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皇帝と民衆(I)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 皇帝と民衆(I). Author(s). 斎藤, 二郎. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 19(2): 113-123. Issue Date. 1968-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4347. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 19 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 皇. 帝. 斎. と. 民. 二. 藤. 衆. 昭和43年12月. 1. 郎. 北海道教育大学岩見沢分校史学研究室. JIRO SAI ‘ ro : The Depar口・ f History, 工wamizawa Branch, l ent o Hokka ido Univer i ty of Educat i s on. “R ion evolut. はビザ ンツでは政治変革の方法として最も頻繁に行なわれ, いわば, そ の体質の “ よ う なも の とさ え 考 え ら れ て い る” iumphs and , これ は R. Guerdan の Byzantium: lts Tr ’ ’ ’ Tragedy ( 1956) 第4章 The Empire of Coup d Etat の 冒 頭 の ことを で あ る, さ ら に Guerdan は ”ビザ ンツ 史 研究 で は ク ー デ タ ー の記 述 を 欠 い て は 完 全 な も の に は な ら な い で あ ろ う” と して これに関連 して次の数字をあげている, --109人の皇帝のうち暗殺されたもの6 5人,修道院また は獄中でその生涯を終えたもの12人, 餓死 したもの3人, 眼球挟出, 去勢, 鼻または手を切断さ れたもの18人, 他は毒殺, 栃殺, 刺殺され或いは柱頭よ りの突き落 しにより, または追いつめら れ て 殺 さ れ た も の 等. Arkadi os 帝 ( 9 3 5‐4 08 ) 以来の10 58年間にあ った宮廷, 兵営, 街上の革命 は65, 廃 位さ れ た も の65人D,. 中世西欧世界が静かな流れのなかに近代の開花を準備しつつあ った約1000年の間, つねに脈動 を つ づ け て 独 特 の 文 化 を 形 成 した 東 欧 ビザ ンツ は, 政 治 現 象 と して はCaesar opapi sm と い わ れ る. 独特の政治体体制とともに, 上の. Guerdan. のあげる数字よりうかがわれるよ うな 帝位の不安定. ) を そ の “体 質 と して“ も っ て い た 性2 ,. おもうに, 一国の 政治的不安定をもたらすものと しては, 国内的には, 社会的経済的情勢の不 均衡,それにかかわる政治指導者の能力と人格, そ してまた国民の精神的心理的状態におけるアン バラ ンスの存在等があげられるであろうし, さらにはその国家の置かれた対外的環境も考えられ るであろう, この小論は, 12世紀末の皇帝 Andronikos 1 とその周辺, 特に同帝と民衆との関係 ) を中心とする, ビザ ンツの政治的不安定性の問題 についての考察である3 , 註. ,. i i 1 t ) Guerdan:Byzant um :t s Tr umphsand Tragedy ,1956 ,135 . .p ‘ビザ ンツは 暗殺行為によ て かえ て絶対主義君主政のきびしさが緩和されている国とい 2) Guerdan は ‘ っ っ d b え よ う” i , と 指 摘 して い る. ←i .. 3 ) 拙稿: ビザンチンの皇帝 (北学芸大紀要皿の1) と一部重複するところがあることを付言する.. (2) Andronikos l 1 123‐8 183‐ 5 85 ) の生涯は文字通り波潤方丈であ った, . Komnenos 帝 ( , 在位1 113-.

(3) . 斎. 藤. 二. 郎. ) ものと しては, 全く想像を 特にその最後の状況は, かって民衆の皇帝と してのポーズをと った1 ke t as Chqniates の 記 す と こ ろ で み れ ば 絶するものがあ った. これを帝と 同時代の年代記者 Ni 次のよ うである. --逮 捕された Andronikos l は頭には鉄の鎖を, 足には足柳をつけられて新. 帝 lsaak ll. l 帝はみんなが彼に加える蛮行をやるがままに の と こ ろ に つ れ て こ ら れ た, lsaak l. しておいた. ひとびとは彼を罵倒 し, 杖 で頭や背を 打ち, ひげをひっ ぱり, 歯を砕き髪をひきぬ いた, 女達でさえ, 特に Andronikos によ っ て夫を殺されたり盲目にされたり した女たちは拳 で 彼の口を殴 った. そのうち彼は斧で右手を切り落されたままもとの牢に投げいれられ, 飲食物は 勿論与えられず放置された. 数日後彼は片目を決られたうえ, かさかきのらくだにのせ られて市 場をひき廻された. 民衆のあるものは棒で彼の頭を叩き, またあるものは彼の鼻に糞 をつっ こん だり, 人尿, 牛尿を海綿にひた してそれを彼に押 しつけ, 肉焼き用の 串を 唇の間にさ しこみ, 石 をぶっ っ け, なかには台所から熱湯の入 った壷をも ってきて彼の 頬にかけてあげて しま った. や がて競技場につれてこられ, 足を皮紐で結わえられて 柱に逆さ吊りにされた, そこでも群衆は彼 の衣服をひきさき, 長い刀でのどから内臓まで突き通 し, あるものは自分の刀が きれるか どうか をみよ うと両手で蛮刀を彼の虹門に突き刺 した, 何人ものものが刀で自分の腕の達者さや突きの iko r on s は既に 見事さを誇りあ った. ついに彼の気力も尽き果てて気息が絶えた. そのとき And 切り落された右腕のつけ根を 動かしたが, それはその切口から滴 っている血を吸おうと している ) もののようにみんなには思われた2 , l es の 筆 勢 に は, Andronikos の悲惨な苦 【os の断末魔の状景を記す Choniat 以上の Androni 悶に対する同情を看取ることはできず, む しろ民衆の徹底的な暴行をも って Andronikos が受け. るべき当然の運命といったおもむきさえ感ぜられる, AndronikoS はまさにそういう皇帝であり 民衆の暴行は彼に対する正当な反撒であ ったのであろうか. そしてまたこれを記 した Choniates l 【os を描いたので あろうか, はどのよ う な 立 場 か ら Androni. I Choniates に学ぶ chae Niket es は, 古代文学の当時最高の学者の 一人である兄 Mi as Choniat ) 彼 は さ らに 法 とともに, すぐれた Homeros 学者 Eustathios Kataphloros の 弟 子 で も あ っ た3 , 律学, 修辞学を学んだのち官界に入り, Andronikos の独裁政治が始まった1183年には官内省の ‘独裁政治とす べての不正を憎んだ彼”(兄 Mi l の Niketas に対 chae 秘書官の地位にあ ったが, ‘ ) する弔辞のなかのことば4 ) は人殺 しの独裁君主に仕えることを潔 しとせずその地位を捨て, 法 5年 Andronikos が失脚の後は官吏の生活にも どり, 地 律知識を活用 して市民生活に入っ た, 118 位の昇進もはやく, 知事や高級の役職につき, また諸方の属州や外国への特使にも任用された. ) 1204年の東遷後も重用された が, 12 14年またはもう少 しあとにその地で 生涯を終えた5 . 