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思春期における美術教育の一考察

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(1)思春期における美術教育の一考察. 兵庫教育大学大学院修士課程 学校教育研究科 教科・領域教育専攻 芸術系(美術)コース. M96711E 安田 泰三.

(2) 目次. はじめに. 1. 第1章 思春期の美術教育の問題点 1.思春期と危機の時代. 4 4 4. 2.思春期の危機とアイデンティティ. 6. 第1節 危機の時代と人間形成の問題. 3.美術による人間形成 第2節 自然観と生活・労働観の問題 1.戦後の民間美術教育運動 2.労働観と「生」のリアリズム 3.自然観と地域と情報社会 第3節 思春期における視覚生写実性の問題 1.視覚的傾向の芽生えから疑似写実的段階へ. 2.疑似写実的段階から決定の時期へ. 3.写実の概念と今日的問題 第2章 これからの思春期の美術教育の視点 第1節 造形遊びと造形理論からの視点 1.造形遊びの視点 2.造形理論からの視点 第2節 環境とコミュニケーション理論からの視点 1.生活環境と美術教育における潜在的カリキュラムの視点 2.学習環境とコミュニケーション 第3章 思春期の美術教育カリキュラムの作成. 第1節カリキュラムの作成モデル 第2節 カリキュラム作成の視点と手順 1.カリキュラム作成における各学年の基盤. 2.カリキュラム編成の具体化 第3節 思春期の美術教育カリキュラムの実際 おわりに. 9. 12 12 14 16 18 18 20 22. 24 24 24 26 31 31 37 43 43 53 53 58 62 77.

(3) はじめに 現在、中学校の美術教育は、教育課程の改革:にともなう時間数の削減に より、徐々に縮小の傾向がみられる。この美術教育における時間の問題は、. 戦後の美術教育において、教育政策上の授業時間数の問題としては捉えら れてきたが、制作時間や発想や鑑賞の時間を含むカリキュラムの問題とし てはあまり重視されてこなかったように思われる。さらに今日の美術教育 においても、 「海図なき航海」などと形容されるように、カリキュラムそ. のものの存在が疑われるのである。特に中学校の美術教育においては、そ の「専科制」の特質により、個々の美術教師それぞれの芸術観をもって個 々様々な内容が実践されているのが実状である。それは、戦後の美術教育 のメインテーマである「自由」と「創造」の精神をおおいに拡大させて来 たと言えるが、逆に教科「美術」と美術教師の孤立性を深め、将来の美術 教育に対する不安をより一層深めていると言えるのではないだろうか。 私は「自由」と「創造」の芸術観を否定するものではないが、 「美術」. という教科性を考える限り、その系統性を明確にし、他教科と共に総合的 に「人間形成」をめざすべきものと考える。特に小学校高学年あたりから 子どもが美術に対する興味を失ってくるという状況を美術教師の教授法の 問題にする前に、カリキュラムの問題として捉えてみたいと思う。つまり、. 子どもの造形的発達段階においてあまり明確になっていない「思春期」の 美術教育の問題に焦点をあてることによって、現代の高度情報社会の中で 失われていくアイデンティティをいかにして取り戻すかという問題に迫り たいと思う。そのためには、潜在的カリキュラムへの配慮を加えた総合的 カリキュラムの構築が不可欠であると考える。. そこで本研究では、次のような視点から、研究・考察を進めることとす る。. 1.思春期と美術教育の接点を、戦後の美術教育の実践の中から探り、そ の重要性を明らかにすると共に、思春期の美術教育の問題点を考察す る。. 2.思春期の美術教育の問題点の考察から、今日の教育問題に対応する美. 一1一.

(4) 術教育の視点を考察する。. 3.今日の教育問題に対応する美術教育の視点から、これからの思春期の 美術教育のカリキュラムを考案する。. また、本論文の構成は、第1章において、 「危機の時代」と呼ばれる思. 春期の問題を明らかにし、E・・H・エリクソンの発達論の中心概念である “アイデンティティ”とライフサイクル理論をもとにして、 「美術による. 人間形成」という美術教育の意義に関する問題を考察する。. 次に、美術教育は何に根底をおいてきたかという問題を、戦後の民間美 術教育運動に見られる、自然、生活、労働、リアリズムといった美術教育 理念の中心概念の変遷をたどり、今日の情報社会における“バーチャルリ アリティ”等に関する美術教育の問題を考察する。. さらに、美術教育を支える技術的方法の問題として、ローウェンフェル. ドの理論をもとに、小学校3,4年生頃からみられる視覚的写実傾向の芽 生えから思春期に至る過程の中に、 “視覚重視”の美術教育の今日的問題 を考察する。. 以上の問題点から、第2章において、これからの思春期の美術教育の視 点を捉えるのだが、その一つには、 「造形遊びと造形理論からの視点」が 考えられる。 「造形遊び」は、今日の社会や生活の変化にともなう多様な. 文化に対応すると共に、これまでの美術教育の原点を捉えているといえる が、遊びから造形理論への視点を、特に小学校高学年からの美術教育にお いてその系統性を明確にしていく必要があると思われる。 もう一つは、 「環境とコミュニケーション理論からの視点」である。子. どもの生活環境が今日のように変われば変わるほど、美術教育における潜 在的カリキュラムの視点が浮上してくる。子どもの多様な文化や、価値観 は単純な単線系カリキュラムでは捉えきれないであろう。この潜在的カリ キュラムの視点は、これまでの優れた美術教育の実践の中で明らかにされ なければならないと考えるが、本論文では、コミュニケーション理論から の視点を持って、新たなるカリキュラムの一指標として考えてみたい。. そして、潜在的カリキュラムを背景とし、そこに浮かび上がる三つの軸 (時間軸としての発達段階と、空間軸としてのに造形要素、および、もう 一2一.

(5) 一つの顕在的指標としてのコミュニケーション軸)を持った「カリキュラ. ムの作成モデル」によって、第3章において、思春期の美術教育カリキュ ラムの作成を試みるという構成である。. このように、時間軸と空間軸の中で、生徒が自分と自分につながるもの を確認しながら成長していく「思春期の美術教育のありかた」が本研究の 主眼である。. 一3一.

(6) 第1章 思春期の美術教育の問題点 第1節 危機の時代と人間形成の問題 多くの人は、無心で純粋な幼児の絵に心を揺さぶられ感銘を深く する。しかし、思春期になると、それまでの純粋な子どもの心が徐 々に美術から離れる変化に驚き戸惑うことも多い。また、今日のみ ならず教育荒廃や教育問題の多くはこの時期に集中する。 「美術に. よる人間形成」を中心命題に置いてきた美術教育であるが、思春期 をどのように捉えてきたのか、その根底に置いてきたものは何か、. またこれからの時代に対応した方策は在るのか、それぞれの問題点 をさぐる。. 1.思春期と危機の時代 思春期とは、生理学的には、9才頃から19才頃まで続く一連の 身体的変化(生殖能力の獲得に至る連続的な成熟の過程)の時期を. いう(注1)。・思春期の兆しは、女子は10∼12才くらいから、. 男子は12∼14才くらいに現れる(注2)肉体的変化の兆しでま ず合図されるが、しばしば本人も気づかず、幼児期と思春期の間に 断絶はないとされている。しかし、身体の発育は急速になり、それ までの時期のほぼ2倍の速度にまで達し、体力も急速に発達する。 それと共に、各種のホルモンの分泌が活発になり男子では脇毛の初 風・変声・ひげの発生・精通がみられ、女子では脇毛の発生・乳房 の発達・初潮がみられる。このような性的成熟は変化が大きく、た びたび興奮したり、気分が急激に変化するなど精神の活動にも不安 定な状況をもたらすが、発達段階においては第2次性徴と呼ばれ、 自らの性を確立させるとともに、精神的には自我を発見するための. 一4一.

