哲学的制作論 : 効用材から芸術作品へ
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(2) . 0年9月 昭和3. 北 海道 学 聾大 学紀 要 (第一部). 第6巻 第 1号. 哲. 学. 制. 的. 作. 論. --効用財から芸術作品へ-- 野. 辺. 地. 東. 洋. 北海道学塾大学岩見沢分校哲学教室. los。phi f Making Toy。 NOBEG日工: Phi caI Theory 。 ・. t orksof Ar --From Usefu1 Goods to wr ,. ) 我々は流れる時間を断つことにおいて制作の働きをする1 。 この制作においては現在は無である。 現在が無い ゞ ことによって、 切断力 可能とな り、 流れる時間を瞬間において断ち切ることができる。 かく して変化の流れを ) 停滞せしめ、 形あるものに凝結させる。 時間の塞間化である2 。 農場・牧場・漁場という塵間でえ られた自然の 変化は、 その変化を停止せしめられて食品への資材とせられる。 食が身体の持続のための手段として不 可欠の ものであることによって、 変化を停止せしめられた自然としての資材は、 製粉業・乳業・醸造業・製纏業・冷. 凍業などの加工過程を工場という塵間において経験し、 制作されたものとしての食料を結実せしめる。 また紡 糸.紡毛・染色・化繊・製革・機織などの工場は、 衣における制作であり、 身体の持続の他の面を目的とした ) ものである8 。 食が積極的に身体の内部からその維持をはかるのに対して、 衣は消極的に外部から身体の持続. を助けるものである。 食は自然としての身体により近く、 衣はこれにより遠い関係にあるといってよかろう。 この意味からいって、 食はなお変化としての身体に密接しており、 時間的であるのに反し、 衣はこれより離れ、 時間的であるよりもむしろ空間的 である。 それは身体を外面より覆うことによって身体に似せて作られてはあ. るが、 身体から引離すことができ、 したがってまた自由に交換することができることによって、 単に空間的に 存在するものと しての色彩が濃いものである。 しからば住はどうであろうか。 これは身体に密着する程度は衣よりもさらに少い。 それは人間が自由に出入できる塞間である。 人は流れる時. 間を断ち切り、 三次元的な室間を建設することによってこれを作るのである。 衣ももともと三次元的なものと して制作される のであるが、 これは身体への密着を離れることによって三次元性を失い、 二次元的なものとな. る。 すなわち脱がれ、 畳まれ、 しまわれる。 そして立体的なときも平面的なときも、 それが移動可能であると いうところに、 それの住に対する特徴がある。 これに反 して住居はこれを二次元化することはできない。 たと え天幕や移動住宅のように、 分解し折り畳むことができるものであっても、 このようにした場合は、 それを住. 居と認めえないも のとなる。 住居にとっては、 三次元をもった一定の峯間を、 移すことのできないものとして 設定することが、 必要な条件となっている。 もちろん住居の本質は他にある。 それは衣と同様に身体の維持を 目的として作 られることを本質とする。 ただ空間性に おいて衣よりもはるかに豊かなものとして、 三次元性と固 定性とをえているo 人はこの身体をまもるべき塞間を設け、 風雨を避けるとき、 休息を欲するとき、 これを用いる。 にこの風雨を避けることと休息を輿えることの最も本質的な用に足るだけの素朴なたてものから、. これには単 いわゆる文. 化的な家庭生活を営むた ,めの住宅建築、 ものの制作に必要な工場建築、 事務の処理に必要な事務所建築、 消費 財の分配に必要な市場建築、 会議・儀礼その他の会合に必要な会堂建築にいたる種々のものが展開する。. 塵間における固定性は、. また. とりもなおさず固定きれた一つの地点と同じく固定された他の地点との間の交通を必.
(3) . 野. 辺. 地. 東. 洋. 要とする。 もともと固定性がなければ交通はあらためて必要とされない。 絶えざる流動にとっては交通は問題 とならない。 住居その他の建築物の地点 が固定していることのために、 そこかしこにゆき交うことが必要とな る。 またそれぞれ固定 した地点で制作されたものは、 他の地点にもたらされることが必,要となり、 運搬という. ことが問題となる。 ここにおいて交通機関、 運搬機関が制作されなくてはならない。 車鋼、 道路、 軌道、 駅、 橋、 船、 港、 航室機、 飛行場、 倉庫な どが制作されなければな らない。. す べて制作は流れる時間を断つ働きであり、 これは瞬間的に行われることである。 個々の工程からなる複雑. な組織をもった制作体系にあって、 一 つの制作工程と他の一つの制作工程とが並列的である場合には、 これら の制作が同時に行われることが望ましい。 つまりこれは制作の重複である。 制作の重複は瞬間の重複でもある。 瞬間の重複によって、 瞬間はますます瞬間的となる。 また他方、 制作における切断の方向はそれ自身、 流れる 時間のうちにあって流されることにより、 流 れる方向に饗曲するものである。 この樽曲は防げる限り防がれな ければならない。 それが瞬間をして最も瞬間的なら しめるゆえんである。 ところで右の制作工程において時間 をかけることは、 制作の瞬間が流れる時間に流されていることになり、 瞬間性を本義とする制作にそれだけ反. するこ とになる。 したがって制作のス ピー ド化が要求され、 そのための機械化、 さらに機織の性能の高度化が 考えられてくるのである。 これと同じことは交通と運搬についてもいわれる。 もともと交通と運搬とは制作に 附随したものであり、 流れる時間に対して直角の方向に働くものである。 これも同じ理由で瞬間的であるこ と が望ましく、 時間がかかるということが極力防がれなければならない。 そこで交通と運搬のス ピード化が考え られ、 ス ピー ドが無限に高度化される努力はかつて失われたことがない。 食衣住とそれらに附属する道具・器具そのほか一切のものは、 これまで述べてきたように身体の栄養、 成長. ないし保護を目的とし、 それらのことのために作られて存ずるものである。 それらは効用的被制作物であり、 ……のために” ということを離れては、 全く存在の意味を失う。 す べて被制作物は制作者が流れる時間を断 つことによって生 じた塞間的存在である。 したがってそれは空間において、 何らかの限定された形態をもって いなければならない。 この形態に対する限定者はもちろん “……のために” である。 す べてが効用目的によっ て限定されるのであるか ら、 被制作物の形態もまたこれによって限定されるのである。 食は身体に接収される ものであるから、 これの形態はさほど問題でないが、 身体に密着する衣にあっては身体の形態にあわせてその 形態の基1 ;が決定される。 また住は身体を保護し、 かつそのなか で各種の目的活動を,便利ならしめるように設 計される。 家具その他の日用品にあっても、 交通運搬の機関にあっても、 す べて例外ではない。 しかしながら、 す べては効用目的によって決定されていながら、 これらの決定をもととしてなおそのうえに 美的構想の実現にこれらの被制作物が用い られる場 合がある。 効用目的実現を少しも妨げない範囲において、. しかも効用目的実現のための形態をそのまま限定として受けとりつつ、 その制限内において制作者 が自己の美 的構想を実現せ んとするのである。 これは食の場合にはあまり問題とならないが、 衣と住とにおいてその可能. の余地を広く見いだすの である。 これが工製品と美術建築物とである。 しかしこれらはあくま で ”…… の た め ’; ′ こよって制約されており、 この制約がなければ、 それらは工姿品であり建築物であること の性質を失うの に’ であるから、 この制約は本質的なものである。 また美的構想はこれらの制約のもとに実現されるとはいえ、 そ れは制約と融合した関係において見いだされるものでなければならない。 互に他者として反援しあう関係にお ま工芸品 いてでなく、 互に他を撲っという融和の関係において、 効用目的と美的構想とが存在してこそ、 それも. と して、 また美術建築物としてすぐれたものといいうるのである。. しかしその場合なお効用目的 をもって制約となすのはなぜかというと、 美的構想は限りなく自由に自己を展 開 しようと欲するのに対して、 効用目的は、 少くとも最初は、 すなわちかの融和が実現する以前にあっては、 美的構想にとって全く 外部から課せられた条件として、 支配的な勢いで臨んでくるからであ る。 両端に穴のあ いた細長い管は ”煙草を吸うために” という目的の実現に向って制作される。 なおそのうえ制作者はこれを美 しいものとして仕上げようとする。 これを逆に考えて、 ある美的構想をもった制作者が細長い形をしたものを 彼の自由な構想に従って形づくり、 なお彼の美的構想の要求のもとに両端に穴をあげ、 内部を洞にする。 つま. りここに管状のものが制作されたとする。 これは終始、 彼の美的構想の要求に従って制作されたものと してな るほど美しい。 しかもなおこの管撒という形態は煙を通すこ とに適 している。 したがって “煙草を吸うため - 2 ー.
