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意味志向と隠喩

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意味志向と隠喩

著者

居細工 豊

雑誌名

人文論究

53

2

ページ

21-37

発行年

2003-09-10

URL

http://hdl.handle.net/10236/6191

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この論文は、隠喩という言語現象が現象学的志向性概念を援用することで理解できるということ、また逆に、隠喩 という言語活動をわれわれは営みうるというそのことが、世界に対して常に既にわれわれが志向態度を取っているこ とを証示してもいることを論証しようとするものである。このことを念頭に置きつつ、各種論者の見解を個別に見て いくことが、この論文の構成上の方針である。

一、客観存在は﹁ひとえに主観的にのみ認識されうる﹂

フッサールが﹁事象そのものへ﹂を標榜して現象学運動を始めた動機は、諸学問の究極の基礎付けをすることにあ った。なぜ、諸学問の究極の基礎付けを必要としたのか。フッサールには、近代の諸学問、とりわけ自然科学が、一 つの真理観を前提にして、発達進展したことへの危機意識 があった からである 。 この真理観は 、 あらかじめ主観と 客観の存在を前提したうえで、それらの一致が真理だとするものである。そうした真理観には、認識論上、必ずしも 二一

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正当性が無い。そうした真理観にもとづいて進展した科学技術を始めとする諸学問の存立そのものを、フッサールは 危ぶんだのである。すなわち、諸学問が砂上の楼閣のように脆いものであってはならないとフッサールは考えた。実 は、この﹁事象そのものへ﹂の標榜は、一切の先入見︵たとえば、先述の真理観に代表される自然主義的態度︶を括 弧に入れて、あるいはスイッチを切って︵エポケーし て︶ 、 事物が私に与えられて来るとおりに受け取ることがあら ゆる﹁認識の正当性の源泉﹂なのだ、というフッサールの思いを背景に持っている。 フッサールは﹃イデーンⅠ﹄で次のようなことを言っている。一切の諸原理の中でも肝心要の原理というものがあ る。それはすなわち、すべての原的に与える働きをする直観だ。これが、認識の正当性の源泉である。つまり、われ われに対し﹁直観﹂のうちで原的に呈示されてくるすべてのものは、それが自分を与えてくるとおりのままに、しか しまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないと 。 フッサールが﹁それが自分を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内にお いてのみ、端的に受け取られねばならない﹂と言っていることの意義はすこぶる大きい。なぜなら、これにはわれわ れの一切の先入見を括弧に入れて事象そのものへと向かうべきだという主張があるからである。たとえば、われわれ の日常の生活世界における態度、すなわち、自然的態度のうちでも、とりわけ自然主義的態度においては、物は客観 的に存在しており、それを主観が感覚器官を通して受け取るのだという素朴な二元論的確信がある。しかし、なぜそ の確信が成立しているのかは普通は考えない。普通の生活ではこれを疑う理由がないからである。ところが、学者、 研究者などはもちろん、普通の生活者でも病気にかかったときや人生の節目に遭遇したときなどの非日常の世界を生 きる時に、この普通の世界信憑に疑いの目を向けるときがある。そんなときこそ、われわれは、なぜ物はわれわれに とって客観的に存在しており、それを主観が感覚器官を通して受け取るのだという確信を抱くのかとみずからに問う のである。このとき、われわれはそれまで培った一切の先入見を括弧に入れて事象そのものへと向かう姿勢ができて 意味志向と隠喩 二二

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いる。すなわち、われわれの自然な感覚体験や知覚経験が反省されるのである。その結果、われわれの普通の世界信 憑が、実は﹁われわれに対し﹃直観﹄のうちで原的に︵事象そのものが︶呈示されてくる﹂ことに支えられているこ とが分かるのである。このことはフッサールが言うように原理的に疑えないことである。すなわち、われわれの意識 の外部に物が客観的に存在するから、それをわれわれが認識する︵自然主義的態度︶というのではなく、われわれの 感覚体験や知覚経験に﹁原的に呈示されてくる﹂もの︵原的所与︶があるから、われわれの意識の外部の物の存在は わ れ われにとって不可疑なのである 。 一言で言えば客観存在は ﹁ ひとえに主観的にのみ認識されうる ﹂ のである 。 このテーゼは、しかし、デカルト的な意味での独我論的な観念論︵コギト主義︶ではない。というのも、フッサール の言う﹁主観的にのみ認識されうる客観﹂は、われわれの感覚体験や知覚経験の反省からのみ言われていることであ って、われわれの感覚体験や知覚経験それ自体は主観と客観の分裂︵二元論︶を前提していないからである。この原 理中の原理はむろんこの論においても妥当させねばならない。すなわち、語の意味は、フッサールの言う意味で、ひ とえに主観的にのみ認識されうる。

