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90 Japan Journal of Sport Sociology 19-1(2011) A study of sport and media in Korea during Japanese colonization:analyzing the discourse of the Keijo-N

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Academic year: 2021

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抄 録 本稿では、文化政治期において、総督府機関紙であった『京城日報』が、その政治的立場から「内 鮮融和」政策の一環としてスポーツ大会を開催し、また紙面でも統治者側の視点から大会を報じて いた点について検討する。 『京城日報』は野球・庭球を中心とした全国大会を継続的に主催し、その大会には多数の朝鮮人 選手が参加していた。さらに紙面では、試合に関連する記事はもちろん、その他関連イベントや祝 広告が掲載され、朝鮮スポーツ界における大会の重要性が強調された。 また『京城日報』は、定期的に日本チームとの招聘試合も主催していた。主に 6 大学野球のチ ームが招聘されたが、試合を報じる記事では、日本チームの技術・能力の高さが称えられ、朝鮮チ ームの「憧れ」「手本」として位置づけられていた。 このようにメディアの送り手として、『京城日報』が「内鮮融和」を推進する統治者側の立場か らスポーツ大会を開催し、また紙面でも統治者側の視点から大会や試合について語っていたことが 本稿では明らかになった。 キーワード:朝鮮半島、植民地政策、メディア、スポーツ大会

■論文

植民地下朝鮮におけるスポーツとメディア

―『京城日報』の言説分析を中心に―

森津 千尋

1) 1)宮崎公立大学 〒 880-8520 宮崎市船塚 1 丁目 1-2 E-mail: moritsu@miyazaki-mu.ac.jp

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Abstract

This paper examines the role of the Keijo-Nippo, as an agent-paper for the Government-General of Korea, by analyzing the discourse of the articles covering sports events.

The Keijo-Nippo continuously held sports events such as baseball and tennis under the “Naisen-Yuwa” (Integration of Japan and Korea) policy that was in place from 1920-1937 during the period of Japanese colonization (which lasted from 1910-1945). In these games, a lot of Korean players took part along with Japanese players. The Keijo-Nippo emphasized the significance of these games from the view point of the Japanese colonial Government.

In addition the Keijo-Nippo regularly invited Japanese baseball teams mainly from Tokyo’s six major universities. In the articles on the invitation matches, the Japanese teams were always presented as a normative model for Korean teams.

It becomes clear through the textual analysis that the Keijo-Nippo supported and developed the “Naisen-Yuwa” policy through its promotion of sports events.

keyword: Korea, colonial policy, media, sports event

■ Japan Journal of Sport Sociology 19-1(2011)

A study of sport and media in Korea during Japanese

colonization:

Analyzing the discourse of the Keijo-Nippo

MORITSU Chihiro

1)

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1.はじめに 朝鮮における近代スポーツは、19 世紀末か ら 20 世紀初頭にかけて、教会や学校の課外活 動等、朝鮮人の自主的な活動として普及してい った。しかし、その後日本による侵略統治とい う歴史過程の中で、次第に朝鮮のスポーツは日 本の統治政策の影響を受けるようになり、学校 体育も含め、朝鮮人のスポーツは統制・制限さ れていった[白,1995]。また一方で、日本の 統治政府の支配下にありながらも、朝鮮人側で は蹴球・拳闘などが「民族的スポーツ」として 反日・抗日の象徴と位置づけられ、スポーツが 民族主義活動の一端を担っていた。つまり植民 地下の朝鮮半島では、統治者側と被統治者側の 政治的立場を反映したスポーツ活動が行われて おり、それぞれの立場から各種スポーツ大会が 開催されていた[大韓体育会,1965]。 これらをふまえて、本稿では、植民地下朝鮮 において、実際にどのようなスポーツ大会が開 催され、またそれら大会にメディアがどう関わ っていたのかについて検討を行う。 これまでの植民地下朝鮮の体育・スポーツ研 究として、韓国では民族主義的観点から、体育 史研究を中心に、学生スポーツや女性体育史、 また韓国 YMCA 等についての研究がある[大 韓 体 育 会,1965][ 金,1990][ 李,1990]。 そこでは、日本統治下にも関わらず、朝鮮人主 体で展開されたスポーツ活動と民族運動とのつ ながりについて考察され、またそれらスポーツ 活動と現代韓国スポーツの連続性についても体 系的に整理されつつある。 一方日本においては、西尾による植民地下学 校体育政策史の研究や、金の朝鮮神宮競技大会 の分析等があるが、統治者側が展開した体育・ スポーツ活動については現存する資料も少ない ため、研究蓄積が乏しいのが現状である[西尾, 2003] [金,2003][鄭,2008]。 また戦時下日本の体育やスポーツ大会とメデ ィアとの関係に注目し、それらを「メディアイ ベント」と捉えた研究としては、日本では有山 の甲子園野球の研究や黒田のラジオ体操につい ての研究等があげられる[有山,1997][黒田, 1999]。しかし植民地下朝鮮のメディアとスポ ーツの関係に焦点をあてた研究は少なく、特定 の新聞社と大会を取り上げた研究としては、南 宮による『東亜日報』社主催の女子庭球大会 についての研究のほかは見あたらない[南宮, 2000]。 以上のような研究状況をふまえ、本稿では、 日本の朝鮮統治の中でも「文化政治期」に限定 し、この時期に発行されていた日刊紙『京城日 報』に着目する。『京城日報』は、朝鮮総督府 の機関紙として位置づけられており、紙面の論 調は「内鮮融和」などの総督府政策を支持する 立場をとっていた。本稿では、そのような『京 城日報』の政治的性格が、自らが主催したスポ ーツ大会やその関連記事等、特にスポーツとの 関係においてどのように反映されていたのかに ついて検討する。また、民族系メディアである 『東亜日報』についても、『京城日報』の特徴を より明確にするため、補足的ではあるが同様の 検討を行いたい。 2.朝鮮における日本の植民地政策 2.1 植民地政策の期間区分 朝鮮における日本の統治は、大きく3つの 時期に区分されている[山辺,1971][西尾, 2003]。最初の区分としては、1910 年の日韓 併合から 1919 年の三・一独立運動までの「武 断政治期」である。この時期、朝鮮人に対する 統制は厳しく、統治者である日本人と被統治者 である朝鮮人の立場の違いは明確であった。例 えば学校教育でも、朝鮮人と在朝鮮日本人では 別々の学校体系の中で、それぞれ異なる教育目 標のもと指導が行われていた。在朝鮮日本人 教育では、統治者として強健な精神と肉体を養 うことを目的として体育が重視されていた一方

