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青年会自主化運動の研究
茨城県水海道地域の場合
大 串 隆 吉
AStudy on selfgoverning movement of Japanese youngmen
association(Seinendan)in Mitukaido, Ibaraki Prefecture.
Ryukichi Ogushi.
1.青年会自主化運動史研究の意義と課題
1.研究の動向
この研究は,今まで,主に下伊那地域を中心とした長野県について行われて きた。今回の報告は,長野県以外をとりあげることによって青年会自主化運動 の多様性を明らかにしようとするものである。そのために,今までの研究を概 括し意義を述べておく。
下伊那地域の研究の特色は,次の四点に整理されている(1)。①郡レベルで の青年運動を中心に青年会の自主化運動に着目した研究。②社会主義運動との かかわりで青年運動を位置づけている研究。③自由大学運動とのかかわりで位 置づけている研究。④個々の地域青年会活動の動態の堀りおこしを主眼として 青年の自己形成の内部的事実を実証しようとしている研究。
さらに,課題意識から整理してみると次のようになる。①社会教育団体の自 主性の歴史的教訓を明らかにしようとするもの(2)。②社会教育政策の地域に
おける受容過程を明らかにしようとするもの(3)。③我が国の青年運動の限界 と可能性を明らかにしようとするもの(4)。④青年期教育の二重構造克服の思 想と運動を明らかにしようとするもの(5)。これらの課題意識は,青年会自主 化運動の研究に限られないことはもちろんである。にもかかわらず,この地域
と時期に集中したのは,これらの全側面を豊かに含んでいたからでる。また,
社会教育政策が本格的に確立した時期に,これを批判して生まれた運動だった からでもある。すなわち,自由大学運動と並んで社会教育の体制的矛盾を鋭く 体現したものであり,その意味で大正デモクラシーだけでなく,戦前の社会教 育の矛盾を示す象徴的な運動だったからである(6)。
教育史としての方法上の観点では,次のようであった。社会教育政策が地域 に降りていく時の抵抗運動と押え,これが教育運動へ転化していくことを自覚 的にとらえようとしたものがあった⑦。その後,遺産史という観点が登場し てくる。これは,現在の民主的教育改革・実践・思想が引き継き生かすものを,
教育の歴史の中から遺産として明らかにしようとするものである。この点から,
小川利夫は教育の自由と教育権を遺産と位置づけている。すなわち小川は,大 正期にあらわれる本格的な社会教育組織化における矛盾の諸契機を全体として 構造的にとらえるにあたり,「今日とくに重要な局面」としての「国民の『国 民による教育』としての社会教育への自覚」すなわち「権利としての社会教育」
への思想と運動の「戦前的遺産」を明らかにすることを挙げている(8)。この 点から,研究対象は,自由大学運動と青年会自主化運動にすえられる。
今,小川の青年会自主化運動研究について言えば,山川均の社会主義の影響 を強く受けたところ,すなわち長野県下伊那地方におけるLYLのイニシアチ ブによる下伊那郡青年会の自主化運動に限定されている(9)。なぜなら,「権利 としての社会教育」あるいは「教育の自由」の思想と運動が,この青年会自主 化運動において最も鋭く現れたからである。しかし,青年会自主化運動を,こ の潮流に限定するわけにはいかないことは言うまでもない。すでに私は,「大 正自由教育と青年会自主化運動」(『教育』1980年7・8・9月号)と「昭和大 恐慌と青年会自主化運動」(『人文学報』155号,1982年,東京都立大学)にお
いて,「権利としての社会教育」の主張に至らなかった自主化運動の一端を分 析した。しかし,この多様性は,これらにとどまらないことも次の点から推測
できる。
1920年の第3次青年団訓令が,自主化促進の要因になったことは,つとに指 摘されている。また,この訓令が青年会を「自主化」することによって,青年
妬 会を「自主的」に官製化と軍国主義統制へいざなう意図を持っていたことも指 摘されている。しかし,訓令による「自主化」青年会は全国で実現されたわけ でなく,例えば,茨城県では1926年に25%前後にすぎなかった(lo)。したがって,
「自主化」青年会でさえ,なぜ一般化しなかったのかという疑問を生じさせる。
この点は,第3次訓令の地域定着を妨げたものを分析する必要一それはおそら く,青年自身の主体性とともに政党支配との関連で分析せねばならないだろう 一とともに,「自主化」青年会の確立でさえ運動として行わねばならなかった
地域もあったと推測されるのである。類型的になるが,訓令に忠実だったとこ ろと下伊那郡青年会さらに長野県連合青年団の自主化運動との間にはさまる,
多様な考えと活動が長野県以外にもあったと推測されるのである。
今回とりあげる茨城県水海道地域の場合,その多様なもののひとつだったと 考えられるのである。この検討に移る前に,小川にみられる教育史研究の方法
にふれておきたい。なぜなら,「戦前的遺産」をあきらかにする教育の遺産史 のみでは,青年会自主化運動にそくして見たような多様1生が,対象から落ちる のではないかという疑問をもつからである。
2.教育の遺産史への疑問
教育の遺産史には,明治図書講座『学校教育2・日本教育の遺産』(1957年),
『講座日本の教育2・民主教育の運動と遺産』(新日本出版,1975年)がある。
その方法論は,明治図書講座の小川太郎論文と『講座日本の教育2』の坂元論 文が代表的なものである。
まず,教育の遺産史が遺産を現代の教育実践に受け継ぎ発展させるために生 まれたことから,現在の教育にたいする鋭い課題意識に支えられていることを 指摘しておく。この点は,前掲の小川利夫の論文にもあらわれているが,教育
の遺産史を提唱した小川太郎,勝田守一においても痛切であった。一般的に歴 史研究は,研究する者の現在の問題関心に支えられる。しかも,教育史の場合,
教育学自体が,広い意味で実践を対象にすることを重要な柱とすることから,
