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昭和大恐慌と青年会自主化運動

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昭和大恐慌と青年会自主化運動

一下伊那郡竜丘村,千代村を中心に一

大 串 隆 吉

 目次  はじめに

1.下伊那郡青年会の解散と再建  (1)農民自治会運動の発生

 (2)保守派の拾頭とその青年会自主化論  (3)下伊那郡青年会と桐生悠々

2. 下伊那郡青年会の恐慌対策と階級青年団論  (1)社会運動への進出

 (2)階級青年団論の登場

3. 農本主義,社会主i義,ファショ思想の相剋  (1)竜丘青年会の場合一主流としての農本主義  (2)千代青年会の運動一階級青年団論の実践と克服  まとめ一青年会自主化運動の残したもの

はじめに

 この小稿は,拙稿「大正自由教育と青年会自主化運動」(r教育』1980年7,

8,9月号,以下先稿と略す)の続編にあたるものである。昭和大恐慌期におけ る下伊那の青年会自主化運動の研究には,次の4点がある。①吉田昇「戦前に おける青年団の自主性をめぐる論争一長野県下伊那郡を中心として一」(rお茶 の水女子大学人文科学紀要』第8巻,1956年)②r下伊那青年運動史』国土

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社1960年③小川利夫「青年運動の挫折と青年の動向」(国立教育研究所編r日 本近代教育百年史第8巻,社会教育(2)』1974年)④平山和彦r青年集団史研究 序説下巻』新泉社 1978年

 ①は最も早い研究であるが,昭和大恐慌期については長野県連合青年団を主 なる対象としている。そこにみられる評価は,吉田が執筆当時提起した共同学 習論の視点からおこなわれていた。初期の研究であった為,事実関係について も今では訂正する必要があるのがみられる。②は包括的かつ端念な実証がおこ なわれており,①と共に(いやそれ以上に)その後の研究の基礎となったもの である。私の研究もこれに負うところが大きい。しかし,完成当時,菊池th−一 が指摘していたように,昭和大恐慌期から準戦時体制下へ移行する時の自主化 青年団の特質が明確にされていない。この理由について,郡青年会の様々な思 想潮流の発掘と構造化が不充分であることを,他の論稿で指摘しておいた(1)。

④についても同様なことが言える。新らしい資料を使用しているものの,大恐 慌期にあらわれた階級青年団論の分析は,r下伊那青年運動史』による指摘を

出ていない。また,自主化青年団運動の民主主義認識は民本主義的であったと いう指摘もみられるが,もしそうだとすると階級青年団論とこの指摘はいかな る関係を有するのであろうか。階級青年団論の分析なくして昭和大恐慌期の青 年会自主化運動の性格を決定することはできないし,したがって又,大正期の 自主化運動とこの時期のそれとの関連を解きあかすことはできない。③は,恐 慌下の中で青年の政治的自覚が高まったこと及び青年の関心が農業経営に集中

し産業組合青年部に参加していったこと,満州事変を契機として自主化運動が 終えんしたことを指摘している。この指摘は正しいし,同様の指摘がこの小稿 でもされるであろうが,これら三者の関係が明確でないこと,青年の政治的自 覚の高まりとファシズムとの関係が明確でないという難点がある。

 この小稿では,昭和大恐慌期に鮮明にあらわれた思想的潮流が,1928年まで の自主化運動一大正期自主化運動にすでに萌芽があらわれていたことをあきら かにすると共に,戦時体制をうけいれた青年及びそれに抵抗した動きについて あきらかにしていきたい。その点で,注目すべき先行研究は,下伊那を対象に はしてないが,鹿野政直r大正デモクラシーの底流』(NHKブックス,1973

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年)であろう。鹿野は,大正デモクラシ・一が昭和大恐慌期にすみやかに凋落し たのは何故かと問い,その内的要因をあきらかにすることを課題とし,その対 象のひとつとして長野県の上田・小県地方の青年団活動をとりあげている。

 ここでの鹿野の結論は次のようなものであった。大恐慌期に顕著となった状 況への 造反 は反議会主義,階級的自覚,農本的反都会主義に整理され,そ れらは,大正デモクラシーの達成の継承ではなく,それへの不信を基調としつ つ,1919年に方向づけられた2つの 改造 の路線の延長線上に,しだいにふ かまりゆくニヒリズムをもってボルテージをあげていき,そして,外在的要素 への不信の念が自力更生への道へ向っていったとする。鹿野は,大正デモクラ

シーから日本ファシズムへの移行の運動を論理一貫性をもって把握しようとし ている。しかし,下伊那青年団運動に限って言えぽ,大正デモクラシー下の象 徴的な言葉は自主であり,政治・思想・表現の自由,教育の自由と権利の主張 であり,普選の要求であった。たしかに,鹿野の指摘する如く,自主への不信 が恐慌期にみられるのであるが,同時に自主,自由への希求にもどらねぽなら なかったのも事実である。したがって,この時期は,自主への不信から出発す る階級青年団論やファシズムへの志向と大正デモクラシー期青年団運動の象徴 である自主,自由への回帰ともえがかれるのではなかろうか。

1. 下伊那郡青年会の解散と再建

 (1)農民自治会運動の発生

 1928年という年を普選を要求していた青年は,期待をもってむかえた。この 年2月に初の国政の普通選挙が予定されていたからである。この年1月から2

月にかけて『信濃毎日新聞』(以下,r信毎』と略す)は青年の投稿による「我 等の論壇・農村青年は何を為すべきか」を特集した。これには下伊那から,羽 生三七,中田美穂,本多実太郎(当時,郡青年会委員長),鷲見京一,北原保 喜の投稿が掲載された。r夕樺』でたもとをわかった羽生と中田は,はからず

も『信毎』紙上で顔をあわせることになった。この5人の投稿(特に,羽生,

中田,本多,鷲見)は,当時の下伊那の青年の動向をみる上で興味深いものが ある。鷲見は全日本無産青年同盟の方針を紹介し,本多は郡青年会自主化運動

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の精神に立って青年の課題を論じ,中田は農民自治会の主張をおこなった。

(農民自治会,正式名称一全国農民自治会連合は,下中彌三郎,石川三四郎,

渋谷定輔,大西伍一一等によって1925年12月に結成されたもので,農業を土台と し農民による自治を確立することをめざした。反権力的,反都会的かつアナー キズム的傾向を持った農民運動だった。)

 本多は,こう論じた。「全的個我の社会的実現」という主張があるが,その 主張はあらゆる個人がそれを可能とする機会と条件のある社会以外では無意味 であるから,青年は社会的諸条件を問題にしなけれぽならない。青年のおかれ ている社会的条件の特徴は,「人間的自由権利及び資格従って生活を持って居 ない」ところにある。したがって,「教養の自由権」,18歳以上の「参政権」,

