『 仏 説 観 無 量 寿 経』を 聞 く はじめに 一、経とは ・「スートラ」と「経」の語義 解きほぐされた糸・綴り糸・縦糸 ・釈尊説法の伝承 「仏説」 ・信じて聞いた法 「如是我聞」 多聞第一・阿難の伝説 ・聞いて信ずる道 天親の信 「世尊我一心」 二、浄土三部経とは ・「正しく往生浄土を明かす教といふは、いはく三経一論これなり。「三経」とは、 一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。「一論」と は、天親の『往生論』(浄土論)これなり。あるいはこの三経を指して浄土の三部経 と号す」 法然上人『選択本願念仏集』-『注釈版聖典七祖篇』一一八六頁 ・「いはゆる三経の説時をいふに、『大無量寿経』は法の真実なるところを説きあら はして対機はみな権機なり。『観無量寿経』は、機の真実なるところをあらはせり、 これすなはち実機なり。-中略-『小阿弥陀経』はさきの機法の真実をあらはす二経 を合説して・・・・」 覚如上人『口伝鈔』-『注釈版聖典』九○○頁 三、何故、『観無量寿経』から ・「三願転入」の師訓による 観経(十九願)小経(二十願)大経(十八願) ・聖道の諸教を万行諸善の仮門・浄土三部経の序分とする見方は善導大師の『観経疏 』以来の伝統。万行諸善を説きつつ浄土往生を勧める、導入的地位にあるのがこの 『観経』 ・仏教の出発点は「苦悩」の発見。「除苦悩法」を自称するこの経は、仏教の原点 を具体的にあきらかにするもの。 四、『観無量寿経』の特徴 ・具体的事象を通して 「王舎城の悲劇」 ・在家の女性が対象 「修行者でない、ただの信徒」 ・人間とは・己とは何かという問い 「凡夫といふは」「さるべき業縁のもよおさば 「おのれが分を思量せよ」 ・「顕彰隠密」の義ある経。定散二善の聖道門行を以て浄土を願うは一応、真意は念 仏を勧めるにある。 五、参考文献 ・『観経疏』 ・『教行信証』化身土巻 ・『浄土和讃』観経讃 ・『季刊せいてん』 ・『浄土三部経』(現代語版) ●題号 仏説観無量寿経 ・此の経、名づけて「観極楽国土無量寿仏観世音菩薩大勢至菩薩」、亦名づけて 「 浄除業障生諸仏前」 『浄土三部経』(現代語版)二一二頁 ・「観経」「仏説無量寿観経」 善導大師『観経疏』-『注釈版聖典七祖篇』三
○五 ・「無量寿仏観経」-親鸞聖人『教行信証』『注釈版聖典』三八一頁 ●訳者 良耶舎(カーラヤシャス)西域の人 宋の元嘉のはじめ(四二四年の頃)『観 経』を訳す ●経の全体構成 通念 序分・正宗分・流通分 善導大師の見方 五門 序分 (由序) 証信序・発起序 155-166 正宗分(所説) 166-211 得益分 211-212 流通分(末代伝持を勧む) 212-214 耆闍分 中に序分・正宗分・流通分 214 「如是我聞」が証信序 通説は六事成就まで 以下を発起序として七分、化前序・禁父縁・禁母縁・厭苦縁・欣浄縁・散善顕 行縁・定善示観縁 ○「一時仏在王舎城耆闍窟山中」と「爾時王舎大城」 王舎城の悲劇 』 その二 『 仏 説 観 無 量 寿 経 を 聞 く ○禁父縁 ビンバシャラ王・仙人・ダイバダッタ・アジャセ・イダイケ夫人の姿の意味す るもの ビンバシャラ王 在家仏教徒の鏡・愚痴の凡夫の悲しさ まだ見ぬ未来への恐れ・過去の重荷 自らは手を汚さず言葉で人に命じて 権力の恐ろしさ 釈尊の求道・出家・修学・苦行・正覚・転法輪の人類的意義 仏教を道徳・精神修養とみる観点の破綻〔日頃の仏教徒としての学びは無 駄だったのか 法に背き真実に背を向ける存在としての人間の実相 人間とは何かという問い(仏とは何か) スフインクスとエデンの園 ○禁母縁 ○禁母縁 何故イダイケが主役なのか 全インドのフアーストレデイ(この世の幸福のシンボル) 妻として、母として・出家修行と無縁な暮らしに生きる在家信者 無意識の加害者、突然の被害者 迷い深く悩み多き万人の代表 「母を殺すな」の意味 耆婆月光 差別で人倫を支え、クシャトリアの栄誉を守り、国を立てんとする世俗 義者、殺害其父も国のためなら是認するのが月光大臣 実語をもって語る親族・仏教徒、アジャセの心を開く。 ○厭苦縁 イダイケの苦悩は人間苦の象徴 夫の飢えと死の憂い、法を聞けず、自らの 危機 子ゆえに夫ゆえに