以 上 のよ う な Choniates の略伝より み れ ば, 彼 は Andronikos に 対 して 好 意 を も っ て い な か っ. たばかりでなく, かえっ て独裁者と して嫌悪 したことは明らかであり, その点からいえば前掲の Andronikos の 最 後 を 語 る 彼 の 記 述 は 反 Andronikos 的立場よりするものであること を思わ しめ る. iざ’ の Ei i Choniat tung で彼の歴史鮫述観を述 べている, --歴史鮫途に tor e es はその “Hi nl s. は公共のためになるという役割 があるが, それは歴史に心を寄せるものに人生の模範となるきわ めて多くのものを提供するからである, 歴史は古い時代のことを知っていてわれわれに人間と し てのあり方を明らかにしてくれるし, またより高 いものに敏感で 天性美なるもの善なるものへの 努力を内にもつものには いろいろの心得を教え てくれる, また人間の非行をあからさまにするこ とによ ってそういう所業は侮蔑され非難される ことになり, 善行を賞揚することによ って善い人.

(4) . 皇 帝 と 民. 衆. 間はますます真面目になる し悪い人間も度を越さぬようになることが多い 歴史叙述によ てか っ . って世にあった人々の姿をありのままに即ち正 しい人は正 しい姿で, 無法者は無法者と して再現 されるという意味で, 歴史は人間にとって人生の書であるとともに 死者を墓から蘇らせてその , 姿を見たいと思 うひとの前 に立たせてくれる, 従 って歴史舷述においては当然の ことと して不明 瞭, 書きかえ, ひとりよが りは禁ぜられる 歴史叙述は単純且つ自然であること 特に解 り易い . , ことを第一とすべきで, それは歴史殺述の最高且つ最終の目的は真実を明らかにするというこ と にあるからなのである. このよ うに して書か れた歴史は農民 鍛冶屋 炭焼 き 兵士 針仕事や , , , , 羊毛流きの女のひとたちにも読まれ, そ してまた理解される歴史 なのである 私も明瞭に そして , できるだけ簡潔に書こうとする が, これから書こ うとするこの歴史はこれまで誰も手をつけたこ とのない, いわば前人未 踏の道をさまようことを始めるのであ って まことに労多 き仕事であり , 誰か既に 通った足跡を追い, 或いは真直で迷うことのない平らな国道を行くのに比 べれば遥かに )と 困難な仕事だと思 う6 . ‘Hi こ の よ うに, Choniates は, そ の ‘ t i〆 の 叙 述 に 非 常 な 自 負 を も っ て い た の で あ る が s or , ‘Hist ‘ ’ ざ i Ch or を独訳 した Grabl oniates の歴史殺述論が 必ず しもその著作に実現されてい er は l な い とい う. Grab er に よ れ ば, Choni es の歴史叙述は文学的著述というべく それは殺述の対 at , 象を選 びだすと きの態度に現われている. たとえば遠征の経過 な どは概要にと どめ む しろ路上 , や陣中での噂 などのようなひとの興味をそそるよ うなエ ピソー ドな どに力を注ぎ ひとつひと つ , の出来事について事実そのものの正確な記述より は ひとびとの心をえぐるような印象的な描写 , の で き るよ うな こ と だ け に 眼 を 向 け て い る そ の 点 で は 彼 は Thukydides よ り はむ しろ Herodot . に 近 く, また Diodor , Herodian , Eusebius 等のローマ帝政時代の歴史家に最も近い また書き. . かえはいけないという彼が古い言葉のもつ意味を勝手に変 えたり(”噂がひろまる“ という意味の. 言葉が ”び っ く り さ せ る”. と な り, “- 年 後” と い う 言 葉 が ”翌日” とされて いる ごとき) 部族 , の 呼 び名 を 誤 っ て, ま た は 安 易 に 変 え てい る と こ ろ もあ る (ト ル コ 人 を ペ ル シア 人 ハ ン ガ リ ー , 人を フ ソ人と す る ごと き) l 帝の行蹟を記 した部分 では あるところには讃辞が また別 . Manue ,. , のところでは非難の文がみられるが, 讃辞の部分は 帝の生存時に 非難のとこ ろはその死後につ , け加えたものと 考えられる. また単純明瞭な叙 述を説く彼の文はそれどこ ろか一セ ンテ ンスで2 50 語に及ぶところがあったり, 勿体ぶった書き方や度はず れた表現を好んで用い 明断さな どは ど , こにも求められない し, “自分は中庸をふみはず し, 歴史叙述のいろいろのきまりを逸脱すること は好まない” といいながら, 実は彼の非難することが 彼の歴史殺述の態度であ ると し?) かく て , Grab ler は Choniates をもっ て学者 であるよりは詩人 , 文学者と いうべきであ ると して, Cho- niates の著書の史料的価値に疑問を投じている このよ うにみると er がそのような欠陥 , , Grabl tes の ”Histori〆 をとりあげて歴史書と して孫訳するという煩 事を敢えて した理由 をもつ Chonia・. が 不 可 解 の よ う に 思 わ れ るが, そ れ に つ い て 彼 は1557年 に つ く ら れ た 同 書 の Hi f eronymus wol ) のラ テ ン訳 が 不 正 確 だ か らと い う8 。 しか し ostrogorsky によ れば, Choniates は主観的な面 では良心的であり またその著書は. , ) 客観的にも信頼度が非常に高いと して9 , その著書の重 要な史料として利用 して い る, その点で t i i ev er idge Medi は Vas i Hi I t era tl s , B兎hi ory ) にお い て も , Hussay (The Cambr .IV.Par . VO. 同様である, Grabl iが の 史 料 と して の 不 適 格 性 を 述 べ て は い るが そ れは い く つ か tor er は ”Hi s , C i の点で hon ates の述べている歴史叙述の理念とその実際とのくいちがいがあることを指摘する とと も に, Choniates の文学的表現をもってする叙 述が歴史書た るにはふさわ しくないとする立 -115-.

