• 検索結果がありません。

 修士課程2年生 修士論文の検討1一①

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア " 修士課程2年生 修士論文の検討1一①"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

日 程

第1回(4月29日)

 ガイダンス

第2回(5月25日)

 修士課程2年生 修士論文の検討1一①

第3回(6月1日)

 修士課程2年生 修士論文の検討1一②

第4回(6月22日)

 文献講読①

 斎藤孝「『氣合』の技化」(『教師=身体という技術』

  世織書房、1987)

 基調報告:川津(D院生)

 コメント:乾(教員)、宮島(D院生)、上妻(M院生)、

     大岸(M院生)

第5回(7月6日)

 博士翠程院生論文検討

第6回(7月13日)

 文献講読②

 坂元忠芳『対話の教育への誘い』(新日本出版社、

  1991)

 ボルノー講演集/浜田正秀訳「対話への教育」

  (『対話への教育』玉川大学出版部、1973)

 基調報告:岩崎(教員)

 コメント:藤井(D院生)、岡本(M院生)、

      トヤー(M院生)

第10回(12月7日)

 修士課程1年生 修士論文の検討②

第11回(12月14日)

 文献講読③

 福島智・星加良司「〈存在の肯定〉を支える二つのく   基本的ニーズ〉一障害の視点で考える現代社会の   「不安」の構造」(『思想』青土社、2006・3月号)

 基調報告:福島智氏!東京大学先端科学技術研究セン   ター助教授)・星加良司氏(東京大学先端科学技術  一研究セシター助手)

 コメント:浜谷(教員)、藤井(D院生)、

  安達(M院生)、巴(M院生)

第12回(1月11日)

 文献講読④

 佐藤公治『認知心理学から見た読みの世界一対話と協   同的学習』(北大路書房、1996)

 基調報告:教育実践グループ(叶田)

 コメント:大串(教員)、宮島(D院生)、有川(D院生)

第13回(1月25日)

 文献講読⑤

 鶴見和子『内発的発展論の展開』(筑摩書房、1996)

 鶴見和子『日本を開く一柳田・南方・大江の思想的意   義』(岩波書店、1997)

 基調報告:教育思想グループ(斉藤)

 コメント:小國(教員)、叶田(D院生)、笹島(M院生)

第7回(]0月26日)

 修士課程2年生 修士論文の検討2一①

第8回(11月9日)

 修士課程2年生 修士論文の検討2一②

第9回(11月30日)

 修士課程1年生 修士論文の検討①

(2)

第4回 文献購読① 実施期日:2006.6.22.

記 録

文献:斎藤孝「『氣合』の技化」(『教師=身体という技術』

   世織書房,1987)所収論文。

一記録内容一

 本時においては、文献の推薦者である川津(D3)よ り、文献の理解・推薦理由等について事前に基調報告が 提出されており、ゼミの開始にあたってまず最初に川津 が基調報告の補足を行い、続いて指定コメンテーターで ある乾(教員),宮島(D3),上妻(M 1),大岸(M 1)

より、コメントが提出された。

 川津は文献を推薦した理由として、今年度の総合ゼミ 文献講読における通年のテーマ=「対話」にもとづき、

斎藤の論文を教育学的な意義を考えるという観点による ものであると最初に述べた。斎藤論文で焦点化される教 師の身体および教育技術という問題が、いかなる可能性 をもつものであるのかという点を考察することが、今回 の基調報告(文献推薦)の念頭に置かれていることが指 摘された。

 こうした川津の提案をうけ、コメンテーターの上妻,

大岸より斎藤論文の基本的な理解が示され、特に斎藤に よって提唱される「クリエイティブな関係性の現出のた めの技(の探求・実現)」という点について、詳解な理 解が示された。上妻,大岸によれば、身体を通した他者

