著者 崔 先鎬
出版者 法学志林協会
雑誌名 法学志林
巻 108
号 2
ページ 1‑24
発行年 2010‑09‑29
URL http://doi.org/10.15002/00006979
日本や朝鮮半島などの祖国を離れて活躍した知識人のなかには、多大な業績を残しながらも、国内ではその存在が
長年忘れ去られてきた人物もいるだろう。朝河貫一(一八七三’一九四八)はその代表例である。一九四八年八月、
イェール大学名誉教授であった朝河貫一の計報を受けて、米通信社APとUP-が「日本における最も高名な世界
的学者の死」として報道したが、日本の新聞では単なる小さな死亡記事として、さらには国外からの情報であったた
めに彼の姓氏さえ異なる文字で表記されたものであったという。朝河は自身の学問的業績に加え、在米日本人の大学
知識人として日鰯戦争から第二次大戦終戦まで政治的にも活離しており、近年再評価の動きも高まりつつあるが、こ
こでは彼の初期の思想の一部を振り返ってみたい。
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(崖)
1.価値の実践l朝河貫一をめぐる背景 戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)
崔
先縞
朝河は、幼い頃から武士の子としてのしつけの一環として漢文の素養を身につけさせられたようである。父親によ
って日常における士族としての品格保持の重要性について教育を受けると同時に、朝河家の歴史やかっての二本松で
の戦争のことを伝え聞いていたであろう。明治維新の結果、藩閥政治が行われ、中央でも福島県出身者などが地域差
別を受けることが多かったことを考慮すれば、そうした経験が朝河の人格の核として大きな影響を及ぼしてきたもの
と考えることは容易である。明治維新から間もない頃の近代期の日本に生まれた朝河だが、このように士族としての
念がつづられたれたものである。 法学志林第一○八巻第二号一一朝河は、明治六年(一八七三年)十二月二十日、現在の福島県二本松市となった福島県安達郡二本松町にて旧二本
松藩士朝河正澄とウタ夫妻の長男として生まれた。彼の学問世界における価値の形成の過程に於いては、彼自らを取
り巻いてきた個人的な生育環境に大きな関連性を宿していると考えられる。明治時代になると、これまでの長きにわ
たって社会制度を構成してきた士農工商という身分的階級制度は廃止されたものの、朝河家は国家的内戦のなかで犠
牲者が出たことによって生じた家督相続の問題をのり越えて士族として残った。しかしながら、奥羽越列藩同盟に加
わり戊辰戦争に敗れ、家屋敷ばかりか秩禄も失い、新政府への仕官の道も閉ざされていたことにより、明治の新時代
には急激な生活の困窮に襲われたのである。そんななかで、父の正澄は、伊達郡立一丁山村の天正寺の離れに建てられ
た村立小学校の校長として、山中へいわば都落ちしながらも天生寺の庫裏に一家で住まい、村ごとすべての教育にう
ち込んだのである。成人した以降の朝河が留学に赴いて以来、父を外地での拠り所とし、どれだけ誇りを懐いていた
かは、イェール大学図書館に残る朝河の遺品のなかに、村長からの感謝状と村人八百八十人余の連名によって敬慕の(1) 念がつづられた「報恩之辞」が残されているところに表れている。これは、父が校長を務めた小学校を去る際に階ら
貫一がまだ二歳だった明治九年二八七六年)一月には、母親のウタが病気で死去したが、後の養母には愛情を注
がれたようである。明治十年(一八七七年)六月には、父親の勤務先である立子山小学校の改築に伴い教員宿舎が完
成し、ようやく朝河一家は天正寺から学校の敷地内の教員宿舎に移り住むようになる。明治十二年(一八七九年)五
月に立子山小学校に入学したが、高等小学校の最終学年には、英語教師のいた川俣高等小学校に転校をする。父親は
薄給であったため、明治二十年(一八八七年)四月には旧制福島県立尋常中学校(現在の福島県立安積高等学校)に
進学し、特待生となっている。当時、資力に恵まれない士族の子女は授業料が免除される師範学校に進むものが多く
を占めていたが、朝河は父の意志に反しそれを望まなかった。多くの日本人にとって、日本は封建制という暗黒から
脱け出した明るい明治という時代のはずなのだが、朝河にとっては逆臣となった東北地方の没落士族としての環境の
なかで、世の中の矛盾や社会正義に敏感な少年時代でありつつも他の多くの青年同様に、広い新しい世の中での成功 家庭教育を受けた彼にとって、士族として守るべき第一の行動様式とは「節度」ないしは「武士道」であって、維新の文明開化という名のもとに西洋化されても、士族としての伝統意識までを廃棄することは決してできなかったものと考えられる。むしろ没落した士族であったことこそが、武士的な伝統意識をより強く育むもととなったのではないだろうか。彼は、日常的生活における「節度」の保持こそが人間としての最良の価値であると志向しつつ、このような日常的節度というものから社会に向けて充実した献身、そして貢献が可能となるものと判断していたに相違ないだ
を夢見たことであろう。 ろう。
卒業後、嘱託で尋常小学校の英語教師を務めた後、明治二十五年二八九二年)十一月には、現在の早稲田大学の
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(礎)一一一
法学志林第一○八巻第二号四
前身である東京専門学校文学科に編入学する。とはい.x学資に困窮していた朝河は、友人に紹介された杉並区荻窪に
位置する東一昂本郷教会の牧師横井時雄(一八五七’一九二七)が主催する雑誌『六合雑誌』の編集を手伝うことで生
