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札幌大谷短期大学紀要32号 狐野 利久「「メメント・モリ(死を想え)」について : 仏教との類縁性も合わせての考察」

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全文

(1)

i

メ メ

死 を想 え

つ い

類 縁 性 も合 わ

考 察

狐   野  利   久

 

英 語に 「ネ クロ フ ィ リ ア

necrophilia )」 とい う言 葉がある

「死 骸 趣

」 とい う 日

本語

が その訳 語に なる

ロ ッパ では,

中世末

期か らル ネッサ ン ス に か けて, 「 死の

舞踏

」 だ とか, 「 三人の死

と 三人の生

」, 「 死の勝

」な どの絵 や, 「トランジ」と言わ れ る

腐敗

し た屍

の墓 像 彫 刻 など が, 流

し た。

っ て, 当 時の人々 に は その よ う な 「死 骸 趣 味 」 がお そ ら く あっ た か ら なの だ ろうと考 え ら れ が ち だ が, そうでは な くて

その よ う な 流 行は, 当

の 人 た ちに とっ て 「 生きる」 とい う問 題が あった か ら なの で ある。 生き るこ とが ど うし て当

の人た ちに とっ て 問 題で あっ たの か と

え ば, 少な く と も三 つ の理 由が挙 げら れ よう。 す な わ ち,

12

世 紀 頃まで, 修 道 院の イニ シャ テ ィ ブに よっ て開 墾 事 業が順 調に お こな われ, そ の

結果

全ヨ

ッパ の

林の八割が伐 採さ れ て,

耕作

地が

え, 人口 も増して, 人々 の生 活は安

し た か に見え たのが, 次の

13

世 紀になる と, 全ヨ

ッパ が異

常気象

によ る寒さに見 舞わ れ,

墾が

止 と な り, 不

と か凶

のた めに,

くの人々 が亡 く な る とい

になっ た の で あ る 。 イ ギ リス で は冬 期 間テ

ムズ川が

氷し, 子 供

は氷の上で遊 ぶ ほ どであっ た し, そ の ような

さ で, イ ギ リス で は葡 萄が実 ら な くな り, そのた め以

ワイン の 生産をイ ギ リス で は中 止し て し ま う とい ことになっ たの であっ た

この よ う な異

常気象

は人々が 生きてい 上 に お い て

題と な る

事態

である。 又 イ ギ リス とフ ラン ス との

で, 王

継 承 問題 に よ る

100

戦 争 (

1339

1453

年)

こり, 更に イギリス で は,

き続い て王位 をめ ぐる

薔薇

戦争

きる とい こ とで, イギ リス もフ ラ ン ス も国が疲 弊し,

戦争

によ る大 勢の人々の無 意 味な 死 とい こ とが, 人々 に生き る不 安を与 えたの で あっ た。 そ れ か ら

3

つ 目と して は

,1448

年に起き たペ ス トの流 行に よっ て,

や町が全

し た り

人口が半 減し た り して, 人々 はペ ス トに

感染

す る こ と を

れて病 人の看 病 を放 棄し, 遺

はゴ ミ の投 棄の ごとく処理 さ れ, 人々 は明 日の

か ら ぬま ま, 死の恐 怖 を抱い て生

し たの であっ た。 ペ ス トにつ い てのそのような事 情 は ポッ カ チ ョ

D

Boccaccio

)の 『カ メ 』, デフ ォ

D

 

Defoe

)や カ ミュ

A

 

Camus

>の 『ペ ス ト な どの小 説に詳しい。 ヨ

ハ ン

ホ イ ジンガ (

Johan

 

Huizinga

の 『

世の秋 による と , キ リス ト 教で は 早 くか らメ メ ン ト

モ リとい うこと を説き, 又 托 鉢 修 道 会 (フ ラン シ ス コ修 道 会や ド ミニ コ 修 道 会 など)の

立によっ て, 修 道 士た ちによ る 民

説 教が盛ん にな り そ れにつ れて メ メ ン ト

モ リ を勧める声が高まっ て行っ た とい うこ と であ るが 人 間 とい う もの は切 実

し な け れば, メ メン ト

モ リとい うこ とが言わ れて も

分か らぬ もの で ある 少 な くともこの よ う な 三つ の要 因が あっ て, は じ めて入々 は お 互 い ど う やっ て生きて い くか とい うこ と が各 自の問題 とな り,

(2)

2       

メ メ

リ (死 を 」 にっ い て そ し て 又, 上 記の よう な絵や彫 刻が人々 の目に

れ る よ うに なっ て, 人々 は 「

,今

き ること の大 切さを知る」 ようになっ たので あっ た。

 

読 売 新 聞 社の英 字 紙

デェ イ リィ

ヨ ミ ウ リ

The

 

Daily

 

Yomiuri

)」 の,

2000

11

9

に,

東京

西洋

術館

催してい る

死の

舞踏

中世

末 期か ら現 代 まで』 につ いて の, ロ

Robert

 

Reed

) 氏解 説 記 事が掲 載さ れてい る。 その

で氏は

 

Totentanz

 

la

 

Dance

 

Macabre

 

the

 

Dance

 of 

Death

 

Since

 

the

 

Middle

 

Ages

 

it

 

has

 

been

aconstant  theme  

throughout

 

Western

 art

 a 

theme

 

perhaps

 as unavoidable  

for

 artists  of 

the

Christian

 

tradition

 as 

the

 

Final

 

Judgment

 

itself

テ ン タン ツ, ラ

 

ダン ス

 

マ カ

ル, ザ

 

ン ス

 

オブ

 

デス。 そ れ は中 世 以 来, 西 欧 芸 術を通し て

にテ

マ とな り, キ リス ト教の伝 統の芸 術

に とっ て は,

最後

の審 判 その もの と同じくらい ,お そ ら く避け ら れ ない テ

マ と なっ てい る の だ。) と言っ てい る。

2000

10

11

日か ら

12

3

日 ま で上野 の西 洋 美 術 館で展 示さ れ た 『 死の

舞踏

』は, デュ セル ドル フ大 学 所 蔵の版 画や素

で, ホル バ イン, デュ

, レ ンブ ラン ト ら の

品か ら

19

紀末

の アン ソ

ク リンガ

、 そ し て

20

世紀

のホル ス ト

ヤ ン セ ン

ル ベ ル ト

フ ァ ル ケ ンなど現 代 作

品まで もある の で, リ

ド氏の

うように

キ リス ト教の

伝統

のある

々の芸

家に とっ ては, 死を テ

に し た作 品 を発 表 すこ と は,

然の こ と で ある の か も し れ ない 。 そ う して

死を テ

マ に し た作 品が現 代の芸 術 家た ちに も あ る とい こと は, 西 欧の人々に とっ て, キ リス ト教

である以 上は, 芸 術 家 と同じテ

マ を 以 て,

日生 活 して い る ということ を

意味

し て

                 

