(3)羽生三七「被抑圧民衆の利益を護れ」前掲1928年1月1日
(4)例えば石川三四郎「土民生活」『社会主義』1921年10月 『石川三四郎著作集・第三 巻』青土社 1977年に収録
(5)大井隆男r農民自治運動史一転換期の青春郡像』銀河書房 1980年 326ページ参照
(6)渋谷定輔『農民哀史』勤草書房 1970年576ページ
(7)座光寺久雄「青年と青年会」『富草青年会報,第6輯』1930年 所収
(8)座光寺が加盟した愛国勤労党の理論的指導者であった鹿子木員信は,人間の心の中 には,我と社会国家という2つの中心点があり,我は政治的・支配的意思としてあら われ,それは国家に尽す愛国の心ざしとは相伴ふものであると主張し,それを結びつ けるのは独特な日本的なる「行」であるとした。鹿子木r新日本主義と歴史哲学』青 年教育普及会 1932年参照
(9) 「夢の国・劣弱性変態と優勝性変態に)」『信毎』1929年12月28日夕刊
㈲ 太田雅夫『桐生悠々』紀伊国屋新書 1970年 117ページ
⑳ 「評論・ドイツは何ぜマルクスを産んだのか(=)」『信毎』1928年11月30日
㈱ 「評論・合理論としてのマルキシズム国」前掲1928年12月12日
⑬ 「評論・経済的快楽論としてのマルクシズム」前掲1928年12月18日
a4 吻の(+)前掲1928年12月18日
㈲ (9)の(一)前掲1929年12月27日夕刊
⑯ 「夢の国・社会科学とは何か(三)」1929年3月20日夕刊
㈲ ㈲及び(9) 、
⑱ ㈲の(一)前掲1929年3月28日夕刊
⑲ r千代青年会史』1934年 133ぺP−・ジ
⑳ 「夢の国・鶯の声を聞きながら(下)」『信毎』1929年3月9日夕刊
⑳ 桐生は,これらの「評論」で満州国は生命線で武装移民が適当な方法であり大規模 農業の経営を導入すること,国際連盟にしばられず,アメリカ,ソビエトに対抗して 自由に行動すべきことを主張した。桐生は満州事変以降,日本の中国侵略を正当化す る主張をおこない,白人に対するアジア人の抵抗とか,鳥居龍蔵のアイヌ人の遺物が 満蒙にみられる主張をとりあげ,「満蒙は我祖先発祥の地」とまで断言するに至った。
63 桐生は,排外主義から少しも自由ではなかった。太田雅夫,井出孫六の桐生研究には 桐生のこの点の指摘が全く欠落している。『信毎』の桐生執筆の「評論」「夢の国」を みていくと,「関東防空大演習を曝ふ」(1933年8月11日)で『信毎』をやめることが 全く突飛にみえる。1933年5月25日の「評論」では,滝川事件について「大学教授の 権威を利用する犯罪」とまで言っていた。
太田雅夫は,桐生個人とr信毎』の紙面構成とを同列において桐生の抵抗の姿勢を 評価しているが,1933年の時点で自由主義的であったのは農村雑記を連載していた 『信毎』の学芸欄である。たしかに桐生は,この学芸欄にプロレタリア文学の主張や
政府批判が載るのを黙認していた。だからと言って「学芸欄」を担当していた坂本令 太郎等の仕事と桐生の主張を同一視することはできない。例えば,桐生が「大学教授 の権成を利用する犯罪」を書くと,学芸欄は長谷川如是閑に「学問の自由と政治の自
由」を書かせている。
桐生は,「関東防空大演習を喘ふ」があれほど問題にされるとはおもわなかったので はないか。それは太田雅夫が紹介しているエピソードー陸軍省新聞班長に対し,「私と 同様の意見を海軍将校が講演している」「私は貧乏だが,これでも士族である」(太田 雅夫前掲書133ページ)にあらわれている。筆禍事件がおこってからあらためて時の 権力,ファシズムの有様を身にしみて感じたのではなかろうか。
『信毎』の農村雑記等による戦時下の抵抗は,あらためて論じてみたい。
㈱ r下伊那郡青年会報』第2号 1930年12月
㈱前掲