二、言語︵表現︶の意味は文脈からにじみ出る

発語︵受語︶当事者の﹁思い﹂である

表現の意味は、われわれの日常生活における言語使用では支障なく "まれているが、いざ表現の意味を反省的に捉 ぬえ え ようとするとまったく捕らえどころがない 。 それはあたかも鵺 のようだ 。 というのも 、 ﹁ 意味は意味作用のある 種 の 相 関者であり 、 この作用と切り離して独立のイデア的存在として実体化 ﹂ できないものだからである 。 もし実 体 化 すれば 、 ﹁ ウィトゲンシュタインのパラドクス ﹂ のような鵺となる 。 ﹁ コンテクストが支える意味企投の信憑構 意味志向と隠喩 二三

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造 が 抹 消されると 、 言語の一般的意味だけが無規定的に解放され 、 特定の意味を限定する根拠がなくなる ﹂ のであ る 。 すなわち 、 ﹁ 言語の一般的意味 ﹂ という ﹁ 死に体 ﹂ がわれわれの視野を埋め 尽 く し 、 ﹁ 言語の文脈 ︵ 状 況 ︶ に 依 存したその都度の意味﹂を覆い隠すので あ る。 それでは 、 意味の意味を現象学的に 、 つまり 、 ﹁ ひとえに主観的にの み認識する﹂とどうなるのか。 ﹁表現が意味を持ち対象に関係するのは意味志向による﹂ の だ が 、 フッサールは ﹁ 意味志向 、 意味作用はその都度 の対象を思念する ︵ meinen ︶ 一定の仕方である ﹂ と言ってい る 。 ﹁ 意味とはその都度の対象を表示する仕方であ る﹂ 。この、 ﹁その都度の対象を思念する一定の仕方﹂こそが﹁意味﹂という鵺の正体である。 それでは、この﹁その都度の対象を思念する一定の仕方﹂の内実は何か。とりわけ﹁仕方﹂とはどういう心的経験 をさしているのであろうか。 ﹁仕方﹂とは自己の﹁態度﹂あるいは自己の﹁姿勢﹂や﹁身の構え﹂である、すなわち、 ﹁志向態度﹂であると私は 思う。ソシュールの区別したラングとパロールで言えば、意味をこのように考える現象学的な意味論は、パロールが 持つ言語の意味作用への寄与を積極的に評価するのである。それに対して構造主義や論理実証主義などの意味論はラ ングの体系にのみ依存した意味論である。たとえば、J・N・モハンティは、フッサールとフレーゲの深く隠された 相違点を次のように指摘している。 ﹁フッサ ールにとって意義は作  用  の意義であるが 、 フレーゲにとって ︽ 意 義 ︾ は 記  号  の︽意 義︾で あ る ﹂ と 。 これは 、 おそらく 、 現実の言語使用を分析して取り出した意味と 、 言 語 をラングの体 系として分析して取り出した意味の違いを指摘している。この指摘はフッサール現象学の志向性概念やハイデガーの 世界内存在概念を意識して言語の意味を考察すればよく納得できる。 ハイデガーの現象学でもっとも重要なのは ﹁ 存在論的差 異 ﹂ 概念であろう 。 ﹁ 存在論的差異 ﹂ と は 、 ﹁ 存在者 ﹂ と ﹁ 存 在 ﹂ との差異のことだが 、 その差異は 、 ﹁ 存在者 ﹂ が現存在の 眼前にただ横たわっている ︵ Vorhanden ︶も の、 意味志向と隠喩 二四