この点は二重である。したがって,その課題を明確にするために「民主教育の 遺産史」(坂元忠芳)という言葉が生まれてきた。
今日,教育の遺産史を体系だって提起しているのは坂元忠芳である。坂元は,
論文「天皇制教育体制成立期の民主教育の思想と遺産」において,「民主教育 の遺産史は,結局,地域人民が日々の生活の営々とした営みのなかできずきあ げてきた教育の人権思想・意識の生成過程とその実現の運動過程の歴史的弁証 法を,その独自の構造において明らかにすることである。民主教育の遺産史は,
ひろい意味で民主教育の思想史と運動史との接点において成立する。」と構想 し,、「民主教育の遺産はなによりも,そのような天皇制教育の思想と機構に反 対し,それに抵抗した思想と運動の遺産である」と指摘している(11)。
その上で,ヨーロッパの民主主義思想から出発した教育の権利思想と民衆の 自己形成の思想の二重構造が複雑な構造をなしていると特徴づけている。この 二重構造が,坂元教育遺産史の重要な方法的視点である。
坂元の1969年論文「近代日本の教育における人民的発想の歴史的展開」でい う民衆の可能性(12)は,その反面にそうでない民衆がいたことを想定すること になる。それは,「地域で共同体を中心とした家父長主義の人間形成と教育の 思想」(13)といえるであろう。しかし,先の二重構造としてだけでなく,民衆 内部の問題として可能性をめぐる両者の矛盾をとらえなければこの両者の意味 は浮び上がってこないであろう。なぜなら,「人民の自己形成と,その教古ぺ の思想」(1969年論文)が「可能態」としてとどまった重要な原因が,天皇制 政府による弾圧だったことは,長野県連合青年団の歴史をみれば明らかである が,同時に支配的イデオロギーの影響を受けた民衆の日常的な営みにもとつく 選択だったという重い問題も考えるからである。しかも,その選択が全く変革 の思想・発想を持たなかったとは言えないからである。民主教育の遺産史は,
民衆の教育と自己形成におけるこのような両義性を自覚的に対象に出来るだろ うか。それが,天皇制教育の思想と機構に反対し,抵抗するものに遺産をもと める一これ自体は正しいが一かぎり,不可能だと思える。この点は,遺産史と
して教育的価値を追及する歴史研究方法に内在するものだと思う。
しかし,教育の遺産を究明する仕事を否定しているわけではない。それは,
特に社会教育にとって重要になっている。なぜなら,社会教育(行政)の存在 意義が問われる時代になっているからである。しかし,その存在意義を否定的 に問うている場合でも,市民なり労働者の学習を否定しているわけではないし,
47 否定できるわけでもない(14)。したがって,問題は振り出しにもどるわけであっ
て,なぜ民衆が学習なり教育に価値を認めるのかということが問われねばなら ないのであり,教育の遺産の究明が必要になるわけである。しかし,その際,
民衆の学習・教育の多様な形態を捨象することであってはならないだろう。な ぜなら,ある特定の時代に教育的価値形成したといえないものでも,その後の 歴史の経験のなかで,それを創造することがあるからであるし,その逆もあり うるからである。先に述べた民衆の歴史の選択も,このような見とうしの中で 教育的価値の民衆的定着の問題として位置づけてみたいのである。それによっ
て,民衆の社会教育史の叙述もよりリアルとなるだろう。
2.水海道地域の自主化運動の展開
1.惜春会と自主化運動 惜春会の性格
水海道町とその周辺の村(現水海道市)の青年会自主化運動は,『水海道市史』
(水海道市,1985年)によれば1925年頃からはじまっている。水海道町青年会 の自主化が1925年,五箇村青年会が1926年頃で,これらと前後して三妻村,大 生村の青年会が自主化された。これらの青年会の会長,高島惣吉(五箇村),
染谷秋之助(三妻村),広瀬正(大生村)と活動家だった山崎淳(大生村)は,
1924年4月13日に発会式を挙げた惜春会北総支部のメンバーであり,染谷秋之 助がその支部長だった。惜春会の主張・活動が自主化運動を促進した。惜春会
の研究には,青木光行『惜春会と大正デモクラシー』(筑波書林,1984年),雨 宮昭一「大正末期一昭和初期における既成勢力の 自己革新 一「階春会』の 形成と展開」(『日本ファッシズム(1)国家と社会』日本現代史研究会編,大月書 店,1981)がある。これらに依拠しながら,惜春会についてふれておこう。
惜春会は,1923年11月3日土浦町(現土浦市)で発会式をあげたが,それ以 前から会として活動しており,機関紙「1昔春』を同年9月20日に発刊した。雨 宮論文によれば,1919年3月に真鍋町で結成したとされている。
惜春会は,会則第一条で「本会ヲ惜春会ト称シ同志ノ青年ヲ以テ組織ス」と 言っていたように青年運動組織だった。その中心の青年たちは,学校の同窓,
青年会,消防組,葬祭などの地縁・血縁関係,在郷軍人などの多様な社会的関 係の中で日常的なつながりを有しており,その結節の主要なものが在郷軍人会 であり,しかも中等学校卒,自作地主,少尉などの共通性をもつ指導部分のイ ニシヤティブで統合されていたと指摘されている。
当時,代議士の青年組織の性格を持つ青年党が,各地で作られていたが,惜 春会は,町の発展や農業振興,文化運動等を,みずからの地域で志向する自発 的要求が強く,しかも反既成政党,なかんつく反政友会を志向していた。当時,
政友会は,茨城県でも地方有力者(大地主,企業家)を基盤におき,政友会系 地方長官一官僚との結合体制を確立しており,惜春会にはこれに反発する県内 の中小商工業者,中小地主の動向の一要素という性格もおびていた。惜春会は,
普通選挙実施のまじかいことをみとうして,都会と農村の対立を強く意識し,
農民の政治進出と農村の産業的自立を志向する青年農民党の結成をよびかけ た。彼等は,政友会が農民の利益を政治に媒介していないという認識から,政 友会を華族・官僚とともに特権階級としてとらえた。
このような惜春会発会式での決議は次のようだった。
一、皇室中心主義を奉じ,純愛国,真愛民の理想を高調し,国家観念の確立 を期す。
一、人権差別撤廃の原理に則り,日本民族生存権確立の為機会均等主義の徹 底を期す。