目連と阿難の訪問を求めて釈尊を求めなかったイダイケ、自ら現れた釈尊 (求めて聞く我ではなかった。聞く耳も持たない我ゆえに如来の方から) 神々の供養の意味 未聞の益 天上天下唯我独尊三界皆苦吾当安之 帝釈天・梵天と釈尊 胸飾りをひきちぎる この世の幸せのシンボル 棄国捐王行作沙門 何の罪あって 忘れ去れた罪 知らざる罪 釈尊の沈黙 受容と調熟 イダイケの懺悔 』 その三 『 仏 説 観 無 量 寿 経 を 聞 く ○欣浄縁 地獄餓鬼畜生の三悪道 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒 火途・血途・刀途 マガダ王家はどこに 懺悔 人間の本質を見てしまった 無憂悩処と清浄業処 結果に一喜一憂して、因縁を思わず。魚を見て森を思 わず。 光台現国 すがた形を越えたものは受け取れないのが凡夫 弥陀の浄土を選ぶ 見せて、聞かせて、選ばせて 「極楽世界」 「観」ということ 「信心の智慧をもって」「願力をこころにうかべみる、 また知る」「仏日」の光 提灯と釣り鐘 灯らずば見えず、打たずば鳴らず 眉間の光、口よりの光 万人の救済と個人の安らぎ ○散善顕行縁(後述のごとく散善を説いて修行の道を明らかにすることになった縁) 釈尊の微笑の意 迷へる者は道を問はず 問いなき所に答えなし 問いを発するは仏力の導き、お育て 釈尊の素懐 イダイケのこころ、ビンバシャラ王の救い 救いとは何か 〔仏はじめて語りたもう〕 阿弥陀仏ここを去ること遠からず 距離が近い すぐ行ける わが心に現れる 定善散善の二つに仏法の全ての修行はおさまる 廃悪修善の修行(三福・九品)道徳とその延長としての宗教 息慮凝心の観法(思惟・正受)善悪をこえた世界からの光を仰ぐ
求めざるに散善を説きたもう 汝いま知れるやいなや 清らかな行の完成者と清らかな国土 成仏も浄土も清浄な業因の果報 (因果の道理) 』 その四 『 仏 説 観 無 量 寿 経 を 聞 く ○定善示観縁(後述のごとく定善を説いて観法のあり方を明らかにすることになった縁) 韋提希と阿難に告げたもう 「諦聴諦聴」 勅聴許説 極楽に生ぜんと願う請い 得生の行を求める請い 韋提希の願いに応えて道を示す ユルサレテキク(聞く耳も、聞く資格もなかったのに) 韋提希よ、よくこのことをたずねた 在家中心 阿難よ、受持し世に伝え広めよ 出家補佐 あきらかによく聴け、ふかくかみしめ味わえ、聞き誤っ てはならぬ 未来世一切衆生のため ヨロズノコトソラゴトタハゴトマコトアルコトナキニ 煩悩に苦しめられるひと ワレラガタメナリケリ 心想羸劣にして遠く観ることあたわず イチニンガタメ 濁悪不善にして五苦(生老病死・愛別離苦)にせめられ ブツ、カネテシロシメシテ 我は今、仏力ゆえにかの土を見る 「仏滅後の悪衆生は何によって見る」 夫人の慈悲心の問い 「願以此功徳 平等施一切」 「見る」とは遇うこと、待たれていた自分を知ること 遇えるはずのないものに思いがけず遇えたこと 無生法忍 凡夫にも可能な確信「忍は認可決定」の義 不生不滅の法を明確 に認知すること 信忍・喜忍・悟忍〔三忍〕の総称 如来のメッセージを受信して喜び、我もまた如来のみ 手のうちにありと悟ることか 長い序文の意義 機の真実を明かす(対機の質、ひいては教意を明確化) 何故、阿弥陀如来の悲願が立てられ、念仏の救いの道 が開かれねばならなかったのか。人間の実相に学ばせ 共有する病患に気づかせることで、仏意・教意を知ら しめんがためか。「さるべき業縁のもよほさば」「そ .れほどの業をもちける身にてありけるを」「仏かねて 知ろしめして煩悩具足の凡夫と」 ●定善十三観・散善三観(正宗分)の構成 別表
