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詩人John Keats作 "On Seeing the Elgin Marbles for the First Time" について

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詩人John Keats作 "On Seeing the Elgin Marbles for the First Time" について

著者 奥田 喜八郎

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 51

号 1

ページ 109‑126

発行年 2002‑10

その他のタイトル The Original Sonneteer John Keats : "On Seeing the Elgin Marbles for the First Time"

URL http://hdl.handle.net/10105/374

(2)

 イギリスのロマン主義を代表する詩人John Keats(1795

−1821)は「初めてエルギン大理石彫刻群を観て」("On 

Seeing the Elgin Marbles for the First Time")と題して こう歌い上げるのである.

詩人John Keats作 "On Seeing the Elgin Marbles

for the First Time" について

奥 田 喜八郎

奈良教育大学英語教育講座(英米文学)

(平成14年4月1日受理)

The Original Sonneteer John Keats :

"On Seeing the Elgin Marbles for the First Time"

OKUDA Kihachiro

(Department of English and American Literature, Nara University of Education, Nara 630-8528, Japan) (Received April 1, 2002)

Abstract

  This  paper  states  the  romantic  painter  Haydon's  great  influence  on  the  original  poet  Keats's sonnet entitled "On Seeing the Elgin Marbles for the First Time."  This paper stresses  Keats's weakness, his lack of ability to do justice to the subject, and his own insufficiency,         "Like a sick eagle looking at the sky",  

        "Yet 'tis a gentle luxury to weep "

 which the author thinks the finest image on a poet (=John Keats himself) that has ever been  written. So Keats is called an original sonneteer.

  This paper explains the Petrarchan sonnet that Keats uses, which is a sonnet containing an  octave with the rhyme pattern (= abba / abba) and a sestet of the rhyme pattern (cdc / dcd). 

This  is  called  the  Italian  sonnet.  In  this  paper  the  author  examines  the  exquisite  contrast  between  "a  sick  eagle"  and  "a  sick  poet  (=  Keats  himself)"  on  the  basis  of  the  imagery  and  symbols of "an eagle" spoken in the European countries and in the Holy Bible. An eagle is a  large bird of prey (= one that attacks and eats other birds, small animals) of family Accipitridate,  with keen vision and powerful flight. An eagle symbolizes pride, power, strength, speed, and  youth in English and American Literature.

  This paper investigates Keats's poetical world of "Such dim-conceived glories of the brain /  Bring  round  the  heart  an  undescribable  feud"  in  the  sestet.  The  word  of  feud  means  lasting  mutual hostility, especially between two tribes, families with murderous assaults in revenge for  previous injury. The author examines a bitter quarrel between the brain (= the Elgin marbles)  and  the  heart  (=  the  English  poet  Keats)  in  the  sonnet.  The  Elgin  marbles  symbolizes  polytheism (= Graecism), and the English poet Keats symbolizes monotheism (=Christianism).

Bull. Nara Univ. Educ., Vol. 51, No.1(Cult. & Soc.),2002

Key Words:  Graecism, Christianism, eagle. キーワード:  ギリシャ精神,キリスト精神,鷲

(3)

My spir/-it is too weak−mor/-tal/-i/-ty

Weighs heav/-i/-ly on me like un/-will/-ing sleep, And each i/-mag/-ined pin/-na/-cle and steep Of god/-like hard/-ship tells me I must die Like a sick ea/-gle look/-ing at the sky.

Yet 'tis a gen/-tle lux/-u/-ry to weep That I have not the cloud/-y winds to keep Fresh for the o/-pen/-ing of the morn/-ing's eye.

Such dim/-con/-ceiv/-Fd glo/-ries of the brain Bring round the heart an un/-de/-scrib/-a/-ble feud;

So do these won/-ders a most diz/-zy pain, That min/-gles Gre/-cian gran/-deur with the rude Wast/-ing of old Time, with a bil/-low/-y main, A sun, a shad/-ow of a mag/-ni/-tude.

 これは,イギリスの女流批評家Miriam Allott(1918−)

が編集した『ジョン・キーツ全詩集』(John Keats: The  Complete Poems, 1986)から引用したsonnetである.念の た め に,イ ギ リ ス の 学 者 で あ り,批 評 家 で も あ る  Christopher Bruce Ricks(1933−)が編集した『ジョン

・ キ ー ツ 全 詩 集』(John  Keats:  The  Complete  Poems,  1988)と比べてみると,幾つかの些細な相違が目に付く.

たとえば,Ricks版の4行目は,

Of godlike hardship, tells me I must die

と,歌われているのだ.Commaが使われていることに,注 意しよう.また,最後の2行は,

Wasting of old Time−with a billowy main−

A sun−a shadow of a magnitude.

というふうにcommaがそれぞれdashになっていることに,

注目しよう.これらは単なる句読点の相違ではないかと いう,お叱りを受けるかも知れないが,commaはcomma の働きがあり,また,dashはdashの役目がある.更に,よ く比べてみると,Ricks版の5行目の,"eagle" が,大文 字の "Eagle" と歌われるのも,面白い.Ricksは「鷲」を 人間のように見立てているからである.また,それぞれ のdashに託して,詩人キーツが「熟考」している,とい うRicksの味読もまた,感動的である.また,Commaに 託して,三つ以上連続した項目を並べる,というAllott の読みも面白い.念のために,イギリスの文学者Ernest  De Selincourt(1870−1943)が編集した『ジョン・キー ツ詩集』(The Poems of John Keats)を紐解くと,1行 目は,−"My spirit is too weak; mortality"−というふう に,semicolonが付いている.Semicolonは,colonに似て いる.Semicolonは一応分離する.これは,periodに近 い.しかし,分離しながら,つながっている,という読 み方も面白い.

 それはそれとして,この14行詩は,詩人キーツが22歳 の時に,初めて「大英博物館」(the British Museum)に 展示された,あの古代ギリシャ大理石彫刻群を初めて観

た時の,何ともいえない感動を歌い上げたsonnetである.

Allott は,この辺の事情を,−Written shortly before 3  March 1817 with the following poem after visiting the  Elgin  Marbles  at  the  British  Museum  in  Haydon's  company... − と,語 る.ア メ リ カ の 女 流 詩 人 Amy  Lawrence Lowell(1874−1925)は,『評伝 ジョン・キー ツ』(John  Keats,  1929)の中に,−On  a  day  early  in  March − probably,  indeed,  March  first − Haydon  took  Keats to see the Elgin Marbles, already housed in the  British Museum.−と指摘する.青年詩人キーツは先輩画 家Benjamin Robert Haydon(1786−1846)のお供をして,

ギリシャから「大英博物館」に移された,古代ギリシャ 大理石彫刻群を見学したのが,1817年の3月1日か,2 日であったようである.当時,キーツは22歳であった.

 両者の言う,the Elgin Marblesというのは,「エルギ ンの大理石彫刻群」といって,元来AthensのParthenon にあったものである.それを19世紀初めに,Elginという 人が買い取って,アテネから大英博物館に移した「古代 ギリシャ大理石彫刻群」のことである.これらの彫刻群 は,紀元前5世紀におそらくギリシャの彫刻家Phidias

(c500−432? B.C.)の指導下に彫刻されたものと考えら れる.また,アテネから大英博物館に移す手配をしたの は,第7代Elgin伯,つまり,Thomas Bruce(1766−1841)

そ の 人 で あ る.Elgin の 名 に ち な み,後 に the  Elgin  Marblesと言われるようになったという.

 Elginという地は,スコットランド北東部のMorayshire の旧名である.別に,Elginshireともいう.Morayshire は1975年からGrampian州とHighland州の一部となる.

そのために,現在では,ElginのほとんどがGrampian州 の一部となっている.地名Elginの読み方は,エルギンで あるが,男性名Elginの読み方は,エルジンでも,エルギ ンでも良いようである.筆者はその地名の読み方を活か して,the Elgin Marblesを「エルギンの大理石彫刻群」

と読むことにする.「エルギン式文化財盗み出し」のこ とを,英語でElginismというらしい.