よ 簍                  

ジ }                

                     

             

    ♂

沿

            ぜ 隊 −

毒 補    

尋 二 二

靹   蛄

ρ

響 ∴

訟 欺

の 訝

   

 

孟                  

           

⊆ 筆  

P

     

r

广                   鋭 噛

    F

F

                    摎

 

メ ル 匕 オ

グロセク : 「死の姿

次大戦の 死 の舞踏 1 よ り

第3葉 ;行 進

(3)

狐 野 利  久

9

い るのか も し れ ない

 

筆者

は西 欧にル ッサン ス とい う文 化の花が

い た の は, 「メ メ

リ (死 を想 え ) 」 とい う こ と が

わ れ てい たか らである と考えて い る。 なぜな らば, 死の 自覚があっ て こそ

生の

意味

が明 らか にな る か ら である。 そ こで, 「メ メ

」 の

疇の

に , 『 死の

舞踏

だ と か 『三人の 死

と 三人の生

』, そ れ に 『腐 敗 死 骸 像 (ラ ン 』 な ど を皆

め,

に シェ イ クス ピア の傑 作の

『 ハ ム レ ッ ト』 を

り上 げて, 広い視 野から 「メ メ ン

」 の

意味

え,

わせて仏 教 の 「九

」 とか 「九

図」 などと の類 縁 性 を考 察して み よ う と す る ものである

1

 

キ リス ト

伝統

で は, 「

審 判 」 は 「十 字 架の キ リス ト」 と共に重 要な教え で あ る が,

リッ プ

ア リエ ス の 『死 と歴 史』 に よ れば, 初 期キ リス ト教の

世 紀か にわ たっ て,

会に

所属

す る キ リス ト教 徒には, 『

審判

』 も な け れ ば, 『

』 もな く, キ リス ト

再臨

の 日に, 天上の エ ル サ レ ムで, 目

め る とい う

終末論

で あっ た とい う。 ところ が キリス ト教の布 教が進んで,

 

12

頃にな る と,

……

タ イ

』 に 示唆さ れ た新 しい画 像, 死 者の蘇 生

,義

入 と堕 地 獄

の分

が現れて き ま す。 す な わ ち

審判

, 大 天

使

聖ミ カエ ル に よる魂の秤 量です。 そうして,

 13

に は, 黙示

録的

な発

い な る

りの

起 は ほ と ん ど

ら れな くなり ました

裁 き の観 念が優 位 を 占め る ようにな り, 裁きの廷が

さ れ ま す。 キ リス ト は

裁判官

た ち

使徒

た ち)に囲ま れて, 裁き手の

っ て い ます。 二つ の

行動

が ま す ま す重

要性

を もつ よ うになっ て きま す。 魂の秤 量 と

裁 き手 キ リス トの両 側に手を合 わせ て跪い てい る 聖母マ リ ア と 聖 ヨハ ネの仲 介です。 と言っ てい る。 「

13

世 紀に は

……

裁きの観 念が優 位 を 占め る ように」なっ た とい うこ と は, ペ ス トの ボ

ヌ の 「最後

(4)

4

メ メ

リ (死 を想 え ) 」 にっ いて

流行

によっ て大 勢の人々 の死 を

神の裁 き と考 える よ うになっ た た め である。 か く し て, 「 最 後 の審 判」 とい う発 想 が

位 を

め る よ うになっ た と アリエ スが言 うの である。 『

最後

審判

』の 絵では

シス テ ナ礼 拝 堂の ミ ケ ランジェ ロ の

有名

で ある が,

筆者

にとっ ては, ボ

ヌの施

院にある, ロ ヒ

フ ァ ン

デル

ヴェ イ デン

1400

1464

と伝え ら れ る祭 壇 画 の 『

最後

審判

』 の

絵 (

サ ン= ル イ館 所 蔵 )が 忘れ ら れ ない こ の

で はキ リス ト の ま とっ て い る

な衣 服と大 天 使 ミ カエ ル 純 白 な 衣

と が

対象

的な

彩で ある が た めに印 象に残っ ているの で あろ う

キ リス トの両 側に は聖 母マ リア と聖ヨハ ネ を初 とする使

か れ てい るが,

らは

わせ て,

か れ る人 間の取 りなしをキ リス トに求め てい るの で あ る。

 

中 世の人々は,自分の 死 が近い こと を

る と,

の 床に

し な が ら,この

の こ と を忘れて,

ヌの 「最 後 の審 判」部 分 の こ と を

え, 心の準

を し たのであっ た。 従っ て, 当 時の人 た ち は 急 死 するとか, 突 然 死ぬ と か と い う死 に

を恐れ てい たの で あっ た。つ まり, 死その もの よ り も, こ の世に お ける己の所 業が審 判で

か れ るの が恐ろ し かっ た か ら である。 シェ イ クスピ アの 『 ッ ト』で も

ハ ム レ ッ トの亡 霊は

Thus

 was  

I

, sleeping , 

by

 a 

brother

s 

hand

Of

 

life,

 of crown

 of queen

 at orlce 

dispatch

d

Cut

 off even  

in

 

the

 

blossoms

 of my  sin

Unhouse1

d

, 

disappointed

 unaneled

No

 reckoning  made

 

but

 sent to my  account

With

 a11 my  

imperfections

 on  my  

head

1

幕,

5

場,

74

79

こうして, 私は眠っ て い る ときに, 弟の手に よっ て い のち も, 王冠も, 妃も,

わ れ た Q

ざか りの と きであっ た か ら, 聖

も受けず,

臨終

の 塗

式も受けず,

)準備

もせ ず, 犯 し た

の勘 定 もしない で, すべ て の罪 や 汚れを背 負っ た ま ま, 審 判の座に送 られ たの で あっ た。 (筆 者 訳 ) と言い

死の準 備を し ない ま ま

突 然 死 出の旅 路につ いたの で

あの世に お い て

犯し た罪

(5)

狐   野 利   久 5 が

か れ,

め ら れ るまで

責 め苦 を受 け な け れ ばな ら ない こ と を

っ てい る のだ が, 当時の人た ち はこの よ うに心 の

備 をしない で突 然 死ぬ こと を恐れ たのであっ た

フ イ リッ プ

ア リエ ス の 『 と歴

』 に よ れば, 病 人が死 期 を 覚る と, 教 区の司

を呼ん で,

臨終

の塗 油 式な どの最 終の

秘蹟

を し て も らい 罪 を 告 白し, そ して 肉親や子 供た ち,

縁者

ま れ て, 往 生 し たとい う。 この よ う なこ と から中 世の人々 の時 間の意 識を考え て み る と,

時間

は 「

最後

審判

」 に向か っ て流 れるも の と考え てい たことは確か で ある。 従っ て, 死ん で もこ の

終末

の 日が

る ま で は休 息の時で あ る と

えて い た とい こ とが

る の である。

 