活の糧を得ることとなった。彼はそのなかで、一部不本意ながら明治二十六年(一八九三年)六月に洗礼を受けキリ
スト教徒になるのだが、横井がアメリカ合衆国北東部のニューイングランド(zのミ国口、}四目)地域のニューハンプ シャー州(zの弓四画ごロ⑪三『の。Z国)ハノーバー市(国目。『閂)グラフトン郡(の局貝8口○・目曾】)に位置するダート マス大学(□日・§・貝け○・」]の、の)の学長W・J・タツカー(印・肉のめい・局。『臣P日当の芝の言弓月岸閂)に朝河の留学援助
を依頼し、直後の明治二十七年(一八九四年)にはその了解が得られたことから、渡航費のみでのアメリカ留学が実現するところとなった。恐らく彼は、英語や西洋文化には関心を寄せていたが、当初キリスト教徒になるというのは、
精神的にそう容易なことではなかったらしく、『六合雑誌』には彼の正直な気持ちがつづられている。明治二十八年
(一八九五年)七月、東京専門学校を首席で卒業した朝河は、学校関係者などに借金を依頼、大隅重信・大西祝・勝
海舟・渡辺弥七・徳富蘇峰らに渡航費用の援助のうけ、明治二十八年(’八九五年)十二月に二十二歳で日本を離れ、(2) アメリカ留学の道のりに入った。翌年の明治二十九年(一八九六年)にはアメリカのダートマス大学の教養学部
(。。」』の、の・唐回すの国]し耳、)一年に編入学するが、彼は、合衆国のなかでも、人種的にとりわけ白人の比率が高く、
キリスト教、そのなかでもプロテスタント信者の数が多数を示すこの地域の雰囲気によって青年時代の精神世界の形
成に大きな影響を与えられ、かつ新たな学問世界の形成にも大きな影響を与えられたものと考えられる。
明治一一一十二年(一八九九年)五月には、ダートマス大学を卒業し、同年の九月にはイェール大学(&巴の口凰ぐの国‐
ご)の大学院歴史学専攻(弓冨国m8このロの。巨亘・崗号の邑勉」の○日29の、8..])に入学した彼は、そこでもダート
マス大学の学長W・J・タツカー教授の援助のもと、博士学位論文倉皀の回日々冒昌白昼・目」巨命の。能冒g貝、
、自身冒昏閂の能・ロロ・忌怠少・ロ.(日本における黎明の制度様式の導入’六百四十五年の改革に関する研究、和文
(3) 翻訳書は『大化改新」として出刊)というテーマで博士学位(勺西・ロ)を取得した。同年の九月からは、朝河自らの母校のダートマス大学の講師(旧の。目弓の『)となって東西交渉史(四m8昼・伶固P、缶‐二の⑩汁三の、。ごPご・曰⑪)などの講義 を担当するようになった。上記の学位論文屡曰冨国貝一宣口⑩毬日蝕・息]口{の。命]gP目ロ⑪自身甘言の局の俺・HBO思念
し・O・葛(『日本における黎明の制度様式の導入’六百四十五年の改革に関する研究』、和文翻訳書名『大化改新』)にお
いて朝河は、日本における歴史の全体的な枠組みについて概観しつつ、二つの革命的状況の出発点として「大化改
新」と「明治維新」を挙げている。
後日の大正二年(一九一二年)六月に雑誌《日ロの]○日目]o虎幻四goのぐの]○日】の貝(白の曰○m)葱を通して発表された 論文倉の○日の。虎昏の○・口国日蝕・口⑪。命甸の口:]]§:8岳のzのぎ』::弓(近代日本が封建日本に負うものについて)
を参照してみると、近代国家として生まれ変わった日本が力強く近代化の歩みを進める上で、封建時代の日本から継
続した「武士道」が特別な役割を果たしたと繰り返しうったえつつ、道徳(旨・日」〕ご)と社会生活(の○○巨巨席の)
(4) といった二つの側面からの「節度」(菖・gの門口は○口)の重要性について述べながら、同時に日常的生活様式における節
度について強調している。なお、西洋世界に「武士道』を初めて紹介した新渡戸稲造の本がアメリカで出版されたの
は、明治三十三年(一九○○年)であった。このような彼の考え方を形成する背景には、中世から近世までに一曰一って
長い時間の経過を通して彼の遺伝子のなかに叩き込まれた武士階級としての節度に対する認識が深く関係するものと
考えてよいもしれない。
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(崖)
五
朝河がイェール大学に博士学位申請のため提出した学位論文は、日本の封建制を分析したく白けの回閏々H口⑪毬目‐ ←】・目」貝の。ご口で;ロの自身甘鳶局の局・§・息念しp感であった。この学位論文の中で彼は、アジア諸国並びに
西洋における歴史的変動について分析しつつ、その中から日本との関わりを探り出した上、日本の歴史全体の枠組みの中における革命的状況として同定した二つの時代状況、すなわち、大化改新(gの、&○門日・思念)と明治維新
(gの、の⑪計○国弐・曰。ご函g)を、伝統社会における「封建制度」(昏の句の巳四]の]切寸の日)の形成と消滅の転換的な局面
として想定したのであった。この論文のなかで朝河は、「大化改新(岳の、瓜○局目。忌怠)」および「明治維新(岳の
幻の巴・門目・ロ・口②g)」といった出来事を、日本の歴史に於ける「最も大きい二つの危機的状況(岳のす。円のgの、(
臼尉の⑪)」として認識していた。封建社会は、大化の改新後、およそ五百年にわたり徐々に形づくられていったもので
あり、武士が政権を掌握した後の七百年の間は現実に日本の統治に関わる社会体制として続いてきたものと見なして
いた。
2.日本史における封建制度の存在意義についての研究
…弓与の□○凹蔑。ご○虎づずの、&○局日○能の一m目嵐、(○吋留日②邑俺ごユぽのHすの⑩の⑩口曼己の■】(】mmBQ←ロ口計詳俺○門目】、○回の。扁
昏のグミ。、局のgの閏○コの。の。【旨の口g]。□巴8局のの局○mgの]ゆで四口の、の己の○℃一の『ずロの○9日すの旨、←ぽの因の⑪8門口毬○口○命
