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奈良県障害児教育運動史研究(3) ― 障害の重い子どもの教育保障 ―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

奈良県障害児教育運動史研究(3) ― 障害の重い 子どもの教育保障 ―

著者 大久保 哲夫, 田辺 正友, 中野 忠好, 藤森 善正

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 16

ページ 115‑125

発行年 1980‑03‑23

その他のタイトル A Historical Study of movements on Special Education in Nara Prefecture(3) : Educational Security of Handicapped Children

URL http://hdl.handle.net/10105/6435

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奈良県障害児教育運動史研究(3)*

  一障害の重い子どもの教育保障一

大久保哲夫・田辺正友・中野忠好・藤森善玉榊

   (障害児学教室)   (附属小学校)(附属中学校)

11全目的なIカ向と奈良県

ω はじめに

 この共同研究を始めるにあたって、まずその基礎作業として第1報において「察良県障害児(

者)問題史年表(戦後)」を作成したさい、奈良県における障害児教育の展開の特徴を次のよう に述べた。

 戦後30年間の、障害児教育にかかわるこのような政策と運動の展開は、奈良県においても 例外ではない。すなわち、奈良県の障害児教育は、1960年頃までは、関係者の理解と努力にょ  り自発的にr特殊教育」へのとりくみがなされてきたが、60年代に入るとr特殊教育振興」

策にのって行政による意図的な拡充策がとられるようになってきた。一方、r権利としての障 害児教育」を実現しようとする運動も芽生え、60年代後半のr全国障害者問題研究会奈良支 部」の結成や、 r奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会」の発足などにより、こうした運動  は急速に前進してきているω。

 障害の重い子どもへの教育権保障の運動は、上に掲げた後半部分の中心をなしてきた課題であ る。けだし、障害が重いことを理由に学校教育をうけることそれ自体が否定されてきた現状の 中で、学校教育をうける権利の獲得は、まさにr権利としての障害児教育」の最も重要な課題で ありたからである。

② 障害の重い子の教育と福祉

 これら学校教育のr対象外」とされた子どもたちも、部分的には児童福祉の対象とされていた ことは、例えば精神薄弱児施設における重度精神薄弱児収容棟(以下、重度棟と略す)の開設(

1964年)にさいし、その対象はr就学義務が猶予または免除された者であること」岨とされ ていたことや、重症心身障害児施設の制度化(1967年)にあたって、児章福祉法第48条〔児童

*A咄storicalStudyofmovemeritsonSpecialEducationinNaraPrefecture

     (3):Educational Security of HandicapPed ChiIdre皿

榊Tetsuo Okubo a口d Masatomo Tambe(Department of Defecto1ogy,Nara     Ulliversity of Educati㎝,Nara)

 Tada脾hl Nakano(Attachod Elementary Schoo1,Nara Unlverslty of Educatlon,Nara)

 Yoshimasa Fujimori(Attached Junior High School,Nara Universityof Education,Nara)

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福祉施設入所中の児童の教育〕に該当する施設としなかりた点からも逆に窺われる。

 後述するように、精神薄弱児施設・県立登美学園重度棟(1965年開設)の子どもや、重症心身 障害児施設・国立療養所西奈良病院バンビー病棟(1968年開設)及び国立松頼荘(1975年開設)

の子どもたちの教育権獲得の過程を本稿が重視するのもこのためである。

 ここで、学校教育の対象外とされてきた子どもたちへの児童福祉の施策に関し、次の2点を指 適しておきたい。

 その第1は、上記のように1960年代に入り重度・重症児に対する一定の施策の制度化はばから れる狐施設の絶対数は不足しそれを必要とする子どもたちすぺてに施策が及んだわけではなく、

またこれらの施設も障害の種別、程度、症状について限定的であり、その対象外とされる子ども たちが依然として残されたということである。

 第2は、これらの施設の制度化は児童福祉法制定20数年後にようやく実現したものであり、

それまでは重度・重症児は児童福祉施設の対象とさえされず、その養育は個別家庭に課せられ、

そのため父母団体の長期にわたる福祉要求の運動があったということである。

 ただし、奈良県におけるこれらの施設の開設にさいしては、個別的な親の要求はあってもそれ が組織化され、全国的な要求運動に呼応しながら組織的に要求を実現していうたものではない。

