生活鞍線と宗致問題 一 九 O − 一 勝 U F 故 − 一 大 難 色 ア サ Y 、 彼 ρ 迩門ノ一念三千、此川本門ノ一念三千ナヲ、天地造ニ異 Y 也 ﹂
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、以て、台営爾家の異目、勝劣等を知るぺ3
で あ る 、 きれば、間性を以て賞三し、事相を以て、椛 となし、金性起修を附曾しτ
、強いて十界互具を設かんとする台家の哲串は、寛に、営家事制仰の簡明 直裁にして、而も、能く事現の奥底を論議せるに及ばF e
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事、甚だ遠いのである。 以上、略して台営雨家の哲皐的方面に就て、之k
批諭せし三雄も、吾人は、唯、開の徹底せる事の みに満足を抱︿ものではないのである。 然らば、英目的、卸も、賃際的方面救済としての宗敬の其偵、果して如何か、吾人は更に之に就い T −論越せんとはすれ、紙敷の許3
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る所、随って、攻回に於いて之そ論ぜんとするものである、幸以 に 之 を 諒 せ よ 。 ︵昭和五年仲秋 伊 _•J_ 錦ま精合にて, v生活戦線と宗教問題
津 回 歓 貞 最近の世相を展望するに、﹁大東京失業者四十寓を突破す、全国失業者無慮百寓に及ばん・とす云々﹂﹁ 産 児 制 限 、 堕 胎 遺 棄 、 幼 見 殺 し 云 h T﹂ 。 ﹁ 農 村 市 内 弊 、 生 繭 大 暴 落 云 々 ﹂ 。 ﹁ 大 商 店 大 工 場 開 店 、 閉 鎖 一 五 々 ﹂ 。 ﹁小曲学校教員整問減俸断行さる云々﹂。斯うした問題は、毎日の新聞紙上や月苅雑誌を賑はして行くの である o 何が現代融合を斯くさせたか? 政治も、無涛も、思想も、悉く行詰った。そして一枇脅生活の上に異肢を来すやうになったのは何故か。 私達宗敢家は是等の問題、是等の原因を殿堂伽藍の奥深く鎮座まし/,\て語らうともせず、探らうと もせ守只だ呆然ごして眺めて居ればい、のか知ら﹁世の中の不景・気は坊主風情の知った乙とではない。 俺蓮はお経
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へ讃んでゐれば現世安穏、後生善慮ぢや﹂如何にも悟ったらしくこんな優さしいお口を 叩︿坊さんの火多数は一体何んの柁めに出家得道して﹁今身よ・ 9 傭身に至るまでよく持も奉る本門の 本骨骨、本門の戒壇﹂なんてあ誓以遊ばしたんr
ら う 。 若しも宗教家が毎朝毎夕大伽監の中に諮って木魚に調子守合せて法華経行進曲位以の調子でポクポ ク、ジヤプ/\やって行くのが本望であ b 珂想であると云ふなれば上求菩提、下化衆生の開想はどうな るのか?﹁栽は坊さんだよ﹂とばか b に法衣と袈裟に吾身を包み枇曾から遼ぎかつて如何にもあ悟 b を開ひた様な御面相をしたからとて誰しら賞めもしないし、叉けなさうともしなからう。私は時折、 借 − r a 云ふ文字 h v 見つめる事がある、借とは﹁曾つては人な・ 9 ﹂ミ云ふ意味ではなかっただろう。私達 生活戦線長公役問題 九生活戦線と宗敬拘題 九 坊主はる母もゃんの胎内から怯衣三袈裟に包まれて浴出ましになったわりでもなからう o その昔、苦行林を出先沙門ゴ
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タマ色尼蓮締河の昨に村の乙女よ b 牛乳の供養を受げなかったなれ ば彼の生命も風前の灯火であったかも知れぬ o 又日蓮墨人が北海の扱島佐渡の塚原配所に於て阿備坊 夫婦の給仕奉公が無かったなれば大事人の五体は白雪喧々たる塚原に朽ちたかも知れない。 現代の宗教家が大衆に向って幾ら大きな口を叩いて説教講演に熟緯を振って見ても彼等自身の脳裡 には必らず彼等自身の生活問題が考究せられてゐるだろ5