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つまり、誰にとっても了解可能な一般 的なものとしてとらえられたものであるのに対して 、 ﹁ 存 在﹂は﹁存 在 者﹂と 現存在とがなんらかの実践的関係を持っている、たとえば、現存在と﹁∼として﹂の存在者とのその都度の関係を持 っている、すなわち、眼前ではなく手元にある︵ Zuhanden ︶ものととらえら れたときの志向態度そのもののことで ある。ときに、この﹁存在論的差異﹂概念を転釈して言語の意味を考察すると以下のようになる。言語には一般的な 意味︵存在者︶とその都度の固有の意味︵存在︶とがある。換言すれば、言語には辞書的な意味と言語が使用される その都度の固有の ︵文脈上の︶ 意味とがある。たとえば、 ﹁ハンマー﹂ という言葉を広辞苑で引くと、 ﹁ハンマー ︻ ham-mer ︼ ︵ 1 ︶ 金づち 。 木づち 。 ︵ 2 ︶ ピアノまたはその類の楽器で 、 弦その他の発音体を打つ小槌 。 ︵3︶ハ ン マ ー 投 げに使う具。 ﹂と書かれている。しかし、このままで はつまり 、 文脈から離れて孤立したままでは少なくとも三つの 語義を持っていて、そのうちの一 つに特定できない 。 この辞書的な意味は 、 いわば ﹁ 死に体 ﹂ であって 、 ﹁ 体勢がく ずれ ﹂ たままの言葉の意味なのである 。 つまり 、 語の一般的意味なのだ 。 ところが 、 大工 の棟梁が弟子に向かって ﹁ハンマー!﹂という時、その場のその都度の状況︵文脈︶によって、 ﹁もっと軽いハンマーを手渡せ!﹂とか﹁もっ と重いハンマーを使え!﹂とか﹁もっと使いやすいハンマーはないか?﹂等の意味を担い、語の一般的意味しか持っ よみがえ ていなかった、いわば﹁死に体﹂だった﹁ ハンマー ﹂ が言語使用のその都度の文脈によって賦活されて ﹁ 蘇 る﹂の である。先述したようにどの様な発語であれ、発語には、発語当事者の﹁思い﹂が込められている。この発語に込め られた﹁思い﹂と聞き手の﹁了解内容﹂に こそ言語の意味が随伴しているのである 。 それゆえ 、 ﹁ 死に体 ﹂ としての 言語の辞書的な意味︵存在者︶をどれほど厳密に、あるいは丁寧に分析︵解剖︶しても、そこから発語当事者の﹁思 い﹂としての生きた意味︵存在︶は永久に取り出せないのである。砂鉄が磁場において極を指し示すように、語の意 味は文脈において特定される。かくして、以下のような結論にわれわれは達する。すなわち、言語︵表現︶の意味は 文脈が担っている発語当事者の﹁思い﹂に支えられている。しかし、だからといってラングの体系が持っている一般 意味志向と隠喩 二五

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的意味を利用しなければそもそも発語当 事者の固有の ﹁ 思 い ﹂ ︵ = 意味 ︶ を表現することはできないことも事実であ る。

三、自身の身構えとしての﹁志向態度︵

intentional

stance

﹂とは何か

発語︵受語︶や表現の意味は辞書のように固定的ではなく発語︵受語︶当事者の持っている信念や欲求︵思い︶の ありようによって変化する。ダニエル・C・デネットは﹃ The Intentional Stance ﹄ で以下のように述べている。 もちろん、われわれの頭の中に文があることもときにはある 。われわ れが言語を使用する生き物であること を考えると、これは驚くべきことではない、しかし、そうした文は、われわれが発語する公的文と同様に、信念 や欲求の決定を通した解釈を 必要とする 。 ﹁ 今こそ革命の時 だ ! ﹂ という言葉が ︵ ﹁ 私の頭の中に ﹂ ︶ 浮かんだと しよう。それによって、私は今こそ革命の時だという内容を持つ思考を 考えた のだろうか?それは場合によりけ りだろう。つまり、私がその言葉を﹁自分自身に﹂発したときに、私がたまたま何を信念・欲求・意図として持 っていたかによるのである。 デネットは、文は、発語︵受語︶当事者のその都度の﹁信念・欲求・意図を通した解釈を必要とする﹂と言ってい る。また、デネットが﹁場合によりけり﹂というのは、自分あるいは他人を鼓舞したいという欲求を持っている場合 なのか、迷いを払拭しようと意図している場合な の か 、 ﹁ ほかでもない今がその時なのだ ﹂ という信念表明の場合な のか、あるいは﹁今こそ革命の時だ﹂という言 葉の一般的意味を考えている場合なのか 、 等によって 、 ﹁ 今こそ革命 の時だ!﹂という言葉の意味は変わるということである。それゆえ、われわれは次のようなテーゼを提出できる。文 は発語︵受語︶当事者の信念・欲求・意図 =﹁思い﹂ 、つまり﹁志向態度︵ intentional stance ︶ ﹂を通した解釈を必要 意味志向と隠喩 二六