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で、朝鮮人教育では儒教的な伝統や風習を尊重 し、従順な精神を養うため体育軽視の基本方 針がとられていた [西尾 , 2003: 106-108]。さ らにこの時期には、日本人と朝鮮人が同じ競技 大会に参加することは禁止されていた[西尾, 2003:141]。このように「武断政治期」には 在朝鮮日本人と朝鮮人は明確に区別され、朝鮮 人に対しては主に武力による弾圧が行われてい た。 その後 1919 年に三・一独立運動が勃発する が、これにより日本の統治政府は、安定的な支 配のため、表面的には「武断政治」を改め懐柔 策をとることになる。この 1920 年から 1937 年までが「文化政治期」と呼ばれる時期である。 この時期には治安維持が強化される一方で、新 たに「内鮮融和」政策がかかげられ、朝鮮人に 対して文化・教育・スポーツの面で一定の規制 が緩和された。特に『東亜日報』や『朝鮮日報』 など朝鮮人による新聞・雑誌が発行され、言論 の自由が一部認められたが、それらは朝鮮自治 論や参政権問題とともに、親日派を育成するた めの統治政府の政治的宣伝であったという指摘 もある[徐,2000:204]。 その後 1937 年に日中戦争が勃発し戦時体制 へと突入するが、そこから朝鮮が解放される 1945 年までが「皇民化政治期」である。この 時期には、さらに同化政策が推し進められ、朝 鮮人には創氏改名が強要され、朝鮮人志願兵制 度が採用された。 2.2 「文化政治期」の植民地政策 以上のように朝鮮半島では約 35 年の間、日 本の朝鮮総督府により植民地政策が展開され たが、本稿では特に「文化政治期」(1920 - 1937)に着目する。「文化政治」は、原敬首 相の「内地延長主義」を受けて斎藤実総督に より実施されたが、その背景には、三・一独 立運動に代表される朝鮮内の民族運動の鎮静 化、日本の朝鮮統治に対する欧米列強からの批 判回避、朝鮮統治の主導権を軍部から原敬内閣 へ移行するという目的があった[徐,2000: 197-203]。統治政府によって、朝鮮では学校 の増設、鉄道・道路などの整備、社会政策の実 施、地方開発が実施されたが、その目的は統治 政策によって恩恵を受ける中・上流層の朝鮮人 を親日派へと取り込み、彼らを統治の安定的な 基盤にすることであった[李,2006:520]。 そのため斎藤は「文化政治」における重要な政 策のひとつとして「内鮮融和」をかかげ、親日 鮮人や親日団体を優遇する政策を実施した[徐, 2000:207-208]。 このような状況のなか、「文化政治期」には 日本側・朝鮮(民族)側両方でスポーツ活動を 総合的に統括する体育団体が誕生した。1919 年に「朝鮮における体育の奨励」を目的として、 日系体育団体である「朝鮮体育協会1)」が設立 され、続いて 1920 年には、東京留学経験者や 朝鮮内の体育人、東亜日報社等の後援で民族系 体育団体の「朝鮮体育会」が設立された2)。「朝 鮮体育会」は発起人には「親日的色彩がない者 を選ぶ」という規定があるように、民族主義的 な側面をもつ団体であったが、一方で、総督府 からの圧力を軽減させるため、柔道や剣道など 日本の武道大会も開催していた[鄭,2008: 13-15]。 3.朝鮮半島で発行された日刊紙 (文化政治期) 3.1 文化政治期の日刊紙 文化政治期に発行されていた主な新聞として は、『京城日報』(日本語 1906 - 1945)、『毎 日 申 報 』( 朝 鮮 語 1910 - 1945,1938 以 降 『毎日新報』に改名)、『ソウルプレス』(英語 1904 - 1929)の日本系3紙と、『東亜日報』 (朝鮮系/朝鮮語 1920 - 1940,1945 復刊- 現在)、『朝鮮日報』(朝鮮系 / 朝鮮語 1920 - 1940,1945 復刊-現在)、『時事新聞』(朝鮮 系 / 朝鮮語 1920 - 1926)の民族系3紙があ げられる3)。1933 年の資料をみると、日刊紙

