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トマス・リードの心の哲学

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(1)

—力の概念ー一

石 川 徹

トマス・リードの哲学体系が、ヒュームの哲 学と同じ伝統に属し、同じ問題関心を共有する ものであったことは、先の論文において述べて おいだ。また、リードが、自らの哲学体系を 構築するにあたり、最大の目的としていたこと は、ヒュームの哲学をその最終的帰結とする哲 学理論を根本的に批判し、それに対して異なる 選択肢となる理論を提示することにあったとい うことも、もはや常識といっても良いであろう。

そして、このリードがヒュームに対して行った 批判の柱を成すものが二つ存在する。ひとつは 前論文で取り上げた知覚論であり、もうひとつ が本論文以降取り上げる予定の力 (Power) と 因果性 (Causation) とりわけ、人間の能力を問 題にする際にこれらの概念をどう理解するかを めぐる議論である。

これらの問題の対象とする範囲から考えれば、

前者の問題が、ヒュームの『人間本性論』の巻 の名前で言えば、「知性論 (ofUnderstanding)」、 後者が「情念論 (ofPassion)」および「道徳論

(of Morals)」の理論的基礎に対する批判とい うことになる。これは、確かにそのとおりでは あるが、ヒュームの哲学の両部分がそれぞれ内 的に関連性を持っているのと同様に、リードの 哲学においても、この二つの批判には密接な関 連がある。したがって、リードのヒューム批判 に対する最終的な評価は、リードの哲学の全体 を考察し終えた上で、ヒュームの哲学との詳し い対比を試みることでなされなければならない 課題であるが、ここでごく簡単な見通しを述べ ておきたい。

ヒュームの哲学は、その課題を、知覚(印象 と観念)/という心的な存在者を定立し、それら についての理論を構築することによって遂行す る。既存の様々な考えを検討する際には、それ らがどのような観念によって構成され、また、

それらの観念が最終的にはその経験的起源であ る印象に還元しうるか否かが、批判の最も重要 な手段である。自らの積極的な立場を構築しよ うとする場合には、われわれの有する考えがど のようにして印象から得られるか、あるいは印 象から得られない場合には、どのようにして想 像力によって虚構されるかを説明する•ことに よって、自らの理論を正当化しようとする。一 言で言えば、ヒュームの理論は知覚の原子論、

ないし知覚の機械論というべき傾向を持ってい るのである。 「人間本性論』の副題にある、

「実験的な推論法を精神の諸問題に導入する試 み」とはこのような説明モデルに基づく試みと なっているのである。そして、このような説明 モデルが機能しうることを、可能にしているも のこそ、ヒュームの因果論であるといってよい。

ヒュームの因果論は、精神的現象における因果 性をも、物理的現象と同様に一元的に取り扱う。

すなわち現象間の規則性に還元する。精神にお ける現象は一見したところ、物理現象とはまっ たく異なる特徴を有しているように思われるが、

ヒュームは因果性を現象の規則性に還元するこ とで、このような特徴を持った精神的現象もま た、因果的に説明されうるものと考えることに なる。そして、このような説明は、方法論的な 一元性という長所を備えるものの、意志の自由

(2)

をはじめとして、様々な心的現象に関して、我 々の日常的な理解とは異なったものになる。

したがって、リードが知覚論の批判から因果 論批判に進むのは当然の成り行きである。しか も、前論文において指摘しておいたように、

ヒュームには実は感覚知覚論というものは存在 し な い 。 そ の 意 味 で は 、 リ ー ド の 知 覚 論 は ヒュームを生み出した理論的伝統を担ってきた 哲学者たち、すなわち、ロックやバークリに対 する批判にはなっていても、それだけでは、

ヒュームの哲学に対する、適切な批判にはなっ ていないのである。すなわち、ヒュームを懐疑 論者として批判するとしても、ヒュームの議論 の焦点はリードの議論がその対象としているよ

うな知覚表象説ではありえない。 ヒユーム自身 知覚表象説が成り立たないことを「当代の哲学 について」の批判として、十分に語っているの である2。ヒュームが懐疑として語っているの は、我々の持っている印象という経験的所与が、

我々の世界観を構成している因果性や外的存在 などについての信念の成立を合理的に正当化し 得 な い と い う こ と に あ っ た 。 し た が っ て 、

ヒュームは常識的信念の成立根拠を、理性や感 覚にではなく、想像力に求め、同時にこうした 信念が理性的には正当化し得ないものであった としても、これらが信頼に足るものであること、