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とする。 と こ ろ で、ジ ョ ン・R・ サールが ﹁ 話し手の意味は 、 本来的に言語的ではない形式の志向性によって定義され る﹂ とか﹁言語は志向性から派生したものであって、その逆ではない﹂ と述べている 点、そ し て 、 ﹁ 志向性とは世界 内の対象や事態に向けられ、あるいはそれらに関わり、あるいはそれらについて生じているような、多くの心的な状 態ないし出来事の特性である ﹂ と定義している点にはまったく妥当性がある 。 しかし 、 こ のようなサールの ﹁ 志 向 性﹂は、フッサールの﹁志向性﹂やハイデガーの﹁気遣い﹂との大きな懸隔をわれわれに感じさせる。たとえば、サ ールに﹁世界の事象における対象や状態を表象する言語行為の能力は、より生物学的に本質的な心︵または脳︶の能 力であって、その能力は、信念や願望のような心的状態によって、また、行為と知覚によって、身体組織と世界を関 連づける、心のより一般的な能力の一部なのである。 ﹂ というような 表現があるが 、 このような表現は 、 間違いでは ない。しかし、これでは一般的な志向性の概念規定しか得られない。そのことが、われわれにフッサールやハイデガ ーとの懸隔を感じさせるのである。そうなった理由は、われわれの﹁心﹂がどの様に身体組織と世界を関連づけるか について、サールの分析が実存論的に不徹底なことにある。それと違ってハイデガーは﹁了解 = 解釈﹂という概念、 とりわけ事物的存在者のそれではなく道具的存在者の﹁了解 = 解釈﹂という概念で、歴史的・状況的・身体的現存在 と世界との関連を詳細に論じている。たとえば、サールならば﹁このハンマーの重量は○○キログラムである﹂とい う よ う に 、 形式的に身体組織と世界を関連づける ︵ 孤立した主語に孤立した述語を付加した ︶ 物言いをするだろう が、ハイデガーならば、 ﹁このハンマー は重すぎる ﹂ という物言いをするだろう 。 つまり 、 ハンマーを私には ﹁ 重 す ぎて﹂利用不可能なもの﹁として﹂主題化した物言いをするだろう 。 ハ イデガーにとっては 、 道具的存在者の存在 はその都度の現存在の関心に相関して変化するのである。 意味志向と隠喩 二七

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四、

﹃ピアジェ︱ワロン論争﹄から見えてくるもの

日本の教育はピアジェの発達論を基盤に据えて行われている 。しかし、私 はむしろワロンの発達論に拠る教育に 親近感を持つ。というのも、ピアジェの発達論は子どもが個体から出発して社会化されていくという考えを基本に据 えているが、ワロンの発達論は、逆に子どもはもともと社会的な存在であって、しだいに個性化されていくという考 えを基本に据えているからである。 ﹁子どもが対象 の世界を知り始めるとき 、 何よりも他者との関係が重要であり 、 あらゆる関係性の中心には子どもの﹃情動﹄の 働きがあることを強 調﹂し、 ﹁ 表象の形成はたんに運動的行為が内面 化する のではなく、子どもが世界に向き合う全身体的な﹃構え・姿勢﹄が大きな役割を果 た す ﹂ とするワロンの考 えは ﹁ 現実に生活している子どもの姿を現実に即してつかまえよう ﹂ とする基本姿勢から出て きたものである 。 彼 が、行為の当事者のその都度の志向態度の洞察から子どもの発達を捉えていることは疑いない。そこで、言語の用法 と意味の習得をワロン的に考えてみよう。 たとえば 、 幼児が 、 ﹁ もうすぐ暗くなるからおうちに帰ろう ﹂ と言われた のに 、 ﹁ ちょっとだけ ﹂ と言って 、 もうしばらく遊びを続けようとする場面を 想定してみる 。 その時 、 ﹁ ちょっとだ け﹂という語の用法に注目するとわかることがある。幼児はもう﹁ちょっとだけ﹂遊びたいという欲望を満たしたく て発話したのだが、その言葉の使用が自分の欲望を満たすのに大変効果があるということをいつどのようにして理解 したのか。それはわれわれ大人達の実際の言語使用、つまり、自分のしたいことを実現するために発語︵受語︶当事 者のその都度の志向態度を担った﹁ちょっとだけ﹂という言語を利用しての言語ゲーム︵コミュニケーション︶をよ く観察し、また、その言語ゲームに全身体的に﹁同調﹂あるいは﹁参加﹂していたからに違いないのである。このよ うな﹁ちょっとだけ﹂という大人の言語の用法を、子どもが逆手にとってわれわれ大人に向けて使用すれば、われわ 意味志向と隠喩 二八

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れの誰しもが 、 ある種のおかしみとともに言語の意味 = 本質をかいま見る 。 何をかいま見る か を 、 ワロン的に言え ば、語の表象形成において、人間が世界に向き合う全身体的な﹁構え・姿勢﹂が大きな役割を果たしているという事 実をかいま見るのである。