 この古代ギリシャ大理石彫刻群をキリスト教国イング ランドの大英博物館に移す運びとなった時,国内は賛成・

反対の意見が対立して,白熱化し,大騒動となったこと はすでに本誌の拙文「文学少年キーツの見た歴史画家ヘ イドン」(平成13年10月15日発行)に紹介しておいたの で,参照していただきたい.あわせて,画家Haydonにつ いても上記の拙文を参照していただきたい.

 なにはともあれ,上記に紹介した14行詩を精読し,味 読したい.御覧の通り,「音節」(syllable)を踏まえて,

そのverse rhythmを示したものである.Sonnetの各行は

「弱強調5歩律」(iambic pentameter)である.見ると,

2行目は,−"Weighs heav/-i/-ly on me like un/-will/- ing sleep"−というふうに,11音節から成る.1音節多い

(4)

のだ.また,8行目は,−Fresh for the o/-pen/-ing of  the morn/-ing's eye−というふうに,これも11音節であ る.1音節多い.更に,10行目は,−"Bring round the  heart an un/-de/-scrib/-a/-ble feud"−もまた,11音節で あ る.そ し て,13行 目 は,− "Wast/-ing  of  old  Time,  with a bil/-low/-y main"−というふうに,これも11音節 である.つまり,字余りである.

 このような場合には,格調を引き締める意図をもって,

2音節を1音節のように,微かに原音を留めながら,「縮 約」(contract)して「走読」(slur)する,という工夫が 試みられる.これを「音節縮読」(elision)という.この ルールには2種類ある.(1)「母音融合」(synaeresis)

と(2)「子音にはさまれる母音の縮読」(syncope)がこ れである.前者は「隣接している2個の母音を1個の母 音のように縮約して,ときにはまた,二重母音に転化さ せて律読する」方法である.後者は「語中の母音を縮約 して,1音あるいは1音節を省約する」方法である.と くに,「鼻音・流動音([m][n][l][r])を含む音節では,

前の音節が弱化して1音節のよう律読される」のである.

 たとえば,2行目の−"Weighs heav/-i/-ly on me like  un/-will/-ing sleep"−の11音節を思う時,考えられるのは 

"un/-will/-ing" の3音節を,"un/-will'ng" と縮約すること である.すると,2行目は−"Weighs heav/-i/-ly on me  like un/-will'ng sleep"−と成る.これは,後者の「子音 にはさまれる母音の縮読」である.

 ま た,8行 目 の − "Fresh  for  the  o/-pen/-ing  of  the  morn/-ing's eye"−の11音節を思う時,考えられるのは2 つある."o/-pen/-ing" の3音節を,(1)"o/-p'ning" と縮 読するのと,(2)"o/-pen'ng" と縮読するのと,である.

両方とも良いのであるが,筆者は前者の "o/-p'ning"  の 方を選びたい."open" は,[oupn, -pm]と1音節で発音 するからである.これで,8行目は−"Fresh for the o/- p'ning of the morn/-ing's eye"−というふうに,10音節に 成る.これはまた,後者のルールによるものである.

 更に,10行目の−"Bring round the heart an un/-de/- scrib/-a/-ble feud"−の11音節を思う時,考えられること は,この場合,"the" という定冠詞を,"th'" と縮読し,"th'  heart" として1個に走読したい.これは英詩において,

読者にまぎれもなく縮読を指示したく思うならば,theを th'と記しておく工夫もあるからである.これで,10行目 は − "Bring  round  th'  heart  an  un/-de/-scrib/-a/-ble  feud"−というふうに10音節に成る.これは,前者の母音 融合である.

 そして,13行目の−"Wast/-ing of old Time, with a bil/- low/-y main"−の11音節を思う時,これもまた,2行目の それと同じように,"wast/-ing" の2音節を,"wast'ng" 

というふうに,1音節に縮読したい.すると,これで,

13行 目 は − "Wast'ng  of  old  Time,  with  a  bil/-low/-y 

main"−というふうに10音節に成る.これも,後者の母 音融合である.

 以上で,問題の11音節が10音節と成り,sonnetの「弱 強調5歩律」が完成する.しかし,やや不安なのが,9 行目の−"Such dim/-con/-ceiv/-Fd glo/-ries of the brain"

−の形容詞 "dim/-con/-ceiv/-Fd"の4音節である.これ は,詩人キーツの苦心の工夫である.これは,普通,4 音節ではなく,正しくは,"dim/-con/-ceived" の3音節 であるからだ.たとえば,3行目の "i/-mag/-ined" と同 じように,"con/-ceived" の "-ed" を,共に,[d]と發音 するからである.詩人キーツはそれをわざわざ,"-Fd" の 

"F" の上に,アクセントのマークを添えるのである.これ は,読者の見た目にも分かるように,1個の音節がある ように工夫した詩人キーツの苦心の賜物である,といい たい.飽くまでも,全体の10音節を整えるための詩人キー ツの詩的工夫である,と見たい.

 次に,この14行詩の「脚韻」(end rhyme)を調べてみ たい.各行の最後の単語を見ると,詩人キーツは以下の ように押韻するのである.つまり,−"mor/-tal/-i/-ty,  sleep, steep, die, sky, weep, eye, brain, feud, pain, rude,  main, mag/-ni/-tude"−というふうに,である.問題なの は,1行目の脚韻である.これは4音節から成る語であ るが,最後の音節 "-ty" の發音は[-ti]であるからだ.思 うに,詩人キーツはこの脚韻を[-ti]と読むのではなく,

[-tai]と読むように,工夫しているようだ.すると,全 体の脚韻は,發音記号でしめすと−[-tai][sli:p][sti:p]

[dai][skai][ki:p][ai][brein][fu:d][pein][ru:d]

[mein][-tu:d]−というふうに完璧な押韻となるからで ある.即ち,詩人キーツは−abba/abba/cdc/dcd−とい う押韻を使用するのである.これはイタリア風ソネット で あ る.別 に,ペ ト ラ ル カ 風 ソ ネ ッ ト(Petrarchan  sonnet)という.これは古いヨーロッパの伝統的な,且 つ歴史的な詩型である.

 このように,初めて「エレギン大理石彫刻群を観て」

と題するこのsonnetの「詩型美」即ち詩人キーツの苦心 の詩的な足跡を一歩一歩辿って見た.Lowellはこの作品 について,−The sonnet On Seeing the Elgin Marbles  for the First Time is much better.−と称えるのである.

これは,おそらくは,詩人キーツ作「エルギン大理石彫 刻群を観て,というソネットを携えて,ヘイドンに」("To  B.  R.  Haydon,  with  a  Sonnet  Written  on  Seeing  the  Elgin Marbles")という作品と比較してのLowellの讃美 であろうか,と思う.

 それと比べて,"much better" と,Lowellの褒めるこの 14行詩のテーマは,ご存知の,ヨーロッパ全土に語り継 がれている,あの「芸術は長く,人生は短し.」(Ars longa,  vita brevis.)であろうか,と思う.この "Art is long, life  is short." という諺を下敷きにして,詩人キーツは,彼自

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身の運命的な「生命の果敢なさ」を切実に歌い上げた傑 作である.そして,詩人キーツは,「北海文明」と「地 中海文明」の生々しい歴史的な,且つ個人的な葛藤を明 示した白眉である,というのが筆者の解釈である.

 それでは,Lowellのいうこの白眉「初めてエレギン大 理石彫刻群を観て」と題する14行詩の1語1句に立ち留 まり,その意味を調べ,その味をあじわい,じっくりと 精読して見ることにしよう.重複するが,詩人キーツは 最初の「4行連句」を,実際は5行を用いて,こう歌い 起こすのである.−My  spirit  is  too  weak-mortality  /  Weighs heavily on me like unwilling sleep, / And each  imagined pinnacle and steep / Of godlike hardship tells  me I must die / Like a sick eagle looking at the sky. − 御覧の通り,詩人キーツは先ず,5行連句を使用する.こ れは詩人キーツ独自の,キーツらしい斬新な着想である.

