第2章 これからの思春期の美術教育の視点
第2節 環境とコミュニケーション理論からの視点
第1節において、 「デザイン」本来の総合性や、造形要素を越え た造形理論を追求すれば、 「総合的な学習のフィールド」つまり
「学習環境」の重要性が浮かび上がってきた。生命感あふれる生活 を創造する力の根源、つまり意欲の問題は、文化の働きとしての価 値観に触れる「環境」に関連しているのである。
1.生活環境と美術教育における潜在的カリキュラムの視点
「自分が心から気に入ったものを作りたいという気持ち、つまり 文化の働きとしての価値観に触れない限り本当の必要性は生まれな い。」 (注1)といわれるように、生活を創造する力の根源、つま
り意欲の問題には文化の働きとしての価値観に触れられる環境が必 要である。ところが、高度情報化社会の発展の中で急速に変化して いる現代においては、子どもの生活環境は、一つの教室における一 つの授業(文化の働きとしての価値観に触れられる環境)としての 学習環境を考える前に大きな問題を含んでいる。それを考えるには、
美術教育における潜在的カリキュラム(注2)の視点が必要不可欠
である。
ジャクソン(Jackson,1968)は、潜在的カリキュラムを構成する 要素として集団(crowds)、賞賛(praise)、機能(power)の3つ をあげ、集団の一員としての活動は子どもの態度や人格の形成に直 接、間接の影響を与えていることを明らかにした。潜在的カリキュ ラムというと、学校制度が教師に与える権威的「機能」による生徒 に対する「門づけ」のようなマイナスイメージが先行するが、一般 に教育は経験に一定の形態と表現を付与するわけで、これによって、
一面では、精神の働きに一定の枠をはめる役目も果たしている。こ のような枠を防止するには「他にも別の見方はないものか」と、常 に考えを巡らせることが大切である。つまり、教育は単に文化を伝 達するだけでなく、同時に又、世の中を見るさい、他にもさまざま な見方のあることを教え、さらに、そのような見方を解明しようと いう意欲を強めさせるものでなくてはならないのである。
またジャクソンのいう「賞:賛」は、それぞれの生徒の授業中や休 み時間の発言や態度に対する教師や仲間のさまざまな評価が存在す る中で、その評価の受け入れ方がそれぞれの人格や態度の形成を左 右しているという認識であるが、この評価に対する正当な適応力を 育てることが問題であるとする。 (注3)
これは第1章で検証した生活綴方教育の時代から生活指導の問題
れている。 (注4)その指導は一般的に、第一にはお互いを認め、
励ましあう学級の雰囲気が鍵であり、教師は、一貫した暖かい態度 で子どもに接し、教師間や地域社会との共通理解(子どもに出来る という期待を持たせ、子どもの自主性を認める)を計る事が必要で あるとされるものであるが、現実には、陰湿な いじめ などの問 題が多く教育現場に噴出している。しかしこの現実は潜在的カリキ ュラムが正規のカリキュラムで設定された目標と適合的でない限り 教育効果は望めないということを明らかにしている。
斉藤喜博(注5)は「芸術教育とは、学校全体の生活とかの中で、
全人的に感動深く生活させ、感動の質を高め、ものの本質を見きわ めさせていくような教育をしてはじめて達成できる。」 「授業や行 事を含めた子ども生活全体の中で、生活の深い感動を具体的に味わ わせ追求的な創造的な態度を教え、基礎をつちかっておかない限り、
芸術教科の花も咲かない。」と言っている。 (注6)つまり、美術 科一教科としての学習環境は、学校全体の芸術的な生活環境をつく
ることによってはじめて必要十分条件を満たされるということにな
る。
斉藤喜博は「全心集中と追求」という理念を持って教育をおこな っているが、美術教育においてもこれを進め、 「その子なりに全力 を出しきればその子の画は生きてきて、うまい、まずいの多少の差 はあるとしても、全員がともかくもその子の仕事と見られる。その 子としては最上の作品ができる。その作品をお互いに見あうことに よって、クラス全体が差別感のない、人間らしい環境として育って ゆく」 (注7)と考えていたようである。 「自分の力を出しきる」