●l初期における朝何の学位論文屡曰けの回日々閂ロ⑩葺巨はopm」巨命の。命』口bPpmp⑪自身冒岳:具・司日・忌怠
少・ロ・弓の序文(目可・目3.口)を中心に 法学志林第一○八巻第二号六
このように長い時間をかけて形成されてきた伝統社会が、一八六八年の明治維新によって、非常に短い時間の間に
その体制の変化を進めていく様子は、当時の日本人とって大きな驚きであり、朝河は国家的危機と捉えた。散髪脱刀
令など文明開化と称した単純な西洋化や士族階級にとって致命的となった徴兵制の施行、新たな宗教的伝統を作るた
めの神仏分離と廃仏殿釈、こうした長い伝統の意識的な転概は、革命の名に値するものであったと考えられる。恐ら
く既存の伝統性が急転換されたという革新的時代雰囲気のなかで、朝河が、この二つの時代的山場を貫く存在として
考えたものが、日本における制度としての天皇の存在であった。言うまでもなく明治の国内的時代状況においては、
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(膿)七 …歴史上の六四五年の大化の改新の位置づけは、さらには日本人の国家的歴史における最大の危機ふたつのうちの一つであり、もう一つの危機が一八六八年の明治維新であることにも及んでいると見なせるかもしれない。前者の大化改新の後は、五世紀にわたり次第に封建的となっていった、そして七世紀以上の問、実際に日本帝国の封建的治世が続いた。日本帝国は、最終的に一八六八年、六四五年の変革をもたらしたのと同一の権力であつ(6) た天皇の権威に再びとって代わられたのであった。 曰ぼの帛○再【ロの局三四の竜○一一○言の9ヶ『ゆくの。の口言巨口の、。届口囚『PgpP}溢巨Q煙一命○口ロ回poppp9寸彦の曰ケ『mのぐのゴ閂己○局の。①ロ(こ‐局】の⑩。{Pゴロ○什巨P」庵のロロロ]司巨]の。烏一ぽのロロ〕C常の。【ごゴー○ロゴPい、ロ回」」『Hのロ}⑥◎の9-口一画ののケ『げずのH回〕□の国⑫一口ロ什彦○国(『》(5) ←ず①のp『ゴの□○ヨョの局汁ロロ武門の口唇㈱のQ←丘の。けmpmの。{の一m. 」、の②。
法学志休第一○八巻第二号八
天皇を君主とする新制度が依拠した万世一系という国家神道の形成による国家主義イデオロギーが強力に展開されは
じめたことにより、日本の歴史において過去の「天皇」である皇祖という存在を学術的であるにせよ客観的に相対視
することは、極めて不敬な行為であったと考えられるのである。彼が英語で書かれた『大化改新』を決して日本語の
翻訳版として作成しなかったことにはそうした理由も大きい。朝河は、大化改新と明治維新の共通点について異文化
の融合と折衷によって日本共同体(』眉目厨Sの○の日の目目の)の再建のために行った変革であるという画期的な意味付
与を行った。それと同時に、この変革の際に制度としての天皇の存在が大きな役割を果たしたことを広く欧米の知識
人社会に紹介したのであって、決して天皇の権威を阻めるものではなかったといえるだろう。日本の歴史における天
皇システムの大きな役割を明示したことは大きな意味を有するものであると考えられる。
…(B嵐⑪」囚⑪(8口四Qの日蝕○コのロ、、の⑩一mg日)旨の匡切8乱8}ご什臼の⑩哉○由呂の、の【○局ロ〕goの⑪ロ。←日の円の写8口凶の(
】口詳切局の一口は。□什○能の宮口②」厨H曰マケPげゆ]⑪○計。←ずのHHpbの凶、]芦ロ⑩感什ロdopo能】Pbロロゴミ匠○のの巨口】P口の勺○m】ロopmp〕○口、
{ずの【ごopp局○ず汚い。【ずロの言○ユニヴロ⑩ケの①口P、色ケ]の。一○mロ渭巨○ヶ三○口Qの門⑤pqHご肘ロゴ9の円の一口口9】口囚・
日ロの鴛巨。。ご岳○局○○日□四局、ごくのロ。」】は8cm。夛口卍□一『P南○局q〆。□の、」の◎(言営の⑫←PQぐ。{什面の匡由区弩冨のゴロg弓の宮⑩8‐t 『『○能(ずのロ。⑫)感○口○命餃ロの回『ゴロの『○局】ご計ロのご口感。□、]oHmmp旨仏は○口○俺]ロロロロ・岸一⑩ずずの回員〕ロの局○局{ず、一局○口ロ、一ヶの8口□の。蔑口囚一目穴ケのヨ『の①ローゲの、の局oHBm口Qほぼの幻の⑪8門g】○口・弓威、厨口○誌、]]》【○Hgの回日CのHoNPp計の9日の9m⑪三の]]煙の旨の什詳戸(のQ什彦の幻の{o両日》ロ○ず。ロー『のロケの】の寸のQ】ロのロ←の。扁崗の届9口」厨日〉ケローロー⑪○三②砂昏の、口帛の血色pH。。届】計、
のロ。戸『ロロ○の》{ずの口、P円く甘く①」洋一P。□凶口○のぽゅいすの。。【曰の(彦の一口の□】『の『o命]Pbロゴごmの口寸可巨の】Pm感ロロロ感opP」、のpごロ』の口(。
…(このうちの最後の考え方は、)大化改新への歴史的な関心が単に封建制度との関連を有するばかりでなく、
世界の君主制のなかでも多くの驚異と誤解の主題であり続ける唯一無二の日本の天皇制度にも関連している。比
較政治学の研究者なら、日本の国家組織における天皇の位置にまつわる非常に示唆的な歴史研究を無視するよう
なことはできないだろう。大化改新と明治維新をつなぐものを形作るものこそ天皇なのである。それがすべてで
なく、天皇は大化改新を制度化したのみならず先行していたのである、というのも封建制度にもかかわらず生存
したばかりかその存続の安全装置であったのであり、そして生き残り、以来日本の熱狂的な国民感情に息を吹き
込む者となっているのである。かの国の国民生活を理解するのに、その君主の地位の正しい知識なくしては不可
能であり、そしてまた大化改新とそれを引き起こした要因の注意深い研究なしに、彼の権力の興味深い歴史やな