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のなかでは『東亜日報』の購読者数が一番多く、 その中心は朝鮮人であった。次いで購読者数が 多かったのが『京城日報』だが、その購読者は 在朝鮮の日本人が中心であった4) 3.2 『京城日報』の性格 『京城日報』は、初代朝鮮統監伊藤博文の主唱 により 1906 年に創刊した。そして 1910 年日 韓併合の際、初代総督の寺内正毅が、朝鮮総督 府の政治宣伝の場として『京城日報』を重視し、 資金援助を行った[李,2006:202-203]。総 督府は他にも『毎日申報』(朝鮮語)『ソウルプ レス』(英語)の発行を支援したが、これら3 紙の論調は基本的に統治政策を支持していた。 例えば『京城日報』では、「すでに朝鮮人と は日本国内の東北人や九州人と同じ意味であ り、もはや『内鮮融和・内鮮一体』という語自 体必要がなくなるようにしなければならない」 という記事を掲載し、総督府の「内鮮融和」政 策を支持していた[京城日報,1937.7.31] 。 また 1936 年のベルリン・オリンピックで は、朝鮮人の孫基禎が日本代表としてマラソン で優勝したが、『京城日報』は、孫の母校であ る養生高普の校長が「母校のためにも日本の ためにもこんなにうれしいことはない」と語 り、表彰の際に「祖国のために演奏される君が 代を感激で聞いていたのであるが、遂に涙を こらえきれなくなった」と報じた[京城日報, 1936.8.25]。この孫の優勝をめぐっては、民 族系日刊紙の『東亜日報』が、表彰台に立つ孫 の胸の日の丸を消した写真を掲載し、総督府か ら無期停刊処分になったことが有名であるが、 ここからも総督府機関紙であった『京城日報』 と民族系の『東亜日報』が、それぞれ異なる政 治的立場を紙面に反映させていたことがわかる [東亜日報,1936.8.25]。 このように『京城日報』では、「内鮮融和」 等の統治政策がいかに人々の間で浸透している かが語られ、統治者である総督府側の視点で言 説が構成されていた。その言説が現実に即して いるか否かにかかわわらず、「読む」という行 為によって、その言説空間は在朝鮮の日本人を 中心とした『京城日報』購読者に共有されてい た。それは朝鮮における彼らの現実構成の一端 を担った可能性があり、『京城日報』が、総督 府の標榜する統治イデオロギーを再生産する装 置として機能していたことが考えられる。 しかし、これまで『京城日報』についての研 究は少なく、特に韓国では日本統治に利用され た「悪名高い」日刊紙として研究対象から遠ざ けられていた。一方日本でも、各研究分野から 植民地統治の様子を示す資料として記事が活用 される場合は多いものの、『京城日報』という メディア自体への研究としては、李による『京 城日報』の創刊背景についての研究と、方によ る『京城日報』掲載広告についての研究がある だけで、ほとんど先行研究がない[李,2002, 2006][方,2004]。 そこで本稿では、統治者側のメディアであっ た『京城日報』が、どのようなスポーツ大会を 開催し、またその様子を伝えていたのか、その 言説を中心に以下で検討していきたい。 4.『京城日報』主催のスポーツ大会 『京城日報』は日刊紙として朝鮮内外のニュー スを伝えるとともに、販路拡大のため、花見大 会や海水浴等の行楽行事、また各種講演会、展 覧会、そしてスポーツ大会等を開催した。当時 日本においても、新聞事業として各種の催しや 展覧会、スポーツ大会等が開催されていたが、 朝鮮半島でも同様の事業が展開されていた[津 金澤・有山,1998]。 表 1 は文化政治期において『京城日報』本 社が主催したスポーツ大会をまとめたものであ る。このように『京城日報』は積極的にスポー ツ大会を開催していたが、その中でも全国規模 で継続的に開催した大会として、全鮮野球争覇 戦(1924 - 1937 京城日報社・毎日申報社主 催、朝鮮体育協会後援)と全鮮庭球選手権(1924