言論・集会・出版等の政治的自由を獲得することを必須として,農村青年の経 済的地位,知識上の地位,生理的地位,文明生活上の地位の改善を任務とする ことを主張し,これらは「社会民衆の地位改善と一致する」と述べる。その為 に必要な事として,第1に「科学的教養を深める事によって自己の立場及び社 会的情勢を明確に認識する事」,「連帯的社会的進化」の活動をする事一すなわ ち地位の改善に努力する事(こうすることによって,「人間的向上発展はなし とげられる」と述べている。)。第2に「真に次代社会の建設者民衆の先駆たる の信念と責任感とに依り対内外の教化に努力する」事,第3に,「勤勉である

事,技術的改善に努力する」事をあげた(2)。

 この本多の論は,自由青年連盟の流れをくむ青年会自主化運動(以下,これ を左派と呼ぶことにする)の到達した精神と経験を集約したおもむきがある。

すなわち,諸権利の獲i得,科学的教養の強調とその為の教育機関(自主的青年 会,夜学会・図書館,文庫の経営)の確立,及び社会的課題の解決の為の実践 の強調の点にそれがみられる。そして,科学的教養と社会的実践をおこなうこ とによって「人間的向上発展」ができるという点に(この点は,先稿で述べた ように,郡青年会が「教養」と言ったことと同じである。)。これらに,農村の 衛生の改善,農米技術の獲得が加えられており,科学的教養のみを強調した郡 青の弱点を克服しようとしていた。

 羽生は,次のように論じた。「窮乏,隷属を打開する」事が農村青年の任務

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       19 であり,それは「今同の社会の厳密な正確な認識に基づかなけれぽならぬ」と

した上で,農村と都市とを対立させる意見を批判した。すなわち,「「農村の窮 乏」,「農村の振興」について論ずる時,多くの人は,この農村と都市と切り離

し,若しくはこれを都市と対立せしめて論ずる。だがかかる考えは明白に誤り である。今日の資本主義社会組織の必然として都市と農村とは個別に存在する ことは不可能であり,それは不可分的連携裡に結合されている。」と(3),これ は,当時長野の東信地方を中心に拾頭していた農民自治会批判であり,申田美 穂批判となった。r夕樺』の同人であった羽生と中田は,先稿で述べたように 羽生が自由青年連盟を結成すると共にたもとをわかち,青年会自主化運動の二 潮流に各々身をおくことになったのだが,この『信毎』紙上ではマルクス主義

と農民自治会の対立となってあらわれたのである。

 中田は,信南自由大学を設立した平沢桂二,横田憲治と共に1925年12月農村 研究会を設立したのであるが,その後,石川三四郎,吉江喬松,大西伍一とい

う農民自治会系の思想家の本を読み,1927年8月農民自治会長野県連合が結成 されると南信連合の事務所を自宅においた。彼は,農民自治会全国連合の機関 誌r農民自治』4号(1926年8月号)に次のように農民自治会への共感を寄せ

た。

  農民自治会の内容が梢々判りました。総てが私の共鳴する処です。私も数  年前から故山に帰り一自作農として農村文化の発達に微力を尽して居ます。

 私達は現在南信文化協会,農進社という二つの団体を作り堅実なる歩みを続  けています。微力なこの私達の仕事を御引立下さらば幸甚です。

 なぜ,農民自治会に共鳴したのであろうか。彼の主張をあげてみよう。

1. 機械文明が人間社会を分業化し,都会を発達させ,文明や文芸が都会に集 中され都会は享楽地となり,虐待されている所が農村である。

2.土をたましいとした農民の生活,其の土の生活を具現したる文芸こそ本質 的である。「私共の精神は本能的に其の「土」への愛着を感じる」

3. 国家の大部分は農村である。文学は国家と国民の表現でなくてはならぬか ら,我国で文学の代表的表現は農民文学である。

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4. 農村は病弊,窮乏しており,憎悪,倦怠,苦労だけがあるが,宗教的法悦 感及至は芸術的創造意識に生きる時,百姓が楽しく農村は平和である,芸術的 創造性とは詩や歌を作るだけでなく一株の麦を作るのもそうであり,絶対の愛 と喜悦と感謝とを以って土を入れ肥をあたえるのである。(以上「農土と耕人 の文芸」『南信新聞』1926年11月18,19日)

5・ 農村青年の自治的団結一官憲に圧迫されず,中央の主義者に利用されずあ くまで自治的に生粋の土百姓の若者の結合,具体的には既成農業団体(産業組 合,農会等)の統一改廃,生産物増収と其利益増進,農村の金は農村へ,生産 をする消費組合の確立

6.社会改造の根本は人そのものになくてはならない。その為人格の完成,勤 労,冗費なき一家経済,生活の趣味化がはかられねばならない。(以上「自治 的に」r信濃毎日新聞』1928年1月31日,2月1日)

 この主張のうち,1,2,5は農民自治会に共通した特徴をあらわしている が,それは先稿でのべた中田が個の確立一農村脱出の指向とその挫折から農民 への道を選択した延長線上にあった。r南信新聞』掲載の論文で,都会の発生 が「高貴なる芸術的生活を享楽しつつある芸術家なるものの存在」を生みだし たことを批判し,「都会の文壇の存在を否定し,職業文芸製作人を排し」と述 べ,これに対し「真の農民文芸」を対置するのであるが,この批判の対象とし て, 「凡夫衆生」の道を歩むことから決別した大田水穂という潮音派の指導者 を意識していたことはまちがいない。また,同論文で「農村の実情は憎悪と倦 怠と苦労だけである。名誉や功利に焦燥する時その苦しみは一層増すであろ

う。」と書いているが,これは早稲田中学講議録を勉強し,新聞記者が歌人にな ろうとし,常に農村にいる悲哀を日記に書いていた若い時の彼の姿であった。

 彼の論調には,吉江喬松r近代文明と芸術』(1924年,改造社),大西伍一 r土の教育』(1926年)や石川三四郎に影響を受けたことがあらわれている。

これらを読むことによって,農民として生きる道の正当性を考えていたと考え られる。すなわち彼の文芸志向,人格主義農民生活の3点は,吉江の農民文 芸の高唱や,石川の土の生活は土の芸術に参与することであり,自分自身を耕 すことである(4)という主張に出会うことによって,農民生活を中心として統合

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する考えを得たのである。しかし,同時に木下紫水を中心としておこなわれた 仏教を中心においた自由教育の影響もみてとれる。すなわち「人格の完成」