おもより興味深い人民との関係の発展が理解可能にはならないのである。かの六四五年の大化改新は、日本の雁(8) 史における大きな転換点であり、その精通は日本史の研究に不可欠なものだと思われる。 閂庁尉冒pbom巴ケーの(opp9の『⑪(ロゴQ計ケの口Pは○口⑪]」房の。届計ケ、(○○ロゴ(『]ヨヨ詳可。□念PCC司再の○庁丙口○室「]の」ぬの。〔計嵌のの什色(ロの。届けの『の。ぐの『の]ぬゴや二○局○四口】ロ←の『の⑪ごロ、声厨(。【ご○届ず厨boヨの『のロロロげぽの⑩ご」」ロ〕○局の】ご←の『の、ごロ、のごo一口ご○ご○命ケ厨弓の一口感○コ8什臣の己の○つ]のケの旨一の]」】四宮の急『群ケ○口(四○P昂の命巳⑭一回Q堂○崗庁けの幻の命。『日凹ゴ9什彦のQHoEB⑩同ロ8⑪一彦ローnppのの口詳・曰ずの、の開oppo烏の一m局○局白い.計可の『P曰(丘の巨⑩8吋]○局]、ロロロ四m『の口什計巨弓昌pmCo旨(.辱の日、、←のH〕(7) ⑪ののHどののの⑪のゴごP]計○ずケのめげ臣。竜。【ずケロ(け厨一○局]。
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(礎)
九
一方、朝河は、ヨーロッパにおいてもキリスト教が有する様々な社会的権威によって句の且呂の曰を成立させた歴史的経緯があったものと判断していた。そこには、キリスト教による王権政治への関与とともに、キリスト教の信仰 法学志林第一○八巻第二号一○
朝河は、大化改新を日本における封建制度の起源として位置づけつつも、歴史における天皇の存在の神話的側面と
事実的側面を取り分けて、新たな時代の歴史認識の出発点にしたいと考えたのであろう。封建制度における社会統合
的側面を天皇の象徴的存在意義を通して拡張し、これに制度的・文化的確信を加えた独自的な統治の形態を確定し、
機能的結合を果たそうとしたという彼の考え方が見られる。また、彼は、日本における封建制度と西欧における
句の且呂、日、そして中国における封建の意味との単純な比較を通して封建制について説明を行っただけにとどまらす、
その背景となる時代性の解明を通して封建制度における個人と社会との関係に対しても意味を付与している。
日本における封建制度の到来は、まさに大化改新の国家と天皇の不適合から始まったものであった。日本が封建制
度を抜け出したときに、歴史的な継続性を守ったものはまたも制度としての天皇の存在(日ロのHロ豊目は○口・鷺彦の
固白己閂・局)であるとともに、このように、日本における制度としての天皇の地位とは、社会統合のためには最も実
用的な制度装置であると彼は判断していたのであろう。無論、現在の時点から判断した場合、天皇の制度的な継続、継承論については伝説ないし神話的側面が多く存在するという議論の余地も残るが、むしろ制度としての天皇の存在
について単なる政治的支配者としてではなく、人々に道徳的影響力(曰○国]8口弓。}。ご①局昌のでの。ロ]の)を与える
「徳」を体現する存在として評価したところは、欧米の知識人が天皇の人間的側面を評価できる契機を提供したもの
と考えられる。恐らく欧米の知識人たちにとって、日本の歴史についてのこのような内容の紹介は脳かされるものが
あったであろう。
的指導者たちによる「徳」の影響力の発揮が政治的権威という側面に大きく関わっていることについても問題提起を
(灯っている。
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8吋沙目⑥」8口39の『。H臣の巴⑪命。『Bag○吋の。『}の⑫⑫旨PD8aロゴ◎の目昏昏の命の口○画ロ囚⑪。{回司の]】四○口・○已思ケ弩q門、乏耳ロ、サケの⑪のPpgH口四口鐘。(ずの局Q-の陣。○陣○口⑪Hpmぐゆ⑩計ロロの回什口己bHomCp(ずの囚蜀の回読pロのめど○口⑫ずい←の。②計げぽのケの‐
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ヨーロッパにおける個々人の精神性の形成過程にはキリスト教が大きな影響を与え、個人における精神活動、かつ
社会における公的構想力への影響を与えたと朝河は判断した。個人と社会の精神性に大きく関わっているキリスト教
は、教会権力を中心として現実の権力体制に必然的に影響を与え、歴史そのものを決める重要な役割を果たしたと考
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なれこあは複いな、はあ成 がなうろ、合るIlil1個成るす らいしにそ体か度人功がる、・たもれでもやにし、最 わここからあし精対な非6 オLうとかがるれilllすい常大 わしやわしこな的るだにき れた多らばとい活もろゆな の性〈ずしIよと勅のうゆ要 間質の、(まあこのと・し素 題の区教多まる深社宗きの は問〉)'1会かりに遠会教問一
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法学志林第一○八巻第二号一一一
朝河が考えていた封建的制度における社会とは、まずは「徳」を有する人々が支配階級を構成していることであっ
た。このような支配階級とは、制度上、主君と従臣の関係によって存在するが、これは一方が他方に服従する関係と
は違って、主君と武士の間には武士の奉仕による一種の双務的契約に基づいた互恵的同盟関係が成立していたものと
考えられる。その結果、自然、かつ連盟的な形態の支配権力が形成され、行政制度の運営と財政の管理、軍事力の使
用などに関しても、必然的に牽制的な関係が成立し、支配権力内での均衡がとれると朝河は判断していた。しかしな
がら、一二世紀から明治維新までの日本における封建時代の間に存在した政治権力は、必ずしもこのような主君と武
