i
「メ メ
ン
ト
・モ
リ
(
死 を想 え
)
」に
つ い
て
一
仏
教
と
の類 縁 性 も合 わ
せ
て
の考 察
狐 野 利 久
序
英 語に 「ネ クロ フ ィ リ ア
(
necrophilia )」 とい う言 葉がある。
「死 骸 趣味
」 とい う 日本語
が その訳 語に なる。
ヨー
ロ ッパ では,中世末
期か らル ネッサ ン ス に か けて, 「 死の舞踏
」 だ とか, 「 三人の死者
と 三人の生者
」, 「 死の勝利
」な どの絵 や, 「トランジ」と言わ れ る腐敗
し た屍体
の墓 像 彫 刻 など が, 流行
し た。従
っ て, 当 時の人々 に は その よ う な 「死 骸 趣 味 」 がお そ ら く あっ た か ら なの だ ろうと考 え ら れ が ち だ が, そうでは な くて,
その よ う な 流 行は, 当時
の 人 た ちに とっ て 「 生きる」 とい う問 題が あった か ら なの で ある。 生き るこ とが ど うし て当時
の人た ちに とっ て 問 題で あっ たの か と言
え ば, 少な く と も三 つ の理 由が挙 げら れ よう。 す な わ ち,12
世 紀 頃まで, 修 道 院の イニ シャ テ ィ ブに よっ て開 墾 事 業が順 調に お こな われ, そ の結果
全ヨー
ロ ッパ の森
林の八割が伐 採さ れ て,耕作
地が増
え, 人口 も増して, 人々 の生 活は安定
し た か に見え たのが, 次の13
世 紀になる と, 全ヨー
ロ ッパ が異常気象
によ る寒さに見 舞わ れ,開
墾が中
止 と な り, 不作
と か凶作
のた めに,多
くの人々 が亡 く な る とい う事
態になっ た の で あ る 。 イ ギ リス で は冬 期 間テー
ムズ川が結
氷し, 子 供達
は氷の上で遊 ぶ ほ どであっ た し, そ の ような寒
さ で, イ ギ リス で は葡 萄が実 ら な くな り, そのた め以後
ワイン の 生産をイ ギ リス で は中 止し て し ま う とい うことになっ たの であっ た。
この よ う な異常気象
は人々が 生きてい く上 に お い て,
大問
題と な る事態
である。 又 イ ギ リス とフ ラン ス との間
で, 王位
継 承 問題 に よ る100
年
戦 争 (1339
年〜
1453
年)
が起
こり, 更に イギリス で は,引
き続い て王位 をめ ぐる薔薇
戦争
が起
きる とい うこ とで, イギ リス もフ ラ ン ス も国が疲 弊し,戦争
によ る大 勢の人々の無 意 味な 死 とい うこ とが, 人々 に生き る不 安を与 えたの で あっ た。 そ れ か ら3
つ 目と して は,1448
年に起き たペ ス トの流 行に よっ て,村
や町が全滅
し た り,
人口が半 減し た り して, 人々 はペ ス トに感染
す る こ と を怖
れて病 人の看 病 を放 棄し, 遺体
はゴ ミ の投 棄の ごとく処理 さ れ, 人々 は明 日の命
も分
か ら ぬま ま, 死の恐 怖 を抱い て生活
し たの であっ た。 ペ ス トにつ い てのそのような事 情 は, ポッ カ チ ョ(
D
.
Boccaccio
)の 『デカ メロ ン 』, デフ ォー
(D
,
Defoe
)や カ ミュ(
A
Camus
>の 『ペ ス ト』 な どの小 説に詳しい。 ヨー
ハ ン・
ホ イ ジンガ (Johan
Huizinga
)
の 『中
世の秋』 による と , キ リス ト 教で は 早 くか らメ メ ン ト・
モ リとい うこと を説き, 又 托 鉢 修 道 会 (フ ラン シ ス コ修 道 会や ド ミニ コ 修 道 会 など)の成
立によっ て, 修 道 士た ちによ る 民衆
説 教が盛ん にな り, そ れにつ れて, メ メ ン ト・
モ リ を勧める声が高まっ て行っ た とい うこ と であ るが, 人 間 とい う もの は切 実な問
題に直
面し な け れば, メ メン ト・
モ リとい うこ とが言わ れて も,
分か らぬ もの で ある。 少 な くともこの よ う な 三つ の要 因が あっ て, は じ めて入々 は お 互 い ど う やっ て生きて い くか とい うこ と が各 自の問題 とな り,2
「メ メン ト・
モ リ (死 を想え) 」 にっ い て そ し て 又, 上 記の よう な絵や彫 刻が人々 の目に触
れ る よ うに なっ て, 人々 は 「死を直
視し,今
を生 き ること の大 切さを知る」 ようになっ たので あっ た。読 売 新 聞 社の英 字 紙
,
「ザ
・
デェ イ リィ・
ヨ ミ ウ リ(
The
Daily
Yomiuri
)」 の,2000
年11
月9
日号
に,東京
上野
の西洋
美術館
で開
催してい る『
死の
舞踏
,中世
末 期か ら現 代 まで』 につ いて の, ロバ
ー
ト・
リー
ド(
Robert
Reed
) 氏の解 説 記 事が掲 載さ れてい る。 その中
で氏はTotentanz
,
la
Dance
Macabre
,
the
Dance
ofDeath
.
Since
the
Middle
Ages
it
has
been
aconstant themethroughout
Western
art,
atheme
perhaps
as unavoidablefor
artists ofthe
Christian
tradition
asthe
Final
Judgment
itself
.
(トー
テ ン タン ツ, ラダン ス
マ カ
ー
ブ ル, ザダ
ン スオブ
デス。 そ れ は中 世 以 来, 西 欧 芸 術を通し て
常
にテー
マ とな り, キ リス ト教の伝 統の芸 術家
に とっ て は,最後
の審 判 その もの と同じくらい ,お そ ら く避け ら れ ない テー
マ と なっ てい る の だ。) と言っ てい る。2000
年10
月11
日か ら12
月3
日 ま で上野 の西 洋 美 術 館で展 示さ れ た 『 死の舞踏
』は, デュ ッ セル ドル フ大 学 所 蔵の版 画や素描
で, ホル バ イン, デュー
ラー
, レ ンブ ラン ト ら の作
品か ら19
世紀末
の アン ソー
ル やク リンガー
、 そ し て20
世紀
のホル ス ト・
ヤ ン セ ン,
ヘ ル ベ ル ト・
フ ァ ル ケ ンなど現 代 作家
の作
品まで もある の で, リー
ド氏の言
うように,
キ リス ト教の伝統
のある国
々の芸術
家に とっ ては, 死を テー
マ に し た作 品 を発 表 するこ と は,当
然の こ と で ある の か も し れ ない 。 そ う して,
死を テー
マ に し た作 品が現 代の芸 術 家た ちに も あ る とい うこと は, 西 欧の人々に とっ て, キ リス ト教徒
である以 上は, 芸 術 家 と同じテー
マ を 以 て,今
日生 活 して い る ということ を意味
し て勲
慰
.