(7) 重要な時期なのである。 (注3). 一般的には、思春期は少年の外的世界と内的世界との矛盾・葛藤 が急速に激化していく時期であり、 「危機の時代」と呼ばれるよう. に不安と動揺の時期であると捉えられている。つまり、少年は自己 を大人と見なしながら、同時にそのような自分を受け入れてくれな い現実の大人社会に対して、ある時は消極的な反抗を、ある時は公 然とした反抗を示し、 「指導されることを欲しなくなる」という傾. 向を示すのである。いわゆる反抗期であり、自分の自主的、主体的 判断力によって解決しようとして、他からの干渉に反抗する。また それは、逆に自分の心を閉じることによって、自我の確立を図り、 自分の主体性、自主性を整えようとしている現れでもある。つまり、. 幼年期から蓄積されてきた思考の形態や行動様式を突き破って、ま ったく新しい自分を形成しようとする時期ともいえるのである。ゆ えにそれは、少年が精神的自立を遂げようとする現れに外ならない が、大人社会の行動様式と鋭く対立するようになるのである。. このような思春期の危機の諸相は何よりも、文化的・社会的な根. 源をもっているとされる。(注4)つまり、子ども社会の内部にみ られる生活倫理と、子ども社会に対する大人の側からの生活倫理と の対立・矛盾、さらに、それと大人社会内部の生活倫理とのするど い対立・矛盾、さらに大人社会そのもののもつ社会的・文化的矛盾 や葛藤のそれへの反映という二重三重の要因をはらんでいるのであ る。 (注5)それは思春期の発達の危機そのものではなく、社会の. 急激な変化とゆがみによって、社会そのものの危機の子どもへの直 接的な反映として、非行などのさまざまな問題を現出させているの である。. (注1)思春期を年齢的に区分することについては種々の説がある. が、本論文では、小学校5,6年生から中学校3年生までの時期を 扱うものとする。. 一5一.

(8) (注2)現代は栄養の改善や文化的刺激などにより成熟促進傾向に あり個人により大きな差がある。. (注3)社会学的には、子どもが生存と成長に必要な食物、住居、. 精神的援助などを両親にまったく頼っている状態から、必要な物を ほとんど自分でまかない、個として確立して行ける大人への移行期. としてみることができる。また、心理学的には、10代前半の前青 年期から、青年前期に至る時期が対応し、幼児的行動から大人の行 動へと向かって自分自身が社会の要求に順応していく期間と考えら. れる。B/R/マッキャンドルズ/R・H・クープ著林謙治訳 『思春期』一その行動と発達のすべて一 メディアサイエンス社19. 85年P.4−5 (注4)マーガレット・ミードが調査したサモア島の社会では大人 社会と子ども社会に対する住民の要求が連続し、対立した関係をも たないので少年の肉体的変化以外の著しい精神的・感情的葛藤や緊 張が全くみられないという。. (注5)岩波講座『子どもの発達と教育5』岩波書店1979年p.45. 2.思春期の危機とアイデンティティ 思春期の危機に絡んで、社会の急激な変化とゆがみによって噴出 している様々な問題に対する有効な指導としては、思春期にふさわ しい思いきりやれる課題を用意し、それまでに欠けていた活動を思 春期にふさわしい形で取り戻すことだといわれている。 (注1). それによって、大人として生活していく展望や夢や、人間的な人 生選択の意識を取り戻すのである。というのは、今日の思春期のゆ がみのほとんどは、幼年期や少年前期の発達課題を少年自身がその 時期に充分やりとげていない上に、さらにそれに加えて、この時期 に、固有の激しい矛盾を体験せざるを得ない事から起こっているか. 一6一.

(9) らである。つまり、彼らの多くは、遊びを中心とした少年期固有の. 親密な交流や、多価的な人間関係(注2)をほとんど経験せずにき ている形跡があり、その上、テレビなどの影響によって、パタv一・・ン. 化されたイメージは持っていても、現実を確かな言語で理性的に分 析し、実生活の中で、理性的判断力を豊かに働かせた経験をほとん ど身につけていないのである。さらに、労働や仕事を通して苦しさ に耐え、集団生活の中で自己をコントロールする能力をほとんど身 につけていないと言えるのである。 (注3). エリク・H・エリクソンは、思春期の葛藤はアイデンティティ (注4)の確立とアイデンティティの混乱によってもたらされると する。その中で、孤立する苦しみや、内的統合性の欠如、広範囲に わたる恥の感覚及び行動することの難しさを経験する、このような アイデンティティの危機をうまく乗り切ると、若者は子ども時代よ りも成熟した、自己の連続性を自覚し、表面的には異なった自己の 様々な側面を統合し、さらに思想というような道徳的価値観の集成 を作り上げる。つまり、若者が全体性を経験する長い子ども時代の 中で作り上げられてきた自分と、近い将来のかくあるべき自分との 間に進歩の連続性を感じとらなければならないとする。このように、. その年齢に要求される社会的な課題を解決していく事によって、次 ぎにつながる自己の発達の連続性に注目した人間の生涯全般を展望 したライフサイクル論である。. たとえば、思春期以前(潜伏期)では、通常子ども達が仲間と協 力して様々な想像的な活動に取りかかる重要な生産的時期であるが、. 思春期においては技術や能力に対する価値観が変化し、時にはその 人の資質まで変化することもある。このため自己概念は混乱に陥り 自己評価も下がることがある。エリクソンは、この時期を「生産性 対劣等感」で特徴づけている。そして、 「私は学ぶ存在である」と. いう特徴をもつこの時期の子どもについてエリクソンは次のように 書いている。 「彼は今や〈物を生産すること〉によって認められる. ことを学ぶ。彼は生産性を発展させる。すなわち、彼は道具の世界 一7一.

(10) の無機的な法則に自分を適応させようとする。彼は生産的な状況に 熱心に没頭する一生産単位となることができるようになる。そして 生産的な状況を完成することが、自分特有な欲動や個人的失意に由 来する気まぐれや願望に、次第にとって代わる目標になる。かつて 彼は上手に歩くために、また上手に物を投げるためにたゆまない努 力を払ったが、今や彼は、物事をうまくやりたいと願う。彼は不断 の注意と長続きする忍耐によって、 「仕事を完成させる」喜びを身 につける。逆に、この段階での危険は、 「不全感」と「劣等感」の 発達である」と。 (注5)そして思春期には、 「自分とは何か」を. テーマとして本当の自分を探す中で、他人の影響から少しずつ離れ、. 自分が自分の主人公になっていくのである。この決定へのプロセス をエリクソンは「同一化」と呼んだのである。 (注6). このようにエリクソンの発達論は人間の内側の中心からみた変化 発達を問題にしている。つまり、上記の思春期にふさわしい思いき りやれる課題とは、人間存在の中核に切り込むことができるような、. 物事の本質に迫ることができる課題であるということになる。そし て、それは思春期以前(潜伏期)においては「物を生産すること」. にかかわるものであり、また思春期においては「自分とは何か」と いう人間の生涯の中心テーマなのである。ここに、この時期におけ る美術教育の重要性が浮かび上がってくるのである。. 「物を生産する」当の制作者となり、その人間存在の中核に自ら 切り込むようにすることが、思春期の生徒を表現に引き込む方法で ある。内面的にも社会的にも、アイデンティティ、つまり人間存在 の中心に向かわせる課題を用意することが、思春期の生徒には必要 であると共に、美術教育の中で重視されなければならないのである。. (注1)今日の思春期のゆがみを持っている少年自身の内部に思春 期らしい内的矛盾一人間的な発達の原動力としての一を引き起こす 要因を喚起するために、思春期にふさわしい思いきりやれる課題を 一8一.