あるしヽは信頼するほかはないものであることを、

自然に対する信頼という形で述べているのであ る。このように解するとき、ヒュームとリード の主張の違いは必ずしも明確ではないものとな る30

したがって、リードのヒューム批判は、知覚 論のみでは完結せず、因果論に対する批判がよ

り根本的なものとして姿を現すといってもよい であろう。

そこで、本論文では、 トマス・リードの最後 の 主 著 「 人 間 の 能 動 的 諸 能 力 に つ い て 」

(Essays on the Active Powers of Man)の第一論 文「能動的カ一般について」 (ofActive Power・ 

in General) の 議 論 を 少 し 詳 し く 取 り 上 げ 、 リードの哲学の全体像を探る手がかりとしたい。

ただし、この課題は、この論文のみで果たされ

るものではなく、この著書を構成するいくつか の主題にわたっての考察を終えたときに最終的 に果たされることになるであろう。

論文の内容についての詳しい検討に入る前に、

「能動的力 (ActivePower)」という語について 簡単に説明しておきたい。 「能動的力」という 語は「受動的力」という語の存在を含意してい るように見える。事実変化を被る側が、作用を 受け変化するという性質を持っていないと、変 化という現象自体が起こらないために被作用者 の側にもある一定条件が備わっていなければな らないということをさして、 「受動的な力」と いう言葉を使うことは不自然でないように思わ れる。しかし、リードの用法では、 「力」にこ のような含意は存在しない。もちろん「能動」

という語は「受動」という語と対になって存在 する。そして、作用者と被作用者という意味で リードもこれを認めている。しかし、 「力を持 っ」とは力の作用主体であること、 「能動者」

であることに他ならない。そして、この作用主 体であるということをわれわれが厳密な意味で 経験しうるのはただ、われわれの経験において の み で あ る 。 し た が っ て 、 リ ー ド に と っ て

「力」とは本来的に能動的なものであること。

そして能動ということを理解できる唯一の経験 はわれわれ人間自身の行為に他ならないこと。

これらの意味において、 Activ~という語は力自 身の本来持つ「能動性」という性質をあらわす とともに、人間の行為においてその姿を現すも のであるという意味で、人間の行為に関わると いう二重の意味を持つことになる。リードの書 名にはこのような二重の意味が込められている のである。

以上のことを念頭に置き、リードの叙述を見 ていこう。リードによれば、人間の能力は「知

'性 (Understanding)」 と 「 意 志 (Will)」 に 分 割 される (511)4。一般的によく行われる分類で は、人間の能力は知、情、意の三つの部分に分 割されるが、,リードは感情の部分を能力には含 めない。これはもちろん人間に感情の存在を認

(3)

めないということではなく、感情あるいば情念 はPassionというその名が示唆するように、感 情は人間にとって受動的なものであり、人間の 持つ自発的なものではない、すなわち能動的な カではないからである。この点で、人間本性の 基礎的部分を、知性と情念として、意志を情念 に類似の内的印象である5として、意志の自由

まず、リードは「力」という語を誰もが日常 的に使用し、したがって、誰もが理解している はずの語であると主張する。この語に関して、

困難を持ち込むのは、哲学者たちが、この言葉 に対して、論理的定義を与えようとする不可能 な試みを行うせいである。とリードは言う。カ はそれ自身で、独立の種を形成し、,本性上単純 に否定的であったヒュームとは、顕著な対象を でありそれ以上の分割を許さない。同種の語、

なしている。 すなわち明晰判明な内容を持ちながら、定義不

知 性 の 持 つ 思 弁 的 な 能 力 (SpeculativePow‑ 』可能なものの例としては、大きさ、思考、持続、

ers)により人間にとっての最良の目的を提示 数、運動、などがあり、したがって、アリスト し、その目的を達成するために最も適切な行動 テレスの「運動」7の定義やヒュームの「信念」

体系を設計し、 「 意 志 」 の 持 つ 能 動 的 能 力 の定義8等は、まさに定義を与えることにより、

(Active Powers) により、これを実行に移す。

これが人間のあるべき姿であり、したがって、

徳と悪徳という人間の性質はひとえにこのよう な能力を人間がいかに使用するかにかかってい ることになる。人間が他の動物と異なるのはい わゆる知的思弁的な能力によるばかりではなく。

動 物 行 動 が 、 単 な る 本 能 (Instinct) ・欲求 (Appetite)・情念 (Passion)6等によって動かさ れるだけに過ぎないのに対して、人間において は「意志」の自発性による自律が存在する。故 にこそ、われわれは単なる動物を超えた倫理的 存在なのである。以上が、リードが描く基本的

な人間像であり、またあるべき姿である このような人間像が、人間の精神の働きや自 発的行為をも、自然現象と同じ因果の網の目の 中に組み込もうとするヒュームの理論と鋭く対 立するものであることは、一見して明らかであ る。そして、このリードの唱える人間像は、別 に目新しいものではなく、むしろ伝統的ともい えるものではあるが、ヒュームの理論を踏まえ た上で、この人間像を主張していくためには、

自然現象の規則性、力、因果性、人間の行為を

理解を不明瞭なものとしている例である。

したがって、リードは「力」の観念に定義を 与えることはせず、個々の人間それぞれが理解 していることに対してより注意を向けるための いくつかの観察を行う (512)。

第一の観察は「力はいかなる外的感覚の対象 でもなければ、意識の対象でもない」 (512) と いうことである。言い換えれば、 「力」につい て、五感を通じて外的現象の中に見出すことも できなければ、意識を通じて内的に経験するこ ともあり得ない、すなわち、 「力」については、