「愛の生活」「宗教的法悦及至は芸術的創造意識に生きる」等の主張にみられ るように。そして,『信毎』に載せた論文の最後で,「農村生活は悲苦そのもの である」が,「然しその間に処して優游乎とした心の静けさと喜びを知る美し

さとを持つことのできる生活こそ望ましいものである。」と述べているが,こ のような心の状態の育成こそ木下紫水がめざしたものであった。

 以上のような中田の主張は,本多・羽生の主張と対立するものであった。そ の対立は,第1に自由青年連盟設立時の羽生と中田の対立(社会主義と人格主 i義一精神主i義の対立)の再燃であった。すなわち,中田の「人格の完成」や

「全的表現」が土の生活でこそできるという考えは,本多の批判した「全的個 我の社会的実現」を意味したからである。第2に,社会主義的潮流と農民自治 会との対立であった。これは,農本主義的発想に対する羽生の批判にあらわれ

ている。

 この『信毎』の特集は,激越な議論が社会主義的潮流と農民自治会の青年と の間でおこなわれたのが特徴である。農民自治会系の主張は,長野に農民自治 会の種をまいた瀬川知良「かくて朗かに夜は明けん」,関川晃「隷属を繰返す 勿れ一瀬川君に対する批判の誤膠」等であり,マルクス主義的潮流の主張は,

長野県の労働農民党の中心人物若林忠一(青木生)の「かくて朗かに夜は明け ん批判」や松尾環「重農論を駁撃す一瀬川君に与え関川君に寄す」原田今朝二  「蹟気楼を描いた土のマゾヒストー瀬川君の空想論の誤膠」等であった。論者

の題名をとってみても論議が激烈だったことがわかる。したがって,羽生,本 多と中田との対立は,長野県下におけるマルクス主義的潮流と農民自治会との 論争の下伊那版であったといえる。

 しかし,中田の主張は,同じ農民自治会と言っても瀬川や関川と若干異なっ ていた。それは,農村において地主と小作の対立を認めるかどうか,理想社会 をどうイメージするかの点にあった。例えぽ関川は,小作人は地主の搾取に依 り経済窮乏のドン底に陥っていることを認める。しかし,地主が小作人から搾 取した金を農村に投ぜず都会に投じているように都会が全農村を搾取してい

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る。したがって農民自治が必要であり,地主と小作の関係は土地問題を解決す ることによって「無支配無搾取の新社会建設」をおこなわなければならないと する。これに対し,中田は,農村の搾取関係に目をむけず,精神主義的,人格 主義的に農民が宗教的な心境に到達することによる理想社会のイメージを作っ ていた。すなわち「宗教的法悦感乃至は芸術的創造的意識に生きる時は,百姓 がたのしく,農村は平和である。」(r南信新聞』前掲)「社会の改革の根本は人 そのものになくてはならぬ。住みよき社会は結局心良き人々の集合に他なら

ぬ。」(『信濃毎日新聞』前掲)

 この両者のちがいは,農民自治会の行末を暗示するものであった。関川の主 張は,農民の金を吸いあげる資本家を農村から排除する運動を予定していた。

その具体化は,1927年から29年にかけて戦われた佐久電気消費組合運動であっ た。しかし・この戦いは電気資本の牙城にせまることができず敗退し,指導者 竹内囲衛にみられるように活動家は,アナーキズム的運動に限界を感じ,急速 にマルクス主義に接近した(5)。そして,東信地方の農民自治会員の多くは,全 国農民組合さらにその全国会議派の活動へと移っていった。これに対し,中田 は,農民組合運動に参加することがなかった。農民自治会の運動は,1928年の 三・一五事件にみられる支配階級の攻勢と,全国の農民組織のなかに強まった 統一への要望の中で,2つにわかれていった。1つは他の農民団体と積極的な 統一戦線を組み,農自思想と運動を自己批判し,新しいコンミュニズムへ前進 すべしという革新派であり,1つは旧来の農民自治主義を守る(アナーキズ

ム,アナルコ・サンジカリズム,重農主義,農本主義,などの要素を混滑す る)保守派であった(6)。中田は,後者の流れに属し,東信の活動家は前者に属

したと言えよう。

 1928年三・一五事件の直前におこなわれたマルクス主義的潮流と農民自治会 との対立・後者の分化について叙述してきた。これを叙述してきたのは,昭和 大恐慌期に姿を変えてあらわれるからである。下伊那にかぎってみても,中田

の主張の中にあった農本主義的発想は,昭和大恐慌期に不況打開の思想として 竜丘青年会の主流となり,社会主義的青年との対立があらわれてくるのであ

る。

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      23  ② 保守派の拍頭とその青年会自主化論

 1928年3月15日にいわゆる三・一五事件がおこり,郡青委員長本多実太郎を はじめとして,羽生三七,北原亀二,浜島惣一,宮島義治,鷲見京一等郡青 のOB,活動家が検束された。その為,郡青は動揺し,又町村青年会から郡青 統一の要求が高まった為,5月13日郡青・郡連青・未加盟村による統一郡青の 第1回代議員会が開かれた。しかし,この席上,旧郡連青の吉沢愛助が旧郡青 の鷲見京一,城下良直の除名決議を提出した為,混乱におち入り,郡青は解散

してしまった。翌1929年5月4日に郡青が再建されるまで,東部,北部,中部 等ブロック別に活動がおこなわれた。

 郡青再建時の委員長は座光寺久雄,委員は高野信衛,竹村茂,宮沢悦蔵,内 田博史,寺沢勲,市村保人,佐々木孝彦であった。r上郷青年会史』(1933年)

が「執行委員は保守的の人々だった」(145ページ)と指摘しているように,保 守派が多数を占め,座光寺久雄,市村保人は軍人会,壮年将校を中心とし,新

日本主義を標榜して結成された猶興社(12月10日結成)に参加した。このよう に,郡青は保守派のヘゲモニーの下に再建された。これを可能にしたのは,4 月16日のいわゆる四・一六事件で鷲見ら左派青年が逮捕,起訴され左派の活動 が弱まったからである。

 郡青の綱領は,r下伊那青年運動史』(国土社)も指摘しているように(同 書,102ページ)左右折衷的なもので,多様な解釈を可能にしていた。保守性 の明確なあらわれは声明書と『会報』1号(1929年11月)にみられる。

 声明書は,9月に県当局から出された数化総動員に関する通牒に対して出さ れた。この声明書は,思想悪化の原因を除去することで「思想を善導し民心を 作興せしめることが出来る」と述べた。ここには思想善導そのものを批判した

旧郡青より後退し,県当局との思想善導の方法上のちがいを声明したものとな

っている。

 綱領にみられる青年団の規定は,「教養団体たる、任務の発揚と社会的存在の 意義の徹底に努力すること」にあった。しかし,この教養団体についての理解 は,旧郡青のそれと異なったものとして受けとられていた。「会報1号」に載