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表1 『京城日報』主催スポーツ大会一覧(1920-1937) 年 全鮮野球争覇戦出場チーム 全鮮庭球選手権 その他『京城日報』本社主催の試合 /大会 1920 開催なし 開催なし 2 月全鮮スケート大会 1921 開催なし 開催なし 10 月女学生庭球大会 (朝体協主催・京城日報後援・第 1 回) 1922 開催なし 開催なし 4 月京釜間長距離走行 9 月全奉天軍招聘試合(野球) 10 月女学生庭球大会(第 2 回) 1923 開催なし 開催なし 6 月京仁間長距離リレー競走 5 月天勝野球団招聘試合(野球) 8 月神戸高商招聘試合(野球) 10 月女学生庭球大会(第 3 回) 1924 第 1 回(9 月)/全大邱・※全平壌・京 中倶楽部・咸興体協 (下線は優勝チーム、以下同様) 第 1 回(9 月)/中央・※南鮮・ ★西鮮・★北鮮 (下線は優勝ペア、以下同様) 8 月京都大学野球部招聘試合 10 月長崎高商野球部招聘試合 11 月京城市内各町洞対抗リレー 10 月女学生庭球大会(第 4 回) 1925 第 2 回(8 月)/全龍中(中央)・※咸興 体協(北鮮)兼二浦三菱倶楽部(西鮮)・ 全大邱(慶北)・全釜山(慶南)・※全州(湖 南)・慶熙倶楽部(前年優勝) 第 2 回(6 月)/※中央・慶 南北・湖南・★忠南北・※西鮮・ 北鮮・★前回優勝組 4 月全京城―全大邱(庭球) 6 月各国運動展覧会(三越) 5 月運動講演会 10 月シカゴ大学野球軍招聘試合(野球) 10 月女子庭球大会(第 5 回) 11 月京城市内各町洞対抗リレー 1926 第 3 回(8 月)/全咸興(北鮮)・慶熙倶 楽部(前年優勝)・※全大邱(慶北)・三 菱倶楽部(西鮮)・※龍山鐡道(中央)・ 釜山鐡道(慶南)・※全州(湖南) 第 3 回(6 月)/中央・★慶 南北・★湖南・★忠南北・★ 西鮮・★北鮮・前回優勝組 7 月廣陵中学校野球軍招聘試合(野球) 10 月京城市内各町洞対抗リレー 10 月女子庭球大会(第 6 回) 1927 第 4 回(8 月)/平壌鐡道(南鮮)・慶熙 倶楽部(前年優勝)・※全元山(北鮮)・ 釜山鐡道(慶南)・※全州(湖南)・逓信 局(中央) 第 4 回(6 月)/★中央・★ 湖南・★忠清・★国境・★西鮮・ ※北鮮・南鮮・前回優勝組 1 月體操、遊戯、競技講習会 6 月「黒人野球団(フレスノ・ローヤル・ ヂャイアント)」招聘試合 6 月女子庭球大会(第 7 回) 7 月大毎野球団招聘試合 10 月全鮮都市争奪リレー 10 月大連実業団招聘試合(野球) 11 月明治神宮競技大会女子庭球凱旋試合 1928 第 5 回(8 月)/全木浦(湖南)・※新義 州(国境)・釜山鐡道(慶南)・大邱東雲(慶 北)・※慶熙倶楽部(前年優勝)・京電(中 央)・逓信(中央)・平壌日糖(西鮮)・大 田鐡道(忠清)・※全咸興(北鮮) 第 5 回(6 月)/※中央・★ 湖南・★忠清・★国境・南鮮・ ※北鮮・★西鮮・★前回優勝 組 5 月全鮮ラグビー選手権大会(第 1 回) 6 月全鮮女子庭球大会(第 8 回) 6 月南カルフォルニア大野球軍招聘試合 8 月東京帝国大学野球部招聘試合 9 月加納治五郎講演 9 月人見絹枝嬢講演会 1929 第 6 回(8 月)/※平壌鐡道(西鮮)・逓 信(中央)・大田鐡道(忠清)・※新義州(国 境)・※全咸興(北鮮)・釜山鐡道(慶南)・ 全大邱(慶北)・光州(湖南)京電(前年 優勝) 第 6 回(6 月)/※中央・※ 湖南・★忠清・★国境・★南鮮・ ★北鮮・西鮮・★京畿・★前 回優勝組 4 月全鮮女子庭球大会(第 9 回) 8 月早稲田大学野球部招聘試合 10 月早慶野球戦映画公開 1930 第 7 回(8 月)/※全新義州(国境)/ 平壌實業(西鮮)・※大田鐡道(忠清)・ 逓信(中央)・※慶煕(中央)・※釜山鐡 道(慶南)・※全大邱(慶北)・全州(湖南)・ 興南(北鮮)・※平壌鐡道(前年度優勝) 第 7 回(7 月)/★国境・★ 西鮮・★忠清・※中央・※慶尚・ ★北鮮・★湖南・★京畿推薦・ ★京城推薦・★西鮮推薦・※ 湖南推薦★前年度優勝組 4 月全鮮女子庭球大会(第 10 回) 5 月鹿児島商業野球部招聘試合 5 月全鮮弓道大会(第 1 回) 7 月慶應大学野球部招聘試合 8 月慶應大学陸上部招聘大会 8 月立教大学野球部招聘試合

