歌が培養する運動/運動が組織する歌
――韓国民主化運動における抵抗歌謡の逆説
노래가 배양하는 운동 / 운동이 조직하는 노래 -- 한국 민주화 운동에서의 민중가요의 역설
김은애 金 誾愛
본 연구에서는 한국의 민중가요에 대해 고찰을 했다 . 1970 년대부터 한국의 민주화가 눈에 띄게 진전된 1987 년 민주화대운동 (6 월 항쟁 ) 시기를 고찰 시기로 설정을 하고 민주화 운동이 전개되는 속에서 민중가요가 어떻게 만들어지고 발전되었는지에 대해 논했다
.
먼 저 1970 년 대 이 른 바 유 신 체 제 에 서 의 민 중 가 요 는 의 도 적 으 로 만 들 어 졌 다 고 하기보다는 민주화 운동을 전개하는 속에서 수용자들이 재해석하고 받아들이는 경향이 있었다 . 물론 이 당시에는 민중가요라는 의식보다는 정권에 대항하기 위한 저항가요로서 제한된 공간 안에서 불리어졌다
.
또한 그 제한된 공간안에서 김민기라는 저항의 키워드는 중요한 역할을 했다.
민중가요라는 용어가 본격적으로 등장한 1980 년대 초의 민중가요는 민주화 운동을 전개하는 속에서 필요에 의해 만들어졌다 . 대중운동을 표방하는 속에서 집회의 문화가 변화하고 그 속에서 노래의 중요성이 나타난 것이다
. 또한 전문적이며 조직적으로 노래
운동을 전개하는 집단이 본격적으로 만들어진 것도 이 시기이다 .한국의 민주화 운동이 절정에 이르렀던 1987 년 이후 민중가요는 단순히 운동가요라는 틀을 벗어나 대중가요계에도 진출하게 되는 한편 운동가요의 틀 안에서는 당시의 운동의 목적을 대변하는 듯한 폭 넓은 내용으로 많은 양의 노래가 생산 되었다 . 이 시기의 노래는 민주화 운동을 지탱하는 하나의 힘으로서 존재하는 것 이상으로 운동의 성격을 규정하는 역할도 함께 했다 . 이것은 단순히 민주화운동의 이념이나 사람들의 단결을 강화시키는 역할을 함과 동시에 내부와 외부를 구분하는 하나의 척도가 되기도 했다
.
또한 민중가요는 학생뿐만이 아니라 노동 집단에서도 만들어졌다 . 기존의 지식인들이 만들어 낸 노동가요와는 다른 노동자가 주체가 된 노래가 만들어졌다는 것은 이 시기의 큰 특징이다.
이렇듯 민주화 운동의 상황에 따라 민중가요도 그 형식이나 내용이 변화 발전해 온 것을 고찰하면서 한국의 민중가요에 대해 다시 한 번 생각해 보았다
.
はじめに
韓国の民主化運動1を支えてきた抵抗文化について 考えようとするとき、欠かせないのが 「民衆歌謡」 で ある。一般的に学生運動の中で作り出され、労働運動 や進歩的な大衆の行動とともに発展してきたと認識さ れる民衆歌謡は、民主化運動を担ってきた人々の意識 を象徴するものと認められてきた。この民衆歌謡の果 たした役割について、チョン・ギョンウンはつぎのよ うにまとめている。
闘争の歌を歌うことは支配秩序に対する抵抗とい う進歩的な行為の表出であり、受容層を団結させ 一つの目標意識を持たせるのに大きな役割を果た す。歌を作り、歌い、聞く人々は歌を通じて、た とえ自分が矛盾的な状況におかれていたとはい え、他人も自分と同様の苦難を経験しているとい う共感帯と連帯感を持った。【정경은
2008:11】
韓国の現代史に大きく影を落とす独裁政治との闘い
のなかで、民衆歌謡は 「支配秩序に対する進歩的な行 為の表出」 として運動圏の人々を 「団結させ」、「目標 意識を持たせ」 た。その歌を共有することで、運動す る人々は確かな 「連帯感」 を持ったという認識である。
これまで 「民衆歌謡」 の研究は、このような運動圏の 歌としてのその 「役割」 の理解を前提にして進められ てきたと言える。
こうした認識に対して、金昌南2は疑問を投げかけ、
民衆歌謡を単純に運動圏の文化、もしくは特定の集団 による文化と限定して論ずることを批判している。金 昌南によれば、民主化過程において文化をめぐる状況 は変化しており、民衆歌謡を受け入れる層もそれによ り運動圏を越えて大きく広がっている。すなわち金昌 南は、運動圏の文化としてだけ理解されてこれまで無 視されてきた民衆歌謡の大衆性を指摘し、大衆文化と なった民衆歌謡のもっと広い文化的可能性を認めてい るのである3。
1987年
6
月抗争以後、韓国社会が制度的民主化へ の道を進むにつれ、崩れはじめた 「大衆(文化)」 と「民衆(文化)」 というに二分法な認識について批判的 な立場を取り、民衆歌謡を大衆音楽史という広いカテ ゴリーの中に位置付けるこのような研究の登場は、民 衆歌謡を、ただ運動圏だけに限定され消費されるもの としてではなく、ひとつの文化領域と認めてその意味 を問う新しい動きだと言うことができる。
大衆文化と民衆文化とを連続して捉えるこのような 観点を受け入れてみると、「運動圏の文化」 という面 から捉えられる民衆歌謡の機能についても、さらに立 ち入った分析が可能になるように思われる。というの も、民主化運動と大衆との広い接点に民衆歌謡を位置 づけて分析することにより、民主化運動において実際 に果たされた民衆歌謡の役割がさらに明確に見えてく るはずだからである。
1980年以後に歌運動の陣営で作られた民衆歌謡を 対象にして、時期と創作主体を分け、歌の主題および 歌詞と曲について分析を行ったキム ・ ヨンジュ4は、
民衆歌謡の社会的 ・ 文化的な意味を考え、歌運動の展 開過程とその性格を規定した。このキム・ヨンジュの 目次
はじめに
1 運動の心情を培養する抵抗歌謡
1−1 抵抗の心情を歌う記号としての 「金敏基」
1−2 抵抗の空間としての教会と抵抗の記号として
の 「金敏基」
1−3 「金敏基」を歌う大学の歌サークルのはじまり
2 歌を組織する運動
2−1 運動の大衆性と求められる歌
2−2 組織される歌運動と民衆歌謡
2−3 大学から一般社会へ踏み出す歌運動の試み
3 歌の先鋭化が生み出した運動の孤立
3−1 歌と歌グループの大衆化
3−2 民衆歌謡の先鋭化―孤立される学生運動
3− 3 多様化していく労働者の歌
おわりに―まだ歌い続けられる抵抗の歌
研究は、1980年代に入ってから、大衆的な民主化運 動が行われて民衆歌謡ということばが誕生し、大衆を 組織するための運動として本格的に展開された歌運動 を対象にしているのである。このような研究は、民衆 歌謡の運動を組織する上での意義に新たな光を当てる ものだと認められる。
もっとも、民衆歌謡を大衆に広がる抵抗の文化とし て考えるならば、このキム・ヨンジュのように組織運 動としての歌運動にだけ関心の焦点を絞るのは視野が 狭いと言わざるをえない。実際には、組織運動として 歌運動が登場する前から、意識ある人々が密かに『朝 露』を歌っていたように、まず、歌が存在し、その歌 を歌うということで運動が組織され支えられることが あり得たからである。歌運動の陣営という分析対象の 限定は、民衆歌謡が果たしている役割の形式的な範囲 を縮小してしまう恐れがある。歌運動が組織として行 われる以前にも、人びとは歌を歌い、それに自分たち の心情を託していたのだ。すると、そこにどんな歌が 生まれ、いかに人々の心に響いていたのだろうか。