(4) . 哲 学. 的 制. 作. 論. に“ 用いることができる。 これはさきの考えかたとはまさしく逆である。 どちらも工糞品としてのキセルの解 釈として結果的には同 じことかもしれない。 しかしながら我々は前者の考えをもって工整品としてのキセルの 解釈として正当なものと認め、 後者を否としなければならない。 その一つの外的証拠としては、 制作者が、 た ’ という本来の効用目的から全く離れて とえ ”煙草を吸うために’ 、 単に美術館に出品する目的からのみ制作 し た場合でさえも、 彼はこの出品物に “蒔絵をほどこ した” とか “蝶釦細工の” とか、 いずオ破こしても何らかの ‘キセル” と命名するであろう ”キセル状の美 しき物体” とは名づけま 形容詞は伴うであろうが、 ともかくも ・ 。 ’ というラベル (帖札) とともに出品する い。 美しき形態をもった重い鉄製の物体を、 それの制作者は ”文 鎮’ ′ こして であろう。 彼は、もし誰かが効用目的のためにその作品を実際に用いようとするならば激怒するであろうヱ も、 それにも拘らず彼はその作品に効用上の名称をつけることに簾賭しないであろう。 それは、 その作品が終 始 “……のために” ということを制約として作られたか らである。 この ”……のために” はこの場合単に制作 のための制約として働きさえすればいいのであって、 必ずしもこの効用目的を実現させなくてもかまわないの. である。 制作者自身からいえば、 自己の美的構想の表現をのみ目的として作るのであっても、 効用目的が制約 として働いていることにおいては、 そうでない場合と全く変りないのである。 この意味において、 工塗品ない し美術建築物において表現される美は、 あくまで効用財に附随した美と考えられ、 効用目的から解放された、 自由なる美そのものとは区別されなければならない。 I ) この点については他の機会に詳論 した。 拙稿 “流れる時間と断つ時間” (丈化, XIX,3 ) 参照. #E 2) 筆者はこの場合の空間を第二次的空間と考え、 他に時間にさきだっ根本空間を予想している。 3) 農・牧・漁・工の場所については、 かつて論 じていたことがあるが、 いずれ改めて再論したいと思 っ て い る。. 2 カ ン トは ”判断力批判” の一節 ( S16 ) を命名 して “-定の概念の制約のもとに対象を美であると言明する in Gegens l t 趣味判断は純粋ではない。 Da and unt er der Bedi ngung e l nes s Geschmacksurtei , wodurch e “ be i B i f h 6 ” i i k 乱 i h i d i i t l P t t 美 f t nc t ren と い い、 そ こ で に は 自由なる美 re i s mm en egr s r sc n e r r w r, s e Sch6nhe i i ; i l i i t(pul tudo vaga)“ と ” 単 に 附 随 す る 美 di t (pl tudo ngende Sch6nhe e b chr oss anh uchr. ’ との二種類の美があることを述べている ’ r ) adhae ens 。 すなわち前者は対象がどのようなものであるべきかに. ついての何らの概念をも前提せず、 後者はこのような概念ならびにそれによっての対象の完全性を前提として いる。 前者に属するものは、 あれこれの事物の自立的美とよばれ、 後者に属するものは、 或る一つの概念に附 属する美、 すなわち制約された美として、 或る特殊の目的の概念のもとにある客体に奥えられている。 彼は例 として花をあげ、 これを自由なる自然美としている。 花がいかなるものであるべきかについて、 植物学者のほ かほとんど誰も知っていない。 また花を植物の生殖器官として詔 、識している植物学者でさえも、 花に対して趣 味によって判断をくだす場合には、 この自然目的を顧みない。 それと同様に、 音楽の場合では幻想曲とよばれ る、 主題のない曲や歌詞のない書架も全体としてこの種類 に数えられる。 これらは自由なる美をあらわすもの. であって、 この美は、 何らその目的を概念上から規定された対象に対して、 輿えられるものではない。 むしろ 自由に、 それみずからで満足を興えるものである。 いいかえれば、 何ら一定の概念の. におかれた客体をも もとと ) 表象しないものである1 これが自由なる美といわれるゆえんである 。 。. ところがカントによると、 一個の人間の美、 一頭の馬の美、 一棟の建築物の美は、 そのものが何であるべき かを規定する目的の概念、 したがってそのものの完全・ 性の概念を前提している。 ひとは或る一つの建築物に対 して、 もしもそれが教会堂といわるべきものでなかったならば、 その建築物に対して直接に観照において満足. を輿えるものをつけ加えることができるであろう。 或る一つの形態を、 もしそれが人間でさえなかったならば、 さまざまな蝦線歌や、 軽快でしかも規則正しい線歌をもって、 ニュ ー ジーランド人が入墨をもってするように、. 飾ることもできるであろう。 また人間でも、 それが男をまたは武人を表 現す べきでさえなかったなら、 はるか にもっと華著な容貌や一層優美で柔和な 顔立ちをもちうるということもあるであろう。 他方、 或る事物におけ. る多様なものについての補足は概念のうえに基礎をおいた満足である。 それはそのものの可能性を規定する内 的目的に関したものである。 しかるに美についての満足は、 何らの概念をも前提 しないもの、 むしろ対象がよ.