(11) 用意し、それまでに欠けていた活動を思春期にふさわしい形で取り. 戻すこと。岩波講座r子どもの発達と教育5』岩波書店1979年p. 49. (注2)少年は、多くの人々に接し、他と比較しながら対応し、以 前には気づかなかった新たな事実を発見していき、また、矛盾や葛 藤を経験しながら、それぞれに対して自分の態度を仕分し、人々を 見る目を次第に相対化させ、人々の社会的位置や立場の違いにも気 づいていく。そのような多くの価値観に接することができる人間関. 係を指す。岩波講座『子どもの発達と教育5』岩波書店1979年p. 19−21. (注3)前掲書p.48. (注4)アイデンティティとは、本来自我同一性であり、自己定義、 自己限定、存在証明、主体性、自覚などと訳される。 「私は何なに. なのだ」という強い実感を言うのであって、今の自分は、すべての 問題をその一点からしか捉えられないと言うほど重要な自己意識で. ある。岩波講座r子どもの発達と教育6』岩波書店1979年p.10 (注5)エリク・H・エリクソン著『自我同一性』誠信書房1973年 p. 106−107. (注6)鐘幹八郎著『アイデンティティの心理学』講談社1990年p, 61. 3.美術による人間形成 それではここで、人間存在の中心に向かわせるべき教育、なかで も人間形成を中心命題に置いてきた美術教育に焦点をあててみる。 その前にまず、教育の一般的概念を明らかにすれば、 「教育とはそ. れに固有な理念の限定としての人間像の形成により、人間の共同体 としての社会的規範性において自らの理念を現実化する現象のこと. 一9一.

(12) である」従って、 「教育の現象契機として、①理念②人間像③その. 形成④人間の共同体の四つを揚げることができる」ということにな る。即ち教育とは、人間から人間を外へ引き出し(人間の内なるも のを外化し)、人間であることを明らかにし、それを人間の共同体 内に位置づけることである。 (注1). ここでいう教育の①理念に添った美術教育の理念を考えるとすれ ば、 「思春期の美術は、内心を表現することによって人間存在とし ての自己を捉えなおし、美的な感情において統一できる。」 (注. 2)ということになる。そこには、美術表現は表現材料がなければ 出来ないが、それとまったく同様に、表現された経験に自己同一化 して、感情が伴わなくては、表現は出来ない。 (注3)という美術. 教育の原則的な特性が存在する。ゆえに、それぞれの発達段階の中 で、感情を伴った表現行為によって自己のアイデンティティを獲得 していくという経験によって、思春期の危機を乗り越えていくとい う課題が美術教育には課せられていると考えたい。. 次に②人間像③その形成においては、つまり「人間が人間にな る」過程を考えれば、 「人間の教育は人間の生や生成、あるいは存. 在をぬきにしては考えることが出来ないのであるから、人間の生の 自然性と人間が人間になる人間性との同時的展開を、人間が生きる ことの全過程として認めなければならないだろう。」 (注4)とい. うことになる。そのためには、その生徒に心からの叫びという機会 を与えるとともに、自分の精神の成長の過程を自分で凝視させるこ とが必要となる。そして時には、その子にふさわしい抵抗感のある 課題や素材を与えることによって、困難を克服してやり遂げた後の 喜びの大きさを知らせることもできるのである。. そして、それを④人間の共同体内に位置づけることこそ思春期の 美術教育の最重点課題であると考えられる。 「人間の自然的生理的. 機能の成熟は、そのままでは人間的な成熟を意味しない。生理的な 成熟の時期に文化を受容することによって始めて人間的な機能に変 化発達するのである。」 (注5)といえる。人格の形成期に苦悩に 一10一.

(13) 満ちた経験をし、そこを通り抜けた経験によって、その後の長い人 生において深みのあるパーソナリティをつくりあげることができる。. またそうした心情を表現する場を獲得し、それを芸術として昇華す ることが必要である。. 故に、この時期の芸術教育は、その生徒の人生に重要な転機とな るはずである。. このように、思春期は試行錯誤を繰り返し、模索しつつ自立に向 かって歩む時期であるが、現在はそれが強い孤立となって現れる傾 向がある。また社会的に人間性の共有を感じにくい状況が進んでい る。 (注6)しかし、そうした状況においてこそ人間性の深さ広さ. に理解を深めること、それによって生きることへの意志と期待を育 てることは何としても重要であると思われる。ゆえに、思春期の美 術教育は、幼児や児童期のものより、人生の深みが求められてくる とともに、人間存在の中心に目覚めることの喜びとにかかわってく るものと言えるのではないだろうか。. (注1)石川毅編『総合教科「芸術」の教科過程と教授法の研究』. 多賀出版1996年p.15 (注2)美術教育を進める会編『思春期の美術教育』あゆみ出版19. 92年p,36 (注3)V.ローウェンフェルド著 竹内清・堀内敏・武井勝雄共 訳 r美術による人間形成』黎明書房1963年P.52. (注4) (注1)と特掲書p.5 (注5)鈴木祥蔵編『美術教育の理論と実践』明治図書1979年p. 5. (注6)アイデンティティ拡散の様相。岩波講座『子どもの発達と. 教育6』岩波書店1979年p.42. 一11一.

(14) 第2節 自然観と生活・労働観の問題 では、美術教育は、人間存在の中心に迫ることについて何を中心 に置いたのであろうか。. 戦後の美術教育の歴史をたどれば、その思想の中心は圧倒的に児 童中心主義であり、自然成長論的であった。つまり、戦前の実用 (技術)主義に対して「子どもの内なる自然を見つめ、その成長を. 見守る」という美術教育論である。やがてそれは、自然に密着した 家族生活を中心にした家族との深いかかわりや、 「物を生産する」. という労働観に伴う親からの文化の伝承をもとにして、人間の内面 世界の真実の発見を、子どもを申心にして展開した。さらにそれは、. 子どもの現実生活を基底として、そこから問題を発見し、新しい方 向を開拓しようとする動きに発展する。 (注1). ところが社会の変化に伴う生活の変化は、美術教育が人間の根源 的な活動として捉えてきた「労働」観の変化を伴い、精神労働と肉 体労働の分裂をも産んだ。それに伴い美術教育は、今日の高度情報 化社会に適応しなくなってきたように思われる。. では、これからの美術教育に必要な要素は何なのか、戦後の美術 教育の流れから検討してみたい。. 1.戦後の民間美術教育運動 戦後の美術教育は、民間美術教育運動により主導的に展開されて きたと言ってよい。中でも、創造主義の美術教育〈創造美育協会〉. と、生活認識の美術教育〈新しい絵の会〉は、日本の美術教育(公 教育)に大きな影響を与えたと思われる。. 〈創造美育協会〉は、戦前の自由画教育運動(注2)の流れを汲 み、自然主義的な人間観と美術の心理的な機能の結合を持って、 「自己実現」を目指した。いわゆる人間形成と自由をうたい、 「子. 一12一.