士の同盟関係だけによって構成されていたわけではないとの批判がなされる余地もある。ただ、西洋世界においては、
このような世俗的政治権力に対して宗教が権威を意味づける仲介者として、権力としても混在する現象が多く見られ
る。すなわち、西洋では、歴史上存在した様々な政治権力がキリスト教の教会と一体化することによって、相互的共
生・依存関係におかれていたと考えられる。朝河は、西欧ヨーロッパにおける宗教と世俗的権力の相互的共生、かつ
依存関係について、例えば、フランク王国とローマ教会関係の中から合致する現象を発見することができると主張し
ている。朝河の論文を参考にしてみた限りでは、西洋のものよりも長い時間の間をかけて形成されてきた日本におけ
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(礎)一一一一 えた朝河は、このようなョ1ロッパのキリスト教の存在、並びにそれによって生まれた現実の権力体制との比較を通して、封建制度について見つめる必要性があることを強調していたと考えられる。
3.制度としての句の巨呂の日および伝統性の継続について
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…HalfacenturyafteTtheacceptanceofChristianitybytheFrankaBuddhismwasintroducedintoJa-
pan・Thelengthoftimeittakesforareligiontothoroughlytrainaracecollectivelymaywenbe、mea‐
suredeventodaybytheconductofthetroopsoftheChristiancountriesthrownincarnpaignamongthe
so-calledinferiorraces・Thepurelymoralinfluenceofareligionoverapeopleisprobablyslowerthanits
politicalandsocialeffects,buteventhelatterareapttobeexaggeratedbyitspropagandists・Betweenthe
sixthorseventhandthetwelfthorthirteenthcenturytheintervalwassixhundredyears,andyetthein-
stitutionalstudvoffeudalJaDanandfeudalEuroDeofthelatterdatedoesnotseemtoshowthat,either v
asaninstitutionorasaprinciple,ChristianitvorBuddhismhadbeenafundamentalcauseofthegradual p feudalformation、Theimportantplacewhichbothreligionshaveoccupiedinthefeudalhistorycannotof coursebedenied・Institutionally,forinstance,BuddhisminalliancewiththeSogafamilyhastenedtheReform,thelatterinturnconstitutingthenecessarypreludetothefeudaltransformationofsociety、A similarconnectionbetweentheFranksandtheRomanChurchformsabackgroundfortheriseofthe
feudalforcesinWester、Europe,where,stilllater,theChurchseemstohaveexertedagreatinfluenceto-
wardpreservinglongerandmoreeasilythanwouldotherwisehavebeenpossiblethecomparativehierar-
…フランク王国がキリスト教を受容したその半世紀後、仏教が日本に伝来した。
宗教がある人種全体を十二分に教育するのに要する時間の長さは、今日でさえ、キリスト教国の軍隊がいわゆる
劣等とされる人種のなかに軍事行動を展開する行為によって計測が可能だろう。人々に及ぼす宗教の純粋に道徳
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(崖)一五 。p『○局(ずの命の巨已口」。『ぬロロ目、ごoロ・閂曰く口『】○口の【ごロ『の》ロ一m○・吋の]一m一○Emoop⑩】□の局四ごopm]回『ケの声旨ロロ【ごい□『口円oHppp1庁一ap9qのヨヨgの宮m8qo鷺の巳四二⑩日・岳のの南のC庁m・命、OBの。崗尹「豆◎ず目ぐのすの①。命日‐局のPC厩口m・旨○門巴貢(・Pげげの門口のロ什口]⑪】@の。帛命のロ』口一一m門口・‐ゲゲの⑪b】風(○局◎け】ごm』Hぐゆ口。⑪の一路‐⑪、◎画か。③(ずのbの『ゴ〕のロ(》。、のの口のの○命○○口什弓、。(》q ロロロサロのbH②。ご○p」(『口】。一二m一口□。]唇一○m」ロロロの○s、」Copg色。←。。□、のロロの口(Ppop命ケの一一【ゴ群の」一○.口]】ロサの『の⑪註②。{ずけのmの虎口口@分面のワローロコ◎のQ『-,ケ庁⑪ロロロ○ケ己、、ご○ロ⑪)ロロ■○局のの〆佇のロロのQbHob○吋ロ○コ⑩マーゴ〕口]ずPぐの》ゴごP『『】pmQの、円のの⑪ワの①pmmpCは○口のBHppoゴロ]旨のgo司已の回]旨の9門の、bの。