HARDY と KEATS
著者 大澤 衞
雑誌名 Kanazawa English Studies
巻 1
ページ 40‑58
発行年 1954‑06‑10
URL http://hdl.handle.net/2297/39123
ノ ""吻とKαM罫 41
に,晴い森の中から丘をのぼって冬の夕かげに姿を現わす・MsIIgWk'敬区の 聖歌隊を叙して,
「彼らもまた届の光と一締に丸味を失ってしまって,ギリシアかエ1,ルリアの壷の 面の何かの行列の意匠を恩わせながら,塞壁そぴらにして胴平な鑑廓をあらわして進 ん毛いた」(阿部知二氏訳)
(They,loo,hadIosttlleirrotunditywiththedaylight,andadvanccdagamst theSkyinnatoutlineS,whiChSuggesiedSOmeprocCSSionaldesignonCreekOr Etruscanpottery.)
とハーディは書いているが,これ主た,
大理石の男や娘の群を彫り出せる
アッティカ風の陶器(すえもの)のまく・はしき姿かな (OAtlicshape!F;nir;nttitude!witllbrcde
OrmarblemenmdmglidenSOverWr《)ught.)
と歌ったキーツの『ギリシア古瓶の賦』(4OdeonaGrWianUrn')がほのめ か さ れ て い る こ と は 明 ら か で あ る 。 , その次の次に出た芸術的に仕組主飢た小瀕青い職』(41Pαかqf""cE3 1873)の第7章(Pb63以下)および第31"(P.366)に,田舎牧師の娘エルフ ライドが,愛馬パンジィに乗って,教会を修繕に来た建築家S"henSmithを 騎士のように従えて散歩に出るところがある。小説を襟<ほどの文学的装湊も あり,ちょっとした虚栄心とはげしい柵熱を持ったとのエルフライド蛾は,そ のとき「わたくし主ろで『つ弧なきたをやめ』みたいに見えないこと?Jと言 い , い き な り −
並(な)難足のわが駒にをみな騒(か)い采せ 日もすがらわオ'目も離さで見まもりぬ。
山姫の歌くちずさ熟つっ
と も す れ ぱ の め り が ち な る 後 妻 を 。 − か の を み な わ が た め に 探 し 見 出 て ぬ
舌落つるばかり味よき球の根,野の蜂壷や甘露(かんろ)のしづく。
(0iIsatheronmypilcingsteed, Andnothingelsesawalldaylong, ForsidelongwouldshebendpandSing
Afairy'ssongl
Shefoundmeroots0『relishsweetD Andhoncywild,andmannadew;'')
とGLqBeノんD《"ne8"畑〃配り・ci'の一節を調し,スチーヴンもそのあとにすぐ,
4Z Hαj鋤とK"J8
また俺(け)しきその宵紫わオ1に分かねどこころに蹄難い
「きみをしたふ」と。
(6,AndsureinlauguagestrangesIxcsaid, IIovetl,eetrue.'')
と銃けるので,二人の恋は念に進むように,ハーディは描いている。OEIITide'
という女主人公の名前そのものも,キーツのこの詩から暗示されたものではな
いかとわたしは考える。『つれなきたをやめ』は符ざめた騎士と一緒に ,湿 ,して妖糟の洞穴(f"<"ngrot')にいざないゆき,怪しい魔力と深い幻滅を騎
士に味わわせるが,ハーディのこの娘も,二人の男性に怪しい呪縛を及ぼした のち,みずから熱備の戒みに堪えかねて,いずれとも結嬬せすに死んで,二人 に深い幻滅を味わわせるからである。エルフライドという名前も,そのロマン チックな妖糟のような性格も,キーツの影響下につくられたと考えていいわけで あ る 。
それから,ハーディは『俗塵の狂ひをよそに』(F"・."omMc""""'
Cror''(f,1874)の第23*(l'.182)で,收椣祭のあとで初めて女主人公恥dlsheb8L とふたりきりになって,バスシーパの手を握りしめる織会を与えられた幾場主さ ち み
Boldwocdの体が,落蒲きなくふるえる所を叙して,「それはキーツが幸身に過
さら
ぎし幸といみじくも呼んでいるあの感動で震えたのだ」(whatKeatsdaintily caIIsatoo肱LIWyha"iness)と書いている。6Aoohal)pyhappmCSSPという句 が,キーツの『小夜啼蝿に寄する賊』(.OdemaNighMIIgale')の節1節
汝(な)が幸(さお)にわオ'もまた幸身に過ぎて淫<流みぞ (But!,cingloO11:nI)Winihinehappiness)
の換骨趾胎であることは言う主でもない。
『小夜啼烏に寄する賊』からもう一つ引朋が−ほんの二行だけれども‑
,1、説『徹温の人』(ziZfmdibecn,1881)でなされている。節2巻節7章で,
渡藩する世族の末筒であるDareが術葡酒を指して,
「稚の秀もみどりなす田舎の色も郡(ひな)の踊りも
プロウアンスの恋吸も日に焼けし歓楽(えらぎ)も1−べて味にこもオ'ろ (、J.r;nSlingofFIOr:landlheCOuntrygreen;
Dance,andProven9alsong,andsun‑1)urntmirth")
と詩人の述べている『あの頬染ます霊感の泉』("thcblllshfiIIHil)Imcrenc")さ」
と言っている。
Haj"とRMf8 43
傑作小競『郷人の嬬り』(ZWAeRef@4'・nqf@heNa箆啄c,1878)の標題ページ に ハ ー デ ィ は
「かなしみ」に さらばを俗げて
彼女よりばるかに速くへだたりぬとわオ'恩ひしに。
たのしげに,たのしげに わ れ を い と 彼 女 は 愛 す 。
かばかりに操ただしくれもごろに,わオ'を幕ふや,
あざむきて 椎てんと.サーオ1ど
あはれ彼女は操ただしくわオ'を慕へり。
('1'()sorrow Iba<leg()0(Imorrow,
Andlhnugllttol"veherf;lTawayIJehind:
Butclleerly,cheerlyl Shel(wesmed"rly;
Shcissoconstanttome"詞唖snkind・
Ivmllddeceiveher, Ands(DIeaveher,
]lUlah!SIUeiSSoconStantandsOkind.)
