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主題化された人物と「視点」

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Academic year: 2022

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(1)主題化された人物と「視点」. 主題化された人物と「視点」. 晶 H'i‑ ft 心. 1. は. じめに. 小説における「視点人物」は主題化されることが多い。ただし、 「対象人物」であっても主題化 されることはあるわけで、 「視点人物」と認定する際の指標については、意識や感覚に関する動詞、 陳述副詞、直示表現などの項目を高野(2005 でまとめている。ただし、そこには統辞的な観点 からの考察が欠けていた。ここではまず、久野1978)が提示した「共感度」という概念が、小 説などのテキスト分析にどの程度応用できるか検討する。次に生成文法で言及される「意味役割」 や、受身文などのヴォイスとの関連から、主題化された人物が「視点人物」となりうる条件を考 えていきたい。 「視点」の問題を文法的に分析した研究としては、先述した久野(1978)がある。 「視点」とい う用語で表される四つの概念に関する研究には、茂呂(1985)や松木(1992)がある。またメイ ナード(1997)は、小説の文章における主題化された人物と「視点」との関連を指摘している。. 2. 「視点」という概念. ここでは茂呂(1985)や松木(1992)が分類した「視点」の四つの概念と、久野(1978)にお ける「視点」という用語が、どのように関係してくるかを、まず確認しておく必要がある。次に 久野が提示した「共感度」という概念を、小説の視点研究に応用する方法について論じたい。茂 呂や松木が分類した四つの概念を整理してみると、次のようになる。 茂呂. 1985. 視 点人物. 視座. 注 視点. 見え. 松木. 1992. 見 る主体. 見 る場 所. 見 られ る客 体. 見 え る様 子. なお、 「視点人物」という用語には注意を要する。広義の「視点人物」は「視点」を担う人物全 般を指す。この場合、一人称の「話し手」や一人称小説の「語り手」も「視点人物」に含まれる。 狭義の「視点人物」とは、三人称小説において「視点」を保持している人物である。ここではま ず、久野(1978)が「カメラアングル」という喰えで説く「視点」について、四つの概念との関 わりから考えてみよう。.

(2) 82. 文中の名詞句のⅩ指示対象に対する話し手の自己同一視化を共感(Empathy)と呼び、そ の度合い、即ち共感度をE x. で表わす。共感度は、値0 (客観描写)から値1 (完全な. 自己同一視化)迄の連続体である。. 「Ⅹよりもy寄りのカメラ・アングル」という概念は、 E (y) >E (x;で表わすことがで きる。. (久野1978. p.134). 久野は「共感度」の定義をするにあたって、以下のような英語の例文を持ち出している。 (1) では「ジョン寄り」もしくは「中立」の「カメラ・アングル」であるが、 (2)の受身文は、 「メ アリー寄り」の「カメラ・アングル」から作り出されているという。. (1) JohnhitMary. (ジョンはメアリーを殴った。) (2) MarywashitbyJohn. (メアリーはジョンに殴られた。). 「カメラ・アングル」という喰えは分かりにくいが、それが関わるのは「視点」の四つの概念の うち、 「視点人物(見る主体)」 「視座(見る場所)」 「注視点(見られる客体)」である。久野の定 義を敷術することでそれらの関係を整理すると、以下のようになる。 久 野の 説明. 話 し手. 話 し手の位 置. 文 中 の人物. ■ カ メラ ●ア ング ル ■ 共感 度. 視 点の種 類. 視 点人物. 視座. 注視 点. 視 座 と注視 点 の 関係. 相 手 との 親疎. それらを小説のテキスト分析に応用する際の考え方を、実際の例とともに示していくことにし よう。小説において現実の「言語主体」は「小説の作者」である。一人称小説の場合、小説の 「視点」を保持しているのは「語り手」自身である。 「語り手」にとって「共感度」が高い人物は、 「語り手」自身かもしくは、 「語り手」側の人物となる傾向がある。. (3)きみは僕らが子供だったころ、僕がとなり町の高校生に殴られて肩が上がらなくなっ たときのことを覚えているだろうか?. あのとき殴られもしないくせに、きみも僕とおな. じように肩が上がらなくなったね。 (久間十義「海で三番目につよいもの」太字と波線は高野). 一人称小説では、 「視点」を保持するのは「語り手」に決まっている。したがって、 「視覚」な どの「五感」や「意識」の指標がなくても、 「語り手」が「視点」を保持する存在(広義の「視点.