ごくのご》ケ冤○ケH』、←拭口詳邑口pQmpqQ三の日.シ]一㎡可の⑩の同】。。円‐(⑪ロー◎○口巴Qの門口は○口、○口ロロ○戸声o勇『のぐの局)noゴロの口]げぽの命口。←(ずロ{【のE9回」厨ロ】げゆ、H】いのロ・□のぐの]○℃のgPpQ飴色]]の口。□す。(ロ○ず凶⑪←厨ロ⑤ローmPgQ厩、命⑩。】」.p曰ロゴ群ロロ]目PのCのpgのロ什一『{『○日○コの四口○一可の門・門口のロ(の。崗(ずの日、の局の口8日冠の]】Bopmpg】ロ」のbのロロのp8白巨のSご》gの可の日のpQopの①南の。筋。{ウ。岳。ず己冨38口回○一ケのの血臼」】。『の門の、ご‐ロ旨ゆずの良計宮の命のロQm-H己一コgo{(ずの回P⑩(ppQo虎←ずのご「の⑪←⑪ケ○急の。⑩PCずぃ司臼ロロ司丙pケ|の○○一コ9□の己○の】ローけのロ〕。門口」、ロロロ悼口←の且四」ず甸回一口一口、詳汀口Q『の。国ぐのg{ず口什什opP]→ロヰの『(西の弓○○口←⑫。←》回巨門○での煙ロロ」ロロロロHご口局ぐの]ゆづ←ずのぎ巨口の〆bのgのs超注○一』の巨口gのHmBpS口、○命のロロゲ○げぽの局・円『岳の】『日南の[のロ8房⑪一m已甸○口ロ(・ロ。」のの⑪門の日ロ吋屍四口の厨(皿)忌日『局の⑪の日ウ一m口8》、ロ」吾の』回耳の旬日ロの(ワの。○缶四一詳竺の○コ臼m8gの⑪日昌]、国ご冒仔の岸ぽい8臥○巴臼のQロー旨の。
法学志林第一○八巻第二号一一ハ
的な影響は、恐らくその政治的、社〈雪的な効果に比べ、より時間がかかるものであるが、その社会的効果でさえ、
伝道者によって誇張されがちである。六~七世紀から十二~十三世紀にかけての時間的隔たりは六○○年に及ん
でおり、封建的日本と封建的ヨーロッパの一二~一三世紀の制度的研究は、制度として乃至は原理としてもキリ
スト教や仏教が漸次的な封建制度の形成の基礎となってきたことは、いまだ提示されているようには思われない
のである。二つの宗教が封建制度の歴史において占めてきた重要な位置というものは、もちろん否定されるはず
がない。例えば、制度上では蘇我氏と同盟関係にあった仏教は大化改新を早めたのであり、回りまわって社会の
封建制への変容に必要な前置きとなっていたのである。フランク王国とローマ教会との同様な関係は、西欧の封
建勢力勃興の背景を形作り、なおも後には教会はすべての点で封建制機構の相対的支配層を可能たらしめてきた
以上に、それがより長くより容易な方向へと向うように大きな影響力を発揮しているように思われるのである。
また、様々な方法で、封建制度の歴史における多くの浪漫的な出来事の背後に宗教的判断が横たわっており、遠
大であり続けるような効果をもたらすのであった。道徳上もまた、封建制度の心的側面、騎士道精神や自己犠牲、
契約の分別の浸透、そして政治的社会的振舞いの実践的訓練は、封土の限られた地域的利益と均衡のとれた権利
と義務に対してより拡大した規模で結果を桾来するのであり、それらはキリスト教や仏教によってそれぞれさま
ざまな偲度で、裁可を受け、理屈づけられ、あるいは理想化されてきているかもしれない。しかしながら、これ
らすべての顛要な考察は、封建制度がキリスト教と仏教の両方の土壌において、同じようにお互い独自に、勃興
し、発展し、没落した事実を極い隠すものではない。宗教上の違いや歴史上の独立性にもかかわらず、両宗教の莫大な効果は容易に過大評価されず、東洋と西洋の封建的精神は、道徳やこれまで受けてきた物質的教育におけ
ここでは、飛鳥時代以来、朝鮮半島の百済から川本に伝来されるに至った仏教が、時代を経て、武士道桁神を雅調
とする主君と武士との間における共生・依存関係に対しても長い時間をかけて影響を与えてきたものと判断すること
ができる。例え、西欧世界との歴史的かつ宗教的な相述が存在しても、両方の社会における封建制度は効率的な社会
統治並びに社会統合体系としてその役割を果たしつつ、それぞれの権力機柵と階層構造をより長く安定させ、社会秩
序の安定に寄与するという見識を見て取ることができるだろう。朝河は、このような政治状況を指して、政治の封建
化(句の且昌困蝕。ご・崗○・ぐの日日の口戸)、或いは封建的政治(句の且口]○・ぐの日日の貝)と表現していたのである。
日本においては、豊臣秀吉による伴天述追放令(一五八七年)に続く、徳川家康のキリスト教禁止令(一六一四
年)以来およそ三世紀に渡ってキリスト教信仰が禁止されていたが、明治維新後六年月の一八七三年になり解禁され
た。長崎や島原など九州地方の一部では、弾圧の後もカソリック信仰は密やかに絶えることなく生き延びたが、明治
の新時代を迎え、新たにプロテスタンテイズムが紹介されると、当時の知識人階厨であった士族のなかからは、英米
の文化や言語を極得することの重要性を察知し、他に先立ってキリスト教を受け入れる朝河のような人物が多く鞭出
した。特に藩閥政治からはほぼ排除されていた士族層では、士族という身分の大義名分の生き残りを掛けたものだっ
たと言えるだろう。内村鑑三や新渡戸稲造など、この時代におけるキリスト教信仰を有する指導者たちもこうした系
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(礎)一七 るこうした注目すべき偶然を示しており、今日、ヨーロッパと日本の接触の後は、予想を裏切って互いを容易に理解することに脳嘆するのである。もしそれらの違いが放大ならば、もちろん注目すべきは類似点であり、それ(肥)は史的にしつけられたものにおける類似性に少なからず負っているに違いないのである。
明治の新時代以降の近代においては非封建制度的要素(園・ロー可の口目一四の日のロ厨)が鹸調され、かつ伝統的身分制