これまでの民衆歌謡の研究は、社会と民衆歌謡の関 係について考えてきたとはいえ、民主化運動に付随し て生まれたものとして民衆歌謡を論じていて、逆に歌 が民主化運動に対してどのような影響を与えたのかに ついてはあまり多く触れられてはいない。すなわち、
そこでは、民主化運動と民衆歌謡との関係は一方向的 である。
本稿では、そのような民主化運動と民衆歌謡との関 係の認識を問い直し、むしろ民主化運動と民衆歌謡の 相互関係を見る視点から、民衆歌謡がそれぞれ異なる 時代のなかでどのように存在し、どのような働きを見 せ、どのように消費されたのかについて明らかにして いきたい。1970年代の独裁政治から
87
年民主化大闘 争(以下、6月抗争)まで、この変動する社会状況の 中で、民主化運動からどのような歌が生まれ、またそ の歌はどのように抵抗の歌として解釈され、どのよう に人々の心情を組織し、またそこから乖離していった のだろうか。1 運動の心情を培養する抵抗歌謡
近代化という理念のもと、朴正熙政権は経済開発戦 略の推進によって経済規模の拡大と産業構造の高度化 を促進させ、韓国社会は急速な変容を遂げた。しかし、
1970
年代に入り隷属資本主義の矛盾と、輸出指向的 な経済成長の政策における限界が明らかになり5、社 会のさまざまなところで政権に対する批判の声が高 まっていた。朴正熙政権はこのように経済的な不満 が、政治的な不満へ転化されることを恐れ、維新憲 法6と維新体制7を導入した。そして、1970年代半ばに はいると、全国民主青年学生総連盟(以下民青学連)事件8や緊急措置
4
号9、緊急措置9
号10などを通じて社 会統制をより強めるようになる。これによって、民主化運動とかかわる大衆的な活動 はほとんど不可能となり、学生運動は量的に縮小して いき、大規模の示威もその姿を消した。そして大学生 ならだれもがデモに参加してみるという雰囲気は一変 して、学生運動に携わる者には命までかける決断を要 求する状況になった。
本章ではこうした状況の中、民主化運動にかかわる 人々の心情にどのような歌が影響を与えたのかについ て論じていきたい。
1-1 抵抗の心情を歌う記号としての 「金敏基」
1970年代初期の大学生の文化は、政治討論とトラ ンプ、示威用の歌と大衆歌謡 ・ フォークソング ・ 西欧 の古典音楽が併存していた11。一人の学生が示威に参 加し政治性が込められた歌を歌うとともに、ビバル ディを聞き、大衆歌謡を歌うことは当時の社会の流れ では矛盾ではなかった12。しかし、併存しているとは いえ、抵抗の空間で歌われる歌が私生活の空間で歌わ れることはなく、むしろ歌う空間を使い分けしている 面においては、歌の文化は分裂していたとも言える。
このように示威に参加するある個人の生活における 歌の文化が併存もしくは分裂していた
1970
年代初期の状況とは異なって、1970年代半ば以降からは、あ る個人の内部の分裂ではなく、示威に参加する者と参 加しない者、いわば運動圏と非運動圏の歌の文化が分 裂するようになる。
事実上公の場では不可能になった学生運動は、運動 の質的な発展のためより科学的で論理的な根拠を求め ていき、文化面においても消費的な大衆文化を拒否し、
タルチュムやマダン劇のような新しい運動圏の文化を 作りだした。そして抵抗の歌として金敏基の歌が歌わ れた。それでは、大衆文化を拒否していた人々にとっ て、あくまでも大衆歌手として登場していた金敏基は どのように位置づけられていただろうか。
周知のように、金敏基の代表曲として知られている
『朝露』は、その歌詞を見る限りでは、政治的な意図 を読みとることは難しい。
『朝露』金敏基作詞 ・ 作曲
長い夜が明けて 草場に宿る 真珠よりきれいな朝露 のように
私の心に 悲しみが宿れば 朝丘に登り 微笑んでみる 太陽は墓場を赤く照らし 真夏の暑さ 私の試練なのか 私は行く あの荒野へ 悲しみ みな捨て 私は行く
『朝露』の話者は若者であり、この若者の視線は朝 露から、墓地と太陽、そして広い荒野へ広まっていく。
もちろん 「長い夜」 や 「墓地」 は憂鬱な現実世界をあ らわすことばとして、そして広い荒野へと広がる視線 の変化は未来における希望だと言えるかもしれない。
しかし、なぜ『朝露』が 「1970年代の学生運動の 精神を象徴する」 歌となり、現在に至るまで抵抗の歌 として認識されるようになったのだろうか。この問い を解くためには、金敏基という人物について考えて見 なければならない。
『金敏基』13に掲載されている年譜に従うと、金敏基 は
1972
年春、ソウル大学校・文理大の新入生歓迎会 で『We shall overcome』や『解放歌』、『花を咲かせる 子供』のような歌を学生に指導したという理由で、翌 日連行され、『花を咲かせる子供』が初めて放送禁止された。そして
1971
年発表した金敏基自身のアルバ ムが、間もなく発売禁止とされた。また彼は、韓国文 化の方向について議論をし合うという金芝河を中心と する文人、学者、画家、音楽人、映画人らの会合にも 参加するようになり、1973
年には、金芝河の戯曲『金 冠のイエス』の全国公演に参加した。そして、翌年1974
年には日韓関係の問題、とりわけキーセン観光 に焦点を当て風刺したソリグッ『アグ』14を執筆する。その後、軍に入隊した金敏基は、比較的環境に恵まれ た米軍部隊の韓国人兵士カチューシャの
AFKN
放送 局に配置されている。そんな中で、カトリック教会が中心となった維新賛 否国民投票のボイコット運動があり、その投票反対集 会における金敏基の歌を中心とした公演の企画など が、事前に発覚し失敗に終わる事件が起こる。このと き金敏基は、実際にはこの計画にかかわっていなかっ たにもかかわらず保安部隊に召喚され、最前線に再配 置されることになる。このような経緯があって、金敏 基の歌は、『朝露』に限らず、『小さな池』、『友』など 含めて民主化運動の象徴のように感じられ、歌われる ことになった。やがて、1977年に除隊した金敏基は 危険人物とみなされるようになり、また金敏基自身も、
東一紡績事件を素材とした『工場の灯火』など現実問 題を扱った作品を通じて民衆の現実に接近しようとす る意識を強くあらわすようになった。
1970年代、当時の大学生によって金敏基の歌が抵 抗の歌として密かに歌われるようになったのは、こう した金敏基自身の経歴によるところが大きいと考えら れる。それは当局の立場から見ても同様で、『朝露』
を禁止曲とする理由を歌の内容において具体的に示せ ないにもかかわらず実際にそうなったのは、上述のよ うな金敏基の活動や彼の歌をめぐる周辺の動きがあっ たからだと考えなければならない。歌の内容というよ りは、金敏基の存在が抵抗の記号となったのだ。
そうだとすると、金敏基の歌がどのような空間で抵 抗の歌として存在していただろうか。この問いについ て具体的な答えを得るために、まず次の節では当時 人々が集まることの出来る唯一の空間であったとも言
える教会運動に焦点を当て、議論を進めたい。
1-2 抵抗の空間としての教会と抵抗の 記号としての 「金敏基」