(3) 主題化された人物と「視点」. 83. 人物」)であることは明白である。引用した(3)の例では、 「語り手」にとって「共感度」が高 い人物は、 「語り手」自身である「僕」と「きみ」である。波線部の「殴られて」の主語は「僕」 である。主題化されることが多い「語り手」の僕は、ここでは連体修飾節に埋め込まれているた め、格助詞「が」を伴っている。 「殴られもしない」の主語「きみ」に対しても、 「語り手」の僕 の「共感度」は高くなっている。 一方、三人称小説は西郷(1975改版1998)によれば、 「客観の視点」 「限定の視点」 「全知の視 点」に下位分類できるという(1)。まず「客観の視点」の場合は、人物はすべて外側から描かれる ために、 「視点人物」を考慮に入れる必要はない。 「視点人物」が関わるもののうち、まず「限定 の視点」を見てみよう。例えば、井上靖の自伝的小説「あすなろ物語」では、ストーリーは作者 がモデルと冒される「鮎太」を中心に展開する。. (4)言葉使いが荒かったので、徴かな不安が感じられたが、鮎太は五年生の後について の. 行った。連れて行かれたところは武道の道場の裏手であった。数人の五年生が煙草を喫み ながら立っていた。 「おめえの頭は少しどうかしているな。普通の頭にしてやろう」 一人がそんなことを言ったと思うと、同時に鮎太は眼の前が真暗になるのを感じた。右. によろめけば、右から殴りつけられ、左へよろめけば左から殴られた。. (井上靖「あすなろ物語」太字と下線および波線は高野). この例では「意識」を表現した下線部によって、 「鮎太」が「視点人物」であることが分かる。 波線部の受身文の主語は「鮎太」なので、作者は「五年生」よりも「鮎太」に「共感度」が高い 表現を用いているのが分かる。しかも、 「貼太」は「視点人物」なので主題化されている。作者お よび読者の「鮎太」 ‑の「共感度」がE (1)となれば、 「触太」の「視座」から小説の世界を見 るようになる。仮に下線部の指標が欠落していたとすると、 「鮎太」が「視点人物」であるという 判断は下せなくなる。 「鮎太」は単に作者および読者から見て「共感度」が高い人物に過ぎなくな る。 ここで問題となるのは、 「全知の視点」である。ある場面で「視点人物」と見られる人物が、続 く場面では他の人物から見られる対象となってしまう。いわゆる「視点の交替」が起こる。それ 以外に誰の「視点」からとらえたのか不明な表現も出てくる。そのために、 「神の視点」とも呼ば れるわけだが、読者が人物の「五感」や「意識」に関する描写を手掛かりに、その人物に「同化」 して作品を理解するいう点から「視点人物」というものを考えると、 「全知の視点」をとる作品に は、 「視点人物」に相当する人物が複数存在すると見ることもできる。.