(15) どもの内なる自然の芽を見つめること」を中心にした教育論である。. つまり、その出発点は戦前の実用(技術)主義教育に対する子ども の内面の自由(大人も同様に)への回帰にある。やがて、その主張 は日本的「自然観」 (注3)に密着し、感覚的に、 「子どもの内な. る自然」 (注4)を通して人間形成をはかろうとする。. それに対し、 〈新しい絵の会〉は、子どもの現実生活を軸に美術. 教育を構造化する事によって社会との関係の中で人間と教育を捉え 直そうとした。その中で生まれたのが「生活画」 (注5)であり、. 身近な生活の中に見るという直接的行為と、具体的な感情体験を核 として、生活とは何か、社会とは何かを問うことへ導こうとした。. ところが、物質文明の発達は、我々をとりまく環境を短期的に人 工化し、急速に自然を破壊してしまった。物は豊かになったが、子 どもたちは自然とのつきあいを断ち切られ、ニューメディアと共に 家の中に閉じ込められてしまった。自然破壊の進行は、今では人類 滅亡への地球規模の環境問題となっている。また、当然、家族形態 や地域集団も変化し、社会や労働観も変化してきた。それとともに 「生活」を二丁とする民間教育運動も低調になってきたようである。. (注1)宮脇理編r現代美術教育論』一1』945以降の美術教育の総括. 一二三社1985年p,9 (注2)大正期に山本 鼎が提唱した美術教育運動。 「…. 児童. 等は『自然』との間に直接に画を産みながらひとりでに美を味解し てゆくでしょう…. 」というような、主観によって対象を捉え、. 表し、かつそれを成長せしめることが全くの自由の中で行われなく てはならないとした。橋本泰幸著『日本の美術教育』明治図書1994. 年p,154 (注3)花鳥風月などの山川の自然に対する「自然と共に自然に生 きる」といった自然観。赤木里香丁丁『いま, 「自然」を考える』 一13一.

(16) 1986年『造形ニュース』vol.279p.3 (注4)人間の「天賦の本性」すなわち人間に内在するhuman natu re(人間性)。. (注5)美術と子どもたちの生活意識をつなごうとする試み。くら しの絵。 「そこに生きている」という個々の子どもの自我意識を軸. として、そこでの生き方、くらしのあり方、願望といったものを、. 形象化を通して追求する中で、どう生きるべきか、如何にあるべき かを客観的に見いだそうとした。 (注1)と同掲書p,10. 2.労働観と「生」のリアリズム では、物を作る価値、労働の喜び、生きる力といった労働観を中 心とした社会的生活リアリズムの視点は、失われてしまったのであ ろうか。. 「生活綴方教育」 (注1)は、生活そのものに戻って、教科書で. 作られる概念を砕き、自分の身体で捉えた「生」の生活現実を学ぶ ことによって、正しいものの見方、考え方、感じ方を育てようとし. た。生活綴方教育から流れているリアリズム(注2)は、子供達の 生活を掘り起こし「生活」と「生」の意味を学ばせてきた。そして、. その生活を見つめることの中から自分の中に隠されたものを見つけ だすことを、美術教育の中で行ってきたと言える。ここに「生活リ アリズム」において、現実の背後にかくされた本質を形象としてど う表現するかという問題が定義されているのを見ることができる。. こうして「生活」を視点とする民間教育運動は、子どもの生活を掘 り起こし、その生活に気づかせることを、教育のリアリズムの方法 で果たすことができるとしてきた。. これは現代においても、人間の権利としての労働観が、労働の遂 行そのものの中でどう具体化されていくかを明確にし、それにとも. 一14一.

(17) なう共同の利益を民主的討論のもとで目標化し、協力・i援助を教育. 的に組織化することによって大きな教育的成果をあげてきたといえ る。つまり、労働・仕事の楽しさは、決して「汗を流して働く喜 び」の体験だけでなく、必要の充足が、さらにその欲求による人間 的豊かさの進化を促していき、享受の能力そのものを高めて、知的 学習への接合がはかられるという教育的効果をも産みだしたのであ る。よって「学校における集団的活動が、生徒の参加を保証し、民 主的な討論・決定の過程を経て、学校生活の文化性を高める。」 (注3)ということにもつながっていたのである。. ところが、物質文明の発達にともなう社会や労働観の変化は、芸 術のリアリティの問題をも変化させてきた。芸術における近代主義 は、 「見えるもの」の表現に重点をおく写実主義の批判から出発す る。 (注4)現代社会におけるリアリズムの芸術のリアリティは、. 現実の日常性の次元ではなかなか見えない問題に立ち向かっている かどうかによって決定される。. (注1) 「生活綴方とは、生活者である子どもたち(またはおと. な)が、外界の自然や社会、人間の事物、または自他の精神の内部 にふれたときに、考えたことや感じたこと、つかみとったものを、. それが出てきたもとにある事物の形や動きとともにありのままに具 体的にいきいきと文章に表現したものをいう。」鈴木祥蔵編『美術. 教育の理論と実践』明治図書1979年p.65 (注2)中井正一は、 「芸術は、夢でもなく想像でもなく、現実の. 根底に横たわっている矛盾をより深い視覚を持って、貫き見る世界 である。かかる矛盾の直視こそが、リアリズムとわれわれがいうと ころのものである。この意味に置いて、芸術は常にリアリズムの上 に立っているといえるのである。リアリズムとは、現実が常に真実 である、いいかえれば、それが過失を犯したとき、その過失が隠さ れることなく誤りとして現実の中に現れること、真実は、常に真実 一15一.

(18) に帰る場所であるべきことを信ずるものの堅塁である」と言ってい る。久野収編『中井正一全集2』 「美学概論」美術出版社1981年p. 313−354. (注3)岩波講座『子どもの発達と教育5』岩波書店1979年p.26 5. (注4) (注1)と同下書p.85. 3.自然観と地域と情報社会 現代社会においては、生活と労働観の問題は、自然と人間という 基本軸をも変質させている。. かつて人間は、自然の深い秩序に直面して、むしろ人間の生活の 迷いを迷いとして知らされるそのときの驚きの中に美があることを 発見してきた。 「いわば自然を媒介として、人間が人間の本質の前. に自分自身を対象とする事、この否定の契機の申に美は潜んでい る」 (注1)ということである。つまり、人間の生活から自然の美 が発見され、自然の深い真理が露呈してあらわれてくるだけでなく、. 実は自然にも生活があり、生活の長い歴史があり、その生活は矛盾 と緊張の連続としての戦いであり、その中で自己の同一性を保とう としてきた努力の歴史として、我々に感動としての美が感じられる ということである。 (注2)近代は、こうした自己の〈内なるも. の〉と我々文明の〈外なるもの〉としての自然との関係の中で獲得 される個人の自己同一性と、自然と文明との関係において把握され る文明の独立性を信じたところに成り立ってきたと考えられる。 (注3). ところが、現代社会においては、大人の生活が変わっただけでな く、子どもの生活も変わったことが、最も大きな問題である。子ど もにも生活がなくなり、生き生きとした感動や、自然の美しさにさ. 一16一.

(19) え気づかなくなってきているのではないかという危惧を通り越し、 高度情報化社会の中で、もはや直接的な体験ではなく、間接i的な疑 似体験の上に置かれていると言える。. まだしも自然が身近に存在している地域に於いては、直接体験を めざした地域に根ざした美術教育が行われているが、その中でも、 マスメディアによる視覚的世界は拡大している。これをどう扱うか、. 自然や物に感動し愛する心、文化遺産の伝承など、見るという直接 体験により獲得してきた美術教育の本質が問われているといえる。. では、都市部ではどうか、あふれる人工物と映像の中で、マスメ ディアにあふれるイメージこそが我々の日常のもっとも身近な体験 とさえ思える現代の生活では文化、文明こそが新しい自然「第二の 自然」になったと言えるだろう。かつて芸術は素朴な自然について 思いをめぐらすことだったが、現代の芸術は文化文明についての考 察という面が強くなったと言える。 (注4)つまり環境として我々. を取り巻き、生存の基盤を与えてくれる「自然」と、いかにかかわ るかを現代の美術教育は問い直さなければならない。. (注1) 「自然の深い秩序に面して、人間の迷いを迷いきって、生. 活を迷いとして知ること、その前に「ハッ」と驚くこと、この驚き、 この機が、いわゆる美の世界である。」久野収編『中井正一全集』. 「美学概論」美術出版社1981年p.347 (注2)鈴木祥蔵編『美術教育の理論と実践』明治図書1979年p. 37. (注3)個としての人間の内なる自然と、それと相対する大いなる 自然とが時にぶつかりあい、時に調和する時人間は自己に目覚める。 赤木里香子著rいま, 「自然」を考える』1986年『造形ニュース』 voL 279一 p. 7. 8. (注4)菅原教夫著rやさしい美術』読売新聞社1992年p.80. 一17一.