一、党弊により誤られつつある国家人民を匡求し地方自治制の健全なる発達 を期す。
一、地方文化建設の為,真実なる生活改善の哲理を実現せん事を期す。
これには,民本主義的であると同時に,帝国主義的平等の要求があらわれて いる。彼等のスローガンは,「人格の平等」あるいは「人格の完成」,「個性の 自由」あるいは「個性の解放」,「普通選挙」であった(15)。
自主化の主張の特色
惜春会は,青年会の自主化を主張した。それは,1920年の訓令が出た直後か ら始まっていた。中心メンバーの一人天谷一郎は,「大正十年の春『茨城青年』
の誌上に幼稚な一文を草して,地方の青年諸君がいわゆる官立青年会御用青年
49 会に籍を置き,郡長や村長などに統率せられて,それらの紋切り型の訓話など
を有難がっていたり,相撲やマラソンなどの運動会に有頂天になっていること は愚劣の甚だしきものであることを指摘した」(16)と言う。
茨城県当局も「自主化」を訓令がでたのち推奨した(17)。訓令にもとついて「自 主化」した青年会が生まれた。1922年に「自主化」した北相馬郡山王青年会は,
そのねらいを「此所に純然たる自治的組織となし,いよいよこれが施設方針に 基づき活躍し,日夜訓令にそむかざらんとし団体的精神の修養に努め;常に剛 健質素の美風と幾多事業を興」(18)すと述べている。
この山王青年会のように訓令の意図を忠実に実行したものと,惜春会の自主 化の主張は異なっていた。指導者だった天谷一郎は,「所謂『青年会』に挑む」
(19)でつぎのように主張した。「総ての青年会長は,小学校ゐ校長か村長,或は 之と同類同程度の頭悩の所有者である。而も之等を統率する連合会長が郡長で
ある。」「書物を読めよ,と日はず,活社会を見よと日はず,政治を談ぜよと日 はず,思想を研究せよと日はず,ただ単に,運動会や閲団式によって身体の強 健と,協同規律の習慣を青年に望むとは何事である。かくの如き方針,かくの 如き設備は軍閥官僚の巨魁たる,彼等特権階級の『従卒』を作らんがためには 便宜この上もない」。「彼等,青年の指導者なりと自称する輩は,全国四百万の ママ青年を以て,自己階級の従卒となし,踏み台とし,道具ためしなることを以て
青年団組織の綱領とし一中略一彼等に従順なる者を以って,模範青年となし国 家に誠忠なる者とする。かくの如きは,独り四百万青年の人格を無視したるの みならず,実に国家の名を利用して,国家を擁護するの罪大なりと日はねばな
らぬ」。
それではどうするか。「教育程度低く,且つ社会と接角蜀すること極めて少な き青年となるが故に,進歩したる思想を注入して先ず『人』としての自覚を與 ふべきである」「今日の青年が最も必要とするのは天下の大局に通つる識見で ある」「この不合理なる愚民製作所を改造して,真に農民覚醒の揺藍地となし,
大正維新の松下村塾たらしむる」。これが,自主化の意義とイメージだった。
こうした主張の基礎に,「人格の完成」という発想と共に,普通選挙の実施 を前にして,都会の労働者の政治進出を予感し,それに対抗して農民の政治進
出を計ろうとするねらいがあった。同論文で言う。「普通選挙の実施は目前に 迫っている。然し,農民が政治的訓練なきこと猶現在の如しとすれば,普選は,
かへって農村に禍するものではなかろうか」。なぜなら,将来既成政党のかわ りに階級・職業の利益を代表する政党が進出せねばならない。しかるに,関西 の労働者団体の普選運動のもりあがりがあるから,「被征服者として同列中に ありし,都会労働者が今や新しい暴君として,農民の上に君臨せんとするを私 ママは憂へざるを得ない。一中略一これ果たして農村存亡の大機にあらずして何で あるか。この秋にあたって,新農村の精鋭あるべき,青年諸君が,人もあろう に半白の老人を頭目に戴いて,その支配下にあるとは何事だ」。ここには,す でに述べた農民党結成の主張と同じものをみいだせる。このように青年会自主 化の主張は,青年会を農民の政治進出をねらった,青年の政治訓練の教育機関 とすることにもあった。そのために,「青年読書の自由」「研究」の確保を主張 した。これを阻むものとして,「軍閥・官僚」「特権階級」を批判した。しかし,
「軍閥・官僚」を正面に出したのは,天谷であって,その他の論者は,「官僚」
を批判しており,「軍閥・官僚」批判が共通したものだったとは言えないであ ろう。この点は,下伊那郡青年会の場合のように鮮明ではない。
青年会を天谷のいうように教育機関とすることは,教育の機会均等の点から も主張された。また,水戸に夜間中学が出来たことを「教育機会均等の第一歩 だ。知識欲に燃えながら貧しき為に其の芽を枯れさんとする哀れなる若者に力 を與へよ」と言い,夜間大学の開設を要求し,夜間中学とあわせてこれを「惜 春会の教育改革のスタート」だと言った(20)。惜春会の中心メンバーは,中学 卒であったが,彼等でさえ上級学校の進学希望はたちがたく,1921年真鍋社会 大学を開講していた。
農村青年の政治進出を求めるにあたり,なぜ青年でなければならないのか。
それは,世代的発想にもとつく自己規定にあった。天谷一郎にも,「半白の老 人を頭目に戴いて」とか「農民中,最も進歩的にして,最も勇敢なるへき諸君」
という表現に,それをみいだせるが,竹穂生「我等の運動を誤解せる友へ」(21)
は,端的に次のように言った。「若し政治は,六十,七十の閑人の語るべきも のであると言うならば,其れは大きな謬である。早六,七十の人間は既に時代
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に対する先見の明なく,而も理想を失い,只今日を惜しむ未来のない生きる屍 に過ぎない」。その際,明治維新の志士が念頭にあったことが,彼等が大正維 新を叫び,天谷が松下村塾を理想とし,一メンバーが「維新の志士の活動に対 しては満腔の感激を有するを以て大正第二維新を意味する」(22)と言ったこと に明らかであろう。明治維新の志士の活動は,彼等の世代的発想を支える歴史 的経験であり,同時にロマンであった。これは,水海道の場合にもあり,下伊 那郡青年会の場合にも見られた。