(5) . 斎. 藤. 二. 郎. 場 か ら の 言 と み る に と どめ て よ く は な い か と 思われる, 註 ine Empi re l i tory 。fthe Byzant s ev: Hi 1) vasi .434 .1952 ,p . 本 稿40頁. i hron t A ser b b 描 G l き 独 訳 ( e nt eueraufdem Ka i F の H i e r - z a i t ,1958) に ょる, a r a n r k N c h i s o r t s a : 2 ea ) 。n b A t 1 u e r と略記する S 4 一 5 2 以 下 e n e 1 9 . . . i l ia-Franz Grab e Krone der Komnenen,1958) に よ る. S, er の独訳 (D st or 3) Niketas Choniates: Hi i D K と略記する e e r o n 9 以下 . . iat 4) Chon e Krone es: Di ・s ,IQ 5 ) Choniates:ibid. S,10一11. d bi 6) Choni at es:i ,33-35 .S . bi d 7) Ch。niat es:i ,S ,13-14 . . 274 . 19-21 b i d t es:i 8) Chonia .S ,21一22 . S 0 in i t es schen Staa e des Byzant 9) os t sky: Geschicht rogor ,1952 , .28.. (3) ’ の は じ め の 部 分 で 民 衆 と い う も の の 愚 昧 性, 不 安 定 性 を 指 摘 し はその ”Historia’ , ▲か て 次 のよ う に い う, -- どこの都市で もそうなのだが, 民衆というものは 道理を弁えず, なに Choniates. あ る こ と に 熱 中 す る と そ の 動 き を と め る こ と は む ず か しく な る,. そ れ に して も コ ンス タ ンチ ノ ー. プルの民衆ほ ど騒ぎを好むも のはない. ばか騒ぎが好きな彼らは, その民族が雑多であり, また 職業 もいろいろであるため考え方にいた っては千差万別である. そこでは邪悪な ものが勝つのが 普通で, まだ青いぶ どうの実が多い場合にはそ のなかに熟 した実がつい ていることは殆 どないた とえで, 市場のある広場に集まっている民衆 が動きだすと筋道のたつよ うなことをする筈はなく また 一旦まちが ったこと が頭に しみこむと容易にや められなくなる, つまらぬ噂に もすぐ徒党を 組んで動 きだ し, 自分たちを火事のよ うに猛威あるもののように思い こみ, 剣のなかにもとびこ みかねない, しか し尖 った岩や大浪にぶっ つかるとこわ ごわ頭をひっこめる し, 大胆なひとにぶ つかると自分から首をさ しのべてそれを足で踏ませるようなこともする. だから彼らが変り易く 無 定 見 だ と 非 難 さ れ る の も 当 然 で, 台 所 のす す ぎ水 に も ひ と しい こ の コ ンス タ ンチ ノ ー プ ル の 人 間 の 屑 ど もは, 自 分 た ち の た め に 一 番 い い こ と を して く れ る 人 や 為 め に な る こ と を 云 っ て く れ る 人の 言 うこ と に 従 う と い う こ と な どに は 全 然 気 を つ か わ な い, こ の 賎 民 ど もは, い ま 繁 栄 してい る こ の 都 市 が や っ て い る こ と と か 繁 栄 さ せ る た め に しな け れ ば な らな い こ と と は い つ も 反 対 の こ と を す る, ……支配者に対 して忠誠を尽す気持な ど持っ てはお らず, それが彼らの固有のそして. 最も悪い 欠点である, 今日自分たちの合法的な主君と して帝位に推 しているものを次の日 には犯 罪者であるかのよ うに引き下 して しまう, 彼らの行 動がす べて無分別である のは彼らがより善い ikos ) と 即 ち Choniates は Andro l l もの を 知 らず, ま た 信 念 が ぐ らつ い て い る た め な の で あ る1 . l 帝の悲惨な 最後は,. このような愚昧であり安定性を 欠く首都民衆による犠牲としてもた らされ. た も の で あ っ た こ と を 示 唆 して い る か のよ う で あ る.. ビザ ンツ帝国初 期における都市民衆の存在とそ の活躍はめ ざま しいものがあった, 帝国の主要 都市には Hippodrom という二輪馬 車の競技場があ っ て市民の娯楽 に供せられていた. 特に首都 の Hippodrom の競技をめぐって赤, 白, 青, 緑の党派が形成されていたが, 赤と白は 吸収され て青と緑の二派 とな った. なお首都では Hippodrom は競技のほ か皇帝の戴冠式や凱旋行事な ど の公事にも用 いられるようになり, また市民 が権力に対する自分たちの不満の感情を表明する場 所ともな った, さらには5世紀から7世紀にかけては暴動の舞台とな った (その最大のものは6 l 〈a の叛乱) が, 暴動 の大部分は党派間の争いの出発点となっ たので, 党派は競技団体 世紀の Ni -116-.