(20) 第3節 思春期における視覚的写実性の問題 では、もはや直接的な体験ではなく、間接的な疑似体験の上に置 かれていると言える現代の高度情報化社会の申で、見るという直接 体験により様々なものを獲得してきた美術教育はどこに向かうので あろうか。. この「見る」という直接体験により我々は何を発見してきたか、 視覚的傾向の芽生えから視覚的写実性の問題を考察する。. 1.視覚的傾向の芽生えから疑似写実的段階へ 子どもの絵は、幼児から青年に向かって直線的に発達するわけで はなく、一つには閉鎖と解放のような異質な構造を交替させながら 反抗したり順応したりの生き方を構造的に繰り返しつつ成長する。. また、ある水準を横ばいに経験し、その経験を量的に蓄積し、ある 時突然次の段階に向かって質的に転換するという構造で発達する。. 美術の表現もまた同じことで、スクリプルの経験の量が積み上げら れ限界を越えて、次の象徴表現に転換する。象徴の量的蓄積が限界 を越えるほど蓄積されて、次の知的写実期に転換される。 (注1). たとえば、このスクリプルの経験期の子どもは、視覚的経験と関 連づけて身体動作を統制するまでに発達していないので、写実を強 要することは間違っているとされている。ローウェンフェルドは 「もし子供が、なぐり描き時代に、大きな確信をもって自分の動き. を反復したり、独自の適当な方法で重要性を表現したり、また自分 の空間経験を感じたり、表現したりすることによって、十分に自己 表現するなら、そういう創作品によって、大きな仕事を仕遂げたと いう深い満足感を得るに違いない。しかも、われわれは誰でも、成 功が確信を生み出すことを知っている。自信を失うことで、ほとん. 一18一.

(21) ど総ての情緒的、精神的不安が生ずることは確実であるから、子供 の創作能力を適度に刺激することは、このような不安から子供を守 ることになるのである。」 (注2)と言っている。. このように、深い満足感と自信を得ることによ’って次の段階へと 誘う教育的配慮が必要なのである。. やがて、小学校中学年頃より子どもの視覚概念の意識は拡大し、 それまでの基底線は空間再現の媒介物としての意義を失い、 「重な. り合い」を知るようになる。つまり他の物の存在を意識するように なり、空間の相互関係を認識するようになるということである。し かし明暗は対照的要素として用いられるだけで光と影に関する効果 はまだ取り入れられていないのが一般的である。. 子どもの認識の発達段階においても、ここに重要な節が存在する といわれている。それは、具体的思考操作の発達につれて、次の段. 階(形式的操作の段階)へ飛躍していく前段階として、子どもが9 才頃から、具体的な場面をある程度はなれても、演繹的推論ができ るようになるという事実である。つまり、子どもが対象をじっと見. ながら描けるようになるのは7才頃からといわれているが、9才頃 から事物を構図の中に位置づけ、その大小や遠近、重なりなどを配 慮しながら描けるようになるということである。ただしその際、子 どもが用いる推理や判断の方法はまだ直感作用に依存しており、情 報を、まだ記号による関係のイメージでしかつかめないということ には注意すべきである。 (注3). ローウェンフェルドは、 「この決定的な期間中に、美術教師は、. 子どもが単なる写真的模写にふけることを防がねばならない。美術 の仕事は物体それ自体の再現ではない。むしろ、それは特定の対象 についての我々の経験の再現である。単なる写真的模写は、自分自 身の経験に自己同一化する機会を子どもから奪ってしまうだろ う。」と言い、発達過程にある子どもの中に深く根をおろしている 現実についての視覚概念(写実の概念)の重要性を説いている。 (注4). 一19一.

(22) さらにこの時期の子どもに自信をもたせるために、子どもの自己 意識を強調し、教室内の討論によって、新たに発見された平面の空 間経験と自己とを関係づけるべきであるとしている。 (注5). (注1)美術教育を進める丁丁『思春期の美術教育』あゆみ出版19. 92年p.37 (注2)V.ローウェンフェルド著 竹内清・堀内敏・武井勝雄共 訳『美術による人間形成』黎明書房1963年p.49. (注3)岩波講座『子どもの発達と教育5』岩波書店1979年p.15 −18. (注4) (注2)と下掲書p.237−238. (注5) (注2)と同掲書p.255. 2.疑似写実的段階から決定の時期へ 小学校高学年の子どもは、精神的にも、社会的にも、自分が環境 の一部であることを発見するようになり、視覚的写実性が芽生えて くる。しかも、制作過程より完成品を重視する傾向が生まれてくる。. ここで注意すべきことは、新しく芽生えてきたく視覚的刺激〉に対 して、それまでのく主観的経験〉とのバランスをとることである。. この2つは、思春期において統合されるが、それに至る前に自信を 失うという状況が生まれることが多く、この時期に美術に興味をな くす子どもが多くなると思われる。 (注1). 中学校になると、見たところを写すというより相当深い「感じ」 をつかむことを目的とし、空間的であり、明暗の段階に深みがあり、. 内部の構造を感じて表現しようとする。いわば直接手で触れること のできない部分に目が広がってくる。. 一20一.

(23) また、何らかの存在の法則を探る要求が働いてくる。内面が広が り、自己に対する認識が深まり、ものの見方・感じかたを変える。. 思春期は、自分自身の感じ方をつくろうとするとともに、論理を尊 重する時期である。. ゆえに、主題性が強くなる。自分の主題がはっきりすると意欲が わく。そして、心に描いているテーマの質的な掘り下げと形象化の 往復運動は、有機的にからみあっていき、それは避けて通ることの できない第二のステップとなる。. また、表現方法が多様化するのも思春期の特色である。. 中学校3年くらいになると、その環境についてだけでなく、自分 の作った作品についても批判的に注意するようになり、作品の完成 度を重視するようになる。. ローウェンフェルドは、いかにして美術教育が、青年期の危機を やわらげるのに役立っかを、 〈視覚型〉とく触覚型〉の分類によっ. て説明しながら、それぞれの子どもの中から生まれてくる経験を用 いる方法を勧めている。つまり、視覚的経験と主観的経験の二つの 感覚反応が現れるということに対応している。ゆえに教師は、その 両方を共に刺激することが重要であるとされている。. (注1)ローウェンフェルドは、伝統的美術教育は、主に視覚的刺 激で築き上げられていることに対して、現代表現主義的美術が現代 生活における非視覚的刺激の重要性を明白にしていることに注目す べきだとしている。それは、非視覚的傾向の者は表現的であり、そ の主観的解釈は身体的自己と外界との情緒的関係を強調するもので. あるという認識にもとづいているからである。V.ローウェンフェ ルド著 竹内清・堀内敏・武井勝雄共訳『美術による人間形成』黎. 明書房1963年p.277. 一21一.