いかなる直接的な経験も存在していないという ことである。外的感覚に対しては、このことは、

ヒュームらの主張するとおりであり、意識現象 に関しても、われわれが意識の対象としうるの は、精神の諸作用のみである。精神の諸作用は 確かに意識の対象であるけれども、こうした作 用は力の行使に過ぎず、力そのものではない。

われわれは作用から力の存在を推理できるけれ ども、これは直接的な経験によるものではなく、

推理は理性の領域に属することであるという。

以上のリードの見解は、彼が批判の対象とす 規定する様々な要因、意志の自由など、多くの るヒュームの哲学と比較してみれば、ヒューム 事柄について、再考しなければならない。、これ の方法論的前提に対する挑戦となっていること がリードの『能動的能力について」での課題で がよく分かる。すなわち、ヒュームにおいては、

あ る 。

そして、最初に述べたように本稿での課題は、

まず力ないし能力という概念をめぐってのリー ドの考察を探求することである。

全ての観念は、それが得られた印象に遡ること ができなければならず、そのような元になる印 象が見出せない場合には、その観念は、実は空 虚な「言葉」だけのものに過ぎないとされる。

(4)

つまり、内的にせよ外的にせよ、言葉の意味を 直接的経験にまで遡ることが、不明瞭な概念を 明晰化することと、有意味な語と無意味な語の

,線引きをするためのヒュームの武器だったわけ である。そして、 「力」に最も関係する因果の 観念を、ヒュームは直接経験に見出すことがで きず、恒常的連接の経験による習慣の形成と、

恒常的連接という関係にある対象の一方の印象 から他方の観念を必ず呼び起こす精神の被決定 感というところに因果的必然性の起源を求めて いる。、この点で、リードの第一の観察は、

ヒュームの因果関係に対する主張とまったく同 じといってもよい。言い換えれば、この点で、

リードはいわばヒュームが見出したことを経験 的事実として認めたといって良い。しかし、そ こから、リードはヒュームのように新たな経験 的源泉を求めたわけではない。しつまり直接的経 験に還元できるということを、全ての基準だと する立場を、リードは取らないということであ り、その意味でリードのとる立場は、ヒューム がそこに経験論の不徹底を見た、ロックの立場 にある意味で似ているといえよう。

このことは、リードの第二の観察「われわれ は直接的に思念することのできるものと間接的 にのみ思念を、持つことができるものがあるが、

力は後者に属する。 (513)」という主張がより 鮮明に示している。

リードによれば、対象それ自身が何であるか を知ることができるものについての思念を、直 接的、それ自体については知らないで、何らか の属性性質を持っているとか、他のものとの関 係を有しているとか、ということだけを知って いる場合に間接的という。

間接的な概念という範疇の中には当然様々な ものが入りうるが、間接的にのみ知りうるとい うことが、そのものにとって本質的であるよう なものもある。たとえば、リードによれば、物 質や精神(おそらくは物質的実体、精神的実体 の意味であろう)はそれ自身について、何であ るかは知りえず、物質については、ある物質的 性質を持つもの、精神については精神的作用の 主体となるものという規定を知りうるにすぎな

い。われわれが直接的概念を持ちうるのは物質 については、その第一次性質、精神については われわれが意識する精神の諸作用であり、ロッ クの言う二次性質、また物体の持つ力と呼ぶ性 質などは、それが他に及ぼす結果から知られう るのみであり、全て間接的な概念である。

先に述べたように、このような実体の概念の 捉え方、および物体の持つ第一次性質、第二次 性質の区分の仕方はいずれも、観念を直接印象 に還元することで観念の正当性を測ろうとする 立場からは認めがたいものであり、ヒュームは この点でロックを鋭く批判する。当然、リード はこの点に関してのヒュームの批判を知ってい たはずであるから、このようなロック的立場を 採用するに当たっては、一定の正当化が必要に なるが、これについては別の機会に、考察して みたいと思う。ここではさし当たって、ヒュー ムの方法論的前提に対する批判をリードが意識 的に持っているということだけを確認しておこ

ともあれ、力もこの種の間接的な概念しか持 ち得ないものであるとリードは言う。しかし、

一方で、たとえば、精神の諸作用は精神の力の 行使であり、しかもこれについては直接に意識 しうるものとして語っている。したがって、

リードは力とその行使とをはっきりと区別する という立場に立つ。この点でも、力とその行使 の区別は意味がないとするヒュームとは、真っ 向から対立するのである。

第三に「力は一つの性質であり、それが属す る基体無しには、存在し得ない」 (514) とリー ドは主張する。これについてはこのことを否定 するのは不合理であるとする主張がされるのみ である。確かに作用ということと独立に力の存 在を認める存在論をとれば、その枠組みの中で、