惜春会は,真鍋,志筑,北総に支部をつくり,青年同志会,全国学生普選連 盟と提携し(23),青年運動の一つの中心になりつつあった。これは,下伊那の
LYLが,プロレタリア青年組織の全国化の結び目になったのとくらべて,性
格を規定する必要があろう。2.水海道地域の自主化運動の展開 自主化の主張
水海道を中心とした惜春会北総支部が結成されたのは,すでに述べたように 1924年4月23日である。その中心メンバー,染谷秋之助,高島惣吉は,文芸サー クル「詩の森」を作っていたが,文学にあきたらなくなり,惜春会が政治団体 であることに共鳴し支部を作ることにした。高島によれば,水海道周辺は,政 治に無関心で無風地帯であったので無関心な人たちを堀りかえそうという意図 と政友会に対する反発からのことであった。政治に関心を持ったのは,五箇村 の旧家で地主兼自作の長男,かつ水海道中学を卒業した彼が,小作の状態に問 題関心を持ち農村をなんとかしたいと思ったことにある(24)。それは,次の発 言になった。「今頃は明るい農村にして呉れるだろうと思って皆んなして出し
た代議士だったのにまだ暗い農村をそのままで置く,明るくしないうちにまた
『明るい農村にするからどうぞ私を議政壇上に立たして下さいお願いします』
などと近々大騒ぎをやらなければならぬのだろう。笑いたくなる。これじゃ暗 い農村たること永久不変だ。言うことの上手な人より実行ある人を,私たち農 村の代表者としようじゃないか」(25)。彼等は,尾崎行雄や後藤新平を招いて 講演会を開き,反政友会の候補斎藤茂一郎を支持して動き,第一回普選では風 見章を支持した。
同時に,青年会自主化運動を開始し,染谷は三妻村の,高島は五箇村の,広 瀬正は大生村の青年会長になった。彼等がいかなる発想をしたかは,1929年8 月24日に開かれた水海道地方青年大会で見ることが出来る。大会には,五箇村 の高島惣吉,長岡健一郎,横田新六郎,大生村の広瀬正,山崎淳,三妻村の染 谷秋之助などの自主化運動のリーダーが参加し,討議をリードした。彼等は,
自作あるいは自作兼地主の子弟で,地元の水海道中学あるいは私立中学青義学 館を卒業していた。
この大会の宣言は,次のようなものだった(26)。
大会宣言
そのかみ平将門はこの常総の地に拠って時の権勢藤原氏の中央集権的執政に 対し反逆した。徳川の初期水戸義光は早くも日本国史の筆を執り明治革命の原 動理論を確立し,今を去る六十六年前王政復古の黎明期に於て白面の青年志士 藤田小四郎は幾千の同志を叫合し筑波の霊峯に拠って天下に大義名分を宣揚し 徳川政府に肉迫した。無名の青年志士の鮮血に色どられて明治の革新完成して 爾來幾十星霜激流の如き文化の進展は遂に現時の日本を招来した。
併して今や祖国日本は第二維新の機を孕み未曽有の転動期に際会するに至っ た。政党政治の劣悪化,宗教,教育の頽廃,社会思想の混乱は必然に社会民衆 の生活を恐威し亦堅実なる吾人青年大衆の進路を益々暗黒ならしむものがあ
る。
斯くの如き重大なる時局に当面せる吾人青年の任務,それはすべからく永年 の迷夢より覚醒し青年的正義感と燃ゆるが如き革新の熱意と科学者の如き冷静 なる社会的認識を把持して一切の社会悪と闘争し清浄なる社会建設の先駆者た
るにある。
吾人は薮に光輝ある水海道地方青年大会の名に於て之を宣言し得るを幸とす るものである。
昭和四年八月四日
水海道地方青年大会
この宣言は,北総支部の考えを全面的に反映したものとは言Kないが,明治 維新になぞらえた青年の進歩性と第二維新の主張には惜春会の影響をみてとれ
53 る。そして,青年が社会変革の運動に進出するさい明治維新とともに郷土の英 雄にその正当性を求め,同時に中央に対する地方の利害の主張の正当性の根拠
を求めており,その点で政治の無風地帯で農村青年の多数を結結集する際に依 拠する正当性の根拠の特徴が現れていると考えられる。
この宣言では,青年会自主化について触れられていない。しかし,この大会 の印象について,今東光と 日本労農党群馬県連書記長菊池重作は,それぞれ「『青 年会は青年の手に!』というスローガンを掲げて,その端緒に付いたこと」(27)
「代表諸君が官製青年団脱退を決議した事は正しい事であって」(28)と書いて おり,大会では青年会の自主化,あるいは「官製青年団脱退」の意見が強く出 されるか,またはこうした雰囲気が会場に強かったことを物語っている。
このように,青年会自主化の主張は,青年の世代的進歩性と発想にもとつく 政治活動の進出とともに出された。
この1929年には,菊池重作が大会で祝辞を述べたように左翼の進出がこの地 域でも始まった。他方,県当局は「自主化」の方針をあらため,「統制」「規律」
「従順」を青年団の方針とした(29)。したがって,この時期から活発になる自 主化青年会の活動は,客観的には,県の統制方針に抵抗するものであり,青年 の中に左翼の影響が出てくるなかで行われたのである。
青年の変革革志向と農民としての自意識
それでは,五箇村の青年会活動をみてみよう。五箇村は,農家戸数400戸前 後の純農村地帯であった。自作,自小作,小作のうちわけは,別表のとおりで あり,1930年に地主と地主兼自作は75戸だった。この表でも,大恐慌の影響が 小作と自作の増加,自小作の減少に現れているが,農産物価格総額では,それ がはっきりと現れている。すなわち,大恐慌前の1928年には,米約17万4,000 円(53%),麦4万3,000円(13%),繭10万9,000円(33%),総額32万6,000円 だったのが,1934年には総額が24万7,000円に減少し,構成比は米74%,麦6%,
繭19%となり,繭の減少が著しく農家一戸あたりの負債額は573円に達した(30)。
年 自 作 小作 自小作
1915 112(24.9) 148(33.6) 189(41.5)
1936 119(29.2) 159(38.9) 130(31.9)
階層別農家戸数(『水海道市史』239P)
この大恐慌の始まった時,五箇村の青年会活動は最盛期になった。この村の 青年会は1910年(明治43年)に設立され,各地区ごとに祭りや共同事業を行い,