った会員の意見のうち,旧郡青の考えを受けついだのは,「青年の教養とは何

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か」を書いた生田村の緑峡村だけだった。彼は,教養の為には,言論,出版,

結社の自由が必要だと主張し,未成年とはいえ実社会で働いている以上,その 苦悩を生みだす社会の矛盾,欠陥をなくす為に政治運動,社会運動に参加する のは当然であり,「実際行動に迄進出せんとする青年団はそれに依りて現実を 暴露し,科学的な真の教養を得られる」と述べた。ここには,科学と実践を結 びつける旧郡青の教養観をみてとれる。

 しかし,その他は旧郡連青の立場にあった。「青年の教養とは何か」を書い た山吹村片桐幸雄は,旧郡青は「能動主義」のゆえに「自己を没却して了っ た」と批判して「精神的教養」にかえることを主張した。また「綜合団体たる 青年団は如何にして能動的団体をなすか」を書いた伊賀良村の椎名国夫は,町 村青年団は「将来各町村自治を双扁に負はるべき訓練」をする所であり,「社 会公民教養機関として完全に確立」することを主張した。「青年会は如何にあ るべきか」と長文の論文を書いた久保田賢二は,「青年会とは自治団体を単位 としたるその地域内に住する青年層によって組織したる団体にして,その団体 員がこれによって次代の公民としての資格を習得せしむることを以って目的と する」すなわち,「社会に対する務・・…を認識することがわれわれの生活の初 めであり,凡てであり,又最後である」のである。そして「一村を愛する人は 県を県を愛する人は国家を愛さねぽならない」と主張した。

 以上にみられる三者の主張は,青年団の「教養」は公民養成の為であり社会 的運動をおこなわない精神的修養に力点がおかれた点で,旧郡連青や田沢義舗 の青年団論と同じであった。こうした主張にささえられて座光寺は委員長とな った。かくして郡青は,旧郡,連青一自主化青年会の保守派一と新日本主義に あらわれたファショ的思想のイニシアによって結成された。しかし,彼等とて 自主化を否定したものではなかった。彼等の自主化はいかなる自主化であった

のか。

 座光寺久雄は次のように定義した。「①自主とは排他を意味するのではなく,

他の者に自己そのものを侵されないということであります。自己が他の者の目 的の為に使用されないことを許さないということであって,いい換えれば青年 会は青年会としての確固たる存在の意義を決して他の者の目的の為に冒漬され

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ないということであります。②青年会がこの自主的精神を重大視する所以は,

この精神が社会進化の根本的力となるものであることを信ずるからでありま

す(7)。」

 この①の部分は,旧郡青が1924年に発表した「反動思想の拾頭に鑑み下伊那 郡青年会の立場を宣明す」にある「青年会の中に他の何入の介在を許さざるも の」,あるいは「青年会員が……青年以外のものの介在する機関によって統制

され或は指導さるることを拒否しなくてはならぬ」と文章の上では類似してい る。しかしながら,旧郡青が官僚軍閥からの自主化を強調したのに対し,保守 派にはこの考えはない。なぜか。座光寺は次のように書いていた。「吾々は吾 々の村を愛すると同時に郡県国を愛する,これは理窟なしの事実であると思

う。これを理窟的に考察するも,自己を愛すればやがてその思いは有機的関係 を有するより広範なる周囲に対して迄及ぼされなくてはならぬ。」(座光寺前掲

論文)

 すなわち,自己は国家に有機的に関係づけられているから,国家との関係に おいては,「他の者の目的の為に使用される」ことにはならないことを意味す

る。座光寺の言う自主は,自己について言えぽ自己の確立という意味である が,自己の確立は国家と根本的な矛盾を持たないととらえられていることにな

る。根本的な矛盾がないだけでなく,自己の確立は国家を通じて生きると想定 されていたとも考えられる(8)。これが,官僚軍閥に対抗することを明記しない 理由であったと考えられる。

 自主化を考える上で,もうひとつの重要な点は,先の引用文の②の部分であ る。そこで,座光寺は,社会進化の原動力である青年にとって青年会の自主化 が必要だといっている。では,なぜ青年が社会進化の原動力ととらえられたの

であろうか。

 旧郡青も1926年3月に発表した「声明書」で青年は「社会進化の先駆者であ り原動力であり,能動的要素」と規定していた。その根拠は,青年世代論に基づ く歴史認識と,そこから判断された大人とは異なった「青年が持つ自然的純真 と正義的情熱と創造的進展欲」(傍点一引用者)にあった。同時に民衆青年と いう自己規定も持っており,青年会自主化運動は民衆的価値を持っていると考

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えられていた。郡青の青年規定では,旧郡青の民衆青年という規定と青年世代 論的規定が姿を消した。残ったのが青年の純真性一「純真なる青年自身の立場」

であった。この点を座光寺は次のように述べた。「青年は誇り得る3つの特質 を備えている。純真であること,常に新しくあること,及び積極的であるとい

うことであります。」(前掲論文)。すなわちこの点に「社会進化の原動力」を 求めたのである。

 この青年の純真性に社会進化の原動力を求める考え方は,次のことを意味す る。それは,大人が純真でないことを意味し,純真でない大人からその純真性 を守る為に青年会の自主化がなければならないことになる。同時に,青年が大 人になった時には純真でなくなるのを意味し,青年が人生における価値を発見 し,それを大人になっても生かしていくことは意味しないことになる。要する に自主とは青年会だけのことであって,成人の組織にあてはまるものではなか ったのであり,自主は民衆的な価値として考えられたものではなかった。

 しかしながら,青年の純真性を強調することは,現実の社会が必らずしも青 年にとって納得のいくものではないという批判意識がこめられている。この青 年の批判意識は恐慌の激化にともないとぎすまされていき,1930年になると旧 郡青の流れが復活してくるのであるが,座光寺のように天皇制国家に自己の確 立を統合しようとする場合,批判意識がファショ運動への参加となってあらわ れてくるのである。座光寺は愛国勤労党(略称・愛勤党)南信支部の書記長と なるが,この愛勤党の綱領,政策は,皇室中心主義,天皇の産業大権の確立を 掲げながら,信用組合の民衆化,高率累進課税の賦課,教育文化施設の都市集 中主義の打破,選挙被選挙資格の婦人への適用及び資格年齢の低下を掲げてい

たのである。

 (3)下伊那郡青年会と桐生悠々

 『信濃毎日新聞』主筆桐生悠々は,郡青が再建される直前1929年2月から3 月にかけて,下伊那郡の青年会を講演にまわった。この年来郡した講師は五来 欣造,北吟吉,中谷武世,山崎延吉,千葉亀雄等である。五来,北,中谷は,