ということは思春期の美術教育のなかで最も重要であることは第1 章で述べたが、クラス全員が力いっぱい自分を表出し、一人ひとり の絵にその子どもの顔が見え、クラス全体の子どもの絵をならべて みても、生き生きとしたクラスが感じられるというところまで追求 する美術教育である。その追求とは、クラス全員の力を最大限に引 き出そうとする教師の熱意と、それに見合った十分打ち込める教材
を準備し、一人ひとりの子どもの事実を見のがさないで、見つけら れる限りをみつけ指導し、 「全力をあげて追求しぬく仕事の中にこ そ 美 はうまれる」 (注8)という実践である。これは当時の創 造美育協会の「自由」をうたった教育観や今日の「支援」を基調に
した教育学と対立するものであるが、そこでの教師の教育技術は大 いに学ぶべきものがあり、またその根底となっている潜在的カリキ ュラムに大いに注目すべきであると考える。 (注9)
例えば、その代表的な教師である西岡陽子(注10)は、五年の 自分のクラスの学級通信〈ジグズデン・ザグズデン〉という題名に ついて、これは《極地方式》という研究集団の人達が作り出した言 葉で、 「私たちが何か新しくものを認識したり、自分のものとして いく過程は、ジグザグの試行錯誤のくりかえしと同じである。少し 前進したと思えば ズデソと転んで失敗しては、また少し前進す るというくりかえしのなかで、ちょっとずつ力をつけていくのであ る。私たちはそのような学びかたをしたい、またさせたい」という 考え方を聞いたときの感銘を、クラスがスタートするときに話し、
ある作品づくりの中で、AがんばったことB学んだことCこの次に がんばりたいことというような感想を毎日の《つぶやきノート》
(自分の思いをいろいろ綴る日記帳のようなもの)による子どもの 声を学級通信で紹介しあい、みんなの学び合いの資料として活用し たとある。 (注11)また、六年の国語の授業で学習した高村光太 郎のrレモン哀歌』のレモンに、子どもがどこか心の深い部分で共 鳴したことをとらえ、 「レモンを描く」という小さな手作業をとお
して、人間としてのベースを呑くらませてほしいと考え、 〈レモン に色で生命を入れる段階〉やく色で追求したいこと〉についての話 し合いや「自分の気持ち」について『川とノリオ』という学習で学 んだことを思い出させるなどをとおして、質感や自分の気持ちをは っきりさせて、ぎりぎりまで追求し、それをまた学級通信でみんな のものにしたとある。 (注12)このような国語の授業との相互作
そのベースとなっているのは、 「人間としてのベースをふくらませ てほしい」と考える西岡陽子の教育観とそのためにく学級集団を育 てる〉ということにあると思える。美術教育者はよく 美術教育の 独自性 を主張するがゆえに、 「西岡さんの場合は、… はじめ から子どもが解放されているんですね。日常の授業がいいから、子
どもは心をひらいていて、西岡さんのことばを受け入れる、・・
・」 (注13)というように授業を強調しがちであるが、斉藤喜博 のいうように子どもの生活全体の中でとらえなければ、 「全人的に 感動深く生活させ、感動の質を高め、ものの本質を見きわめさせて いくような教育」はできないのであり、潜在的カリキュラムの存在 を見過ごしてはいけないのである。
ただし、西岡陽子が、 「高学年では、自分をつくったり、なにか 次に備えて自分の中に備えていく段階が大切ではないか… 」
(注14)と言っているように、第1章で述べた思春期の子どもの 発達段階の特徴を考慮しなければならない。
つまり、小学校では学級集団と担任とのつながりは深いが、中学 校では教科担任制であり、学級集団に対する働きかけは、また違っ たものになるはずである。生活指導の歴史からみれば、 「お互いを 認め、励ましあう学級の雰囲気」から「生徒による自治」をめざし た「集団づくり」を考える必要がある。第1章で扱った戦後の美術 教育は、この視点をぬきにして「美術教育による人間形成」をめざ
していたといえるのである。
しかし、それだけではなく社会は大きく変化したのである。
(注1)美術教育を進める会編r思春期の美術教育』あゆみ出版19
92年p.55
(注2)教育には直接コントロールできず、またあからさまにされ ていないカリキュラムによって、強く動かされている面があり、そ れは隠れたカリキュラム(hidden,or latent curriculum)といわれ