と い う の は,上 記 に 指 摘 し た よ う に,脚 韻 は −

[abba/abba...]−というふうに押韻される,「8行連句」

(octave)であるからである.これはいわゆる,最初の「4 行連句」(the first quatrain)と2番目の「4行連句」

(the second quatrain)という,イタリア風ソネットの 古い伝統的な詩型を意味するからである.詩型のルール はそうであるが,しかし詩人キーツはその伝統的詩型を 踏まえながら,内容を重視して,型破りな「5行連句」

を用いて「一つのテーマ」を高らかに歌い上げるのであ る.斬新で,面白い.

 詩人キーツはまず,最初の1行をこう歌うのだ.−"My  spirit is too weak."−と.Spiritという語は,類義語soulが あるので,厄介である.前者のspiritは,元,ラテン語の spiritus から派生した語である.「息」(spirare 「息をす る」)という原義を有するという.つまり,「神によって 吹き込まれる生命の息吹」というイメージを持つ語であ る.後者のsoulは,古英語でsawl, sawol といい,おそら くは元,ゲルマン語で*saiwalo といい,*saiwiz から派生 した語であるという.「湖または海に関わるもの」で,

当時,「魂は湖[海]でうまれ,湖[海]に帰ると考え られた」という.Soulがseaと関連のあるのも,これで肯 けるだろう.Soulはbodyの対語である.Bodyに生命と力 を付与するのがsoulである.それが人間の本質な部分で

「永遠不滅」のものである.Spiritは肉体を越えた次元で の活動力としての精神である.また,元来肉体を備えて い な い 存 在 も 指 す.た と え ば,"the  Holy  Spirit(or  Ghost)"(「聖 霊」)で あ る と か,ま た,"an  evil  spirit"

(「悪霊」)であるとか,さらに,"The spirit is willing but  the flesh is weak."(「心ははやっても体がついてこない.」) であるという諺などを思い出す.

 詩人キーツは上記の諺を下敷きにして,−"My spirit is  weak."−"My spirit is too weak."−と歌うのではあるまい か.これは,思うに,「神によって吹き込まれた,僕の

生命の息吹は余りにも弱すぎる.」と歌うのだろう.出 口保夫訳をみると,「わたしの心はあまりにも弱すぎる.」 と読むのである.「心は弱い」というのは,漠然として いて,分かるようで分かり難い.キーツは結核患者であ ることを思い合わせてみると,ここは矢張り,神が吹き 込んだ「僕の生命の息吹は弱い」と読む方がより具体的 であり,感動深い.というのは,weakは「体力が弱い」

を意味する一般語でもあるからだ.これが詩人キーツの 宿命である.この宿命に項垂れる詩人キーツを眺めると,

彼はまるで,The weakest goes to the wall. (「優勝劣敗」

「弱肉強食」)という諺の示す,一方の「弱者が衰え滅 び」ゆくその人自身であるのもまた,哀れ深い限りであ る.

 し か も,詩 人 キ ー ツ は そ れ に 続 け て,− "Mortality  weighs heavily on me like unwilling sleep."−と歌い定め るのだ.Mortalityという名詞は「死すべき運命」という 意味である.これは,元,ラテン語の mortalis (mors

「死」より)派生した語である.詩人キーツは死すべき 自 分 の 運 命 を 切 実 に 歌 う の だ.そ れ も,− "Mortality  weighs on me."−と.これは,恐らくは,「死すべき運命 が重く僕に圧しかかる.」という意味であろうか.のし かかるその重荷の重さを強調して,詩人キーツは,−

"Mortality weighs heavily on me."−と定める.「死すべ き運命が僕に重く重くのしかかる.」と歌うのだろう.

Heavilyを用いることにより,キーツにのしかかる,比喩 的な重さが暗示され,それが,−"like unwilling sleep"−

である,と詩人キーツが歌うのだ.「眠りたくも無いの に睡魔が襲うように」とでも比喩するのか.Sleepは,通 常の定期的な眠り,をいう.−"like sleep"(「通常の定期 的な眠りのように」)−ではなく,−"like unwilling sleep"

−と歌うのは,病身のキーツであることを思うに,一層,

哀 れ で あ る.こ の よ う に,"heavily" と "like  unwilling  sleep" との「重さの比喩」が呼応し合うのも,絶妙であ る.悲嘆に暮れる詩人キーツ.落胆する詩人キーツ,で ある.

 そ し て,詩 人 キ ー ツ は,− "And  each  imagined  pinnacle  and  steep  /  Of  godlike  hardship  tells  me  I  must die / Like a sick eagle looking at the sky."−と3行 にわけて,一気に歌うのだ.ながい一文である.分かり やすく,解きほぐしてみよう.まず,詩人キーツは,−

"I must die."−と歌う.「僕は死ななければならない.」と.

それも,−"I must die like a sick eagle."−と歌う.「僕は 一羽の病める鷲のように死ななければならない.」と.し かも,−"I must die like a sick eagle looking at the sky."

−と歌う.「僕は大空を見詰めている一羽の鷲のように死 ななければならない.」と表曰するのだろうか.これは 何という悲しい落胆であろうか.哀れ深いかぎりである.

 それにしても,なぜ詩人キーツはここに「鷲」を歌い

(6)

上げるのか.何故詩人キーツは「病める鷲」を明示する のか.Eagleは,百鳥の王である.その力・その視力・

その飛ぶ姿などを称えて言う.中でも,褐色で肩が白色 のimperial eagle(カタジロワシ)は,堂々たる帝相の持 ち主である.鷲は高処に巣(eyrie)を営み,四方を見渡 して,急転直下(swoop down)して獲物を拉し去る猛 禽である.イングランド産の鷲は,golden-eagle(イヌ ワシ)である.この他にsea-eagle(ウミワシ)がいる.

オジロワシ属Haliaeetus の数種の大形ワシの総称である.

魚を常食とする.「イヌワシ」はタカ科のイヌワシ属の 代表的な鷲である.北半球に生息し,頭・首の後ろ羽が 黄金色である.

 詩人キーツの歌う「鷲」は,このイヌワシであろう.

イヌワシについて,−Golden eagles hunt well in pairs. 

When  very  hungry,  they  may  attack  foxes  or  even  medium-sized dogs. −であるという.また,このイヌワ シ に つ い て,イ ン グ ラ ン ド で は,− You  have  heard  stories about small children being carried off to eagles'  nests by these large birds.−と語り継がれているのだ.

「小さな子供達をさらっていく」のは,イヌワシである,

というのは面白い.まるでこれは「神隠し的」である.

し か し,こ れ は あ く ま で も,such  stories  have  been  proved to be untrue.である.さらに,

Close at hand the golden eagle's brown plumage is seen  to be of a warmer shade. The plumage brightens on the  back  of  its  neck  to  the  golden  brown  from  which  the  bird takes its name. Its eyes and bill are dark. Its legs  and  feet  are  feathered  to  the  toes,  whereas  a  bald  eagle's  feet  above  the  toes  are  bare.  Its  tails  feathers  are blackish toward the ends and more or less whitish  toward the body. というのはイヌワシの特徴である.し かし,イングランドにはgolden  eagleがいるだけで,

ScotlandやIrelandのそれぞれの山中と海浜にも住んでい るが,数はきわめて少ないらしい.