との関り方という観点から、教師一生徒間の関係性を考 えるという斎藤論文の姿勢が、果たして斎藤自身によっ て自覚化されているような肯定的な関係の生成につなが るものであるのか、という問題が浮上しているという。

これに加え宮島より、身体という概念を挿入することに よって可能となる新たな教育関係の生成/形成が、具体 的にはどのように構想されるものであるのかという問題 点が提出された。

 乾は、教師一生徒関係のなかに存在する権力の問題を 中心に指摘した。そのうえで、斎藤論文が身体という問 題から既存の関係性を脱構築しようとする試みは、一定 評価できるものの、少なくとも斎藤この論文のアプロー チにおいては、失敗に終わっているという感想を述べて

いる。

 基調報告およびコメンテーターによる分析を踏まえ、

議論においては主客二元論の超克という問題が中心的な 争点となった。教育の場における既存の(権力)関係を 編み直すうえで、斎藤が教師の「身体」あるいは「技」

という観点から比較・例証(加藤末吉,芦田恵之助,竹 内敏晴)している部分に共通性が見いだし難いという指 摘がなされた(院生新井/教員小國/助手深見)。また それゆえ、斎藤の意図から離れ、教師という存在の管理 支配的・権力的な側面が強調される結果を招いていると いう指摘が挙げられた(乾/小國)。その一方で、斎藤 自身はこうした側面にたいするアンチテーゼとして身体 性という問題に注目し、「教育技術」の既存の使用法に おける管理的な意味合いを問い直そうとしているのでは ないかということも指摘された(深見)。

 斎藤によって用いられる「氣合」=技という概念(定 式)化をめぐっては、教師一生徒関係においてこれが生 成・伝授されることにたいする問題が挙げられた(乾/

宮島/川津/深見/教員浜谷)。実際、斎藤が構想する ような身体化された技の伝授という行為が、斎藤が本論 文で注目している意味での「身体」観をどこまで反映し たものであるのかという点において、疑問が残るという 声が多数上がった。さらにこうした問題が、教育学にお ける理論と実践の乖離ということに関って、問い直され る必要がある点が乾から指摘された。

 さらに乾は、教師に求められる教育技術というものが、

教師一生徒間の一回的=偶発的な実践知であるとき、教 師はそこに介在する権力関係を改めて自覚・認識すると ともに、これを逆手にとり、例えば教師自身のうちに内 在するゆらぎを露呈していくような瞬間が訪れる教育関 係の形成が、規範的な身体概念の変換のきっかけとなっ ていくのではないかと述べた。

       (文責:斉藤直子)

第6回文献購読②         一

実施期日:2006.7.13.

文献:坂元忠芳『対話の教育への誘い』(新日本出版社、

   1991)、ボルノー講演集/浜田正秀訳「対話への    教育」(『対話への教育』玉川大学出版部、1973)

一記録内容一

 岩崎がこの文献挙げた理由は「モノローグ的な思考に 対する批判」を行い、「私たちが見聞きするときに、モ ノローグを対話にもっていくためにはどうすればいい か」という問について検討するためである。藤井、岡本、

トヤーは文献の要旨をまとめた上で、「おしゃべり」が ボルノーにおいては対話に含まれないのはなぜか、坂元 はからだの接合においての解放が強く押しだされている のではないか、というコメントを出し、さらに、野元か らは「目標を作るのは誰であり誰にとっての利益なのか、

坂元は近代教育の二元論を超えられないのではないか」

(3)

というコメントが出された。

議論では、「近代教育の二元論」とは何を示しているの か理解の必要性が指摘され(大田)、坂元論文には「子 どもとの対話がないように思える。…生徒に対して自分 の体験をあまりに強く読み込んでいる。…一般の教室の 抑圧を描くのはむずかしい(小国)」等の指摘から教師 による管理の問題性が取り上げられた。そこでは「近代 二元論では主体と客体とをわたす認識論」と野元が説明 した「間主体」や、「モノフォニック、ポリフォニック、

