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ドキュメント内 昭和大恐慌と青年会自主化運動 (ページ 30-48)

  青年会の文庫から賀川豊彦の本を借りてさんざん読んだ。第二無産者新聞  はいとこからもらった。学習会のことはよく覚えていないが,仕事終ってか  らよく信用組合へ行った。こちらでは繊維の組織(全協日本繊維労働組合一  引用者)に入り新聞やプリソトをもらった。お父さんお母さんにおこられ  て,そんなことしてお嫁に行けんと。でも,なんとかして世の中よくしたい  と思った。

  (そして,東京へ出る),東京では関東消費組合の無産者託児所の手つだい  をし,千住繊維場(軍隊の毛布や服をつくるところ)に臨時工で入り,「ラシ  ャ場」という細胞新聞を出す。岩田義道が殺され葬ぎの時レポーターに頼ま  れて行ったが,電車の中で特高につかまる。家に帰えるといって釈放され帝  大セツルメントに行く。その後東洋モスリソのオルグとなった。1934年3月  頃逮捕され戸塚警察署に抑留され翌年2月お父さんがむかえに来,釈放され  帰える。その後,鷲見京一と結婚,鷲見が1941年逮捕された時,産後の床に  いたと言う。父が戦後家に来て,「戦争に負けてよかったなあ,こんなに気  楽に物がしゃべれるのはいいなあ」と言った時うれしかった。娘がつかまっ  て苦労したし,めいやおい達も大変だった。お前のおばさんは赤だ,赤だと  言われて。(鷲見あいからのききとりによる。)

 農本主義の潮流とそこから生まれたファショ運動への青年の参加,社会主義 的青年の動きをみたのであるが,ファショ的志向の青年と社会主義的青年の対 立は,1932年12月5日の青年会の雄弁会で満蒙問題と自由をめく・る問題にあら われた。この雄弁会で,壁頭たった小林譲は,「我農村窮乏の直接原因は農産 物の価格決定の実権が都市にある」と農本主義的発想を吐露し,これを打開す るには「従来よりの自由主義的思想は既に捨てなけれぽならない」と述べた。

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6番目に立った今村康郎は,「外交的国家的非常時に際して」と題し・満州問 題について「国際連盟は全く東洋の情勢に認識不足であって,絶えず日本に不 利で不当なる判決を下されつつある。連盟は白人種の強大なる勢力であり,有 色東洋民族の発展を圧迫するものである。」と主張した。また久保田経男は「満 蒙権益をプロの手へと移民せよというのではない,現在の様に一部の階級に専 横されているのは仕方がないからそれを国民全体のものにせねぽならない」と 主張した。

 排外主義とファショが青年をとらえたことを示しているが,これに対し批判 的意見をのべたのは北沢小太郎である。北沢は,「満蒙をプロの手に」という 満州移民のスローガンに対し「満蒙は日本の生命線と云うがあれは資源の資本 家の生命線である。」と批判し,「ただ農村問題を叫び社会の矛盾を批判して,

現在社会を批判しつつある政府と何等行違ひなく行けるかどうか問題である。

一中略一農村問題を論じ,社会の欠陥の改革を主張するにあたり,先づ極度に 圧迫されつつある出版と言論の自由を考えねぽならない」と農村問題の解決を 志向することが,ファショに行くことに警告を発した(38)。

 満州問題をめぐる排外主義,ファショの志向と反排外主義,反ファショとの 基本的対立をふくみながら青年会は運営されていた。しかし,満蒙問題をめぐ

る排外的発想は,満州事変以後竜丘青年会の多数意見になっていたと考えてよ いだろう。満州事変の翌年1932年の新年に出された青年会役員連名の年賀状に 次のように書かれていた。

  「帝国生命線満蒙問題益々紛糾其進展予測を不許邦家前途是憂患不堪もの有  之候各位益々御精励為国権擁護一層御精進有之度奉懇願候」

 そして,この年2月青年会は茨城県の日本国民高等学校長加藤完治の講演会 を持った。聴衆は約150名。晴天の為青年に仕事が多く青年より壮年者の出席 が多かったが,男女補習学校生徒全員が参加した。加藤は,土地が狭く人口の 多いことが農村困難の原因であるから,耕地を満州に求め「彼地に新天地を開 拓すべし」 と満蒙開拓を主張し,「聴衆に少からぬ感動を与へた」のであっ