(6) . 皇 帝 と. 民. 衆 1. ) そ れ ら は532年 の Jus か ら 政 治 団 体 化 して い っ た2 i t in anl 帝 の 治 下 の そ れ や 602年 の Maur ikios ,. 帝時代のそれのよ うに両党連 合して政府権力に対抗 した場 合もあるが 一般には政府は両党 のい , ずれか一方に頼ろうと し, それに応じて他 の党は, 反政府的態 度をとることになる 4世紀末 の , Arkadi os 帝より7世紀半ばの Herakleios 帝に至る約2世紀の間は党の叛乱によ て煩わさ れな っ か っ た 政 府 は な か っ た, し か し Herak l ios 朝 (7世紀初-8世紀初) 以後は党の様相が変 り e , それは官廷儀式に光彩をそえる パ レー ド団体 乃至は戴冠式における喝釆をおくるだけの役割をす る に と どま り, か っ て の 政 治 団 体 と して の華 々 しい 活 動 は み られ な く な. ) っ た3 .. 元来, ローマ共和政の伝統 を継いだ ビザ ンツの政治では民衆は中世西欧諸国にはみられない位 置をもっていたといえる. 即ちビザンツの政治体制は実質的に しろ形式的にしろ民衆を無視 して は 存 立 し得 な い も の で あ っ た. ビ ザ ン ツ の 基 本 的 政 治 体 制 と さ れ る Caesar papi sm もそういう 面 からみる べ き ものをもっている のではな かろ うか ,. i sm とは, ビザ ンツの皇帝政治の絶対主義が宗教的領域にまで完全 に浸透してい pap たことを示す 言葉であるが, その内容からみた場 合, その用 語の妥当性についてはいくつかの異 ) 論が提起されている4 , しか しビザンツ では 政教両権が皇帝の身に一 体化されていたとい う事実 Caesar. は蔽うべくもないと考えられる, そ してこの意味での Caesar papism はそ の 根 源 を 極 め て 古 い 時代にもち, 弓削氏の立証するところでは3世紀以前の思想家たちに認められる神寵帝理念に求 ) められると し5 , さらにこのような超越的宗教的皇帝理念の起源は, ローマ帝国においては制度 的には皇帝廃 位の可能性はなく, それ に代るものと しては軍隊 に擁立された軍事 指導者による革 命だけであ った ことから, 帝権の支柱となるべき理念が知識人によ って求められたことにあるが , その真意は皇 帝の絶対権の昂まりを恐れる知識人たちが 理想的皇帝理念を皇帝に語りか けること によ って絶対権 に対 して制限を加えようと したところにあると指摘する6 ) , 即ち Caesar papism とよ ばれる ビザ ンツの政治体制は, ローマ以来の政治的伝統を維持しよ うとする努力 のなかでむ きだ しの絶対主義 ではありえず, 皇帝には神寵帝と してのあり方を要請するとともに 政治不安 , の一 つの要素たる民衆, そ してまたその組織集団たるかっての党派及びその後の軍隊 を 国家宗 , 教機関と してのキリス ト教会を通して皇帝権力下にとりこめるというねらいのもとに構 築さ れ た ものと考えられる. 一方では神寵帝, 他方では絶対君主というビザ ンツ皇帝の二面性はその現実 政治において二 つの極点を露出させている, 一 つは民衆懐柔の政策であり他の一つは残虐刑 の存 在である, 民衆懐柔政策-- 都市の民衆の最大関心事は食生活の確保 である ローマ帝国以来 のパ ンの無 , 料配給は7世紀の He l i ak e r os 帝以後廃止された が, その後も首都では食糧は廉価且 つ豊富に供 ) 給された? . 首都がこの点で他に比べて優遇された状態にあることは 皇帝の思召しによるもので ある ことを忘れさせないようにしておく ことは, 民衆の忠誠確保の上から政府にと って重要な政 l 策であ っ た, Theophi i l ios 帝 (867‐886), Romanosl os 帝 (827‐842) e l帝( 9 9 63) 59‐ , Bas 等は凶作にも拘らず都市の食糧価格を低く抑えることに努力し, ために民衆の忠誠を確保し政治. 不安をのり切る ことができた, しかし この政策は政府が強力 で地方経済を確実に把握している間 は有効だが, 届州を支配する統制力が緩み穀物の大量貯蔵や価格維持がで きなくなると民衆の忠 誠 は 瓦 解 す る. Andronikosl 帝 の 失 脚 は こ こに 一 つ の 素 因 を も っ て い た8 ) ,. 首都の民衆を失業者群たらしめないこともこの政策の一環であ った Que t s o r(出納官) の職務 , は生活困窮者になにか公共事業の仕事を与えて失業者たらしめないことにあり また地方から首 , 都に流入して浮浪の失業者となる ことを阻止するため, 公用以外には首都に入ることを許さない -117-.