 鷲はまた,高貴と寛容の象徴ともされ,古代ローマ人 はワシを "Bird of Jove"(ジョウヴ神の鳥)と呼ぶ.Jove というのは「ローマ神話」に登場する,ユーピテル,

ジュピター(Jupiter)のことである.彼は神々の王であ り,天の支配者である最高の神であるという.雷電を武 器とするという.「ギリシャ神話」ではZeusに当たる.皇 帝の葬儀ではワシを放ち飛ばす儀式があったという.こ の儀式を踏まえて,イギリスの詩人John Dryden(1631

−1700)は,イギリスの将軍で清教徒の政治家のOliver  Cromwell(1599−1658)の葬儀の後で,Officious haste  did let too soon the sacred eagle fly. と歌っていたのを想 起するのだが,出典は不明である.御教示を賜りたい.ま た,キリスト教美術では,ワシは瞑想の象徴である.St. 

John the EvangelistやSt. Augustine(354−430)などの

使者ともされる.前者のSt. John the Evangelistはいつも ワシのように,"the sun of glory" を眺めていたからだと いう.「エゼキエル書」の中に,−8 ...and they four had  their  faces  and  their  wings.  /  9  Their  wings  were  joined one to another; they turned not when they went; 

they went every one straight forward. / 10 As for the  likeness of their faces, they four had the face of a man,  and the face of a lion on the right side; and they four  had the face of an ox on the left side; they four also had  the face of an eagle.−

「彼らはおのおのその顔の向かうところへまっすぐに行 き,霊の行くところへ彼らも行き,その行く時は回らな い」という神の言葉がある.これは第一章第8節以降の 神の言葉である.Eagleのごとく,St. John the Evangelist も,また 詩人キーツも,「それぞれの顔の向かうとこ ろへ,回らずに,まっすぐに進む」人である,と歌うの かもしれない.両者は共に「正義の猪武者」の感が大で ある.さらに,戦場では,ワシが飛ぶのは勝利の吉兆と されている.イギリスの詩人John Milton(1608−74)

は,作品Areopagitica の中に,

Methinks I see her as an Eagle moulting her mighty  youth, and kindling her undazl'd eyes at the full midday  beam; purging and unscaling her long abused sight at  the fountain itself of heav'nly radiance. と語っているの は,興味深い.ここに言うherというのは,Englandを指 す.ワシのように羽換えして,そのたくましい若さを取 り戻し,あふれるばかりの真昼の陽光にらんらんたる目 を燃やし,その長く使い古した視力を天上の光輝の源泉 そのもので清め,みがいているイングランドの姿が,即 ち若き詩人John Keats自身の姿であるかのように見えるか らである.これは,ワシは10年ごとに地球よりもっとも 遠い火炎圏(fiery region, empyrean)へ舞い上がり,そ こからまっしぐらに海中へ降下して,羽換えする(to  moult)と,イングランドで語り継がれているのも,興 味深い限りである.思うに,詩人キーツは「鷲」に託し て,自分は先輩詩人ミルトンの生まれ代わりの後輩詩人 キーツであることを,明示するのかもしれない.

 しかも,詩人キーツは,Eagles fly alone.(「ワシはひ とり飛ぶ.」)という諺の示すように,「詩人は弧独」で あることを高らかに表曰するのかもしれない.「君子の 弧高」を「鷲」に託して歌い上げるのではないか.それ も,イギリスの詩人Lord Alfred Tennyson(1st baron,  1809−92)は,−Hope, a posing eagle.−と歌うのを記憶 しているのだが,これも出典は不明である.誰か,ご教 示下さい.なにはともあれ,テニソンの歌う「ワシのご と,たゆたわぬ希望」の詩人キーツその人であると読み たい.

 このように,鷲は,行動の人,高位の人,高潔の人,

(7)

知恵のある人などをイメージする.それを夢見る詩人キー ツは,残念なことに,"a sick eagle" と歌うのである.こ れは,たとえ「帝王のワシ」であっても,病気には勝て ないと歌うのではないか.「誇り」,「能力」,「力」,「速 さ」,「若さ」のイメージを持つ鷲であるが,たとえ「百 鳥の王」であり「猛禽」であっても,病気には勝てない,

と詩人キーツは嘆くのだと思う.Sickという語は,元,

古代ゲルマン語*seukaz から派生した語である.これは,

インド・ヨーロッパ語族の*seu- から発達したゲルマン 語であるという.原義は'to suck'という.「悪魔に吸い込 まれると病気になると古代ゲルマン民族が信じていたこ とから」のようである.思い出すのは,−32 And at even,  when  the  sun  did  set,  they  brought  unto  him  all  that  were  diseased,  and  them  that  were  possessed  with  devils. / 33 And all the city was gathered together at  the  door.  /  34  And  he  healed  many  that  were  sick  of  divers diseases, and cast out many devils; and suffered  not the devils to speak, because they knew him.−

という神の言葉である.これは「マルコによる福音書」

の第一章第32節から第34節までの神の言葉である.「病人 や悪霊」というふうに同列に取り扱う.「さまざまの病 をわずらっている多くの人々をいやし,また多くの悪霊 を追い出された」と明示するのだ.

 また,「ルカによる福音書」の中にも,−40 Now when  the  sun  was  setting,  all  they  that  had  any  sick  with  divers diseases brought them unto him; and he laid his  hands on every one of them, and healed them. / 41 And  devils  also  came  out  of  many,  crying  out,  and  saying,  Thou  art  Christ,  the  Son  of  God.  And  he,  rebuking  them,  suffered  them  not  to  speak:  for  they  knew  that  he was Christ.− という神の言葉が明示される.これは第 四章第40節から第41節までの神の言葉である.「病気に悩 む者」に,イエスが「ひとりびとりに手を置いて,お癒 しになった」というのだ.更に,「ピリピ人への手紙」

に,−27 For indeed he was sick nigh unto death: but  God had mercy on him; and not on him only, but on me  also, lest I should have sorrow upon sorrow.−という神 の言葉がある.これは第二章第27節の神の言葉ある.「ひ ん死の病人」を神は哀れむのである.

 思うに,鷲は詩人キーツの理想である.ZeusやJupiter などの「王者の弧独」という系列に並び立つ詩人キーツ で あ る.ま た,同 時 に,St.  John  the  Evangelist や St. 

Augustineなどの「太陽を見詰める」という系列に並び 立つ詩人キーツであるが,しかし,それも,詩人キーツ の,束の間の夢である.結核患者という呪われた,運命 の人キーツであるからだ.母はそれで亡くなった.弟も そうであった.自分も明日知らぬ身の上である,と詩人 キーツは切々と歌うのも,哀れ深い.それも,"a  sick 

eagle" に託して,詩人キーツは「明日知れぬわが身と思 えど...」と切実に歌い上げるのも,労しい限りである.そ んな気の毒な詩人John Keatsは,いつも暗誦するのは,

−3  Who  forgiveth  all  thine  iniquities;  who  healeth  all  thy  diseases;  /  4  Who  redeemeth  thy  life  from  destruction;  who  crowneth  thee  with  loving-kindness  and tender mercies; / 5 Who satisfieth thy mouth with  good  things;  so  that  thy  youth  is  renewed  like  the  eagle's.−という神の言葉である.これは,「詩篇」第百 三篇第3節以降の神の言葉である.「あなたのすべての病 をいやし」と口ずさみ,「こうして,あなたは若返って,

ワシのように新たになる」と祈るのだ.奇跡を願う詩人 キーツである.重複するが,ワシは10年ごとに地球より もっとも遠い火炎圏("fiery region, empyrean")へ舞い 上がり,そこからまっしぐらに海中へ降下して,羽換え する−every  ten  years  the  eagle  soars  into  the  "fiery  region,"  and  plunges  thence  into  the  sea,  where,  moulting its feathers, it acquires new life.−というイメー ジを先輩詩人John Miltonの作品を通して紹介しておい た.イギリスの詩人Edmund Spenser(c1552−99)もま た,傑作『神仙女王』(The Faerie Queene  1590−96)

の中に,−She saw where he upstarted brave / Out of  the  well.../  As  eagle  fresh  out  of  the  ocean  wave,/ 

Where  he  hath  lefte  his  plumes  all  hory  gray, / And  decks himself with feathers youthly gay.−と歌うのだ.