(5) . 野. 辺, 地. 東. 洋. ってもって輿えられる表象と直接に結 び ついている。 それゆえ、 もしも後者のような満足に関係して下される 趣味判断が、 理性判断としての前者のよ うな満足のうちに含まれる目的に依拠せしめられ、 そォ破こよって制限 ) されるならば、 それはもはや自由な、 そしてまた純粋な趣味判断ではない2 。. このように自由な美と附随的な美との二種があり、 前者は 何ら効用目的にわずらわされることなく、 実現す るのに反して、 後者は何らかの外的な用途によって制約される美なのである。 これはまさに工塾品ないしは美 術建築物において実現する美である。 これらのものは何らかの用途に向って作られ、 ”……のために” という目 的を担ったものでありながら、 他方同時に美と しての構想を表現しようとする。 ここに附随する美の特性があ らわれる。 このような被制作物が工嚢品ないし美術建築物なのである。 ここには効用性と美との調和ないし統. 一がある。 そのうちのいずれか一方が単純にみずからを主張することは許されない。 カソー ・の言葉にみられる うに この場合は或る目的の概念というものが一つの確固なる制約となっており よ 、 、 この制約のそとに逸脱す. ることが許されない。 寺院はそのなかで会衆が礼拝式をまもるための茎間であり、 キセルは煙草の煙を通して 口のなかに嫌えるための管でなけオ励まならない。 かかる目的を概念のもとにとらえて知識することが、 一方に. おいて是非とも必要であり、 この目的を繍足せしめるものでない場合に、 我々はこれを工整品ないし美術建築 物ということができない。 それはかかる知的な枠を前提としてそのうえでこのものが美感を興えるようなもの でなければならない。 この知的な枠はこの美にとっては全く外的なものである。 目的を概念的に認識すること は美感そのものを促進することには決 してならない。 にも拘らず目的充足の繍足感は絶対に必要である。 効判 目的という一定 の制約を破ることなく、 しかも いかに美しくそのものが作られているかというところにそのも のの生命がある。 これが効用目的と美との統一であり、 工塗品ない し美術建築物の本質とする点である。 このような制約は純粋警備作品、 すなわち自由なる美をあらわす整備作品の場合における形式のごとき役割. をもつものかも しれない。 この形式については、 べ つに詳達しなければならないが、 表現は形式に制約されつ つ行われる。 詩における七五調とか、 音楽におけるソナタ形式とかがこれである。 この種の聾術においては美. が形式にの っとって表現されることが要求される。 形式は表現の約束と して守られることを必要とする。 しか も形式は守 った方が守らないよりも、 作品をよ り美 しくする。 その理由は形式がそれ自身美によって要求きれ たものだからである。 墓術作品の内的必然によって生じた形式は、 制作上の制約ではあっても、 決 して美の表 現を抑制するものではない。 ところが工墓における “……のために“ 、 すなわち効用目的は、 何ら美自体とは関 係がない。 その目的を充足することは美自体 にとっては余計なことであり、 少しも美的表現を利するところが. ない。 利するところがないばかりか、 ときとして美の表現を抑制しなければならない。 なぜな らば美が全く自 由に自己を実現 しようとするならば、 効用目的を充足することが無税されるにいたる場合に遭遇するかもしれ. ないからである。. こ の制約は外的である。 外から興えられた制約である。 もとよりす べて制約は一底外的なものでなければな らないが、 この場合の制約はそのものの内的要求によって生まれた、 いわば必然的制約ではなく、 全く出所の. 違 ったところから生じた純然たる外的な、 したがっていわば偶然的な制約である。 もっとも細長い形態の物を 美 しく仕上げるために両端に穴をうがち、 内部を洞にしたために、 煙の通りうるものとなった結果、 これをも. ってキセルとするというような工聾品があったとしても、 それはあくまで偶然的な結果であって、 工整品とし てのキセルの制作の本来的なありかたではない。 やはり工聾品であっても、 単なる効用財の制作の場合と同じ く、 “……のために” ということがまず最初に制約として外的に輿えられていなければならない。 もちろん純然 たる工整品を制作するという意図のもとに制作が行われ る場合、 その被制作物が実際に効用に供せられること はないに しても、 “効用に供せられることができる” という可能性がさきだたなければならない。 この外的な制約は美的構想の表現にとっては一種の形式となる。 すべて流れる時間を断ち、 ここに塞間を生 ずる場合には、 同時に何らかの形式が生ずる。 それは流れを断つ仕方、 つまり断ちかたによる必然的結果であ ‘……のために“ 流れる時間を切断するとき ”……のために” る。‘ ,の内容によって 各種各様の形式が生ずる。 、 表現されようとする美的内容はこの形式を打破ってその外に出ようとすることよりも、 ひとたびこの外的な、 そ して異質的な形式を、 たとえそれ自身にとっては偶然的な仕方であっても、 それ自身のうえに引き受けたか らには、 この形式と調和を保つことが、 工事品としての内容をますます美的たらしめるゆえんであり、 この外.