(7) . 斎. 藤. ニ. 郎. ) 政策もとられた9 . 特に力をいれたのは養老院, 救貧院, 簡易宿泊所, 病院等の福祉施設である. それらは皇帝や 貴族によ っ て建てられ修道院または尼院に付 属するものとして運営 された, 国営の孤児院を運営 0 ) A1 rophus は 巨 額 の 運 営 費 を 擁 し 高 官 の 一 人 に か ぞ え ら れ て い た1 す る 官 吏 即 ち orphanot .. 1‐1118) の建てた施設は7000人収容可能で, 孤児院, 盲人養 育院, 陸軍病院等から ( 108 成 っていたという, 病院の例と しては首都の北部にあった Pantokrator 修道院のものがあげられ る, そこでは, 患者は個室に収容され, 綾織, 枕, 上下ふとん (冬季には各2枚) , 櫛, 尿瓶, 海 備えられ, 入浴は週2回, からだを拭く手拭 2本, 洗面用 手拭2本, 部 綿, 手洗桶, 洗面器等が, 室着2着が与えられる. ……毎朝管理人が巡回して食事やその他につ いての不満をたずねる. 女 性の患者は女医のいる特別棟で看護され, 伝染病患者は隔離治療され……機 械使用を誇りとして. xiosl 帝. 消毒も機械で行ない, 調理場, パ ン焼き所, 洗濯場は特にこの病院の名声を高 めた施設であった と い う=) .. 以上とはおもむきの異なる部面であるが, 皇帝は民衆の自由な意志を弾圧しなかったというこ とも民衆懐柔政策 の一面を示すものと考えられる. 民衆は皇帝を緯名でよんだり, 方々に集まっ て勝手な政治批判や宗教論議に興じた が, 皇帝はかえ ってこれを安全弁と考え, 民衆が歌 ったり. 2 ) 悪 口 を 云 っ た り し て い る 限 り 彼 ら は 従 順 で あ ると して 特 に と が め だ て を し な か っ た1 , k l M (敬 度) と, β e は ew e m e r ma の主要な が 恩寵帝であること ビザ ンツの皇帝 残虐刑-- , が ら れ, 皇 虐 刑 み 1 3 ) の 残 は 数 多 く 夕と超し″pのmα (仁 慈) で あ る と さ れ て い る . し か し ビ ザ ンツ で. 帝への反逆者, 抵抗者に対しては, それが特にきびしく行なわれた. ビザ ンツ初期にお いては刑罰は必ずしも重くはなく, 特に K0nstantin l 帝の時代にはス トア 派あるいは新 プラ トン派の人道主義, そして特にキリス ト教の影響のもとに 古代の刑罰が緩和さ れ, 死刑は近親結婚, 誘拐, 男色等に対して行なわれ, 修道院や教 会に逃げこんだもの は刑の執. 5 ) Leonl l l 帝(717‐ ) し か し7 世 紀 以 降 切 断 刑 が と り 入 れ られ た1 4 行 を 免 除 さ れ る こと と な っ た1 . .. 741) の Ekloga では罰 金刑, 財産没収刑の他, 体刑として は流刑 (特にクリミャ) , 修道院濫禁. 刑, 筈刑, 鎖刑があり, 殺人, 強姦, 軍隊脱走, 大逆に 対して行なわれた死刑は, 不具刑 (鼻, 刑の方 6 ) 耳, 舌, 手の切断, 眼球挟出) に変えられた1 . 不具刑をもって死刑に代えたのは, 不具 汝を蹟 かせば…) が死刑の苦しみを減ずるとするのとマタイ伝×m, 8 ,9(もし汝の 手または足, 1 ) 7 のであるが, 不具刑は政治犯 の精神を具体化する ことになるとする考え方によるものとされ る l 市の敬度または仁慈を示すも l 8 ) ことから考え ると Leon l に対して行な われた場合が多かった1 ia 朝を開くまで その前の Herakleios 朝の後半約2 0年間 l l 帝が Syr のと は 考 え ら れ な い, Leon l これを ている べ 。 に7 人の皇帝が継立した が, それらの皇帝はす て内乱によ ってその地位を失 っ も っ て み れ ば, Leon ln 帝によ る死刑に代 る不具刑の採用 はキリス ト教精神な どによるものでは. なく, 反逆者や民衆に対する デモ ンス トレーショ ンであり, それ が残虐であればそれだけ かえ っ て死刑より も刑としての有効性をもつ点を考えて のことであったとみるべきではな かろうか. da l l は “Midas 王 が 触 れ る も の は み な r 惨虐刑は叛逆者に対して最もきびしく行なわれた, Gue 金 に な っ た と い わ れ る が,. キ リ ス トの 化 身 た る ビザ ンツ の 皇 帝 が 触 れ る も の は み な 神 聖 に な る.. この皇帝のもつ神聖性の故をもって 皇帝殺害を企てて 失敗したものは神に対する犯罪と同様のも のとして厳罰に処せられた” として, 10世紀における叛逆者に対する 処刑の様子を Rambaud の 記 す と ころ によ っ て 描 い て い る. --まず犯人は拷問にかけられて連累者の名を吐かせられてか ら Hippodrom にひかれて, そこで手足切断, 耳鼻切断, 鉛球をつ けた鞭によ る答刑を加えられ -118一.

(8) . 皇 帝 と 民. 衆 1. さらに眼球扶出ののち, 嘘馬に乗せられて市中をひきまわされた, 特別の例として Basi l ios l e 67 68 帝 (8 ‐8 ) は国法によ る制約がなければもっと寛大な処置をしたであろうが, 犯 人 を 片 眼 , 片 腕 だけ の 不 具 刑 に と どめ た と い う こと で 帝 の 伝 記 を 書 い た も の か ら 賞 讃 さ れ た Mi ll l l帝 chae , (842‐867) 時代に副帝 Basileios の敵が処刑されたとき 彼らは広場にひき出され 両眼挟出 片 ,. , 手切断のまま 3 日間市中を歩いて残った手で物乞いをさせられた, その他斬首刑 焼殺刑 串刺 , , 刑の場合もあり, 軽いものでは髪を切 ったり焼いたりしたうえ修道院に幽閉というものもあ た っ か, そういう場合でも多くは去勢された, 殆 どの場合叛逆者本人だ けでなく 妻は髪を剃られて , 9 ) 幽閉され, 男の子た ちは去勢された1 . 懐柔と威圧, 飴と 鞭, それはいっの時代にも権力者のもつもる匁の剣である ビザンツのよ う . な権力の座が不安定なところにあ っては, その権力を脅すものを自己の 陣営にひき こむか, また は徹底的にそれと斗い これを打倒し扶除するかしなけれを ならない. 勿論す べての皇帝が民衆に l 対 し て 政 策 的に 対 処 し た わ け で は な い, Theophi os 帝 (829-842) に つ い て 次 のよ う な こ と が 伝. えられている. --帝がある日曜日に立派な行列の先頭にた って馬を進めていたが,そのとき一人 の漁師の妻が突然とびだしてきて馬の手綱を抑えて “この馬は私のものです, 陛下の部下が無法 にも私からとりあげた馬だから返して下さい” と叫んだ. 帝は馬からおり てその馬をその女に返 し自分は歩いて行 った.(その後は帝がまちを乗馬でゆくときには, たくさんの替え馬がつけられ るようになった), また帝が戦車競走をみに競 技場に現われたとき, 二人の道化師が帝の特別桟敷 に 近 づ い て き た. 二 人 は 手 に 小 さ な 船 の 模 型 を も ち 互 い に わ め き あ っ て い る “心配 い ら な い か ら , “ ” “ この 船 を 食 っ て み ろザ , そ ん な こ と 俺に は で き な い よ , で き な い こと が あ る も の か, 宮 内 長 官 なん か ガ レー船 を 積 荷 ごと 飲 み こん だ ん だ そ“ 。 