という唄を禍げて,荒野の女王FncmCiguとパリ儲えりの癖人CIymとの悲劇 を暗示しているが,この九行はキーツの長詩〃,,吻加iOn,"iv",173‑181 行からのものである。rかなしみ」を擬人化してそれに呼びかけるインド少女 の歌う一聯の佳澗が,ハーディを深く印象づけていたのは興味あることと筒え
よう。
1870年代にはキーツは現今ほど広く愛読さ鯉もせず,また当節ほど商く獅価 さ奴てもいなかったのであるから,そのころすでにハーディがキーツを作中に しばしば引川したということは,今わ鯉われの考えるほど当然なことではなか ったろうと 世わ弧ろ。
II.
先 き に 挙 げ た 六 つ の 外 的 証 拠 は , ハ ー デ ィ が 早 く か ら キ ー ツ に 伽 倒 し て い た ことを滞っており,従って蕊た,キーツから相当の内在的影癬を受けたことを 推察させるのである。ハーディが非常に詩的な小説家であり,自然界の描写で はイギリス小説史上空前ともいうべき感覚的具象性と美意識とを発押した面 が目立っているが,そオ1,らはキーツ直系のものであったと言えるであろう。
44 In吻とXm!g
例えば,中期の傑作小娩『森林地の人剖(TThell'bodlma錐サ恥1887)の 第25*(P.221)および第28*(1'.260)に描かれている素朴な樵夫Giles Wmtermmeの姿は,果実の耐!(ufmit‑god')とも,森林の鯨とも言うべく,
「『秋』の兄弟そのもの」(4Aut'''nn'sverybrother')とも青うぺ<,これに匹敵 する感覚的具象性をそなえた秋の擬人化は,ただキーツの『秋に寄する』賦が あるのみであろう。ことばを変えて雷えば,『森林地の人舞』の第25章と第28 章とは,キーツの ・IbAummll'における詩的精紳を散文に翻訳したものなの である。
身分も教育も蓮うけれど,興実のある恋人ジヤイルズ・ウインターポーンの 求婚を振って,外科医Fitzpie厩と新嫉旋行に出た材木屋の娘Gmceが,族館
④中庭で林檎酒をしぼるジヤイルズをみとめて,キーツ的承囲気の呪縛のうち に,かぎりなき自然への節一次の還元(4IklcktoWat'lrelmadomed,'P.260)を 譲り,その後,軽薄な良人に捕てら恥た瞬III,粗野な秋をにおわすさわやかな もとの恋人の姿を偶然見かけて,徹底的な自然への還元(。RIgSiona"desirC fbrprimitivelife,'P.261)を譲るところは,キーツの秋の擬人化を偲ばすジヤ イルズの風貌の描写とともに,史たなくゆかしいものであり,この'1,説の読者 の永久忘飢られぬととろである。
「ジヤイルズの風貌も匂いも「欲」の兄弟そのもののようであった。副よ日焼けし て小変色,眼瞼コーン・プラワーのように碧く,袖も脚絆も果輿の染私・てf色づき,手 は林棚の甘いfl・.ごにちやにちやし,照子にさえ林梱の皮が(封軋かかっている。そして 彼のまわりのすべてに,あの林閥浦の騨囲錨がこびりついていた。.。…・」
(HIglookedandsmeltlikeAutunln'svcryl>rotller,11isfacebeingsunburntt(》
wheat‑ColOUrjhiSeyeSblucaSCOrn‑0Owcr99IniSsleeveSandleggingSdyedwith fruit‑stainS,hiShandSclammywitlllheswectjuiceorapples,11ish;ltsprinkled withpips,andeverywhereal)0uthimtinatlltmoSpher⑥⑥『ciderwllichatitsfrst returncacl8seasonhassuch;nnindescribablefascinationforthosewhohavebeen bornandbredamongtlleorcllELrds.‑xxviii,P、2印)
それを眺めそれを典ぐと,グレースの悲しかった気持ちは.はね上がる枝のよ うに躍り,五官は欣喜髄蝿して飾らぬ素朴な自然へと立ち返えるのである。世 俗的な恋の戯飢糎流されゆくうイッツパイアズと純朴なジヤイルズとのコント ラストは,そ奴自身,夜と識の交糠のように印象的であるが,その転捜に目覚 める一女性の自然復帰というテーマは,『癖人の婦り』以来最も具象的な表現 をここに見出したのだと青えよう。キーツの詩はハーディの小説の稜心に喰い こ ん で い る の で あ る 。
H匝均とKmia 45
ハーディの岐後の小説『日蔭者ジュード」(JTJdbMc"scm・e,1896)の第1 部節2*(P・10)に,一くれの士,一塊の石ころを見て,それにこびりついて いる聯想の述統をくりひろげる叙述が川てくる−
「すべて士くれ一つ,石ころ一つにも,奥は,あり渉,まるほどの聯想が附清してい た−そのかみの取り入オ1日から伝わった歌や人のI‑Iだもオ1た言葉や,たくましい功 斌などの山彦がこびりついていた。どの一寸の土地といえども,昔.活気と行楽と馬 鹿薮ぎとつかみ合いと催怠の跡ならぬ蛙なかった。どの一坪の地面にも,落灘を拾う 人の群がロを浴びてうずくまっていたことがあるのだ。近隣の村に人数をふやした相 惚オ1夫婦も,変刈りと遮鐙とのき〉いだにそこで総ばれたのだ。この原を向うの畠から 仕切る生垣の.Fで,娘たち臆,次の收礎期走でに自分をもう見向きもしなくなる恋人 に身を喪かせたのだ。そして,あの古い変晶で緯,何人も何人もの男が,ひとりの女 に恋の約束為し,近くの教会で幾旗を果たすと.製年の橘就期まてに,もう女の声乾 聞いても身ぶるいしなくなっていたのだ。」