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1931 第 8 回(8 月)/※新義州(国境)・※京 城府廳(中央)・※慶熙倶楽部(中央推薦)・ ※平壌實業(西鮮)・大田鐡道(忠清)・ 朝窒倶楽部(北鮮)・釜山鐡道(慶南)・ ※全大邱(慶北)・※全裡里(湖南)・※ 逓信(前年優勝) 第 8 回(7 月)/★北鮮・★ 国境・★西鮮・★中央・※忠 清・★湖南・※慶尚・湖南推薦・ 忠清推薦・京城推薦・西鮮推 薦・★北鮮推薦・※前年度優 勝チーム 1 月冬期体育講演会 2 月全鮮スキー競技大会 8 月明治大学野球部招聘試合 8 月野球講演会 10 月女子庭球大会(11 回) 1932 第 9 回(8 月)/※新義州(国境)・慶熙 倶楽部(中央推薦)・京電(中央推薦)・ ※殖産銀行(中央推薦)・※龍山鐡道(中 央推薦)・京城府廳(中央)・全州(湖南)・ 平壌實業(西鮮)・※釜山鐡道(慶南推薦)・ 大田鐡道(忠清推薦)・※全大邱(慶北)・ ※全咸興(北鮮)・※逓信局(前年優勝) 第 9 回(7 月)/中央・※中 央推薦・★中央推薦・★西鮮・ ★西鮮推薦・※湖南・※湖南 推薦・★国境・★北鮮・★南鮮・ 南鮮推薦・忠清・★忠清推薦・ 前年優勝組 2 月全鮮スキー競技大会(第 2 回) 7 月明治大学・布哇大学野球部招聘大会 8 月早稲田大学野球部招聘試合 9 月日本プロ拳闘連盟代表選手大会 10 月女子庭球大会(14 回) 1933 第 10 回(8 月)/※殖産銀行(中央推 薦)・※全木浦(湖南)・※全大邱(慶北)・ ※平壌實業(西鮮)・※釜山鐡道(慶南)・ 新義州(国境)・大田鐡道(忠清)・朝窒 倶楽部(北鮮)・逓信局(前年優勝) 第 10 回(8 月 ) / ★ 中 央・ ★中央推薦2チーム出場(以 下複数チーム出場の場合は数 字のみ記載)・★西鮮・★西 鮮推薦・★湖南2・★★国境 2・※北鮮2・南鮮・南鮮推薦・ ※忠南・前年優勝組 1 月明治大学スケート部招聘大会(アイ スホッケー) 2 月全鮮スキー競技大会(第 3 回) 3 月専修大学拳闘部招聘試合 6 月早稲田大学拳闘部招聘試合 6 月明治大学野球部招聘試合 8 月全日本学生相撲連盟招聘大会 8 月早稲田大学野球部招聘 10 月女子庭球大会(第 15 回) 10 月国際大拳闘大会 1934 第 11 回(9 月)/※全大邱(慶北)・※ 全咸興(北鮮)・全木浦(湖南)・大田鐡 道(忠清)・清溪倶楽部(中央推薦)・★ 高麗倶楽部(中央推薦)・平壌實業(西鮮)・ ※全仁川(中央)・※殖産銀行(前年優勝)・ 釜山鐡道(慶南) 第 11 回(9 月 ) / ★ 中 央・ ※★中央推薦2・西鮮・西鮮 推薦・★湖南・湖南推薦・★ 国境・★北鮮・南鮮・南鮮推薦・ ※忠清・★前年優勝組 1 月冬期体育講習会 1 月早稲田大学ホッケー部招聘試合 3 月全鮮スキー競技大会(第 4 回) 7 月門司鐡道野球軍招聘試合 7 月全新京野球軍招聘野球試合 9 月京城女子中等庭球大会(第一回) 10 月女子庭球大会(16 回) 1935 第 12 回(9 月)/※兼二浦(西鮮)・※ 新義州(国境)・全咸興(北鮮)・※全大邱(慶 北)・※釜山實業(慶南)・※京城府廳(中 央)・全仁川(中央推薦)・全全州(湖南)・ ※平壌實業(平壌)・大田鐡道(忠清)・ ※殖産銀行(前年優勝) 第 12 回(7 月 ) / ★ 中 央・ ★★★中央推薦3・★中鮮・ ★中鮮推薦2・※南鮮・南鮮 推薦・湖南・西鮮・★★西鮮 推薦2・国境・★北鮮・※前 年優勝組 1 月冬期体育講習会 8 月内地全選抜対全京城(庭球) 9 月京城女子中等庭球大会(第2回) 10 月女子庭球大会(17 回) 1936 第 13 回(9 月)/平壌實業(平壌)・※ 京城府廳(中央)・全仁川(中央推薦)・ ★高麗倶楽部(中央推薦)・※全大邱(慶 北)・大田鐡道(忠清)・釜山鐡道(慶南)・ ※全全州(湖南)・清津(北鮮)・※兼二 浦(西鮮)・※殖産銀行(前年優勝) 第 13 回(7 月)/★※南鮮 推薦・★国境・※前年優勝組・ ★中鮮・★西鮮・※西鮮推薦・ 北鮮・★★※※中央推薦4・ ★中央・※東鮮・★湖南・※ 前年優勝組 1 月冬期体育講習会 4 月大阪阪急軍・名古屋金鯱軍招聘試合 6 月女子庭球大会(第 18 回) 7 月巨人軍招聘試合 8 月体育ダンス講習会 8 月全関東学生相撲連盟・全朝鮮対抗相 撲試合 10 月オリンピック選手歓迎報告講演会 (孫基禎・金容植他) 1937 開催なし 第 14 回(7 月 ) / 中 央・ ★ ※中央推薦3・★国境・平南・ ★黄海・黄海推薦・北鮮・★ 北鮮・★東鮮・※東鮮・★西 鮮・★★西鮮推薦2・★忠清・ ★湖南・※慶北・★慶北推薦・ ★慶南・※前年優勝組 5 月アラメダ野球団招聘試合 10 月女子庭球大会(19 回) ※印は日本人・朝鮮人混合チーム・ペア ★印は朝鮮人のみチーム・ペア 印なしは日本人のみチーム・ペア

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- 1942 京城日報社・毎日申報社主催、朝鮮体 育協会後援)があげられる。以下ではこの二つ の大会について検討していく。 4.1 全鮮野球争覇戦 全鮮野球争覇戦は 1924 年から 1936 年まで 京城日報社・毎日申報社主催、朝鮮体育協会後 援で開催された野球の全国大会である。1924 年の第一回大会では4チームのみの出場であっ たが、1928 年の第五回大会からは各地域代表 11 チーム(湖南・国境・忠清・慶南・慶北・ 西鮮・北鮮・中央3・前年優勝チーム)が参加 し、その後は継続的に、各地域代表として毎回 10 チーム以上が参加していた(表1参照)。当 時、その他の野球大会として、京城実業団リー グや中等学校野球聯盟戦、軟式野球大会等が開 催されていたが、地域予選から行われる全国大 会は全鮮野球争覇戦の他にはなかった。『京城 日報』記事でも、全鮮野球争覇戦は地域対抗で あることが強調され、本大会前日には、「いよ いよ明日争覇戦-百萬フアンの熱狂裡に展開さ れる大絵巻」など特集記事が組まれ、京城だけ でなく朝鮮半島全体のスポーツ大会として位置 づけられていた(京城日報,1930.8.21)。 また第一回大会より朝鮮人選手を含んだチー ムが参加していたが、第十一回大会(1934)、 第十三回大会(1936)には朝鮮人選手のみの 高麗倶楽部が出場した(表1参照)。第十一回 大会で高麗倶楽部が準決勝まで進んだ際には、 『京城日報』紙面において「猛進隊高麗好調、悠々 記録的」とその活躍ぶりが称賛された(京城日 報,1934.9.9)。 このように『京城日報』では、大会の告知や 試合結果はもちろん、チームや選手紹介等を掲 載したが、さらに読者の関心を高める記事も掲 載した(図1参照)。 例えば、各地域の代表チームが決定すると、 地域支局が紙面にて応援団の募集をした5)。さ らに争覇戦を楽しみにする女性野球ファンの第 一号を紹介した6)。また、第二回大会からは紙 上にて優勝予想投票7)が行われ、それにとも ない運動用品店等が中心となって「優勝予想」 広告を掲載した(図2参照)。それ以外に「争 覇戦開催祝広告」も掲載され、『京城日報』紙 面では大会中「祭り」ムードが演出され、全鮮 野球争覇戦は「朝鮮半島の一大イベント」とし 図1 京城日報社主催第 7 回    全鮮野球争覇戦告知    (『京城日報』1930.8.21) 図2 京城日報社主催第 3 回全鮮野球争覇戦大会優勝チーム投票広告    (『京城日報』1926.8.26)