(4) 84. (5)安夫は狼狽した。蜂を追ふことに忙殺されてゐて、さて初江をも叉思ふままにつかま へたが、自分が咽嵯の間にどんな働きをしたか、その順序のほどはわからなかった。とに. かく彼は塑廷旦つかまへた.再びその稔りのよい懐を苔の上に押し倒したとき、抜け目の ない蜂は、今度は彼の尻にとまってズボンの上から尻の肉を深く刺した。 (中略) 初江はそれまで正直のところ、自分の救ひの神が何ものだかわからなかった。しかし泉. のかたはらで踊り狂っている宝玉を許かしく逃垂旦うちに、すべては気のきいた蜂のしわ ざだったことがわかって来た。. (三島由紀夫「潮騒」太字と下線、二重下線は高野). 前半の場面では、下線部のように「安夫」の「意識」の状態が表現されている。しかも、受身 表現である波線部の主語も「安夫」なので、彼に対する「共感度」が高い表現となっている。こ の場合においても、 「安夫」を「視点人物」と認定するには、 「共感度」だけでは不十分である。 なぜなら、 「忙殺されてゐ」る描写だけでは、 「安夫」を外部から見ている可能性もあるからだ。 後半の場面では一転して下線部が示すように、 「初江」が「安夫」を「知覚」の対象として眺め、 「初江」の「意識」も表現されている。このように、 「全知の視点」で書かれている作品でも、各 場面に「視点人物」と目される人物が登場する。上記の『潮騒』の例で見ると、前半では「安夫」 が、後半では「初江」がそれに相当すると考えられる。. 3 「視点」と名詞の「意味役割」(2) ここでは「生成文法」などで言及される「意味役割」が、 「視点」とどう関わってくるか考えて みよう。 「意味役割」とは述語が表す事象において、文中の名詞句がどのような役割を担っている かということである。ここでは「視点」の問題と密接に関わるものとして、 「動作主」 「対象」(3)「経 験者」に限って考えることとする。そこで、三人称の人物が出てくるものを作例で示し、どの人 物が小説において「視点人物」となる可能性があるか考えてみよう。. (6)ジョンがメアリーをなぐった。 (ジョン‑動作主) (7)ジョンがさびしい。 (ジョン‑経験者) (8)?ジョンはさびしい。 (同上) (9)メアリーがジョンをなぐった。 (ジョン‑対象、目的語) (10)ジョンがメアリーになぐられた。 (ジョン‑対象、受身文の主語) (ll)ジョンはメアリーになぐられた。 (ジョン‑対象、受身文の主題) (12)ジョンはメアリーがなぐった。 (ジョン‑対象、主題化されている).

(5) 主題化された人物と「視点」. 85. (6)の文ではジョンの「意味役割」は「動作主」である。動作が描かれるだけでは、ジョンに 「視点」があるかどうかは特定できない。問題となるのは「経験者」の場合である。日本語におい ては、 (7)のような形ではジョンを感情や心理状態の「経験者」として表せない。いわゆる「人 称制限」があるためで、他人であるジョンの意識は、伝聞や推測などの形で表す必要がある。と ころが、 (8)のように「経験者」のジョンを主題化した文は、日常会話では用いられないものの、 小説においてはジョンに「視点」があると判断する指標となる。係助詞の「は」によってジョン が「旧情報」となり、ジョンが小説の中で話題の人物であることが分かる。しかも他者の心理状 態を知り得ないという「人称制限」を破ることで、読者がジョンに「同化」することが促進され るからである。 (9)の文では、「視点(カメラ・アングル)」は「メアリー」寄りか中立である。ここでは「ジョ ン」が対象となっている. 10. は受身文なので、 「視点」は主語の「ジョン」寄りにある。主題. 化されていないので、ジョンは「視点人物」ではなく、 「語り手」が親近感を抱いている相手と考 えられる。 (ll)のように「ジョン」が主題化されると、 「視点人物」となる可能性がある。 とはいっても、 「主題化」されただけで、その人物に「視点」があるわけではない。 (12)では 「ジョン」は主題化されているものの、能動文における「対象」に過ぎず、 「動作主」は「メアリー」 である。 [(対象)は(動作主)が(他動詞)]という構文であり、 「視点(カメラ・アングル)」は 「メアリー」寄り、もしくは「中立」であると思われる。 ここで試みに、上記の. 6) ‑ (12)の「ジョン」を「私(‑語り手)」に入れ替えてみよう。. それによって、 「ジョン」が「視点人物」となる可能性があるかが明確になるからである。. 6)'. 私がメアリーをなぐったO. (7)' ?私がさびしい。 (8 '. 私はさびしい。. (9 '. メアリーが私をなぐった。. 9 ". メアリーは私をなぐった。. 10)'. 私がメアリーになぐられた。. ll)'. 私はメアリーになぐられた。. 12)'. 私はメアリーがなぐった。. 元の各文との違いに注目しよう。 (6)'のように「私」は「動作主」となるばかりではなく、 9)'のように「対象」となることがある(7)'の文では格助詞「が」を「総記(4)」の「が」 ととらえれば、正しい文となる可能性がある。 (8)'は「経験者」が一人称なので正しい。 9)'.