('1.⑥⑫verycledandstonethereresnlly:ntlaclhed"soci:llionsenoughgmdm sFLr'g‑cchoesofsongsfromancIentIMUrv"t‑(1;Uyspf)fspokenwordsjando「
sturdydecds・EveryinchnfgroundIDadl)"ntllesite'firstorlastp⑥femergy,
"iely"hnrse‑PI:lypbickerings"w"riness・(;『⑧叩5()「程IezmershadsquattEdinihe gunoneveIysq"reyard・Love‑matcl,c3111:ltlladpopulatedll'eadjoining Immletlladbecnmadeuptllerel)etwecnr"I)ingimdcarryin饗.…)
生きている人や語ら郡る言葉にではなく,生命のない物体にこびりつくこのよ
うな聯想は,ジュードという性格の一つの特徴となっている。山緒あるオック スフォード大学の古い建物の修繕工事に州フれながら,彼は建築物に附蒲して いろ「時IIW」の苔を嗅ぎ分け,失われた時を復添するし,蓑たそこで教を説き 遊を叫んだ数耗の詩人や思想家の幻影を見,その学統に魅入られてゆくのであ
る◎
ジュードのこの一面は,キーツの名持rギリシア古瓶に寄する賦』(GOdeon aGrmianUrn')の影縛を受けて結晶したものではなかっただろうか?言う
誰でもなくキーツは,何世紀も土の中に埋もれていたあげ〈発掘さ虹た古い瓶
の 摸 様 を 見 , −
汝(な)が形にはいかなる葉しげき侭鋭ぞつきまとへる?
(WIlatlen「‑fring'dlegendllauntsaIx)lltlllySllallc?)
と青い,次ぎ次ぎに思い浮かぶギリシア時代の幻影を脳だとたたみかけて,あ
の聯想詩を作った。そ虹は固定した,生命のない物体に,自III無砿な室想を吹
き込んで,さまざまのimageを踊動させる詩の,青わぱ,一つの極限のよう
な例であった。ここでも蓑たキーツの詩はハーディの小説の核心に喰いこんで46 "m穴吻と"!8
いると言えるのである。
111.
次に,ハーディがキーツに特別の親愛感を抱いていたふしぶしを連ぺてみた いと思う。
1887年にハーデ《夫誕は画一マを訪れて,コンドッティ街のホテル.ダレマ ーニュに宿をとった。そこはスパーニヤ広場(PiaZzadiS"gna)に面する通り で,またトリニタ・デ・モンティ教会から降りてくる石段にも面していろ。後 者の南側にばローマに病身を養っていたキーツが,ついに不嬬の客となった家 が建っている。ハーディは,肢航の窓から下の通りが蔭ってゆき,夕焼けを背 にしながらその段々を上り降りする人の姿や,オレンジ色に照り映える教会の 正面などを眺めることが好きだった。ことに,同じ世紀のはじめに すぐそこ 近くに住んでいて,英文学にとって想像もできないほどの損失を記録したその 家を,夕かげの中で他かず眺めていたことが,夫人の諜いた伝記TAe""・"
亙たqfrhom"〃α'吻(I)I).246‑7)に記されている。
このことは,ハーディの後期の小娩1.恋の霊』(TAcII'f"=BelO'・"1,1892) の節III部鋪1"(P.227)で,
「ピーアストンl急,すぐ,近くのピアッツア・デ1.スパーニヤ*あちこちさまよっ た。 ・下の街は夕影にひたさオ1,トリニタ・デ・モソテイ教会の正面の天辺膳オレン ジ色の光酒洗わオ'ていた。…iW郷はシエレイがくらしていた左手の家をすっぽりとく るみ,やがてキーツの死んだ水手の家を包んで行った。」
(Picrston...wKmderedupanddowntllendj<biningPiazzadiSpagna・・・thestreets belowwcreimmerscdinsImdc,lllefront(Dfthechurcll⑨『theTrinitade'Monti attheml)waslOodedwillnor いligllt,…iIDeduskwmIDpedupthellouseto thelcrt,inwllicllSIlcllcyhsMllived,andtllKlttotlleright"mwhicllKe;ntshad died.)
という一節に,こだまを残しているのである。
古都陣‑‑マの城壁に接して,聖パオn門(thegateofSanPIIDIo)のあたり にあるプロテスタント燕地は,イギリスやアメリカからの巡歴者にとっては,
札所の一つとなっている所である。そこにはキーツおよび友人の画家Sev"n, シェレイとその友'l、relawnyの蕊があるからだ。キーツおよびシェレイの墓は,
ちょうどカイウス・ケスティウス(Cai''sCestius)のピラミブド型の墓の蔭に なっている。
画一でのrキーツ・シェレイ記念倣雑麓』節2号(駁ィ"c" α 戯碓加qf
Hnj均とKM" 47
fheKcqjg‑SAc"c〃皿c伽o"GzZ,IWme.EdimdbySirRemellRodd&H.