スポーッが盛んに行われていた。1924年ごろから,高島が中心となって青年会 員からなる読書会が作られた。これは,会員から月50銭を徴収し,くじびきで 5人に配分し,好きな本を買い,定例会での本の紹介と読後感を報告すること になっていた(高島による)。これに参加した青年たちが,自主化の中心になっ
た。
1929年に青年会報が発行され(31),青年文庫が五箇小学校に設置された。また,
月一回の座談会,漫談会がおこなわれ,弁論大会も活発に行われた。座談会・
漫談会は,毎月旧の15日に,「生活改善について」「百姓についての感想」「各 自の知っている風かはりのもの一つ」などのテー一一・マでまず座談会を行い,その 後菓子を食べながら漫談会を行っていた。会費は10銭だった。
青年文庫の本は,青年会員,教師の寄贈によってそろえられ,文学関係が圧 倒的に多かった。例えば,有島武郎『カインの末喬』,『武者小路実篤集』,倉
田百三『愛と認識の出発』,『出家とその弟子』,『イプセン集』,トルストイ『殺 人者の侮恨』などである。これらにこの青年たちが模索していた志向を見てと
れる。
青年の志向がはっきりとわかるのは,世代的発想と農本主義的発想である。
それは,既成の村の体制,習慣への反発として,世代的発想をともなって現れ た。これらは,青年会報にあらわれている。例えば,高島惣吉「若い者の言葉」
(第二号),朝川喜代「感ずるままに」(第四号)である。高島は,「老い朽ち た老人の時代はとうに過ぎた。一中略一何といっても若人の時代は来たのだ」
と言い,朝川は村人の打算性とことなかれ主義に反発し「時代は常に青年の者 である。今や古き日本は去り行き新しき日本が生まれ出様としているんだ」と
述べた。
そして,青年会員のなかに農本主義的発想が広がっていた。青年会報創刊号 の表紙には,くわをふるう農民の姿が描かれ,次の言葉が記されている。「土 を耕す心,それはあらゆる創造の根源である。土を忘れて,人類,何処に生き る。つつましく,つつましく私達は,最後まで,土の心に生きよう」。この発
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想は,青年会報の文章にも見られる。例えば,高島惣吉「土の芸術」(第一号),
井の中の蛙「わしらのじまん」(第四号),長岡健一郎「ささやき」,M・T生「偶 感」(第三号)である(32)。この人々のなかで,高島は,中村孝助『土の歌』に 感動し,犬田卯『土の芸術と土の生活』を愛読しており,この犬田の著作に高
島の文が影響を受けたことは明らかである。
この発想の基礎には,対都会との関係で農村を位置づけた農民としての自意 識があったことは,あきらかで,読書会では『農業世界』『農民文学』が購読 され,青年会報にも副業の試みや,養蚕の経験がのっている。そして,長岡の ように農本主義的発想をしながら,マルクス主義にも関心を持つ青年があらわ
れた。
マルクス主義への関心は次のようにあらわれた。読書会では『戦旗』が読ま れ,長岡は,広島定吉訳ブファーリン『唯物史観』の読後感を報告し,横田新 六郎もこれを購入し,長岡は河上肇『貧乏物語』を読んだ(長岡による)。また,
小作争議のおこった大生村に隣接した地区の貧農青年のなかには補習学校に来 て革命歌を歌うものもいた(増田実による)。
これらの動きの中で,青年会は1930年沖新田の集会所に菊池重作を呼び,産 児制限と小作争議の話を聞いた(高島・長岡による)。この動きは,村を越え てひろがり,長岡,横田は,大生村の農民組合運動の組織者の一人広瀬正と『地 上』というガリ版刷りの同人雑誌を出した(長岡による)。同じ大生村の農民 組合の組織者で,小作争議の指導者となった山崎淳は,小作争議の応援を頼み に高島を訪ねたが,高島は小作争議に同調せず,カンパをしたのみであった(高 島による)。高島の政治運動は,惜春会の流れにあり,風見章を支持して動いた。
それは,1929年に生活改善同盟を提案したことにもあらわれた。「結局生活改 善同盟の提唱によらなければ現在の生活苦より脱することが出来ない。生活改 善同盟会設立こそ整理緊縮は勿論のこと,金解禁の準備であり,且つまた,教 化総動員の目標たる(一)国体観念を明らかにし,国民精神を剛健にする,(二)経済 生活の改善をはかり国力の培養をつとむるの二項を速やかに解決する手段でな くて何であろう(33)」。この金解禁は,当時風見章が所属していた浜口民政党内 閣が計画したものだった。しかし,金解禁の期待は,大恐慌の発生によって裏
切られる。といって風見章の支持をやめたわけではなかった。
惜春会北総支部は,橘孝三郎を講師に呼んだ。その話に感銘した高島と染谷 は,橘が作っていた愛郷会の支部をつくることを思い立ち,水戸の愛郷塾に橘 を訪ねた。しかし,この時のちの5・15事件の中心となった古賀中尉,三上中 尉と同席し,話の内容から不隠な形成を感じ,支部結成を見合わせた。高島が 橘に感銘を受けたのは,農村の問題を解決しようとしていた時,軍部が悪いと 言う話も出ていたが,軍部を批判しない橘が,農民は自主的に団結しなければ ならない,地主政治を倒さなければならないという話をしたことによる(高島
による)。
橘との接触には,風見章の影響があったと思える。風見は,愛郷塾を強く支 持していた。風見が橘を支持した理由は,農民の「他力本願に陥りやすい」,「保 守に過ぎ退嬰に傾きやすい」欠点を克服する,「環境の自然的事情事態一切を おのれの力によって征服し支配せんとす」「人間力の尊重」を橘に見たことに よる(34)。この理由に,農村の保守性に反発し,青年の自主的活動により事態 を解決しようとし農本主義に共鳴していた高島が共鳴したのだろう。又,高島 は引用したものでわかるように天皇制に批判的でなく,彼自身在郷の将校一少 尉として青年訓練所の指導員だったからマルクス主義の影響を受けたもののよ
うに軍部批判に同調できなかったと思える。彼のこのような思想的特質を満た すものとして風見と橘がいたのであろう。
このように,惜春会に参加あるいはその身近にいた青年たちは,昭和大恐慌 の時期に異なった方向を,社会変革の志向を共有しながら,模索しはじめてい
た。
青年会員の社会変革の志向が,共同したものとしてあらわれたのは,沖新田 の青年会が,草刈り鎌などの取り次ぎ販売をしたことに現れている。これは,
