博 士 ( 文 学 ) 加 藤 和 秀
学 位 論 文 題 名
テ イ ー ム ー ム 朝 成 立 史 の 研 究 学 位 論 文 内 容 の 要 旨
1
) 論文の主旨本 論文は14―15世紀のペルシア 語史料を中心とする各種の年代記、文書の検討と分析を通して中央 ア ジアにおけるテ ィームール朝(1370−1507年)成立の歴史的経緯を実証 的に解明したものであ る 。
2)論文の構成
序中央アジァ史研究の立場と方法・.. ...・・・.・・.・..・・・・・.1 第1章チャガタイ・カン国の成立.・・ ..・....・・・・......・・5 1.プロローグモンゴンWコ「西征」と中央アジア・....・...・.・・..・・.5
2. モンゴルとイスラーム. . ● ● . . ● . . ● ● . . 1 ● ● I . . ● ● . ● I . 9 3.チャガタイ・カン国の成立.・・・ ..・.....。..・......・18
4.ケベクとヤサウルーチャガタイ・カン国支配体制の確立ー.・・.・・.・・.・.・28 第2章モンニルレ支配下の中央アジア定住社会―ワクフ文書の分析を通して−.・.・...49 1.中央アジァのワクフとワクフ文書研究.・・...・...・・.・・・...・..49 2. 14世紀ブ丿ヽラのワクフ文書..。.・.......・..。.。........57 3. 14世紀前半ブラハ農村社会に関する一考察
‑kadivar農民とmuzari'農民について―...・.・.・....74 4.モン〓ゴル支配下の中央アジア定住社会
一ワクフ文書の分析を中心に―・.・・...・・・.・.....82
第3章ティームール朝政権の成立...・・.・..・.....・..........96 1.概説ティームー′レ政権の形成・.・..・.......・....・......96 2.アミール・ティームールとヴィラーヤト・イ・キシュ.・・..・・・・..・..101 3.アミール・ティームールとシャフル・イ・キシュ...・.・....・・.・..106 第4章ティームールのインド遠征... ..・.・...・・.。..・.... 123 1.ギヤース・ウッディーン・アリー・ヤズディーの『インド遠征日i剃について..・124 2.ティームールのインド遠征...− ........・..........131 付書評キショリ・サラン・ラール著『サルタナトの黄昏』・・・・.・・..・.165 第5章ティームール帝国への道のり゜..・・・...。.・.・・..・.・..・.172 1.ティームールとアフガニスタン.・ ......・..・....・..・.173
2
.ティームールの対 オスマーン・トルコ政策ー バ ー ヤ ズ ィ ー ド 一 世 宛 一 書 簡 を め ぐ っ て − . ・ ・ . ・ . ・ . . ・
188 3
.エピローグティー ムール帝国の興亡...・・.。.....・.・・...・・213. ●
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● ● ● ● . ● ● ● ●
I
● ● 221 引用書目...... ......・(全225頁、400弓 噺右換算:900枚)
―135一
3
)論文の内 容序 には ティ ー ムー ル朝 期 の現地史料、すな わちペルシア語・ア ラビア語・チャガ タイトルコ語など によ る 年 代記 、史 書 、法 制文 書 、経済文書の利用 によるティームール 朝期の研究を起点 として中央アジア 史全 体像 を見通す視点と方 法を得ようとする 著者の観点が提示さ れている。
第
1
章「 チャガタイ・カン 国の成立」はチン ギス・カンに率いら れたモンゴンレの 「西征」によって 中央 ア ジ ア に 成 立 し た モ ン ニ ルL
席 国 内 の 国 家 で あ る チ ャ ガ タ イ ・ カ ン 国 (1306
ー1370
年) の 成立 の事 情 と 経緯 を明 ら かに して い る。チャガタイ・ カン国はチャガタイ 家とウゲディ家の 利害対立の過程で ドゥ ア が 元 朝 カ ー ン の 支 持 を 取 り 付 け て 建 設 さ れ た 国 家 で あ り 、 ケ ベ ク の 統 治 期 (1318
ー1326
年 ) に 支配 体制が確立された ことを究明してい る。第
2
章 「 モン ゴノ レ 支配 下の 中 央ア ジア 定 住社 会」はワクフ文 書の分析を通して14