NeIsonGay,No.2.Macmillan,1913)の32ページには,1811年にピネルリ (Pinelli)というイタリア画家の手になった『カイウス.ケスティウスのピラミ ッド附近,画一マ・プロテスタント墓地における夜罪』鵜と題する銅版画の複 製が出ているが,ちょうど聖パオ画門と弛しき城壁の一部を背景として,数十 名の会郡者が,たい柔つをかざしながら穴を掘っているところが描か虹てい る。画面の右半分の中景を掩い隠すようにそびえている三角形の建遥物こそ,
ケスティウスのピラミッドである。一将遠くにいる人物の背丈から判定すれ ば,頂点は見えないが商さ70‑80尺とおぽしき,やや鈍角をなす三角型の墓 で,この夜葬の悩最に,ローマの城門とあい待って,異様な圧力を加えている ことは砿かである。キーツとシニレイの荘に詣でこ人たちにとっても,恐らく このピラミッドの与える印象ば浅からねものがあろうかと推測される。ピネル リの銅版画は非常な秀作とは言えないが,キーツなどが異撫の客として葬られ た時の附景と環境をしのばせるに足る恰好のiE念I砧だと言えるであろう。キー ツやシェレイの蕊の写眞だけは見ていても,その川脇の風物と款囲気を体験す るすべのないわたしにとっては,この絵は錐きい興味を掻き起こしてくれろ。
それと雷うのも,ハーディが1887年の画一マ冊在中,このプロテンタント基 地を訪れて,一つの詩を謡いているからである。そオ1,は『過去および現在の詩 集』(Pりc加綴qftハcp"IMccIMEpTc"",1902)(P.283)に収められてい る「画一で在,シェレイおよびキーツの墓近くにあるケスティウスのピラミッ ドにて」(@ROme:AtthePyramidofCestiuS/N"rtheGnW"ofShelley&
K"ts.'1887)と題する詩である。24行から成るとの詩は,大体,こういう意 味 の こ と を 詠 ん で い る −
「そオ1でばケステ,ウスとば誰だったのか,
そ し て わ た し に と っ て 彼 は 今 な ん の 意 味 が あ る の か ? 群がり園〈・辿憾と濃い物思いのなかで
わずかにただ一つの思念を彼はもたらすばかりだ。
彼がしたことについて
わたしは冒紫一つすら思い出すことができない。
わ た し に と っ て ケ ス テ ィ ウ ス と は
*ANightBuriali加therrotestantCemetcryinRome,fromanengravingarter adesignbyl'inelli,1811.−なお画面の‑ド柵には ・1'umRIIExzioncdeiProtestantinel primodeilor《》CimiteriaイαP"α'nitle("cqjo(h8fi'.'というイタリア語の銘が入っ ている。この醤ば山本与吉教授から見せていただいた。
48 HpJY均と"18
ピラミッド藍一つ興して死んで土葬された人にすぎない。」
(Who,then,wagCestius,/AndwhatisIletome?‑
Amidtimicktllouglltsandmemoriesmultitudinous/Onethoughtユlonebrmgshe.
Icg'nrccallnowi'rd/O「:myll'inghedid;
Formelleisam;mwh(Ddicdandwasinterred/ToI"veaWramid.)
とハーデ,は過去の政治的椛力新であったかも知れないケスティウスの大きい 墓の存在理IIIに,主ず,疑いを投じてから,とう銃ける−
「そのピラミタドの意図が臆っきりしたの緯 当初の計画によって.ご緯ない。
大 分 後 枇 に な っ て か ら そ の か た わ ら に
わたしの二人の同嗣人が憩い鳩所を兄出だしたからだ。
ケスティウスに,在批中
人を殺したり脅し文伽をほざいたりしたかも知れぬ。
どうも嘘っきりしない。わたしの知っているの緯,
死後,黙々として,彼ウ:もっと燗行をしているということだけだ。
大皿石の指を梅く承げて 巡而Lたちの足彩さし棚<一
うす脳い壁,雁史に収っ蝋(つ)かオ'た街の傍で
あの比項ない歌人(うたびと)たちが眠っている場所へと一一。
そこ毛こうも宵えようか,ケスティウスは生きかつ死んだ,
彼の名前を粥びるあの大箇塊こそ紘
時を賞いてさし示す腱ずだ,不拷の霊二つ力住室いを−.
その評判だけ毛けっこうだ。」
(WhOscPUrpoSewsuSexpreSt/NOtwithitSfirstdesign, NortillDfard《》wninTime,besideitfoundtheirrest Twocountrymenofmine.
CeStiuSinlife,maybe,/SIcw,brealhedoutthreatenm;
1knownot.′1,llisIknowgindeathallsiImtly IIedoesakmdlicrthing.
InbeckOningIDilgrimfect/Wilhm麹『1'lelingerl'igh TOwllerepbyShadnWywalIKlndhiStOry‑11aUntedStrecI, Thosematchl"ssingcrslie・・・
S:Ly,then,helivcd:m<ldicd/・rI1atstoneSwhichbe瓢rhiSname Shouldmark,throughTime,wheretwoimmortalShadesabide;
Itisanamplefamc・)
ハーディの詩はそう獄っている。ここではっきりすることは,画一マ名物の一 つであるケステ(ウスのピラミッドも.ひっきょう,キーツとシニレイという
〃セロj均とKazig 49
「比顛ない二人の歌ぴと」の墓のありかを遠くから指し示す遁路槻の一蔀にす ぎない,という概念である。ハーディはそれほどキーツを0manll"ssinger' と考え4immOrml'と考えて私淑し,愛満していたということ.Gある。この詩 は一兇したところ族行中の印象を11│:きとめたさりげない偶作のような感じを 与えるが,その下心は,キーツ.シ、墨レイmL讃の熱誠に賞かれていると言えよ
う。
キーツはgii:ってのロンドン郊外H狐mlxiteadのI.awn‑lyankにあるささやかな 家に仮漢していたことがある。それは友人ウエントワース.ディルク(Charl"
Wentworthl)ilke)の持ち家で,キーツは別の友人ブラウン(qlarl"A.IIrOwn) とここに同居し,1819年5ノ1,との家の庭であの甘美な1。小夜啼胤に寄する賊』
を:i!#いたわけであった。この英文学史上の名所「ウエンI、ワース砿」(Wcntworth I'lacc)鵜はその後,国家の手で闘い̲1急げられて,今は不朽の逝跡となっている が,実はハーディがそオ'Lに深い関係を持っていたのである。『小夜啼 の課か れた一世紀あとの1920年3月25日附けで,ハーディは「ウエントワース砿」を 恒久的に保存しようという国家委貝(N;ltionalCommittee)に挙げらオLこ(一 M".Hady:LIzfe'・Y"z"sqfZ'.".,P.210参照‑)ばかり‑Gはない。同 じ年のフノ1に『ジョン・キーツの仮寓たりしハムステッドのある家にて』(dAt
&LHOu"inHam"tead/mmetimethel)wellingofJohnKeat3)瀦耗という詩 を譜き,その中で,かつてローマを訪奴てキーツとシェレイの墓に詣でたこと を偲び,−ロンドンで小夜啼.鳥を響いているキーツと,ローマのピラミッド に さ し 招 か れ て い る キ ー ツ の 墓 と を 対 照 し て , −
ピアッツアのきざばしの縄引きて こ の 夕 お そ き 光 を 受 く る 辺 に
わ が た た ず み し 画 一 マ か な , わ オ l ば 恩 へ り , こ こ な り し か な 彼 が 果 て し に と − .