「中間的不正商人によって暴利をむさぼられつつある大字を幾分なりとも救」
うことを目的にしておこなわれたもので,消費組合的発想をみてとれる。また,
1930年の青年訓練所のほぼ一週間にわたるストライキがある(35)。
しかし,これらの変革志向は,左翼的なものは勿論,青年会全体,村全体に 受け入れられたわけではなかった。読書会に入っていたのは,五箇村の南部の
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川崎,沖新田,古敷の青年が多く,北部の地区の青年は少なかった。小説を読 む青年,すなわち青年文庫を利用するのも,南部に集中していた。小説を読む 青年に対する反発も,「小説を読むと思想が軟化する」というものから,親が 電灯料を心配して読ませないものまであった(吉田茂による)。また,風見章
を支持する者と政友会支持者との間に対立があり,これは政友会の代議士飯村 五郎が地元出身だったこともあり,南部と北部の対立としてあらわれていた。
しかも,政友会系で占められていた村の有力者の村支配も以前として存在して いた(36)。したがって,生活改善同盟の提唱も民政党の音頭とりとみられ,す
ぐ実行出来にくい状況にあった。
生活綴方教師との共同
小学校の教師は,青年会の図書部,講演部,運動部に部員として参加してい た。特に,生活綴方教育をしていた増田実は,隣村出身で若かったこともあり,
青年会活動に熱心で,青年会報の印刷,文庫の設置に尽力した。
五箇小学校では,1919年に着任した羽田松雄が「赤い鳥」の綴方教育をおこ なっており,1925年に着任した増田実はその影響を受けて生活綴方を始めてい た。1930年5月に,増田,羽田,吉田三郎は,「綴方視察会」を結成した。そ の宣言は,「本当の意味の生きた綴方教育」として「生活をぬきにしては,綴 方教育はなく,而して生命はのびぬ筈です。真に生活を凝視する一どんな環境 でも如何なる培いの経路を辿り,どう進展しつつあるか一その事が綴方教育の 使命だと思います」と述べていた(37)。ここには,明らかに『綴方生活』の影 響をみてとれるし,いわゆる第二次宣言の精神につらなっている。
この宣言の前年に,増田は図書部の設置と青年会発行の意義を次のように述 べた。「思想困難も経済困難も政治困難も概念として語ることは容易です。世 の人が叫ぶからいふ,それならば語りえることは甚だ容易です。声高くさうし た事の叫ばる々反面をみたとき救はれざる寂蓼はむしろそこにあるのではない でせうか。最も重大なホントにそれこそ全身を以て考えてみねばならぬそれら 深刻な問題を,世人はあまりに軽率に思想困難を…云々していはしないだろう か。一中略一〇〇困難,○○困難…もう私達は飽き飽きした。何も知らぬ,純 心無垢な児童達にまでわけのない困難を知らしめおびやかすとはたまらない寂
しさです。お々さうだ徒に叫ぶことは止めよう。そして徐に救ふ,救はる々道 を求めようではないか」(青年会報一号)。
先の宣言とこの文章は,中内敏夫が言う構想主義からリアリズムへの生活綴 り方教育運動の転換に位置づけられうる。(38),この点は,当時増田が執筆し ていた「綴方科経営の基調と実際」(『綴り方教科の施設と経営』千葉春雄編,
厚生閣,1933年)によくあらわれている(39)。彼は青年会報にのせた青年の原 稿に「あまりに机上空論的な抽象論に終わっているものがある。むしろ平凡で
も我々の生活とすっかり密着したものを題材にして論評を試み感想を述べた方 が適切であるように考えるが如何」(青年会報三号)と書き,生活綴方の精神 の実現を青年にも期待した。
それでは何故,増田は,青年にまで生活綴方教育を含んで青年の指導を行お うとしたのだろうか。増田は,二つの理由を挙げている。ひとつは,『第一歩』
『若き旗』という青年を対象にした生活綴方系の雑誌が出て,卒業した者への 施策が出ていたこと。ひとつは,読書指導も熱心だったので,卒業してそのま ますますのはおしいきがしたことである。青年会報に読書感想文をのせたのは,
増田の提案だった。増田の影響は,大きかったようで教え子で文庫の利用に熱 心だった吉田茂は,「増田先生の影響で本を読むのが好きだったし,おしんの 時代のように大変だったから本を買えなかったので,(文庫を一引用者)利用
した」と言っている。
『若き旗』は,小砂丘忠義責任編集,『第一歩』(1930年5.月創刊)を1931年 1月号から改題したもので,小学校を卒業した青年むけの雑誌だった。したがっ て,生活綴方教育運動から生まれたのだが,生活綴方を書かせるよりも「若き 力に躍る青年男女を中心として新しき文学や思想を研究する雑誌」(『若き旗』
1931年3月号)だった。これが,青年会の中心メンバーに読まれていたことは,
長岡健一郎が1931年3月号に短歌を投稿し,掲載されたことからわかる。
増田の青年への期待は,読書や生活に基づいた文章を書くことだけではな かった。青年会報四号の後記に,「石川さんの『薄荷栽培』について,最も時 機に適合した好資料。会報がこうした方面にも利用さるることは,うれしいこ との一つ」と書いて,農業経営問題にも関心をしめており,生活改善同盟にひっ
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かけて「村は明るく健全に,すくすくと伸び上がる」方策を考えていた。のちに増田は,「村の綴方の行くべき道」は,「村をよりよきものたらしめる あらゆる精神や技術やと結託して,その本質をゆがめる事なく進むべきではな いだろうか」,「従って『佳い文の存在を決定する』条件は,『よりよき村たら
しめる意志や知識や感1青やと表現との意識的結合体』の中にあらゆる場合見て 行きたい」と述べた。さらに,「実践の深みも,児童文の奥行ある進展も,畢 境指導者としての農村教育者の,農村社会に対する認識の深さこそ,それらの 成長を助けるものである」と主張した(40)。こうして,自らを農村建設の教師,
指導者と位置づけようとした。その意味では,五箇小時代にこのほう芽があっ たと言えよう。