(6) 86. では語り手の「私」が、自分自身を対格で表している。ところで、語り手の「私」よりも「メア リー」が優先して主語の位置にあるのはなぜか。先行する文で「メアリー」が「旧情報」となっ ていたからだと考えるなら、 9)"のように「メアリー」を主題化しなければならない。 (10)' の受身文のように、 「私」を「主格」の「が」で伴って表すのは、 「私」が殴られたのだと強調す る場合である。 「私」寄りの「視点」であるということは、 「私」が「旧情報」であることを意味 するので、 (ll)'のように「私」が主題化される方が普通だろう。 ところで、 (12)'は非文と考えられる。 [(対象)は(動作主)が(他動詞)]という構文である から、語り手の「私」がわざわざ自分を「対象」として主題化することは考えられない。同一の 事実を言うには11 'のような受身文で表現するものと思われる。. 4. 「対象」として「主題化」された例. 「視点」を保持する人物は、目的語の位置で「対象」となることはできるが、 「対象」として主 語の位置で主題化されないことが分かった。要するに、 [(対象)は(動作主)が(他動詞)]とい う構文では、 「視点(カメラ・アングル)」は「動作主」の人物寄りか中立である。. (13)二回の試みは遂に成功しました。ひろ子はその晩から非常な高熱を出しました。私に は、無論そのわけは判っていましたが妻にははじめよく判らなかったらしいので、結局、 医者がかけつけたのはその日の夕方になってしまったのでした。 医者は無論、私が呼びに行ったのです。この際医者を呼ばないわけには行きません。. (浜尾四郎「途上の殺人」下線は高野) この例のように、 「動作主」の位置に「私」がある。一方、主題化された「医者」は語り手の 「私」から見た「対象」に過ぎない。その文を簡略化すると14 化した受身文(15. になる。一方、 「医者」を主題. は、このままでは非文と考えられる。受身文では「主語」寄りに文が記述さ. れなければならないのに(5)、目的語となった「私」が与格であるせいである。ただし、 (16)の ように「私に呼ばれて」という部分を、 「医者は〜来たのです」の内部に埋め込むと許容度が高く なる。. 14 医者は私が呼んだ。 (15)医者は私に呼ばれた。 (16. 医者は[私に呼ばれて]来たのです。.

(7) 主題化された人物と「視点」. 5. 87. 「私はメアリーがなぐった」は非文. この非文に関しては、「私はメアリーになぐられた」という受身文が正しい文として考えられるO 受身文(受動文)の原理としては益岡(1987)(6)が、 「昇格」と「降格」を挙げている。上記の受 身文は、対応する能動文「メアリーが私をなぐった」における「私」が「昇格」するのが主たる 動機で、付随的に「メアリー」が「降格」しているので、 「昇格受動文」に相当する。 ここで「私はメアリーがなぐった」が非文である理由を考えてみよう0第一に挙げられるのが、 語り手である「私」が主題化される場合、 「意味役割」の面では、 「私」は「対象」となるよりも「動 作主」になりやすいという点である。第二には語り手の「私」が「対象」となって主題化される 場合は、受身文の形を取って「主語」寄りに「共感度」が高い文を作らなければならない点であ る。第三には受身文(私はメアリーになぐられた)の形で「私」を主題化する場合は、 「私」が前 面に「昇格」した代わりに、 「メアリー」は背面に「降格」されなければならないという点0第四 には係助詞の「は」は文末まで係るため、 「視点」を保持するだけではなく主題化されている「私」 は、述語「なぐる」の「動作主」であることが期待される点である。そのために、 「なぐる」主体 が「メアリー」であるとの読みが阻害されると考えられる0 6. ま. とめ. この論文では、まず久野の文法的視点論を、小説のテキストを分析する方法として援用する方 法を述べた。一人称小説では「視点」を保持するのは「語り手」であり、 「共感度」の問題は「語 り手」がどの人物の側に立っているかという問題に関わっている。一方、 (「客観の視点」(7)以外 の)三人称小説でも、 「共感度」だけでは「視点人物」と認定する指標としては不十分で、それ以 外に「知覚」や「意識」に関する指標が必要であることが分かった。 続いて生成文法で言及される「意味役割」という観点から、 「視点」の問題を考えてみた。 「語 り手」など「視点」を保持する人物は、 「動作主」や「経験者」として主題化されることが多いが、 主語の位置で「対象」として主題化されないことが分かった。今後は「語り手」が自分自身を 「対象」として対格で表す条件などを調査していく予定である。 注 (1)西郷によれば、 「三人称客観」の視点とは、 「主観をもたないカメラの眼(レンズ)」であり、 「そこに登場す る人物をまったく外がわから『客観』的に措く」ものだという。 「三人称限定」の視点とは、 「三人称客観の視 点が幾人かの登場人物のなかのある特定の人物の視点と・かさなる場合」を指す。 「三人称全知」の視点とは、 「すべての人物を外からとらえながら、かつ、すべての人物の視点に同時に立つことができる視点」で、 「神の 視点」と呼ばれるものだという。 西郷(1998 p.138参照) (2)長谷川(1999P.37参照).