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て扱われた(図3参照)。 その結果、全鮮野球争覇戦は他の日系メディ アからも注目され、第四回大会(1927 年)か らは「半島球界最初の試み」として京城放送局 (JODK)がラジオ中継を実施する。さらに第七 回大会(1930 年)では、「京城市内の若草町 四つ角にて JODK 特製の大拡声器を設置」し、 街頭ラジオでも試合の模様を放送した[京城日 報,1927.8.26; 1930.8.21; 1930.8.24]。 4.2 全鮮庭球選手権 次に全鮮野球争覇戦と並び、「朝鮮運動界 における我社の二大壮擧」の大会とされて いたのが全鮮庭球選手権である[京城日報, 1924.7.30]。第一回大会はわずか4組の参加 であったが、1927 年頃から参加組が増えだし、 1932 年には各地域代表として 15 組が参加し た(表1参照)。 全鮮野球争覇戦同様、全鮮庭球選手権もまず 各支局主催で地方予選が行われ、第一回大会か ら朝鮮人選手が参加していた。その後も、出場 選手の約半数は朝鮮人選手であり、朝鮮人ペア が優勝する場合も多く、全鮮庭球選手権はまさ に総督府のすすめる「内鮮融和」を喧伝するの にふさわしい大会となっていた(表1★印を参 照)。 4.3 『京城日報』主催のスポーツ大会の特徴と その言説 ここで『京城日報』主催のスポーツ大会の特 徴についてみておきたい。 第1に、『京城日報』主催の大会は野球・庭 球が中心であった。継続的に主催していた大会 は、全鮮野球争覇戦、全鮮庭球選手権、全鮮女 子庭球大会であり、表1の「その他の試合」の 競技種目をみても、野球・庭球の試合を中心に 支援を行っていたことがわかる。 第2に、主催した大会には朝鮮人選手が参加 していた(表1の※印★印を参照)。当時、ス ポーツは「内鮮融和」の促進によいとみなされ ていた。特に庭球は「内鮮融和」に適したス ポーツとされ、『京城日報』でも、他の庭球大 会での日朝ペアの活躍ぶりについて「内鮮一体 のたまもの」と報じていた8)。さらに『京城日 報』主催で「内鮮融和の上に齎す運動競技の効 果」をテーマに運動講演会が開催され、そこで 講演者が「今回朝鮮各地を巡回して、朝鮮の青 年と内地の青年が夫々共に運動場に集い、共存 共栄の實を掲げている愉快に思ったのである。 内鮮間の色々の問題の解決と共存共栄は殊に運 動家の力に俟つところが多い」と述べると、観 客の間で感動が生まれたと伝えている[京城日 報,1925.5.21; 1925.5.29]。また西尾[2003: 289]によれば、この時期には「内鮮融和」政 策の一環として、各地方で行政と体育協会が中 心となり意図的に「鮮人合同運動会」「内鮮学 校聯合運動会」など、日本人・朝鮮人合同の運 動会や競技大会を開催していた。これらをふま えると、『京城日報』の主催大会でも、より積 極的に朝鮮人選手の参加が促されたことが考え られ、その結果、表1のように多数の朝鮮人選 手が大会に参加し、『京城日報』の主催大会は、 スポーツを通した「内鮮融和」を示す場となっ ていたことが考えられる。 第3に、『京城日報』が主催した招聘試合は 図 3 京城日報社主催第 3 回全鮮野球争覇戦祝広告    (『京城日報』1926.8.26)