わオ'近づきぬすみオIみだるる奥派城(おくつき)に。
脈 と な く 夜 と な く ピ ラ ミ ッ ド 白 き 手 か ざ し 告 げ ゐ た り , か し こ な り 彼 が 眠 ろ は と − .
*181)ec.1818に番かオ1た、1'《】《)4111d)IISc宛のキーツの手紙,17N《》v.1819に醤か オ1た'l,aylor宛のもの,16IfeIB.1820に灘か力'たRice宛てのもの,などみな発傭の嶋 所はこことなっている。
米未必fcJWrics&Enr!"・,1'.28・
5o H ロ バ 秒 と " "
(‑wI1erethePiazzastepsinclinel Andcatchlatelightatevcntidel
1oncestood"inthatRome,andthought,
"'Twasherehedied・
IdrcwtOaViOlet‑SprinkledSmt, WhcredayandnightaWmmidkeeps UI)1irtcditswhitchandnandsaidJ
・l。iStl'ereI'eSlceI)S・'')
と無限の感慨をこの詩人に寄せているのである。
′、−デ,はキーツにちなんだ詩をもう一つ普いていろ。1820年の9月に,キ ーツは肺忠の撫養にローマに向う途中,船がドーセット州(DI*tshivc−ここ が'、一デイの生国であることは言う喪でもない−−)の海岸に寄港した時に,
そこに上随し,折から室にかかる金星を見て,
卸かしき腿よ 汝のごと儲にあらまし。
(IIriglltstar,wouldlwerestedfastaslll<'u弧rl‑!)
という彼の妓後の十四行詩を書いたのであった。キーツが上陵した地点は,ラ ルワース湾であったと判定さ奴ている。ちXうどそれから一世紀後のl蛇0年9 月に,ハーディは『一世紀前のラルワースにて』(CAtLulworthaCenturyBack,'
L"L"1・jCR&"aT""・,P.83)という詩を僻き,「時」の老人との会話にこと
よせて,符の明星を飽かす眺めている髪鳶色の病弱らしい都会人(Ofimidlhlg mwn‑sort;hzlirbro,Vninhue)キーツの風貌を描いた。との入り江は.ハーディの癖里に程近く,DcJy)cJ・(xfeRcmc"""""・。内⑪加餓c"cddii@gC'℃秘α
などで,ラルステッド入江(dLulste'd'Covc')という仮織の名になっているこ とは,これ主た言う主でもない。
IV.
詩人ジ画ン・キーツはロンドン生まれであるが,彼の先駆は一体どこの出身 で あ る か , と い う こ と に つ い て , 少 く と も 三 十 年 前 龍 で は , す こ ぶ る 媛 昧 な こ とが伝祀の始めに記されつづけていた。称名なSidneyc・lvin郷の『K"#8伝』
(1887年,砿版l蛇3年)は,詩人の父親'l、homilsK"taが「デヴ謙ン州の郷人」
(@aIntivcorl)evo',')であったと言ったllrownの青を伝え,またブラウンの 娘Mrs.I」IAm"が小供のとろ,トマス・キーツはコーンウオール州の西南端の 岬I411'd'sE1'd馬の生生れだと開いたことを弛えていると言った旨を伝えて,
「トマス・キーツは若くしてロンドンにIIIてきた西国生主飢の若者(Gawest‑
"qIYlyと母"息 51
countrylad')であった」と肥し,「デヴォン主たはコーンウオール系川身」だ と判定している。同じ1887年に刊行されたけ飢ども,別途に執筆さ虹たWillilm MichaelRos"setti¥rキーツの生涯及び薪作.I(Liた&"7・"和解qfJoAw KMZR,。Gre@ltWritens'"ri")もまた,トマス.キーツは「デヴォンシアまた はコーンウオール川身」と記すにとどまっている。1920年に改訂端袖して川た コルヴィン卿の大等も,この点については1887年版を踏襲するにとど喪った。
そしてと弧が詩人の父親の生国に関する通念となっている。例えば,1934年に 川たIRJrEwmsのK佃"H伝(1)11ckwomh,$GraltLiv"'Series)でも,「キー ツの父母のことはほとんど知ら奴ず,父は西国(W"tCotmtry)の出身だが,
その素性については何の浪跡ものこっていない」と譜いているほどだ。
この通念にいささか疑点をさしはさんだのは,1925年刊のAmyLoweⅡ女史 の.70A犯K 伽伝(11oston:HoughtOllMiminmげり)であったが,さらにそ れより三年後になって,非凡な海洋作寂恥ilil)'1bmlmson氏が,この問題に 新しい側光を投じたように思われる。そ虹はI、ムリンソン氏による古費料の発 見によることも勿論だが,Thom"Hardyの残したささやかな一つの証雷と,
彼の小説げれd"・MeG1・"m"ood〃γ の中でつぶさにありありと描か弧た メルストック班歌隊の記述,およびf'he"c〃wnq/.ih′Ⅳα"t' の中で同じ くつぶさにありありと描かれたエグドン身振狂言献中(Egdonmummers)の 叙述とが,傍証と放っているのであって,′、一デイとキーツとのえにしは,こ
こでも奇織とも誘うべき関係に突き進むのである。
1928年の2月28H(−と喬えぱ'、一デイの死去直後のことだが−)の画 ンドン・タイムズ(T1'eZ'im")に,ある通信員の手に成ったもの(@Bya CoIT"Imndent')として,rハーディ家とキーツ家,二つのドーセット家族』
(6Hardyg:0ndK"tsEs.'1'woI)Crset"milies')器と題する長文の記事が戦った ことがある。その後との肥那の譲者がフィリップ・トムリンソンであることが 判明している。珍らしい文献であるように思われるから,ここにその大意を紹 介 し て み よ う : −
× × × × ×
平確なWe議維Xの購最の̲上に,にこやかにそびえているFoIdingtonの教区