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私は断言して止まね。 ﹁不景気が来ても 坊さんは相獲ら十呑気きうな顔をしてゐる之と﹂乙の言葉は私ばか b ではない坊さんと名のつく人は 必らず一般人からこの言葉を耳にするこ’とだら5
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果して宗教家には、不景気は馬耳念働か知ら。若しも現代の宗教家の中氏不景気無干捗のあ方があ るさ云ふならば、それは人聞には非らず坊3
んにも非らや遁傍の石地蔵かも知れぬ。試みに備敬敢闘 を見よ。信の法施と衆生の財施とに依って成立されてゐることが解る。現在日本の傭敬寺院教七万一 千三百二十九は誰の力に依って存在して居るのか。叉十四万三千九百二十人の信侶は誰の錦に生計を 立て、生活線鞍に安定ぞ得てゐるのか。 寺院生活の糧は檀信徒の汗ご血の結晶がそれである。私達宗教家はもう少し一耽曾生活の本体に燭れて見る必要は無から’フか。現代の宗教家は余りにも枇曾生活そのものに劃して無頓着ではないかしら。 人聞が母胎から投出されて人生行路の第一歩を踏み占め均時に三つの仕事が課せられてゐる事を私達 は知らねばならぬ。夫れは自己保存と自己充賓と自己延長とである o 自己保存とは生命の保存万法を 云ふ。人間は衣食住の生活を基本として行かねばなら泊ご云ム事である。衣に自己充貨とは人格向上 を云ふ。﹁人はバシなくして生きる事能はや、 されど、人はメンのみにでも生きる事能はず﹂﹁飽食暖 衣逸居して数無主時は禽獣に近し﹂﹁朝比道を聞いて夕べに死すとも可なり﹂赴等は何れも古人の言葉 である。人聞は決して三度の食事に座すばかりが能ではない。人間には文化がある。創造がある。理 想がある 1 1 1 Z 思ふ。宇宙の生物界を二つに分けて人間界と動物界三呼ぶ事が出来るだら’フ。 人聞と動物とは何慮が遠ふか知ら﹁人聞は二本足、動物は四つ足夜、人聞には尻尾がないが犬猿に は尻尾がある﹂乙んな問題は
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うでもい、ももう Z 大切な所に差違がゐる。それは動物には疎想がな いが人聞には理想がある。人間には文化生活があるが、動物にはそれがない。此慮に始めて人聞と動 物との差遣が生じるのである o 次に自己延長ごは生物界は人聞に依らや’動物に依ら守生殖作用三云ふ ものが行はれてゐる事は事賓である。生殖作用の目的は彼等生物の同族の保存延長にあるのである。 そしてこれは結婚制度に依って行はれてゆ︿。斯くして吾等人類は是等の三大事業民依って自己人格 生 活 横 線 ’ r 宗教問題一 九 一 一
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生 活 戦 線 と 凸 部 品 紙 同 題 九 四 を向上させ市して後人類枇曾をして共存共築ならしめるのである。然らば宗敬はこの三つの中何れ に嘗てはまるぺきものか、勿一論第二の白巴充貨に必要なものである o 世界人類が信奉蹄依するいづれ の宗殺を見℃もその目的が朗想生活の向上に鰯れてゐない宗敢は一つもない三私は断言する。総ての 宗教は線ての人類に向って人間生活の珂想化守鼓吹してゐるだらう。 人生には理想と現貨とのこつがある。備数的に言ふならば開想とは法的世界を指し現究とは人的世 界を指す。又理想とは悌界であ b 現貨とは九界である。しかるに現貨を離れた開想も無ければ又理 想を離れた現貨もないのでゐる。理想を離れた現貨は堕落でゐる。叉現買を離れた開想は空想と云はね ば・なるまい。私達の雨眼は正しく理想向上を表現し、叉雨足は現貰世界の大地にしっか b 踏み占めてゐ るではないか。人聞は眼ばかり利いても足が利かなければ歩く事は不可能
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。叉足ばか b 達者で私官 目であれば歩行は不可能である o 而して生活線戦ごは現賞を指し宗教は理想を指すのである。しかれど も人間生活を離れて宗殺生活はなく叉宗教より離れた人間生活は真の生活とはいへないのである o 最近の H 本 思 想 を 見 る に ア メ リ ノ カ か ら の 弗 の 風 、 ロシヤからの赤化の風に依って我闘にるトラスト 文 明 イ ﹄ Y グ エ1