この主張は不合理となるであろう。しかし、

ヒューム的な存在論の枠組みの中では必ずしも そうはならない。したがって、問題は、存在論 的枠組みそのものの正当化ということになるが、

これは先ほどの第二の観察での問題と同じこと になるので、同様に別の機会に論ずることとし たい。

(5)

第四の観察として、リードは「力が行使され ていないからといって、力を持っていないと結 論することはできないし、行使されている力の 程度が小さいことから、より大きな程度の力を 所有していないと結論することができない」

(514)という。これは力とその行使を区別す る立場からすれば、当然の結論であるし、また われわれの日常的な力の理解とも合致する。こ の点に関してはむしろヒュームの立場がこの事 態を説明しなければならないことになるであろ

, つ 。

第五の観察としては「性質の中には反対の性

すものを原因と呼び、生み出された変化を結果 と呼ぶ。したがって、人間の行為に限らず、あ らゆる自然界における変化も、力という概念に よって、統括されるのであるというのがリード の主張である。このような主張と、力があくま でも直接知られることのない相対的な概念であ るということをどうかみ合わせるかが、リード の存在論的な枠組みの大きな要因になっている のであるが、その点について論ずることは後に 譲り、ここではもう少しリードの言に耳を傾け

よう。

リードは、まず能動と受動、作用を行う側と 質が存在するものと、そうでないものがあるが、 受ける側という概念を取り上げ、この区別が人 力は後者である」 (514) したがって、弱さや無

能力は力が欠点を持っていることや欠けている ことを示すのであって、反対の性質というわけ ではない。

ここに挙げられた事柄は言語を理解すること ができる人間にとっては容易に理解できると リードは言う。われわれは力について述べられ たことについて容易に理解できる。よって、

「われわれは力について論理的な定義はできな いけれども、判明な観念を持ち、理解を伴って 推論することができると結論できる。」 (514)

というのである悶

そして、リードは力についてこのように述べ た後に、 「能動的力」と「思弁的力」の区別を 導入する。見る、聞くなどの知覚作用、想起、

判断、推理等の諸作用、すなわち一般的に精神 の認知的ないし知的作用とされるものを行うも のが「思弁的力」とされる。ただし、先に述べ たように、感情は力には含まれない。これ以外 の何らかの技や労苦を実行することが能動的カ であるとする。この区分では明らかに、力は人 間の持つ能力をモデルにして語られている。と ころが、リードはここから一挙に、この能動的 カの行使を一挙に全てのものへと広げる。

能動的力の行使は「作用(行為)」 (Action) と呼ばれるが、これは何らかの変化を他に生み 出す。そして逆に全ての変化は何らかの力の行 使または停止によって生み出されるのであると いう。そして力の行使によって、変化を生み出

類に普遍的なものであることを、あらゆる言語 の文法構造の中に、能動態と受動態の区別が存 在することを持って、主張する。もちろん個別 の文を取り上げれば、能動態の文が必ずしも能 動作用を意味するのではなく、受動態の形式の 文章が能動作用を意味することもあるであろう。

しかし、個々にこのような誤用が存在すること は、人間において、能動と受動という概念が存 在し、その一般的な理解が存在することの証拠 ではあっても、決して、能動受動という概念の 区別の否定にはならないとリードは言う。

また、当然われわれあるいは他者が、能動的 な力を有しているという信念を前提にしている 日常的概念も数多くあり、努力、約束、助言、

命令などが挙げられるという。力の概念を否定 するヒュームでさえ、たとえば野心というよう な権力に対する希求を認めているのであり、そ のような概念を認めていることになる。

もちろんこのような概念の存在は補強的な証 拠に過ぎない。そもそも自分が力の概念を持っ ていると私が確信しているのは、その語によっ て私が意味するものを知っているという、私の 意識によるのであるというのがリードの基本的 な主張なのである。

このような観点からリードはロックとヒュー ムの学説について批判を加える。まずロックに 対してであるが、先に見たように、リードの考

(6)

えは、力そのものについてはそれ自身を直接に 知るのではなく、間接的、相対的な観念を持つ のであるとする点においてロックに近いところ にいる。しかし、リードがロックの観念説の批 判者であるという点を除いても、両者の間には なお相違が存在する。その違いをリード自身が 論じているところを見ることは、リードの考え のよってくるところを理解するのに大いに資す るであろう。 . 