、
よ 簍.
.
ジ }卿
、
葦励
幹胴
噛
、
♂沿
「
塾、
ぜ 隊 −.
毒 補、
尋 二 二、
靹 蛄.
ρ
響 ∴鋸
熱
鸚
纛
鬻
鑢
・
鼕
訟 欺辱
・
、
の 訝、
・撫
馳,
。
.
寧
唔
ぎ
叺
・
君
ヒ
歌
孟し
「
舮
内
・
⊆ 筆P
鈩
ひ
郵内
擁
r
♂
广 鋭 噛跨
F賦
F
摎グ
邑
.
、
冖
靭
獄『
乙・
論、
“
毒
訓
踵
ひ
鐸、
ド
窄
、
メ ル 匕 オー
ル・
グロセク : 「死の姿,
第一
次大戦の 死 の舞踏 1 よ り。
第3葉 ;行 進。
狐 野 利 久
9
い るのか も し れ ない。筆者
は西 欧にル ネッサン ス とい う文 化の花が開
い た の は, 「メ メン ト・
モ リ (死 を想 え ) 」 とい う こ と が言
わ れ てい たか らである と考えて い る。 なぜな らば, 死の 自覚があっ て こそ,
生の意味
が明 らか にな る か ら である。 そ こで, 「メ メ ン ト・
モ リ 」 の範
疇の中
に , 『 死の舞踏
』 だ と か, 『三人の 死者
と 三人の生者
』, そ れ に 『腐 敗 死 骸 像 (トラ ンジ) 』 な ど を皆含
め,更
に シェ イ クス ピア の傑 作の一
つ 『 ハ ム レ ッ ト』 を取
り上 げて, 広い視 野から 「メ メ ン ト・
モ リ 」 の意味
を考
え,合
わせて仏 教 の 「九相
」 とか 「九相
詩絵
図」 などと の類 縁 性 を考 察して み よ う と す る ものである。
1
キ リス ト
教
の伝統
で は, 「最
後の審 判 」 は 「十 字 架の キ リス ト」 と共に重 要な教え で あ る が,’
フイ リッ プ・
ア リエ ス の 『死 と歴 史』 に よ れば, 初 期キ リス ト教の何
世 紀か にわ たっ て,教
会に所属
す る キ リス ト教 徒には, 『審判
』 も な け れ ば, 『劫罰
』 もな く, キ リス ト再臨
の 日に, 天上の エ ル サ レ ムで, 目覚
め る とい う終末論
で あっ た とい う。 ところ が キリス ト教の布 教が進んで,12
世紀
頃にな る と,……
『マ タ イ伝
』 に 示唆さ れ た新 しい画 像, 死 者の蘇 生,義
入 と堕 地 獄者
の分離
が現れて き ま す。 す な わ ち審判
, 大 天使
聖ミ カエ ル に よる魂の秤 量です。 そうして,13
世紀
に は, 黙示録的
な発想
,大
い な る蘇
りの喚
起 は ほ と ん ど見
ら れな くなり ました。
裁 き の観 念が優 位 を 占め る ようにな り, 裁きの廷が描
き出
さ れ ま す。 キ リス ト は裁判官
た ち(
使徒
た ち)に囲ま れて, 裁き手の座
に座
っ て い ます。 二つ の行動
が ま す ま す重要性
を もつ よ うになっ て きま す。 魂の秤 量 と,
裁 き手 キ リス トの両 側に手を合 わせ て跪い てい る 聖母マ リ ア と 聖 ヨハ ネの仲 介です。 と言っ てい る。 「13
世 紀に は……
裁きの観 念が優 位 を 占め る ように」なっ た とい うこ と は, ペ ス トの ボー
ヌ の 「最後の審判 」4
「メ メン ト・
モ リ (死 を想 え ) 」 にっ いて流行
によっ て大 勢の人々 の死 を,
神の裁 き と考 える よ うになっ た た め である。 か く し て, 「 最 後 の審 判」 とい う発 想 が優
位 を占
め る よ うになっ た と アリエ スが言 うの である。 『最後
の審判
』の 絵では,
シス テ ナ礼 拝 堂の ミ ケ ランジェ ロ の絵
が有名
で ある が,筆者
にとっ ては, ボー
ヌの施薬
院にある, ロ ヒー
ル・
フ ァ ン・
デル・
ヴェ イ デン(
1400
?〜
1464
)
の作
と伝え ら れ る祭 壇 画 の 『最後
の審判
』 の絵 (
サ ン= ル イ館 所 蔵 )が 忘れ ら れ ない。 こ の絵
で はキ リス ト の ま とっ て い る真
っ赤
な衣 服と大 天 使 ミ カエ ル の純 白 な 衣服
と が対象
的な色
彩で ある が た めに印 象に残っ ているの で あろ う。
キ リス トの両 側に は聖 母マ リア と聖ヨハ ネ を初め とする使徒
が描
か れ てい るが,彼
らは手
を合
わせ て,裁
か れ る人 間の取 りなしをキ リス トに求め てい るの で あ る。中 世の人々は,自分の 死 が近い こと を
覚
る と,病
の 床に臥
し な が ら,この世
の こ と を忘れて,神
ボー
ヌの 「最 後 の審 判」部 分 の こ と を考
え, 心の準備
を し たのであっ た。 従っ て, 当 時の人 た ち は 急 死 するとか, 突 然 死ぬ と か と い う死 に方
を恐れ てい たの で あっ た。つ まり, 死その もの よ り も, こ の世に お ける己の所 業が審 判で裁
か れ るの が恐ろ し かっ た か ら である。 シェ イ クスピ アの 『ハ ム レ ッ ト』で も,
ハ ム レ ッ トの亡 霊はThus
wasI
, sleeping ,by
abrother
’
s
hand
Of
life,
of crown,
of queen,
at orlcedispatch
’
d
;Cut
off evenin
the
blossoms
of my sin,
Unhouse1
’d
,disappointed
,
unaneled,
No
reckoning made,
but
sent to my accountWith
a11 myimperfections
on myhead
.