(6) . 哲. 学. 的 制 作. 論. 歯形式を完全に美の構想の要求に合致せしめた場合に 外的なるものが内化せ しめられたことになる この調 、 。 和がなりたつとき工馨品が債値あるものとなる。 工蔓品はあくまで効用目的の充足が不充分であってはならない。 たとえこのものが美術館に出品され美を鑑 賞されるために作られたものであっても 工費品であるからには まず効用目的の充足が充分に行われうるも 、 、. のであるかどうかが、 概念による判断によって吟味されなければならない すなわち工整品の鑑賞にはそれが 。 いかなる効用目的をもっものであるかについての充分な知識が必要である 効用目的の充足が完全であること 。 を条件として、 そのうえでそれがいかに美しく制作されているかが問題なのである 条件の限定の範囲内でど 。 の高さまでに美が表現できるかに工整品の意義 がある。 それゆえ工襲品や建築物の効用目的が不明瞭に しか認 識されない場 合には、 その美の鑑賞も不充分であるとしかいえない 対象が何のために用いられるものである 。. かということは明確に知識されなければならない。 何に用いられるために作られたかわからないが ただ美し 、 いというだけでは、 工塾品ないし建築物と しての美を充分鑑賞しえたとはいわれない また ただ美 しく作ろ 。 、 うとすることのあまりに、 効用目的を充足せしめえないものを作るならば それは工嚢品とはいわれない 美 、 。 しく作ることのために穴をもたない樺駅のものを作り これをもって工璽品と してのキセルであるとはいわれ 、 ない。 穴をもっており、 それゆえキセルと しての用を完全にはたずものが その目的充足の制約内において美 、 しい場合、 はじめて工馨品なのである。 この制約を無蔵してその限定外に及んだ場合には 工整品としての頃値は失われる より美しきキセルを作 、 。 るために穴をつぶしては、 この工馨品はその腰値を失う。 より美しい水差を作るために底に穴をあげては こ 、 の工蔓品の贋値は失われれる。 この意味において工嚢品の美は まさしくカントのいう附随する美でなければ 、 ならなし・ 。 純粋整備作品の場合の条件はさ きの形式のごとく、 制作に当っては制約的であるが、 それが美その ものの要求に従った規範であり、 これの要求に臆ずることが美的頃値をさらに高めることであるの に反 して 、 工馨品における条件は美の表現にとっては外的であり 、 むしろ自由なる美の表現を抑制するところに相違があ 〉 る3 。 このようなわけで工馨品の意義は、 目的意識による知的条件と美的表現の意欲との調和という点に存する のである。 i i 音 1 im・ l ミ1) Kant i - nt che werke rer ,S .v . B. Cass ,hrsg .299 . , V. S i 2)i b d S 3 0 0 . . . 3) い わ ゆ る自 由 談 術 ・不 自 由 葵 術 の 問 題 に 関 して は エ ドワ ル ト ・フ ォ ン ・ ハ ル トマ ンを は じめ (E 、 . ik tmann v the t . Har .1887) , Aes , 多く の 人 々 に よ っ て 論 ぜ ら れ て き た。 わ が 因 で は 児 島 喜 久 雄 氏 も. その “美学概論”(昭和23年) のなかの ”所謂不自由葵? j炉 (昭和8年縞) でこれを論 じておられた。 これらについて 触れる ことはい まは 省略す る 。. 3 効用目的を知るということは、 いうまでもなく知的作用である。 直観のみによっては工聾品の美は把 握され ず、 このような知的作用が伴ってはじめてそれが可能となる。 否、 伴うのでなく さきだたなければならない。 、 よくあることであるが、 いわゆる民璽品の本来の効用目的を知らずに、 ただ何となく美しいものとして眺める ことによるのみでは、 このものの員の評慣はえられない。 下手物の油壷に花を挿 して美しいというのは なる 、 ほどそれは美しいには違いなかろぅが、 そのものを工璽品として員に許贋することにはならない も っとも 。 ……のため に’ は、 いいかえれば効用目的の達成には、 程度がある。 “よりよく“ とか ”より速か に’ とかの 効果に関係した問題を含んでいる。 したがって、 効用目的を知ることに伴う程度と範囲が問題となってくる 。 たとえばここに一つの手交庫があるとする。 その表面にあらわれた透彫りは そのものの重量を軽減し そ 、 、 れの携帯をより便利な らしめる。 この場合の透彫りは手交庫を美しくすると同時に効用の程度の向上を目指 し ている。 すなわち美の目的と効用目的との両者に同時に奉仕している。 またここに他の手交庫があるとする。. それには装飾のために他の物質が単にタ トから附加されているとす・る。 この場合、 ‘手文庫は重量が増加する。 こ のことは装飾あるがために効用の程度を引下げることになる。 いかに装飾は美しいものであろうとも それ が 、 効用目的に反するものであれば、 その工整品の美に関・ しては贋値少きものである。 工製品における美はそれが ) 効用目的との調和にあってこそはじめて・憤値あるものとなる。 すなわち工整蝶…となるのである1 。 全く効用目的 - 5 -.
(7) . 野 辺. 地. 東. 洋. のために作られた手細工、 すなわちいわゆる下手物が、 工墜美を目的として作 られたいわゆる上手物より、 か えって美においてまさるかどうかについては、 いまは立入って論じないが、 効用目的をそこなうにいたる技巧 を美の表現手段が用いることのないことだけは、 たしかに下手物についていえることである。 その限りにおい ・とも--と効用目的との統一は、 下手物においてはつねに保たれ て美--たとえ拙く表現されたものであろう ている。 つまりことさらに巧むところがないのである。 この理由からただちに下手物の方 が上手物より美しい ということはいえないに しても、 少くともこの点において 下手物は上手物のおちい りやすい危険を免れること ができる。. このようにいってはきたものの、 美の鑑賞はあくまで直観のわざであって、 知的反省によるものではないこ i l ch) ではなく、 直 観的 og s と も ち ろ ん で あ る。 カ ン ト が ”趣味判断は認識判断ではなく、 それゆえ論理的 ( 2 ) ” i h) である といっているのもこの意味である 。 感覚を通 じて感性による把握こ そ美の認識に本 he t t (aes s c. 質 的な方法であって、 知性による理解は、 ただ間接に補助となることはあっても、 直接には何 ら寄興するとこ ろがない。 したがってそのものの用途とか目的とかに対する顧慮は、 美そのものの問題には無関係 であるo カ ま不満足は、 用途もしくは日 ′ ントカド 趣味判断における場合は、 それが純粋なる場合においては、 満足もしくる ’ 3 )という通りである。 的を顧慮することなしに、 直接的に対象の単なる観照へ結びつけられるのである’ なのである ところが工整品においては美そのものが問題なのではない。 工整美が問題 。 効用目的というもの ’ ’ ” によって制約きれた美、 カントの言葉 でいえば 単に附随する美 が問題なのである。 これを美の方から積極 的にいうならば、 いかに して外から輿えられた規範に美をよりよく調和させるかという点 が問題なのである。 カントが上の引用 女のすぐ前に述 べていることがらは、 その内容については異論もあろうが、 その趣旨からい. えば、 こ のことをいいあらわしていると思えるのである。 すなわちこうである。 或る一つの意図、 たとえば或 る場所の広さを判定するとか、 或 いはまたこれを区分することによって、 その各部分の相互の間の関係およ び 全体に対する関係を見取りやすからしめるというような意図 が認められる場合においては、 規則正しい形態、. とりわけ最も簡単な種類のもの が必要になってくる。 そしてこの場合、 蕪足は直接的に形態の観照のうえに立 i ) のうえに立つのであ t rke auchba つのではなくて、 むしろ諸種の可能な意図に対する、 その形態の有用性 (Br 形態 (たとえば一眼の場合 また鼠物の 角度をなす室や 四辺が歪んだ庭園の芝生や る。 壁と壁とが傾斜した 、 、 のような) や建物とか花床とかの形態においても、 少しでも左右の均整を破っているもの が不補足を 葱きおこ すゆえんは、 それがこれ らのものの或る一定の用途のうえからみて、 実際的に合目的的でないためばかりでな く、 同時にまた諸種の可能的意図における判定に対して も合目的的ではないためである。 かく してカント自身 いっているように、 “或る意図によってのみ始めて可能であるところの事物、 例えば建物において、 または動物. においてさえも、 左右均整において成立する規則正 しさは、 目的の概念に伴うところの直観の統一を必ず表現 するもの でなければならず、 したがってそれみずから認識に属するのである。吻 工塗においてはこのように概 念、 反省、 ないし認識における規範がさきに立つのである。. ‘遊び” が工整なのである。 下手物の制作においては いずれにしても効用目的という規範に美を調和させる ‘ この遊びは意識のうえに乏 しいとしても、 鑑賞においてはこれをを充分意識化することができる。 上手物の制 作においては、 この遊 びはそのまま意識のす べてを占領するであろう。 この意味において、 この外から奥えら れた規範、 すなわち効羽目的は、 制作においても鑑賞においても、 充分にあらかじめ理解されていることが必 要なの である。. ここで工馨品についていわれることは、 そのまま美術建築物にもあてはま る。 ひろい意味では美術建築も工 塾のなかに包含されてもよいであろう。 美術建築物は原理的には工華品と同じである。 しかし、 ただいかなる 美術建築物といえ ども何らかの意味で実際上の効用目的のもとに設けられないものはない。 単に展示するため. の工馨品に相魅する意味での美術建築物は存在しない。 この点から、 美術建築物はす べて下手物であるといえ ’ 設けられた ないことはない。 住宅、 寺院、 会堂、 記念碑、 塔そのほかす べて建築物は実際に “……のために’. ものである。 効用目的には荘厳、 軽快、 威圧など精神 内容に関するものもあり、 あながちにこれを狭くとるわ けにはいかないが、 いずれにしても建築物は実際に用いられる点で例外をみない。 住宅見本にしてもその他の 建築模型にしても、 それらは建築美の表現として作 られたものではない。 あくまで実用のための建築の見本で - 6 -.