来一柵全部Iこわたるこのタイムズ把瓢の切抜きを,わたしばEdmundBIunden先生 から離側の細念に1950年にいただいた。そオIは二十四年間先生に裁さオ1て・enjoy'さオ1た もの・てfあった。1・ムリンソン氏は,もちろん先生の親友である。先生踵この切抜きに,こ の嬢軒が1'11ilip'1・0mlin"nなる由を記入すること左忘オ'らオ'なかった。
5露 Hh測りとRMf8
墓地において,長い間,蝋なる推察にとど業っていたことを縦証するような証 拠が現わ鯉た°そこのとある古い墓石に<Kcat(ws'という名前が刻主郡ていた のである。そ奴を見て,だいぶ前にThomasHardyがぶと漏らした胃莱が想 い出され,1)orsftを排掴するミューズの称が,一つの村に住んでいた素性定 かならぬ二つの家族に,幸多き言葉を恵んだかも知れないという想像をたく聾
しくするのである。
運命の女紳が,もしもっと親切であったなら,JohnKeatsはHardyが生藍 飢た時に,中年に手がとどくかとどかないという年頃であったであろう。だか ら,何時どこからともなく,ロンドンに出てきたJohnの父親ThomasKGIE が,その少年時代にBockhaml)tonのHardy家を知っていたかも知飢す,
MeIIstock合奏団に加わって,Hardy家の人たちと演奏を共にしたかも知れず,
同じ羊の群に草をやり,身振狂言をやりに同じ野原を行ったかも知れないと 思うことは,そうでたらめな推察ではない。それはあり得ることであった。
nlomasK"tsの死後20年以上もの間,Keal箇家が存続していたということは 今日確かになっている。K"'ts姓を名乗る家族はDor"の方共に散らばって いた。わたしは一世紀昔の古い地方新聞談に次のような発見をしたのである が,そ肌は恥なる名前の偶然の一致以上のものがあると信ずる。1828年の1月 24日のTheDo癖鈍Cowlt"C肋℃7㎡i北という新聞は,I)oTset巡回裁判にか
けられた係霧事件を次のように報導している−
JohnLoCk,oSemnLums,JamesBurtおよびGmrgeBurtの四名は12月 24日狼薪をはたらいて,J…)hK""およびWillianK""(−との二 つの姓の綴りの逮いは勿論問題にならない−)を殴りつけたかどで,告訴 された。検事のギアンビアー氏はこの事件を陪群院に述べたが,その事箭は 次の通りである。TheI℃rdingtonMummersという名称を冠した身振狂言の 強力な団体が長年存在していた。この組合はクリスマスの余興の時季にフオ ーデ ントン教区の大多数の人凌および近所の人たちに娯楽を与える職業を 独占するという役例上の権利を与えら奴ていると自認していた。ところが昨 年,敵手の組合が現われて,彼らの手からその特椛を奪うことになった。そ れは隣りのポッカムトン教区の.1heBockimmptonBandであった。後者の 目的は,一流作曲家の梓を抜いて演奏することによって,ポッカムトン,フ オーディントンおよび近隣の蕊燧紳経を快くくすぐろうというところにあっ たから,名代の「フオーディントン身振狂言就中」の利益は,大いに減殺さ
"mvlyとXmlg 53
オ1,ることになった。そこで,クリスマスの前夜に対抗意識は頂点に遜し,大 がかりな戦いになった。
新剛紙はその証拠をこ叢ご主と述べていろ。証人の中には,JoImHadyが いた。そ虹からJosellhKeirs,WilliamKea",およびCharl"K""(‑‑
いす弧も「ポッカムトン合奏団」の団員一)がいた。彼らおよび残りの遮れ は,Dorchesterから静かに儲宅するところであった。JoImHardyとJosel)h K"tegとは太鼓を蓮んでいた。その折しもあれ,フオーディントン身振狂薇 耽中の攻撃を受け,百人ばかりのひいきが椛言mt中にかせいした。彼らは卿 台の小道具左武器に帳川したらしく,ジョーゼフ・キーツは眉Ⅲlを刀でひ壁
<割ら奴た°彼らは長短さまざまに禁釧処分を受けた。」
ここでトムリンソンはさらに調森を進める。そして百年前のイギリス地方新聞
の古い綴りを漁る。その結果判明したことは小説家ハーディの生誕地Dorcll""r (̲ 彼の作中では0CK'Sterl)ridge'‑)の或る酒亭で起こった争いがこの乱闘
事件の迩因であったということである:−「'rh趙刀 ・脚fPICo批祗〃C"・"iFなの以前の号を見ると,ドーチエスターの
『不死鳥伽』'11'el'hocnixIm,の騒動記事が出ている。ポッカムトン合奏団が その酒亭の台所に典っている際,喧嘩をいどむ声がしたので,ジ副ン・ハーデ ィは太鼓のばちを手に持ったま堂戸口に出た所を,フオーデ,ントン身振狂静
就中の一人にどやされたというのである。」これらの新しく発掘さ虹た材料にもとづいてトムリンソンは次のように蒲
う°一一一
「ここには愛する続粁のとっぷりと考えるべき多くのことがある。大胆不
敵なEustaci;LVycがClymYeol)rightの家で惟さ肌た身振狂慧に,而娩の
若對の読物左僻りて,姿を現わすあの蝿人の婦り』の中の忘脇ら乱ない悩
景は,作新が身みずから古い伝統を背負う身振狂言に古くから親炎していた
という嚇実がなけ飢ぱ,いくら想像力左発揮しても,あ弧だけの虞の響きを
放つことはできないはずだ。ハーデ|の身振狂言師たちに対する知識は,老
古学的興味などよりは,もっと密接な関係から湧き肌たものである。古来か
54 InJ均とMIg
らのそういう製楽とハーディ家が,家放的に結びつきがあったということ は,もはや想像の領域を脱して直接的なものとなった。ポッカムトン合奏団 のジ画ン・ハーディは,小晩家トマス・ハーディと同じ家族の者であったの だ。その楽団同志の大噴唯のあった12年後に,トマス・ハーディの生垂れた 村の中か,主たは村の近くに,ジ詞ン・ハーディは確かに生存していたわけ だ。」
ここでトムリンソンの文章に,儒越ながら私批を加えると,ジ麺ン・ハーディ はトマス・ハーディと「同じ家族のものであった」どころではない。われわ飢 の'1,設家の寮ごう方なき狩肌父であったのだ。ハーディ夫人の祥した『前半生 の伝記』〃("・〃亙災?