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日本の早稲田大学、慶應大学など6大学野球の チームが中心であったが、『京城日報』記事で は、それら日本チームを「憧れ」「手本」と捉 えていた。日本チームは、朝鮮の逓信局、鐡道 局、京城電気等の実業団チームと対戦したが、 朝鮮のチームが勝つことは少なかった[京城日 報,1930.6.24; 1930.8.19]。1930 年 7 月 の 慶應野球部招聘試合について、『京城日報』は 「野球を知り語るものは決して見落としてはい けない」試合として報じ、慶應チームは「陸の 王者の貫録」があり、「鈴なりに集まった観客」 は慶應チームの「美技」に酔い、「これが早慶 戦だと感心」した[京城日報,1930.7.15]。 また早稲田の野球部については「純真なス ポーツの権化」と紹介している[京城日報, 1932.8.2]。内地(日本)の選手団を「憧れ」「手 本」と捉える言説は、他の競技大会の記事でも 見られる。例えば、日本女子選手を招聘した内 鮮女子陸上競技大会(1932)では、朝鮮側は よく戦ったものの、日本の「代表的選手の活躍 を実際に見て朝鮮側選手もフォームその他に教 えられるところも多く、半島女子スポーツ界に は未曾有の収穫があった」と報じた[京城日報, 1932.4.12]。 このように、『京城日報』の主催した大会は、 「内鮮融和」などの統治政策を喧伝する場であ り、その大会を伝える記事についても、統治者 側の視点から語られていたことがわかる。 5.『東亜日報』が開催した   スポーツ大会 次に民族系新聞の『東亜日報』とスポーツ大 会との関係を概観してみたい。 『東亜日報』は、民族意識の啓発と抗日を掲げ て創刊した民族系日刊紙で、民族系体育団体の 「朝鮮体育会」創設を積極的に後援した。その 創刊号では「体育と民族主義」について論説し ており、朝鮮人による朝鮮人のためのスポーツ 文化を展開する必要性を主張していた[東亜日 報,1920.4.1]。『東亜日報』は、発売禁止な ど総督府から受けた処分件数からもわかるよう に、統治政府に対抗する立場をとっており、「内 鮮融和」などの統治政策を拒絶していた9) このような政治的立場から『東亜日報』は、 朝鮮体育会や基督青年会と協力して朝鮮人の ためのスポーツ大会を開催していた。主な大 会としては、全朝鮮庭球大会(1921 - 1933 朝鮮体育会主催、東亜日報社後援)、全朝鮮女 子庭球大会(1923 - 1939 東亜日報社主催)、 全朝鮮野球大会(1920 - 1933 朝鮮体育会主 催、東亜日報社後援)、全朝鮮蹴球大会(1924 - 1940 関西体育会主催、東亜日報平壌支局 後援)、全朝鮮拳闘選手権大会(1928 - 1941 基督教青年会主催、東亜日報社後援)があげら れる。 『東亜日報』も文化政治期初期より、野球や庭 球大会を開催していたが、『京城日報』主催の 全鮮野球争覇戦や全鮮庭球選手権が大規模に開 催されるようになると、有力な朝鮮人選手やチ ームの一部は『京城日報』主催の大会にも参加 するようになっていった10)。全鮮野球争覇戦 や全鮮庭球選手権の最盛期である 1930 年代前 半に、民族系団体主催の野球・庭球大会は終了 しており、結果的に文化政治期後期まで継続 した大会は、日本側が重視していなかった蹴球 や拳闘であった。特に蹴球は、日韓併合前か ら朝鮮半島で普及しており、さらに 1935 年、 1937 年、1939 年、1940 年、1941 年の明治 神宮競技大会のサッカー競技では「朝鮮地区」 代表の朝鮮人チームが優勝したことも影響し、 朝鮮人側では「蹴球 = 民族的スポーツ」とし て位置付けられるようになっていった[西尾, 2003:292]。 また『東亜日報』の場合、大会後援にとどま ることが多く、『京城日報』と比較すると大会 関連記事の掲載も少ない傾向がある。この原因 としては、まず朝鮮総督府による新聞検閲のた め、民族主義的立場から大会開催の意義や成績 結果について強く主張することが制限されてい

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たことが推測される。さらにその検閲の結果、 先述のようにしばしば発売禁止処分を受けてい たため、東亜日報社の経営自体が不安定であり、 『京城日報』のような大規模な大会の主催が困 難であったことが考えられる。 6.おわりに 本稿では、文化政治期において総督府機関紙 であった『京城日報』が、その政治的立場を、 主催したスポーツ大会や報道にいかに反映させ ていたかについて検討を行ってきた。 その結果、『京城日報』は野球・庭球競技を 中心に地域対抗の全国大会を主催しており、大 会には多数の朝鮮人選手が参加していたことが 明らかになった。また紙面では、試合に関連す る記事はもちろん祝広告等を掲載し、さらに懸 賞等の関連イベントも同時に開催することで、 全鮮野球争覇戦を「半島一の野球大会」と位置 づけた。以上のことから、『京城日報』は、自 らが主催したスポーツ大会について、紙面を使 って宣伝することで、さらに「内鮮融和」政策 の喧伝の場としてふさわしい大会として作り上 げていたことがうかがえる。 また『京城日報』は、東京6大学野球のチー ム等を招聘し、在半島のチームとの対戦試合を 主催していた。それら招聘試合の記事では、統 治者側の視点から、朝鮮チームの未熟さが伝え られる一方で、日本チームの技術や身体能力の 高さが称えられ、日本チームは朝鮮チームの「憧 れ」「手本」として位置づけられた。 一方、『京城日報』と政治的立場が異なる『東 亜日報』は、スポーツが民族意識に与える影響 を重視していた。そのため、文化政治期初期に おいては「内鮮融和」政策に対抗して、他の民 族系団体等と協力しながら朝鮮人を対象とした スポーツ大会を開催していた。しかし次第に『京 城日報』が大規模に全国大会を開催した野球、 庭球競技からは退いていき、蹴球・拳闘を中心 とした「民族的スポーツ」の支援にシフトして いった11) このように、文化政治期におけるスポーツ・ 体育は、統治者側からは統治政策を進める手段 の一つとして、また被統治者側からはその統治 に抵抗する手段として両方から重視されてお り、そのような背景のもと、『京城日報』と『東 亜日報』は、自社のスポーツ事業の展開やスポ ーツ言説において、統治者側と被統治者側、ま た日系と民族系というそれぞれの政治的立場を 反映させていた。今回は、メディアの送り手側 としての日刊紙を中心に、特に『京城日報』が「内 鮮融和」を推進する統治者側の立場からスポー ツ大会を開催し、また紙面でも統治者側の視点 から大会を語っていたことを明らかにした。今 後は、今回補足的となった『東亜日報』の分析 を深めるとともに、『京城日報』読者に「内鮮 融和」政策がいかに浸透していたのか、また大 会に出場した選手、観客についても同様に検討 を行いたい。 【註】 1)朝鮮体育協会は、当初『朝鮮新聞』が中心と なって設立されるが、のちに『京城日報』も 協力体制をとるようになる[西尾,2003: 282-285] 2)朝鮮ではすでに 1906 年に大韓体育倶楽部、 1907 年に大韓国民体育会などの民族的体育団 体が設立されていたが、それらはみな日韓併 合とともに解散させられた。 3)『朝鮮日報』『時事新聞』については、親日派 朝鮮人が発行していており、実質的には民族 系の日刊紙は『東亜日報』のみであったとい う指摘もある[李,2000:60]。 4)文化政治期後半 1933 年の朝鮮全土での日刊 紙購読者数は、東亜日報は 39,928 部(日本人 購読(以下、日)273/ 朝鮮人購読(以下、朝) 39,655)、 次 い で 京 城 日 報 が 24,755 部( 日 21,482/ 朝 3,273)、毎日申報が 24,623 部(日 185/ 朝 24,438)、朝鮮日報が 24,026 部(日 185/ 朝 23,841)であった[鄭,2007]。 5)「本社主催の野球大會に平壌チームを勝たし めよ。三社合同で應援隊募集」[京城日報, 1924.9.10]