国粋主義者であって,彼等が呼ぼれた意図は郡青の保守化を計るものであっ た。桐生悠々がいかなる経過で呼ばれたかははっきりしない。

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       27  桐生悠々は,r信毎』の主筆として長野県の言論をリードする立場にあり,

自由主義者であった。自由主義者桐生は,青年会の自主化運動について,それ を徹底させるなら財政面も県行政から独立させるべきことを主張した。このよ うな桐生悠々が,いかなる態度で講演会にのぞんだかは興味のあるところであ る。それは,第1に桐生が県の世論をどのようにリードしようとしたかの点 で。第2に,自由主義者が郡青の自主化運動をどのようにとらえていたかの点 で,第3に,青年会員が桐生をどううけとめたかの点で。

 桐生が講演した青年会は,松尾,上飯田,上郷,鼎,伊賀良,喬木,千代の 各村青年会だった。鼎青年会にのぞんだ時のことを次のように書いている。

「同村は喬木村と相並んで青年の思想が赤化していると聞いていたので,私は 同村に於て,予ねて本紙上に紹介したヘソリー・デマン氏の反マルクスシズム を講演したのであった(9)。」ヘソリー・デマソとは,ベルギーの社会心理学者 で,悠々はヘソリー・デマソ『社会主義心理学』の一部「教理編」を翻訳した

『マルクシズムの幻減』を1929年1月信毎出版部より発刊した。この本は,文 部省学生課から「至極学生の思想運動対策の参考資料として適当のもの」と評 価された(1°)。桐生は,このヘソリー・デマソの論を下敷にして信毎の評論で 度々反マルクス主義のゆえんを説いた。

 彼の言うところは,次のようなことであった。マルクス主義は,「合理論的,

決定論的,快楽論的の基礎を持っている(11)」。それは「意志」に従わないで

「器械」に従う一種の因果決定論であり,「心理的科学の領分」を論じていな い(12)。そして,「剰余価値論ほど純粋経済的範疇を以って社会の現実を捉らえ んとするが如き無益なる事を敢てしているものはない」と断定する(13)。それで は,マルクス主義の有効性はどこにあるのか。「マルキストの弁証法的思想の 単純なる両極性(資本主義対社会主義という両極性一引用者)は,その科学的 真理なるの故をもってではなくて或大衆感情就中自己評価の本能から発生する 感情を表現するの力ある故をもってその有効性を語るのである(14)。」桐生によ れぽ「自己評価の本能」とは「獲得本能」であり,それは劣弱性があるので優 勝者たらんとする劣弱性変態・優勝性変態という心理を基礎においている(15)。

しかし,このような人間の心理にのみ有効性があるとすれば,何もマルクス主

(14)

義を研究する必要はなく,心理学を研究すれぽよいと言う(16)。

 彼が鼎青年会で講演したのは,ほぼ以上のような論だったようである。この 時,鷲見京一が質問と反論をおこなった。桐生によれぽ(17)鷲見は,「ローザ・

ルクセンブルグがどうの,私がマルクスの弁証法を心得ているならばどうの と,相変らず,彼の負けじ魂を発揮して」反論した。鷲見が桐生の弁証法的理 解を問うたのは,鷲見自身の理解がどうであったかは別にして適確であった。

彼はさらに次の質問をおこなった。「警察当局の圧迫を先生はどうみるか。」こ れに対し桐生は,彼の質問は警察に対する「彼の劣弱性変態が然らしめたとこ ろのもの」で「居村の青年におのれの優勝性を示さんが為に」したものだとと らえ,「それは行政当局に対して注意すべきであって,あなた方青年に対して 注意すべきことではない。あなた方は人を誤らないようにするのが必要だ」と 応じた。桐生は,この時の一連の青年会の講演に私服だけでなく制服警官が臨 場したのにおどろき不快の念を隠さなかった。しかし,彼は郡青のおこなって きた自由獲得の運動に支持をよせることをさけ,マルクス主義批判に終始し

た。

 千代青年会では,「社会科学について」の講演をたのまれた。桐生は,千代 村に自由大学がおこなわれていることに驚き,研究心おうせいな青年達に敬意 を払っている。彼は,社会科学は厳密な意味でありえず「科学的に研究された 社会学」があるのみで,その中心は心理学だと講演した(18)。千代村青年会は,

これを「社会科学とは何か」とうけとらず,「社会学一マルクシズム批判」と うけとった(19)。すでにみたように桐生の心理学を中心とする考え方は,マル クス主義批判を意味していたから,千代青年会がそううけとっても当然であっ

た。

 以上のように桐生の講演の意図はマルクス主義批判であり,下伊那郡青年会 の左派への攻i撃であり,彼等をさして「犯罪者」という言葉すら使っていた。

そして,マルクス主義を捨てることを要求し,「マルクスを捨て,カソトに還 れ春近し」とよんだ。桐生が,「飯田では,今鶯がしかもまだ夜が明けぬのに 席き続けているではないか,記者は同地方付近の青年が,一刻も早く目ざめて 記者と同様この鶯の声を聞かんことを切望してやまないものである(2°)。」と

(15)

29

言った時,飯田のうぐいすの声とは旧郡連青の動きを指していたと言ってよ い。桐生の果たそうとした役割は,郡青の保守化にあったのである。

 このような桐生講演が青年にいかなる影響を与えたかつまびらかではない が,2つの異なった反応がみられた。上郷青年会は1933年3月にふたたび桐生 をよんで「国際連盟脱退後の日本」の講演をきいた。当時,桐生は,満州国の

「建設」について「たとえ満州国が私生児であっても」(1932年10月5日)「目 本が調査団に講へられたもの」(同年10月7日)「連盟脱退の好機会」(1933年

1月17日)等の『信毎』の「評論」で賛成していた(21)。この時の桐生講演に ついて『上郷青年会史』(前掲)は次のように記した。「非常時日本の現状勢を 論述以て国民特に青年の覚悟に就いて有益なる講演なりき」(186ページ)桐生 の主張を歓迎したのがみてとれよう。他方千代青年会は,1929年の桐生講演後 同じ信毎の記者であった林広吉を2度にわたって招いている。林は1928年11月 22日の『信毎』の評論に「自由主義の幻減」を書いた。そこで,トラストにみ

られる自由競争の制限の上に専制者の「自由」が拡大され,田中内閣の専制は

「民衆の政治的自由の犠牲」の上に成立していると批判した。政治の自由や教 育の自由を獲得する運動をおこなってきた千代青年会は,反マルクス主義を前 面に出し青年の自由獲得の動きを支持しない桐生よりも,田中内閣の反動性を