とこ ろ が

15

世 紀 頃になる と, 「 最 後の審 判」 は死

で は な く瀕死 の人 の

た わ っ てい るベ ッ ト の 周 りで行 わ れるよ うになっ た。 そ れ はベ ス トによ る

肉体

の死 を もっ て 死 と す る とい う考え方が現れ て きたか らであろう。 従っ て, 瀕 死の人は,

最後

審判

ら の手に よっ てお こな うこ と になっ た の で あっ た。 即ち, 瀕 死の人が死ぬ と き,

肉体

か ら

が飛 び 出し て くるのを悪 魔が待ちか ま えて地 獄に連れ て行 こうと して い るか ら,

を引き取る と きに

え ら れ た

最後

試練

, つ ま り

最後

の誘 惑 に負 けて し ま うと, 全 生 涯に お ける善 行は無 効と な

P

は 悪

に よっ て地

れ て

か れ る が, 誘 惑に打ち勝つ な ら ば, 全生涯にお け る悪

帳消

し と な り, 天

使

が魂をエ ス コ

ト し て , 天 上に 送 り届 けら れ る とい うことになっ たのである。

っ て, 「

最後

」は キリス ト による ので はな く て, 本 人の 「

後の試

」 に よ るのだ とい う よ うに

わっ たの である。 こ の ような変 化は 「 」 が 「 今 日は他 人の身, 明 日は わ が身」 とい うこ と を人々 に

え, 「 死」 が人々の 上に

実感

として

ら れ る ようになっ た こと と

関係

が あ る。 そ れ は 丁

, 「

十字架

の キ リ 」につ い て

えば, キ リス ト

初期

の頃の もの は 「

の キ リ 」 であっ た のが, 中

末 期か らル ネ ッサ ン ス に か けては 「

苦悩

キ リ 」が

られ る ように なっ たとい うこと とも関 連 が ある問 題である

例 え ば, マ ド リ

ドの国 立

考古学博物館

磔刑像 (

1063 年

や イ タ リ アの ガ ル ザ

聖 堂にあ るグリエ ル モ の 『

十字架

の キ リ 』 (

1138

)の テンペ ラ な ど は, 直 立し た

態の 「勝 利の キ リ ス ト」 であるが, ド イツ

画の

最高

傑 作 と言わ れ てい る ウンタ

美 術 館 所 蔵グ リ

ヴァル トのイ

ゼンハ イ祭 壇 画 (現 在 ン ス東 部地 方

ハ イ トニ ス会 修 道 院 付 属 聖 堂の主 祭 壇 画 )の キリス ト は

突き刺さっ た とげ , ね じれ る指, 釘 を打た れ た足など,

絶え る直

の痛ま しい 姿の 「苦 悩の キ リ ス ト 」 が描かれてい る。

中世

末 期か ら 「 利のキ リス ト」 で はな くて 「苦 悩のキ リス ト」 が描かれ る ようになっ た とい うこ とは, 大 量の人々 の死を眼 前に し て, 人々に自分の罪 業を 「 苦 悩のキリス ト」 によっ て強 く感 じ さ せ ようとし たこ と を 示 し てい るのであり, その

果 人々 は

分が

分の 「 最 後の

判」 をする必 要にせ ま られるよう になっ た とい うこ とで ある。

 

こ の よ うに見て く る と,

戦争

によ る大 量

殺とか

饉に よ る多 数の人たち の死 とか とい うこ と も さ ること な が ら, ペ ス トの大 流 行が強 力な 死 の イ メ

ジ を 人 々

付け た とい う こ と は間 違い な い ところである。 な ぜ な らペ ス トは健 康 な 若 者で も

柔 弱 な 年 寄 りで も, 無 差 別に し か も突

的に 人 々 を 死 に追い や る か ら で あ る。 その こと を

如実

に示 し た絵が 「 死の勝 利」 とい う図 像である

有 名 なの はフィ レ ン ツ ェ 派の

版 画 「死

勝利

15

紀末

)で あ ろ う 。 そ れ は大き な鎌をかつ い だ死 が車のつ い た 墓の上 に立 っ て

その墓を 四頭の 馬に ひ か せ

車の 下に は無 数の人々 が車に轢か れて

(6)

6

「 メ メ ン ト

モ リ (死を想え)」 につ いて い とい う もの である

又 マ ド リ

ドの プラ ド美 術

にある ピ

・ ブ リュ

ゲル (

1525 年

69

)の 「

勝利

」 は

くの人に知ら れ てい る名 画であ る。 そ れはどこか らとも な く湧い て き た 無 数の骸

が,

を かつ いで馬をの り ま わす 隊 長の もとで, 無 差 別に人 を殺 戮 してい る とい う

で ある。 そ の

, デュ

, 「

青色

馬に

った死の騎士jが地 上の人 間の四分の

を殺 す権 利 を 与 え られ た とい 『ヨハ

6

8)

言葉

によっ て

木 版 画 『四人の騎士

制作

してい る。 人々 の 心に は, 死との

和解

め る願い が切 実 な もの で あったろうと想 像さ れ る。

2

 

15

世 紀 頃か ら, 「

審判

」は,

述の ように, この

わ りにお こな わ れ るの では な く

瀕 死 者のベ ッ ドの周り で お こな わ れ る よ うになっ た。 その

頃各

国に

回っ てい たい ろい ろな版の 『       アルス

モリ

ンディ 生

術 

ars  moriendi 』で は, 悪

の誘 惑に対して, どのように, それに打ち勝つ か とい う「最 後の試

」が, 天

行き か地 獄

き か を決め るこ とにな る と

えてい る。 手 元にあ るベ ラル

版 『ル ス

モ リエ ンディ』 で は, ま わ りの人た ち に は

え な く て, た だ瀕 死

だ け が目にす ることの で き る

自然の存

た ちが,

屋に入 っ て き て, 瀕死

の ま わ りで ひ し め き

っ てい る とい う場 面が

かれ てい る。

に は キ リス ト, 聖母マ リ ア, 聖

全 員がお り, 今

は サ タ

い る。

量を持っ た ミ カエ ル の姿は も は や そこ には な く, 瀕 死

者 自身

き手と な り,

は 人間と 悪 と の戦い の証 人 と し て立ち会っ てい る とい う

に なっ てい る

ベ ラル

版の 『往 生

』 の

の, 例 え ば, 「悪 魔 が 吝 嗇ん で

み る 三の誘 惑」 に つ い ての 絵では

次の ような 説 明 が書い てある

 第

目に, 教 会や

を堅 く信じ てい な い の に, カ トリッ ク信 者 として死に たい と 願 う

人を, 地 獄の悪 魔は絶 望へ と落 とす こと はしない で, 別の方 法で彼 を裏 切ろう とする。 しまい に は, 彼の魂の救 済のた め にな るもの を取 り除き, 病 人が こ の世で所