(24) 3.写実の概念と今日的問題 「美術の仕事は、特定の対象についての我々の経験の再現であ る。」とローウェンフェルドは言っているが、これは、発達過程に ある子どもの中に、現実についての視覚概念が深く根を下ろしてい るという認識に基づいていて、美術の表現行為を、自分自身の経験 に自己同一化(注1)する機会であると捉えているからである。 それに対して、現代美術や、創造力、感性の問題の捉え方によっ て見えざるものの価値の強調が叫ばれ、コンピューターによるバー チャル・リアリティへの傾倒も見られ、様々な表現が生まれている。. これら様々な表現の可能性を重視することが、これからの美術教育 方向であろうか。. しかし、写実的表現は必然的に身近な周囲に目を向けさせること や、写実的表現はきわめて人間的なものとして人類史の中に引き継 がれてきたことを考えるなら、思春期の写実的表現の特徴と意義に 強い論理的な骨組みがあることがわかる。また、写実的表現は、形 態の認識と生命への感動にふれることにより、心の内と外を結びつ け自らの存在を確かめる総合的な学習になるのである。. ところが現代では、目に見えるものの進歩の中で見えないものを 忘れ去り、見えないものとの調和を失ってしまっている。それとと もに、自分自身の経験そのものと、自己同一化する機会が希薄であ る。つまり、今日のブラウン管を通したメディアによる視覚型文化 は視覚優位の現状を生み出し、総合的感覚による経験を希薄なもの にしてきたと言える。 (注2). なれば、それに切り込むものとして、ローウェンフェルドが示し た〈視覚型〉に対する〈触覚型〉の分析に、今日の物質文明が失っ た〈見えざるものの価値〉につながるものが見えるように思えるの である。ローウェンフェルドは、 〈触覚型〉は自我によって自己の. 経験を投影するので、その絵画的表現は非常に主観的であるとして. 一22一.

(25) いるが、その自我が、形状や輪郭の身体的、情緒的、知的な理解を 統合した結果がその形式的特質をなしている絵画の中の真の役割を 果たすものとして投影され、大きさや空間はそれらの持つ情緒的な 価値の大きさや重要さによって決定されるという重要な指摘をして いる。 (注3)つまり、 〈視覚型〉は経験を身体的感覚の中に求め. ないで、身体の外に求めるゆえ、自我は単にその内容を評価するに すぎないのであるが、 〈触覚型〉の経験は全体的な身体の中に生起. するのであるから、その限定性故に自我に帰せられる重要性は増す のである。従って、自我の意義と重要性が非常に強調されることに なる。 (注4)これは思春期の美術教育にとって重要なことがらで あり、 〈見えざるものの価値〉の発見につながる、心の内と外を結. びつけ自らの存在を確かめようとする今日の写実の概念の中心と捉 えるべきであろう。. (注1)V.ローウェンフェルド著 竹内清・堀内敏・武井勝雄共 訳『美術による人間形成』黎明書房1963年p.237 (注2)宮脇理編rデザイン教育ダイナミズム』建吊社1993年p. 124. (注3)ここでいう絵画の中の真の役割とは. 「創作活動は個人に. とって自然のはけ口となり、表現の手段となる」という思春期の美 術教育における役割である。 (注1)と同掲書p.332 (注4) (注1)と同掲書p.339. 一23一.

(26) 第2章 これからの思春期の美術教育の視点 現代情報社会に於いて、人間存在の中心に触れるとともに、見え ざるものの価値をどう獲得するか、美術教育はその原点に帰る必要 がある。. 第1節 造形遊びと造形理論からの視点 「芸術は自己実現の巧みな活動であったが、それは自然から人間 への進化発展の必然がもたらす遊びから始まった。その遊びも、人 間内部での自然的人間から人間への目覚めとしての抽象といえよ う。」 (注1)と言われるように、自然を失った今日の物質文明の. 中ではく造形遊び〉は新しい自然という「もの」を作るものである と言えるようである。. 1.造形遊びの視点 「遊びとは、自己が本当に望んでいるもの・自己にとって価値あ ると思うものを〈追求することそれ自体〉を喜びとする状態である。. 言い換えれば、遊びとは、純粋に自己のためだけに行う行為、つま りその形式だけに目的がある行為である。」 (注2)といわれるよ. うに、遊びは自己にとって純粋であり、遊ぶことも、遊びそれ自体 を創造することも意義がある。なおかつ、遊びの創造可能性は、現 代という状況下において、またどんな地域においても、今なお潜在 していると言えるのである。. この事に注目した「造形遊び」は、人類が行った最も原始的で本 質:的な体験を子供たちに与える、自然環境の中で身につける現体験、. 自然の素材のもつ美しさ、不思議さ、多様さ、抵抗の強さを体験の. 一24一.

(27) 中で知り、そこに人の手を加えることの意味を考える学習である。 『小学校学習指導要領「造形遊び」の目標及び内容』には、 (1)材料をもとにして楽しく造形活動ができるようにする。. ア 砂、土、粘土などの材料に親しみ、それらをもとに体全体を 使う造形遊びをすること。. イ 身近な自然物や人工の材料の形や色などに関心を持ち、それ らを並べる、積む、版にして写すなどの思いついた造形遊び をすること。. 等が揚げられ、次に、 「造形遊びを工夫する」では、集める、特. 徴を生かす、それを確かめる、新しい形を作る、その形から発想す る、みんなで発想する、とある。このように、 「造形遊び」は、造. 形的な表現活動の一種であり、その呼称である。. つまり、現代社会において子どもの生活は変化したが、子どもの 遊びには、自発性、柔軟性、想像性、行為性など、造形活動に不可 欠な要素が存在する。その点に着目して、従来の労働や生活の視点 に対して、自然や物とのふれ合いを中心に、子どもの身体性に重点 を置いているものと思われる。要するに、原材としての素材に立ち 向かうところに生活を創造する力の根源を見ることができるのであ る。. また、それだけでなく、素材を扱う道具にも注目しなければなら ない。発達段階を踏んだ道具の系列や道具を使いこなす力と意欲的 に作ろうとする意気込みとの間には深いつながりがあるのであって、. 道具を用いて、人の手を加えることの意味を通して、人類が行った 最も原始的で本質的な体験をすることができる。. 現代社会に溢れんばかりの物との直接体験は必然であり、原初的 な身体感覚から造形活動へと導こうとする視点は現代の美術教育に 適応していると思われるが、時間的な問題や、思春期の美術教育へ のつながりの問題を明確にする必要がある。つまり、幼児期では遊 びそのものが発達の土台であり、小学校ではそこに学習の裏付けを ともなってイメージに見通しを持たせるが、思春期では本物を作ら 一25一.

(28) なければ生徒は意義を感じないのである。この本物につながる人間 存在の中心をうかがうものをどう具体化して表現するかという問題 である。. (注1)石川毅編『総合教科「芸術」の教科過程と教授法の研究』. 多賀出版1996年p.333. (注2)前掲書p.317. 2.造形理論からの視点 現在の指導要領などにおいても最も不明確な部分である。歴史的 にも、 「美術による人間形成」という美術教育の理念が重要視され、. 造形理論の系統性が明確にされてこなかったのではないかと思われ る。唯一、バウハウスの造形理論が日本に導入され構成教育体系が つくられた経緯があるが、それもデザインの基礎訓練に変質してし まった歴史がみられる。 (注1)しかし、 「デザイン」本来の総合. 性や、造形要素を越えた造形理論を明確にすることはこれからの美 術教育にとっては最も重要であると思われる。. なぜなら、思春期は、緻密な仕事、根気のいる仕事の出来る時期 だが、表面的なものに終わるのでなく、内面に向かうもの、深い愛 を感じさせるものへの取り組みを大切にしていく時期である。また それとともに、こころのイメージをどのように具体化して現実に表 現していくかということのための技術の体系を学ぶ必要があるから である。そのためには思索のための充分な時間と試行錯誤が不可欠 であり、思春期の美術教育においてはそのこと自体が思春期の生徒. にとって重要であることを第1章で述べたが、そのもっとも中心と なるべきものは、それを裏付ける明確な技術の体系である。 L.マンフォードは、その著『芸術と技術』のなかで、 「芸術も. 一26一.