と, こ れ を 聞 い て 皇 帝 は す ぐ取 調 べ を 命 じ た が,. やがて一切が判 明し, その宮内長官は, 盛装の姿で競技場にひき出され, 生きながら焼き殺さ れ 0 ) Theopt i los 帝は Amor た2 ia 朝を開いたその父 Mi ・ l 帝が無教養で気力も理性をも欠 chaell , いたのとは対照的に豊かな教養の持主で, 特に学問, 芸術の愛好者として知られ, 偶像禁止運動 にも熱心で, そのためには反対者に対して苛酷な行為もあったが, 魅力的な皇帝で理想的な君主 1 ) た らん と す る正 義 愛 に 燃 え た 人 物 と し て 伝 え ら れ て い る2 .. Theophi l os 帝 は ビザ ンツ の 皇 帝 の. 理想像であり真の意味の神寵帝, 民衆の皇帝であったといえよ う. しかし民衆とは首都の市民だけであったのではない。 首都の市民はなん らかの形 で対皇帝感情 を表出できるのであるが, 皇帝が対処しなければならないもう‐ 一つの, そして首都のそれよ り ,も 数においても実力においても強力であり’ しかもその感情乃至意見を把捉し難い民衆即 ち属州農 民があった, そしてこの第二の民衆の向 背は, それが地方封建有力者という皇帝権力を脅す存在 と利害相反する ものであっただけに皇帝権力にと ってはより重要な存在とな っていた . 註 1) Choniat es: Avent euer ,S ,22-23 , i i ine 2) Br6hi t tut er:Le lns on de じBmpi re Byzant ,1948 , p,191-197 , i d,p 3) Br b ehi er:i ,199-202 ,. 4) 細稿: トイ ソビーの ビザンチ ン像, 史流, 第8号, 41- 44頁. 5) 弓削達:ローマ帝国の国家と社会, 昭和3 9年, 5 09- 51 6頁。 6) 弓削達:同上書, 2 94頁. i i i ion l 7) Ranciman:Byzant H ke ne Ci zat ios 帝 が な ぜ パ ンの 無料配 給を や め たか は 明 v .1956 ,159 .p ,一 era l らかでないが, 帝の治世は東方ペルシア, その他との戦争にあげくれ, これらに勝ちは したもののそれに 国家のすべての力を投入したこと, またその後にアラブ侵入に対する戦争に敗れ東方穀物地帯を失 たこ っ とが そ の 理由 で は な い かと 思 われ る. os i d.S 89 t rogor sky:ib . .. I Li T ia f ine Bmpi 8). enkins:Soc e in the Byzant idge Medi r e I Hi l eva tory s t ,(The Cambr . Vo . N, Par. -119-.

(9) . 斎. 藤. 二. 郎. 1 1, p .86) . i b d,p iman:i 9) Runc .159 . d. iman:ib i 10) Runc ついては Con 1 1 26 6 lund H6 e von By zanz 1) Guerdan: Himme 1 .195 .25- .なお ビザ ンツの福祉政策に .S していない。 まだ入手 d D S i I f 7 W l 1 があるがい h 6 e P h i l t 9 c B i o a o e l an orop y an e ar tante os : yzantne . . ,. 皇帝は ”小便たオゼ, 細か特に好きだった皇帝は i d dan:i b 2-23 12) Gue r ,S ,2 , 洗礼のとき洗礼盤をょごした ”飲んだくれ” 等 . 13) 拙稿: ビザ ンチ ンの 皇帝, 北海道学芸大学紀要, 皿の1. id i b B hi ium into Europe .P .240 4) Lindsay: Byzant 1 .111‐112 . .1952 . rd er: .p in ian l 帝は計算をごまかした収 Jus t d i L それ以前即ち id a によると 4 0 n s 2 -しかし y 15) Brghi er:ib p , . . . i d indaay b ,p ,112 .i , 税吏や単性論の写本をつくったものに対 して片手切断の刑を課している. -L i b d.p i J ki d 16) Br 6hi er:ibi .30. .p ,240‐242 . en ns: id b ehi 17) Br er;i . bid. i 18) Brdh er:i 2 か i ne re byzant i d ude ssur rhistoi b 19) Guerdan:i , 191. . .S .18, Rambaud の著書末見. Rt i d S b . ,26‐27. 20) Guerdan:i d i t 21) os rogor sky:ib ,165. 168, ,S. (4) ) の 成 立 は 晩 く し か も微 弱 で あ っ た. そ し て こ の ビザ ンツ に お い て は 西 方 に み るよ う な 封 建 制1. i i t anl帝は属州の住民がいわれなく, また n ことは皇帝政府の意識 的政策の産物でもあった. Jus なんの 妨害 もなしにその 土地を奪われているとの訴えに対し, 土地兼併に至る 庇護関係の成 立を あらゆる手段をもって阻止すべ きことを 訓令し, 私人によ る私人の隷属化はとり もなおさず国家 に対する反逆であ るとその. 2 ) S idlr は地方における庇護関係 le XI I Novel I . 13で 指 摘 し て い る , e e. ‐世紀 の K0nstantin 成 立 と 皇 帝と の 斗 い は ビ ザ ンツ 国 家 の 終 末 ま で 続 い た と し, そ の 一 例 と し て10 W 帝がその前帝 Romanos l に ひ き つ づ き 出 し た 次 のよ う な 勅 令 を あ げ て い る. - - Thrakesion. の属州では有力者たちが皇帝の出 した法律を軽視し, 購入, 受贈, 相続とい った方法で村落共同 体にたち入り, 貧乏人を抑えつけてその土地から追い払 っ ているとい うこと が自分の耳にしばし ば入 ってくる. それらを調査したと ころにより次のように訓令する, 皇帝の法律によ って細民の 財産を購入することを禁 じられているもの (及び法に反して 村または移住地に押し入ったもの, または細民の 財産を手に入れたもの) は, その入手した 土地を直ちに手放さな ければならない. ) と. しかしこの法律によ って地方土地貴族の勢力を そうすれ ば賠償の法律 は一切適用 されない3 抑止し得なかったことは後述の通りである. 土地貴族 はどのよ うにして形成されたのか. この場合 ビザンツでは地方の軍事指導者が重要な 役割を 占めている. 主として小ア ジア領域に7世紀以降設けられた Thema の制度はもともと地 方の軍事防衛組織であ った か, それはや がて行政区域ともな った. 貴族の称号を もつ Thema の 長官は, 7世紀末の 動乱時にかっての優越的地位 を失 った元老院議 員たちより成り, 司令官であ る と と もに Thema 内住民の食糧, 民政, 訴訟 をも担当した, そして Thema の兵士となったも ) のであるが, このよ うな属州における軍事指導 のはその 服務期間に応 じた世襲の割 当地を得た4 者とその兵士との結びつきによ っ て, 西ローマ以来の軍人皇帝という伝統は ビザンツにも継 承さ れ る こと と なる,. 特に7世紀 そして大体9世紀頃までは ビザ ンツ帝国 は外異族の侵冠に悩ま され, 従って土地 は 財産としては不確実なものた らざるを得なかったが, 9世紀以降外族の脅威が薄らぐとともに土 1世紀中期におよ ぶ Makedonia 朝は地 地に対する投資の 傾向 が強まった。 9世紀後半に始まり1 兼併を ) 方有力者 が優位に立った時代である5 , いうまでもなく その基盤は土地の 兼併であるが, 120-.