ホモフオニー」の用語についての理解が促がされた(大 田)。そして「対話的学力」について議論された際には「確 かに坂元は教師と生徒を対立させて考えている」という 岩崎の理解が示された。

 次に、野元から提出された「(教室での活動が)二元 論で語られてしまう/語ってしまっていいのか」という 点と、坂元論文が「(教育学の)権威の再構築になって はいないか」という点について議論された。小国は野元 の指摘に同意を示し、坂元論文には「権力論が欠落して いる」と指摘した。また、坂元が論じた80年代の学校 を実際に過ごした学生側から、「対話を不可能にしてい るのは、坂元が述べる学力競争だけではなくて、文化の 流行など他の要因が大きかった」という経験が語られた

(有川)。この点に関して、体で理解するというのは実存 からのものであり、それはボルノーの実存主義の視点か

ら語ることはできるが、坂元にその視点があったかどう かは疑問であると岩崎は述べている。

「教育というものを構想する中で対話という原理がどう なっていくのか。他律を通して自律を促すという営みの なかで、どのように対話が成立するのか」という論点が 出され(深見)、大串は「内的真実と客観的真実の組み 合わせを求める活動であった綴り方」と坂元の議論を比 較し、坂元はその結びつけを目指しているが、この論文 で成功を読み取るのは難しいと指摘した。

 次に「技法」の問題がフレイレの教育実践と比較され る形で取り上げられた。それは80年代後半の「競争(勉 強)に乗ってこない子どもたち」という坂元の問題意識 には同意できるがその取り出し方が間違ったのではない か、対話によって何が組み替えられるのかについて述べ られていなひ(小国)という指摘や、権威は本当に消え るのか(大田)という問が提出された。これらに対して フレイレの「技法」における「指導性の中身とは、知の 権威で納得させていくということであり、当然教師は経 験があり、新しいことを発見することにおいて投げかけ るのは教師。…課題を設定するなかで、課題を引き取っ ていくことが対話(野元)」という理解や、「人が集まっ

たときに共通するイシューがある。それを解決しようと したときに学びがある(浜谷)」という理解が示された。

しかし、「設定されたイシューに関心がない個人が出た 場合、サークルが立ち上がらない。公教育でサークルを 立ち上げようとする場合どうするのか(深見)」という 問が提示される。坂元の議論は子どもが集まったときに 言葉を失っている=サークルを立ち上げられない、とい う「現実に対しての批判であった(浜谷)」が、「必要に 応じて、対話を入れていくという姿勢はあるが、坂元は そこを書きれていない(深見)」。岩崎は坂元には「競争 社会の申で現実認識をつくっていく、その技法としての 対話」の視点があったと指摘するが、しかし「坂元の議 論では教師が問題をつかんでいるかどうかが強調されて いる。…つかむという言葉、なぜ教師がつかまなきゃい けないのか。そのつかむという言葉には歴史性があるだ ろう。(小国)」という指摘には同意を示した。

次に、現代の学校現場での「対話」はカウンセリングや コーチングという形でなされているという言説につい て、「そこでのカウンセリングは個にとじこもったとき に、きいてあげるようなもの。現場の実践はぞういうと ころに偏りすぎている。授業だけではなく違う活動も通 して解決していこう、複数の人々の問題として解決して いこうという広がりがない。(浜谷)」「幅広い状況を設 定していかなくては、対話は成立しない(大串)」とい

う指摘がなされた。

 最後に院生から「ボルノーの議論を踏まえるならば、

rからだ』という視点が対話を求める際に必要ではない か(藤井)」「教育において管理はいらないのか疑問があ る(岡本)」「ボルノーのrほとんどの世界は対話を知り ません』という表現が疑問(トヤー)」という意見が出 された。「管理」については「教育という場における、

教師の指導性は前面に出るか後ろに隠れるか、別にして も必ずある」という理解と、「ほとんどの世界は対話を 知りません」というのはそれほど、対話が難しいんだと いうことを伝えたいからこのような奇異な表現をしたの だろう、という理解が岩崎から示された。 以上。

       (文責:笹島 美土里)

第11回 文献購読③ 実施期日:2006,12.14.