ロックによれば、われわれの持つ「力」とい う観念の起源はこうなる。われわれは日々、様 々な変化を経験している。ロックの用語で言え ば、外的事物においては、そのもつ感覚の単純 観念が変化することであり、精神においては、

自分自身の決定によってか、あるいは外的対象 の印象の変化によってか、精神の中を過ぎ行く もののうちに変化が起こることを観察する110

このような観察から、同様の変化が同じものに おいて類似の作用主によって生じるということ を推論する。そして一方に作用を受ける可能性、

他方に作用を行う可能性を見いだし、それぞれ に「力」の概念を(前者には「能動的力」後者 には「受動的力」を認める)見いだすのである という。ここで明らかなことは、力の観念が、

感覚の観念でも、反省の観念でもなく、一種の 推理によって得られるとしていることである。

自称の変化の観察に、規則性を見いだし、そこ から、力の観念が生み出されるのであるとする のである。ロックはこのように述べつつも、

「力」の本来の意味は「能動的力」にあり、そ してその最も明瞭な観念は精神の作用から得ら れるとする。物体に関しては、それがどのよう に明晰に見えようとも、見かけほどは明晰では ないとするのである。その理由は、われわれが 直接観察しうる変化は、思惟と運動しかない。

しかるに(1)思惟は当然反省から知られ、一方 物体は反省の観念を与えない。 (2)運動につい ては、物体からは運動の開始の観念を得ること はない。なぜなら、近代の力学の教えるところ では、物体は外部から力が加わらない限り、同 じ運動状態を保つ慣性という性質があり、した がって、運動の変化という観点から見れば、変

化する物体は受動の側に立つ物体同士が衝突す ることによって、運動の変化が生じるが、これ はいわば運動の伝達が物体間で行われただけで ある。真の意味での運動の開始とはみなせない と、ロックは言う。一方、われわれの精神の諸 作用の考察からは、能動的な力の観念が取りだ せると、考えるのである。ロックの叙述はこれ 以降意志の自由をめぐる問題に関係していくの で、これについては後続の論文に委ねることと し、リードがどのような論評をこのようなロッ クの考えに加え、そしてそこからどのようなこ とがくみ出せるかを考察してみよう。

リードはロックに対して、二つの批評を加え ている。第一は、能動的力と受動的力の区別に ついてである。ロックは変化を受ける可能性を 力とよんでいるが、これは言葉の誤用であると する。これについては、ロック自身も「力」の 本来の意味は能動的力にあるということを認め ているのだから、両者の間に大きな相違はない と考えることができるかもしれないが、しかし、

リードの思考の特色を際立たせるためには看過 できない点が潜んでいるように思われる。それ はここでのロックの力の観念が作用の現実性の 経験から導かれているのに対し、リードは作用 の現実性の経験は、確かに個々の力の存在を認 定することには必要になることがあるにしても、

それは全てではないし、ましてや力の存在その ものの絶対条件ではないと考えるからである。

作用が現実的であるためには確かに、能動受動 の双方が成立していなければならない。硫酸が 大方の金属を溶かす力を持っていたとしても、

たとえば、硫酸がかけられた金属がたまたま金 であったならば、この力は現実とはならない。

逆に言えば、作用が現実のものとなるためには 作用の主体と作用の受け手が双方そろわないこ ととには作用は現実化しないわけである。作用 の現実化の経験ということを出発点にしている 限り、作用が現実化する必要十分条件を、現象 の 原 因 で あ る と す る 考 え が 生 ま れ て く る 。 ヒュームが、作用が現実化しない状態で存在す る原因は真の原因ではあり得ないとするのも、

このような考えから生じるのである。もちろん

(7)

ロックはそこまで踏み込んだ主張はしていない。

しかし、力の観念をこのように考えることに リードはある種の危険を感じたのではないだろ うか。リードにとって、力が力であるための本 質は、変化すなわち作用の現実性ではない。後 述するように、物質世界の中では、必然の支配 の中で変化が生じているが、これはリードによ れば本来的な力の作用ではない。力の本質とは まさにこの種の必然性の支配から逃れているこ とにあるからである(このことは後に詳しく述 べる)。したがって、前述したように、リード にとっては「能動的」という語は「思弁的」と いう語との対比で使うという意味で、人間の意 図的行為に関係するという意味が強調されるこ とになる。

もう一つの批判は、ロックのこの力の観念を 得る過程の説明が、ロック自身の観念の源泉の 二分法に合わないという指摘である。すなわち カの観念は感覚の観念でも反省の観念でもない というのである。確かにこの論評は当たってい るが、ロックに即してみれば、力の観念はその 内容が意識に与えられるのではない、相対的な 観念であるので、このことはむしろ当然である。

ただ単にロックにとって相対的な観念という観 念がどのような存在論的な正当化が為され得る のかその説明が不足しているだけのことに過ぎ ない。この点では、意識に直接与えられるもの

わち、知覚の分類にあわないものの存在を認め ず斥けるということによって行われていると理 解し、これを批判する。

第一の論点はこうである。ヒュームの経験論 の原理、すなわち「全ての単純観念はその最初 の現れにおいて印象であり、それに正確に対応 する」12といういわゆる模写の原理をわれわれの 有するとされる知識に対する批判の道具として 使用しているが、ヒューム自身の論述に明らか なようにこの原理は経験的に帰納的に獲得され たものであり従って、絶対確実な原理という性 格 を 持 つ も の で は な い 。 に も か か わ ら ず 、

ヒュームはこれを絶対確実に確立されたものと して取り扱っており、このことはヒュームが 陥っている方法論的な誤謬ないし矛盾であると 主張される。ヒュームは自らの哲学を「精神的 な事柄に実験的な方法を適用する試み」といっ ており、ニュートンの業績を当然念頭において いるはずであるが、ニュートンはこのような方 法論上の問題をきちんと認識していたとリード はいう。

