精神において自らの自由な意志を保 つこと、モンテーニュにとってそれはみてきたように、

自分をすべて与え、自らをすべて書きあらわすことであ る。外的な特徴や権威によって自分を伝えるのではない、

私は私全体を自分の全てを書くことによって表す。私は 自著に自分の忠実さを適用しようと思うし、それはもっ

とも「真卒純粋に」ここにある。

 モンテーニュは書くことによって純粋に自分を与える。

自らの自由な意志や判断の結果を表すことで、モンテー ニュは人々と交わることが可能なのである。

結論

 モンテーニュは、公的生活と私的生活の葛藤を、書く ことによって世間と交わるということで乗り超えようと した。それはまた、宗教戦争のさなかで人間の非人間的 な争いをまのあたりにみたモンテーニュの、人間と人間 とを結ぶ絆を探し求めるための歴史的な思想課題でも あった。公と私の葛藤は近代人の苦悩のはじまりを告げ る。同時に、書くことによって人々と交わるというモン テーニュの知的な営みによる解決策は、近代人の孤立化 を救う一っの道を示唆するものでもあった。

 このように見てくると、自然の愛にふりまわされず、

習慣や外的な権威を規制し、理性的ななごやかな交わり のうちに子を愛するようにと説くモンテーニュの親子観 においてく愛〉が欠けていたとはいえない。自然の子ど ものもっ価値は親のものではなく子ども自身のものであ ると言うように、モンテーニュは親と子をそれぞれ別個 の人格として捉える視点を示しているのであり、その中 で、理性的な愛を友愛さえ可能な自由で意志的な交わり によって結ばれる愛であると考えていたからである。そ れは、時代の制約の中でモンテーニュが考え抜いた、人 間と人間を結ぶ絆と共通の構造を持っていた。このよう な親子観は、16世紀の宗教的・政治的闘争によって互い に引き裂かれた人間同士のコミュニケーションの再構築 を求めるモンテーニュの生きる課題の一端に結びついて いたといえよう。

おわりに

 モンテーニュの親子観は、伝統的なく家父〉の枠組み は基本的に崩さず、その中で家産の継承という物質的側 面と子への愛情という精神的側面を分けて考えている点 で従来のく家父〉観とは異なってきていることが認めら れる。一方、親が生みの子に注ぐ愛情という考えにおい て親子の力関係は親から子を見る方向にとどまり、それ はフェヌロンの父観において子からみた親という方向性 とは逆の関係にある。

 こうしたモンテーニュの親子関係の枠組みでは「子ど

もがすでに人間形成され、子ども時代が終了しているこ

とが要求される」〔65}ことにもなろう。モンテーニュの

教育学は子ども期を現在として、〈成童〉として生きる

ためよりは、大人になってもなおなすべきことを教える

(8)

ためにあり、主体的で自由な大人の意志と理性ある大人 としての判断力を養うことがその目的として帰結する。

注:

1)フKリップ・アリエス著杉山光信・杉山恵美子訳『〈

 子供〉の誕生』pp. 380−388(みすず書房1984年)

2)拙稿「17世紀末フランスにおける父観の変容一rテレ  マックの冒険』の父子関係をめぐって」(丁日本の教  育史学』教育史学会紀要第32号、1989年)、 「フェヌ  ロンの家族観一rテレマックの冒険』の改稿を手がか  りに」 (rフランス教育学会紀要』フランス教育学会1  990年)」。

3)テキストはモンテーニュ著関根秀雄訳rモンテーニュ

 全集』v. 1,v、2, v. 3, v.4 (白水社1957年)、および

  Montaigne oeuvres comple tes (Seuil,1981)を使  用。

4)モンテーニュに関する研究で、戦後から1986年まで日  本語および邦訳刊行されたものは500件以上あり  (rフランス文学研究文献要覧1945−1978』第3巻  (日外アソシエーツ、1981年)から以後、rフランス  文学研究文献要覧85/86』 (同、1990年)までに掲載  されたもの)、フランス語および外国語で表されたも  のは過去20年間だけでも700件以上にのぼる(日仏会  館図書館データ)。とうていすべてに目を通すことは  できなかったが、親子関係の視点からはモンテーニュ  の生涯と家族生活にっいての事実を知る上で関根秀雄  著rモンテーニュとその時代』(白水社1976年)を参  照にした。最近の教育学分野の論文では、 Robert  GRANDEROUTE;L  enfance dans ies  Essai , M letin  de la Societe des Amis de Montaigne,Vle serie,

 No.15−16,1983に注目したい(未入手)。

5)ユベールによれば、 「ロックからルソーまで、とりわ  け17世紀と18世紀」への影響が大きいとされる(Renご  HUBERT; Histoire de la pe∫dagogie  P.233, Arno

 Press,1979) 0

6)石堂常世rM・E. d.モンテーニュ」 r現代に生きる教育  思想③』p.46(ぎょうせい1981年)

7)関根秀雄r子供の教育に就いて』p.39(創藝社1947  年)

8)G.SNYDERS;  La pe「dagog i e en France allx XV豆I et  XVIII sie、cles ,p.188,P.U.F.