(29) 技術もともに人間有機体の構成的な面をあらわします。芸術は人間 の内面的、主観的な側面を代表しており、その表象的構成はすべて それによって彼の心の中の状態を外に表現し投影することができる ようになった語彙と言葉を発明しようとする多大の努力のあらわれ であり、わけても人間の情緒、感情、生の価値と意味に関する直感 に、具体的で公共的な形式を與えようとする努力でありました。こ れと反対に、技術は人間が生活の外的条件に対処しそれを征服し、 自然力を支配し、そして人間の自然的な器官の力と機械的能力とを、. 実用と操作の面から拡張しようとする必要から主として発展するも のであります。技術と芸術とは、いろいろな時代に効果的に一つに 結びついてきましたが一それゆえ例えば五世紀のギリシャ人は、技 術という言葉を美術と実用との両方に、つまり彫刻にも石切りにも 用いたのであります一今日ではこの表裏一体の二面は遠く引き離さ れてしまいました。」 (注2)と言っている。この遠く引き離され. た技術の獲得こそ最も必要なものであるのだが、それが近代国家の 産業振興策と結びついたり、現代の商業デザインとの相乗効果をめ ざした、ますます芸術と遠く引き離されたものとなってしまったの である。. しかし、いかに方向が間違ったと言えども、そこには最小限の重 要な造形要素が存在しているはずである。しかもそれは“教えられ ないもの”ではなく、 “人間ならだれしも獲得すべきもの”である. はずである。それは初期のバウハウス(注3)において、ごく普通 の人が持っている潜在的な能力の開発に主眼がおかれた「予備教 育」のなかにも見られたものであり、いままでの、石膏デッサンか ら始まる狭い専門分野における一つのスタイルの拾得をめざした古 い美術教育の中にはないものである。そういう主旨を持った教育は 「構成教育」 (注4)と呼ばれ、 「マテリアルの純粋な性質や可能. 性について、またヴォリウム、スペース、色彩、光、運動などの造 形エレメントについて、生理学的、心理学的、物理学的な性質につ いての理解とともに、書物によって得ることのできない、情緒的体 一27一.

(30) 験による把握によって、個人の造形的創造力を完全に発展させるこ と」を目的としている。. つまり、この“情緒的体験による把握”が大切であって、これは 前述のマンフォードのいう「人間の情緒、感情、生の価値と意味に 関する直感に、具体的で公共的な形式を與えようとする努力」によ る芸術的把握である。例えば「色彩」や「形」は我々の造形表現の 要素の中ではきわめて古い歴史を持っているものであるが、それ自 体が見る人に情緒的効果を与える造形要素であることが理解され、. それが理論でなく具体的な実験的練習を積み重ねることによって系 統的感覚的に把握することが必要なのである。 (注5)つまり、マ. ンフォードのいう芸術と技術の統合の意味がそこにあるのであるの であって、バウハウスからの「構成教育」の流れの中にそれを見る ことができるように思うのである。. 初期バウハウスにおいて、ヨハネス・イッテン(注6)は、これ を対照性(コントラスト)に関する学習において明らかにし、造形 教育の基礎としている。 「地球上に存在する生命と美が、北極から. 南極にかけてのあらゆる自然界の中に繰りひろげられているように、. コントラストの両極間の各階層には、コントラストの世界の生命と 美が秘められ、それが植えつけられているのである。明一暗のコン トラストの効果とともに、白一丁の間にある無限の色調段階や色彩 のヴァリューの中にもまた、芸術的応用の無限の可能性が横たわっ ている。黒と白とは回帰点であって、明一暗の性質の終点ではない。. コントラストの性質を持つ他のすべての両極は、いずれも造形的に きわめて重要な意義を持ち、その表現技能としての可能性は無限で ある。」と言っている。 (注7)そして、色彩の研究において、造. 形的にはっきりした七つのコントラスト効果を示し、最終的に 〔夜〕 〔洗礼〕 〔葬送〕 〔博覧会〕 〔四季〕といったような「テー. マ」を与えて、色彩による造形表現が高い価値を持つ作品を作り上 げるというような課題を与えている。 (注8)これは現在の日本の. 中学校のデザイン教育の中で12色相環を中心にした色彩学習とし 一28一.

(31) てよく用いられているものであるが、残念ながら形式的な内容にな っている場合が多いように思われる。なぜなら、色彩の造形要素と しての認識だけをを目的とするものが多く、 “情緒的体験による把. 握”に至る授業プロセスが欠けているからである。今日のデザイン 教育の欠陥がここにみられるのである。. ヨハネス・イッテンは、これらの色彩の調和におけるさまざまな 変化を用いて、心理的な造形活動がどのような範囲まで可能である かを認識するために、学生たちは“幻想をかりたてる自由なテーマ ”を展開できるいろいろな問題を究明すべきであるとしている。そ してイッテンのいう〔実験一理解一技能(造形)〕の原則(注9) を持って、研究テーマに対する生き生きした感情を湧き起こさせる ように、テーマに対する知性的分析と理解に導くとともに、基本練 習を欠かさず、基本的かつ総合的な課題研究となるよう実践してい る。これが“情緒的体験による把握”といわれるものであるといえ る。これによってはじめて、造形要素を越えた造形理論を明確にす ることができるのである。. では、さまざまな造形要素の学習範囲はいかなるものであろうか。. イッテンは最初に〈造形の基礎としての明暗のコントラスト〉をあ げコントラストの世界の生命と美に注目し、次第に〈色彩〉におけ るさまざまなコントラストに進み、次に〈造形材料と材質感につい て〉触覚的特質を審美的感覚に訴えてそれを体験してみることを大 切にしながら、 〈形体の研究〉を行っている。バウハウスは建築を. 最終目的としているので幾何学形体の研究が中心となったが、構成 教育として、主にアクセントやリズムという造形要素の重要性を明 らかにしている。イッテンは、これらの造形要素を、学生にさまざ まな作品分析を行わせることによって知的理解に導いているのであ るが、思春期の美術教育においては生徒の発達段階を十分考慮して 扱う必要がある。. またこれらの造形要素はさまざまな芸術のなかに共通するもので あって、美術教育のせまい範囲だけでなく、さまざまな学習の総合 一29一.

(32) 的なフィールドにおいてこそ、より明確にその生命感を得ることが できるものと思われる。たとえば、アクセントは、作品に緊張感を 与え、見る人の目をそこに引きつける働きをするが、その構成効果 は、音楽、詩、文章等や、さらに広く生活の中にも適用されるもの であり、それら相互の実体験の中でこそより明確な生命感を持って くるものと思われる。我々はそういった学習環境を設定する必要が あるのである。 (注10). (注1)構成教育はバウハウスというデザイン学校の基礎教育を受 け継いだものとして歓迎され、デザイン領域の基礎という実に狭い 解釈が成立し、また戦後の復興期のデザインブームとの関係で、単 にデザイナーのやっている仕事をまねて、ちょっとミニチュアにし て分節化して児童生徒に与えるという表面的形式的デザイン教育が おこなわれた。藤沢英昭著r平面構成』開隆堂1982一構i成教育の流 れ一より。. (注2)L.マンフォード著『芸術と技術』岩波書店1954p.36 (注3)1919年ドイツのワイマールでワルター・グロピウスを校長 として設立された国立美術学校。1926年にデッサウに移転。1930年 ミースニファン=デル=ローエが校長となり1933年にナチの圧迫に より閉鎖される。. (注4)構成教育という名前は、もとバウハウスの造形教育、とく にその基礎(予備)課程の教育に対して名づけられたもの。我国で は、1934年の『構成教育体系』刊行の頃からバウハウスの予備課程 の内容を小・中学校の普通教育に導入しようとする構成教育運動と なる。. (注5)構成教育一デザインの基礎一高橋正人著『工芸ニュース』 1954vol. 22, 403. (注6)Iohannes Itten (1888−1967)スイス、画家、1919−1923. ワイマールの初期バウハウスにおいてその基礎課程の中核をつくっ 一30一.