た(39)。

 このような動きを批判した社会主義的青年は,1933年のいわゆる二・四事件

によって弾圧を受け,その活動をちっ息させられたのである。

 他方,青年会には副業や生活改善を実行する動きがでてくる。1932年2月の 桐林青年会の座談会では生活改善実行の意見が多数をしめた。

 座談会 不況生活難救防の青年覚悟如何

 全員各自の腹の中から絞り出した意見発表あり,醜餓線を喘ぎ喘ぎ辿りつつ  ある農家を如何にしても救ひ上げると云ふ事は現在では出来得ぬ事である。

 農産物の低落止まる所を知らず軽減される事少なく日用品,肥料の下落率少  なし,取る事の出来ない吾々は使はぬ事だ。村へ生活改善実行を迫れ等と熱

 を吐く人多数(40)

 農本主義は,みずからの困難を糾弾する発想であり農民の尊厳をかけた主張 ではあったがそれだけ言っても食う事はできない。議論はしていても不況はす すんだ・そこから「救ひ上げると云う事は現在では出来得ぬ」というあきらめ が生まれる。誰も救ってくれないとしたら自からの手で切りひらかねばならな い。この年6月駄科では,借金不払断行の区民大会が開かれ,他町村民・銀行 からの借金は1年間不払いをすることを決めた(41)。収入がへるとしたら借金 をどうするかが当面の課題となる。

 そして,収入を得る道は副業に。農家の記帳がすすめられ,青年会は農事研 究会を組織し一人一研究をおこなう。副業は自由画教育からうまれた農民美術 がとりくまれたが,成功しなかった(42)。しかし,養けい,凍豆腐がおこなわ れ共同販売組合に組織された。消費生活の為には購売組合が設立された。 こう して・全体として産業組合へ統合され,通俗道徳による努力と共に自力更生運 動に組織されていく。

 恐慌の中であってもエネルギッシュにとりくまれたのが村社祭典の余興や音 楽会であった。いや恐慌で暗い話題ばかりだったからと言った方がよいかもし れない。青年会は不況の為取りやめることを内定したこともあったが,村民が これをゆるさなかった。桐林青年会記録簿によれぽ1931年4月の春期村社祭奉 祝全員大会の様子は次のようなものであった。

  各班は仮装に独特の趣向をこらし6時桐林集会所集合7時久保尻音楽隊を  先頭に第一班順に出発沿道の観衆を笑殺せしめつつ8時村社到着参拝境内1

       47  週して8時よりプログラムー中略一以上のプPグラムは数百名の観衆をして  驚歓せしめ抱腹絶倒するほど大盛況狸に10時半閉会

 不況対策の深刻な議論にくらべ,青年会員の生き生きした面目躍如たる様子 が伝わってくる。青年会,女子青年会主催の音楽会には800名の聴衆が集まっ たり,祭典出演の劇の主役が決まらず投票をする等の記録が出てくる。こうし た祭等の娯楽には多くの青年ははりきって参加し,村人も楽しみにしていたの

である。

 しかし,状況打破を希求し雄弁会,研究会で活躍した青年達にとって,祭や 娯楽に青年が熱中する姿はにがにがしくうつり,そうした役割をもち,一定の 方向の行動に出れない青年会に不信の念を持ち,青年会無用論も出て来る。例 えぽ,「既成青年団に於ては各々に持つ主義主張をとり入れることさえ出来得 ない。娯楽会などに本気になっているが現下の青年の使命であろうか。否研究 会を旺にして,よろしく青年運動を批判して能動的に活発になる行動化へと進 まねばならぬ」「青年団は一貫せる指導精神を持って堂々と行動せねぽならな い。……現在の有様では解消すべしだ(43)。」これらはいずれも自由主義,個人 主義を否定した青年の発言である。

 「既成青年団をして社交的・御祭御用青年団とせしむる勿れ」と呼びかけた 仲田生は,「御互の理想,理論を最も厳正に批判し評価する修道場と成す事」

に総合青年団の意味を求めながら,「果敢なる運動陣営を展開遂行せしむ」「思 想的統一を根本とした階級青年団」こそ「重要なる社会的役割を演ずる」と

「階級青年団」を待望した(44)。また久保田経男は,仲田生と同様な批判と意 味を綜合青年団に求めながら,綜合青年団とは別に産業組合青年連盟のような

「一定の使命と信念に生きた行動的青年の結合」がなけれぽならないと主張し

た(45)。

 このように国粋主義的青年の中から(仲田生がどのような思想を持っていた かははっきりしない),綜合青年団にあきたらず無用論やはっきりした目的を 持ち実践できる青年組織必要論がでてきた。無用論にしても後者のような青年 組織を待望している点では同じであった。階級青年団論を明確な意識によって 目的がつくられた同志的青年組織と一般的に規定すれば,国粋主義的青年の中

ドキュメント内 昭和大恐慌と青年会自主化運動 (ページ 30-48)

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