●定善が説かれたことの意味 戒定慧三学・八正道の第八、正定 覚りの智慧の前提 「定」の究極である無相離念の前段階としての息慮凝心、 観察行としての定善十三観 覚りへのアプローチ イダイケの請いに応じて 願力の広大さを知らしめる 凡夫の愚かさに気づかせて願力に帰せしむる 具体的様相によらなければ心に受け取れない凡夫 発想の逆転を促すか ○日想観 専心繋念一処(ひたすら思いをかけて) 心想羸劣の者も可能か 西方の日を観ず 方を指す(念力ひとしくおよばれぬ身に応じて) 自の業障を識らしむ(妄雲なお覆う) 日想観の要点 弥陀・浄土の光明、日に超過せるを知らしむ(光来る) 娑婆には他に比すべきものなし ○水想観 無分散意(こころをみださないようにする) 凡夫にも可能か 水を想う 浄土の瑠璃の大地の高下なき平相にたとえる 水を転じて氷を想わせるは弥陀の修行の清浄によって成 った瑠璃の大地が透き通っていることにたとえるため 水は自の心水に譬う 「水静かにして境現ず」 極楽の大地は阿弥陀如来の心の具体的表現 極楽は迷いと苦を離れた覚りの世界 疑えば華開かず ○地想観 観地の法 娑婆生死の苦を捨てんと聞きて信行するものに説け こ れ真に仏恩を報ず すなわち諸仏本願の意にかなう 諸仏の勧化は悪を制し福を修して人天の楽を受けしめん がためにあらず 人天の楽ははかなきこと電光のごとし たちまちかえって長く苦を受く 故にただ浄土の菩提に 向かはしむ 八十億劫生死の罪が消える 「衆生をしつらえたまふ」 かならず浄国に生まれる「煩悩具足と信知して本願力に 乗ずれば」 心得無疑(決して疑うな) 疑いは猶豫の義 不決定 よそごとに聞き、得手に聞く 正観と邪観 心境相応と心境不相応 凡夫の心と阿弥陀如来の境とが相 応すること 可能か 』 その五 『 仏 説 観 無 量 寿 経 を 聞 く ○宝樹観 大地と樹木が精舎の原型 「祇樹給孤独園」 八千由旬・百由旬・二十五由旬 由旬は約十里 三千世界の一切の仏の活動、十方仏国が映し出されている
○宝池観 沐浴池 自らより流れ出て互いに通い合う池水 ○宝楼観 自然の音楽 仏法おのずから開示される世界 法蔵願力 宝楼観が樹と地と池を摂める総観 極楽のシンボル ○正観と邪観 心境相応と心境不相応 凡夫の心と阿弥陀如来の境とが相応するこ と 可能か ○華座観 除苦悩法(苦悩を除く教え) 苦悩とは何か 一六一頁参照「地獄餓鬼畜生の盈ち満ちた 世」にあって 除くとはどうすることか 韋提希の思いでは「清浄業処を 観ずること」 しかし仏の意は? 阿弥陀仏自ら開示 広為大衆(広く、多くの人々ために) 一切衆生の救いがここに開かれる 無量寿仏住立空中(この経の枢要部分の一つ)苦悩の衆生の救いとは何か 釈尊の言葉に応じて 釈迦の許説と弥陀の応現一致して 立ちながら撮りてすなわち行く救急の大悲 背く者故に 韋提希、ここに無生法忍を得る 光自ずから来たりてこ の身を照らしたもう 具に見るべからず わかりようもない大きなものに遇う 見無量寿仏已・接足作礼 忍を得る証(礼拝の意味・五正行の中で) 五正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養) 定善の「観」によっててはなく、弥陀自ら我らにかけたも う真心を開示したもうによって信を得る。 未来衆生はいかがして観るべき 韋提希の問いを通して万人に 當起想念(思い描け) 「観」の方便 こころのまなこくらい凡夫に可能か 至心に懺悔して仏力を乞い、万事を捨てて定に入れ 八万四千の光明ある華座 智慧の光明量り無し もと法蔵菩薩の願力よって成る 座は拠り所の表現か 』 その六 『 仏 説 観 無 量 寿 経 を 聞 く ○像観(正報観の中の仮観) 諸仏如来はこれ法界身なり(如来の形象は衆生のこころが作るもの・そのま ま、如来の人間界への現出) 法とは衆生の心(の対象) 一切の存在・さとりの内容