五、

﹁語の意味は語の用い方を通して

"まれる﹂ということの意味

ウィトゲンシュタインが前期の論理主義的な考え方から、正反対の立場に立って文法問題の考察に移ったことはよ く知られている。私がその中でも最 も哲学的に意義があると思う術語は 、 ﹁ 言語ゲー ム﹂と﹁ 家族的類似 ﹂ である 。 この後期ウィトゲンシュタインの考え方が集約されている言葉は、言語が論理的にではなく、現実においていかに使 用されているのかということをよく観察しつつ洞察して得られたものであると考えられる。語と事態︵現実︶との写 像関係は厳密に確定されているとする前期の論 理主義的な立場と正反対の立場とは 、 言語の本質は語と事態 ︵ 現 実 ︶ との写像関係で尽くされるもので はないとする立場である 。 ﹁ 言語ゲー ム﹂と﹁ 家族的類 似﹂が、 いずれも重要な概 念として使用されているにもかかわらず厳密に定義されていないのは、言語にそのような不尽性があるからなのであ る。 さて、後期ウィトゲンシュタインの考え方でこの小論と深く関係するのは、語の意味は語の用い方︵慣用︶を通し て "まれるということである 。 ﹁ 私 たちは語を単語帳で学ぶわけではない 。 実際の用例を通して覚えていくのであ る﹂ と尼ヶ崎彬が言っているこ と も 、 まったく同義のことである 。 ま た 、 ウィトゲンシュタインが ﹁ 言語ゲーム ﹂ と﹁家族的類似﹂などの概念を確定的に定義せず、語の意味はその用い方を通して "まれるのだという言い方しかし ていないのは、ある語を使用するということの文脈・状況への開放性や、形式論理的な使用規則の同定不可能性に突 意味志向と隠喩 二九

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き当たったからである。先に述べたように、その不尽性に突き当たったからである。 そこで、われわれはどの様にして語︵の意味︶を実際の用例を通して覚えていくのかを以下で考えたい。記号論的 には、意味するもの︵能記 = シニフィアン︶と意味されるもの︵所記 = シニフィエ︶との恣意的な結びつきの既存の コードを実践的に習得し、それと同時に記号の使用︵エーコならば記号生産︶もしていくということになるのであろ うが、その際、われわれ発語︵受語︶当事者にとってコードは常に既に動かし難く存在するものなのか。つまり、一 方的に受け取られるべきものなのだろうか。そうではない。むしろ、逆なのだ。すなわち、発語当事者のその都度の ﹁思い﹂ ︵志向態度︶がコードを利用して表現されるのである。換言すれば、語が有意味か無意味かは記号論の知見だ けでは決定不可能であって、その都度の発話の文脈からのみ発語︵受語︶当事者によって特定されるものなのだ。 フッサールも、語の意味が文脈に依存することについて同様のことを説いている。すなわち、われわれの﹁状況依 存的 [ okkasionell ] ﹂ な判断の ﹁ 広大な領域に気が付くべきであ る﹂と。 ﹁ 状況依存的 ﹂ な判断 とはいっても 、 そ れ は曖昧なものではなく﹁間主観的な真偽を持つ判断﹂である。さらにその判断は﹁明らかに、個人/共同体の日常の 全生活が状況の類型的な同種性に関係付けられており、その結果その状況に入るどの人も、それ自体においては正常 な人間として状況に属する普遍的な状況地平を持つ、ということに基づく﹂ものだと言っている。この状況地平、す なわち構成する地平志向性によって、日常生活の環境一般が、あるいは経験的世界が成り立っているという。しかも この構成する地平志向性は﹁反省する解釈よりも常に先行している﹂と言っている。それは、とりもなおさず、この 志向性が﹁状況依存的な判断の意味を、言葉それ自体においてそのつど表立って明確に言われまた言われうるものを いつも遥かに越え出て本質的に規定する﹂ということである。この﹁日常生活の環境一般が経験的世界と成るような 構 成 す る地平志向性は 、 反省する解釈よりも常に先行している ﹂ というフッサールの考え方を 、 言語の意味論に応 用すれば、語の意味はコンテクストに依存すると言うことができる。それゆえ、フッサールの﹁地平志向性は、反省 意味志向と隠喩 三〇

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する解釈よりも常に先行している﹂という考え方からしても、発語︵受語︶当事者のその都度の﹁思い﹂を考慮しな い意味論では語の意味 = 本質を一面的にしか捉えることができないと言いうるのである。

六、隠喩の創造性

P・リクールが二〇〇〇年京都賞を受賞した理由の一つとして、隠喩が人間の在り方そのものに根ざした本来的現 象であることを論証した﹃生きた隠喩﹄ ︵一九七五︶の業績があげられている。 ﹃生きた隠喩﹄では、死んだ隠喩、た とえば﹁机の脚﹂などのように既に慣用によって風化した隠喩に対して、生きた隠喩が新しいものの見方を発見する という意味での創造性を持っていることが 論証されている 。 たとえば 、 ﹁ 隠喩は洞察を与えてくれる 。 副主語を利用 して中心主語を組織すること は 、 実際に 、 他に還元 することのできない知的操作を構成するのであり 、 その操作 は 、 いかなるパラフレーズもなしえないように 、 情報を与え 、 啓蒙してくれる 。 ﹂ という記述に表れて い る 。 ﹁ 人 間 は狼である﹂という隠喩で言えば、この﹁隠喩の創造性﹂の核心は、副主語︵狼︶を利用して中心主語︵人間︶を組 織 す る ︵ 捉 え る ︶ 際 の 、 ﹁ 利 用して ﹂ ﹁ 組織する ﹂ ところにある 。 というのも 、 ﹁狼﹂を﹁利 用﹂ ︵ 狼として見ること が︶可能なのは、 ﹁人間﹂に対する発語︵受語︶当事者の志向態度に、 ﹁狼﹂という存在者に対する志向態度との類似 を見いだしているからこそなのであ り、 それをこそ ﹁ 隠喩の創造性 ﹂ と言っているからである 。 すなわち 、 ﹁ 隠喩と は、あることを語るのに別のことをもってするのに存するならば、別のことによって知覚し、考え、あるいは感じる ことに存する ﹂ と言えるのである 。 リクールが 、 語の意味 = 本質が発語 ︵ 受 語 ︶ 当事者のその都 度の志向態度 ︵ 知 覚し、考え、あるいは感じること︶にあることに気づいていることは、言述で﹁志向されるものは、記号論の平面に シニフィエ おける所記とは違って、事物に、世界 に関わるということ ﹂ であって 、 ﹁ 意味作用とは 、 可能的で 、 住むことのでき 意味志向と隠喩 三一