してい た全ての取

仕事

を思い

さ せ る の だ。

に,

し,

愛情

を そ そい で き た者た ち や,

福に暮ら した こ の

の も の全て を置い てい かなけ れば な ら ない

とい うことを残 念が ら せ, 彼の常 識 を困 惑 さ せ, 彼

自身

救済

を忘れ させ る の だ

こ の誘 惑は主に

巨 大 な 冨 や

財 産, 美しい 女 性たちを持っ てい る者や, よ い

けられ る の だ が, 彼ら は神

  

5

 

 

・ 、

悪 魔 が 吝 箇ん でみ る三 の誘惑

(7)

狐  野 利  久

7

へ の奉 仕や 自己の魂の救 済 とい うこと よ りも, この

快楽

見出

し, 地 位を求め てい る か ら である

地 獄の悪 魔は

全て を 忘れ去 り, 置い て行かねば な ら ない 死の瞬 間に, そ れ らを思い 出さ せ て 次の ように彼に言 うの で ある

「 お前は な ん とい う悪 人だ

こ の期に

ん で お前の なか に悪 意 と不 運がある のを知るべ い ままで楽 し く, 安 穏に過 ごし て き た の だろ うが, 突 然, こ の世の財 産, 苦 労 してやっ と手に入れ た財 産 を全

な くす のだぞ。 お前の 妻, 大い に愛し た子 供た ち も だ。 美しい田 畑

美しい邸 宅 をお前の死 後

誰が存 続させ られ る だ ろ う か。 お

ほ ど もある

品を誰が

死 後

,管

理で き るのだ ろうか

お前はこ の瞬 間に

しみ も,

誉 も, 財

うのだ。 お

は早 く死に過 ぎる。」こ の ように説 得し て, 悪 魔は人 を欺こ とするのだ。 そ して つ い に, 俗 世 間に思い を残 させ, そ の虚 栄 ばか りを

え させ る が た めに,

につ い て

え ること を し ない ようにするの である。 (筆 者 訳 ) これに対し て, 『天 使 が 吝 嗇

え る

励ま し』の

で は次の ような説 明が し て ある。

 

吝 嗇の者 を 悪 魔 がそ そ の か す こ と に

し て, 天

使

の側か ら は

良い教 訓 を授 け

良 く対 抗 す るための 真 実の良 薬 (m6decine

え る。 「人 よ , 悪

険な そ その か しに耳 を貸 しては い ない ら は

お前が魂の救 済 を得な け ればな ら ない とい う

え をお

か ら力つ く根 絶 し よ うと して い る。 こ の世の ものにつ い て

え てはな ら ない お 前 自 身は灰になる のだ, 灰か ら出て灰に か えるの だ。 更に

え て お くべ きこ と は, 生 ま れ た と き裸であ り

何 も もっ て い なか っ たで は ない か。 同

な姿 に お

は戻ら なけ ればな ら ない お前の魂 の

済のた めに, お

はす すんで, この世 の もの を

て る 必

が あ る。 こ の世の所 有 物に執

して, この

びを

ようとす る者に わ れ わ れの

い 主は こ う言っ て お ら れる, あなた が た の う ち で,

分の財 産 をこ と ご とく捨て きるもの で な く て は, わ た しの

子と なることはで きない と(『 カに よ る

音 書』十 四 章三十三

)。妻や 子, 兄 弟 姉 妹, 父母, 田畑を捨て る も の は, わ が名に おい て

  

主は述べ た もう

   

永 遠 のい の ちを得るであろう。」

 

, わ が 主 は, お前のため に進ん で十 字 架に かか り給 うた。

最愛

な る母と

「天 使 が 吝嗇の人の 死 に臨ん で与える第三の励 ま し」

(8)

8

      「 メ メ ン ト

モ リ (死 を 想 え )」 にっ い て

  

彼の愛 した 弟 子た ちを 捨て給 うた。 又, 多 くの聖人, 聖者は, か り そ めのもの に

しての

  

のなか で, 主に従い, 主の

さ れ た こ の美しい

言葉

こ う と し た。 わ た し の 父 に

福さ れ た

  

人 た ちよ。 さあ, 世の初め か らあな た方のた めに用

さ れ てい る

國を

けつ ぎな さい ( 『

  

イに よる

福音書

』 二

節)

。』

   

そ れ故, 天 使は病 人に言 う。 「 友よ, わ た しの言 うこ と を よ く心に

み な さい 。 そ し て, お

  

か ら仮のものすべ て を, 毒の よ うには ね

き な さい 。 そ し て

ら進ん で, 貧し さ に心 を向 け な

  

さい

なぜな ら

さいわいな る か な, 心の

し き

, 天国は そ の人の も の な り, と申 した神の

  

約 束によっ て, 天 国が お

に さ

か る だ ろうか ら。 友よ, よい 誓い と期 待 を すべ て神の意 志に

  

ゆだね なさい

はお

遠な る冨 を あたえる であろうか ら

」 (筆 者 訳 )

 

このよ うに, 健 康な と きに蓄 財 し,

や子に

ま れ る

ら しをし てい る吝 晉の人は, 死を目の

に したとき

「 メ メ ン ト

モ リ」 とい うこと が

自分

題となっ て意 識に の ぼ る ようにな る。 そ うし た と き, 自分の人生のい ろい ろ な

が走 馬 燈の ご とく思い 出されて

最 後の 審 判の こ と よ り も,

分の財 産と か,名 誉 とか が心 配と な り, この

物質

望へ の執 着 を 断ち切れ

, その

みがずっ と大 き くなっ て苦し む と き, そ こに悪

が 入 り込 ん で, 誘 惑 し ようとするの で ある。 キ リス ト教で はこの世の 所 有 物に執

する心こそ.

であり, 天 国に入る妨 げになる と して教えてい る か ら.