(8) . 哲. 学 的 制. 作. 論. あり模型なのである。 この意味からいって美術建築物においては、 工響品の下手物におけると同時に 効用目的との調和がはじめ 、. からみられている。 もっとも例外的には、 通風採光に留意 し健康的であるべき住宅建築にあたかも中世紀の城 廓のごとき窓の乏 しい趣味的建築をなす人もあるかも しれない。 しかし効用目的に反した建築はやがて実用 上 耐えがたいものとなり消滅するにいたる。 また大 きな・ 壁面を絵画をもって飾る場 合もあろう。 しかし壁画はあ くまでも独立した絵画であ って、 建築とは無関係である。 ただ壁面 を利用 したものにすぎな い 室内装飾と し 。 て襖絵などと同様 の意味はもつであろうが、 建築とは一蹴 関係のないものである また建築の内部といわず 外 。 部といわず、 そこにほどこされた彫刻的装飾は、 これもたとえそれ自身と しては美しいものであっても 効用 、 目的から独立 している場合には、 建築美に何らの寄輿もな しえない 寺院の荘厳がおもんぜられた中世紀のゴ 。 ティック 建築に、 荘厳感を増すためのあらゆる工夫が建築美に寄興し 王室の威勢と豪著を誇 示するための18 、 世紀のロココ式の建築が建築美に寄興したように 20世紀の機能を誇る事務所建築 ・工場建築とまた健康と軽 、 便を旨とする住宅建築が現代においては最も建築美を表現しているように思われるのも 、 充分理由のあること である5)。この点からいって、 たまたま誤ってもっとも形式 的と思われることのあるかもしれない茶室と茶器と は、 その本来の姿においては、 最も効i H目的に即した建築物であり、 土華品だ ったのである。 我々はこれらに おいて建築美、 工整美の好例を見いだすことができるのではあるまいか 。 浮EI ) 柳宗悦氏は その著 “工藤美論”(昭和4年) で、 説明のために入れられた挿図 の一つの “朝鮮 の弁 ’ を解 当箱’ .議して、“此遜模様が重量を軽くする篤の実際の目的と結びついている点に注意すべきと 思います。 菌字くづしの模様が如何に一切の点を引きしめているでしょう ……凡てが簡素で形 も 。 よく と ふ の い、 之 以 上 直 す点 が な い と 思 い ま す ……” と 述 べ て お ら れ る こ とは 充 分 参 考 に な る で 。 あ ろ う。 2) Kant b id.s.271 3)i b i d.S.313 ,i . . 4) i b i d ,S,313 . カ ン トは こ れ に 対 して、 ム表 象 諸 力 の 自 由 な る 遊 動 が 持 続 さ れ る こ と を 要 す る 場 合” と. して、 庭園、 室内装飾、 諸種の美術工薬品な どをあげ “強制の感を生ぜ しめるような規則正しさは 、 できる限り避けられる”( i i b d ) といっているが、 これらも結局は純粋なる趣味判断のもとに属する .. も の で は な く、 同 じ悟 性 の判 断 の も と に 入 る べ き も の な の で ある 。 5) モ ダ ン ・ ア ー トの 問 題 は い ま は 省 略 す る 。. 4 流れる時間を断つことによって塞間化が始められ ここに食 衣 住の生活がいとなまれ 、 、 、 、 美の表現が附随 的に行われることによ って工豊美、 建築美の世界が出現することは、 すでに述べたとおりである そ れ は 基 。 間化の過程によって配列されて、 固定化の度の低い衣服から始 まり 調 度 家具を経て最後に固定化の度の最 、 、 も高い建築物にいたるのであるが、 これらはす べて効用 目的という規範に制約されており 美はこれに調和し 、 た限りにおいて認められるのであった。 いまや我々はかかる規制的なるものの範囲を突き破って自由なる世界 を飛逸する美について考察しなければならない。 これカントのいう “自由なる美” である それの世界は純粋 。 整備である。 制作の時間は変化としての流れる時間においてまず時間墨術を形成する。 もっともただ流れるということだ. けでは整術とはならない。 整備はもともと個体の制作の働きによって作られたものであるから 流れる時間に 、 対して断つ時間が働きかけることによっては じめて整備作品が作られるのである 流れる時間に対する切 断を 。. 感覚的に表現するものはまず音である。 時間の流れに対して断つ働きを音であらわすことによって そこにリ 、 ズムが作られる。 または苦の時間における流れに対して断つ働きを典えて昔を中止せしめる そのことによっ 。 てその流れを断続する暑とする。 さらにまた、 断つ働きは音の流れのうちに音の強弱を加 えることによっても 、 リズムを作ることができる。 とりあえずこれらの場合、 その署はいわゆる楽音であっても非楽音であっても 、 いずれでもかまわない。 しかし音そのものに一定の高さが要求されてくる。 そのときは昔の高さを変えること によって流れる時間にリズムとそのうえにメロディ を輿えることができるようになる。 音楽はこのときから始 まるno 断つ働きによる峯間化作用はさらに高さのいろいろに異つた書を同時に並存することを可能ならしめ る。 ここに書のハーモニーの問題が生じ、 ますます書架の内容を豊かにしてゆく。 また音色の異る音の各種を - 7 -.