度が解体されたことにより、国家の制度的外観は欧米諸国の望むような形態を持つものとなり、啓蒙的側面からの近
代化を果たし得るものとなった。しかしながら、朝河はそこで、長い歴史的時間をかけて完成してきた社会統治およ
び社会統合体系が将来的には徐々に崩壊の憂き目を見るであろうことを予見したことによって、新たな憂慮を生じさ 法学志林第一○八巻第二号一八
譜と連なるものがあると考えられるが、彼らも朝河同様、幼いころから武士としての教育を受けながら成長した背景を有しており、そんな彼らにとって、キリスト教とは、新時代の武士道を継承し媒介する手段ともなり得たのである。
このように、自由の理念を大きく標傍しながらも、一方では禁欲的態度を求めるキリスト教における生活態度は、
「武士道」の美徳を最高の価値として認識していた彼らの同感を最も得やすいものだったのではないだろうか。すな
わち、正義と真理の為に生命を惜しまざる精神である伝統を内包する「武士道」に依拠しながら、西洋のキリスト教
と接合することによって、時代状況を乗り越えようとしたものだと考えられる。同時に、彼らが西洋の宗教理念であ
るキリスト教を内面化する際には、日本の時代状況を含んだ合理的解釈を行って、それぞれの良心と道徳を確立する
とともに、いわば社会全体における公共善の確立に貢献しようとしたのであろう。
せてしまうのである。
とくに主君と武士の相互的奉仕によって続けられてきた互恵的関係の崩壊がその実質的内容物の破域にまで及んで
4.土着的伝統の重要性の強調lむすび
しまい、その結果として、主君と従臣の関係の唯名性(口・目ロ農の日)だけが残されたことにより、独占的権力の集
中櫛造が新たに生まれたのではないだろうか。彼は、土着的伝統性の迩要性について次のように強調している。
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法学志体節一○八巻節二号二○
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このように、我々のどうやら偶然の問いは、極東の歴史が比較歴史学の研究者にとって価値ある教授ともなる
という興味深い省察へと我々を導いた。もちろん、あることが我々の前に立ちはだかっている。それは、日本で
独自に成長した封述制度が、ヨーロッパが生み川した本性と原理においてひどく緬似しているという要川から、
ヨーロッパの対処主義と時を同じくしたものであることを理解するための何かである。その問趣は大きく、制庇
観から発する問題関心は賞賛を必要としていない、というのもその繭要性は、日本社会と西洋社会の真っ只中で
いまなお作動しており、これからも長きに亘って作動し続けるであろう封建制度の大きな物質的精神的影響によ
って評価を受けることになるだろうから。封建的起源に関する研究は、ヨーロッパで困難であり続けているのと
同様に、日本でも困難であると断言できる。そのように複雑で長期に及ぶ研究にとって、この論文は簡潔な序論
となろう。封建制の起源とは古代日本と小国が四階六四五年に人為的に結託した一部の武力が一緒になってもた
(旧)● ロ○口。ここで彼は、学問世界における既存の歴史学に対する批判的評価を行っており、大化改新を日本と中国との間にお
ける異文化融合後の制度的変化の過程であるという画期的な認識を示した。
日本と中国の間の文化は、条件も種類も異なるものであるが、この両者における文化は、対比的ではなく融合して
きたものと朝河は捉えていたのであろう。それは、大化改新という大変革が実現したことにおける天皇の存在的役割
についての評価であった。この積極的評価を下した朝河は、同時に、日本の伝統的封建制と天皇との関係に関する歴
史認識を欧米の知識人たちに紹介する契機を創った点で、高く評価されなければならないと考えられる。
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(膿)一一一 ……そのうえ、大化改新が影響をこうむった独特の条件から、この研究は研究者を中国の歴史と文明のある重大な特徴に触れされることになるだろう。中国への関心は日本への関心よりも少ないはずがない。しかしながら、ここでの関心は単に歴史的あるいは制度的である以上のものに過ぎない。二つの文化は、程度においても種類においても、お互いにまったく異なるものであり、対照されるばかりでなく、ともに融合され続けているように示されている。たぶん社会科学の研究者にとって、二つの人極あるいは二つの文明が遭遇がもたらした結果以上に興味深い主題はないであろう。日本の制度的変化の歴史は大化改心により引き起こされたものであり、以下の頁では導入、形態、主題としての重要性などが続くが、より重要な問題の一部である。その問題への関心は、社会学的であり、一般的人類の発展という術語において考慮されるものであって構わないだろう。 らしたものであり、そこから予期しえないような、完全に土着の封建制度が育ったのである。
また、彼は、nらの専門分野であった歴史学を通して、世界の巾で日本がとるべき政治的文化的方向性について訴
えると同時に、欧米列強が帝国主義のもとに植民地を拡大していくなかで、道徳的意義を大前提としながら、歴史認
識を踏まえた国家のあり方に側する持論を展開させた。自らの信念のもと、祖国(シ四・日の一目eを械極的に擁識し
てきた彼は、日露戦争に勝利した後から祖国日本(白眉:儲昏のロ且ぐの』口且)が見せた欧米列強と変わらない剥き
出しの野心に対して、彼は狼狐しながらも祖国にさまざまな働きかけを試みたのであった。第二次大戦後には、人類と世界への普遍性に反する行為と祖国を批判せざるを得なかった朝河の判断は、歴史学研究を通した合理的社会統合 法学志休鞆一○八巻鞆二号一一一一