分 自身が裁き手と なっ て,

執着

ち切り, 御 国 を 受 け継 ぐよう

天 使は瀕 死の人 を励ま す の で あ る

か くして 「最

試練

」 に

っ た人の魂は, 幼 児の如き

の姿で, 天

使

にエ ス コ

トさ れ て昇 天 する ので あっ た。

3

メ メ ン

モ リ」 は, 又, 『死 者 生 者 』 とい う 図

で も示 さ れ る ようになっ た。 これ は絵に向か っ て左 側に 三人の生

, そし て右 側に 三 人の死

が突 然 出会 うとい う構 図になっ て 「死者と 三生者

『マリ

ブラヴァンの詩 集』 より

13世 紀末

(9)

狐  野 利   久

9

い る

か っ て左

に 三人 の死

側に 三 人の生 者の場 合 もある。)又, 三人の生

は 三人の三

E

の場 合 もある し, 三 人の若

の場

も あ り, 又, 公 爵, 伯 爵, 王子の場 合 もある。 マ リ

ー・

プラ ヴァ ン ト祈 祷 書の挿し絵は よ く知ら れ てい る が, そ れ は

13

世 紀 末の もの で ある

三人の王 が 揃っ て狩 り に出か ける とき, 自 分た ち の 死 ん だ

姿

会い, か くして

分たち も生 きてい な が ら

えず死 を忘 れては な らない とい うこ とを悟る とい う

で ある。

 

小 池 寿 子 氏は,

著書

の 『 死

た ちの 回

』 の中で, ポ

トワ ン

コ ンデ

1280

頃 没 )とニ コ ラ

マ ル ジ ヴァ ル

1310

没 )の作 と され る対 話 形 式の詩 『の 死

と 三 人 者』 を紹 介してい る。 詩は

か ら

ま り,

先ず

三人の

こ の場 合

公子 である が,

 

が語 り

次い で三人の死 者が語 り,

最後

結語

る とい う

成に なっ て い る とい う。 死 者の姿に驚い た三 人の若い

子 は, 第

の若 者, 「 , 三 人の死

に恐 れお の のい て し ま う。 そ の

姿

と き た ら見るも無 惨

      

で醜 く, ふ り返るの も恐ろ しい 。」 第二 の若 者, 「こ の

が送 り給 う たこの鏡に耐え な け れば。 だ が よく見る ことがで き        や し ない

三の若

, 「も ち ろ ん すとも神 様, これ こそ

れ み。 腹 も背 も肉 もな く,

と なっ て は

      

だ ら け。 足, 腕

背 中, 腹か ら肩まで, すべ て な くな っ て し まっ た。 死と蛆 虫

      

の な せ る わざ。 目 も口 も

も あ りゃし ない 。」 と驚き の

言葉

を そ れ ぞ れ

べ て い る のに対し て, 死

は そ れ ぞ れ次の ように言っ てい る。 肉の削 げ 落ち た

元 で, 骨だ らけの腕 を組み

わ せ た

の死

  

殿 方 ,わ た く し ど もをごらん下さ れ。わ た くし ども も,かっ て はあな た た ちのようで あっ

 

た の に,

と なっ ては ごらん の と お り。 わ た くし は公 爵で あっ た

。一

人は

伯爵

, もう

 

男 爵で,

ぶ る者た ちで あっ た。

が わ た くし たち を遣わ し たの です。」 前の死

の肩に

を かけて

首 を や やか しげな が ら言 う

二 の 死

  

て が

必ず

うなる定め。 悪し く,

し く, そ して確か な 死。 死 すと なれば王や 王 子,

 

公 爵や伯

も誰が誰だか闇の中。 死 と は 父 か ら受 け継いだ もの。 遡れば,

ら が最 初の父ア

 

ダム の罪の 死 に よっ て, わた く した ち に 死 が も た ら された

エ ヴァ の 悪 し き誘 惑 を通 して ,

 

死の重 き拷 問と地 獄が も た ら されたので す

」 すで に 内臓 も

ち果て て ぽっ か りと空 洞に なっ た

部を した 第三 の 死

  

「 同 胞, そ して友 よ, 神に

かっ て祈 り, そ して, 私の言 葉 を しか と聞き な さい 。 な ぜ な ら,

 

死な く して生 はない のだか ら。 生 の巓 末 をみつ め な さい 。 若き も老い, 明日 を も知れぬ生の

 

な りわい 冨 を 求めて も もは や な く, 死は その槍で人々 の

う。 おまえたち もや がて は

 

か くなろう

な ん と

悲痛

な な りゆ き であろ う。 わ れ ら が父に祈り

え。 よ りよき最 後が も た  ら さ れ んこ と を。」

(10)

JO 「 メ メン ト

モ り (死 を想え)」 にっ いて こ の ように見て く る と, 『死 者 と三生 者 』は死ん だ

分が生き てい る自 分と対 話 してい る とい う ものだとい こ と が分か るであ ろ う。

者が訪れ たパ リか ら

南約

80

キロ に ある ラ

ル ピエ

ル の教 会の 『三人の死

と三 人 の生 者』 は,

1490

年か ら

1500

に か けて, 描か れ た も の と言わ れて い る

真ん

十字架

があっ て, そ れを挟 んで , 右 側に馬にま た が っ て狩り に出か け ようと す る貴 族 と おぼ し き若

三 人 が, 突 然の死 者の出現に驚い て い る ところ が描かれ, 左 側 には 屍

姿

ば白骨 化し た 三 人 の死者が, お れ た ち は お前た ちの な れの 果てだ と

若者

た ち を威 嚇してい る ところ が

か れ てあっ た。

 

こ のように, 若さ の お もむ くま ま,

り たか ぶ る

い の若 者に, 死が 「 メ メ ン ト

モ リ」 を

え る とい う構 図の ものが,

14

にな る と, もっ とお どろお ど う しい もの にな る。

えばイ タリアの ス ピ ア

のベ ネ デク ト派

修道院

聖 堂 (サ グロ

ス ペ

の壁

は, 王 が棺の中に死ん でい る

分を見る とい う図 柄の もの で ある。

は 三つ お い てあっ て, 死に方の プロ セスが そ れぞ れ 示 さ れてい る。 即 ち,

番左側の 棺の

の姿は王が死ん だ直

の もの, 真ん

の棺は王の屍 体の腐 敗が

まっ て, 死 体 が 膨 らんでい る ところ の も の,

番 右 側の 棺は

全に

骨 化し た もの と なっ てい る

厂 三人の死 者と 三人の生 者」壁 画

14世 紀 末

サグロ

スペ

イタ リ ア

(11)

狐 野 利  久 〃

4

 

メ メ

」 の教えが人々 の生 活に馴

む よ うに な る と, 生

と死

わ りのイメ

ジ が 生ま れ て く る よ う に な る。 この生

と死

わ り の

が, 「ン ス

Dance

Macabre

)」と呼 ばれ, 「 死の

舞踏

」と訳さ れ てい る。 『 人の死

と 三人の 生

』の

図と は

っ て, 「 死の

舞踏

」で は

腐乱

し た死

, も し く は

骨に近い

状態

の死

が生き てい る

の手を取 り, 又は肩 に

をか けて, 不

気味

い を

かべ な が ら, 墓 地に

う とい う

図になっ て い る。 「舞踏 」 壁画 の

15世紀 末

フェル テ

ル ピエ

フ ラン ス この

も,

えず死 と

わ る こ とに よっ て, メ メ ン ト

モ リとい うこ と, 即ち,

るべ き死 に

し て た えず 準 備 し て お く こ と を

え る もの である。 ラ ・ フェ ル テ ・ル ピエ

ル の教 会で は, こ の 『 の舞 踏』 の壁 画は

礼拝

ま る信

の壁の上に あっ た。 絵の

図とし て は生

と死

と がペ ア に な っ て 交互 に配 置さ れ 行 列を な してい る 死 者と生 者がペ ア に な い る とい う こ と は, 死 者は生 者の死んだ 姿である か ら で あ る。 又, 「 死の舞 踏」とい う名は死 者があた か も生