(9) . 野. 辺. 地. 東. 洋. 2 ) 同時に作 りだすことも できる。 これらはいずれも時間整備における空間化作用によるものである 。 次に流れる時間を断つことは、 意味を担った昔、 すなわち言語によって行われる。 言語の もつ音節や抑揚は、 もつ意味は豊富な認識内容ととも 時間の流れにリ ズムとその変化を輿えることができる。 のみならず、 言語の・ 誕生する して詩が かく 。 さらにまた流 れる時間を断つ に意識における無限の塞間化をもたらす ことができる。 の変化を奥え、 姿勢の変化と 身体のこなしに緩急 働きはすでに空間的な身体 の動きによってもあらわされる。 断は、 運動とによって、 空間的なリズムが作りだされる。 かくして舞踊が生ずる。 時間の流れに対するかかる切 間が現 身体の動きがそのつど現実の世界に塞間を作りだしてゆくという種類 のものである。 この室間は断つ時 どめてお の室間をそこにと ば しもそ し流し し 、 実に作りだしたのではあるが、 そのつ ど流れる時間がこれを押 くことはしない。 さて最後に、 流れる時間は完全に断たれ、 せきとめられるにいたる。 ここに作りだされるも のは絵画であり、 彫刻である。 これらにあっては現実の塞間は固定化される。 切断された瞬間の永 遠 化 で あ る。. 流れる時間の以上4つの仕方による切断は、 いわゆる時間整術から室間聾術にいたる馨術の分類、 ない しは は 書架整備、 言語整備、 表情整備、 造形塾術に相臆するものである。 もともと時間整備といわれる音 楽と詩と 質のものであるから 、全 現実的な寡聞要素 を全く含まないが、 断つ働きは何らかの形において寡聞化を行う性. く峯間的なものを含まないとはいえない。 晋葉においては多様の書の並存という、 また詩においては意味内容 の塞間性という一種のひろがりをもっている。 さらに舞踊においては現実的に塞間を含むにいたるが、 この室 間はしばしもと どまることなく、 流れる空間を形ずくっている。 謎間流としての空間。 塞間が時間の内容とな っているような室間。 時間のうえにのって 流れる空間でなく、 時間のなかにあって流されている空間を形ずく っている。 造形塾術にあっては、 空間は時間流のなかからぬけ出して、 あたかも時間を振り棄てたかのごとく. これを無 親し、 固定 した塞間に安住 しているようにおもわれる。 さて、 これらの整備の各種は、 それぞれ単独に美的構想の表 現をなし、 いわゆる単一馨術を形づくっている ものもあり、 また互に他との綜合の状態にあるものもある。 音楽におけるリズムとメロディ は、 詩における言 3 ) 歌謡に 語と意味内容とがともにもっているリズムとアクセ ントとに調和することによって、 歌謡を作りだす “ i i ) の区別を作り、 語り物” や “唄 i a t t a c vo)や詠唱調 (Ar おいても流れを断つ働きの様式により、 叙唱調 (Re ’ ’“拍子二合 ” い物” における差異を作り、 さらにとくにリ ズムの輿えかたの点から、 能楽における 拍子二合フ ’ ・ズ” のごとき相違を作りだす。 またいわゆる絶対膏薬のような軍 ー性のも のもあるが、 他方、 “英雄’ “運 ノ 命 …」月光” のょうに、 作者の意図の如何にかかわらず文学的な楽曲名の附された膏薬や、 標題音楽 のようにい わゆる昔詩、 暑画を含むも のもある。 これは女学的表現、 絵画的表現を音によって行おうとす るものであり、 その意味で綜合総の豊かなものである。 また舞踊はつねに音楽 を伴うもの であると観 念されている。 このこと. 1 i k l ) と呼ばれているものがあることによってもわ r Tanz us ose は、 その反証としてとくに “音楽なき舞踊”(N かる。 絵画と詩ない し文学との綜合も絵巻物や挿絵、 そのほか絵画の物語からの取材な どにみられる。 彫刻が 詩 (文学) から取材されることも、 同様にしばしばみられるこ とである。 絵画や彫刻が舞踊から取材されるこ. ともある。 しかしこのような種類の取材は必ずしも内面的に深い綜合をもっとはいえないで あろう。 両者の協 力によって美的効果をより高めるというほどのも のではないからであるo 綜合1ままた必ずしも好ましいものではなく、 ある場合には単一性の方向に純粋化することによって、 整備性 を犬ならしめる場合もある。 標題書架よりも 絶対吾架の方に、 より高い瞳値 が見いだされることが多いのは、. ) しばしば主張されるとおりである4 。 この単一性への純粋化は、 身体の運動のみにもとずく絹対舞踊においても 見られ、 そのほか外界の実在の形象に取材するこ となく、 線や色のみでノ ン・フイ ギュラティフ に構想を二次. 元的世界に表 現する絶対絵画、 三次元の世界に自由な形態を形づくってゆく絶対彫刻というものもありうるで. あろうめ。 これらの要求は一般に、 綜合による効果の増大よりも、 綜合により個々のものの自由が拘束されるこ とによる損失が大きいとの考えにもとずくものであろう。 また積極的には、 個々のもののもつ特質を無限にひ たすら追求しようという意欲に発するものでもあろう。工馨・建築の効用璽術においてはこの純粋性は求めるこ ‘建築は凍った書架である Archi t ektur まできないし、また求めることはそれらの本質に反することである。・ とt ” 間聾術におけ この言葉はもともと時 であろう が f i k i rome Mu s stge 。 . という言葉がある 、 これは実は不適当 - 8 -.