朴政権は社会統制のために集会および示威に関する 法律を制定したが、宗教組織は例外として認められ、
結果的には民主化運動を組織できるような法的に「自 由」な空間は宗教界によって提供された15。すなわち 公の場での抵抗運動が現実的に不可能であった
1970
年代には、教会が唯一、組織運動が出来る場だったと 言っても過言ではない。実際、「韓国基督学生会総連盟
(KSCF)」 を中心とし
たキリスト教の運動団体は、学生運動においても先駆 的な役割を果たし、現世でのキリストの救援のため絶 えず努力することが真のキリスト教徒の道理であると いう認識のもとで、キリスト教運動を反維新闘争につ なげようとした16。そのようにして教会を中心とする民主化運動が活発 になっていくにつれ、教会で歌われていた『We shall
over come』、『Oh freedom』、『Brother John』、『My Bonnie』のようなアメリカやそのほかの外国の反戦運
動歌、黒人霊歌、賛美歌などがひろく普及するように なった。そして、これらの歌は、韓国社会の民主化の 問題を歌う歌として再解釈され、大学の運動圏でも積 極的に受け入れられ、そこにひとつの運動圏の文化が 形成される17ようになっていった。1960年代にアメリカの人権運動のなかでよく歌わ れたと言われているこの歌が、1970年代の韓国社会 で歌われる場合、アメリカとは異なる意味をもつだろ う。すなわち、当時の独裁政治による弾圧を乗り越え、
民主化を成し遂げようとする念願が 「勝利」 というこ とばに込められ、そしてそのために 「恐れ」 を抱くこ となく、「力を合わせ」 て民主化運動へ進むことを誓 う歌になった。
既存の資料に即する限り、これらの歌がどのような 経路で韓国社会に入ってきたのかを明確に示すことは 難しい。もちろんアメリカや日本の教会と韓国の教会 との交流によって輸入されたとは考えられるが、いつ、
誰によって、何のため導入されたのかは明らかになっ ていない。しかし、外国の反戦の歌などをそのまま受 け入れるだけではなく、時代状況を把握しながら積極 的に再解釈し、それらの歌を歌い続けたことは想像に 難くない。
この
1970
年代において民主化運動の中心になった 教会においては、このような外国から借用した歌とと もに、金敏基の歌も受容された。次の曲は、金芝河の 詩に金敏基が曲をつけたもので、戯曲『金冠のイエ ス』18に挿入された歌である。この戯曲は、カトリッ ク教会の理想が追求する人間を具現するために創作し た、最初の作品19として知られている。『We shall over come』
我らは勝利する 我らは勝利する 我らは勝利する
*いつの日にか おお 心の底から 私は信じる 我ら勝利する
恐れはない 恐れはない 恐れはない *以下繰り返し 手と手を繋げ 手と手を繋げ 力を合わせる
*以下繰り返し
平和で暮らそう 平和で暮らそう 平和で暮らそう
*以下繰り返し
彼の胸中にいる 彼の胸中にいる 彼の胸中に生きる
*以下繰り返し
『金冠のイエス』(金芝河詩、金敏基作曲 1972 年)
凍えた あの空 凍えた あの野原 太陽も光を失い あ 暗い あの 貧しい道 どこから来たか 顔 やつれた 人々 何を探して迷うのか あの目 あの 痩せた手
お 神よ 今はここに お 神よ 今はここに お 神よ
今は ここに ここに 私たちと一緒に
「凍えた」 空と野原、そして光を失った太陽は
1970
年代の暗鬱な社会の雰囲気をあらわしている。そして、何かを探し求めて迷っている人々の気持ちは、何もで きないという絶望感からの叫びだ。そしてそこで「神」
が見いだされている。これは、もちろん先ずはキリス
ト教という宗教の特性のため神が持ち出されていると いうことはできよう。そこにまだ解放の具体的な方向 は見えていない。それにもかかわらず、人々はここに、
絶望のなかにも救いはあると実感するのではないだろ うか。それによりこの歌は抵抗の歌となっている。
また、このように作品の創作に金敏基が直接かかわ るだけではなく、教会における民主化運動の必要に よって、積極的に金敏基の歌が受容される場合も多い。
その具体的な例として取り上げられるのが、前の節 でも述べた、金敏基が入隊していた時の逸話であるだ ろう。維新賛否国民投票のボイコット運動を展開して いたカトリック教会が、投票当日の集会のプログラム に金敏基の歌を取り入れたことによって、軍隊で捕ま ることになった。この集会は事前に発覚されたため、
結局行われなかったが、そういった企画の中に金敏基 の歌が持ち込まれるということは、金敏基という抵抗 の記号の象徴性についてあらためて考えさせられる。
このように教会の運動と直接関連する創作活動はも ちろん、その他の活動や政権からの弾圧の的であるこ となどが作用し、抵抗の記号として受容された金敏基 の歌は、まだ成し遂げていない民主化運動へつながる 通路として人々の心に存在していたとも言える。つま り、民主化のために集まった人々の願望が込められた 歌として金敏基の歌が選ばれるとき、金敏基はもはや 一人の大衆歌手ではなく、政権の弾圧と闘う抵抗をあ らわす記号として生まれ変わる。そうした記号を共有 することによって連帯感が生まれ、運動の道へ進む力 になるだろう。そして再び金敏基の歌は彼らの心情を 代弁する歌として密かに歌われ、抵抗の記号として 人々を集める土台となっていく。このようなプロセス が繰り返されることによって徐々に民主化運動へ力が 集まったと言えるのではないだろうか。
次の節では、金敏基の歌が受容される空間として、
大学のサークルに焦点を当てて論じていきたい。民主 化運動が可能だった教会とは異なって、大衆的な民主 化運動は不可能であり、学生運動を展開するためには 命がけの覚悟が必要とされた大学の中で、1970年代 の歌サークルがどのように存在し、そして金敏基とい
う記号はどのように受け入れられたのかについて探っ ていきたい。
1-3 「金敏基」 を歌う大学の歌サークル のはじまり
大学における歌サークルとしては、1977年に誕生 したソウル大の【こだま】が最も早い段階のものであ ると認められる。そして、翌年には梨花女子大で【ひ とつの声】という名前の歌サークルが結成されている。
1970
年代半ば以降、運動圏と非運動圏が区別される ようになり、享受する文化も分裂していくなか、この ような大学の歌サークルはどんな性格を持っていたの だろうか。『虚空に浮いている雲』
(ムン ・ スンヒョン作詞 ・ 作曲)
虚空に浮いた雲 松色 青い心 心一筋 頭下げ 香らせる香り あ… ひとつの雲に歌を乗せよう 虚空に浮いた雲 切ない歌を乗せ
1979年ソウル大の【こだま】の歌集に載せられた この歌には、当時の社会状況が明確には描かれていな い。わずかに 「虚空に浮いている雲」 に自分の気持ち がこもった 「切ない歌」 を乗せるというところなどか ら、知識人の苦悩を垣間見ることができるだけである。
このような歌う人の想像力または解釈力を必要とする 傾向は、金敏基の歌の傾向と似ているとも言える。
この歌を作ったムン ・ スンヒョンは、初期の歌サー クルの性格について次のように述べている。