世紀前半のチャ ガタ イ ・ カン 国の 農 村社 会お よ び土地所有制度を 考察している。「ワ クフ」とは私的な 不動産や財産の用 益権 を 放 棄し 、モ ス クや マド ラ サなどの宗教施設 、あるいは病院や孤 畑浣といった公共 的な機関に処分権 を委 ね る とい うイ ス ラム 法に 定 められた寄進制度 をいう。こうした寄 進の動機や内容あ るいは手続きの過 程を 記 録 した もの が 、い わゆ る 「ワフク文書」で ある。したがってワ クフ文書には年代 記などには見いだ され な い イス ラー ム 社会 の下 部 構造 、っ ま り社 会経 済 的側 面に 関 する 貴重 な情報が含 まれている。著者 は14 世: 紀前半のブハラの ワクフ文書を紹介 し、これらの文書の分析を通して当時のブラノヽ地方の農村には土地 を 所 有 す る 農 民 と 分 益 小 作 農 が 存 在 し 、 そ の 両 極 分 化 が 進 行 し て い た こ と を 指 摘 し て い る 。第
3
章 「 テ ィ ー ム ー ル 朝 期 政 権 の 成立 」は1340
年 代に 東 西に 分裂 し たチ ャガ タ イ・ カン 国 の混 乱を 収 束 さ せ て1370
年 に 遊 牧 貴 族 の 諸 権 カ を 統 一 し た テ ィ ー ム ー ル (1336
ー1405
年 ) に よ る 政 権 樹 立 の経 緯を 明 らか にし て いる 。本 章 第2節 では ティームールの 出身地キシュ村( ヴィラーヤット・ イ・キ シ ュ ) を 拠 点 に テ ィ ー ム ー ル が
1360
年 代に 政権 を 固め てい く 過程 が、 第3
節 で はキ シュ 市 (シ ャフ ル ・ イ・ キシ ュ )に 市城 壁 ・宮殿・墓廟を建 設することによって ティームール政権 を確立した過程が 詳細 に論 述されている。第
4
章 「 テ ィ ー ム ー ル の イ ン ド 遠 征 」 は1398
−99
年 に 実 施 さ れた イン ドi
塞 征 につ いて 、 ヤズ ディ ーの 著作『インド遠征 日誌』の記述の分 析を通して遠征の意 図を考察している 。ティームールはインド彳正 服 を 意図 して 軍 事遠 征を 実 施したが、オスマ ン朝に対する西方へ の遠征が差し迫っ た状況にあったた め、イ ン ド 遠 征 は 名 目 的 な 征 服 達 成 と 略 奪 に 限 定 さ れ た 軍 事 行 動 で あ っ た と 著 者 は 指 摘 し て い る 。
第
5
章 「 ティ ーム ー ル帝 国へ の 道の り」 は ティ ームール朝政権 の成立の過程にお ける南のアフガニ スタ ン お よび 西の オ スマ ン朝 と の関 係を 考 察し た第1
節と 第2
節 の 論考 、お よびティー ムール没後のティ ーム ー ル 朝の 歩み を まと めた 第3
節 の エピ ロー グ から 構成 さ れて いる 。 第1節ではティ ームールの対アフ ガニ ス タ ン政 策は 首 都サ マル カ ンドとインドを結 ぶ交通路としてのア フガニスタン確保 にあったという結 論が 導 か れて いる 。 第2節 では ティ ー ムー ルが オ スマ ン朝 の バー ヤズ ィ ード1
世に相互 不可侵条約の締結 を交 渉し たことが考察され ている。― 136―
学位論文審査の要旨 主査
副査 副査 副査
教授 教授 教授 助教授
菊池 小山 栗生澤 山本
学 位 論 文 題 名
俊 彦(東 洋史学専攻)
皓一郎(東洋史学専攻)
猛 夫(西 洋史学専攻)
文 彦(西 洋史学専攻)
テイームーム朝成立史の研究
1
)論文 の研究 成果 の特色本 論 文 はテ ィ ー ム ー ル朝成 立史を 主題 として 、中央 アジア 史にお ける ティー ムール 朝の成 立過 程を明 ら かに して いる。 わが国 の中央 アジア 史研究の分野ではチャガタイ・カン国についてもティームーリレ朝につ い て も
1970
年 代 まで 本 格 的 な 研 究は な く 、 本 論文 所 収 の 第1章 第3
節 「 チャ ガ タ イ ・ カン 国 の 成 立 」 はわ が国 最初の チャガ タイ・ カン国 史研 究の論 考であ る。ま た中 央アジ ア史研 究にワクフ文書を史料とし て研 究に 導入し 、中央 アジア におけ る中 世農村 社会の 様相を 究明 したの はわが 国で加藤氏が最初である。そ の 後 、わ が 国 で ワ クフ文 書を利 用し た研究 が続々 と現れ たこと は本 論文第