確かに、ビュームのこの原理の使用は、場合 により、論理実証主義者の検証可能性による批 判を思わせることがある。ヒュームを、このよ

うな経験主義者の先駆者とみなす試みもある。

しかし、実際そうであるかどうかは疑わしいで あろう。おそらく、ヒュームであれば、ある体 以外の正当化を認めようとしないヒュームの主 系の中で、原理として使用しうるということと、

張をロックに対しても不当に読み込んでいるに その原理が経験的な出自を持つ、したがって、

過ぎないように思われる。しかし繰り返しには なるが一つ重要なことは、観念説という枠組み は別にして、リードがロックのこと一般的説明 を受け入れているように見えるということであ る。この点でリードはロックとそう遠くないと ころにいることになる。ただリードの力の概念 は自由と言う概念に強く結びついており、この 点で現象の規則性をまず基礎に持ってくるロッ

クとの相違が現れているように思われる。

さて、ヒュームについてはどうだろうか。

リードはヒュームの議論が先の第二の点、すな

偶然的な命題であるということとは別のことで あると主張するのではないだろうか。彼は一般 的知識を一般的規則として使用することを、人 間本性の基本的事実として認めているように思 わ れ る の で あ る 13。この問題については、

ヒュームの学問体系をどのような性格のものと して捉えるかというおそらくは解釈が分かれる であろう問題に関わることであるが、リードの ような批判が当てはまらないような仕方で、

ピュームが学問の体系性を考えていたという可 能性の存在を確認するだけにとどめておくこと

にする。

第二に、ヒュームがロックの力についての説

(8)

明を批判しているその根拠を取り上げている。

ヒュームはこの考えを哲学的ではなく通俗的な 意見であるとして、このことは、 「理性のみで は決して根源的な観念を生むことはできない」

という原理と、 「経験から区別されたものとし ての理性は、原因ないし産出的性質はあらゆる 存在の始まりにとって絶対的に必要であるとい うことをわれわれに結論させることは決してで きない」という原理の二つを反省してみれば、

すぐに分かるとしている。リードはこれに論評 を加えることにおいて、いくつかの指摘を行っ ている。一つは通俗的であることが人類の大多 数に支持されていることを意味するのであれば、

そのことは、重大なこととみなされるべきであ るという主張である。もちろん専門家によって、

多数が導かれねばならないような問題は多々あ る。しかし、われわれの日常生活に関わる事柄 においては、哲学者は多数に従わねばならない。

さもないと、自分をひどく滑稽なものにしてし まうであろう。

次に、たとえロックの説明が間違っていたと しても、われわれが力の観念を所有しているこ とは認められねばならないということである。

この二つの点は、われわれの日常的信念とたと えば、科学的理論的説明との間の関係という問 題に比すべき問題を提起しているが、この問題

にはこれ以上立ち入らないでおく。

ヒュームの第一の批判点「理性のみでは決し て根源的な観念を生むことはできない」につい ては、リードは理性の働きそのものが推理に関 しての観念を生むではないかという反論を行っ ている。この指摘がヒュームが意図したことに 対して直接の反論になっているかどうかは疑問 ではあるが、ヒューム解釈にとっては看過でき ない問題を提起している。この指摘はすなわち、

ロックの反省の観念に当たるものが、ヒューム ではどうなっているかという問題である。した がって、ヒュームが反省の印象というとき、当 然ロックの言う反省の観念、すなわち精神の働 きについての観念も含んでいるはずであり、ま たビュームが文脈の異なる箇所ではあるが、あ らゆる観念には印象が付随しているといってい

ることを踏まえ、そもそも観念は全てそれが心 に抱かれているときはある意味で印象のはずで あるという指摘を行ったのは木曾14であるが、

それ以外に、この問題について論評したものを 寡聞にして知らない。しかし、もし、リードや 木 曾 の 指 摘 を 真 剣 に 受 け 止 め る と す る と 、

ヒュームの意図した主張を生かすためには、

ヒュームの体系は相当程度書き直す必要がでる ことになるであろう。しかしそれはヒューム解 釈の問題であるので、此処ではリードの示唆の 重要性を暗示するにとどめよう。

ヒュームの第二の指摘、 「因果律の論証不可 能性」については、リードは次のように述べる。

われわれは因果律を日常生活においても、不可 欠のものとして使用している。これは因果律が われわれにとって不可欠な第一原理であること の徴である。そして、われわれはこれを必然的 原理として認識している。それ故に経験がこれ を証し得ないのは、ヒュームの指摘どおりでは あるが、むしろ当然のことである。必然的真理 に経験的正当化を求めること自体が間違ってい る。・ここでリードがいいたいのはもちろん因果 律の論証ということではない。論証は何らかの 前提があって始めてなしうることだからである。