〔トマス・ハーディ家系図〕
q卯.〃.,1928)の記
J('l'''II;'r01y
遮
図の家系図が成り立藍 辨 凱 ぱ 右 ( 職 1 1 父 )
Eliz31"thSWctp'an̲(1778‑1847)I鵬釧湖聯鰯艇職難磯
つ。そして同諜によ 虹ぱ,曾遡父ジ画ン。
・ 1 柵 具 柵 A 1 ) 〒 j ・ 職 爵 撰 蝋 3 ‑ 1 9 0 4 )
ハーディの時代に,
Stil'sbrdの隣りの教
区のボ'カムトンに'l'1柵珊洲I雛談.織人)
土 地 を 闘 っ て , 子
Thom乱馬(節一代,すなわち'1,娩家の剛父)夫姉の新居を建ててやり,新夫姉 は1801年にここへ移ったという龍'Iが兇えている。ハーディ家は1724年ごろか ら代狩,教会雷楽に興味を持っていソこが,この伽父トマスはととのほか普楽好 きで,スティンズフ,.−ド敬会(−と虹が作中の6MelistoCk'敷会のモデル であることも,もちろんである−)の諒楽がさびれたのを歎いて復興に力を 識し,楽器演奏軒を梨めるやら,みずからlxu"‑violを演奏するやらした。そ れは1801‑2年のころから,死ぬ1837年におよび,後期には二人の息子(−
作家の父親,鋪二代トマスをふくんでいる−)をも参加させた。つまりこの 三人の'、−デ による教会脅楽への奉仕は,前後40年にわたり,作家の生後18 42年に主でおよんだ。こうした戯肥の事実から察すると,作家の曾澱父ジ詞ン・
ハーディは,子供や孫こちの関係しているl!ockimmlItonIkmdの1828年の大喧 嘩に対する証人に,長老株として川席したのだということができよう。さて,
トムリンソンの文章とキーツの飢父の柵題に史たもどることにする:−
Jrnn吻とKmj8 55
「作家トマス・'、一デイ氏は,友人の間間に棒えて想い川したことを識っ たよりも,はるかに多くのことを経験していたという感じを逃オ1,為ととは できない。R"""伝を醤いたSidneyC。lvin卿に,キーツの職先について,
ハーディが与えた手がかりは,それほど決定的なものではない。コルヴ(ン 卿はハーディの嬬示をぶっきらぼうに次のように述べている:−
「トマス・ハーディ氏がオつたしに語ったところによると,ドーセプトシアのプ画ド メインnroadmaynという土地の賜口労(ばくろう)から出たKeatsなる一家があ り,その一員は,ハーディ自封の覚えているところ遁朧,ドーチュスター界隈の農期 綴営者および旅館主として聯らしていたし,その中の一人二人i宗,ハーディの紀惚に よオ1ぱ詩人JolmKeat8のijj慨とびっくりするほど似ていた。」
Hardyほど,骨机に対して好奇的かつ洞察的な注意左持っていた人はなか ったし,ハーディほど地方の雁吹および伝統に析溌な興味を,経生,抱いて いた人はなかった。そこで,ハーディがコルヴィン卿にはっきりと名指した 唯一の地名が,彼の村から5−6マイル離れたブロードメインであったとい
うことも奇総である。ポッカムトン在のキーツ家の記憶が,夕べの台所のほ
とりから故老を梨めて鄙(ひな)の話を語らせるのを習俄としていこハーディ家に,全然失せ果てた醤がない。故Amyl・owell蛾は,この暗示を追求す る点ではコルヴィン卿よりも鋭かった。画ウエル城はハーディ夫人から一通 の手鉦を引き出している。夫人はトマス・ハーディの青年時代に,作家自身
が 建 て た 住 宅 一
rMaxGateから2−3マイルの所に住んているKeml2姓を名乗る一家がありま した。こオ1ばハーデ1の父の言っていたところによると,ラルワースI.ulworlllの方
面に住ん毛いる向姓の家族の分れ毛あり童した。…・・・彼ら臆荷馬車曳き('!l'auliers")
と呼ぱオ'ている人たちで,AI殿囲っていて農業などもやっており表した。彼らの群貌
は奇妙にも詩人JOlmK"tSのように短気らしく,彼らの一人はそのためにd6Light‑a‑Fire"とあだ名さオ1てぃ室した。こういう郡緯すべて(凄な陰だ暖味Fを何の意見もな いかも知オ1ませんが,彼らが皆同姓であったとい;ことを考寵に入れますと,恥一つ ゆるがせにできない点I害諏の憩似ということになります。トマス・ハーデ《にその瓢
似が膣なばだ強いと叶lしておりました。宅確こオlらのキーツ家毎人為を二,三人親し
く知っていたからてあります。」
と譜いている。K哩低の友人Sevemの言葉を想い起こすとき,結局,この 締は,そ#Lほど暖昧なものでもなければ,顔の類似が唯一つゆるがせにでき ない点であるわけでもない。セヴァーンと共にキーツがローマに行く途上,
二人は荒天のためにラルワース入江(LulwoIthCove)と今判定さ恥ている
一地点に上陸を余儀なくされ,キーツはそこで。Brights",wollldlwcrc
56 Hh鞠とRMィ8
Rtaflstastho11art19で始壷ろ十四行詰を書いたのであった。その時のこ とをセヴァーンは次のように記録している:−