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6)「野球フアン見参(二) 女性フアンの元祖」[京 城日報,1926.8.29]では「花柳界からの野球 見物も増えた、昔は相撲より知らなかった花 柳界の人も限界が広くなつたものかな」と報 じた。[京城日報,1926.8.29] 7)「優勝予想投票」では対戦するチームとその得 点を予想し、一番近い予想をした者には銀の 腕時計等の賞品が授与された。1926 年には内 地や満州からの応募も含めて 22,546 枚の投票 があった。[京城日報,1926.9.6] 8)「伊勢神宮庭球大会参加について-内鮮融和と 軟式庭球」[京城日報,1934.8.3]、「社説 庭 球選手と内鮮融和」[京城日報,1934.11.9] 9)1920 年の創刊から 1940 年廃刊にいたるまで の 20 年間で、『東亜日報』が朝鮮総督府より 受けた処分は発売禁止処分 63 回、押収 489 回、 削除 2,423 回であった [李,2002:257] 。 10)『東亜日報』の大会は、小學部・中等部・専門 部・青年部と分けられているが、青年部に参 加しているチーム・選手の中には、高麗倶楽 部や京電など『京城日報』主催大会にも参加 しているチーム・選手がいる。 11)その後、朝鮮人側団体の朝鮮体育会は 1938 年に朝鮮体育協会に統合され、『東亜日報』も 1940 年に廃刊し、朝鮮人主体のスポーツ大会 は消滅していく。 【文献】 有山輝雄,1997,『甲子園野球と日本人』吉川弘 文館. 大韓体育会編,1965,『大韓体育会史』大韓体育会. 方一柱,2004,「戦前期の朝鮮における日本の広 告―大正期(1913-1926)の『京城日報』の 新聞広告を中心に」,『コミュニケーション科 学』20:69-79,東京経済大学コミュニケー ション学会. 加納哲也,2001,「サッカー研究(3)日本と韓国 の関係」,『神戸大学発達科学部研究紀要』9(1): 239-267,神戸大学. 金誠,2003,「朝鮮神宮競技大会の創設に関する 考察―その経緯を中心として―」,スポーツ史 研究会編『スポーツ史研究』16:31-41. 金明和,1990,『韓国近代女性体育に関する研究』, 淑明女子大学修士論文. 黒田勇,1999,『ラジオ体操の誕生』青弓社. 李學來,1990,『韓国近代体育史研究』知識産業社. 李炯植,2006,「文化統治初期における朝鮮総督 府官僚の統治構想」,財団法人史学会『史學雑 誌』115(4): 510-534. 李修京,2000,「植民地中期における朝鮮社会と 知識人たち』,『立命館産業社会論集』36(1): 53-75,立命館大学. 李練,2002,『韓国言論統制史―日本統治下朝鮮 の言論統制』信山社出版. ――,2006,「朝鮮総督府の機関紙『京城日報』の 創刊背景とその役割について」,『メディア史 研究』21:89-104,ゆまに書房. 南宮昤皓,2000,「日本統治期朝鮮における東亜 日報主催女子庭球大会(1923-1939)に関す る研究」,スポーツ史研究会編『スポーツ史研 究』13:29-41. 西尾達雄,2001,「スポーツにみる朝鮮への植民 地支配」,『前衛』81-88,日本共産党中央委員会. ――,2002,「日本植民地下朝鮮における体育・ス ポーツの歴史研究」,『植民地教育史研究年報』 晧星社,246-253. ――,2003,『日本植民地下朝鮮における学校政策』 明石書店. 朴仁植,2004,「朝鮮植民地統治の変容と展開(Ⅱ) ――総督府の言論政策を中心に」,日本政治経 済史学研究所編『政治経済史学』,1-26. 白宗元,1995,『朝鮮のスポーツ 2000 年』柘植書房. 徐鍾珍,2000,「斎藤実総督の対朝鮮植民地政策」, 『早稲田政治公法研究』64:195-226,早稲田 大学大学院政治学研究科. 津金澤聰廣・有山輝雄編,1998,『戦時期日本の メディアイベント』世界思想社. 鄭光植,2008,「日本植民地期朝鮮における民族 派スポーツ統轄団体『朝鮮体育会』に関する 研究」,日本体育学会体育史専門分科会編『体 育史研究』25:11-21. 鄭 晉 鍚 編,2007,『 朝 鮮 出 版 警 察 概 要 1933- 1936』韓国教会史文献研究院. 横溝光暉,1964,「『京城日報』終刊始末記」,日 本新聞協会編『新聞研究』153:37-41. 山辺健太郎,1971,『日本統治下の朝鮮』岩波書店.

参照

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