初期の大学内の歌サークルは(中略)70年代後 半の激しかった民主化運動とは何の縁も持って いなかった。(中略)中産層出身の大学生の洗 練・繊細・整頓の観念的な知性と抽象的な情緒 は、既存の大衆歌謡に対する徹底的な問題意識や 新たな歌文化の建設というとても初歩的な大義名 分すら持っていなかった。商業的・娯楽的・退
廃的な大衆歌謡は、単純にメンバーの感覚的な 嫌悪感によって忌避されただけだったのである。
【문승현 「노래운동의 몇가지 문제들」 김창남 외『노래운동론』공동체、1986:71】
ムン ・ スンヒョンは初期の歌サークルについて、
「商業的・娯楽的・退廃的な大衆歌謡」 は中産層出身 の大学生が持っている 「洗練・繊細・整頓の観念的な 知性と抽象的な情緒」 から 「感覚的な嫌悪感によって 忌避」 されただけで、「既存の大衆歌謡に対する徹底 的な問題意識や新たな歌文化の建設というとても初歩 的な大義名分すら持っていなかった」と理解している。
この点について、藤永壮の分析を借りるなら、当時の 歌サークルは、政治的な活動に興味を持つより、金敏 基などフォーク系歌手の影響を受け、既成の大衆歌謡 に飽き足らなくなった学生たちが、自らの感受性によ りふさわしい内容をもった歌を作りだそうとしたもの であったと理解されてきている20。
ここでも浮かび上がるのが、金敏基の存在である。
もちろん当時のフォークソングが高校生と大学生に人 気があり、金敏基は愛の歌を作らず知的な歌詞と楽曲 を使うシンガーソングライターとして特別な印象を与 えた21ため、金敏基の歌が歌われたことは不自然では ない。さらに金敏基も出発は大衆歌手にすぎなかった が、しかし彼の歌はほかのフォークソングとは異なっ て社会の姿、知識人の苦悩を抽象的でありながらも、
斬新でそして整理された標準的な楽曲で表現した22た め、「商業的・娯楽的・退廃的な大衆歌謡」 とは異な る歌として認識されていたというわけだ。
このような既存の理解を認めるとしても、ここでも う少し注意して理解しなければならないのは、金敏基 の歌の存在である。前の節で見てきたように、キリス ト教が民主化運動を進めるために金敏基という記号を 受容した理由は、金敏基の活動とそれを根拠とする政 権の弾圧から生まれた抵抗の記号として金敏基を認識 したからである。これに対して、大学の歌サークルが 金敏基を選択した理由は、こうした政治的な理由とい うより、金敏基のようなフォーク系歌手の影響を受け、
既存の大衆文化を拒否し、みずからの感受性にふさわ しい歌を求めるためであったという。しかし、金敏基 を好んだ理由が抵抗の記号としてではなく、大学生の 感受性に充実した認識によるものだったとしても、禁 止曲とされている金敏基の歌を歌うことの政治的な負 担については彼らも認識していただろう。そして、こ れまで愛の歌で一貫していたフォークソングとは異な る23社会的な悩みを描いたと評価される金敏基の歌か ら学び得たことは多かったに違いない。
『日曜日が終わる音』(キム・ギス作詞・ 作曲)
日曜日が終わる音 名残が積もる音 私の気持ち 重くな る音
人々が生きていく音 お父さんが 稼ぐ音 私の気持ち もどかしい音
変わらず聞こえる音 今は 全部過ぎ去った音 聞こえていた音が聞こえない どこで鳴っているのか 採石場の石を壊す音 工事場のブルドーザーの 音 何か 倒れる音
飲み屋の乾杯の音 酔っぱらいの箸の音 名残惜しみの 夜が 更ける音
これは初期の歌サークルから生まれた歌であるが、
これが実際に広く知られるようになるのは
1987
年以 降だとはいえ、ここには初期の歌サークルが持ってい る特徴がよくあらわれていると考えられる。「工事場 のブルドーザーの音」から「何かが壊れる音」が聞こえ、そして 「飲み屋で乾杯する音」 や酔っぱらいの歌に合 わせた 「箸の音」 で終わる一日は、まさに庶民の日常 生活そのものを表現したものである。ここでは、本節 の最初に例として取り上げた歌とは異なって、人々の 日常生活の中で聞こえるような音が素材となり、具体 的にその内容が歌われていて、ここに金敏基の影響が 認められる。このように金敏基は、当時の大衆歌謡の 性格とは異なる表現を好むということ評価されたのだ としても、大学の歌サークルでは金敏基の歌をただ歌 うのにとどまらず、創作活動においても影響を受けて いるのである。
歌サークルがはじまった
1970
年代後半の時点では、それがひとつの歌文化にまで発展していたとは考えに くい。とはいえ彼らは、彼らの心情を代弁した金敏基 の歌を歌いながらそれに似たような歌を作り、主に内 部における受容のため24ではあるが、フォークソング や反戦歌謡、賛美歌、民謡、そして自分たちの創作曲 が入った歌集を発行していて、これがのちに歌文化を 形成する土台になったことは言うまでもない。こう いった彼らの動きが、1980年代に入って民主化運動 が大衆的な活動を展開していくなかで運動の影響をさ らに深く受けるようになり、一つの文化運動として組 織化されるようになるのだ。
ここまで、1970年代に金敏基の歌の主な受容層で ある、教会と大学の歌サークルについて考えてきた。
金敏基の歌は、1972年アルバムの発売禁止処分と
1975
年禁止曲とされることによって、大衆歌謡界で は姿が消えるが、進歩的な学生や知識人によってより 積極的に歌われ、大衆歌謡から抵抗歌謡へとその性格 が変化した。こういった金敏基の歌をめぐる動きは、金敏基の活 動がその前提として存在することは否定できない。し かし、一方では金敏基という個人の成果というより、
当時の社会状況がそうした歌を生みだし、そしてその 歌に人々の心情が寄せられ、運動の土台を作る力にま で至ったとも言える。実際、金敏基自身は社会性があ る音楽、抵抗的な音楽、運動的な音楽は作ったことが ないと否認する25が、たとえ創作段階ではそういう意 図がなかったとしても、歌う受容層によって金敏基の 歌は自分らの世界観を持っている歌として再解釈さ れ、抵抗の歌として働いたことは明確だ。それは受容 される空間が異なっても変わらない事実であろう。
禁止曲になった『朝露』や金敏基の歌を歌うことそ れ自体が当時の独裁政権に対する抵抗性を示す行為に つながり、民主化運動を志す人々にとって抵抗の記号 として金敏基は存在しえたのである。次の章では、金 敏基の歌に影響された人々が、激動する民主化運動の 中でどのような歌を生みだし、そして歌の文化がどの ように成立していくのかについて考えていきたい。
2 歌を組織する運動
朴正熙の死後にも軍部が統治権力を掌握しているこ とには変わらなかったが、一方では民主化運動も以前 に比べて活発な動きを見せはじめた。大学生や知識人 を中心に民主化を要求する大衆集会が全国的に広がっ ていき、民主化へ進む大きな出発点となった。
ソウルの場合、新学期が始まる
1980
年3
月に、大 学生らは学生会を構成し、各種の大衆集会と学内示威 を通して政治意識の高揚に力を注いだ。学生の政治闘 争は1970
年代後半には想像すらできなかった街頭闘 争を行なわうようになり、実際に5
月15
日には10