「しばらくのIⅢ,キーツ瞼,病気にかからない以削のキーツのようになった。キー ツ陣,ず.燈に無知している地方に来てすばらしい洞爾や矯腫を.詩人らしい跨り玲 以て案内して<オ1た。まる.造そオlらが生オIながらにして(生褐椛によって)キーツ
のもの、G‐Gもあったかのように−.」
キーツがセヴァーンに語ったことの虞意義を知るための材料なら,いくら もあろう。だいいち,キーツがドーセット州をそ弧以前に訪肌たという泌蹴 は一つもない。JohnKcatsと弟"I℃、とがTeignmollthから1.ondonに至
る賜耶旋行を打ち切り,ジョン・キーツはドーチニスターから川舎へ廻って
ラルワース入江を見物することができたのかも知れないというコルヴィン卿 の想隙は,もうお払桁にできる。ハムステッドに謡いた際トム・キーツのしたためた一通の手紙は,BridI)DTtを出発してから「われわれはこの二日llllに
100マイルの族をしました」と確かに言っているからだ。トムはその折亜い病気だったのだから,時IMIも機会もラルワース入江への遊楽雄行などを禁じ ていた筈なのである。キーツがラルワース入江を知っていたのは,彼が少年 時代に親戚を訪問した折に得ら虹たものだと考えることは,果してとりとめ
もない室想であろうか?」
× × × × ×
トムリンソンはそのような意味のことを書いている。ここでわれわれは,極
一マヘ行く途中,荒天で寄港した地点で,キーツがラルワース入江の岩窟を,
きるで生まれながらに知っていたかのように,友人セヴァーンに見せて歩くこ とができた秘密を悟るの‑Gある。キーツは寄港以前にそこの勝手を知っていこ のである。その知識はキーツが少年時代に,ハーデ↑の記憶し,注目し指的し ていた通りのラルワース在のキーツの親戚を訪問した折に得られたものだっ
たのだ。そして,ハーディをして,ラルワース上陸の瞬1mのキーツを揃えて,
AtL111wUrth;LCcntury恥ck,(1920,SeI mber作)という諭を詠龍しめた 動機は,キーツと岡趣だという父組代盈を遺伝する執念ぶかい滞在惣職ではな
かったろうか?
ハーディの数,どの'1,没を通じてちりばめら虹ているキーツの詩句のたびたび の!jl川は,喪ととに,そのような伺趣意識のなせるわざであったと,い主断定 するととがでぎるように思わオ1,ろ。
rnJ均と五"f8 57
V、 美とに真,真と腱美なり‑‑‑こオ1の熟ぞ
fltに汝らの知るすべて,知らざるべからざるすべてなり。
(Beautyistruth,trutlll)"uty,一一thatisall
Ycknowonearth,andallycn"dtoknow.)(‑'OdeonaGrecianUrn.') や,主た,
1
美しきもの;急とこしえに喜びなり,
そ の う る わ し さ い や 燗 し , そ ば 傭 に 失せ采つることあらじ,
(Athingorbeautyis;'joyforcver:
11Slovelinessincrcases;itwillncver
I'"gintonothingness.)(−〃'" 《"B,I.,1.)
というような数行に圧縮されているキーツの思想一つまりキーツを詩人と して盛感づけた美とは眞なりというこの観念は,やがて『近世画家伝』(皿⑥此m Bzfnlcj・8)で美と翼との合致を挽くジョン・ラスキン(JOhnRREkin)の教読 の根底となり,ルネッサンス絵画・彫刻の巨匠たちの美的努力のうちに,人生 の輿意義を焦点づけたウォルター・ペーター(WaltcrlatCr)の哲学の基調とな り,さらに,I理想郷便り』(N"".加加Ⅳo"he'・c)のなかで,ユウトーピア ml:会主義と美の秩序とを結合させ,索た実人生の美化を望むあまり,労働運動 の中に美術工芸の改善を持ちこんだウィリアム.モリス(WilliamMorris)の 努力を順致したと言えるであろう。美とは虞,翼とは美という一つの糖耐l!的原 班の主張は,恐らくキーツその人の夢にも思わなかったデモクラチックな,或 いは,枇会主義的な理想を展I刑し減生した母胎となったと見ることもできるわ けで,ラスキンからモリスに至るこうした理想は,文学と人生とをさらに親密 な関係に結びつける宿命を荷なったように思われる。
日なの生活のあわただしさとぞよめきから,一見,もっとも遊離した,孤高 の唯美的詩繍を書いたキーツが,文学と人生とは表裏一体だという永遠の事実 を,執念深くわ虹われに思いlllさせるということは,やはりキーツの詩の偉大 な功繊であろう。
「うら枯れた人生に関するひねくれた思想の作家」(!AthinkerofOooked thOughtsulmnLifinthe""'−−$@NightinthcOldHOme,''Z'杓沌el8 Z"JgハjO'g8foc"P.153)とみずから号する'、一デイは,キーツのこの面にも 同糠に深い影響を受けたように恩わ飢ろ。