リードの戦略はこうである。われわれは因果律 を第一原理として使用している。第一原理はそ の性質上、当然他から論証されるものでも、経 験的に獲得されるものでもない。したがって、

ヒュームが因果律について論証できないという ことや、経験的に正当化されないというのもそ の意味では正しい。したがって、ヒュームと リードが異なるのは原因という概念が指示対象 を持たずに空虚であるかどうかということであ る。ヒュームの言うように空虚であるとするな らば、原因とは何らかの意味で捏造された観念 であるということになる。空虚でないとすれば、

リードの言うようにそれはまさにわれわれが

「因果律」を第一原理として、所有しているこ との証左となるものである。リードの批判が、

ヒュームの方法論である観念を経験的印象に還 元しうるかどうかを観念の有意味性の判定基準 にすることに主として向けられていることはこ

(9)

のような理由に基づいていると考えられる。

このように見てくると、リードの批判の焦点 が因果律の存在それ自体ではないということが わかる。なぜなら、因果律は、ヒュームが認め るのと同じく論証可能でも、経験的に正当化可 能でもなく、ただわれわれが受け入れていると いうことを認めるほかはないものだからである。

この点において両者の違いはない。したがって、

リードの問題とするのは原因という概念それ自 体が、われわれにおいてどのように与えられて いるかということである。

先に述べたように、この点については、リー ドはロックにならい、われわれの意志作用にそ の観念の根源を求める。とすると、問題はこの ように理解された原因と、われわれが通常自然 界に対して適用する原因概念との相違が問題に なる。なぜなら、能動的力を持つもののみが真 の原因足りうるのであれば、能動的力を持つも のは意志と知性を兼ね備えていなければならず、

われわれが通常自然界で原因とみなすものにつ いては、そのようなものを持ち合わせていない と考えるのが普通だからである。われわれが自 然界において観察するのはただ、事物の変化と そのような出来事の規則性のみである。そして、

実際われわれが日常生活を送る上で知る価値が あることは、このような規則性から、どのよう な状況で同様の現象.がおこるとか、といったた ぐいのことであり、真の作用因とは何かという ことではない。この二つのレベルを異にする原 因の理解をどう考えればよいのだろうか。

これは言葉を換えれば、人間の行為をモデル にして考える原因概念と、自然現象の必然的規 則性をモデルにして考える原因概念との関係を どのように考えるかという問題である。人間を 自然現象の規則性の網の目に組み込まれてしま うものと考えるか、あるいはそれから逸脱する ものかと考えるか、これは近代においては自由 意志をめぐる論争の形をとった問題である。そ してこの問題は、大方の場合、世界は因果的に 決定されているが、この因果的必然性の支配す

る中で、人間の行為は基本的にこれと同種のも のか、異質なものか、異質なものだとすれば、

それが存在することがいかにして可能かという 形で論じられてきた。つまり世界の因果的決定 性ということ自体は自然科学の発展という事態 を背景に、暗黙の前提とされていたわけである。

ヒュームの因果論はこの世界の因果的必然性と いう概念を明確化した上で、人間の精神や行為 にそのまま拡張するものと見ることもできよう。

リードはこれに対して、まさに、反対の立場を とる。現象の規則性は確かに例外なく必然的で ある。そして必然的であるがゆえに、真の原因 足りえないことを主張するのである。真の原因 とは、真の能動的力を持つものでなければなら ない。真の能動的力を持つものはそれを行使す ることも行使しないことも、ともにできるもの でなければならない。この意味で真に原因であ るものは、知性と意志を兼ね備えた主体でなけ ればならない。このようなものとして、われわ れが直接意識できるのはわれわれ自身のみであ るし、われわれの力の行使と関係のない自然全 体の必然的規則性は、超越的な神の力の行使の 結果であると考えることができる。このように カの主体として、神とわれわれ自身を認め、自 然界において力の存在を認めないこの立場は、

一見してバークリの宇宙論にきわめて似たもの となるであろう 15。ただし、バークリの形而上 学を導いた観念の分析は拒否した上での話では あるが。しかし、物体の変化から直接的な力の 作用という概念を奪い、規則性はあってもそこ に真の相互作用を見ないという近世の哲学の流 れを異なる形でリードは利用したのであるとい えよう。そして、リードは真の主体の力と現象 の規則的生起の関係に対しては、其の解明の困 難さを指摘するだけで、さらに踏み込もうとは しない。そして、それは人間の意志の発展と具 体的な行為の関係に関しても同様であり、其の 点に関しては不満を感じざるを得ない。しかし、

リードの側から言えば、同様の不備はリードが 批判する側にも同様に存在するのであるという

ことになるであろう。そして、それだけでなく、

このような立場はわれわれにとって最も重大な

(10)

問題である人間の倫理性についての問題につい て正しい理解を与えないということになる。た とえ、細かな細部がはっきりしなくとも、われ われの意志と行為の結果に因果的な関係があり、