と踊る よ う な足 どり を してい る こと か ら, そ の

え ら れ た ようである

マ カ

ブル とい う言 葉につ い て は, 「 身の毛 もよ だつ 」 と か, 「 っ と す る よ う な」 とい う意

だ と されてい る が,

定説

は ない 。

 

とこ ろ で, 「 死の

踏」の 図

で , 最も

い ものは, パ リの サン = ジノサン墓 地の

骨 堂の回

に 描かれ た壁 画である と言わ れ てい る。 その こと は 『

市 民日記 』 によっ て,

制作年

1424

年 で あ るこ と,

1429

年に は コ ル ドリェ 会 修 道士 リシ ャ

ル (

Ricard

)が 「 死の舞 踏」 が描かれ てい る 回廊のある納 骨 堂に背を む けて

通 行 人に対 して 説 教を お こなっ て い たこと が明らか に されて い る

こ の サ ン= ジノ 墓 地 , パ リの

20

もの小 教 区が この 狭い 囲い地 に死

を 埋葬 する権 利 を 持っ て い た とか で

ペ ス トの 流 行の

盛 期には死 者の埋葬に追わ れ , 死

た ち は

えず 新 参 者に場 所を譲ら ねばな ら なか っ た とい う。 そ の た め 九 日 く らい で掘 り返され, 掘 り返さ れ て出て き た骨は

(12)

12 「メ メ ン

リ (死 を 想 え) 」 につ い て

骨 堂の

み 上げら れ た とい わ れ てい る。 し か し な が ら, 壁画は

17

世 紀に

張のた め

壊 さ れ,

納骨

堂も

1788

年姿

し て し まっ た が, す で に そ の

, 壁

そ れ

自体

る影も ない く らい

褐色

変色

して し まっ てい た と も

わ れてい るの で, い ずれ

さ れ る運

になっ て い た と想

さ れ る。 (サン= ジノサン墓 地の あっ た とこ ろ は現 在レ

ル (

Les

 

Ha11es

)とい うメ トロ の駅になっ て い るあ た りで, 地 下 街にはブ テ ィクの店が建 ち並 んで い る。)しか し な が ら, パ リの印 刷 業 者 ギュ イヨ

マ ル シ ャ ン (

Guyot

 

Marchant

が こ の納 骨 堂に描かれ た壁 画を模 写し, 木 版 本 と し て

1485

年出

版し た の で そ の壁 画の面 影を しの ぶ こ と は可

である。 ホイ ジンガ は, 『

中世

』 の

で,

えば, マ ル シャ ン版の人 物の服 装 が, シ ャル ル八世の時 代の流 行のもの になっ て い るの で,

紀前

の壁 画の忠 実 なコ ピ

であるか ど うか疑わ しい と言っ て い る。 又 彼は壁 画に付されて い る詩は 壁 画 と

っ てい る と ころ があるの で

こ の本に ある詩はお そ ら く

14

世 紀の 詩 人ジャ ン

ル フ ェ

ブル の ものであろうとも言っ て い る

なお

1426 年

か ら

1431

にか けてパ リに滞

し てい た ベ ネディク ト会

修道

士ジ ョ ン

ラ イ ドゲイ ト (

John

 

Rydgate

)が壁 画に付されてい た詩を英 訳 して い る が,

筆者

は ま だ そ れ を

てい ない 。

 

G

マ ル シ ャ ンが

出版

し た 『ン ス

』 は現 在 その

部がグル ノ

ブル 図 書 館に所 蔵 さ れてい る と, 小 池 寿子氏は, 著 書の 『死 者 た回 廊 』 の なか で言っ て い る

氏はマ ル シ ャ ンが 出 版 し た 『ン ス

ル 』 につ い て, 次の よう な説 明 をして い る の で, 壁 画の面 影を

想像

す る た めにも,

用し て お こ う。

 

さ て,

版 画の冒 頭に は

修 道 士と おぼ し き人 物書 見 台

「 死の

舞踏

」の

ま り を

げてい る。

  

永 遠の世を望む 理

ある

  

死 すべ き 生 を

え るにあ た り

  

こ の

著名

え を 心 せ よ

  

ダン ス

マ カ

ブル と

わ れ し は     吾々 ダン ス を 学ぶ こ と

  

男 女 間 わ ず

明な る は

  

死は大い な る

も小な る

も容 赦せ ぬ こ とな り。 こ の

に人々 は

らん か く踊る こ とこそ適わ し と そこ に し か と己れを 見 定めるは賢き者 死 者は生 者 を進 ま しめる 汝

最 も偉 大な る者よ り始ま る を知 る 死をおい て

に委ね る ものなき ゆえに こ こで 想 うべ は哀れ な る万 事 すべ て

物より造ら れ出に け り。

(13)

狐  野 利  久

Z3

 

こうしてン ス

」 の

図が

き明か され, 葬 送 行 進が始 まる。 皮

や肉 をぶ ら

げた死は, 手に

や ス コ ッ プや

を も ち, あるいは手ぶらの ま まで ある。 彼 らは随 伴 者の手や服を ひ っ ぱり, 腕を

み, そ し て

に手を か け て 生 け る者を誘っ てゆ く

連 れ 去 ら れる生 者の順 序は次 の よ うに展 開す る

 

まずは

皇, 皇

, つ い で枢

卿, 王, 総 大 司 教, 元 帥, 大 司 教, 騎 士, 司 教, 廷

, 司

, 代 官, 天 文

者,

民, 聖 堂

参事

会 員,

人, カル トゥジア修 道 会 士, 執 達 吏, 修 道 士,

高利貸

し,

医者

す る

若者

弁護

士,

人, 主 任 司 祭

農 民

コ ル ド リエ 会 修 道 士, 赤ん坊,

神学

生 と

き, し ん が り は

陰修

士の

総勢

十名

で ある。

 

こ の行 列の

最後

には,

説教師

人の 王 の死

言葉

ん でい る。

 

先 ず, 地 面に

た わ る 王 は こ う語っ て い る。 汝, この

絵図

にさ まざま な る

の踊るを見る者 人のあり さ まに

み よ これ 蛆

餌食

た るの み

我横

た わりし者こ こ に告 ぐ

も か て は 王冠 戴 く王 な りし 善 人

貧者

ら も や がて か くな ら ん 全て は蛆

げら れ ん。

 