法界とは所化の衆生界(能化の仏のさとりの世界でない) 想心のうちに入りて現じたもう 迷いの衆生のこころの中にすがたを現す 〔眼耳鼻舌身意 色声香味触法〕物理的存在に非ず、意 識の上に受け取られる 是心作仏・是心是仏 仮立の像観 思い浮かべる心の 他に仏の像なし 方を指し相を立てて、心をとどめ めて境を取らしむ 総じて無相離念を説かず末代罪濁 の凡夫のためなり 念仏三昧を得る 群生障り重くして真仏の観かない 難し。ここをもって大聖哀れみを 垂れてしばらく心を形像にとどめ しめたもう。 ○真身観 身相と光明 身相は天の金色に越え身量は広大にして眼識の及ぶ所にあ らず。その光明の徳は衆多にしてあまねく念仏の人を摂取 する。八万四千の光明は「無量光仏」の義を示す。 人間の見える限界をはるかに越えて、その光を被るのみ 「煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我」 光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨〔ただ念仏衆生のみ摂取して捨てず〕 摂取の三縁(如来は念仏にそなわる三つの縁を以て衆生を 摂取する。他の諸行によっては摂取することかなわず) 月影の至らぬ里はなけれどもながむる人のこころにぞすむ 親縁-彼此三業不相捨離(衆生の 称名を聞き、礼敬を見、憶 摂取の三縁 念を知りたもう) 近縁-(衆生見んと願ずれば現れ たもう) 増長縁 (称名念仏の人の罪を除 き、迎え取ること障り あることなし) 念仏とは何か 仏を「念」ずとは 仏の像を観念する 「観」と「称」 仏の相を観念する 仏の心(実相=覚り)を観念する 仏の名を称念する(方向逆転) 称名が何故「念」ずることに当たるのか 仏は衆生を一子のごとく憐念したもう 故に、衆生はこれにうながされて仏を 憶念する 称名念仏、摂取のすがた 仏から名のり、呼びかけ、依らしめて
救いたもうすがたが称名念仏 仏とは何か 一切仏身=仏心=大慈悲=無縁の慈悲を以て諸衆生を摂取する。 仏身は仏心の表現である。 一仏は一切仏に通ず。大慈悲ひとしきが故に。身は観ずるもの、 心は見る(聞き信ずる)もの 大慈悲とは 摂取不捨の意 ものの逃ぐるを追わえ取る (慈悲=抜苦与楽の内容に三種、大悲・中悲・小悲) 「わが弥陀は名を以てものを摂したもう」 』 その七 『 仏 説 観 無 量 寿 経 を 聞 く ○観音観と勢至観 仏願に生き仏徳に生かされる菩薩のすがたは一切往生人の得る益を代表するか 華が散り敷き、大地が振動する 「苦を救いたまふ観音、法界を縁じ、時として変じて娑婆に入らざるはなし」 「勢至の威光よく震動し、縁に従ひて照摂して弥陀に会せしむ」 種々の世俗的荘厳(宝冠と瑶珞)の意味 ○普観 自らが往生する想いをなす 上来の全ては我がためであった 弥陀・観音・勢至つねに行人の所に来たり至る 真実信心をまもりたもう ○雑想観 弥陀の導き無碍自在、衆生の意に随い応じ、弥陀の意の如くに開悟せしめてお のおの益すること同じからず。 お手回し、お育ては人それぞれに応じて 日観から雑想観までの定善十三観は韋提希の「教我思惟・教我正受」という請いに答え 日観から第七華座観までは依報(浄土の環境)を第八像観から雑想観までは正報(浄土の 構成員)を明らかにする。 ●三輩散善(九品段) ・定善たる「観」を成しがたい心想散乱の凡夫のために廃悪修善の道たる「散善」を 説いて往生を願うことを勧める。韋提希が請わないのに釈尊自ら開示したもう。す なわち韋提希が如何なる存在であり、如何なる道を行くべきかは、韋提希は知らず 仏のみ知りたもう。釈尊が韋提希を「観」に堪えない凡夫と見抜きたもうしるし。 ・(当面は)三福(世福・戒福・行福)を説いて正因とし、九品を示して正行となす ・全体を通じて十一の要点あり(一仏の告知、二位の弁別、三衆生の類別、四三心を 必要十分条件と定める、五可能な行の内容、六往生のしかたの種別、七浄土におけ る修行の長短、八修行によって往生を願う、九臨終来迎の違い、往生の遅速、十浄 土での華開の遅速、十一華開以後の利益の違い)、文言に明示されずとも、その意 九品通じてあり。 ・上品上生 上品中生 上品下生 中品上生 中品中生 中品下生 下品上生 下品 中生 下品下生 九品に分けて人の機根に差異あることを示し、しかも等しく弥 陀浄土の往生を説くは、上の上なるが故に往生するにあらず、下の下なればとて往 生せざるにあらずということを表す。往生を可能にしているもの、共有するものは