万 人を超える学生と市民が集まり、「戒厳解除」、「早期 改憲」 を要求する大規模の集会までソウル駅前で開催 された。しかし、これまで大衆運動の経験もなく、宣 伝物さえ製作できないまま街頭行進に出た各大学の総 学生会長団は、そこに集まった人々の民主化への熱気 を担いきれず、結局 「われわれの意思を市民に知らせ たため学校へ戻る」 という決定をしてしまう26。 一方、光州でも民主化を求めるデモが連日のように 行われ、「光州民主化運動」 にまで至る。しかし周知 のように、この事件によって人的 ・ 物的に大きな犠牲 を払ったのにも関わらず、当時の光州における闘争は、単純に地域主義的な感情であるように歪曲され、また 光州に関連する報道も一切禁止とされる27。後に事件 の真実は人々の口から口へと広がり、この闘争は民主 化運動の原点として位置づけられる。
本章では、1980年代前半このように大衆的な民主 化運動が徐々に広がるなか、どのような歌の文化が形 成されていたのかについて論じていきたい。そのため、
まずは民主化運動における全般的な歌の文化について 触れながら、大学や社会で活動する歌運動のグループ に焦点を当て、考察を行う。
2-1 運動の大衆性と求められる歌
1970年代に運動に関わった人々の心情を支えてき た歌は、1980年代に入って大衆的な民主化運動が展
開されるなか、どのように存在し得ただろうか。
前述したように、1970年代半ばの緊急措置などに よって、運動にかかわる人とそうではない人との間で は享受する歌が分裂していた。そのため、この時期に 行われた集会は、金敏基の歌や『We shall over come』、
『Oh freedom』など、まずはこれらの歌を習うことか らはじまった28。また
1979
年に発行されたソウル大学 の歌サークル【こだま】の歌集や、キリスト教団体の 歌集から抜粋した歌で構成された29小冊子が学生会に よって配布され、堂々と大衆的な空間で歌われるよう になった。こうした状況の中で、1970年代の民主化運動とと もに歌の普及にも大きな役割を果たしたキリスト教運 動の歌にも変化があらわれた。第
1
章で述べたように、1970
年代の民主化運動の主な担い手であった教会運 動における歌には、社会問題を解決するための具体的 な実践を促すというより、神頼りの傾向が強かった。ところで、次の曲には以前と比べて、民主化運動や民 族統一などより具体的な表現が用いられている。
このように単純に外国の抵抗歌謡や賛美歌をそのま ま歌い続けてきたことを超えて、韓国社会がおかれて いる 「分断」 や軍部独裁統治という現実問題に向き合 いながら、直接的な表現を用いることは、1970年代 のキリスト教の運動で歌われた歌と比べて大きな変化 であると言えるだろう。そして、こういった変化は韓 国の民主化運動が、運動のなかで消費される歌に具体 性を求めていたためあらわれたと考えられる。
こういった歌の直接的な表現は、次の歌にも良くあ らわれている。
『砂漠に泉が溢れ』
白頭山 一緒に登る 金剛山 一緒に見に行く 民衆が治めるその国になれば 民族は統一になる 野原には 五穀が実り 貧しい者 喜び 真の平和と平等の国が すぐ来る
南北が分かれている状況を考えると、北朝鮮の代表 的な山である白頭山や金剛山に行くことは、現実的に 不可能であることは言うまでもない。なのに、そう いった山の名前を取り上げながら、「一緒に見に行く」
と歌っているということは、民主化へ進む一つのプロ セスとして南北統一を念頭に置いたように思われる。
こうした統一への念願は 「民衆が治める」 国になると
「統一」 できるという歌詞からもうかがうことができ るだろう。さらに、この歌では現政権に対する抵抗の 意思が明らかになっている。というのは、軍部による 独裁政治が続いているなか、「民衆が治める」 国家を 描くということは、その支配者の正当性を否定するほ かないからだ。
『われらの念願』
われらの念願は 統一 夢でも念願は 統一 この命かけて 統一 統一を 叶えよう
この民族 生かす 統一 この国を 生かす 統一 統一よ 早く来たれ 統一よ 来たれ
「統一」 が民主や自由に置き換えられ歌われたりも するこの歌は、当初は 「我が念願は独立」 という内容 で作詞されたが、1948年国定教科書へ収録される際 に、歌詞が 「統一」 へと変わった。その上、この 「統 一」 には当時の李承晩政権の北進統一の立場が含まれ ていて、この歌を小学校の教科書に載せることで、政 策的に全国民に北進統一という理念を普及させようと した30。
ところで、こうした背景を持っているのにもかかわ らず、この『われらの念願』31が
1980年代全般にわたっ
て、大衆集会などでよく歌われたのはなぜだろうか。まず一つ目は 「統一」 ということばが前面に出るとい う、直接的な表現が用いられたからであると考えられ る。そして、二つ目として、学校教育を通じてみんな が知っているという歌の大衆性が大きな影響を与えた とも言える。ある歌が抵抗の歌として再解釈され消費 されるにおいて、重要とされるのは、歌が作られた背 景よりは、運動の目的や方向がどのようにあらわれる のかであろう。つまり、1980年代に入って、大学生 を中心とする運動が、大衆的な運動へ、そして学校及 び韓国社会の民主化へと、その方向性や内容を明確に 示すことによって、そこで求められる歌も同様にこう
した直接的かつ大衆的な表現が要求されたのである。
1980年代に入って大衆集会などで、
1970
年代に人々 の心情を支えてきた歌はもちろん、音楽教科書に掲載 されている歌であっても、運動の新たな解釈が加えら れ歌われるなど、歌の範囲が広がった。そして、その 抵抗の歌にはより具体的で明確な運動の内容が含まれ はじまった。また、抵抗するための歌が大学の歌の サークルを中心に創作されるようになる。次の節で は、運動の要求によって求められた歌が、徐々に運動 として組織されて行くことについて論じていきたい。2-2 組織される歌運動と民衆歌謡
歌サークルが作られた
1970
年代後半には社会運動 とは縁がなかったと言われていたが、光州民主化運動 などの影響によって歌サークルも徐々に運動のなかで 大きな役割を果たすようになる。歌サークルはこれま で抵抗の歌として歌われた歌の歌集を作って配布し、また集会などで歌の指導をするなど、大衆的な活動を 展開した。そして、光州民主化を描いた歌など、抵抗 歌謡の創作活動にも力を入れるようになった。
次の歌は、光州を歌った初期の作品である。
記憶から忘れまいという意志が込められている。光州 民主化運動が起きたとき、何もできなかったという罪 責感が、民主化運動に関わっている人々のなかで大い に漂っている雰囲気の中で、死者を哀悼し、その精神 を継承するという意思表明の歌としても読み取れる。
こういった精神を受け継ぐ形で、1980年代に形成 された大学の歌サークルは、それ以前の歌サークルと は出発点が違った。当時の学生運動の中で歌の重要性 が認識され、現実的な要求から作られた歌サークル は、最初から運動的な指向を持っていたのである。そ のため、彼らが作り出した歌の中に光州民主化運動を 扱った歌が多く見られることは、当然な結果であると も言える。つまり、光州民主化運動は民主化運動を続 ける原点となり、その原点を歌で表現し続けることこ そが、その精神を継承することになったのではないだ ろうか。