て た 王 が語るこ の言 葉に は, どこか

え が ない だ ろうか。 すで に紹 介 した 『

と三人 の生

の賦』, イ タ リアの壁 画に 付さ れ た詩

, そ して

くの腐 敗死骸

ん だ 墓

に綴 ら れ た

言葉

であ る。 「や が 汝 も我の ごと く な ろ う」 とい う繰 り返 し語 られ た成 句である。

  

……

さ て, 最 後に説 教 師はこ う結ん でい る。 よ く

い め ぐ ら せ し者に は何 もな し 万

む な しく

ろい ゆ く もの 汝 らこ の ダン ス で そ れ を知る 万

見た る

は しっ か と心に留めお け 男 女 と も ど も, 死すべ き生は そ を栄 光の楽

か ん 幸い なる は その

め し者 な り

朝な夕なに想い をめ ぐ らせ る

い め ぐらすは有 益 な り 今日生あ る

は明日に は死にゆ く な ん となれば死 ほ ど真

な る ものな く

(14)

14              

メ メ ン

」 にっ い て     人の生ほ ど確か な ら ざ る もの な し     汝, 己の 目で そ れ を見る

  

ゆ え に

にあ らず

  

死に至 りて初めて信 ずる は愚か

な り。 し か し そ れ を意に か けぬ

も あ り 天国も地 獄も ない か の ごと く あ あ, か れ ら劫 火に焼かれん かっ て聖 者の したためし書は 美し き言 葉で これ を語る こ こを通 る汝 らは

らの

義務

を果た し善 行を な せ こ れ を もっ て さ ら に語るこ となし

善行

は死

に対 し

も価 値 ある ものな り。

 

最 後に改

と死

に対す る善 行の勧めで

わ る。 こ の要 素 も, 当 時の死を題

にし た 死 に共 通し て いる もので ある。 こ の ように,

G

マ ル シャ ン の 『ン ス

か ら, サ ン = ジ墓 地

か れ てい た 『ダン ス

マ カ

ブル 』 をしの ぶ こ と が

出来

る の である が, 要 する に死の

には

名誉

も, 地 位 も, 財 産 も,

権勢

も,

に立た ぬ こ と を

えてい た とい うこ とが

るので あ る。

 

フ ラ ン ソ ワ

ヴィ ヨ ンの詩 集に は次の ような

が あ る。 墓 地に あっ て は

 

遊 びも

 

笑い も

 

切 空しい 生 前には

 

財 産があっ た

 

豪華

寝台

 

た 太 鼓 腹に

 葡萄酒

を が ぶ がぶ と

 

流し込ん だ 歓 楽の

 

生を

し み

 

饗 宴 や 舞 踏 も

 

やっ た い や

 

い っ だっ て

 

そ れ を やろ うと

 構

え てい た だ が

 

そ れに

 

た して ど ん な値 打ち が

 

あっ た のか か か る快 楽は

 

わ っ て 残 るのは

 

ただ

 

身の罪 業ばか り 納 骨 堂に

 

堆か く

  積

み重ね ら れた 曝首を

 

こう して じっ と

 

眺めて い る と ど れ もが

 

王室 評 定 所の

 

方だっ た 少な くとも

 

銭 奉 行 所の

 

方だっ た

(15)

狐 野 利  久 15 そ れ と も  ど れ もこれ も が 人足だっ た  と思わ れ て い ずれ が

 

い ずれ だっ た と は

 言

い切れぬ こ の首 が  司 教の で  そち らが 灯 明 守の

である と は

 

お れ に は

  区別

が で きぬ か ら

ィヨ ン

全詩集

佐藤輝夫訳)

お そ ら く サン

ジノ サ ン墓 地を

に し て詠っ たので あ ろ う か ら, その頃のサ ン

ジノサ ン墓 地の雰 囲 気が, この詩によっ て, 理

さ れ る で あ ろ う。

5

フ イ リッ プ

ア リエ ス に よ れば,

 12 世

紀ま で (

フ ラン ス や イ タ リ ア な どの地

中海

沿

岸地方

で は そ れ よ りも遅 く), 死 者は じ か に

め ら れ る ま で,

は露

してい た。 (高 位 高 官や

福な者の場 合は遺 体が布に包ま れ た が

露出

し てい た。

そ う して

にし まい こま れ る と, 遺 体 を祭 壇の前に置 くか , 木 製の 台の下に

か れ,

礼拝

堂と

ばれ た。 又

高位高

官の場 合は その台の上に

遺 体の代 わ りに故 人 を

現す る

彫刻

でつ く ら れて, 載せ ら れ た。 又

13

世 紀に は死 者の顔にあわせ て, デ ス マ ス ク が生きてい る よ うにつ く ら れる よ うになっ た。 とい

ロ ッパ の

会 堂には,

くか ら高 位 高 官の人が埋 葬され, 故 人 を線 刻で

版に彫っ た もの が

の 上 に

か れ るこ と もあっ たのだ が,や がて

棺の上に故 人 を再 現 し た

像 .

くように なっ て い の で あっ た

これ が墓

とい われ る もの である。 若 桑み ど り氏によ る と,

 

……

教 会 とい うの はいわぼ 骨と どくろの上に成 立 してい る

教 会は

つ の歴

史的

であ

っ た。 ど の

会に も必

体が保 存されて いる

その教 会で もっ とも徳の

か っ た

あ る い は司 祭な ど が

実際遺体

さ な が らの ように保 存されてい る

そ し て その死

が,

燥の

合い と かあるい は気 候

条件

に よっ て

奇跡

的に

らない こ と が あ る。 そ う す る と, そ こ の信 者は非 常 に ふ え る が, 不

に して

っ て くると それは取 りはらっ て し まっ て, そ れ を彫

える,, そ し て そ の 人 が生

ま とっ てい た法 衣とか宝 冠 をつ けて保 存 し てい く と言 うこ とで ある

シ ェ イ クス ピアの 『ロ ミ オ とジュ リエ の 大

めの 五幕三場では , ロ ミオ が ジュ リエ トの

ら れ てい る墓 所に入 て , ジュ リエ ッ トの側で死ぬ ので あ る が, ジュ リエ ッ ト の遺 体 (仮 死 状 態には なっ てい る の だ が)は, どの ようになっ てい た のだろ う か

これ は 芝居で あ る か ら,

演出家

が考える こ とで は ある け れ ど, ロ ミオ が決 闘の

刺 し殺し た ティ ボル トが

じ墓 所 に横た わ っ てい るの を見て, ロ ミオ は

(16)