(10) . 皇 帝 と. 民 衆. 1. 志すものが軍人である場合にはさらに効果的で あった, 土地に投資できるだけの貨幣を持つもの は称号を買 って貴族の家を創立でき, さらに軍人になることによ ってその権力を濫用 して農民の 土地をとりあげ, これ をもっとひどい条件で他に移譲したり, あるいはイ ンチキ市場でもとの所 有者たる農民に買い戻させたりした, また彼らは貧しい農民に対し, その生産物とひきかえに彼 らの税金を払 ってやり, このような過程のなかで農民を小作人または農奴に変えてゆき6 ) , 土地 貴族たろの実質を強化していった. 10世紀の頃には軍司令官職は世襲化され地方豪族を形成する ) ア ジ ア で・は Phokas, Doukas Skleros Comnenos Palaiologes 等 の ま た ヨ よ う に な っ た7 , , , , , , T L ー ロ ッ パ側では Bryennos l ) 11世 紀 小 ア ジ ア の 豪 族 issenos (es , Me , orni , Kantakuzenos 等8 , Phi laret es の豪勢を示す数字がある. 3 6人の客を接待できる 象牙と金のテーブル, その有する 羊. 120 00頭, 牛600頭, 馬800頭, 労役用の牛2 ) 00頭, 馬, 厩馬80頭, 多数の農奴等9 , その邸宅は小 o 宮廷の観あり, 領地も収入も殖える一方であ ったl ) . 地方有力者の強大化は当然中央における皇帝権力 への脅威にかかわる問題であったから 豪族 , 抑止は皇帝の最も関心をもつ問題であり, 農民保護の政策もそれと裏腹の関 係にあったわけであ る, そ の 一 つ と し て Romanosl 帝 ( 920 -944 ) の先買権制限の刺令がある, この先買権は農民の 土地が大土地所有者に譲渡される ことを阻止するため に, 譲渡6ヶ月以内であればその土地の隣 人に限り譲渡価格にあた るものを支払えばその土地をとり戻し得るという権利であった . しかし w 帝 ( 8 86‐912) によ る先買権廃止は土地貴族の兼併 を容易にし封建化を促進する役割 を 1 ) そ こ で Romanos l 帝は先買権を復活するだけでなく さらに先買権に順位をつけ も っ た1 , , ,. Leon. 第1位は共同所有 の近親者, 第2位は近親者で ない共同所有者, 第3位は売りに出されている土 地と混在している土 地の所有者, 第4位はその土地と隣接している租税共同納入者 末位はその , 土地の隣接地の所有者とし, 以上のなかに買取者がいない場合にだけそれ以外のものに譲渡し得 2 ) る も の と し た1 ,. と こ ろ が927-928年 の 酷 烈 な 冬 の た め に 帝 国 は 凶 作 と な り, こ れ と 伴 っ て ひ ど. い飢餓と猛烈な伝染病に見 舞われ, 農民はその土地を捨値で売 ったり生活物資の前借分として手 3 ) ので, 有力者は先買権制限を無視してその土地を拡大しつ づけることができた 放したりした1 . Romanos l 帝はこれに対処するため9 34年の法令をもって, 不法所得の場合は無償返還, 正当な 売買でも買取者が富 裕者であれば最初支払われた代価で, またそれが細民であれば3年の猶予期 間内に返金すればもとの土 地をとり戻しができる こととした1 4 ) , しかし生活の基盤である農地を 手離さざるを得なかった農民に,. これを3年の間にとり返すだ けの資力が得られるとは考えられ ないし, また法令を施行す べき官吏が収奪者それ自 身であるか, あるいはその一族一 味乃至友人 5 ) からすれば, 有力者の兼併 阻止という目的 にはほど遠いものであ であったりしたという実情1 っ た と い わ ね ば な ら な い, K0ns in W1 (913-957) も Romanos l 帝の政策を継承して94 tant 7年に同 様 の 趣 旨 の 法 令 を 出 し た が 事 情 は 同 じで あ っ た Ni L h l 帝 (963-969) み ず か ら は 小 ア ジ (ep orosl . アの 土 地貴 族・Phokas 家 の・出 身 で あ り な が ら, 皇 帝 と し て の 立 場 か ら Romanosl 帝の先買権に. 関する法令を励行したがその力の及ばざる ことを認め, 帝国は偶像禁止運動以前のよ うな異常な ) 状態 に 逆 転 し て し ま っ た こと を 嘆 じて い る1 6 . Nikephorosl l 帝の嘆きは農民の考え方及び実態が 皇帝政府の意志すると ころと必ずしも 一 致. するものではなかっ たことの表白であろう. 即ち零落した農民たちは彼らに与えられた自由を実 質の伴わないものとして放棄し, 土地の売却または寄託によ って,彼らの重荷の軽減を約束する有 7 )ことが 考えられる 由来 豪族抑止の政策は 力者の庇護下に入る道をみずから進んで選んだ1 , , , Kons in W 帝の9 tant 34年の法令にみるごとく, “国家の必要とすると ころを供給し税や軍務を果 -12 1-.