(1
幕,5
場,74
〜
79
)こうして, 私は眠っ て い る ときに, 弟の手に よっ て い のち も, 王冠も, 妃も,
一
度
に奪わ れ たの だ Q私
の罪
の花
ざか りの と きであっ た か ら, 聖餐
も受けず,臨終
の 塗油
式も受けず,(
死出
の)準備
もせ ず, 犯 し た罪
の勘 定 もしない で, すべ て の罪 や 汚れを背 負っ た ま ま, 審 判の座に送 られ たの で あっ た。 (筆 者 訳 ) と言い,
死の準 備を し ない ま ま,
突 然 死 出の旅 路につ いたの で,
あの世に お い て,
生前
犯し た罪業
狐 野 利 久 5 が
焼
か れ,清
め ら れ るまで,
責 め苦 を受 け な け れ ばな ら ない こ と を語
っ てい る のだ が, 当時の人た ち はこの よ うに心 の準
備 をしない で突 然 死ぬ こと を恐れ たのであっ た。
フ イ リッ プ・
ア リエ ス の 『死 と歴史
』 に よ れば, 病 人が死 期 を 覚る と, 教 区の司祭
を呼ん で,臨終
の塗 油 式な どの最 終の秘蹟
を し て も らい , 罪 を 告 白し, そ して 肉親や子 供た ち,知
人縁者
に囲
ま れ て, 往 生 し たとい う。 この よ う なこ と から中 世の人々 の時 間の意 識を考え て み る と,時間
は 「最後
の審判
」 に向か っ て流 れるも の と考え てい たことは確か で ある。 従っ て, 死ん で もこ の世
の終末
の 日が来
る ま で は休 息の時で あ る と考
えて い た とい うこ とが解
る の である。とこ ろ が
15
世 紀 頃になる と, 「 最 後の審 判」 は死後
で は な く瀕死 の人 の横
た わ っ てい るベ ッ ト の 周 りで行 わ れるよ うになっ た。 そ れ はベ ス トによ る肉体
の死 を もっ て 死 と す る とい う考え方が現れ て きたか らであろう。 従っ て, 瀕 死の人は,最後
の審判
を自
ら の手に よっ てお こな うこ と になっ た の で あっ た。 即ち, 瀕 死の人が死ぬ と き,肉体
か ら魂
が飛 び 出し て くるのを悪 魔が待ちか ま えて地 獄に連れ て行 こうと して い るか ら,息
を引き取る と きに与
え ら れ た最後
の試練
, つ ま り最後
の誘 惑 に負 けて し ま うと, 全 生 涯に お ける善 行は無 効と なP
,魂
は 悪魔
に よっ て地獄
に連
れ て行
か れ る が, 誘 惑に打ち勝つ な ら ば, 全生涯にお け る悪行
は帳消
し と な り, 天使
が魂をエ ス コー
ト し て , 天 上に 送 り届 けら れ る とい うことになっ たのである。従
っ て, 「最後
の審
判 」は キリス ト による ので はな く て, 本 人の 「最
後の試練
」 に よ るのだ とい う よ うに変
わっ たの である。 こ の ような変 化は 「死 」 が 「 今 日は他 人の身, 明 日は わ が身」 とい うこ と を人々 に教
え, 「 死」 が人々の 上に実感
として受
け取
ら れ る ようになっ た こと と関係
が あ る。 そ れ は 丁度
, 「十字架
の キ リス ト 」につ い て言
えば, キ リス ト教
の初期
の頃の もの は 「勝利
の キ リス ト 」 であっ た のが, 中世
末 期か らル ネ ッサ ン ス に か けては 「苦悩
のキ リス ト 」が一
般的
に見
られ る ように なっ たとい うこと とも関 連 が ある問 題である。
例 え ば, マ ド リー
ドの国 立考古学博物館
所蔵
の象
牙磔刑像 (
1063 年
頃)
や イ タ リ アの ガ ル ザー
ナ大
聖 堂にあ るグリエ ル モ の 『十字架
上の キ リス ト 』 (1138
年
)の テンペ ラ な ど は, 直 立し た様
態の 「勝 利の キ リ ス ト」 であるが, ド イツ絵
画の最高
傑 作 と言わ れ てい る ウンター
リンデン美 術 館 所 蔵のグ リュー
ネ ヴァル トのイー
ゼンハ イム祭 壇 画 (現 在のフ ラン ス東 部アルザス地 方のイー
ゼ ンハ イム村の聖アン トニ ウス会 修 道 院 付 属 聖 堂の主 祭 壇 画 )の キリス ト は,
突き刺さっ た とげ , ね じれ る指, 釘 を打た れ た足など,息
絶え る直前
の痛ま しい 姿の 「苦 悩の キ リ ス ト 」 が描かれてい る。中世
末 期か ら 「勝 利のキ リス ト」 で はな くて 「苦 悩のキ リス ト」 が描かれ る ようになっ た とい うこ とは, 大 量の人々 の死を眼 前に し て, 人々に自分の罪 業を 「 苦 悩のキリス ト」 によっ て強 く感 じ さ せ ようとし たこ と を 示 し てい るのであり, その結
果 人々 は自
分が自
分の 「 最 後の審
判」 をする必 要にせ ま られるよう になっ た とい うこ とで ある。こ の よ うに見て く る と,
戦争
によ る大 量虐
殺とか飢
饉に よ る多 数の人たち の死 とか とい うこ と も さ ること な が ら, ペ ス トの大 流 行が強 力な 死 の イ メー
ジ を 人 々に植
え 付け た とい う こ と は間 違い な い ところである。 な ぜ な らペ ス トは健 康 な 若 者で も,
柔 弱 な 年 寄 りで も, 無 差 別に し か も突発
的に 人 々 を 死 に追い や る か ら で あ る。 その こと を如実
に示 し た絵が 「 死の勝 利」 とい う図 像である。
有 名 なの はフィ レ ン ツ ェ 派の木
版 画 「死 の勝利
」(
15
世紀末
)で あ ろ う 。 そ れ は大き な鎌をかつ い だ死 が車のつ い た 墓の上 に立 っ て,
その墓を 四頭の 馬に ひ か せ,
車の 下に は無 数の人々 が車に轢か れて6
「 メ メ ン ト・
モ リ (死を想え)」 につ いて い るとい う もの である。
又 マ ド リー
ドの プラ ド美 術館
にある ピー
ター
・ ブ リュー
ゲル (1525 年
頃 〜69
)の 「死の勝利
」 は多
くの人に知ら れ てい る名 画であ る。 そ れはどこか らとも な く湧い て き た 無 数の骸骨
が,鎌
を かつ いで馬をの り ま わす 隊 長の もとで, 無 差 別に人 を殺 戮 してい る とい う絵
で ある。 そ の他
, デュー
ラー
は , 「青色
の 馬に乗
った死の騎士jが地 上の人 間の四分の一
を殺 す権 利 を 与 え られ た とい う『ヨハ ネ黙
示録
』(
6
:8)
の言葉
によっ て,
木 版 画 『四人の騎士』を制作
してい る。 人々 の 心に は, 死との和解
を求
め る願い が切 実 な もの で あったろうと想 像さ れ る。2
15
世 紀 頃か ら, 「最
後の審判
」は,前
述の ように, この世
の終
わ りにお こな わ れ るの では な く,
瀕 死 者のベ ッ ドの周り で お こな わ れ る よ うになっ た。 その頃各
国に出
回っ てい たい ろい ろな版の 『往 アルス.