6

「メ メン ト

モ リ (死 を 想 え ) につ い て ティボル ト, お前 もそこ に いるな, 朱に染 まっ た屍 衣に包まれて ? と言っ てい る

ア リエ ス の言 葉で は

,12

世 紀 までは高 位 高 宮や裕 福な者の

体は布に

ま れ た が

露 出

し てい た とい うか ら, ティ ボル ト もそ の よ うな

態で あっ た のだろ う。 しか し な が ら,

め ら れ てい た の か どうか, ロ ミ オ のセ リフか らは解 ら ない 。 若 桑 氏の 「不 幸 っ て くる と そ れ は

り は らっ て し まっ て, そ れ を彫 刻に変え る」 とい う言 葉か ら推 測 する と, 屍 衣に

ま れ た テ ィ ボル トの屍 体 を石 棺のなか に収め てお き, し か も

が見え る ように し て

い て お く とい う演 出を と る か, あ るい は 石

の上 に屍 体を置く とい う

演出

に な る であろう。 キ リス ト

教徒

には

し た人ほ ど死 後の肉 体 が 腐

する とい う

が あっ た か ら, 「

象条件

によっ て奇 跡 的に腐ら ない こ と がある。 そ う する と

そこ の信 者は非

にふ え る」 と若 桑 氏が言 うてい るこ とか ら考えて見 る と, 屍

が 腐 敗しなか っ た ら聖 地になる か, 聖

っ か とい うような 大 変 な 事 態が起 きる可 能 性 が ある の である。  カ ン タベ リ

大 司 教 のヘ ン リ

ー ・

チ チ リ ヘ ンリ

ー・

チ チ リ(1443年没)の墓

1424年

カンタペ リ

大聖堂

イギリス

1445

没 )の墓は

1424

年に 自 ら建て た もの で ある が, 二重 墓

になっ てお り, 上 段の彫 刻は法 衣を ま とい

教帽

り,

を手に し た

で,

栄光

の故 人

である

下 部の像は石 棺の上 に ある

裸体

で, や が て腐 敗し, ミ ミズ や蛙, 蛇に食わ れてい く とい う

である

ミ ミズ や蛙,

は罪を

す と キ リス ト教で は教 えて い る の で , カンタベ リ

え ど , 罪 を犯 した 人 間で あっ たの であ り,

か ら逃れ ら れ ない こ とを 示して い るの で あ る。

 

フラン ス の サ ン

ドニ

会に あ る アニ 世 (

1559 年

と カ ト リ

メ ディ シ ス (

1589 年

没 ) の墓は,彼 ら が死ぬ

らせ た も の で,

1560

年か ら

70

年 頃で き あ がっ てい る。 これ は

番 下 らの

体が 入 っ た

が あ り, そ の上に衣 類 を 脱い だ

の死

の彫

い てあり, 最 上 段には復 活 し た

姿

の 二人 の

がある とい う よ う

三層が

つ の墓 の

に あ る とい う ものである。 同じ よ う な

の墓は, これ も サン

ドニ 教 会の中に あるル イ

と アン ヌ

ニ ュ の墓 (

1517

31

で ある。 こ の墓で は裸の死体に は,

度切

して縫い 合わ さ れ た痕 まで リアル に表 現さ れ てい る。 死

体保存

の た め内 臓 を取 り出して乾 燥 剤を 入 れ て, 縫 合し た こ とを表し た もの である

こ の 墓の作 者はジャ ン

ジュ ス ト (

1485

1549

)とい う彫 刻 家で ある が, 死の

で は, 王 とい えど も例 外で は ない こ と を示そうと し た もの と

わ れて い る。 裸の肉 体は大地に

き渡さ れ るもの で ある か ら, や がて ラグラン ジュ 枢 機 卿よ う な

腐 敗して, 蛆

や ミ ミズの住みか となるべ き ものが現れ て く る の は当 然の り行き で あっ た。

 

ラグラン ジュ はシ ャ ル ル 五世の も と で , 大 臣や財

長 官をつ と め た政 治 家で

前半

(17)

狐   野   利   久

17

ア ン リ2世 (1559没 )と力 ト リ

メディシ ス 1589没)の墓 (1559

70年)と

そのトランジ像

部分

サン

ドニ聖堂 頃の疲

し た フ ラン ス を立て直 した功 績に よ り, ア ミ アン の司 教に, そ して

1375 年

に は

枢機

卿に任 じ られ た。

は国王 を支 持 し, ロ

マ 教 皇ウル バヌス六世と決 別 する ようフランス の

枢機卿

た ち・

こ二 働き か け, フ ラン ス人で

ジュ ネ

ブ の枢 機 卿ロ ベ

ル を

ぎ 出して

アヴィ ニ ヨ ン に て

教皇

ク レ メ ン ス七

と し て 選

することに成 功 した とい う

権力者

で, 歴 史 上に の こる

分 裂の立て役 者 で あっ た

ラグラン ジュ

爛 豪

の関 心 を払い 私 服や し た人 物 も言 わ れ い る

しか し な が ら, ラ グラ ンジュ ばか り で な く,

くの教 会 人た ち は, 冨の

蓄積

時の権 力 闊 争に

心 を

け る ようになっ てい た時

で あっ たの で

心 ある宗 教 人はこの よ う な世 俗 的な もの に関 心を持つ こ とに反 対 し

権 力 と冨を

拒絶

す る

期の理 想に立ち返る よ う要 請 し, 又 説 教 も し た

当 時 財 力の ある 人 たち は こ の

に おけ る 己の罪 を購っ て おか ね ばな ら ない と し て, 聖 堂 や 修 道 院に,

免罪

のた め

しみ な く私 財 を寄 進し, 死

のた めの祈 祷 を修 道 士に

依頼

し たの で

聖 堂や 修 道 院に冨が

ま り, そ れ が権 力 と結 びつ く結 果に も なっ た と言 わ れてい る

。従

っ て ラグランジ ・卍 ばか りで な く,

えば, シ ト

会の聖ベ ル ナ

ル か ら 「悪

の シナゴ

非難

さ れ たサ ン

ド ニ

道 院 長の シュ ジェ (

1081〜

1151

)は イ六世七 世

国 政

顧 問役

, 国王の摂 政 を 努め た 人 で あ る が, 王侯 貴 族のご と く

分を き わ だ たせ よ う と し た人で あっ た

従っ て

は サ ン

ドニ 修 道 院 付

教 会 堂ゴ シ

大 改 築

1144

6

月にゴ シ ッ ク様 式の誕 生 を

げる盛 大 な献 堂 式を行っ てい る。 こ の様 式 をま ね たゴシ ッ ク大 聖 堂が以 後, 北フ ラン ス各 地に建 設さ れ る よ うに な り, 威 信 を 懸け て建 設 し よ う と す る大 司 教や 司教の メン タ リテ ィ は

聖 職 者で ありなが ら世

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