これは詩人スペンサーの「若さが,ワシのそれのように,

新たになる」ことを願うのだ.詩人ミルトンもまた,ワ シのように新たになる若きイングランドに託して,自分 の「若さがワシのように新たになる」ことを告白するの だ.詩人キーツも,スペンサーやミルトンのそれと同じ ように,自分の「若さがワシのように新たになる」こと を祈願するのである.健康な先輩詩人スペンサーであっ ても,また,ミルトンであっても,その願は変わらない.

ましてや,病弱な詩人キーツにとって,その願望はいか ばかりであったことか.

 松浦暢は,『キーツのソネット集』(Keats' Sonnets)

の中で,この "a sick eagle" について,"a sick Eagle...=a  poet, Keats" という注をそえる.つまり,「病めるワシ」

は「詩人キーツ」である,というのだ.そして,『キー ツは,こうしたものと自己との関係を,「天空」と「病 気 の 鷲」の そ れ に な ぞ ら え て 両 者 の 合 一 の 困 難 さ を Godlike hardshipと形容し悲しんでいる.しかし,こう した悩みは詩魂を練磨するのに貴重な体験であった.

キーツは自己の芸術の卓越性をエルギン大理石像のそれ に引き上げようと希んだのである.』と指摘する.松浦 はそれに続けて,イギリスの 文学・美術批評家Sir Sidney  Colvin(1845−1927)の作品『キーツ』(Keats )よりこ う引用する.

(8)

I know not a finer image than the comparison of a poet  unable  to  express  his  high  feelings  to  a  sick  eagle  looking  at  the  sky,  where  he  must  have  remembered  his  former  towerings  amid  the  blaze  of  dazzlings  sunbeams, in the pure expanse of glittering clouds; now  and then passing angels, on heavenly errands, lying at  the  will  of  the  wind  with  moveless  wings,  or  pitching  downward  with  a  fiery  rush,  eager  and  intent  on  objects of their seeking.

こ れ は,Haydon の 手 紙 で あ る.Allott も ま た,こ の Haydonの手紙を引用する.重複するが,

I know not a finer image than the comparison of a Poet  unable  to  express  his  high  feelings  to  a  sick  Eagle  looking at the Sky!

と.ヘイドンの言うのは,松浦の指摘する「詩人キーツ

=病める鷲」という対比が妥当であるかどうか,疑念を 呈するのである.しかし,だからといって,ギリシャ大 理石彫刻群を見たときの,その高潔な思想感情を表現す ることの出来ないでいる一人の詩人と,大空を見詰めて いる一羽の病んだ鷲と比較すること自体,適切であるか,

どうかということになると,ヘイドン自身もよく分から ないという.ましてや,両者を比較する以外に,他によ り優れたイメージがあるかというと,これもよく分から ない,というのがヘイドンの正直な感想であるようだ.

 筆者には別の解釈がある.というのは,健康なワシは 他の小鳥達よりも,もっと高い天空へ舞い上がることが 出来るからである.そして,ワシは高空を舞いながら,

「四方を睨ん」で,「急転直下」して,獲物を拉し去る 猛禽であることをすでに上記に紹介しておいた.これが ワシの実像である.しかし,不幸にして,猛禽ワシであっ ても,病に勝てぬと歌い,「病んだ鷲が高空を見詰めて いる」と歌うのである.「過去の栄光」を夢見ながら,

一羽の病んだ鷲が自分の棲家である高空を見詰める,と 詩人キーツは声高らかに歌い上げるのである.

 一方,詩人キーツは生まれながらの肺結核患者である.

これが詩人キーツの宿命である.この宿命を踏まえて,

詩人キーツは「本物の詩人」になろうと夢見るのである.

それも,歴史画家ヘイドンと遭遇したことにより,物ま ねの詩人キーツを脱皮して,「本物の詩人キーツになる 栄光」を目指すのだ.これは本誌の拙文「文学少年キー ツの見た歴史画家ヘイドン」を参照して下さい.他方,

病んだ鷲は「過去の栄光」を想起しながら,昔の古巣

(大空)を見上げるのだ.この絶妙な「対」がこのソ ネットの妙味である,というのは筆者の解釈である.

 ここに思い出すのは,「健全な体に健全な精神(が宿 らんことを)」(Orandum set ut sit mens sana in corpore  sano. )という諺である.これは,ご存知のように,ロー マの風刺詩人Decimus Junius Juvenalis(c60−140)の言

葉である.詩人キーツは,大空を舞う鷲を仰ぎ見て,こ の "A sound mind in a sound body." という諺を想起し,

宿命のわが身を慈しむのだ,と思う.

 作品に戻ろう.詩人キーツは−"Each  pinnacle  tells  me I must die like a sick eagle looking at the sky."−と規 定するのである.Pinnacleというのは,[建築]用語で,

イングランドの各地方にある,教会の屋根に突き出た,

小尖塔を意味する名詞である.教会は教会でも,イギリ ス人好みのゴシック様式の教会(Gothic church)の尖塔 である.このゴシック様式は,フランス北部に発達し,

12−16世紀にヨーロッパに広く行われたルネサンス直前 の建築・彫刻・装飾などの様式である.小尖塔や,尖頭 アーチなどが特徴である.

 Pinnacleは,元,ラテン語pinnaから発達した語である.

'feather, wing, pinna' という語源を有するという.鵞鳥の 羽で作った「鵞ペン」(a goose pen)をイメージする小 尖塔であるかも知れない.鵞鳥はカモ科の鳥である.野 生のガンを家畜化したもので,ヨーロッパ系はハイイロ ガン(gray goose)が原種である.鵞鳥はガン(duck)

より大形で首が長い.「鵞鳥のペン」で,思い出すのは,

イギリスの劇作家であり詩人であるWilliam Shakespeare

(1564−1616)の『十二夜』(Twelfth Night: or What You  Will )のSir Toby Belchの台詞である.−Let there be  gall enough in thy ink; though thou write with a goose- pen, no matter.−これは,第三幕第二場のトビイの台詞 である.

 鵞鳥は,ヨーロッパでは「母性」(maternity),「創造」

(creation),「豊 饒」(fertility),「太 陽」(sun)を 象 徴 する鳥である.また,死者の魂は,霊魂導師として,鳴 くガチョウに伴われる,といわれる.このような一連の イメージをもつ鵞鳥の羽の紋様を彫刻した小尖塔即ち 

"pinnacle" を明示し,さらに,"imagined pinnacle"(「羽 紋様のある小尖塔」)と形容する.それがgothic church の屋根に取り付けられているのを,詩人キーツは見上げ る の だ と 思 う.そ の 時 の 感 動 を,− "Each  imagined  pinnacle tells me I must die like a sick eagle looking at  the sky."−と詩人キーツは厳粛に歌い上げるのだと思う.

これは,ゴシック様式の教会の屋根に聳える「其々の 羽紋様のある小尖塔を仰ぎ見ると,大空を見詰めてい る一羽の病んだ鷲のように自分も死ななければならな い と 悟 る .」 と 厳 格 に 歌 う の で は あ る ま い か . こ の  "each  imagined  pinnacle" について,松浦は,−"each  imagined pinnacle=pinnacle of poetry"−であると読む.

そして,松浦は,『「架空のあららぎ」とは,キーツの標 榜した永遠の美をもつ「詩歌・芸術の高塔」のことであ ろう.』と解釈するのだ.出口訳を見ると,−「詩歌の高 塔」−と読む.両者は共に同じ解釈であるが,筆者は

「其々の羽紋様のある小尖塔」と読む.これが筆者の解

(9)

釈である.