モリエ
ンディ 生術
ars moriendi 』で は, 悪魔
の誘 惑に対して, どのように, それに打ち勝つ か とい う「最 後の試練
」が, 天国
行き か地 獄行
き か を決め るこ とにな る と教
えてい る。 手 元にあ るベ ラルー
版 『アル ス・
モ リエ ンディ』 で は, ま わ りの人た ち に は見
え な く て, た だ瀕 死者
だ け が目にす ることの で き る超
自然の存在
た ちが,部
屋に入 っ て き て, 瀕死者
の ま わ りで ひ し め き合
っ てい る とい う場 面が描
かれ てい る。一
方
の側
に は キ リス ト, 聖母マ リ ア, 聖者
全 員がお り, 今一
方の側 には サ タン と悪魔
達が い る。秤
量を持っ た ミ カエ ル の姿は も は や そこ には な く, 瀕 死者 自身
が裁
き手と な り,神
は 人間と 悪 と の戦い の証 人 と し て立ち会っ てい る とい う絵
に なっ てい る。
ベ ラルー
版の 『往 生術
』 の中
の, 例 え ば, 「悪 魔 が 吝 嗇の人の死に臨ん で試
み る第 三の誘 惑」 に つ い ての 絵では,
次の ような 説 明 が書い てある。
第
三番
目に, 教 会や神
を堅 く信じ てい な い の に, カ トリッ ク信 者 として死に たい と 願 う病
人を, 地 獄の悪 魔は絶 望へ と落 とす こと はしない で, 別の方 法で彼 を裏 切ろう とする。 しまい に は, 彼の魂の救 済のた め にな るもの を取 り除き, 病 人が こ の世で所有
してい た全ての取引
や仕事
を思い出
さ せ る の だ。特
に,彼
が最
も愛
し,最
も愛情
を そ そい で き た者た ち や,裕
福に暮ら した こ の世
の も の全て を置い てい かなけ れば な ら ない,
とい うことを残 念が ら せ, 彼の常 識 を困 惑 さ せ, 彼自身
の魂
の救済
を忘れ させ る の だ。
こ の誘 惑は主に,
巨 大 な 冨 や,
財 産, 美しい 女 性たちを持っ てい る者や, よ い 血筋
の者
に 向けられ る の だ が, 彼ら は神5
「
・ 、
.
’
繋
麟
「悪 魔 が 吝 箇の人の死に臨ん で試み る第三 の誘惑 」狐 野 利 久
7
へ の奉 仕や 自己の魂の救 済 とい うこと よ りも, この世
に快楽
を見出
し, 地 位を求め てい る か ら である。
地 獄の悪 魔は,
全て を 忘れ去 り, 置い て行かねば な ら ない 死の瞬 間に, そ れ らを思い 出さ せ て, 次の ように彼に言 うの で ある。
「 お前は な ん とい う悪 人だ。
こ の期に臨
ん で, お前の なか に悪 意 と不 運がある のを知るべ きである。 お前はい ままで楽 し く, 安 穏に過 ごし て き た の だろ うが, 突 然, こ の世の財 産, 苦 労 してやっ と手に入れ た財 産 を全部
な くす のだぞ。 お前の 妻, 大い に愛し た子 供た ち も だ。 美しい田 畑,
美しい邸 宅 をお前の死 後,
誰が存 続させ られ る だ ろ う か。 お前
の海
ほ ど もある商
品を誰が,
死 後,管
理で き るのだ ろうか。
お前はこ の瞬 間に,
楽
しみ も,名
誉 も, 財産
も失
うのだ。 お前
は早 く死に過 ぎる。」こ の ように説 得し て, 悪 魔は人 を欺こ うとするのだ。 そ して つ い に, 俗 世 間に思い を残 させ, そ の虚 栄 ばか りを考
え させ る が た めに,魂
につ い て考
え ること を し ない ようにするの である。 (筆 者 訳 ) これに対し て, 『天 使 が 吝 嗇の人の死 に臨
んで与
え る第
三の 励ま し』の絵
で は次の ような説 明が し て ある。吝 嗇の者 を 悪 魔 がそ そ の か す こ と に
対
し て, 天使
の側か ら は,
良い教 訓 を授 け,
良 く対 抗 す るための, 真 実の良 薬 (m6decine)
を与
え る。 「人 よ , 悪魔
の危
険な そ その か しに耳 を貸 しては い ない 。 彼 ら は,
お前が魂の救 済 を得な け ればな ら ない とい う考
え をお前
か ら力つ く根 絶 し よ うと して い る。 こ の世の ものにつ い て考
え てはな ら ない。 お 前 自 身は灰になる のだ, 灰か ら出て灰に か えるの だ。 更に憶
え て お くべ きこ と は, 生 ま れ た と き裸であ り,
何 も もっ て い なか っ たで は ない か。 同様
な姿 に お前
は戻ら なけ ればな ら ない 。 お前の魂 の救
済のた めに, お前
はす すんで, この世 の もの を捨
て る 必要
が あ る。 こ の世の所 有 物に執着
して, この世
の歓
びを得
ようとす る者に, わ れ わ れの救
い 主は こ う言っ て お ら れる, あなた が た の う ち で,自
分の財 産 をこ と ご とく捨て きるもの で な く て は, わ た しの弟
子と なることはで きない , と(『ル カに よ る福
音 書』十 四 章三十三節
)。妻や 子, 兄 弟 姉 妹, 父母, 田畑を捨て る も の は, わ が名に おい て主は述べ た もう
永 遠 のい の ちを得るであろう。」
「私の友よ , わ が 主 は, お前のため に進ん で十 字 架に かか り給 うた。
最愛
な る母と,
「天 使 が 吝嗇の人の 死 に臨ん で与える第三の励 ま し」8
「 メ メ ン ト・
モ リ (死 を 想 え )」 にっ い て彼の愛 した 弟 子た ちを 捨て給 うた。 又, 多 くの聖人, 聖者は, か り そ めのもの に
対
しての争
いのなか で, 主に従い, 主の
申
さ れ た こ の美しい言葉
を聞
こ う と し た。 わ た し の 父 に祝
福さ れ た人 た ちよ。 さあ, 世の初め か らあな た方のた めに用
意
さ れ てい る御
國を受
けつ ぎな さい ( 『マ タイに よる
福音書
』 二十
五章
三十
四節)
。』そ れ故, 天 使は病 人に言 う。 「 友よ, わ た しの言 うこ と を よ く心に
刻
み な さい 。 そ し て, お前
か ら仮のものすべ て を, 毒の よ うには ね
除
き な さい 。 そ し て自
ら進ん で, 貧し さ に心 を向 け なさい
。
なぜな ら,
さいわいな る か な, 心の貧
し き者
, 天国は そ の人の も の な り, と申 した神の約 束によっ て, 天 国が お
前
に さず
か る だ ろうか ら。 友よ, よい 誓い と期 待 を すべ て神の意 志にゆだね なさい 。
神
はお前
に永
遠な る冨 を あたえる であろうか ら。
」 (筆 者 訳 )このよ うに, 健 康な と きに蓄 財 し,
妻
や子に囲
ま れ る暮
ら しをし てい る吝 晉の人は, 死を目の前