(10) . 哲 学 的. 制 作. 論. る純粋性に比すべきものを塞間墓術に求めて、 かくは表現 したものであろうが、 もしそれならば、、むしろ ム彫 刻は凍った音楽である” というべきではなかろうか。 ,塞間警備において、 時間整備における絶対音楽に比す べ きものを求めるとしたならば、 それは絶対彫刻であろう。 両者はまさに対比的なものである。 さて、 さきにも触れたように、 絵画や彫刻の詩 (女学) からの取材が内面的な綜合性に達しえないのは、 こ れらがそれぞれ室間整備として、 その構成がもともと時間塾術とは異っているためである。 また、 さきにもみ たようにもっとも空間性の乏 しい音楽ともっとも時間性の乏 しい造形整備とは、 もっとも綜合性に乏しいもの. であることは、 容易に理解されるであろう。 音画というものも、 さきに揚げたように標題音楽のうちにあるが、 ‘時計屋の店” のように 昔による単なる状景描写にすぎない この場合に ”画” というのも それはオルトの ‘ 。 、 “描写” というのも 比1酸にすぎないのである これらにくらべれば次に述べる綜合性 は まさしくそのジャ ン 。 、 、. ルにと って本質的のものであり、 またそのためにしばしばすぐれた効果をもつものということができるもので あ る。. ,. それは舞踊ないし演劇における綜合性である。 このジャ ンルはさきにも述べたように、 塞間流という構造を もっている。 それはもともと時間の流れにありながら、 現実的な空間を身体の運動をもって形づくるものであ i inua) る。 瞬間的に流れ去り、 しば しもとどまることがないとはいえ、 それは ”連続的創者” reat o cont によってたえず作られてゆく空間を形づくる。 時間性と塞間性との綜合であるこのことが、 舞踊ないし演劇を して時間整備たる書架と寡聞整備たる絵画・彫刻とを内面的深さにおいて綜合しうるものとしているのである。 また詩 (文学) における言語表現の時間性と意味内容のもつ塞間性とは、 舞踊ない じ演劇のもつ時室綜合性が、. そのいずれの面からもこれらを内面的に接駁する。 文学における叙事詩ないし小説が単に言語による直観的表 現の美 しさのみを追求するのでなく、 意味峯間性における事件性にも重きをおくのと同様に、 ことに小説が事. 件性に主力をおく のと同様に、 いわゆる舞台蔓術のうちでも演劇は事件性に重きをおき、 なかでも純粋演劇は 最も事件性に 重きをおくものである。 そして小説における意味峯間性を舞台のうえで現実室間性におきかえる のである。 叙事詩が事件性のみならず言語表現の直観性にも少からず重点をおいていることに対臆するものと しては、 我々は一般に古典劇といわれる演劇においてこれを求めることができる。 これをまた叙事詩劇と名づ. 生の豊かなものであるが、 けてもよかろう。 文学における汗情詩はその本質として事件性にもっとも乏しく直観1 これは舞台整備のうちでは舞踊においてその対睦者をみいだす。 舞踊はもともと拝借的なものである。 このこ とは歌舞伎劇における ”太閤記十段目” の操のクドキにしても、“艶姿女舞衣、 酒屋の段” のお園のクドキにし ても、 一段のうちのもっとも好情的な部分には舞踊性 が豊かに現れるのをっねとすることによっても 明かであ ろう。 バ レーをも含めての舞踊劇というものでは事件性が舞踊の連鎖の骨子となっており、 ここにも一つの綜 合注がみられるが、 しかしもともと叙事性に乏しい舞踊をもって事件性をあらわすことは 不可能に近く、 舞踊. 性の乏しい物贋似によ における事件性は外舞踊的なもの、 すなわち衣裳や小道具、 または舞踊にと っては純俸- ってあらわされるのをっねとする。 いずれにしても舞踊劇における事件性は外部ないしは背後にあって多くの 舞踊部分を結合しているにすぎない。 舞踊劇における舞踊と劇との結合は内面的深みにおいて行われているの ではない。 しばしばみ られる豊富な物贋似は両者を結合せんとするものであろうが、 その場合には黙劇に近ず. いてくるであろう。 周知のように邦舞には舞と踊のほかに振 (ふり) と称する要素が含まれている。 これは物 員似であり、 舞踊からみればその劇化であり、 劇からみればその舞踊化である。 しかし一般的にいって物員似. は能楽における がごとくよほど醇化されない限り、 美的なものということができない。 単に .写実的な物員似な 入 劇は ヴ ラエテ 歌 をねらった効果のために挿 される場合は別として それ自身としては いし ァ ィ 、 舞踊と 劇 、 、 との妥協的結合にすぎない。. このようにみ・てくると、 主観的直観性と客観的事件性とのもっともよき綜合は、 浮清的な舞踊と叙事的な純 粋演 劇との間に存する叙事詩劇において行われるといいうるであろう。 これこそ時間整術一般と室間整備一般 との中間に存在する舞台馨術の、 さらに中間に存在するものであり、 したがって媒介的結合性においてすぐれ た地位にあるということができるであろう。 我々はこれのょき例を能楽や歌舞伎劇やまたシェ ークス ピア劇の. ようないわゆるる古典劇 (実はいずれも近代演劇の基礎となったものであるが) の大部分のうちに発見するで あろう。 この種の演劇は綜合塾術中の綜合整備といってよい。 それはそれのもつ時間性においては、 好情詩的 - 9 -.
(11) . 野. 辺 地. 東. 洋. 表現を定形化した台詞と舞踊的要素を含み、 これらはまた膏薬の時間性とも当然よく融和する。 他方また空間. 性においては それは演劇としての豊富な事件性を含み、 事件を舞台的現実に峯間化してこれを時間的に処理 する。 また科 (しぐさ) の瞬 聞瞬間は彫塑的な美しさをあらわし、 舞台全体は絵画美を保ち続けよぅとする。 ’ なるものがあることに想い当るであろう 我々はここで歌舞伎劇の術語に ”絵面 (えめん) の見得’ 。 それを話役 者がみずからの生きた肢体をもって舞台を描くことである。 このように時間性と峯間性との綜合は叙事詩劇に おいて頂点に達するといえるであろう。 なお、 これが統一している拝情詩的な部分は、 しばしばサワリとかク ドキとかといわれて、 劇のクライ マッ クスをな している。 それが心の琴線にもっとも深刻に触れる点において. 頂点をなしていることは事実である。 しかしそれもこのサワリやク ドキが叙事詩劇のもつ事件性の統一によっ て位置づけられている限りのものであって、 それだけとしてはいまだ部分的なものであるにすぎない。. ここで一言するならば、 一般に綜合整備の室間の側における綜合性は、 舞台装置に絵画 ・彫刻・エ馨・建築 などを用いるということにあるのではない。 装置に用いられる背景画や大道具・小道具は決 して絵画・彫刻・. 工馨,建築そのものではない。 それらは装置としての物体でなければな らないのであって、 そのものとしての 聾術作品であってはならない。 そのものとしての整備作品が舞台におかれた場合、 観客席からそれが整備的な ものと見えるとは限らない。 そのものとしては馨術作品でないものを整備作品らしく見せるのが舞台でなけれ. ばならない。つまり舞台効果(広義)のが肝要なのである。 たまたまそれがそのものとしての整備作品であったと しても、 そのことは舞台にとっては偶然的なことである。. これと同様のことは時間の頻 りに対 してもいえるかもしれない。 