ここでは、博論執筆後に譜かれた序エ×を中心に封建制度をめぐる伝統と文化に対する朝何の問題意識について探っ
てみた。彼は、日本を離れて活動しつつも、真の愛国と正義について実証的な歴史学における検証を通して訴求を行
っていたのである。彼は、単に封建制の歴史的事実を詳述したにとどまらず、新たな見解を導出したものの、こうし
た合理的理念を提示できないことに悩んだであろう。この背景のなかには、祖国における士族層出身として彼の使命
感に加え、キリスト教信仰に基づく宗教的信念や在外日本人としての国家意識との相克があったものと考えられる。
生まれながら明治維新による文化的変化の大きな波を体験した朝河は、現実に杭するように文化的一貰性こそが繭要
であるという立場をもっていた。彼が信念としていたのは、人間として有することのできる本質的普遍性であり、そ
れは盲目的確信ではなく、理想的伝統の保持であると考えられる。彼の初期論文で論じられてきた封建制度に対する
判断も、単純に否定的印象を前提としたものではなく、むしろ、欧米に比べても進んだ歴史的要素を持ち、かつ道徳
規範を身につけた武士と庶民が互恵的に生活を共にしてきたという日本の封建制のあるべき姿を投影させたものであ
ろう。
の方向性の確保、そして究極的には、祖国日本と人類全体の新たな普遍性(○の口の司巴)ご)の確保と進歩といった理想
の実現(丘8-mの島8口。ご)への表明ではなかっただろうか。
(Ⅱ)添いロ.】o巨鈩⑪P片仏君色腰曰すの回日』く旨⑪昌巨屋○四巳匠[の。〔」い□P目②⑫EP巨甘目の『の[。『日C[の虚シ・口創・言畷&Ppp-この『鰹逗勺司の⑭②・勺ユゴ扇旦口硫曰○汽瑁○・のゴロの}ぬゴP巳C②・ロ・』’二
戦中戦後知識人の担った使命と役割(七)(礎)一一一一一 (、)日本語訳l著者(座) (9)沢Pロ.】◎巨診⑭、〆鹿乏騨§『冒回Pユ臣旨睡二E二○口巳巨[◎。〔」PbPRPいES、冒一冨胃〔○旬日。[の念シ・□・‐・雪隠の口Pロ日ぐの劇】【く勺同の⑭⑰.R 勺ユヨ【の」色庁弓○六弾○包めず乞わ}鞭づゅ・岸しついごつ・』 (8)Ⅲ本譜訳1粁背(鵬) (7)【:.一○三シ段片口舅「画Gヨゴの面、ユ電『ゴ鷺一目缶一○コ四一巨崗の◎亀」:山。”の⑩目」望ヨ芽の『の{。。二○命の台ン・p3》三画いのgロヨぐの『②一コで『のいい》q 勺臥ロ[のQゆげ曰。【臣○・mロ仁の』鞍声伐・』のC②。□・mIの (6)日本語訳I著者(膿) (3)宍口昌○巨シ⑪の百二愚底弓ケの回閂一望目日蝕ご毬。□巴巨{の○局」②ロP目の②目。]ごSの忌帛。『日○崗震⑰シ・口..》三口いの8ロローこの門⑩】弓や『のめめ・勺ユロ【の□⑪一日○戸境pのケ戸の】吐汀陣・$&(4)尻⑫ロげぽシいゆ汽働電・釣膜の○日の。〔【ケの○○口戸臥ワ巨回○国⑪。〔可の巨旦巴昌②□いp8Sのzの夢「』呂騨口遡・曰ケの』○戸目区。肉河口、の□のぐの一『○℃臼の貝(』の弓○”)・ぐ○一・四Z。』・」P一望・巳届・ロロ②-②(5)【:.》S】シ切鳥:画,弓すの回閏一望巨鷺】目(】8巳巨(の。【」各自β⑩目身旨呂の『の〔。『日・命の盆シ・ロ・瓜・乏四切巴口ご已この『い】ご勺『のいい・やユロ行の@口〔弓。【望○・のゲPBいぼP』やC②。□。⑪ (1)清水美和三罵る日本」と闘った男」、東京、講談社、二○○五年九月、四○~四十五頁参照(2)朝河質一瞥耐編集委員会編『幻の米国大統領親書l歴史家朝河画一の人物と思想」、東京、北樹出版、一九八九年六月、百二十七1両二十八頁(釧河凹一年表)参照淌水蕃和『「駒るⅢ水」と戦った列lⅢ館鯛和条約の騨台典と朝河仙一」、東京、漸談社、二○○五年九Ⅱ、二面六十肛矼(水榔に関係する朝河貫一年表)参照
矢吹晋「朝河貫一とその時代」、東京、花伝社、二○○七年十二月 山内晴子『朝河二○一○年三月 朝河貫一書簡編集委員会編「幻の米国大統領親書l歴史家朝河貰一の人物と思想l」、東京、北樹出版、’九八九年六月阿部善雄『最後の日本人I朝河質一の生涯I』、東京、岩波書店、一九八三年九月清水美和『「馬る日本」と闘った男』、東京、講談社、二○○五年九月山内晴子『朝河貫一論lその学問形成と実践l』、東京、早稲田大学出版部、 その他の参考文献朝河貫一『日本の禍機」、一塁邪、講談社、一九八七年四月債S②ロロ四回。の。。】の缶望ヨンョのaのご画一』②つゆゴママケ留日壷の○.ヨ『且鳶のの由。『(ずの勺巨ケ一一.自○己。『O『・【・少⑩②丙曾ご色三『。『【のご8○つの『周一○国弓詳可司可の○・■ロ。】]○口固閉ずし巴目、目&$哺巴のロ日ご閏巴Q・勺:廉げの□白眉目、Csのご[○局唇の勺尉・CBCごCpC[のs図。P曰。ご◎.」眉目]や$尻騨口胃巨鈩⑪P戸P二「P倉曰宮のCCCP日の口←⑰。[岸民』・・・つずく曰茸の○.日日宮←の①[。、Scや戸巨行go回。届□吋・尻・少切凹穴曾三口三○門戸、旨8○℃の『mpoロゴ】忌日汀の○○色ゴ9一○弓固閉(シ切莅ゴの盲○一のの》『口一のロヨぐの『②一蔓》勺巨ワニめずのユ白色つゆゴの○○一のご{。『号の勺『。go武。ご○閂、。】の口○の包弓。汚]P』pbp回 法学志林第一○列
(胆)日本語訳I著者(崖)(過)歸日』ざ巨衿切巴田葛回虞四)観口唇胃巨シ⑩P片⑫葛回及曰ロの回陣ユ忌閂ロ⑪ご冒働○回巳巨【の。[』Pb⑪目色⑫冨口冤旨冒の『の[◎局日。[の一切少.。.》.》三四mのgPc巳ご周⑫】ご而忌、⑪一℃ユロ筋ユ輿弓○六『。》のゴロの一の可四》】やg一つ己・ニー①
」①⑪、 第一○八巻第二号
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