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る世界の投企なのである﹂ と述べていることで分かる。 ︵傍線は著者︶

七、自身の身構え

ロゴスの知と身体知﹁知る﹂と﹁分かる﹂

発語当事者が隠喩で何かを表現するとき、受語当事者はどの様にそれを理解するのかについて、尼ヶ崎彬は現象学 的に説明している。少し長いが引用してみる。 ﹁ 彼はドン ・ キホーテだ ﹂ という説明に聞き手 が行うことは 、 ︿彼﹀を︿ド ン・ キホーテ ﹀ と し て 見 る こ と であ る。この操作を﹁なぞらえ﹂と呼んでよいであろう。だがこれは一方の特性を抽出して他方に貼り付けるといっ た作業ではない。そもそも﹁らしさ﹂は抽 象して捉えることができないのだから 。 ﹁ らしさ ﹂ はただ全体として の生きた姿のなかに 息づいている 。 聞き手は ︿ ド ン ・ キホーテ ﹀ か ら ﹁ 無 謀 ﹂ ﹁ 夢想家 ﹂ などの特性を抽出して 彼に貼り付けるのではなく、彼をそっくりドン・キホーテと し て 見 る こ と によって、彼の﹁らしさ﹂を理解する のである。 ︵中略︶ ﹁彼をドン・キホーテとして見る﹂とは、ドン・キホーテを見るのと同じ態度で彼に向かい、 ドン・キホーテの﹁見え﹂を彼に見、同じ感情的反応を彼に向けるということである。この行為において重要な 効果は 、 ︵ しばしばメタファー論で言われるような ︶ ︿ ドン ・ キ ホ ー テ﹀の 特 徴 が︿彼﹀ に転移することではな く、ドン・キホーテに対する私の心身の構えが彼に対して転用されるということである。見方が変われば、当然 彼の見え方も変わってくる。それまで見えなかった﹁らしさ﹂が彼のものとして見えてくるだろう。このとき聞 き手は、この説明を理解したのである。 尼ヶ崎彬の隠喩論は、ウンベルト・エー コの記号論 、 とりわけ ﹁ コードの理論 ﹂ や﹁伝 達﹂ ︵ communi cati on ︶す なわち﹁記号生産の理論﹂における意味の定義よりもはるかに納得できるし、また、リクールの﹁知的操作を構成す 意味志向と隠喩 三二