何か。往生しないものがあるのは何の故かを知らしめんとする意か。 ・上中下の差異は遇ってきた「縁」によるという善導大師の見方。 ○上品上生者 「具三心者必生彼国」 上品上生の人の行ずべき善を説く前に、三心(信心 )が往生の必要十分条件であることを開示する。華 座観を説く前に弥陀の住立空中があったことと対照す べきか。上品上生の人も上の上の善行の故に往生する のではなく、信心故に往生することを明かすか。 至誠心・深心・回向発願心 当面の意味は、まごころをもって・心の底から 自己のすべてを投入してひたすら往生を願うと いう心持ちか。 ※善導大師の衝撃的解釈 「必」を因果応報の意と取られたか。 至誠心=真実心 「外に賢善精進の想を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」 「虚仮の行・雑毒の善」では往生は「不可」 「阿弥陀仏、法蔵因位の時、菩薩行を行じたまいしに一念一 刹那にいたるまでみな真実心のうちになしたまひし故に」 深心=深く信ずる心 「一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠 劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あるこ となしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十 八願は衆生を摂受したまふこと、疑いなく慮りなくかの願力 に乗じてさだめて往生を得と信ず」 「一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住座臥に時節の久 近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、か の仏の願に順ずるが故なり」 回向発願心=自他の所修の善根をもって、ことごとくみな真実の深信の心中に 回向して、かの国に生ぜんと願ず 「得生の想をなすべし」 二河白道の比喩 「かの国に生じをはりて、還りて大悲を起こして、生死に回 入して衆生を教化するをまた回向と名づく」 』 その八 仏 説 観 無 量 寿 経 を 聞 く 「三心すでに具すれば、行として成ぜざるはなし。願行すでに成じて、もし生 ぜずは、このことわりあることなからん。またこの三心はまた通じて定善の義 を摂す、知るべし」 三心は阿弥陀如来の真実なる願と行と等しいもの、そう でなければ、往生成仏の果が得られる道理がない。瓜の つるになすびはならないからである。そんな心が凡夫に 起こせるか。可能性はゼロ。そもそも、上品上生とはい っても、「観」を成じ難い凡夫の中の上の上に過ぎない のである。だから阿弥陀如来の方から与えて下さるほか はない。顧みれば定善もまた三心を得しめんがための説
示と知られる。 三種の衆生、三種の修行 一日乃至七日 「必」でなく「當得往生」 諸善万行悉く三阿僧祇百大劫に修行せねば成仏できぬ筈 富士山は最も月に近い故に称讃されるというに似る。 法蔵因位の修行を真似てみる。そして何を知るのか。 阿弥陀如来、二菩薩及び諸々の聖衆とともに現前し迎接(来迎)したもう 自分から往ける世界でない。弥陀の覚りの世界故。 てがらを重ね、結果を目で見て喜ぶという救い 仏、行者の疑いを懐くことを恐れたまふがゆえに、 「われ来たりてなんぢを迎ふ」とのたまふを明かす 来迎は諸行往生にあり。自力疑心の行者なるが故に。 臨終における「観」 そして「観」から「聞」ヘ 今の時の道俗、己が能を思量せよ。 ○上品中生・上品下生 上輩は上行上根の人 大乗仏教に遇った凡夫 大乗とは万人(凡夫のわたし)が仏になる道 ○中品上生・中品中生・中品下生 中輩は中行中根の人 小乗仏教・世間善に遇った凡夫 仏縁なく仏法の善根の欠けた者に聞かせてく れる善知識 ○下品上生・下品中生 下輩は下行下根の人 悪に遇った凡夫 無善造悪の下輩には善知識と称名あるのみ。 