『五月の歌』(ムン・スンヒョン作詞・ 作曲)
春の日差し あったかい風が 吹く日 赤い花びら 散って 花の香り 漂う日 墓碑なき死に 偉大なる名前を 差し上げる ここに 死なない命に この歌を 捧げよう 愛 私の愛
この歌は、光州民主化運動に対する歴史的な意味や 闘争の継承の意志を表明するというより、死を追慕す る内容が強くあらわれる32。光州で行われた虐殺は政 府によって隠蔽され、墓の前に碑を立てることさえ許 されなかった状況の中で 「墓碑なき死に偉大なる名前 を差し上げる」。多くの犠牲者に 「偉大なる名前」 を 差し上げることによって、韓国の民主化における光州 民主化運動の意義を確認するのである。また、歌を捧 げる 「死なない命」 とは、民主化運動を続ける限り、
『前進歌2』
1暗い影 空を隠し こっそり 吐き出す うめき声
*熱い血 兄弟よ 一緒に立ち上がって 行こう 行こう 行こう
2抑圧と搾取に追われても このまま死ねない 立ち上がろう *以下繰り返し
3さびしくて 長い 闘いの中で 自由と平等平和をもとめ *以下繰り返し
上記の歌は歌のタイトルからも読み取れるように、
闘争や抵抗の理由を説明するというより、立ち上がっ て闘うという戦闘的な動きへの呼びかけが短くて簡潔 に表現されている。光州民主化運動が生き残った人々 に残した課題を成し遂げるためには、「うめき声」だ けではいけないと自覚し、「抑圧と搾取」が蔓延しても、
そのままでは 「死ねない」 という覚悟で 「立ち上がっ て」 闘おうとしている。長くて終わりが見えない闘い であるが 「自由と平等平和」 を求め 「一緒に立ちあがっ て」 前進することを促す歌である。
このように直接的な行動を取ることを呼びかけるよ うな歌が作り出されることは、やはりより増していく 政権の弾圧に向かい合い、大衆的な闘争を広げようと
する民主化運動の流れに応えるためであると考えられ る。つまり、集会に集まった人々の団結と覚悟をその まま歌に表現するということから、運動の要求と歌の 創作が一致していたと言えるだろう。何度も繰り返す ようだが、1980年の光州民主化運動は、民主化運動 に関わる人々にとって、現社会・政治的な問題につい て真剣に考える一つのきっかけとなり、それは歌サー クルの変化にもつながった。そして、民主化運動の要 求によって新しく抵抗の歌を作り出す歌サークルは、
民主化運動の理念や目標を具体的に表現する空間とし て位置づけられた。
次の節では、このように大学で組織化された歌サー クルが、大学という範囲を超え、社会でどのように活 動をし続けたのかについて論証を進めたい。
2-3 大学から一般社会へ踏み出す 歌運動の試み
大学の歌サークルで民主化運動に応じる歌を作り、
後に社会に進出してからも歌運動を続けようとする 人々がいた。その一つが、1982、83年頃、大学の外 でも歌運動の組織的な流れを作り出さなければならな いと考えて、具体的に活動を行った【夜明け】であ る。【夜明け】の活動は、当時の社会運動の全般にお いて、歌の役割と意味が大きくなっていく中から生ま れた、ある意味社会的な要求でもあり、そして大学の 歌グループの活動が継続するための受け皿になる通路 としても存在した。
【夜明け】の最初の作品として知られているこの歌 は、近代歴史上の闘争が虐殺と苦難の歴史として表現 され、近代史に対する悲劇的な歴史認識が込められて いる。もともと〈再び野原を奪われ〉という公演の主 題曲として作られた33歌である。この歌は東学農民戦 争、3・1運動、抗日武装闘争を素材としている。この 三つの歴史的な事件は、日本の植民地支配と関連する 朝鮮半島における悲劇的な出来事である。こうした悲 劇が 「長い夜」、「抑圧の夜」、「死の夜」、そして 「闘 争の夜」 であると表現されている。そして、「荒廃し た山河」 は単純に植民地期の朝鮮半島だけではなく
1980
年代の韓国社会を象徴しているとも読み取れる。しかし、こういった悲劇的な歴史のなかでも、この 歌がもっとも訴えたかったのは、生き続けて闘うこと であっただろう。
ところで、大学を卒業したあと、歌運動を目的とし て【夜明け】や同人誌『うた』のような、新たな抵抗 の空間を作り出した彼らが考えていた歌運動とは具体 的に何を意味しているのか。
1984年
4
月、歌運動について議論を行った 「座談 ・ より創造的な歌運動のために」(
以下 「座談」)
では、当時の歌運動についての反省と期待感を垣間見ること が出来る。歌運動の目的について 「座談」 の参加者で、
『うた
1』の編集同人の一人は次のように述べている。
歌運動は、まずは既存の商業的な大衆歌謡に対す る問題提起から出発し、その過程の中で、現実の 問題に対面しながら、歌を作り、研究し、歌うこ
『この山河へ』(ムン・ スンヒョン作詞・ 作曲1984)
1長い夜でも 圧制の夜でも ウグムチ峠に流れる 声 なき 泣きわめきでも
燃え上がる 緑豆野原へ 夜明けの明かりが揺れても 曲がりくねる あの川の上に 朝の日差しが踊るとし ても 私はまぶしくない
*暴政 暴政の歳月 残酷な歳月に 生きて この体 腐っていき この赤い山河へ 生きて 解放の 松 明のもとで 荒廃した山河へ
2長い夜でも 死の夜でも あの3月の空に はためく
血に染まった旗でも つまった その喊声 静かに この闇 深く眠り
風 吹く 墓地の上に よった旗だけが はためく 私は 憤って泣く
*以下繰り返し
3長い夜でも 闘争の夜でも 北満州野原に 響く 反 逆の夜でも
あ 残忍な歳月 酷い 吹雪でも 赤いこの山河へ この命落としても 私は倒れない
*以下繰り返し
と、それ以上のなにか、つまり、現実問題を深く 考えてそれを克服しようとする意志をもって参 加するという、より発展的な形態で展開されま した【김창남 외「광범한 민중운동의 흐름 속에 자리하는 노래운동」김창남 외
1984:10】
「まずは既存の商業的な大衆歌謡に対する問題提起 から出発し」 たという音楽的な立場について述べられ ているが、すでに第
1
章で述べてきたように、当時の 大衆歌謡とは異なる、自分たちの音楽を求めて結成さ れた初期の大学の歌サークルの性格にも似ている。し かし、こうした大衆歌謡に対する批判が、個人の欲求 や満足のためではなく、運動として歌を考えるように なったことに大きな差があるだろう。つまり、音楽傾 向においては大衆歌謡の批判から出発したが、韓国の 社会政治状況が抱えている 「現実の問題」 に対面し、それを克服しようとする 「意志」 が歌を媒体とする運 動組織としてあらわれたと言える。
そして、歌文化の矛盾の克服は 「民衆運動の流れの 中に入ること」34で可能であると述べているが、こう いった議論の根底には、大衆文化と民衆文化を対抗す る文化として位置づけ、支配層や保守勢力のイデオロ ギーを代弁し、大衆を受身的にさせるものとして大衆 文化を認識し、それに抵抗する文化として民衆文化を 想定する認識が存在する。そして、民主化運動の要求 によって組織される民衆文化の中に歌運動を位置づけ ることで、みずからの立場を整理しているのだ。