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る﹂とか、 ﹁情報を与え、啓蒙してくれる﹂といった 隠喩の創造性の説明よりも断然腑に落ちるところがある 。 な ぜ そうなのか。それを一言で言えば、彼等よりも尼ヶ崎彬の説明がより現象学的だからである。つまり、発語当事者の その都度の志向態度から隠喩を考えているからである 。 リクールに お い て は﹁SはPで あ る﹂ という文の ﹁ である けい じ ︵ is ︶ ︵ ist ︶ ﹂という繋辞こそが隠喩を成り 立たしめるというところで終わっている 。 実 は 、 これではまだ隠喩の分析 が中途のままであって、なぜ﹁である︵ is ︶ ︵ ist ︶ ﹂という繋辞が、すなわち、語ではなく文が隠喩を成り立 たせるの かの現象学的考究にまで至っていないのである。 たとえば、 ﹁知ること﹂と﹁わかること﹂の区別について、尼ヶ崎彬は、 ﹁知ること﹂は知識︵語の一般的意味︶の 獲得の意だが、 ﹁分かること﹂は自身の態度決定︵志向態度︶で裏打ちしなければならないことを述べた後、 ﹁狼の生 物学的定義を知った人は、そのあと第三者にそれを知識として伝達することができる。知識として伝えるとは、自身 の態度をそこにからませる必要がないということである。けれども﹃人間は狼である﹄という意見を納得した︵わか った︶人は、これを第三者に語るとき、常に自身の態度決定で裏打ちしなければならない。つまりこの言葉は、その 都度語り手によって意味を与えられ、聞き手はその都度自身の身構えを相手に同調させることによってその意味を理 解しなければならない 。 ﹂ と述べている 。 この中の ﹁ 自身の態度をそこにからませる ﹂ か否か と 、 ﹁ 同 調 ﹂ させうる か否かが﹁知ること﹂と﹁わかること﹂を区別するのだが、われわれにとっては、むろん﹁知ること﹂ではなく﹁わ かること﹂を分析する方が、語の意味 = 本質を取り出すという作業においてより注目すべきことがらなのである。こ の﹁知ること﹂から﹁わかること﹂への視線変更による語の意味 = 本質看取は、フッサールの現象学的還元の方法を よく応用することで初めて出来ることなのだ。すなわち、語の意味は﹁自身の態度決定による裏打ち﹂がないと﹁知 る﹂ことは出来ても﹁わかる﹂ことは出来ないのである。この﹁自身の態度﹂こそ﹁発語︵受語︶当事者のその都度 の志向態度 ﹂ のことである 。 発 語 ︵ 受 語 ︶ 当事者のその都度の志向態度によっ て "まれていることは 、 言ってみれ 意味志向と隠喩 三三

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ば 、 事物の相貌 ︵ 見 え ︶ である 。 ﹁ 人間は狼である ﹂ という意見を納得 し た 人 は、人 間 に﹁狼﹂ の相貌を 、 あるい は、人間を﹁狼﹂ ﹁のようなもの﹂ ﹁として﹂ 、感じ取っているといえるのである。

むすびにかえて

幸田文の随筆にはわれわれの心に染みてくるところがある。その要因のひとつにさりげない隠喩の使用があると考 えられる 。 たとえば 、 随 筆 ﹃ 包 む ﹄ の中に ﹁ 雨のおとずれ ﹂ !という節があって 、 そ こ で ﹁ 霧のかよい路 ﹂ という隠 喩が使われている。雨の山で案内人に導かれて の散策の途中 、 幸田文は美しい青むらさきの紫陽花と出会う 。 ﹁ しん がりにいた案内人は、この花が霧のかよい路に当たっているから特別に綺麗なのだと云って、もみじも霧の道に生え ているものは特に美しく染めるらしい﹂と教えてもらう。そして﹁霧という自然のものへ、かよい路という人の艶め いた風情を添えた云いかたが、このときの視覚から入って心にとまった。霧のかよい路は色を染めるとは、いかにも 昔風な優しい云 いかただとおもう 。 ﹂ と続ける 。 この山道の霧という存在者の存在は ﹁ かよい路 ﹂ に喩えられてい る 。 静かでゆっくりとした山間での霧の流れの相貌が 、 人目を忍んでかよう恋 路 ﹁ のようなもの ﹂ として ﹁ なぞら え﹂られている。だから、 ﹁霧のかよい路と いう言い方が視覚から入って心にとまった ﹂ と は 、 自 然 ︵ 霧あるいは紫 陽花︶の了解に生活当事者の志向態度︵かよい路︶を﹁なぞらえ﹂ることで世界︵自然︶了解が﹁知る﹂だけでなく ﹁分かる﹂まで深化した経験の表出である。こ の﹁ 心にとまった ﹂ という表現に接して 、 幸田文とともにわれわれは 隠喩によってもたらされる意味を共有し、世界︵自然︶了解を深化させたのである。 意味志向と隠喩 三四