㈱ 「下伊那郡青年選挙権期成同盟宣言」1930年4月26日,r千代青年会史』142ぺ…ジ
㈲ 奥村卓美「現社会に於ける青年団の役割と進むべき道」『下伊那郡青年会報』第3号 1931年12月
26)大蔵徳「向後の青年会の進路はどうなるか」前掲会報
鋤 奥村卓美「吾々の目標に対する一考察」『信濃大衆新聞』1931年7月2日
㈱ 山浦国久『長野県青年団発達史』信濃毎日新聞社 1935年 151〜2ページ
29)山田嘉之作「指導権を貧農青年の手に」『信毎』1930年5月13,14日 同様の論旨 は,丸木知助「青年団の挽歌」前掲1931年12月10,11日
㈲ r全国農民組合長野県連合会第2回大会報告議案』1930年3月30日
㈱㈲と同じ
働 浜鳥惣一「内部的充実へ」『信濃大衆新聞』1931年7月31日
㈱ 「南信皇国青年同盟盟報」r信濃国民新聞』1934年3月15日
図 1933年10月に竜丘青年会は男女青年会員傾向調査をおこなった。このアンケー・トに こたえたのは男54人,女32人計86人で1932年の男子青年会員285人にくらべ極めて少 ない。しかし,青年会活動に積極的な青年であったと考えられるので活動家層の動向 がうかがえよう。これによると支持政党の第一党は,愛国勤労党で17,民政党,政友 会が各15,無産党1だった。又,1931年の県会議員選挙の全村の結果は,民政党中島
が270票,第二位が愛国勤労党中原174票であった。
㈲ 北沢小太郎からのききとり。
岡 作家同盟竜丘班にっいてはr下伊那青年運動史』国土社,1960年113ページ。
なお,第二無産者新聞の読書会については,同書110ページに北沢小太郎が竜丘村 の配布責任者であったという指i摘及びr第二無産者新聞』1931年11月22日,12月6日 掲載の「農村支局の活動・長野県××支局」による。この記事は,ある村の読者会の 活動を紹介しているが,愛国勤労党支部に対する対策を討議していることから下伊那 であることはたしかであり,個人経営と組合経営の工場があること,読者会に参加し た女工は2名であること,青年会の回覧雑誌に「第二無新」の記事をはって回覧させ たことが,北沢小太郎の記憶と一致している。
勧 「樋口栄一予審終結決定書」長野地方裁判所長尾操 1933年12月8日,なお全協日 本繊維労働組合下伊那地区は,これによると1932年4月頃竜丘村で結成されたとある が,「吉沢芳太郎予審終結決定書」によれぽ同年11月飯田で結成されたことになってい る。これは,山田あいが東京に行ったこと等によって一時解消したからだと推定され
る。
㈱ 『竜丘青年会教育部記録・昭和4年至昭和9年』所収 B9)前掲書
㈹ r昭和7年桐林青年会記録簿』
㈲ 「駄科部落160戸借金不払ひを決議」『南信新聞』1932年6月27日
幽 北沢小太郎からのききとりによる。なお1930年12月1日伊那農民美術研究会が結成 されている。参加者は北沢小太郎,麦島吉次郎の社会主義的青年と共に名誉賛助会員 に中原謹司,北原阿智之助の国粋主義者も参加している。
㈲ B9)の1932年12月5日の雄弁会の記録
㈹ 仲田生「晩秋雑詠」『丘に立ちて』竜丘青年会,竜丘女子青年会 1932年
㈲ 久保田つねお「若き陣営」前掲書
㈲ r千代青年会史』138ページ
㈲ 前掲書155ページ
pmg9) 〃 159ページ
60)前掲書161ページ㈱ 「村民の生活を奪ふ横暴な山地主,切角の失業救済も滅茶々々 村民激昂混乱の千 代村」r南信新聞』1932年1月20日
岡 白雲生「林で感じた事」『若人の叫び』3号,千代北部青年会教育部 1932年10月
㈹ S生「農村の朝」前掲書
64 吉沢昌人「残された一の道」 〃 65)吉田「農村運動とモラトリアム」 〃 岡 r千代青年会史』171〜3ページ
勧 「初頭に当り会員諸君へ(Sメッセージ抜)」『青年ニュース』千代青年会教育部