称名のもの称讃を受ける。 ○下品下生 具に五逆等を造れる重罪の凡夫人 極重の悪人、命延久しからず。臨終に善知識に遇う。善人安 慰して教えて仏を(想)念せしむ。罪人死苦来たり逼めて、 仏名を念ずることを得るに由なし。善友苦しみて失念すと知 りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむ。念数の多少、 声々間なし。罪を除くこと多劫なり。臨終正念にしてすなは ち金華来応す。去時の遅疾、ただちに所帰の国に到る。 人間の造りうる如何なる罪悪よりなお重く強いものは、 如来の願力であり称名の功徳であること 「名」の持つ意味と力 名は総体を摂める 大乗諸経の名を聞く ここに真ありと仏の呼びかけ 阿弥陀仏の名を聞く 救いの名のり・呼び声に遇う 仏法僧の三宝の名を聞く 真のよるべあるを知る ●十念称名の救い(上品上生段「具三心者必生彼国」に対応する) 人間のこころのありよう(想念)を問わないで抱き取る 如来の大悲、唯受けるばかりのすがたが十声の称名。 得益の差別 縁に違いあり、所行にまた九品の差があるに応じて、浄土で得 る果報に当面の差別を立てて説いてある。が往生の正因は唯三心(信心)であ るとすれば、浄土で得る得益果報も結局は「成仏」の一果であることを反証。
』 その九 仏 説 観 無 量 寿 経 を 聞 く ○得益分 韋提希一人の救いから万人の救いへ。 韋提希は既に住立空中の弥陀に遇って無生法忍を得た。定善散善の教えを最後 まで聞いたからではない。弥陀の真実に遇ったからである。今は韋提希の救い が韋提希ひとりの救いに止まるものでないことを明かすか。 ・この語を説きたまふ時 上来の説法全体を指す ・五百の侍女 この教えの聞法者は韋提希のみならずということを指す ・時に応じて 教えの展開するに従ってそのつどに ・極楽国土を見たてまつる 先に光台の中に極楽を見たこと ・弥陀・観音勢至を見たてまつる 既に華座観のはじめに見て無生法忍を得たこと ・侍女、無上心を発す 聞法のものひとしく無上心を発して往生を願ったこと ・世尊悉く記したまふ 侍女たち皆、往生して諸仏から成仏を保証されると予言 ・無量諸天も無上心を発す 先の厭苦縁に登場して以来聞法する釈梵・四天王等 ○流通分 王宮の流通と耆闍崛山の流通 王宮の流通 経の伝承と流布は比丘たる阿難のつとめ故、阿難伝承の心得を問う。 ・経の名 観(定善)と行徳(散善)の二について二つの名を挙げる。 ・観は現世において弥陀を見る。名を聞き、念仏すれば罪が除かれ、仏前に生ず ・(観仏)三昧・聞仏名・憶念(具三心)・念仏(具足十念称名・持無量寿仏名 ・「聞く」とは罪が問題にならないことのしるし。罪を超えて呼びかけたもう。 ・念仏者は人の中の白蓮華、妙好人。罪に汚れず清浄の華開く。 ・観音勢至は勝友(善友・善知識・善人)となって現生から常に影のごとく添終 われば諸仏の家たる弥陀の国に生まれる。(初歓喜地の菩薩の位に当たるか) ※「汝よくこの語を持て。この語をたもてとは無量寿仏のみ名をたもてとなり」 この『観経』の教説をうけ伝えるとは「南無阿弥陀仏」を念持することに他な らない。「南無阿弥陀仏」に込められた弥陀の願意を信じ、称名を絶やすなと の意。すなわち、この経は南無阿弥陀仏を受け取らせんがための教であると。 「上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして 一向にもっぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」 「歓喜」は将来の往生を確信して喜ぶこころ-今は発無上道心と同義か 耆闍崛山の流通 教法の伝承者としての比丘衆に始終を説く 釈尊・阿難は耆闍崛山に帰り(序分)、阿難は比丘衆等にこの経を再説したと ころ(正宗分)、天・龍・夜叉まで皆歓喜して礼をなし立ち去った(流通分) 韋提希一人のため(すなわちあらゆる苦悩の凡夫一人のため)の教えがかくし て伝承され万人へのものとなった。