に したとき,
「 メ メ ン ト・
モ リ」 とい うこと が自分
の問
題となっ て意 識に の ぼ る ようにな る。 そ うし た と き, 自分の人生のい ろい ろ な事
が走 馬 燈の ご とく思い 出されて,
最 後の 審 判の こ と よ り も,自
分の財 産と か,名 誉 とか が心 配と な り, この世
の物質
的欲
望へ の執 着 を 断ち切れず
, その悩
みがずっ と大 き くなっ て苦し む と き, そ こに悪魔
が 入 り込 ん で, 誘 惑 し ようとするの で ある。 キ リス ト教で はこの世の 所 有 物に執着
する心こそ.罪
であり, 天 国に入る妨 げになる と して教えてい る か ら.自
分 自身が裁き手と なっ て,執着
を断
ち切り, 御 国 を 受 け継 ぐよう,
天 使は瀕 死の人 を励ま す の で あ る。
か くして 「最後
の試練
」 に打
ち勝
っ た人の魂は, 幼 児の如き裸
の姿で, 天使
にエ ス コー
トさ れ て昇 天 する ので あっ た。3
「メ メ ント・
モ リ」 は, 又, 『三人の死 者 と三人の生 者 』 とい う 図柄
で も示 さ れ る ようになっ た。 これ は絵に向か っ て左 側に 三人の生者
, そし て右 側に 三 人の死者
が突 然 出会 うとい う構 図になっ て 「三人の死者と 三人の生者 」,
『マリ・
ド・
ブラヴァンの詩 集』 より,
13世 紀末狐 野 利 久
9
い る。
(向
か っ て左側
に 三人 の死者
,右
側に 三 人の生 者の場 合 もある。)又, 三人の生者
は 三人の三E
の場 合 もある し, 三 人の若者
の場合
も あ り, 又, 公 爵, 伯 爵, 王子の場 合 もある。 マ リー・
プラ ヴァ ン ト祈 祷 書の挿し絵は よ く知ら れ てい る が, そ れ は13
世 紀 末の もの で ある。
三人の王 が 揃っ て狩 り に出か ける とき, 自 分た ち の 死 ん だ姿
と出
会い, か くして自
分たち も生 きてい な が ら絶
えず死 を忘 れては な らない とい うこ とを悟る とい う絵
で ある。小 池 寿 子 氏は,
著書
の 『 死者
た ちの 回廊
』 の中で, ポー
トワ ン・
ド・
コ ンデ(
1280
年
頃 没 )とニ コ ラ・
ド・
マ ル ジ ヴァ ル(
1310
年
以前
没 )の作 と され る対 話 形 式の詩 『三人の 死者
と 三 人の生 者』 を紹 介してい る。 詩は序
か ら始
ま り,先ず
三人の一
こ の場 合 は貴
公子 である が,若
者
が語 り,
次い で三人の死 者が語 り,最後
に結語
が来
る とい う構
成に なっ て い る とい う。 死 者の姿に驚い た三 人の若い貴
公子 は, 第一
の若 者, 「我が友よ , 三 人の死者
を前
に恐 れお の のい て し ま う。 そ の姿
と き た ら見るも無 惨で醜 く, ふ り返るの も恐ろ しい 。」 第二 の若 者, 「こ の ような
鏡
,神
が送 り給 う たこの鏡に耐え な け れば。 だ が よく見る ことがで き や し ない。」第
三の若者
, 「も ち ろ んで すとも神 様, これ こそ神
の憐
れ み。 腹 も背 も肉 もな く,今
と なっ て は骨
だ ら け。 足, 腕,
背 中, 腹か ら肩まで, すべ て な くな っ て し まっ た。 死と蛆 虫の な せ る わざ。 目 も口 も
鼻
も あ りゃし ない 。」 と驚き の言葉
を そ れ ぞ れ述
べ て い る のに対し て, 死者
は そ れ ぞ れ次の ように言っ てい る。 肉の削 げ 落ち た胸
元 で, 骨だ らけの腕 を組み合
わ せ た第
一
の死者
,「殿 方よ ,わ た く し ど もをごらん下さ れ。わ た くし ども も,かっ て はあな た た ちのようで あっ
た の に,
今
と なっ ては ごらん の と お り。 わ た くし は公 爵で あっ た。一
人は伯爵
, もう一
人は男 爵で,
驕
り高
ぶ る者た ちで あっ た。神
が わ た くし たち を遣わ し たの です。」 前の死者
の肩に手
を かけて,
首 を や やか しげな が ら言 う第
二 の 死者
,「全て が
必ず
や こ うなる定め。 悪し く,悲
し く, そ して確か な 死。 死 すと なれば王や 王 子,公 爵や伯
爵
も誰が誰だか闇の中。 死 と は 父 か ら受 け継いだ もの。 遡れば,我
ら が最 初の父アダム の罪の 死 に よっ て, わた く した ち に 死 が も た ら された
。
エ ヴァ の 悪 し き誘 惑 を通 して ,死の重 き拷 問と地 獄が も た ら されたので す
。
」 すで に 内臓 も朽
ち果て て ぽっ か りと空 洞に なっ た腹
部を した 第三 の 死者
,「 同 胞, そ して友 よ, 神に
向
かっ て祈 り, そ して, 私の言 葉 を しか と聞き な さい 。 な ぜ な ら,死な く して生 はない のだか ら。 生 の巓 末 をみつ め な さい 。 若き も老い, 明日 を も知れぬ生の
な りわい 。 冨 を 求めて も もは や な く, 死は その槍で人々 の
命
を奪
う。 おまえたち もや がて はか くなろう
。
な ん と悲痛
な な りゆ き であろ う。 わ れ ら が父に祈り給
え。 よ りよき最 後が も た ら さ れ んこ と を。」JO 「 メ メン ト
・
モ り (死 を想え)」 にっ いて こ の ように見て く る と, 『三人の死 者 と三人の生 者 』は死ん だ自
分が生き てい る自 分と対 話 してい る とい う ものだとい うこ と が分か るであ ろ う。筆
者が訪れ たパ リか ら南約
80
キロ に ある ラ・
フ ェル テ・
ル ピエー
ル の教 会の 『三人の死者
と三 人 の生 者』 は,1490
年か ら1500
年
に か けて, 描か れ た も の と言わ れて い る。
真ん中
に十字架
があっ て, そ れを挟 んで , 右 側に馬にま た が っ て狩り に出か け ようと す る貴 族 と おぼ し き若者
三 人 が, 突 然の死 者の出現に驚い て い る ところ が描かれ, 左 側 には 屍衣
の姿
の,半
ば白骨 化し た 三 人 の死者が, お れ た ち は お前た ちの な れの 果てだ と若者
た ち を威 嚇してい る ところ が描
か れ てあっ た。こ のように, 若さ の お もむ くま ま,
奢
り たか ぶ る振
る舞
い の若 者に, 死が 「 メ メ ン ト・
モ リ」 を教
え る とい う構 図の ものが,14
世紀
にな る と, もっ とお どろお ど う しい もの にな る。例
えばイ タリアの ス ピ アー
コ のベ ネ ディク ト派修道院
聖 堂 (サ グロ・
ス ペー
コ )の壁画
は, 王 が棺の中に死ん でい る自
分を見る とい う図 柄の もの で ある。棺