(11) . 斎. 藤. 一. 郎. l men) で あ る. 皮らが義務を怠れば万事休 l た す もの, そ れ は小 土 地 所 有 の 大 衆 (Masses ,Sma. 1 8 ) ・う ことになる” すとし , という立場に立つものである. 即ち農民保護の政策は慈愛に基 づくも のであるよりは, 小土地所有の自由農民の存在が皇帝存立の基盤をなすに他ならなかったことに よ る も の で あ る. Jus t inian l 帝以後, 属州有力者と特に対立関係にあっ たと思われる諸′ 市をあげれば概 ね次のよ inian l (565‐578), Tiber ikios (582-602), Just in l ios l (578-582), Maur t Jus うである. --‐ l l ( 685‐695, 705-711) , , K0nstantin V (741-775). Nikephoros l( 802 -811) ,. そして地方豪族. i l l 帝 (976‐1025) によ っ て 示 さ れ た. iosl e 抑止のための最大の努力は Bas Bas le iosl i l 帝は在位約50年, その間国力の増大と帝権の確立を求めて絶対君主としての態度. i a の総 をくずさず, そのための最大の努力を小ア ジアの豪族抑止に注いだ. 市の初期,Makedon バ 督 Nikolaos の4人の子達が叛旗をひろがえし 反 ビザ ンツ解放戦争として全 ルカ ンを捲きこん l は Bulgar ia の Zar と し て ビザ ンツ の 繋 辞 を 脱 し た の み な らず 南 だ が, や が て そ の 一 人 Samue 下してその支配は黒海より Adria 海 に 及 ぶ に 至 っ た. こ の 状 勢 に 刺 戟 さ れ た 小 ア ジ ア の Bardas l l 帝の抑圧政策を不満とする豪族たちに Skl i eiosl eros 及び Bardas Phokas の 二 大 豪 族 が Bas. 支持されて Makedonia 王朝に挑戦, 両人はその勢力範囲を協定 した (Phoka s は首都を含む ヨ パ P h S k i S k k ー ロッ eros を抑えて小ア ジア全部を確保し, そ o as は 側, i eros は ア ジ ア 側) が, l l 帝はロシアの領主 V1 adimi eios l r の 援 兵6000人 を え て, の余 勢を駆っ て首都に迫 った. Basi Phokas を破り,. 一方. Skl eros. と は 和 を 結 ん で 危 機 を 脱 し た. Romanos ll 帝が豪族抑止, 農民. 保護の政策をとった事情を承知していた帝は, 地方豪族が国家及び帝権にと っての禍であること 96年の土地立法であ った。 従来の土地法による をみずからの体験としても痛感 して作ったのが9 0年の時効期間を過ぎると旧所有者はその返還を要求できない と, 非合法的に獲得した土地でも4 とされていたが, 帝は細民からとりあげた土地は時効期間とは無関係且つ無賠償で前の所有者に とり戻し得ることとした, 特に豪族に対する露骨な締めつけを示すものは, その数年後に出され た Aiielengyon 制 (租税連帯責任制) についての変改である, 即ち従来租税を払えない細民があ った場合は, その隣人たちが連帯責任を持たされていたが, この立法によ っ て連帯責任としての 納税義務は大土地所有者に限ることになっ た. この立法は当然のこととして国庫収入の確保に役 立つ反面, 豪族には新 しい重大な負担であ っ たので彼らは帝に抗議したが, 豪族の強大化阻止を ) し か し こ の Bas 9 l i 工 帝をもっ て地方豪族 e osl 意 志す る帝 は, こ れ に ひ る む と こ ろ は な か っ た1 , . i 抑圧政策は終り, 以後封建化の底流は一気に顕在化する ことになり, 最後の王朝 Paiaiologes 朝 0 ) tat の歴史は極点に達する2 (1261-1453) に 至 っ て lmmuni . そのような潮流のなかで,.首都の教 会の近くに皇帝としての黄金の装飾もつけず労働で押しひ ikosl 帝 on しがれた控えめな,大きな鎌をもっ た農民としての姿の自己の彫像を建てさせた Andr 8 ( 1183‐11 5) が冒頭に記したよ うな暴虐を受けて, 待望のしかも皇帝としての短い生涯を終らね ば な ら な か っ た の は ど う し た こ と で あ っ た の で あ ろ う か。. 註 1) 封建制の存否, 西欧封建制との異同の問題については, 渡辺金一: ビザンツ社会経済史研究 (昭和43年) の第1論文および第2論文に詳細に論じられている. i deen in Byzanz l 2) Seidl el er:Soz a ,13 , 1960. S . dl id b i 3) Se er:i . b i d p 4) Lindsay:i . .137‐138 . i d d R i b i i b 5) Lindsay:i ,p .149 ,p .155‐157. . unc man: id b d.p i iman:i 6) Li ndsay:ib . Runc ,166 ,. -122-.

(12) . 皇 帝 と 民. 衆 1. 7) 渡辺金一:同上書, 6 5頁.. id.p 8) Lindsay:ib ,149 , iman:i b d 9) Runc i .p ,157, 10)Jenk i id.p ns:ib ,100, 11) os 七 rogor ld 3ky:ib .s ,205,. 1 2) 渡辺金一:同上書, 3 93頁,. 13) os七 i d b r ogor sky:i .S ,22 221 .. 1 4) 渡辺金一:同上書, 4 03頁.. 15) ost i b d rogor sky:i ,S .221.. i 1 6) L id b nd say;i .p ,151 ,-但し帝はその適用を主と して修道院に向けたという.. 17) os[ id b rogor sky:i ,S .222. 18) L indsay:i d bi ,p ,151 . 19) os b id t rogor sky:i .S .239一246,. 20) 渡辺金一:同上書, 66頁, 6 9頁.. (以下次号). -1 23-.

(13)

参照

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