増田は,教師としてのみ青年に対そうとしたのだろうか。彼は,青年として 農村に定住する意味を模索していた。彼は,富原義徳『土の綴り方』(厚生閣 1928年)に大変感動した。これについてこう書いている。「『土の綴方』の自序 のさわやかさ,当時の若い村の綴方の教師がいかに勇気づけられたか。村の子 供でもこうした文が書けるのだという自信と,都市文明に追随していた田園文 化の母体の見直しという基底的問題に対する検討ということが複合して,生活 が単調で語いが不足な田園の子の文章はだめだという自己卑下の意識から立直
らせた」(41)。これは,教師として,また教師を選んだ青年として農村の問題へ の自我同一性を示したものだと理解できる。しかも,村の封建性に反発してい た。これら点では,農本主義的な発想をしていた青年会員と共通していたので あり,その意味で仲間であった。その上に,彼は「教師様」から脱却し「一個 の人間」たらんとしていたのであった(42)。
まとめに代えて
増田は,1930年6月の水海道小学校で開かれた官製の研究会で生活主義修身 教育論を主張したため,五箇小をおわれることになり,その年10月大形小学校
に移った(43)。青年会は,有力な働き手と支持者を失うことになった。1932年 2月に高島が召集されて会長をやめたあとで,新しい副会長同士の対立がおこ り会長が辞任する事件があり,翌年横田新六郎が,日本プロレタリア作家同盟 の活動をした容疑で検挙された(44)。1933年には,大生村の小作争議に弾圧が
あり,山崎淳は治安維持法違反で起訴された。そして,1934年五箇村は茨城県 経済厚生指導指定村に指定され,翌年には全村教育指定町村に指定された。そ の分析は,以後にまわさねばならないが,青年会自主化運動をになった青年た ちが,村づくりに活躍するのは戦後になってからである(45)。
五箇村青年会の自主化運動は,中学校卒の青年が中心となった。高島,増田 は,水海道中学の先輩,後輩であり,大生村の山崎淳は増田と同期だった。こ の三人は中学の時ストライキを経験している。また,長岡,横田は,私立青蓑 学館の先輩と後輩だった。
これらの青年は,都市に対する農村の独自性と農業の意義という農村生活へ の自我同一を共通にしていた。それは,惜春会も青年農民党結成の主張に見ら れるように課題としていたものであり,青年会自主化のひとつの理由であった。
したがって,農本主義的発想が生まれ,既成の政治体制一政友会に代表される 一に対する反発が生まれた。これを基底にしながら,変革志向は分岐していっ
た。
青年会には,その最盛期に貧農層も積極的に参加し,女子青年も参加するよ うになるが,それには増田の小学校における影響は大きなったようである。し かし,貧農層にとっては,中学校卒とは別の課題があった。吉田は,読書会に 入らなかったが,それは吉田に限らなかったであろう。ひと月五十銭の負担は,
姉妹たちを奉公にださねばならない貧農青年には大きかった。
青年会は,教育・学習の組織としての体制を整えた。それは,自主的な読書 会,会報の発行,文庫,座談会・漫談会であった。そこには,中学校卒の青年
を中心とした学習運動の積みかさねと増田にみられる教師の努力が結合したの をみてとれる。増田が,その生活綴方の実践を結晶化させるのは,五箇小を去っ たあとのことであるが,それを青年までおよぼし,村づくりの一環とすること を意識しはじめたのは,静岡の戸塚廉などの実践につらなる試みであったと言 える。また,青年に生活を捉えさせるために書くことを期待したことは,長野 県で行われたような青年の生活記録運動になるほう芽があったことも示してい る。(調査にあたり,水海道市立図書館長谷貝忍氏を始めとする水海市の方々,
及び青木光行氏にお世話になった。お礼をのべたい。)
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注
(1)下久堅青年運動史研究会「長野県下久堅村青年会の『自主化』運動」『信州白樺』
No59・60合併号,1984
(2)吉田昇「戦前における青年団の自主性をめぐる論争」お茶の水女子大学『人文科 学紀要』8巻,1956
(3)宮坂広作「初期自主化運動に於ける政策受容の問題をめぐって」日本社会教育学 会『日本の社会教育第4集一社会教育行政の理論』国土社,1958
(4)木下春雄「下伊那社会主義青年運動史の研究」前掲書所収
(5)宮原誠一一・宮坂広作「青年期教育の歴史」『岩波講座現代教育学16』1961
(6)これを良く示している論文に次のものがある。小川利夫「大正デモクラシーと社 会教育」碓井正久編『講座現代社会教育H』亜紀書房,1980所収および木下春雄「社 会教育体制の確立と抵抗運動」『岩波講座現代教育学5』1962所収
(7)木下春雄前掲論文
(8)小川利夫は,前掲論文で「今日あらためて『権利としての社会教育』の思想と運 動について,その戦前の遺産を明らかにしていくことが,よりいっそう必要であり 重要な意味をもつと思われる」という(前掲書127P)。また,「教育の自由」の検 討の意義を指摘したものに,「『自由大学』運動の再評価一その理論的視点(1)」『自 由大学研究』第1号,1973がある。
(9)小川「青年教育の体制化と青年団『自主化』運動」国立教育研究所編『日本近代 教育百年史第7巻社会教育1』教育研究振興会,1974所収
⑩ 茨城県では,青年団長の年齢は,20 一一 29才が21.5%しかしめておらず,職業別で は,校長が33.2%,町村長が24.3%,その他の教員・官公吏が13.5%,合計71%に 達していた。したがって,「自主化」された青年団は,25%前後と考えていいだろう。
全国では,20〜29才が約40%,教員約35%,町村長・官公吏約20%だった。(大日 本連合青年団調査部『大正十五年度郡部青年団基本調査,団長・副団長調』1932年 による。なお,この調査には長野県はのっていない。)
(11)坂元忠芳『教育の人民的発想』青木書店,1982年,60 P 一一 61 P
吻 この論文では,仮設として設定した基本的な座標軸のひとつに「国民の形成にお ける民衆の可能態への発想」があれわれている(前掲書23P)。これは,「近代日本 教思想史研究の課題と方法一その試論的一考察」にも受け継がれている(同書所収)。