文献:福島智・星加良司「〈存在の肯定〉を支える二つ

 のく基本的ニーズ〉一障害の視点で考える現代社会の

 「不安」の構造」(『思想』青土社、2006・3月号)

(4)

一記録内容一

 本時はゲストとして、購読文献の著者である東京大学 先端科学技術研究センター・一・一の福島智助教授と、助手の星 加良治氏をお招きして行われた。最初に、福島・星加の 両名により、論文と今年度総合ゼミのテーマである「対 話」の関係についての基調報告が行われた。続いて、コ

メンテーターである安達・巴(M1)からはく存在の肯 定〉と「ありのままの私」を認める事の解釈に関して、

藤井(D1)からは、居場所に関する考察を背景としつつ、

二つの基本ニーズの設定が広すぎるのではとの疑問が、

浜谷(教員)からは、分配の問題を重要としつつ、生産 能力と財の分配を単純に結び付けられるのかという疑問

と、逆提案として、その人の歴史が代替不可能のものと して身近な共同体に認められ、過去・考えを含めて公的 な場で話せる事が承認されるとこと、という各々のコメ ントがなされた。

 乾(教員)と斉藤(D1)によりコメントの整理と論 点の整理が主張され、それぞれのコメントに関する考え が整理された。

 各コメントに対して、福島が応答をする。安達・巴に 対しては、「ありのままの他者」を認めるという事は、

人をランク付けして排除する社会を否定するため、人の 存在を無条件に認めるということである説明した。藤井 に対しては、二つの基本的ニーズは最低限必要なニーズ であり、最大限必要なニーズではないと答えた。浜谷に 対しては、障害者の「福祉的就労」を例示しつつ、存在 の承認とは、生きること自体を承認してくれる社会の必 要性を説くものとし、浜谷コメントの内容には賛成しつ つ、違う位相の問題であるとした。

 継いで星加が、安達・巴に対して「ありのままの私」

を認めることとは制度的な承認であること、藤井に対し て、本論文においては基礎的な条件について言及してい ること、浜谷に対して、分配と承認のつながりが直裁で はないという指摘に対して、本論文においては分配のさ れ方と承認の関係を重視したと補足した。

 ここで基調報告とコメントに関する応答が終わった。

ここから行われた議論においては、「承認」についてと、

二つの基本的ニーズについて話し合われた。星加が承認 を制度的承認と捕らえていることを受け、乾から出され た、承認の申核を担うのは国家なのか、と市場を通じた 承認が有り得るのかという二つの問いに対して、星加は、

国家が中核であるが、市場も部分的に入ってくる。現在 の政策的な誘導で色がついている市場と本論文で主張さ れる「ありのままの私」の承認は相容れないものであり、

極めて全ての人の価値を内包できるような市場が論理的

に仮想することは可能だろうが、現実には厳しいだろう と主張した。また、二つの基本的ニーズについては、斉 藤の、二つの基本ニーズは今後組み替えるのか、という 問いに対して、福島・星加が、暫定的な側面があること を認め、トレードオオフの効かないものとして生存の基 本ニーズと文化的基本ニーズという質の異なったニーズ があることと、文化的基本ニーズにおいてコミュニケー ションが極めて重要な位置を占めているという二つのこ とを主張した。

 本時の最後に、斉藤により対話と絡めて、対話に絡め てまとめると、中核に「存在の肯定」・「ありのままの私」

を認めるという事をそれぞれがどう捉えるかと、まとめ

られた。

       (文責:上妻 智)

第12回文献購読④

実施期日:2007.1.11,

文献:佐藤公治『認知心理学から見た読みの世界一対話  と協同的学習』(北大路書房、1996)