ト文明とが輸入3
れつ、ある。模倣上手の日本人は我先にと争って日記等の文明を取h
入れた事であらう。﹁日本人位ひ物真似の上手な国民は世界に稀だ﹂と外閑人は批評してゐる。丁度猿が溢柿左喰って赤い顔を克仁赤くする様な具合に。そして? Y クス病患者は口々に唱へて﹁宗教は民 衆の幻想的幸編である。宗教は民衆の阿片である﹂ o 叉 ﹁ 宗 教 家 は プ Y ジ ヨ ア
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の番犬な b ﹂ と 叫 ん で 一 生懸命に宗教撲滅運動を始めてゐるではないか。 先日も大阪市中の失業努働者の群集が大阪の寺院に押し寄せて﹁俺建失業者のために寺院の伽藍を解 放せよ﹂と迫ったきうだ。この注文には流石の坊さんも丸い頭をかかえて思案に余ったとの事だ。私 の現在居る寺は東海道五十三次三嶋の宿であるが故に箱根の山を以かえてゐる。そして箱根の山を下 って来る失業者の群が、毎 H 平均二三人は寺の門を叩いて食物や金銭を要求して行︿のである。だか ら東海道筋の寺院は毎日失業者に責められて苦しんでゐる股態である。 然るにお寺の和尚様は乙の場合彼等に針して如何なる態度を取るぺきか。この問題は相嘗に考へき せられる営面的の問題ではないか知ら、〆ンを奥へるか、それとるお定ま b の説法で先づ門前梯以を 喰はせるか?﹁君達は何故働かないのだ傭様は働く人には幸一臓を授りて下さるが遊んでゐる人には永 久に幸掘は来ないだらう。人聞は働くために生れて来たのri
− − : : ﹂ 従 来 の 坊 さ ん 風 情 な ら 舵 度 乙 ん な具合に片附けて仕舞ふだらうが、これでは現代の宗敬家の偵値はないと云はねばなるまい。 ﹁馬鹿坊主!糞!俺還はわまん\好 1 5 好んでプラf
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してゐるんじゃない。 乙の殺人的不景気に嘗 生活戦線と宗致問題 一 九 五生活戦線と宗教問題 一 九 六 てられて務め先主の工場が整列されてクピになったのさ D 貴模達は何の怨に法衣や袈裟をつげてゐる
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。生主た人聞を救ふのが本分か、死人を片附りるのが本勢か l i i 俺遣は今日で二日も三日も食は ず飲まやr
。どうかして央れ﹂彼等は口外には出さねが心中では私建宗敬家に悪口ぞ叩いてゐる事だ p り ’ フ 。 宗敬家は時と場合に依って致化方法を替える必要がある。宗敬の木質は不遜であるが、教化手段と 云ふものは時代に依 b 人によ b 場 所 に よ ・ 9 務化が必要である。稗軍一代の話法の中にも大小権買の殺 却が布かれ、平等大慧の経典である法華経ですら本述思想が論ぜられるのである。 生活線戟の激しい現代に於て宗教家は如何なる敬法方針を取って宗教官.停に務めるぺきかと云ム問 題は重大なる仕事ではなからうか。日蓮翠人が六百年の昔鎌倉時代の時代相に鑑みて、法華経をして 時代的に宣布した事は私達門下の任に知・れる事である口滅後六百五十年遠忌を迎へんとする今日に於 て我等日蓮門下は、如何にして昭和時代に注華経を生かすイ3
かに就いて考へねばなるまい。宗教は その教化手段並びに方法を時代文化に照し合せて行かなかったならば宗数的効果と云ふものは頴はれ ないであらう。 此昆に於て現代の宗教家は三秘修行や五種修行ら大切であらうが生活線戦の激しい現代に於℃は、生活線戟そのもの L 本体を知 b 、市して後宗教的手段そ講じて教化戟線に第一歩を踏み出すのが今日 郎も昭和時代の宗教家ごしての営面の問題では−なからうか。 己 上 ︵ 昭 和 五 年 八 月 品 川 一 日 股 稿 ︶ 戚 随 官