 そ し て,更 に,詩 人 キ ー ツ は,− "Each  imagined  pinnacle and steep tells me I must die like a sick eagle  looking at the sky."−と歌い定める.Steepというのは,

急勾配の場所や,(丘などの)傾斜面を意味する名詞で ある.たとえば,the rugged steeps of the mountain(「山 の急な崖」)というふうに使用される名詞である.教会 の急勾配の屋根を意味するsteepであると読むことが出来 る.がしかし,筆者はこれをsteepleと精読したい.これ が筆者の解釈である.詩人キーツはわざわざその前に,

pinnacleを声高らかに歌い上げるのを思い合わせて見る と,このsteepはsteepleを明示するのだと思われるから である.Steepleというのは,元,古代ゲルマン語の*staup から発達した語であるという.これは,steepという原義 を有するからである.即ち,steepleは,steep+-leから成 る語であるからである.接尾辞-leは,たとえば,beadle,  girdle, handleというふうに用いられる,-leである.これ は行為者や道具を表す接尾辞であるからである.Steeple というのは,教会・寺院などの高塔とか,尖塔という意 味を持つ名詞である.ご存知のように,その尖塔の中に,

鐘があり,上部は尖り屋根(spire)になっている装飾部 分である.これはまるで,両手の指先を合わせた尖塔形 である.たとえば,steeple one's handsというと,祈る 時に両手を合わせる,合掌する,というふうに使われる フレーズである.

 思うに,詩人キーツは,ここに"each imagined pinnacle"

(「其々 の 羽 紋 様 の あ る 小 尖 塔」)や,ま た,"each  imagined steeple"(「其々の合掌する高塔」)などを歌い 上げることにより,イングランドはキリスト教国である ことを強調するのではあるまいか.ロンドンは教会の都 市である.宗派の異なる教会が立ち並ぶ.其々の教会の 屋根に聳える「其々の羽紋様のある小尖塔や其々の合掌 する高塔などを仰ぎ見ると,大空を見詰めている一羽の 病んだ鷲のように自分も死ななければならないと悟る.」 と歌うのは,感動深い限りである.

 大聖堂の屋根に聳えるのは,「合掌する高塔」("steeple")

である.ゴシック様式の教会の屋根に立つのは,「羽紋 様のある小尖塔」("pinnacle")である.これらの塔は宗 派の異なる教会を明示し,イングランドは正しく大キリ スト教国であることを,詩人キーツは称えるのだと思う.

それはthe Union Jackを見ると,明らかだろう.別に,

the Union Flagともいう.これは1801年以来の英国の連 合国旗のことである.イングランドのSt. George's cross と,スコットランドのSt. Andrew's crossと,アイルラン ドのSt. Patrick's cross の三つの十字を結合して3国の連 合を表す.ご存知のように,Saint George(270?−?303)

は イ ン グ ラ ン ド の 守 護 聖 人 で,七 守 護 聖 人(Seven  Champions of Christendom)の一人である.小アジアの

王 族 の 出 で,ロ ー マ 皇 帝 Caius  Aurelius  Valerius  Diocletian(245−313)の時代に殉教した伝説的勇士であ る.Cappadociaで竜を退治し,同国をキリスト教に改宗 させたとの伝説から,騎馬で竜と戦う姿が描かれるよう になったという.祝日は4月23日である.

 Saint Andrewは十二使徒の一人で,Peterの弟である.

ギリシャで殉教したといわれる.スコットランドの守護 聖人で,七守護聖人(Seven Champions of Christendom)

の 一 人 で あ る.祝 日 は11月30日 で あ る.Saint  Patrick

(389?−?461)はイギリスの伝道師で,アイルランドの 司教である.アイルランドの守護聖人で,七守護聖人

(Seven Champions of Christendom)の一人である.ま た,「アイルランドの使徒(Apostle of Ireland)」ともよ ばれる.祝日は3月17日である.七守護聖人の中に,

ウェールズのSt. Davidも含まれているのだ.このSaint  David(?−?601)はウェールズの司教で,同地方の教化 に尽くし多数の会堂を建てたウェールズの守護聖人であ る.祝日は3月1日である.このように四人の守護聖人 を眺めて見ると,英国そのものは正しくキリスト教国で ある.

 そ し て,キ リ ス ト 教 徒 詩 人 キ ー ツ は,− And  each  imagined  pinnacle  and  steep  of  godlike  hardship  tells  me I must die like a sick eagle looking at the sky.−と歌 う.ここに言う "godlike hardship" というのは,教会そ の物を明示するのだと思う.これは筆者の解釈である.

出口訳を見ると,これを−「神のような辛苦」−であると 読む.もちろん,字面だけを追うと,これはそのような 意味である.Hardshipというのは「辛苦」「苦難」とい う 意 味 で あ る が,'hardness  of  fate  or  circumstance; 

severe suffering or privation'という英語感覚をもつ名詞 である.筆者はこの英語感覚を踏まえて,詩人キーツの 歌うこの'godlike hardship'というのは「殉教者の一生」

をイメージするのだ,と思う.

 というのは,「教会は殉教者の血の犠牲の上に立つ」

(Church stands on the blood of the martyrs.)と語り継 がれているからである.これは「清浄」(purity),「無 垢」(innocence)を表す「ハト」(dove)に纏わる,ヨー ロッパの中世的なsymbolismを語る見方である.一般的 に,「ハト」は「ワシ」とともに,「大空―天国」(sky- heaven)を表すもっとも基本的な象徴の一つである,と いう.面白い.

 このように,詩人キーツは "godlike hardship" に託し て,「キリスト教殉教者」たちを明示し,其々の殉教者 たちの「血」の上に立つ「教会」を間接的に,且つ,厳 粛に歌いあげるのだ,と思う.また,「ハト」と,「ワシ」

との関係も巧みである.

 キリスト教徒キーツは,厳格に,−「僕の生命の息吹 は余りにも弱すぎる- 死すべき運命は/睡魔が襲うように

(10)

ずっしりと重く僕にのしかかる./ 教会の屋根に立つ其々 の羽紋様の小尖塔や合掌する高塔を / 仰ぎ見ると,大空 を見詰める一羽の病んだ鷲のように / 僕もまた死ななけ ればならないことを悟るのだ.」−と高らかに歌い上げ るのかもしれない.そして,詩人キーツは,−"Yet 'tis  a gentle luxury to weep / That I have not the cloudy  winds to keep / Fresh for the opening of the morning's  eye."−と歌うのだ.これは「起承転結」の「承」の世界 である.普通,sonnetの「承」は4行で歌うのだが,御 覧の通り,3行である.これも,詩人キーツはキーツら しい独自なsonnetを工夫したものである.新しい着想で ある.

 'tisというのは,it is のことである.つまり,詩人キー ツはまず,"It is a luxury to weep." と歌うのだと思う.

これは,It is ...to do. という構文である.「泣くことは贅 沢なことである.」と言うのか.このように,luxuryに不 定冠詞が付いて,普通名詞として使われているのが,味 噌である.たとえば,Taking a taxi is a luxury for me.

(「タクシーに乗るのは僕にはぜいたくだ.」)というふ うに使用されるものである.それも,詩人キーツは "It  is a gentle luxury to weep." と定める.これは,「泣くこ とは優しい贅沢なことである.」と歌うのか.しかも,

詩人キーツは "It is a gentle luxury to weep that I have  not to keep the winds fresh." と歌うのだ.まず,that節 を見てみることにしよう.これは,動詞weepの目的語で ある.ここに言う "have not to (=do not have to)" は

「...する必要がない」とか,「...するには及ばない」(need  not)という意味を表す.たとえば,You don't have to  attend the meeting.(「君は会合に出る必要はない.」)と いうふうに用いられる,"have not to " である.詩人キー ツの歌うのは,「風を爽やかに保つ必要はない」という のか.

 こ れ を 詩 人 キ ー ツ は,− "I  have  not  to  keep  the  cloudy  winds  fresh."−と規定する.風は風でも,"the  cloudy winds" と歌う.これは,「雨を降らす風」である というのか.というのは,「雲は肥沃をもたらす雨を降 らせる」(Cloud brings fertilizing rain)というイメージ が 語 り 継 が れ て い る か ら で あ る.「天 の 水」(Upper  Waters)を明示する「雲」(cloud)であるからである.