一記録内容一

叶田の報告

上妻・大岸から要約説明

院生側からの報告:教育実践グループ(有川)・宮島 教育側から報告:大串

 報告が終わると、司会の川津が、基調報告をした叶田 に社会構成主義について再度コメントを求める。叶田は、

それに対してこれまでの日本の教育実践報告との違うア プローチに対して評価をしており、さらに大串のコメン トに対して日本の文献と海外との文献とのリンクが疑問 に感じているのかどうか問う。大串は、日本で培ってき た思想や学説も重要であると述べる。叶田は、個人の意 見として、今回の文献は教育実践の記録が教師側だけで はなく、生徒側の視点を入れていることが、今での実践 論と比較して優れていると述べる。大串は、文献の中身 というよりも教育実践の研究に対して、現行の制度的枠 組の中では限界があり、教育実践を語るには限界があり、

危惧を感じている。

〜文献で取り上げた「ごんぎつね」について〜

 実践報告の教材に「ごんぎつね」をとりあげていた。

そこで教員の岩崎から、なぜ「ごんぎつね」だったのか

を疑問があがる。叶田は、筆者が「ごんぎつね」をとり

あげた意義までは把握していないが、国語の教科書に

(5)

のっているということと、こちらで文献を読むにあたり

「ごんぎつね」は皆が知っているから議論になるという 経緯があったから。

〜社会構成主義と教室空間について〜

 岩崎から社会構成の扱いについて表面的になっている と疑問がでる。教員の大田も岩崎の意見に対して、社会 の扱いに対して疑問をもつ。主客二元論で考えると、こ の論文では「教師が枝葉になっている」と述べているよ うに、教師が誘導している形なっているのではないか。

以上の問いから、さらに教員の乾から社会構成主義にお ける知識の変容過程について問いが出される。教員の浜 谷は社会構成主義における知識の生成過程ははっきりし ていないので、この文献では元の意味と異なって使用し ているという説明がある。

〜生徒への評価について〜

 教員の岩崎は宮島から出されたコメントの生徒への評 価について疑問があることに対して、同じ疑問を持つ。

宮島は、この論文が教師と生徒の対話を前提にしている ことに疑問を持っていた。

〜教室空間と心理学のオートポエーシスの関連について

 浜谷からこの論文が教室という狭い空間に教師と生徒 の二者でしか捉えていないうえに、心理学における「制 約」についての扱いになっていない。また、この論文で はオートポエーシスに関しての限界についても述べる。

 藤井は教室空間で沈黙している生徒に対しての疑問を なげる。川津はその空間を教師がどのうように変容させ るかが重要だとコメントする。

 教室空間における、教師と生徒の対話について社会構 成主義から捉えることの限界と捉えきれていないのでは ないかという意見が出された。以上

      (文責:安達 瞳)

第13回文献購読⑤

実施期日:2007.1.25.

文献:鶴見和子『内発的発展論の展開』(筑摩書房、

 1996)

 鶴見和子『日本を開く一柳田・南方・大江の思想的意  義』(岩波書店、1997)

一記録内容一

 本時においては、文献の推薦グループ(教育思想)

より斉藤(D1)が『内発的発展論の展開』の要約及

、び基調報告を担当した。また、『日本を開く一柳田・

南方・大江の思想的意義』(以下、r日本を開く』)で は、柳田を小国(教員),南方を叶田(D2),大江を笹 島(M3)がそれぞれのコメントを提出した。なお、『日 本を開く』の要約は笹島がコメントと併せて提出した。

 ゼミ開始にあたっての基調報告において、斉藤は鶴見 理論が教育に投げかける可能性として、権力奪取の放棄、

既存の権力構造の変換、その変換の契機の訪れという点 に関心を寄せ、教育における「教師」の存在をめぐる問 題とのつながりからいくつかの論点を示した。この基調 報告は、斉藤がゼミの冒頭で述べたとおり、今年度の文 献講読会において年間を通して議論がなされてきた『対 話』について、その総括を意識したものであった。