ここまで、大学生を中心とした民主化運動が大衆性 を指向するなか、そういった大衆性を保つために要求 された歌運動について考えてみた。1970年代には歌 が人々の心を支え、独裁政権への抵抗性と民主化への 夢を持たせたとしたら、1980年代初期には、大衆的 な運動を指向する運動の要求に応じて、歌が組織され たと言える。そして結成初期には運動とは何の縁もな かったと言われた大学の歌サークルが、大衆集会を開 く際に、一般学生に歌を教えるため冊子を作り、集会 では歌を教える主体となっていくことが大きな変化で あるだろう。こういった変化には光州民主化運動の影
響が無視できない。民主化運動の原点として認識され るようになった光州民主化運動の闘いと犠牲を記憶し ようとする行為が、歌サークルの歌に直接的に込めら れるようになったのである。また、歌運動は大学に限 らず、社会運動の中でも要求され、歌運動を展開する サークルや同人誌などが生まれることに至った。
ここで一つ指摘しておきたいことは、1980年代の 民主化運動が大衆的な活動を行なったのにもかかわら ず、文化状況においてはまた新たな分裂を生み出す結 果につながったことである。民主化運動の理念や社会 問題を表現する歌を民衆の歌として想定し、批判の対 象として大衆歌謡を位置づけることこそ分裂になるの ではないだろうか。もちろん大衆文化が抱えている社 会的な矛盾については承知しているが、「民衆文化」
と 「大衆文化」 という二分法的な分け方によって、排 除される文化やそれを受容する人々をどう考えるべき であるだろうか。
次の章では、1987年民主化運動以下、「6月抗争」
後に行なわれた歌運動の立場から、こうした分裂がど のように変化していくのかについて明らかにしていき たい。
3 歌の先鋭化が生み出した運動の孤立
「6月抗争」当時、人が集まるところでは
1970
年代 の運動を支えてきた『朝露』や音楽教科書などに載っ ている『先駆者』、『われらの念願』、そして『愛国歌』などが合唱された35。
『愛国歌』は
80
年5
月光州の民主化闘争でも歌われ ていた大韓民国の国歌である。当時韓国では太極旗の 掲揚と『愛国歌』の提唱は毎日決まった時間に行われ た。学校における掲揚と提唱はもちろん、午後6
時に なると屋外放送で『愛国歌』が流れ、それが聞こえる 範囲にいる人はそのまま立ち止まり提唱するように教 育されていた。このように教科書や国家政策で使われ る歌が、その国家権力に抵抗する民主化闘争で抵抗の 歌として用いられたことは皮肉であるだろう。さらに1975
年から公式的に禁止曲にされた『朝露』が運動圏・非運動圏の区別なく歌われたことは、『朝露』の抵抗 の歌としての位置を再び確認させた。
そして、民主化運動のために作られた民衆歌謡が、
この時期からはより組織的に生産され、消費されるよ うになる。その上、歌の内容も運動の幅が広がるにつ れより豊富になっていく。
本章では、ますます発展していく韓国の民主化運動 の中で、民衆歌謡がどのように展開されていくのかに ついて論じていきたい。
3-1 歌と歌グループの大衆化
1980年代、抑圧的な権力の文化支配に対抗し、民 主化運動の独自的な文化言説を作り上げていた民衆歌 謡は、民主化運動が発展するにつれ、大衆的な呼応を 得るようになった。その中でも大活躍をしたのが、検 閲緩和の雰囲気とともに制度圏の市場に進出した民衆 歌謡グループ【歌を求める人々】である。
1987年
10
月の公演36を契機に活動を始めた【歌を 求める人々】37は、民衆歌謡を伝播するのに大きな役割 を果たした。【歌を求める人々】はこれまで蓄積され た民衆歌謡の中で、大衆歌謡界でも受け入れられるよ うな作品を選別 ・ 編曲し、ライブ公演で発表し始め た38。主に集会や大学内で展開されてきた歌運動が、より大衆的な空間で展開するために企画されたのがこ の公演だった。
そして、これまで民衆歌謡のグループとして活動し てきた【夜明け】は、そのまま民衆歌謡運動の主体と して残り、合法的かつ大衆的な活動は【歌を求める 人々】の名前でその活動を行うこととなった39。彼ら の音楽世界は【夜明け】や【歌を求める人々】の創作 曲に限らず、1970年代初期のフォーク ・ ソングから 口伝歌謡、労働歌謡など進歩的な音楽運動の成果を網 羅したものであった40。
当時の民主化運動の象徴的な歌として歌われた『イ ムのための行進曲』が、大衆歌謡の世界に進出した【歌 を求める人々】のアルバムに収録されていたことは、
軍事政権が続いている状況に対抗しようとする歌い手
の意志と、民主化に対する大衆の渇望が、歌そのもの に託されていたと考えるべきだろう。
進歩的な民衆歌謡を運動の外にいる大衆に伝達する ことを目的とした【歌を求める人々】の音楽的活動41は、
当時の闘争の歌とは異なる表現の出し方を取ってい る。
【歌を求める人々】の公演でも歌われたこの歌には 政府の検閲に引っ掛かるような政治的な表現は見当た らない。むしろ、「嫌われている星のような」、ときに は「うろこを失われた魚のような」 イメージの労働者 が描かれているのは、まるで一編の詩のような雰囲 気でもある。このように比喩的な表現が多い中でも、
「労働者」、「誇り」、「平等」 のような直接的なことば が用いられたことが重要なポイントとなるだろう。
民衆歌謡の運動にかかわっていた人々によって誕生 した【歌を求める人々】は、多様な空間で多様な主体 によって作り上げられたこれまでの民衆歌謡の成果 を、大衆文化の空間にも拡散させる役目を任された。
だが、彼らの歌を果たして民衆の抵抗の歌であると言 えるだろうか。
もちろん【歌を求める人々】のもっとも大きな意義 は、運動の枠を超え、民衆歌謡の大衆化を試みたこと である。これによって大衆文化と民衆文化は常に対立 しているものと思われた認識が薄まったことも事実で ある。
さらに、民衆歌謡の大衆化への可能性も開かれた。
数十万枚のアルバムが売れるほど人気を得た【歌を求 める人々】は、組織化されていない人々をより直接的 に観客層に引き寄せ、大衆文化の商業的な空間のもと
『あの平等の土へ』(リュ・ヒョンス作詞 ・ 作曲)
あの空の下に 嫌われている星のように あの深い海のなか うろこを失われた魚のように 大きな傷を負って より白い肌で生き返る明日のために その古い殻を抜き 眼覚めるその夢のために
われら労働者の矜持と涙を集め あの広い平等の土の上に 振り撒く
われらの矜持 われらの涙 平等の土に思う存分振り撒く
で進歩的な音楽運動の勢力を形成しようとした思惑が 可能であることを証明したのである。
しかし、一般人々が【歌を求める人々】の歌をどの ように受け入れられたのかについては立ち止まって考 えるべきである。「6月抗争」によって全国民的に民 主化へと熱望が続いているなか、民衆歌謡を持って登 場した【歌を求める人々】は、民主化の象徴的な存在 として受け入れられた。そのため受容者にとって【歌 を求める人々】の歌は、「6月抗争」などでの経験を 思い出させる歌であった。これは何を意味するだろう か。
ある程度成功を収めたとも言える【歌を求める人々】
は、民衆歌謡の大衆化を目指して進出したが、むしろ 彼らが持ちだした民衆歌謡によってその限界が明らか になったとも言えるだろう。つまり【歌を求める人々】