しかし,前者の論文で,「民衆の可能態」が「体制内の思想にそのようなモメント がまったくなかったというのではない」としながらも,その点の位置づけは明確で ない。
(13)前掲書9P
(14)例えば,松下圭一は『社会教育の終焉』筑摩書房,1986で市民文化活動があれば 社会教育はいらないと主張しているが,市民文化活動に学習の営みがないとは考え られない。
㈲ 青木,雨宮両論文とも惜春会の中心人物菊田禎二郎がトストイなどの著作を愛読 していたことを指摘し,雨宮論文は菊田日記を引用しているが,筆者は未見である。
⑯ 天谷一郎「所謂『青年会』に挑む」『惜春』3号,1923年11月20日
(1の 樫村勝彦『茨城県教育史・下』常陸書房,1980,733P〜735P
(18)山王青年会『山王青年会施設概況』1924,5P
(19)天谷前掲
㈲ 「時感二題」『惜春』6号,1924年4月28日
(21) 『惜春』前掲
(22) 「同志の叫び」『惜春』創刊号,1923年9月20日
團 青年同志会は,『惜春』4号によれば,1924年12月21日九段の借行社で発起人の 相談会が開かれている。学生普選連盟は,1924年1月20日神田明治会館で発会式を あげた。早稲田大学の学生が中心で,慶応・法政・日本・中央などの学生が参加し ていた。同年2月2日の代表委員会での決議は,次のとおり。「我等学徒は全国の 青年と倶に飽くまで純正なる普選貫徹の為に猛進し其即行を期す。普選の意義を開 明し,迷妄なる特権階級及び既成政党に峻厳な批判を加へ政治社会の粛正を期す」
(『早稲田大学新聞』25号,1924年2月5日による)
圃 高島は,そのきっかけを次のように語っている。「小学校6年の時,1年上に秋 田という人がいて,この人が奉公に来た。嫌になったですよ。その頃中学に行きま したから,そんなのを見た時に,農村とはひどい生活をするもんだと思ったですよ」。
㈲ 高島「若い者の言葉」『五箇村青年会会報』2号,1929年8月4日
㈲ 『水海道新聞』20号,1929年8月15日
(27)今東光「青年諸君に送る第一信」前掲23号1929年9月15日 鯛 菊池重作「政治を動かす力を作れ」前掲25号1929年10.月5日
㈲ 茨城県連合青年団機関誌『茨城青年』2号,1930年11月は,次のように述べた。
「青年団発達の機構は『統制』にあるのであり,一中略一言うまでもなく統制の基 底をなすものは規律である。如何に青年団の規律的訓練が完成しているかは当該青 年団の統制を物語るに充分である。而して規律は上長に対する『従順』であり没我 の共同である」。
(30) 『水海道市史下巻』水海道市,1985,181P
(31) 『五箇村青年会報』は,現在5号まで確認されている。1号1929年6月12日,2 号1929年8月4日,3号1929年10月,4号1929年11月11日,5号1930年3月1日 岡 長岡とM・T生のは,盆踊りを称揚したものである。長岡は,「この盆踊りは農 村のみが持ち都会人の味ひない農村特殊の芸術である。」という前提にたって,そ の改善を主張している。井の中の蛙は,「気の毒だけれど東京の連中にまでも俺達
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は恩恵を及ぼして居るつもりだ。有難いと思ったら三度の食事の時だけでも敬意を 表し給へ,朝な夕な飯食う毎に忘れじな恵まぬ民に恵まるる身は」と書いている。
㈱ 高島「生活改善同盟の提唱」前掲3号
(34風見「農村の人達の一特質について」『いはらき』1930年4月23日。なお,風見 は犬田卯も援助していた。住井すえ「抱擁の人・風見章」『暮らしの手帳』96号参 照
㈲ これについては,『水海道市史下巻』もふれているが,理由ははっきりしない。
後述する増田の転任を理由とした校長への反発や羽田松雄が授業を休んでどこかに 出掛けたことへの反発などがあったようである。(長岡による)兵役との関係で注 目すべきことは,この地方では,徴兵のがれのための神社まいりがおこなわれてい たことである。1月には,徴兵適令者は,村の鎮守様にはだしでおまいりに行く習 慣があり,一言明神には,甲種合格のくじのがれのために,おまいりに行ったと言 う。これは,昭和12,3年頃まで続いた。(長岡による)
岡 増田は,6年生の担任になった時,級長選挙をしたところ,自作の息子が当選し それまでの級長である地主で村の有力者の息子が落ちた。選挙の結果どおりにした ところ,校長から,なぜその地主の息子を級長にしなかったとひどくしかられる経 験をしている。(増田による)
働 増田「茨城県生活綴方教育運動小史」『作文と教育』1966年1月号所収 岡 中内『生活教育論争史の研究』日本標準,1985,P182〜3
倒 次のように言う。「そのはじめ××指導書,××研究書,××指導系統案,××
指導細目等々々,己を忘れて椅ったそれ等も,今の私に取って何の意味も持たなく なった。ひたぶるに,児童それ自身と,児童生活の実相と,人生の真実相と,人間 の表現生活と…とを凝視し,内省して私は私らしい綴方の経営をして来た」(同書
67 ・一 68 P)
ゆ 増田「佳い文の存在を規定するもの一農村児童の綴方」『工程』1巻4号,1935
年7月
㈲ 増田「わが生涯」『SAIDE』No37,1981
囮 増田「綴方科経営の基調と実際」『綴り方教科の施設と経営』所収で次のように 言う。「次に綴方教師は完全に一箇の人間でありたい。一中略一教師様と自分から 祭りあげて,小便をするにも教育者的意識をもってするといふ様な,随分馬鹿げきっ た特権的意識に始終働く偶木のやうな非人間的人間に,あの議刺した児童の生活を どうして正しく認め,そして伸ばし得ようか。」(同書71P)
㈲ 増田「わが生涯」前掲書
(44 羽田邦三郎『茨城県共産主義運動史上』需書房,1977によれば,横田が中心とな りプロレタリア作家同盟の文化サークルを作ったことになっている。しかし,著者 は,当時の特別高等警察を担当した立場から書いており,現地では確認されていな
いo
㈲ 長岡は五箇村村長,吉田は共産党の村議,高島は社会党の村議になり,横田は水 海道市市長,山崎淳は大生村村長となった。