正面から批判した林広吉に好感を持ったのである。

 以上のように,下伊那の青年会における桐生講演は,青年会の左派をマルク ス主義批判によって攻撃し,青年会の保守化を計ろうとしたものであった。郡 青の保守化は,国粋主義者のみならず,自由主義者にも支持されたのである。

すでにみたように郡青は保守派のイニシアティブによって再建された。この保 守派のなかからファショ団体に参加する幹部が生まれ,桐生の満州国「建設」

賛成論はこれらファショ団体の主張と軌を一にするものとなった。自由主義者 桐生は,1933年8月11日のr信毎』の評論で書いた「関東防空大演習を喘う」

でr信毎』を退社するのであるが,そうならざるを得なくなった種は,自から まいていたと言っても言い過ぎではあるまい。

(16)

2. 下伊那郡青年会の恐慌対策と思想の対立

 (1)社会運動への進出

 1930年になると下伊那青年会はふたたび社会運動に進出し,左派が力をもり かえすようになった。この年2月に聞かれた郡青研究大会では次の点をめぐっ て議論がおこなわれた。

  「農村青年の教養方法如何」については,「自由な行動に出られない為に政 治を研究する事ができない,積極的に政治運動に団体として進出する事が教養 の根本問題」「教養の自由がない」「青年教養に必要な真理の探究を必要とす る。真理の探究は絶対に我々の教養となるのであるが,現在の制度ではその事 すら許されない」等,教養の自由と政治活動の自由を獲得する主張が多数を占 め,県連青の研究大会に政治的自由獲得の動機を提出することを決定した。こ れを前提として,「青年会として政治運動に対する範囲如何」の討議は,「一党 一派に偏しない限り積極的に政治運動に入りたい」とまとめられ,「現行選挙 法を討議し而して青年の覚悟に及ぶ」「現在の政界に鑑み青年は如何なる態度 に出ずべきか」「選挙に対する方策如何」は,20歳ないし21歳へ選挙権を低 下させる青年選挙権年齢低下運動をすることを県連青に提案することを決め

た(22)。

 このように郡青は,政治的自由及び教養の自由の獲得をかかげた。これは,

左派の主張がとおり旧郡青のめざした方向が復活したことを示している。そし て政治運動の進出は,不況対策運動としてとりくまれた。郡青の不況対策は次 のようなものであった。電灯料値下げ運動と,村予算の中に占める教育費,青 年訓練所費,役場費の節減,吏員,小学校教員,農会技術員の2割減ぽうの要 求である。そして,これらの青年の要求を反映させる為青年選挙権年齢低下 運動をおこなった。

 電灯料値下げ運動は,旧郡青以来とりくまれてきたが不況が深刻化する中 で・不況打開の一方法として県連青もとり上げ全県的な運動となった。郡青 は,青年会以外にも呼びかけ運動をおこない,後述するように南信電気配電下 の阿南七力村青年協議会では一定の成果を得た。

(17)

31

 この不況対策運動の性格にかかわって,旧郡青や県連青との関係で指摘して おきたいのは次の点である。

 青年訓練所費の節減の要求は,県連青,旧郡青にくらべ後退していた。旧郡 青は青年訓練所反対,あるいは管理権の獲得を方針としていたし,県連青は,

1928年に「青年訓練所の必要ヲ認メズ」と決定し,1930年7月の代議員会にお いて,不況対策の一環として青年訓練所の廃止を決議していた。郡青は1930年

2月の郡青研究大会で「青年訓練所の存廃問題」を議題にあげた。この議題 は,実業補習学校と青年訓練所との合併の賛否をめぐって議論がおこなわれ た。賛成派は,実補と青訓は同質のものであると主張した。「訓練は軍事教育 的なものではなく精神練磨と力を養育するもの」「補習学校の目的は何か,公 民を養成するため……青訓の目的は・・…健全なる国民の育成」。反対派は,青 訓は軍事教育を目的としていると主張した。「青訓と補習学校と合併すれぽ訓 練所化することは明かである(23)。」この議論は結着がつかなかった。結局,郡 青は青訓の賛否を明確にできず,青訓費削減におちついたとみれる。この問題

に関しては,左派も保守派も歩みよりをみせなかったのである。この問題ほど 郡青が,旧郡青と旧県連青の合同で成立したことをはっきりさせたものはな

い。

 このような複雑な事情をもちながら郡青は不況対策に動き出したのである が,電灯料値下げ運動と共に郡青が一致して運動したものとして選挙権年齢低 下運動がある。これには,座光寺のような右派も参加した。座光寺が参加した 猶興社は愛国勤労党に加盟していたが,この党の綱領には,「比例代表制度ノ 採用,選挙義務制ノ実施」と共に「選挙被選挙資格ノ婦人ヘノ適用及ビ資格年 齢ノ低下」がかかげられていた。

 この運動の旧郡青,県連青とのちがいは,選挙権の低下年齢にあった。旧郡 青も県連青もともに18歳に引き下げることを要求していた。これに対し郡青は 20歳への利引き下げをとった。この理由は,「兵役の義務を負い法によって能力 者としての行為を認めらるる満20歳以上の青年に選挙権すら興へざるは甚しき 1理論的矛盾である(24)。」という下伊那郡青年選挙権獲i得期成同盟の宣言(1930

年4月26日)によくあらわれている。20歳にした基準は微兵年齢にあったわけ

(18)

である。

 旧郡青,県連青のとった18歳低下説は,全日本無産青年同盟,全国農民組合 青年部,日本共産青年同盟も主張しており,プロレタリア青年運動及びその影 響を受けた運動体の主張でもあった。この説の理由は必らずしもはっきりしな いが,旧郡青が18歳年齢低下を主張するにあたって,影響を与えた全日本無産 青年同盟の綱領等から推察するに,18歳は労働保護年齢(18歳までの夜業禁 止,労働時間の短縮等)による区分であったと考えられる。この18歳保護年齢 は・ILOで工場労働者にだけ1919年に条約が制定されていた。したがゲ(,

国際的根拠(といっても大工場制度のある国)を持っていたのである。しか し,はたして18歳選挙権が我が国でひろく青年に受け入れられたかは疑問であ る。我が国では当時農村青年が多く,しかも徴兵年齢は20歳であったから,農 村の男子青年にとっては,人生の画期として意識されるようになった徴兵年齢 の方が受けとりやすかったと考えられる。