(8) 88. 同書で長谷川は「意味役割」として、 「動作主」 「対象」 「経験者」 「原因」 「着点」 「起点」 「受益者」 「道具」 を挙げている。 (3) 「対象」は「被動作主」とも呼ばれる。ここでは述語が二つの項を要求する「二項動詞」の場合について考 える。 (4)久野(1983P.28参照) 久野は「総記」の「が」について、 「太郎ガ学生デス」という文では、 「(今話題になっている人物の中では) 太郎だけが学生です」という意味だと説明している。 (5)受身文のカメラ・アングル 受身文のカメラ・アングルは、新しい主語寄りである。 久野(1978 p.130参照) (6)益岡(1987P.183参照) (7)本稿で「三人称客観」の視点を扱わなかったのは、作中の登場人物の中に「視点」を保持している者が存在 しないからである。 参考文献 石神照雄「ハとガ」 (『日本語の文法・文体(上)』所収 明治書院1989) 奥津敬一郎「なぜ受身か?」 (『国語学』 132集1983.3) 工藤真由美「現代日本語の受動文」 (『ことばの科学4』所収 むぎ書房1990 久野嘩『談話の文法』 (大修館書店1978) 久野嘩『日本文法研究』 (大修館書店1983) 久野嘩「受身文の意味」 (『日本語学』明治書院1986.2) 西郷竹彦『文芸学講座(Ⅰ)視点・形象・構造』 (明治図書1975. 改版. 恒文社1998). 柴谷方良「日本語・英語」 (『外国語との対照Ⅰ』所収 明治書院1982) 柴谷方良「日本語の語用論」 (『日本語の文法・文体(上)』所収 明治書院1989) 泉子・ K・メイナード『談話分析の可能性』 (くろしお出版1997) 高橋太郎「現代日本語のヴォイスについて」 (『日本語学』 明治書院1985.4) 高野敦志「芥川龍之介の小説と『視点人物』の指標」 (『文体論研究』第51号2005.3) 日中裕司「動作主の随意性と受動文の類型」 (『事象と言語形式』所収 三修社 2002) 坪井栄治郎「受影性と受身」 (『認知言語学Ⅰ :事象構造』東京大学出版会 2002) 仁田義雄「日本語」 (『外国語との対照Ⅰ』所収 明治書院1982) 野田尚史『「は」と「が」』 (くろしお出版1996) 長谷川信子『生成日本語学入門』 (大修館書店1999) 益岡隆志『命題の文法』 (くろしお出版1987) 松木正恵「見ることの文法研究」 (『日本語学』 明治書院1992.8) 三尾砂『国語法文章論』 (三省堂1948) 村木新次郎「ヴォイス」 (『日本語の文法・文体(上)』所収 明治書院1989) 茂呂雄二「児童の作文と視点」 (『日本語学』 明治書院1985.12) 資料 井上靖「あすなろ物語」 (『井上靖全集 第九巻』新潮社1996) 久間十義「海で三番目につよいもの」 (『新潮』新潮社1993.1) 浜尾四郎「途上の殺人」 (『日本探偵小説全集5 浜尾四郎集』東京創元社1985) 三島由紀夫「潮騒」 (『三島由紀夫全集 第九巻』新潮社1973).

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