2
章 第1節 に述 べられ ている 通り であ る。わ が国に おける ティー ムー ル朝史 研究も また、 加藤 氏およ び京都 大学の間野英二氏によって1970
年 代 に 初 めて 本 格 的 な 論 考が 発 表 さ れ た。 本 格 的 と いう の は ティー ムー ル朝史 研究に はペル シア 語 史 料 、チ ャ ガ タ イ トル コ 語 史 料 の 利用 が 不 可 欠 であ る が 、1970
年代ま でわ が国で はそれ らの史 料を 用い る研 究者が いなか ったこ とによ るか らであ る。こ のよう に加 藤氏は わが国 におけるティームール朝史 研究 の開 拓者で あると 同時に 、研究 発展 の推進 者であ る。か くて 本論文 はわが 国で最初のティームール朝 史研 究の 専論と なって いる。 また本 論文 はティ ームー ル朝史 研究 では先 進的な ロシアの研究者の研究成果 を 十 分 に 踏 ま え て お り 、 本 論 文 は 国 際 的 に も 通 用 す る 内 容 の 研 究 成 果 で あ る 。2
)審 査委員 会の所 見本 論 文 を 構成 す る 諸 論 考の う ち 、 既 発 表論 考7篇は いずれ もわが 国の東 洋史 学界に おいて 高い評 価を 得 て いる。 またシ ンポジ ウム におけ る発表 の記録
2
篇 はすぐ れた 研究動 向とな ってい る。そ れら を所収 した 本 論文は わが国 におけ るテ ィーム ール朝 史研究 の専 論とし て多く の創意 的見解 を提示することによって学 界 へ の 寄 与が 期 待 さ れ 、ま た 今 後 の 中央 ア ジ ア 史 研究 の 方 向 性 を 示唆 す る 問 題 提起 に 満 ち て いる 。し か しな が ら 審 査 委員 会 で は 本 論文 に 若 干の問 題点 がある ことが 指摘さ れた。 第1に第3章第1節 にお い て、テ ィーム ール朝 はモ ンゴル のチャ ガタイ ・カ ン国の 継承国 家では ないと いう見解を提起しているに も 拘らず 、チャ ガタイ ・カ ン国と ティー ムール 朝の 本質的 な差異 は何か 、とい う問題に対する論述に明確 さ が 欠 け てい る こ と で ある 。 第
2
に 本論 文 は1991年 ま で の 既発 表 論 考 を 集め て 構 成 さ れて いるが 、そ の た め 本 論文 に は 近 年 、1990年 代に わ が 国 で 急速 に 高 ま っ てき た 中央ア ジア史 研究 の研究 動向が 言及 さ れてい ないこ とであ る。 ただし 、ティ ームー ル朝 成立期 に関す る研究 論文は 発表されておらず、ここに 加 藤氏の 研究の 独自性 が認 められ る。第3
に 本論文 の註お よび 参考文 献にお いて、 ロシア 語文 献のキ リル 文 字のラ テン文 字への 翻字 に不統 一と誤 りが少 なく ないこ とであ る。そ のほか 、参考文献が各節ごとに付 け られて いるが 、それ らの 多くは 重複し て掲載 され ている こと、 また同 一の固 有名詞(人名・地名)がカ‑ 137―
タ カ ナ だ け 、 あ る い は ロ ー マ 字 の み で 表 記 さ れ て い る な ど 不 統一 であ る こと が指 摘さ れた 。
審査委員会ではこれらのうち、キリル文字のラテン文字への翻字を統一し、誤りを訂正すること、参考 文献は研究書目一覧にまとめること、固有名詞の表記を統一することを含めた訂正を申請者に求め、これ によ り 平成12年2月17日にinE論文が提出された。 審査委員会では訂正論文を 審査し、訂正を点検し たところ、若干の 遺漏が見受けられたため、再 度の訂正を求めた。これに より平成12年5月22日に再 訂正論文が提出され、これを審査し、訂正を確認した。
以上のように、審査委員会は提出された申請論文について細部にわたり審査し、口頭謝司において問題 点を尋ね、不適切 な箇所を指摘して訂正論文の 提出を求めた。審査委員会は本論文がわが国で1970年 代からようやく着手されたティームール朝史研究の今日における有カな到達気を示していることを評価し、
申 請 者 加 藤 和 秀 氏 に 博 士 ( 文 学 ) の 学 位 を 授 与 す る こ と が 妥 当 で あ る と の 結 論 に 達 し た 。
― 138ー