このような「湿った風」は,肺結核患者キーツにとって,

なによりも危険な外敵であるからである.激しく咳き込 むのも,そんな日である.要注意であることを患者キー ツはよく自覚している.だから,晴れた日であって欲し い,とキーツは願う.せめて,今日,吹く風は爽やかで あって欲しい.否,せめて,夜が明けた早朝の風だけで も,爽やかであって欲しい,と詩人キーツは切実に祈る のだが,皮肉なことに,イングランドの気候は厳しい.

厳しいが,健康な人にとって,イングランドは住むに最

適の美しい国である.

 しかし,たとえ美しい国イングランドの肥沃をもたら す雨であっても,「雨を降らす風」は,肺結核患者キー ツにとって,「無常の風」である.それは,風が花を散 らし,灯火を消すように,宇宙無常の大法が肺結核患者 キーツの生命の息吹を奪うことに,詩人キーツはなす術 もないからである.それを思うと,詩人キーツはただ涙 を流すだけである.自然に,涙が流れ出る,という.こ れも,贅沢なことである,というのは痛ましい.それも,

優しい贅沢なことである,と歌うのは絶句するばかりで ある.そして,詩人キーツはなお,−"I have not to keep  the cloudy winds fresh for the opening of the morning's  eye."−と歌うのだ."the opening of the morning's eye" 

というのは,詩人キーツ自身の「朝の目覚め」を意味す るのだろうか.それとも,「夜明け」を意味するのか.「朝 明け」を歌うのか.松浦はthe morning's eye=the sun,

であると説明する.面白いが,しかし,松浦のいう,the  opening of the sunというのは,一体,どういう意味なの か.ただ「朝の目」即ち「太陽」というイメージだけで あれば,分からぬでもないが,しかし,the opening of  the sunとなると,どうもシックリしない.「太陽が目を 開く」とでも読むのか.太陽のことを「詩語」で,The  eye of day[heaven]という.また,星のことをthe eyes  of heaven[night]ということを承知している.出口訳 は「瞼をひらこうとする朝明け」であると読む.成る程.

出口訳の方が分かりやすい.

 イギリス人は,普通,「夜明け」を,−the opening of  the day−という.詩人キーツは,この言い方を踏まえ て,−"the opening of the morning's eye"−と詩人キーツ 独自の表現を試みたのではあるまいか.もちろん,詩人 キーツは,このmorningに託して,「曙」(dawn)を明示 するのだと思う.Mが大文字で,Morningとなると,擬 人化されて「曙の女神」という意味となる.それは,無 論,『ギリシャ神話』のErosを指す.また,『ローマ神話』

のAuroraを指す.Erosは「恋愛の神」(god of love)で ある.エロスは古代ギリシャの愛と美の女神アフロディ テ(Aphrodite)と,ZeusとHeraとの息子で軍神のアレ ス(Ares)と,の子である.

 想起するのは,「イザヤ書」の神の言葉である.−12 ...O  Lucifer, son of the morning!...−である.これは,第十四 章第12節の神の言葉である.「黎明の子,明けの明星よ」

という神の言葉を下敷きにして,詩人キーツは−"the  opening of the morning's eye"−と歌うのではないか.上 記の出口訳を参考にして,筆者はこれを,「眼を開く曙 の女神」と読みたい.もちろん,これは,「夜明け」「朝 明け」に託して,詩人キーツ自身の「朝の目覚め」を明 示するものである.

 思うに,詩人キーツはこの3行を,「だがしかし,せ

(11)

めて眼を見開く曙の女神のために / 雨を降らす風を爽や かにしておく必要のないことを / 涙して嘆くことは優し い贅沢なことである.」と歌うのだろうか.

 Yetは接続詞である.これは副詞の転用である.Butよ り強い意味のyetである.この6行目即ち−"Yet 'tis a  gentle luxury to weep"−について,Lowellは,

the sixth line comes like a slip into soft mud, with the  splash  and  subsequent  jolt.  Keats,  who  loathed  mawkishness  a  little  later,  had  a  hard  time  to  rid  himself  of  it.  He  had  to  find  out  its  banefulness  all  by  himself,  the  sentimental  farcists  were  unable  to  help   him here for the simple reason that they liked the very  type of expression which he learn to detest. Three lines  pertaining to the gentle luxury of weeping, I will skip. 

と指摘する.これは長い引用文であるが,お許しを願い たい.

 Lowellは前半の5行の世界を−so stern and solemn−

と解釈する.「非常に厳格で厳粛」であるという.筆者 も同感である.それに対して,その後に続く3行の世界 は「柔らかい泥濘に足がとられて,すってんころりんと 転ぶ」といった感想を抱く,とLowellがいう.その結果,

「精神的なショック」を受ける,とLowellが非難する.

Lowellはなによりも−"weep"−という言葉が気に入らな い様子である.センチメタルで,涙もろく,遣り切れな い,というのがLowellの批判である.この点が詩人キー ツの唯一の「災い」を招く弱点である,とLowellは忌み 嫌う.感傷的な茶番劇作家達もなす術も無いだろう,と Lowellはひどく嫌うのである.たとえ詩人キーツは身を もって,軽蔑を込めて激しく嫌うことを体験した表現で あっても,それを好む笑劇作家達さえも,今回の,この sonnetの中の,この3行の世界をどう思うか,疑問であ る,とLowellは警告を発するのだ.そして,Lowellは「泣 いて悲しむという彼の優しい贅沢」と関係する,この3 行をただ飛ばし読むしかない,とLowellは突き放す.こ れは,「明日の偉大な詩人John Keats」を思いやる,Lowell の愛の鞭であろうかと思われる.愛の鞭であると同時に,

これはまたLowell自身の好みの理想的作風を語っている と思われる.しかし,筆者は筆者の解釈がある.それを この拙文の終りに論述したい.

 Lowellの批判は批判といて,それを素直に受取るべき である.拝聴すべき,Lowellの警告である.この警告は災 いを蒙ることのないように,また詩人キーツ自身も「明 日の偉大なロマン主義の詩人」として,精進すべき新し い詩境である,と読みたい.Lowellのこの非難は真の詩人 キーツになるための一つの指針である.

 しかし,筆者はLowellのいう「柔らかい泥沼に足」を とられない者である.「転ぶ」どころか,詩人キーツの 歩調に合わせて,一歩一歩歩み,詩人キーツの「涙」に

共鳴する者である.「泣いて悲しむ」詩人キーツの詩境 に同感する者である.病弱な詩人キーツを思うとき,若 き詩人キーツの,なす術の無い「悲しみ」に,且つ「不 安」に,且つ「恐怖」にただ脱帽するのみである.肺結 核という病魔に取り付かれた,若き身の上の詩人キーツ の,やり場のない「涙」である.生命を左右する,貴重 な「涙」である.Lowellのいう単なるセンチメタルな涙 ではない,と強調したい.涙脆い詩人キーツであるが,

しかし,Lowellの忌み嫌う単なる感傷的な涙ではない.思 うに,これこそが詩人キーツの,キーツらしい,キーツ 独自の詩境である,と主張したい.紛い物でない,詩人 キーツの,キーツとしての作風である.筆者は,Lowell の嫌う「キーツの涙」を良しとする者である.という訳 は,作品の中に,生の自分を登場させるという試みは,

歴史画家Haydonの画法を踏まえた詩人キーツ独自の,斬 新な手法であるからだ.