(33) た人物。. (注7)ヨハネス・イッテン著『造形芸術の基礎』美術出版社1970 年p,18,23. (注8)前掲書p.54 (注9)前掲書p.17 「まず第一に、私は直観によって、研究テ ーマに対する生き生きした感情を涌き起こさせるように試み、続い てテーマに対する知的分析と理解に導くとともに、… 究課題の実施に先行して、…. 毎日の研. 描画の基礎訓練を行った。こうし. てはじめて学生たちの制作活動がうまく実現されるように、授業を 進めたのである。」. (注10)前掲書p.15,16当時のイッテンは、生き生きとした直 感力と自由なリズム感によってのみ制作は成功し得るとし、精神的 な集中力と緊張緩和の働きが必要として、呼吸調整の運動や精神力 の集中および心身のくつろぎについての修練を自分の授業の中で学 生に課している。当時は人々の嘲笑を受けたようだが、学生たちに は安定した呼吸と集中力、および造形表現の技法を学ぶために本質 的に必要な受容の態度をもたらしたとしている。. 第2節 環境とコミュニケーション理論からの視点 第1節において、 「デザイン」本来の総合性や、造形要素を越え た造形理論を追求すれば、 「総合的な学習のフィールド」つまり. 「学習環境」の重要性が浮かび上がってきた。生命感あふれる生活. を創造する力の根源、つまり意欲の問題は、文化の働きとしての価 値観に触れる「環境」に関連しているのである。. 1.生活環境と美術教育における潜在的カリキュラムの視点. 一31一.

(34) 「自分が心から気に入ったものを作りたいという気持ち、つまり 文化の働きとしての価値観に触れない限り本当の必要性は生まれな い。」 (注1)といわれるように、生活を創造する力の根源、つま. り意欲の問題には文化の働きとしての価値観に触れられる環境が必 要である。ところが、高度情報化社会の発展の中で急速に変化して いる現代においては、子どもの生活環境は、一つの教室における一 つの授業(文化の働きとしての価値観に触れられる環境)としての 学習環境を考える前に大きな問題を含んでいる。それを考えるには、. 美術教育における潜在的カリキュラム(注2)の視点が必要不可欠 である。. ジャクソン(Jackson,1968)は、潜在的カリキュラムを構成する. 要素として集団(crowds)、賞賛(praise)、機能(power)の3つ をあげ、集団の一員としての活動は子どもの態度や人格の形成に直 接、間接の影響を与えていることを明らかにした。潜在的カリキュ ラムというと、学校制度が教師に与える権威的「機能」による生徒 に対する「門づけ」のようなマイナスイメージが先行するが、一般 に教育は経験に一定の形態と表現を付与するわけで、これによって、. 一面では、精神の働きに一定の枠をはめる役目も果たしている。こ のような枠を防止するには「他にも別の見方はないものか」と、常 に考えを巡らせることが大切である。つまり、教育は単に文化を伝 達するだけでなく、同時に又、世の中を見るさい、他にもさまざま な見方のあることを教え、さらに、そのような見方を解明しようと いう意欲を強めさせるものでなくてはならないのである。 またジャクソンのいう「賞:賛」は、それぞれの生徒の授業中や休. み時間の発言や態度に対する教師や仲間のさまざまな評価が存在す る中で、その評価の受け入れ方がそれぞれの人格や態度の形成を左 右しているという認識であるが、この評価に対する正当な適応力を 育てることが問題であるとする。 (注3). これは第1章で検証した生活綴方教育の時代から生活指導の問題 として「集団づくり」として今日まで広く様々な形で学校で指導さ 一32一.

(35) れている。 (注4)その指導は一般的に、第一にはお互いを認め、. 励ましあう学級の雰囲気が鍵であり、教師は、一貫した暖かい態度 で子どもに接し、教師間や地域社会との共通理解(子どもに出来る という期待を持たせ、子どもの自主性を認める)を計る事が必要で あるとされるものであるが、現実には、陰湿な“いじめ”などの問 題が多く教育現場に噴出している。しかしこの現実は潜在的カリキ ュラムが正規のカリキュラムで設定された目標と適合的でない限り 教育効果は望めないということを明らかにしている。. 斉藤喜博(注5)は「芸術教育とは、学校全体の生活とかの中で、 全人的に感動深く生活させ、感動の質を高め、ものの本質を見きわ めさせていくような教育をしてはじめて達成できる。」 「授業や行. 事を含めた子ども生活全体の中で、生活の深い感動を具体的に味わ わせ追求的な創造的な態度を教え、基礎をつちかっておかない限り、 芸術教科の花も咲かない。」と言っている。 (注6)つまり、美術. 科一教科としての学習環境は、学校全体の芸術的な生活環境をつく ることによってはじめて必要十分条件を満たされるということにな る。. 斉藤喜博は「全心集中と追求」という理念を持って教育をおこな っているが、美術教育においてもこれを進め、 「その子なりに全力. を出しきればその子の画は生きてきて、うまい、まずいの多少の差 はあるとしても、全員がともかくもその子の仕事と見られる。その 子としては最上の作品ができる。その作品をお互いに見あうことに よって、クラス全体が差別感のない、人間らしい環境として育って ゆく」 (注7)と考えていたようである。 「自分の力を出しきる」. ということは思春期の美術教育のなかで最も重要であることは第1 章で述べたが、クラス全員が力いっぱい自分を表出し、一人ひとり の絵にその子どもの顔が見え、クラス全体の子どもの絵をならべて みても、生き生きとしたクラスが感じられるというところまで追求 する美術教育である。その追求とは、クラス全員の力を最大限に引 き出そうとする教師の熱意と、それに見合った十分打ち込める教材 一33一.

(36) を準備し、一人ひとりの子どもの事実を見のがさないで、見つけら れる限りをみつけ指導し、 「全力をあげて追求しぬく仕事の中にこ. そ“美”はうまれる」 (注8)という実践である。これは当時の創. 造美育協会の「自由」をうたった教育観や今日の「支援」を基調に した教育学と対立するものであるが、そこでの教師の教育技術は大 いに学ぶべきものがあり、またその根底となっている潜在的カリキ ュラムに大いに注目すべきであると考える。 (注9). 例えば、その代表的な教師である西岡陽子(注10)は、五年の 自分のクラスの学級通信〈ジグズデン・ザグズデン〉という題名に ついて、これは《極地方式》という研究集団の人達が作り出した言 葉で、 「私たちが何か新しくものを認識したり、自分のものとして. いく過程は、ジグザグの試行錯誤のくりかえしと同じである。少し. 前進したと思えば“ズデソと転んで失敗しては、また少し前進す るというくりかえしのなかで、ちょっとずつ力をつけていくのであ る。私たちはそのような学びかたをしたい、またさせたい」という 考え方を聞いたときの感銘を、クラスがスタートするときに話し、. ある作品づくりの中で、AがんばったことB学んだことCこの次に がんばりたいことというような感想を毎日の《つぶやきノート》 (自分の思いをいろいろ綴る日記帳のようなもの)による子どもの. 声を学級通信で紹介しあい、みんなの学び合いの資料として活用し たとある。 (注11)また、六年の国語の授業で学習した高村光太. 郎のrレモン哀歌』のレモンに、子どもがどこか心の深い部分で共 鳴したことをとらえ、 「レモンを描く」という小さな手作業をとお して、人間としてのベースを呑くらませてほしいと考え、 〈レモン. に色で生命を入れる段階〉やく色で追求したいこと〉についての話 し合いや「自分の気持ち」について『川とノリオ』という学習で学 んだことを思い出させるなどをとおして、質感や自分の気持ちをは っきりさせて、ぎりぎりまで追求し、それをまた学級通信でみんな のものにしたとある。 (注12)このような国語の授業との相互作 用をともなった授業は「詩や物語の絵」などによく用いられるが、 一34一.

参照

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