そしてそれこそがわれわれの道徳的な責任の生 まれる基盤だからである。そしてリードの考察 は最後に人間の持つ力の考察に向かう。

人間の倫理的な価値は、創造主から与えられ た力を正当に行使することに存すると、ーリー ドは言う。したがって、われわれが倫理的に正 しくあるためには、自分自身の持つ力を正当に 評価しなければならない。そして実はわれわれ の持つ力の及ぶ範囲を本当に評価するためには、

それが生み出すことのできる結果を見ることに よってのみ可能である。しかし、現実に生み出 された結果のみで人間の能力を測るのは不適切 であろう。もし持っている能力と結果が、常に 一致するのであれば、 「できるのにしなかっ た」「やめる事もできたのにしてしまった」と いう通常の道徳的非難の基礎となる判断は不可 能になるからである。

人間の力の生み出す結果は直接的なものと遠 隔的なものに分けて考察することができる。そ して直接的なものは、身体運動と思考の方向を 定めることである。この直接的な結果なくして は、われわれはいかなる結果も生み出すことは できない。しかし、身体運動は当然われわれの 意志のみではなく、力学的法則によっても支配 されていることになる。したがって、このよう なわれわれの直接的な行為は、われわれの意志 作用とその身体側の運動からなることになるが、

われわれはこの両者の間にいかなる必然的関係

も知覚することはない。その意味ではわれわれ の観念は不明確なままに留まる。しかし、一方ゞ'

人間は自らの欲求を満たすために、自然に対す る働きかけ、労働をすることにより、地球の表 面でさえ大きく変化させる力が人間の力の範囲 内にあることも確かである。さらには、人間は 教育その他の方法により他者の精神に影響を及 ぽすことも同様に確かである。このように人間 の力の及ぶ範囲はきわめて大きいが、しかしそ の起源となるとやはり不明なままに留まるので ある。 「思考や感情の伝達も運動の伝達同様に 謎である」

( 5 2 8 )

要するにリードによれば、われわれは自分の カの直接的な行使でさえ、その結果との結びつ きは明らかにできない。その点では、造物主た る神に依存するということになる。ここで、わ れわれの力と神の力とのアナロジーが成立する かどうか、言い換えれば、バークリにおいて、

神の知覚と人間の知覚が類比的に捉えられ、形 而上的な宇宙像が展開されたように、リードも そのようなことを行うのかどうかということが 疑問に浮かぶが、リードはただ力の行使を正し くすることが被造物であるわれわれの義務であ るということだけを述べて、この論文を終わる。

リードがこの彼の行為者因果の議論を因果論と して、ヒュームに対置するような形で展開して いてくれれば、きわめて興味深いものとなった であろうが、おそらくリードの関心は、そこに はなく人間の道徳的評価に関する意思の自由の 問題が最も中心的な問題として意識されていた のである。そこで力を端的に働かす意志が次の 論文の主題となる。

(11)

拙論「トマス・リードの心の哲学 (1)一知覚論ー」 香川大学教育学部研究報告第一部第95 (1995). p.  105‑p.127 

『人間本性論』第一巻第四部第四節

3  Cf.  Nicolas Waterstorff  (1987)'Hume and Reid',  Monist 70:398‑417 

カッコ内の数字は全てTheWorks Of Thomas Reid,  ed. By William Hamilton .6th  edition

Edinburgh1863

Thoemms Press1994年に復刻出版した本のページを示す。

「われわれが何らかの新しい身体の運動、または新しい精神の知覚を生じさせることを承知して行ってい るときに、われわれが感じそして意識する内的印象」(『人間本性論』第二巻第三部第一節冒頭の意志の定 義)意志はあくまで付随的に起こる内的印象で情念に類似のものであるというのがヒュームの意志につい ての考えである。

それぞれの語に対して、リード流の定義が存在するが、詳しくは後続の論文で考察する。とりあえず日常 語の意味において理解しておいて問題はない。

‑7  "Actus enti~in potential,  Quaetenus in pote~tial"

「現前する印象に、 (自然な)関係を持つ、すなわち連合している、生気のある観念である。」『人間本性 論』第一巻第三部第七節訳文はデイヴィッド・ヒューム『人間本性論 第一巻知性について』木曾好能訳 法政大学出版局 (1995)による

ヒュームは「力」という概念が情念や行為の領域においてはきわめて大きな役割を果たすことを認める。

おそらく、この立場からの説明が可能であろう。

10  ここに挙げられるように、言語が日常的に使用され、その分が普遍的に理解されているということから、

その中で使用されている概念もまたわれわれは判明に理解しているという主張はリードが、頻繁に使用す る論法である。

11  『人間知性論』第二巻第二十一章「力について」

12  『人間本性論』第一巻第一部第一節 13  『人間本性論』第一巻第三部第十三節 14  前出『人間本性論』解説序論.参照

15  レーラーはバークリの哲学から観念の理論を取り除いたものが、リードの哲学の基礎であると述べている。

Keith Lehrer,  Thomas Reid,  1989;  London : Routoledge,  . 2 

参照

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