は 三つ お い てあっ て, 死に方の プロ セスが そ れぞ れ 示 さ れてい る。 即 ち,一
番左側の 棺の中
の姿は王が死ん だ直後
の もの, 真ん中
の棺は王の屍 体の腐 敗が始
まっ て, 死 体 が 膨 らんでい る ところ の も の,一
番 右 側の 棺は完
全に白
骨 化し た もの と なっ てい る。
厂 三人の死 者と 三人の生 者」壁 画,
14世 紀 末,
サグロ・
スペー
コ,
イタ リ ア狐 野 利 久 〃
4
「メ メ ン ト
・
モ リ 」 の教えが人々 の生 活に馴染
む よ うに な る と, 生者
と死者
の交
わ りのイメー
ジ が 生ま れ て く る よ う に な る。 この生者
と死者
の交
わ り の典
型的
な例
が, 「ダン ス・
マ カー
ブル(
Dance
Macabre
)」と呼 ばれ, 「 死の舞踏
」と訳さ れ てい る。 『三 人の死者
と 三人の 生者
』の構
図と は違
っ て, 「 死の舞踏
」で は腐乱
し た死体
, も し く は骸
骨に近い状態
の死者
が生き てい る者
の手を取 り, 又は肩 に手
をか けて, 不気味
な笑
い を浮
かべ な が ら, 墓 地に誘
う とい う構
図になっ て い る。 「死の舞踏 」 壁画 の一
部,
15世紀 末,
ラ・
フェル テ・
ル ピエー
ル,
フ ラン ス この絵
も,絶
えず死 と交
わ る こ とに よっ て, メ メ ン ト・
モ リとい うこ と, 即ち,来
るべ き死 に対
し て た えず 準 備 し て お く こ と を教
え る もの である。 ラ ・ フェ ル テ ・ル ピエー
ル の教 会で は, こ の 『死 の舞 踏』 の壁 画は礼拝
に集
ま る信者
の席
の壁の上に あっ た。 絵の構
図とし て は生者
と死者
と がペ ア に な っ て, 交互 に配 置さ れ, 行 列を な してい る。 死 者と生 者がペ ア に な っ てい る とい う こ と は, 死 者は生 者の死んだ 姿である か ら で あ る。 又, 「 死の舞 踏」とい う名は死 者があた か も生者
と踊る よ う な足 どり を してい る こと か ら, そ の名
が与
え ら れ た ようである。
マ カー
ブル とい う言 葉につ い て は, 「 身の毛 もよ だつ 」 と か, 「ぞ っ と す る よ う な」 とい う意味
だ と されてい る が,定説
は ない 。とこ ろ で, 「 死の
舞
踏」の 図像
で , 最も古
い ものは, パ リの サン = ジノサン墓 地の納
骨 堂の回廊
に 描かれ た壁 画である と言わ れ てい る。 その こと は 『パ リー
市 民の日記 』 によっ て,制作年
が1424
年 で あ るこ と,1429
年に は コ ル ドリェ 会 修 道士 リシ ャー
ル (Ricard
)が 「 死の舞 踏」 が描かれ てい る 回廊のある納 骨 堂に背を む けて,
通 行 人に対 して, 説 教を お こなっ て い たこと が明らか に されて い る。
こ の サ ン= ジノサ ン墓 地は , パ リの20
もの小 教 区が この 狭い 囲い地 に死者
を 埋葬 する権 利 を 持っ て い た とか で,
ペ ス トの 流 行の最
盛 期には死 者の埋葬に追わ れ , 死者
た ち は絶
えず 新 参 者に場 所を譲ら ねばな ら なか っ た とい う。 そ の た め 九 日 く らい で掘 り返され, 掘 り返さ れ て出て き た骨は12 「メ メ ン ト
・
モ リ (死 を 想 え) 」 につ い て納
骨 堂の中
に積
み 上げら れ た とい わ れ てい る。 し か し な が ら, 壁画は17
世 紀に道
路拡
張のた め破
壊 さ れ,納骨
堂も1788
年姿
を消
し て し まっ た が, す で に そ の頃
, 壁画
そ れ自体
が見
る影も ない く らい褐色
に変色
して し まっ てい た と も言
わ れてい るの で, い ずれ壊
さ れ る運命
になっ て い た と想像
さ れ る。 (サン= ジノサン墓 地の あっ た とこ ろ は現 在レ・
アー
ル (Les
Ha11es
)とい うメ トロ の駅になっ て い るあ た りで, 地 下 街にはブ テ ィクの店が建 ち並 んで い る。)しか し な が ら, パ リの印 刷 業 者 ギュ イヨ・
マ ル シ ャ ン (Guyot
Marchant
)が こ の納 骨 堂に描かれ た壁 画を模 写し, 木 版 本 と し て1485
年出
版し た の で, そ の壁 画の面 影を しの ぶ こ と は可能
である。 ホイ ジンガ は, 『中世
の秋
』 の中
で,例
えば, マ ル シャ ン版の人 物の服 装 が, シ ャル ル八世の時 代の流 行のもの になっ て い るの で,半
世紀前
の壁 画の忠 実 なコ ピー
であるか ど うか疑わ しい と言っ て い る。 又 彼は壁 画に付されて い る詩は 壁 画 と食
い 違っ てい る と ころ があるの で,
こ の本に ある詩はお そ ら く14
世 紀の 詩 人ジャ ン・
ル フ ェー
ブル の ものであろうとも言っ て い る。
なお1426 年
か ら1431
年
にか けてパ リに滞在
し てい た ベ ネディク ト会修道
士ジ ョ ン・
ラ イ ドゲイ ト (John
Rydgate
)が壁 画に付されてい た詩を英 訳 して い る が,筆者
は ま だ そ れ を見
てい ない 。G
・
マ ル シ ャ ンが出版
し た 『ダン ス・
マ カー
ブル 』 は現 在 その一
部がグル ノー
ブル 図 書 館に所 蔵 さ れてい る と, 小 池 寿子氏は, 著 書の 『死 者 たちの回 廊 』 の なか で言っ て い る。
氏はマ ル シ ャ ンが 出 版 し た 『ダン ス・
マ カー
ブ ル 』 につ い て, 次の よう な説 明 をして い る の で, 壁 画の面 影を想像
す る た めにも,引
用し て お こ う。さ て,
木
版 画の冒 頭に は一
人の修 道 士と おぼ し き人 物が書 見 台に座
し,
「 死の舞踏
」の始
ま り を告
げてい る。永 遠の世を望む 理
性
ある者
死 すべ き 生 を
善
く終
え るにあ た りこ の
著名
な教
え を 心 せ よダン ス
・
マ カー
ブル と言
わ れ し は 吾々 ダン ス を 学ぶ こ と男 女 間 わ ず
自
明な る は死は大い な る
者
も小な る者
も容 赦せ ぬ こ とな り。 こ の鏡
の中
に人々 は看
て取
らん か く踊る こ とこそ適わ し と そこ に し か と己れを 見 定めるは賢き者 死 者は生 者 を進 ま しめる 汝,
最 も偉 大な る者よ り始ま る を知 る 死をおい て他
に委ね る ものなき ゆえに こ こで 想 うべ きは哀れ な る万 事 すべ て一
物より造ら れ出に け り。狐 野 利 久
.