 郡青が以上の運動をすすめていくなかでも恐慌は一・層深刻化していった。繭 値の大暴落は養蚕業中心だった下伊那地方の農民に大打撃を与えた。1931年2 月の研究大会では郡青の不況対策が生まぬるいという批判がおこなわれ,各村 の予算編成期にむかって村予算節減をめざす運動がおこなわれることになっ た。すでに,1930年から幾つかの村で,村税滞納者の増加にともなう村予算の 減少の為,教員の減俸や村への寄付依頼が決定され,青年訓練所指導員の削 減,修学旅行の中止等もおこなった村もあった。したがって,郡青の要求一青 訓経費の節減,教員の2割減俸等一は,支持を得ていたといえる。

 (2)階級青年団論の登場

 同時に,地方レベルの改良要求だけでなく,政府の不況対策への批判,資本 主義そのものを変革する主張があらわれるようになり,その実行をおこなう階 級青年団論が登場した。奥村卓美(1931年7月に郡青副委員長)は,階級青年 団論について要約次のように説明した。

  青年団は年齢条件以外で規定されない総合的教養団体であるが,其の条件  だけで固定されるべきでない。なぜなら現実の社会は階級社会であるから,

 青年も階級化されつつあり,青年団も階級化されている。したがって,既成

(19)

33

 青年団解消,階級青年団の確立がめざされねぽならず,それは青年会員の階

 級意識の高度化に依って達成される(25)。

 又,奥村と共に郡青常任委員となった大蔵徳は,「階級青年会とは……其の 生活に対し利益を相同じくする者のみに依って構成する青年会」と性格づけ た(26)。青年会はもともと地主,豪農,貧農の子弟等の各階層の青年を含んで構 成されていたが,恐慌に直面して各々の利害の対立がはっきりしてきたことを 背景にして,階級青年団論は生まれたわけである。そしてまた恐慌の解決は資 本主義社会の矛盾の解決にあるという認識の下に生まれた。奥村は次のように も言っている。「吾々の究極の目的は資本主義社会の矛盾解決であることを忘 れてはならない。其の解決の日こそ実に現在の不況から吾々が救われる日なの

だから(27)。」

 階級青年団論は,下伊那郡青だけでなく全県的に主張されていた。県連青は 1931年3月の第10回研究大会で,「階級青年団組織を如何にして確立すべきか」

と次のような意志表示をおこなった。

 「本県青年団の指導方針に基づく社会進化の歴史的使命をなすべき役割を負  う所の吾々青年団は社会状勢の急激なる発展段階にあっては社会進化の過程  を明確に認識すると同時に之が使命を遂行すべく湛進しなけれぽならない。

 一中略一現在の青年団は支配階級の完全なる隷属化にある故に,これ等の内  に存在する意識分子をより意識付けると同時に更に反動的対立勢力を根本的  に排撃して吾々青年団は自主並に階級的意識の下により以上に積極的に適進

 しなけれぽならぬ(28)。」

 すなわち,社会進化の原動力という青年団の使命を果たす為には,反動勢力 を排除することが必要であり,その為には階級意識をもった青年による階級青 年団を作りあげぬぽならないということであった。

 階級青年団論は,県連青が全国農民組合の影響を受けると共にあらわれ,青 年団の階級化→全国農民組合青年部への青年団解消を意味した。この主張は,

自主化運動を「一年のある部分は生産に費さなくとも,充分に生活するだけの 余裕を持つ」富農の子弟によってになわれた思想運動であったと断定し,「階 級対立の××せる今日」「指導権を貧農の手」にしなけれぽならない。なぜな

(20)

ら階級青年団とは「無産階級解放運動の為に戦い抜く所の青年団」だからであ る。そして「進歩的青年諸君は官製青年団の自主化に注ぐべき勢力をより多く 組合青年部の拡大強化の為に注がねぽならない。」と主張した(29)。

 これは,全国農民組合(略称・全農)青年部への解消論である。全農長野県 連は,1930年3月の第2回大会で青年部確立を決めたが,その方針に次のよう に書かれていた。「貧農青年を中心に農村青年を組合青年部に結集し,階級的 青年団としての機能を発揮させなけれぽならない。」「長野県内においては自主 的青年団の建設と称して,小ブルジョア分子が官製青年団を指導して来たが,

今やこの内部にさえ階級的な分解作用が行われてとしている。」「農民運動の対 立物となっている天下り的組織,青年団,処女会,青訓等々一をマッ削しなけ れぽならぬ(30)。」ここにみられる主張は,青年団の解消一青年会の組合青年部 への組織化一階級青年団の確立を意図しており,先の論者に影響を与えていた

とみれる。この後,全農から排除された左派は全国農民組合全国会議派(略称

・全農全会派)を結成するが(1931年7月),長野県農民組合運動の中心勢力 はこの全農全会派であった。全農全会派も青年訓練所廃止,官製男女青年団,

消防組,在郷軍人会の解体を方針としていた。全農左派の影響は,県連青にあ らわれた。先の階級青年団確立を決めた研究会では,在郷軍人会の解体,ブル ジョアスポーツの排撃,赤色消防団確立が決議されたが,これは全農左派の方 針ぞもあった。このように県連青は,全農の影響を受け,その階級青年団論は

自主化青年団について否定的評価をおこなったのが特徴である。

 しかし,これに対し階級闘争への青年の参加を肯定しながらも青年団を階級 闘争への準備時代と位置づけ階級青年団論に賛成しない意見もあった。宮坂政 治「役割を持たない,だが持たせられるのだ」(r信毎』1930年5月25,26日)

は,青年団は「若いという事を唯一の資格として町村長の子息も酒屋銀行家の 息子も地主の息子も小作人の枠も含めて行って一丸となした組織」であるので

「それ自身の役割も目的もない。」 しかし,経済・政治・戦争は青年に密接な 関係を持っているから,青年は「階級劇の立役者」とならぬぽならないのだ が,青年団それ自身は様々な階層・階級の集まりだからそれ自体階級青年団に ならない。とすれぽ,「青年団が要求さるる今日の役割とは即ち明日の××劇

(21)

       35 の立役者としての準備である。」と主張した。宮坂の主張は,地縁的な網羅型 の青年団を前提にした議論であり,自主化青年団を維持しようとしたのであ る。階級青年団是か非かの議論は,このように網羅型たる青年団の評価とそれ を前提にした自主化青年団の評価を基礎においていた。

 階級青年団論が自主化青年団を否定した理由は次の点にあった。農村におけ る階級対立を地主対貧農又はブルジョアジーと貧農,プロレタリアとの対立と のみとらえ,恐慌下の中農層や小地主を位置づけきれなかったこと。第2に当 時の共産主義運動がもっていた社会民主主義者一社会ファシスト論の影響をう けていたこと。この2点である。その最も典型的な発言は,1930年度県連青幹 事長,31年度同幹事であった坂井喜夫「自主的青年団,その歴史的意義に就 て」(r信毎』1932年2月17日)である。ここでは,青年団は「ブルジョア的教 化組織」であり,自主化青年団は「本質的使命とか青年の役割とか社会的進出