 そして,詩人キーツはそれに続けて,−"Such  dim- conceivFd glories of the brain / Bring round the heart  an undescribable feud;"−と歌うのだ.詩人キーツはま ず,−"The brain brings a feud."−と歌う.これは,「頭 脳が一つの反目をもたらす.」という意味か.それも,

−"The brain brings a feud round the heart."−と歌うの だ.これは,「頭脳が心臓のまわりに一つの反目をもた らす.」というのか.Feudというのは,「争い」とか,

「反目」という意味を持つ名詞である.これは,aをuと 読み違えたための変形であるようだ.Feadという語は,廃 語であるが,元,古代ゲルマン語*faxipo から発達した語 で,enmity(「憎しみ」「敵意」)という原義を有すると いう.頭で考えたこと(=知性)を,胸の中の感情が受 け入れないで,それが心情の辺りでもやもやと燻ってい る,と詩人キーツは歌うのか.頭脳と心臓がお互いに反 目しあっていて,まるで,両者は敵対同士だ,と言うの か.それも,−"an undescribable feud"−だと定める.今 日 の 英 語 で は,形 容 詞 undescribable の 代 わ り に,

indescribable を 使 用 す る.こ の 接 頭 辞 un- は,形 容 詞 describableに付けて「否定」の意味を表す.岩波英和辞 典の中には,このundescribable(「名状しがたい」「筆舌 に尽くしがたい」)が紹介されている.接頭辞un- は,形 容詞のほかに,副詞や名詞などに付けて「否定」「欠如」

の意味を表す.この意味では,inexpensive, impossible,  irregularなどのように接頭辞in-(およびその変形)を用 いる慣用の定まった形の語を除いて,ほとんどあらゆる 語 に 用 い る こ と が で き る,と い う.今 日 で は,

indescribableの方が慣用の定まった形の語である.

 詩人キーツは,反目は反目でも,また,憎しみは憎し みでも,「筆舌に尽くしがたい反目(憎しみ)」を定める のである.しかも,詩人キーツは,−"Such glories of the  brain bring an undescribable feud round the heart."−と

(12)

規定する.ここに言う "such glories of the brain" という のは,恐らく,「頭脳というすばらしい栄光」を意味す るのだろう.Suchは,[形容詞を伴わない名詞の前に置い て]「とてもよい」という意味の形容詞である.それも,

詩 人 キ ー ツ は,− "such  dim-conceivFd  glories  of  the  brain"−と歌い上げるのだ.この場合のsuchは,「そんな に...な」「非常に...な」という意味で,通例形容詞を伴う 名詞の前に置く.これは,副詞のsoに相当する強調用法 で,比較・対照する相手を含意する.たとえば,I have  never seen such big ones.(「こんなに大きいのはみたこ とがない.」)というふうに用いられるsuchであると思う.

比較の相手は現在目の前にある物,である.つまり,詩 人キーツは,現在目の前にある「古代ギリシャ大理石彫 刻 群」を 観 て,− "such  dim-conceivFd  glories  of  the  brain"−と感動的に歌うのだと思う.Conceiveという動 詞は,想像力を用いて何かの考えをまとめる,とか,構 想する,といった意味を持つ語である.類似語imagine は,何かを心に思い浮かべる,という動詞である.両者 の語感のユニークな相違を精確に理解しよう.

 大英博物館に展示された「古代ギリシャ大理石彫刻群」

を初めて観て,詩人キーツは非常に感動した.(1)「ラ ピタイ人とケンタウロス族との戦い」は,パルテノンの 彫刻群のうち,制作年代が最も古いと思われるもののひ とつである.これはLapith(ラピタイ)王の婚礼の宴で のCentaurs(ケンタウロス)族の無法の鎮圧である.素 晴らしい彫刻である.また,(2)「三女神」は,左の上 体を立てたHestia(ヘスティア)と,その右のDione(ディ オネ)と娘のVenus(ヴィーナス)の群像で,右下がり のアウトラインになるように構想されている.見ると,

頭部と両手がことごとく失われている.痛ましい限りで ある.右隣の(3)月の女神Selene(セレーネ)の「馬」

を見送るようなヴィーナスの艶麗な姿態は,詩人キーツ には余りにも艶かしい.これらの配置の構想は見事であ る.

 ヴィーナスと対応する位置にある男神は(4)Dionysus 

(ディオ二ュソス)である.獣皮の上に半身を起こすポー ズをとっている.眠りから覚めたような若々しい姿態で ある.これは,Hercules(ヘラクレス)である,という 説もある.(5)「ギリシャ人とアマゾン族との戦い」や,

(6)「騎馬の行列」の一部分,それに,(7)「ヘルメ スに導かれるアルケスティス」などを詩人キーツは見学 した.また,(8)「クニドスのデメテル」は,母性と神 性の入り混じった悲愴な,しかし堂々たる彫刻像である.

穀物の女神Demeter(デメテル)はCore or Kore(コレ)

の母である.美しいコレを見初めた冥界の王Hades(ハ デス)は,花を摘んでいた彼女を連れ去ってしまう.デ メテルは悲嘆のあまり,地上のすべての植物を枯れ死さ せてしまう,という悲劇を詩人キーツは思い出す.

 (9)Nereid(ネレイド)は,海風にはためく衣装の 下に,若い肢体がほとんど裸体に近いほどくっきりと形 を見せている.薄い衣の細かなひだがさざ波のように流 れている.やがて,女神たちはこの薄い衣を脱いで,典 雅な裸体を見せることになる.この若い女神ネレイドの 肢体を見て,若い詩人キーツは驚嘆した.

 これらの「古代ギリシャ大理石彫刻群」が公開される.

キリスト教国イングランド詩人キーツはそれらの彫刻を 観て興奮し,感嘆し,時には,ため息をついた.観るも の,すべては新しい作品であった.それも,「崇高」の 芸術作品ばかりであった.ひとつひとつの彫刻の解倍学 的正確さに,詩人キーツは驚いた.しかも,どれも自由 でのびのびとした印象を受けた.どれも均整のとれた美 しい女神たちだ.女神たちはどれも人間の理想的形姿そ のものであった.どれも人体の骨格や,筋肉組織を解倍 学的正確さをもって表す,当時の彫刻家たちの素晴らし い技術に,詩人キーツは賛嘆した.それらは正しく「崇 高」にして,且つ,「優美」その物であった.詩人キー ツの求める芸術観は正しくこの境地であった.

 その昔,Perikles(クセルクセス1世.B.C.495?−429)

は,守護神アテナの聖域アクロポリスの再建計画を立て た.その総監督に彫刻家Pheidias(フエイディアス.生 没年不詳)を任命した.そして,この計画実現のために 多数の建築家や,彫刻家や,画家,それに石工,工芸家 などなどが動員された.アテネの町全体は芸術的活気に 満ち満ちた.ここに,ギリシャ美術の絶頂期をむかえた.

そして,芸術の典型・模範と仰がれる,その調和的・理 想的な形式美を完成した.

 アクロポリスの丘の上に,まず中央南よりの最も高い 場所に,守護神アテナを祀る大神殿パルテノンが完成し た.これは建築家Ictinus(イクティノス)の設計に基つ く,という.この神殿は,正面8柱,側面17柱,「Doria

(ドーリア)式の重厚な男性的力強さ」と,「Ionia(イ オニア)式の軽快な女性的典雅」とを見事に融合した,

ギリシャ建築史上最高の傑作である.明確な数的秩序に 基つくその均整のとれた姿は,まさに,「Pentelicus(ペ ンテリコン)の大理石に結晶したギリシャ精神」と呼ば れるにふさわしい.さらに,神殿の東西両破風とmetope

(メトープ),及びfrieze(フリーズ)は,女神アテナと ギリシャ人の栄光を称える彫刻をもって美しく飾られ,

これが神殿の名声を一層高めた,という.

 上記に紹介した「騎馬の行列」は,パルテノン神殿内 装上部の外壁につけられたフリーズの一部である.また,

「ラピタイ人とケンタウロス族との戦い」のメトープ浮 き彫りは,パルテノン神殿の本尊アテネ守護神の台座の 上にある.さらに,すでに,上記に紹介しておいた,「三 女神」はパルテノン神殿の東破風彫刻である.この東破 風右側のヴィーナスと対応する位置にあるのは,「ディ

参照

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