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註  フッサール Edmund Husserl ﹃ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学﹄細谷恒夫・木田 元︵訳︶ ・中公文庫  フッサール﹃イデーンⅠ︱Ⅰ﹄渡辺二郎訳・みすず書房 第一編第 二 章 自然主義的誤解 第二四節 一切の諸原理の原理 一一七頁  フッサール・前掲書 あとがき 三一頁  1 ︶ トラツグミの異 称。季・夏。古 事 記︵上︶ ﹁青 山 に︱ は鳴きぬ ﹂ ︵ 2 ︶ 源頼政が紫宸殿上で射取った という伝説上の怪 獣 。 頭は猿 、 胴は狸 、 尾は蛇 、 手足は虎に 、 声 はトラツグミに似ていたという 。 平家物語などに見え 、 世阿弥作の能 ︵ 鬼 物︶にも脚色。 ︵3︶転じて、正体不明の人物やあいまいな態度にいう。 ﹁広辞苑﹂  常俊宗三郎 一九七九﹃フッサールの言語観﹄社会福祉評論︵大阪女子大学︶ Vol. 47 p. 15  クリプキ﹃ウィトゲンシュタインの パラドックス ﹄ 黒 崎 宏訳 ・ 産業図書 た と え ば、2・4・6・8⋮⋮ のような数列を 与えられれば普通われわれは 8 の次に来る数字は 10だ と 思 う 。 し か し 、 ク リ プ キはどんな任意の数も正答となりうると言 う。確かにこの数列自体には﹁2ずつ加算せよ﹂という暗黙の要求はな い、つ ま り、 何が要求されているのでもない単なる 数列である。だから、どんな任意の数も正答となりうるのである。よって、規 則の根拠は形式論理的には見いだせない鵺と いうことになる。規則の厳密な規定は不可能︵パラドクス︶になるのである。 ではわれわれはどこにその根拠を見いだして いるのか 。 その根拠はわれわれの言語ゲームの暗黙の要求 ︵ 約 束 ︶ 、 ﹁ 2 ずつ加算せよ ﹂ にあるのだ 。 竹田青嗣 ・ ﹃ 言 語 的 思 考へ﹄径書房二四六︱七頁参照  竹田青嗣・ ﹃言語的思考へ﹄径書房二四五頁 死に体︵相撲用語︶力士の体勢がくずれて立ち直ることが不可能になった状態。 ﹁広辞苑﹂ 常俊宗三郎・前掲書一七頁 フッサール﹃ Logische Untersuchungen 2 a ﹄ S. 49 ﹃論理学研究2﹄立松弘孝・松井良和・赤松宏訳・みすず書房六〇頁 常俊宗三郎・前掲書一七頁 モハンティ、J・N﹃フッサールとフレーゲ﹄貫成人訳・勁草書房九九頁  デネット、ダニエル・C﹃志向姿勢の哲学﹄若島正・河田学訳・白揚社一〇八頁  デネットは﹁脳が志向システムを実現化する具体的な表象システムは 文的性格を持つものではないと解釈する ﹂ として 、 基 意味志向と隠喩 三五

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本的に文がわれわれの頭の中にあることはないとしている。  サール﹃志向性﹄坂本百大監訳・誠信書房二二三頁  前掲書7頁  前掲書 序  ドレイファス、ヒューバート・L﹃世界内存在﹄門脇俊介監訳・産業図書二四二頁  ハイデガー ﹃ 存在と時 間︵下︶ ﹄ 細谷貞雄訳ちくま学芸文庫二七七頁 ﹁ 配慮がこのような ︽ 見渡し ︾ によっていっそう配 視 的になるとき、この配視的な見渡しは用具的存在者を││すでに眼には いていたものを解意するという仕方 で││つ ま び ら か に する ︵ 現存在に近よせる ︶ ︵ 中略 ︶ したがってそれはある存在者の 客体的存在やそれの属性などをたんに ︽ 確認する ︾ につきるものではない。 ﹂ ﹃ピアジェ︱ワロン論争﹄加藤義信ほか編訳・ミネルヴァ書房一〇︱一一頁  これはピアジェの発達論である。 ﹃ピアジェ︱ワロン論争﹄五頁  尼ヶ崎彬﹃ことばと身体﹄勁草書房七八頁  Edmund Husserl Husserliana, n o. 7, Erste Philosophie ︵ 1923/24 ︶ , フッサリアーナ第7巻﹃第一哲学 第一巻││批判的 理念史﹄ S. 207 ︵永井俊哉︶ http : //nagaitosiya.com /からの孫引き  たとえば、 ﹁人間は狼である﹂という隠喩ならば、副主語は﹁狼﹂であり、中心主語は﹁人間﹂である。  リクール、ポール﹃生きた隠喩﹄久米博訳・岩波現代選書一九〇頁  リクール・前掲書一八三頁  リクール・前掲書二〇〇頁  ウンベルト・エーコにとって﹁コードの理論﹂は、何が何の代わりを して表すかにはある決まり ︵ コード ︶ があるというこ とである。すなわち、 ﹁意味作用﹂ ︵ signification ︶とはコードのことである。  尼ヶ崎彬・前掲書一一一頁 常俊宗三郎﹃日本人の生活経験の現象学的考察﹄関西学院大学・哲学研究年報第 37輯 一〇頁 ﹁それは人の顔や動作や仕草の表情や相貌︵ la physionomie, Physionomie ︶を見るのであり、色や形や動きを認知的に見る 意味志向と隠喩 三六

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のでなく、情意的に見るのだといってよい。しかし、情意的に見ると いっても 、 見る人の感情の投影でなく 、 表情や相貌と して、あるいは表情や相貌に現れていることそのものを見るのである。とはい っても表情や相貌をみることが歴史的に規定 されているのはいうまでもない。 ﹂ ! 幸田 文﹃包む﹄講談社文芸文庫一四九︱一五〇頁 ││大学院文学研究科研究員││ 意味志向と隠喩 三七

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