 こうした斉藤の基調報告を受け、コメンテーターの小 国・叶田はそれぞれ当時の時代背景を示しながら柳田・

南方について、笹島は本文全体の要約を中心に大江につ いての鶴見の解釈を示した。

 以上、基調報告およびそれぞれのコメンテーターによ る報告のあと、叶田から提出され

た「内発的発展を発見するのは誰か?」という論点を中 心に議論が展開された。叶田は「内

発的な発展の事例がなければ、内発的な理論をひき出す ことはできない」、「しかし、内発的な理論、ないしは、

少なくともそうした理論への自覚がなければ、たとえ事 例があっても見のがしてしまう。」(r内発的発展論の展 開』p.4)という鶴見の2つ主張から見る矛盾を指摘した。

この叶田の指摘に対して「鶴見の言う内発的発展論には 無理がある。ナショナリズムはいろんな意味で耳になじ むが、ここでは地域と一緒にして論じている。」(小国)

など同様の指摘が多数あがった。

 次に、乾(教員)から「(第3システムの容認につい

て)鶴見の言う支配一被支配関係はどう捉えられている

のか。」と問題提起がなされ、「容認は大事だが、権力を

奪取しないというわけではない。これが鶴見の見方なの

か。」(教員:野元)、「奪還を第一とするというわけでは

なく、結果としてついてくるもの程度では。」(院生:藤

井)、「権力の奪取を目指す、目指さないというあり方が

権力関係を前提にしていて、第3システムというのは

それ自体を捉えなおすのでは。」(院生:宮島)とそれぞ

れから応答があった。また、野元は鶴見理論の限界につ

いて「内発的な発展は権力を意識せざるを得ない。鶴見

はアジアでの内発的発展、例えばアジアの開発や草の根

(6)

の開発などについては論じているが、植民地などについ てはあいまいになっている。」と指摘した。

 ゼミ終盤、乾はコメンテーターである叶田に向け「鶴 見は自分を何者だと言っているのか。」と問う場面があっ た。叶田は「(批判的な人類学の中で)『文化を語る資格 は誰にあるのか』という鶴見の主張から、(鶴見は)や はり、高いところから内発的発展、開発を見ているので は」と応答した。また、新井(院生)は、「鶴見は自分 を『教師』と言っているのでは」と主張した。これに対 して、乾は「鶴見の四日市の紡績工場などにおける聞き 取り等からすると、鶴見はやはりr教師』かも。なぜな ら(彼女は)r貧しさからどう抜け出せるか、封建的な ものとどうかかわるか』と述べている」と新井に同意し

た。

 さらに、浜谷(教員)から鶴見理論の矛盾について「地 域がそれぞれ抱える問題ははだして、一括して「共通 の問題」として論じていいのだろうか。ローカリズムと いうものとグローバリズムについての視点が必要。例え ば、フロイトの分析は中産階級のマダムたちには役に立 つが、貧困層には通用しない。ピアジェも裕福な層だか ら同様であり、つまり、一定の層には通用するものがあ るだけ。」と指摘した。 以上。

      (文責:大岸 正樹)

参照

関連したドキュメント

7IEC で定義されていない出力で 575V 、 50Hz

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

しかしながら生細胞内ではDNAがたえず慢然と合成

テストが成功しなかった場合、ダイアログボックスが表示され、 Alienware Command Center の推奨設定を確認するように求め

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

 そして,我が国の通説は,租税回避を上記 のとおり定義した上で,租税回避がなされた

は︑公認会計士︵監査法人を含む︶または税理士︵税理士法人を含む︶でなければならないと同法に規定されている︒.

1989 年に市民社会組織の設立が開始、2017 年は 54,000 の組織が教会を背景としたいくつ かの強力な組織が活動している。資金構成:公共