と言えぽ大層な社会的活動の如くオシャベリして……動揺する中間層の悲劇を 全青年大衆にまで及ぼそうとする。そして社会民主主義的立場を固定化してや

り,一面ファシストに転化する条件を作り」(傍点一引用者)とのべている。

ここでは「中間層」,社会民主主義者が極めて否定的にとらえられていること がわかるのであり,そこから「反動的な,独占的金融ブルへ青年を売渡すべく 青年団へ青年の関心を繋ぎ止めている」という「中間層」を含み網羅型を前提 にした自主化青年団への全面否定が生まれてきた。

 それでは,下伊那のように全農の組織がほとんどなく,自主化青年団の確立 に力を入れてきたところではどうであったろうか。奥村卓美はすでにのべたよ

うな階級青年団を主張したのであるが,階級青年団に対して下伊那郡青の幹部 はややとまどいを持っていた。

 1931年5月に常任委員となった大蔵徳は次のように論じた。「階級青年会と は,……其の生活に対し利益を相同じくする者のみに依って構成する青年会」

であるから,自主的青年会でいくのか階級的青年会でいくのかという岐路に立 たされている。研究会で議論ばかりするのではなく「実際的な闘争の秋」であ る。しかし,「実際的な闘争」をする上で「青年会を効果的に其の果し得る方 向に」するには,「現在の郡青を階級的青年会の一部分たる限界に色別し其の

(22)

範囲を縮少してしまう事」は不利である。なぜなら,自主的青年会にすら迫害 や弾圧があるのに階級青年会では集会すら持てないだろう。又社会制度の欠陥 を良く理解しておらず青年訓練所で教育された若年層は階級青年会から離れて しまう。したがって大切なことは「現在の綜合団体の中にあり潜行運動に依っ て意識的な反動派の為に……思考を汚濁された彼等を彼等自身の階級性に呼び おこし吾等の同志として一人でも多く集めて進出する事」であって,それと共 に「生活権擁i護の為に闘争を連続して行く時完全に青年会は階級青年会」とな

る(31)。

 また同じく常任委員だった浜島惣一は次のように論じた。青年団に対する官 僚支配が完備し,国際帝国主義戦争のひっ迫に伴なう青年への教育支配の拡 大,特に下伊那では青年訓練所が青年会を侵食し,会員中の年少のものと年長 のものとの社会認識の相違が生まれている。また郡青は社会運動に力を入れて きたが一一般会員に対する「社会的教養の欠乏」があったので,役員のみの活動 となってしまっている。したがって重視すべきことは「青年の社会的教養」の 強化である。階級青年会をつくることには反対しないが,青年会が支配階級の 手にもぎとられようとしている時,「社会的教養」の充実による「郡青年会の 内部的充実なるスローガソを提言させずにはおかない(32)」

 この二人の主張は,階級青年団は支持するものの,青年会が支配階級によっ て統制されようとしている時,青年会の結束をはかることが必要であり,自主 的青年会充実の為の教育活動が重視されねぽならないということであった。彼 等は,青年会への統制に対し,階級青年団が,青年の組織化をせぽめることに よって有効に闘えるかどうか危惧を持っていたことがうかがえる。郡青は,

1931年末の県の統制強化に反対し,32年2月におこなわれた三郡研究大会で,

諏訪,上伊那郡青年会と共に自主化青年団擁護の声明を発表した。しかし,同 時に奥村卓美の先の主張にあるように,また浜島,大蔵も否定しなかったよう に階級青年団もめざしていた。青年会の内部的充実をめざす教育活動は階級意 識の獲得をめざすものであった。したがって,ここには階級意識を獲得を追求 することが,自主化青年団の統制に対し運動上有効であるかどうかの問題が伏 在していた。この点は,後述する千代青年会にみられるように明確にされねば

(23)

37

ならない課題となった。

 では,この階級青年団論は旧郡青の青年団論といかなる点で異なっていたの か。旧郡青は民衆の立場に立つ青年団をめざしていた。この根拠となったのは 教育機関の不平等であった。正規の中等学校へ行ける青年は圧倒的少数であっ たから,そこへ行けない民衆青年の立場に立つことは,ほとんどの青年の為の 青年会であることを意味し,地域網羅型としての青年会であることと大きな矛 盾はなかった。しかし階級青年団論は,貧農青年に中心をおき階級意識をもち 生活上の利害を共通にした青年のみで組織する青年団であったから,地域網羅 を特徴とした青年団と決定的に異なったものであったのであり・民衆青年の立 場にたった旧郡青からの大きな転換であった。したがって・郡青左派が階級青 年団を最終目的にした時,旧郡青にすら不満を持っていた保守派の青年会は・

満州事変をきっかけにした排外主義的風潮もあって,1932年7月郡青を脱退し たのであった。この脱退は郡青再解散のひとつのひきがねとなった。

 この年11月,郡青委員長,県連青幹事長の奥村卓美が県産業課に就職したこ とは,郡青左派にとって大きな衝激であった。これは・産業組合青年連盟の影 響がひろがっているのを示し,先の保守派青年会の脱退とあいまって・青年の 思想の対立,運動方向の対立を明確にすると共に県の統制が成功しつつあるの をおもわせるものであった。郡青左派の中心青年会であった千代青年会も・こ の年支会脱退問題をかかえていた。このような中で郡青は解散を決議し・あら ためて村落青年会からのたてなおしに力を注ぐことになった。

3.農本主義,社会主義,ファショ思想との相剋

 (1)竜丘音年会の場合一主流としての農本主義

 竜丘青年会(以下,竜丘村青と略す)は郡青に加盟しておらず,郡青がおこ なった不況打開の運動には参加しなかった。だからと言って不況の打開に関心 を持っていなかったわけではない。

 桐林青年会(竜丘村青の一支会)のr昭和5年度記録』には,1930年10月5 日の委員会が次のように記録されている。

 委員会 議案不況対策二関スル件

参照

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 すでに以上の事情だけからでも景気の悪化は不可避であったが,それをさ

ローバル 化の行きつく先は、社会の不安定化とそ れに

る。ニューディ「ル財政が均衡予算主義の目標に制約されたのは,1つには

そして昭和恐慌を通じて金融構造に大きな変化

が、 此処で 「社会の消費力」 を特に附け加えたマルクス の鱈意ではなかろうか。 或いは反問を受けるかも知れない。

日本は東南アジアや南太平洋へ戦線を拡大していった。.

 製糸業の危機と生糸売込問屋の経営 は横浜興信銀行に求めていたものと推定される。

たんなる形態にすぎないのである。それは資本の再生産過程においてはじめて