書架はそれ自身としては独立した音楽であっ てはならない、音響効果としての音楽であって、 そのものとしての整備作品であってはならな いと。 なるほどそ うかもしれない。 綜合整備の綜合性は、 時間馨術と塞間警備との綜合性ではなく、 時間的契機と空間的契機と. の綜合性である。 したがってそれぞれは独立の整備作品であってはならない。 さきに綜合整備の空間的諸要素 ’ は叙事詩 についていったこ 日は、 またそのまま時間的諸要素についても妥当なわけである。 長唄の “勧進帳’ ” ” 劇の 勧進帳 に附随 した音楽であって、 そのものとしては度=のあいまあいまをつなぎ合せただけの曲である。. したがって、 たとえ整備的要素は豊かであるにしても、 独立 した璽術作品とはいえない。 またこの曲のなかの ”コダマの合方” は 曲そのものにとっては無意味に近いものであって 、 、 本来は劇中の人物の移動と台詞の間 (ま) のあしらいに吾響効果と して用いられたものなのである。 また同じく長唄の ”鞍馬山” の “セリの合方”. は、 せり出しのときに用し・られる醤架であって、 楽曲の構成のうえからは無意味なものである。 とはいえ、 綜 合整備における時間的契機は空間的契機よりもはるかにそれ自身としての独自性をもっている。 我々はしば し ば劇音楽を それだけのものとして聴き、 戯曲をそれだけのものとして読む。 そしてそれらに整備性を認めるこ とができる。 しかるに舞台装置の背景画や大小道具のそれだけを婆術作品として眺めるわけにはいかない。 な. ぜこのようなことになるかというと、 それは綜合整備の綜合作用において、 ‘時間的契機が塞聞的契機にはるか にまさって重要な役割を占めているからである。 舞台璽術はたとえ綜合的ではあっても、 その墓間的契機を固. 定化することに乏 しい。 舞台の空間はもともと室間流であって、 たえず流れている。 背景回や大小道具はそれ 自身としては流れる時間を断つことによって作られたものであり、 永遠の固定化を欲するであろうが、 舞台は. 廻縛 しなければならない。 一 つの装置はとりこわされて他のものと入れ替らなければならない。 このような峯 間的契機の悲劇にく らべると、 時間的契機ははるかに幸縞である。 それは幕のあがるのと同時に、 否、 幕のあ がるのにさきだって開始され、 幕がおりるまで舞台の進行に参興している。 それは舞台の室間流に内面的に融 合 しうるものであり、 したがってそれ自身舞台の整備性に匹敵 しうる整術性を要求されるものである。 それだ. けをとりだした場 合でも、 たとえ多少の舞台効果的混ス物があったにしても、 整備作品として充分鑑賞されう るものでなければならない。 このようにみてくることによって、 綜合墜術における綜合作用の働 まま やはり 連続としての変化にあり、 流れる時間が断つ時間をうちに含んで流れている状況が理解される であろう。 歌劇ないし薬劇も舞台整備の一つとして、 その豊富な綜合性をうたわれるものである。 しかしジングシュ ピ ← ルの簿統をもった独 填のそれはともかくとして、 主としてイ タリアを中心として発達 した歌劇は、 それのも ・に 思 わ つ極めて豊かな時間的音楽性と劇としての空間的事件性とが無理に結 びつこうとして努力 しているよう れる。 まだバ レーなどの舞踊劇における舞踊と劇との結合の方が、 両項の顕りが少いだけに、 よりよく行われ - lo -.
(12) . 哲. 学・ 的 制 作 言論. ておりはしないか。 音楽性と事件性とが直接に結 びつこうとすることがそもそも無理であって、 叙事詩が両者 を媒介しなければ、 内面的に深く融和 した綜合性には到達しないのである。 しかるに主として上の種類の歌劇 においてはこの叙事詩性が乏 しく、 時間性と室間性、 主観的直観性と客観的事件性とが融和 しないで混在の形. で存する。 エ ドワルト.フォ ソ.ハル トマソは、 歌劇は拝借詩劇であるという意味のことを述 べているが鮫 ) また好憎詩こそが舞台上の科にもっとも適 しているということを述 べているが7 、 前者はたしかにイ タリアを主. とした歌劇についてはいえるであろうが、 後者はこれまでの理由から賛成することはできない。 この場合は、 舞踊劇における舞踊と劇との結合の外面性以上の外面性が、 歌劇における膏薬と劇との関係についていえるの. である。 いずれにしても拝清詩劇においては内面的な綜合は叙事詩劇におけるほど充分には蓬せられないもの で ある。 なお、 しばしば歌劇と能楽とを同列脱する習慣がみられるが、 後者が多分に叙事詩 劇としての性格を もつことによって8) 、 両者を同日に談ずることは一般に困難であろう。. 流れる時間を断つことによって作られる純粋整備のジャ ンルを掲げてみると、 ほぼ以上のようになるであろ う。 そしてそれらの間の連関もこれまでみたとおりである。 これらのものにおいては効用性は、 これらのも の が畦用された場合は別として、 全く存 庄せず、 そこには制作活動そのものが内な る構想のタ トヘの表現作用とし. てあらわれるのみである。 これはまたまさに制作の極点でもある。 しかし制作はこれのみにて認きるものではない。 まだ他の種類の制作がある。 倫理的活動による制作 知的 、 活動による制作な どがこれである。 しかし、 これらのものについて論ずることは他の機会に譲らなければな ら ない。. i 註 1) ビュ ー ロ フ (Bi l ow) が リ ズ ム を も っ て書 架 の は じめ と な した こ と は 知 ら れ て い る が、. いまは こ の. 議論には立入 らない。 2 ) 洋楽においてはこの書架の空間化 が薬書の内部で非常に発達した。 邦柴の場合は柴書と非梁書との 協働という形が大いに発窪しているといえよう。 このことは吉川英士氏が日本人の曝書愛好性を指 摘しておられる点に相応すると考えてよかろ う。 同氏著 ”日本書架の性格“(昭和23年)215頁以下 参照。 ラ ) ハ ソスリッ クは書架と言語との類比を避けることを主張しているが、 これを承認しても以上のこ と 9 i ika i は い え る で あ ろ う。 Hans l l l ck, Vom Mus rSch6nen sc ,1896 , S .116 . 4 ) この主張の代表者 としては、 ハソスリッ クの名が高い。 前掲書のとくに第3章を参照。 5) 私は標題音楽に対して絶対音楽というょうに、 標題舞踊 ・絶対舞踊、 標題絵画・絶対絵画ないし標 題彫刻・絶対彫刻の呼名を用いてもよか ろうと思う。 l 6 ) E.v. Hartmann, Phi os。phi e des Sch6nen .1887 .814 . ,ロ ,S b id 7) i .. 8 ) 能の歌詞が原則と して叙事詩的であることは、 野上豊一期氏が しばしば指摘しておられた。 例えば岩波講座 “日本女学” 中の “能の舞台的特質”,18頁参照。. - 11 -. . ● . ● . ● 、 ′ ● ・ ● ● . ・ ● ● .. .. . ● ノ. . . ● 、.
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