における関心は、彼らの音楽が表象する社会的な意味 と歴史に関するものであって42、それらの歌とともに
1980
年代を生き延びた確認にすぎなかったのだ。このように大衆歌謡の世界への進出を目指して活動 していた人々がいる一方、学生運動における民衆歌謡 は、単純に運動を支えるという役割を超えて、運動の 性格を規定するまで発展した。次の節では、運動の先 鋭化を目指していた大学生が、歌を通じて何を求め、
それによってどういう歌が生まれ、社会的にはどのよ うな変容が生まれたのかについて論じていきたい。
3-2 民衆歌謡の先鋭化―孤立される学生運動
ここまで見てきたとおりに、民主化運動の独自的な 文化言説として認識されてきた民衆歌謡が、【歌を求 める人々】によって大衆化がある程度果たされた。こ れは、「6月抗争」に参加していた一般人々の民衆歌 謡に対する関心と、これまで民衆歌謡の成果をより広 げるために大衆マスコミへの進出を試みた民衆歌謡の 担い手の活躍によるものである。
一方では、運動の抵抗性をあらわす歌として発展し ていく流れも持続されてきた。とくに学生運動におけ る民衆歌謡は、その運動の理念をあらわす道具として、
より積極的な表現が用いられるようになる。
「6月抗争」以降の学生運動は、民族解放と自主を 運動の目標としている民族解放民衆民主主義路線
(Nation Liberation(以下、NL派))と、民衆民主主義革 命 論(People’s Democracy Revolution) を 主 張 し た グ ループ、大きくこの二つに分けることが出来る43。だ が、多くの大学では、反米を最大の課題として設定し ていた
NL
派が学生運動の主導権を握ることによっ て、大学生運動の民衆歌謡もNL
派の運動の理念が託 された歌、とりわけ統一や反米に関する歌が多く作り 出された44。ところで、韓国におけるアメリカという存在は、朝 鮮戦争の友軍として、そして物質的にも文化的にも憧 れの国であった。1980年
5
月光州で人々が虐殺され ている最中、アメリカが助けに来るという噂が広がっ たことは、当時の人々がアメリカをどのように考えて いたのか想像に難くない。しかし、実際アメリカの軍 艦が釜山港に来た理由が、光州の人を助けるためでは なく、万一戦争が起こることを恐れ、釜山港に来たと いう事実が徐々に明らかになった。それによって、光 州虐殺の真相究明と責任者の処罰を求める集会などで は、現政権への反対とともに反米の意志と駐韓米軍を 追い出そうとするスローガンなどが中心となった45。1989年に発表された上記の歌は、韓国の置かれた 状況がアメリカの 「植民地」 だと規定し、「民族のた め」 に反米闘争に立ち上がることを歌っている。そし て、「反米救国闘争万歳」 ということばの中に、当時 の学生運動の理念がそのままあらわれている。このよ うに、反米を訴える多くの民衆歌謡には、抵抗の対象 として駐韓米軍の存在などが具体的に取り上げられて いる。
『愛国の道』(ユン ・ ミンソク作詞 ・ 作曲)
植民地祖国で生まれ この土でただ一日を生きるとしても 民族のために この命 やるべきことは 米国やつらを追 い出す それである
あ、偉大なる解放の道へ 名もなく倒れた戦士を追い 私から立ち上がり闘争する 反米救国闘争万歳
また、反米の意識はエスカレートしていき、そうし た感情の表現は次のような歌を作り出している。
この『反米出征歌』も、韓国をアメリカの植民地と 規定したことと脈絡をともにして、アメリカは帝国と 規定され、アメリカ帝国は恨みの対象となっている。
『愛国の道』が運動家の信念を表現したのと同様、こ の歌でも 「米帝」 を追放して 「民族自主」 が叶うなら ば、「この命を捧げ」 るという決意があらわれている。
ところで、このような決意表明は何を意味するだろ うか。現実的には不可能である 「銃」 や 「剣」 を持っ てアメリカを追い出そうとするという内容には、「民 族解放」 という理念のため手段を問わないという切実 な気持ちさえ感じられる。しかし、学生運動の切実さ は度を超え、政権の抑圧に対して暴力的な対抗を惜し まないという当時の学生運動の動向46がそのままあら われているとも言える。
また学生運動では、民主化への前進や反米意識とと もに、分断体制についても改めて考えるようになっ た。南北統一運動は
1960
年代から続いて1970
年代に は7・4
南北共同声明まで至ったが、独裁政治を続けよ うとする政権の弾圧や反共イデオロギーが蔓延してい たため、本格的に運動として形成し始めたのは、やはり
1980年代後半である。とくに NL
派が中心となって、反米運動と対になって統一運動が活発に行われ、民衆 歌謡においても以前に増して統一を描いた歌が続出し た。
1988年に作られた次の歌は、進歩的な社会運動を 通じて作られた分断、統一についての新しい認識と情 緒が込められている47と言われている。
済州島を象徴する 「漢拏山」 と 「菜の花」、そして 北朝鮮の象徴である 「白頭山」 と 「つつじ」 を歌の素 材にし、朝鮮半島の統一の念願を表現したこの歌は、
統一を成し遂げる必要条件として 「労働と闘争」 を用 いている。
また、統一運動と関連して北朝鮮の歌がそのまま輸 入され歌われ、また曲風をまねた歌49や、【希望の鳥】
という北朝鮮風の歌をモチーフとする歌グループなど も誕生した。
しかし、こういった反米の歌や学生が持ち込んだ北 朝鮮(風)の歌が、果たして民衆の抵抗の歌として成 り立っただろうか。前にも少しふれたが、韓国をアメ リカの植民地だと規定していることや反米運動につい て全国民を納得させるには、韓国現代史が抱えている 負の遺産が大きかった。朝鮮戦争の経験とその後の反 共教育による共産主義への恐怖やアメリカに対する信 頼と憧れは簡単に崩されるものではない。その上、学 生運動自体も政権の弾圧に対してより過激な抵抗行動 を取り、また政権やマスコミには学生運動の暴力性だ けが取り上げられるようになったため、こうした歌を 受け入れるには拒否感さえあった。
実際、学生運動の暴力性や違法性、そして 「親北」
性だけが取り上げられ、当時の学生運動の歌が受容さ れる範囲は、学生運動とその周辺に止まった。もちろ ん、歌だけの問題ではないが、これまで人々を団結さ せてきた歌の役割を考えると、そうした歌の内容が歌 を拒否する原因となり、そういった拒否は運動の拒否 にもつながったとも言えるだろう。
次の節では、民衆歌謡のもう一つの大きな脈絡を 作っていた、労働歌謡に焦点を当て、どのような内容 で形成されていたのかについて論じていきたい。
『反米出征歌』
銃 肩へかけて 行こう ヤンキーめ 追い出すため 剣 握りしめて 行こう 解放の 動きで
恨みの 怨讐 米帝 追い出して 民族 自主 叶うなら この命 捧げ 最後まで 歌おう 自主 統一 祖国 万歳 闘う 我ら 一つとなり 反米の旗幟 高く
勝利する われら 踊る 解放の歌で
『白頭から漢拏 漢拏から白頭へ』
(キム・ジョンファン作詞 イ・キョンチョル作曲1988)48 死者 何に 残ったのか 南の菜の花 北のつつじ この地に 流した血で 実った この世 すべてを 揺らす 喊声
眩しい 労働と闘争の 実で あ 白頭から漢拏 漢 拏から白頭へ