Z3
こうして, 「ダン ス
・
マ カー
ブル 」 の意
図が解
き明か され, 葬 送 行 進が始 まる。 皮膚
や肉 をぶ ら下
げた死は, 手に棺
や ス コ ッ プや矢
を も ち, あるいは手ぶらの ま まで ある。 彼 らは随 伴 者の手や服を ひ っ ぱり, 腕を組
み, そ し て肩
に手を か け て 生 け る者を誘っ てゆ く。
連 れ 去 ら れる生 者の順 序は次 の よ うに展 開す る。
まずは
教
皇, 皇帝
, つ い で枢機
卿, 王, 総 大 司 教, 元 帥, 大 司 教, 騎 士, 司 教, 廷臣
, 司祭
, 代 官, 天 文学
者,市
民, 聖 堂参事
会 員,商
人, カル トゥジア修 道 会 士, 執 達 吏, 修 道 士,高利貸
し,医者
,恋
す る若者
,弁護
士,楽
人, 主 任 司 祭,
農 民,
コ ル ド リエ 会 修 道 士, 赤ん坊,神学
生 と続
き, し ん が り は陰修
士の総勢
三十名
で ある。こ の行 列の
最後
には,一
人の説教師
が一
人の 王 の死体
を前
に言葉
を結
ん でい る。先 ず, 地 面に
横
た わ る 王 は こ う語っ て い る。 汝, この絵図
にさ まざま な る者
の踊るを見る者 人のあり さ まに鑑
み よ これ 蛆虫
の餌食
た るの み我横
た わりし者こ こ に告 ぐ我
も か て は 王冠 戴 く王 な りし 善 人貧者
,汝
ら も や がて か くな ら ん 全て は蛆虫
に捧
げら れ ん。朽
ち果
て た 王 が語るこ の言 葉に は, どこか聞
き覚
え が ない だ ろうか。 すで に紹 介 した 『三人の死者
と三人 の生者
の賦』, イ タ リアの壁 画に 付さ れ た詩句
, そ して多
くの腐 敗死骸像
を刻
ん だ 墓碑
に綴 ら れ た言葉
であ る。 「や がて 汝 も我の ごと く な ろ う」 とい う繰 り返 し語 られ た成 句である。……
さ て, 最 後に説 教 師はこ う結ん でい る。 よ く想
い め ぐ ら せ し者に は何 もな し 万事
む な しく移
ろい ゆ く もの 汝 らこ の ダン ス で そ れ を知る 万象
見た る者
は しっ か と心に留めお け 男 女 と も ど も, 死すべ き生は そ を栄 光の楽園
に導
か ん 幸い なる は その頂
を極
め し者 な り。
朝な夕なに想い をめ ぐ らせ る想
い め ぐらすは有 益 な り 今日生あ る者
は明日に は死にゆ く な ん となれば死 ほ ど真実
な る ものな く14
「メ メ ン ト・
モ リ (死を想え) 」 にっ い て 人の生ほ ど確か な ら ざ る もの な し 汝, 己の 目で そ れ を見るゆ え に
作
り事
にあ らず死に至 りて初めて信 ずる は愚か
者
な り。 し か し そ れ を意に か けぬ者
も あ り 天国も地 獄も ない か の ごと く あ あ, か れ ら劫 火に焼かれん かっ て聖 者の したためし書は 美し き言 葉で これ を語る こ こを通 る汝 らは自
らの義務
を果た し善 行を な せ こ れ を もっ て さ ら に語るこ となし善行
は死者
に対 し最
も価 値 ある ものな り。最 後に改
悛
と死者
に対す る善 行の勧めで終
わ る。 こ の要 素 も, 当 時の死を題材
にし た 死 に共 通し て いる もので ある。 こ の ように,G
・
マ ル シャ ン の 『ダン ス・
マ カー
ブル 』 か ら, サ ン = ジノサン墓 地の回廊
に書
か れ てい た 『ダン ス・
マ カー
ブル 』 をしの ぶ こ と が出来
る の である が, 要 する に死の前
には名誉
も, 地 位 も, 財 産 も,権勢
も,何
も役
に立た ぬ こ と を教
えてい た とい うこ とが解
るので あ る。フ ラ ン ソ ワ
・
ヴィ ヨ ンの詩 集に は次の ような詩
が あ る。 墓 地に あっ て は遊 びも
笑い も
一
切 空しい 生 前には財 産があっ た
豪華
な寝台
の中
に寝
た 太 鼓 腹に葡萄酒
を が ぶ がぶ と流し込ん だ 歓 楽の
生を
楽
し み饗 宴 や 舞 踏 も
やっ た い や
い っ だっ て
そ れ を やろ うと
構
え てい た だ がそ れに
果
た して ど ん な値 打ち があっ た のか か か る快 楽は
一
切終
わ っ て 残 るのはただ
身の罪 業ばか り 納 骨 堂に
堆か く
積
み重ね ら れた 曝首をこう して じっ と
眺めて い る と ど れ もが
王室 評 定 所の
お
偉
方だっ た 少な くとも銭 奉 行 所の
旦
那
方だっ た狐 野 利 久 15 そ れ と も ど れ もこれ も が 人足だっ た と思わ れ て い ずれ が
い ずれ だっ た と は
言
い切れぬ こ の首 が 司 教の で そち らが 灯 明 守の首
である と はお れ に は
区別
が で きぬ か ら(
「フ ラン ソワ・
ヴ ィヨ ン全詩集
」佐藤輝夫訳)
お そ ら く サン=
ジノ サ ン墓 地を前
に し て詠っ たので あ ろ う か ら, その頃のサ ン=
ジノサ ン墓 地の雰 囲 気が, この詩によっ て, 理解
さ れ る で あ ろ う。5
フ イ リッ プ・
ア リエ ス に よ れば,12 世
紀ま で (南
フ ラン ス や イ タ リ ア な どの地中海
沿岸地方
で は そ れ よ りも遅 く), 死 者は じ か に棺
に収
め ら れ る ま で,顔
は露出
してい た。 (高 位 高 官や裕
福な者の場 合は遺 体が布に包ま れ た が顔
は露出
し てい た。)
そ う して棺
の中
にし まい こま れ る と, 遺 体 を祭 壇の前に置 くか , 木 製の 台の下に置
か れ,礼拝
堂と呼
ばれ た。 又高位高
官の場 合は その台の上に,
遺 体の代 わ りに故 人 を再
現す る彫刻
が木
と蝋
でつ く ら れて, 載せ ら れ た。 又13
世 紀に は死 者の顔にあわせ て, デ ス マ ス ク が生きてい る よ うにつ く ら れる よ うになっ た。 とい う。 ヨー
ロ ッパ の教
会 堂には,古
くか ら高 位 高 官の人が埋 葬され, 故 人 を線 刻で銅
版に彫っ た もの が棺
の 上 に置
か れ るこ と もあっ たのだ が,や がて,
棺の上に故 人 を再 現 し た像 .