9)原聡介「モンテ 一二 L」『教育学群像1.外国編①』pp,

      N  60−77(アカデミア出版1990年)。では「教育を愛し、

 子どもを愛する教育の時代に生きるわれわれは今日的  な目でみて、モンテーニュの子ども愛を薄弱であると

 いうように思うのではないか」(5.モンテーニュの心  は冷たいかpp.74−76)ということが問いかけられ、モ  ンテーニュの親子観から人間論を探ることの可能性が  示唆されている。

10)ド・モース著宮澤康人他訳r親子関係の進化』pp.

 159−166(海鳴社1990年)。ド・モースは親子関係の変 化の事実史という観点から、フィクションは事実とは  関わらない虚像であると考え切り捨てる。しかし、親  や子に関する理念は社会的、文化的な要素から構成さ  れるものであり、アンダーソンもいうように「精神的  態度の変化に示される諸変化の何らかの可能性を見捨  ててしまうことは誤りで」(Mアンダーソン著北本正  章訳r家族の構造・機能・感情一家族史研究の新展  開』p. 94.海鳴社1988年)あろう。行動上の変化を理  解するためには人々の意識の変化を解明してゆくこと  が必要であり、こうした観点からは事実史と相互的に  関連する意識史として、フィクションも考察の対象と  することができると考える。

11) 「あまりにも慈悲深く、寛容すぎて、息子たちに何  でも許す父親が多いのですが..もし、子どもが足を少  しでも怪我でもしようものなら..家中が大さわぎしま  す」 (アルベルティ「家庭教育論」前之園幸一郎、田  辺敬子訳rイタリア・ルネッサンス期教育論アルベル  ティ他』p. 119(明治図書出版1975年)や「無限の愛が  どれほど父親の目をおおい、曇らし、そのために、子  どもたちの悪癖をよほどあからさまで大きくないかぎ  り、ほとんど気づかせないか知れません」(同書p.13  0)にみられる。

12),13)モンテーニュ著関根秀雄訳rモンテーニュ全  集』v.2p. 81(以下、使用テキストについては号数と  ページ数のみ記載する)

14) v●2 p.82

15)v.1p. 202原文テキストp.75では、 amourは女性形  に扱われている。

16),17) v曹2 p曹95

18) v●2 p.435

19) v.2 P.90

20) v.2 p.82

21)v●2p.101

22) v.2 p.104

23) v●1 p.191

24),25) v.2 p.102

26) v.1 p.248

27) v.l p.250

28) v●1 p.254

(9)

29) v.1 p●255 30) v。1 p.260 31) v.1 p.249

32)v.2p.250 33)v.3p.275

34) v.2 p.80 35) v.2 p.82 36) v.1 p.252

37),38),39) v●2 pp.84−85

40),41),42) v。2 p.90

43) v.1 p.233 44) v.2 p.220 45) v.2 p.201 46),47) v.1 p.218 48) v.2 p.201 49) v.1 p.216 50),51) v.l p●206 52) v●l p曾202 53) v●1 p.208

54)ちなみに、モンテーニュの教育によって形成される  人間をコンペレは「解放され、思慮深く、あらゆる物  事に興味をはたらかせ、人生のあらゆるできごとにっ  いて良識と中庸で判断し、慎重に行動を規定、名誉に  反するいかなることもなしえない」、一言でいえば  「穏健なやさしい血odげr〔〔 et doux」人物であるとす  る(G.COMPAYRE: Histoire Critique des Doctorines  de l Education en France  Tome I.P. 114, Librai−

 rie }{achette,1881)。

55)v.1pp.444。邦訳テキストでは、題は「奴隷根性に  ついて」.と訳されている。本稿ではvolontaireを自発  的と訳した。フランスルネッサンスのユマニストの一  人で、ストア学派に心酔したラ・ボエシがモンテー  ニュに与えた影響は大きく、 「自発的隷従論」には、

 モンテーニュ自身が書いた部分もあるといわれている  (v●4p●302)0

56),57) v.i p.236 58) v.1 p.237

59) v.]L p。247

60) v.1 p.460 61) v.l p書466 62) v.1 p.468 63) v.1 p。449

64)佐々木毅「ミシェル・ド・モンテーニュ」r近代政  治思想の誕生一16世紀における「政治」』p.177(岩波  新書1981年)。ここでは政治活動の視点からモンテー

 ニュが取り上げられ、全体的な脱政治化、私化への傾  向の中にモンテーニュは位置づけられる。

65) G.SNYDERS;  La pe∫dagogie en France aux XVIIet

 XVIII sie∫cles , p.188,P.U.F.

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