を置
くように なっ て い くの で あっ た。
これ が墓像
彫刻
とい われ る もの である。 若 桑み ど り氏によ る と,……
教 会 とい うの はいわぼ 骨と どくろの上に成 立 してい る。
教 会は一
つ の歴史的
墓室
であ・
っ た。 ど の教
会に も必ず
聖遺
体が保 存されて いる。
その教 会で もっ とも徳の高
か っ た大
司教
あ る い は司 祭な ど が実際遺体
さ な が らの ように保 存されてい る。
そ し て その死体
が,乾
燥の度
合い と かあるい は気 候条件
に よっ て奇跡
的に腐
らない こ と が あ る。 そ う す る と, そ こ の信 者は非 常 に ふ え る が, 不幸
に して腐
っ て くると それは取 りはらっ て し まっ て, そ れ を彫刻
に変
える,, そ し て そ の 人 が生前
ま とっ てい た法 衣とか宝 冠 をつ けて保 存 し てい く。 と言 うこ とで ある。
シ ェ イ クス ピアの 『ロ ミ オ とジュ リエ ッ ト』 の 大詰
めの 五幕三場では , ロ ミオ が ジュ リエ ッ トの葬
ら れ てい る墓 所に入 っ て , ジュ リエ ッ トの側で死ぬ ので あ る が, ジュ リエ ッ ト の遺 体 (仮 死 状 態には なっ てい る の だ が)は, どの ようになっ てい た のだろ う か。
これ は 芝居で あ る か ら,演出家
が考える こ とで は ある け れ ど, ロ ミオ が決 闘の末
刺 し殺し た ティ ボル トが同
じ墓 所 に横た わ っ てい るの を見て, ロ ミオ はヱ
6
「メ メン ト・
モ リ (死 を 想 え )」 につ い て ティボル ト, お前 もそこ に いるな, 朱に染 まっ た屍 衣に包まれて ? と言っ てい る。
ア リエ ス の言 葉で は,12
世 紀 までは高 位 高 宮や裕 福な者の遺
体は布に包
ま れ た が顔
は露 出
し てい た とい うか ら, ティ ボル ト もそ の よ うな状
態で あっ た のだろ う。 しか し な が ら,棺
に収
め ら れ てい た の か どうか, ロ ミ オ のセ リフか らは解 ら ない 。 若 桑 氏の 「不 幸に して腐 っ て くる と そ れ は取
り は らっ て し まっ て, そ れ を彫 刻に変え る」 とい う言 葉か ら推 測 する と, 屍 衣に包
ま れ た テ ィ ボル トの屍 体 を石 棺のなか に収め てお き, し か も顔
が見え る ように し て置
い て お く とい う演 出を と る か, あ るい は 石棺
の上 に屍 体を置く とい う演出
に な る であろう。 キ リス ト教徒
には罪
を犯
し た人ほ ど死 後の肉 体 が 腐敗
する とい う考
え方
が あっ た か ら, 「気象条件
によっ て奇 跡 的に腐ら ない こ と がある。 そ う する と,
そこ の信 者は非常
にふ え る」 と若 桑 氏が言 うてい るこ とか ら考えて見 る と, 屍体
が 腐 敗しなか っ た ら聖 地になる か, 聖堂
が建
っ か とい うような 大 変 な 事 態が起 きる可 能 性 が ある の である。 カ ン タベ リー
大 司 教 のヘ ン リー ・
チ チ リ ヘ ンリー・
チ チ リ(1443年没)の墓,
1424年,
カンタペ リー
大聖堂,
イギリス(
1445
没 )の墓は1424
年に 自 ら建て た もの で ある が, 二重 墓像
になっ てお り, 上 段の彫 刻は法 衣を ま とい , 司教帽
を被
り,司
教杖
を手に し た横
臥像
で,栄光
の故 人像
である。
下 部の像は石 棺の上 に ある裸体
の像
で, や が て腐 敗し, ミ ミズ や蛙, 蛇に食わ れてい く とい う像
である。
ミ ミズ や蛙,蛇
は罪を表
す と キ リス ト教で は教 えて い る の で , カンタベ リー
大
司教
とい え ども , 罪 を犯 した 人 間で あっ たの であ り,罪
か ら逃れ ら れ ない こ とを 示して い るの で あ る。フラン ス の サ ン
・
ドニ教
会に あ る アン リニ 世 (1559 年
没〉
と カ ト リー
ヌ・
メ ディ シ ス (1589 年
没 ) の墓は,彼 ら が死ぬ前
に造
らせ た も の で,1560
年か ら70
年 頃で き あ がっ てい る。 これ は一
番 下に彼 らの遺
体が 入 っ た棺
が あ り, そ の上に衣 類 を 脱い だ裸
の死体
の彫刻
が置
い てあり, 最 上 段には復 活 し た姿
の 二人 の像
がある とい う よ うに,
三層が,
一
つ の墓 の中
に あ る とい う ものである。 同じ よ う な例
の墓は, これ も サン・
ドニ 教 会の中に あるル イ十
二世
と アン ヌ・
ド・
ブルター
ニ ュ の墓 (1517
〜
31
)
で ある。 こ の墓で は裸の死体に は,一
度切開
して縫い 合わ さ れ た痕 まで リアル に表 現さ れ てい る。 死体保存
の た め内 臓 を取 り出して乾 燥 剤を 入 れ て, 縫 合し た こ とを表し た もの である。
こ の 墓の作 者はジャ ン・
ジュ ス ト (1485
〜
1549
)とい う彫 刻 家で ある が, 死の前
で は, 王 とい えど も例 外で は ない こ と を示そうと し た もの と言
わ れて い る。 裸の肉 体は大地に引
き渡さ れ るもの で ある か ら, や がて ラグラン ジュ 枢 機 卿のよ う な,
腐 敗して, 蛆虫
や ミ ミズの住みか となるべ き ものが現れ て く る の は当 然の成 り行き で あっ た。ラグラン ジュ はシ ャ ル ル 五世の も と で , 大 臣や財
務
長 官をつ と め た政 治 家で,
百年
戦争
の前半
の狐 野 利 久