むしろ、全国的な児童福祉行政の一環としてr知事選挙のさい、現知事が福祉行政の表看板とし て重度障害児の施設をつくることを公約しました」{訓といわれるように、先取り行政の結果とみ ることができる。

131教育の機会の拡大

 1950年代半ばより教職員や父母など関係者が手を結びあい、障害児教育の拡充発展を求める運 動が高揚するなかで、 r盲学校、ろう学校及び養護学校の就学奨励に関する法律」(1954年)や

r公立養護学校整備特別措置法」(1956年)など、数多くの成果が生みだされた。これらr特殊 教育の振興」のス回一ガンは、60年代へと続き、60年代には障害児の教育の藏会の拡大は顕 著なものがあった。

 それは1959年12月の中央教育審議会のr特殊教育の充実振興について」の答申から出発する。

答申は、r養護学校、特殊学級について」の項において、特に精神薄弱児のr特殊学級」と肢体 不自由児の養護学校については「早急に年次計画をもって」義務設置をしていくことを強調した。

 この答申をうけて文部省は1960年度から肢体不自由簑証学校の、61年度から精神薄弱r特殊 学級」の増設5ケ年計画の実施に入り、精神薄弱児r特殊学級」は計画を上まわる増設に及んだ。

このような文部行政をうけて、奈良県教育委員会も1961年にr特殊教育振興5ケ年計画」を発表 し、62年度より「特殊学級5ケ年計画」実施に入りた。それによりなるほど学級数は急速に増 加した払従来一般の学級に在籍していた子どもたちは大級対象とされても、在宅不就学者の教 育機会の保障にはならなかった。

 一方、文部省の当初の計画によれば、肢体不自由養護学校を1965年度までに全都道府県に設置

するとされていた狐計画は大幅におくれそれが完成するのは1969年度であつた。奈良県につい

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ては、文部省の年次計画による学校設置は1963年度とされていた狐県はrこれもまた年次計画 で最終年においつめられた精神薄弱児施設(筆者注・県立登美学園)を優先する他なく」=4≡、

養護学校設置は見送られた。これに対して東大寺整肢園の父母の会などが設置促進の請願行動を 起こし、1966年にようやく県立明日香養護学校が開設された。この学校の開校は、障害児への教 育保障を求める父母の組織的な要求運動の奈良県における最初の成果といえよう。ただこれも関 係者の個別的要求の範囲にとどまり、他の不就学児の教育保障要求へと発展しえなかった。

141権利としての障害児教育運動

 権利としての障害児教育運動は教育観、発達観、障害児観の変革と、地域に根ざした障害児へ の教育保障連動という二つの大きな胎動の結びつきの中で、1960年代後半には飛躍的な発展を遂

げた。

 1956年に始まる日教組教研のr特殊教育」分科会は、第H次教研(1962年)でのr差別教 育と解放教育」の提起をうけて従来の適応主義的教育観を克服する方向での討議を積み重ね、分 科会名もr特殊教育」からr心身障害児教育」(1966年)、r障害児教育」(1967年)と呼称 を改めていった。同じころ滋賀県立近江学園では重症児の発達への実践的研究を積み上げ、1965 年のr近江学園年報第H号」で発達を権利として保障するr発達保障」の概念を提起した。

 一方、勤評闘争の中でr与謝地方特殊教育研究集会」を組織した京都北部では、それに続く長 いとりくみの中で1964年にはr養護学校設立連絡協議会」を広範に組織し、地域ぐるみの養護学 校建設運動を開始し、69年にはすべての障害児の教育権を保障する学校として京都府立与謝の 海養護学校の開設をみた。大阪では母親連動を中心に1965年から府下各地に障害児を守る会が つくられ、 66年にはr大阪障害児守る会」へと発展した。東京でも教職員組合が中心となって 1966年にはr障害児(者)の教育と生活を守る都民集会」を成功させ、その成果は各地の障害者運 動の組織的とりくみを促した。

 こうした全国的な胎動狐1967年にはr障害者の権利を守り、その発達を正しく保障する」(

規約第2条)ことをめざす全国障害者間題研究会(以下、全障研と略す)の結成、あわせて全障 研と軍の両輪の関係で要求連動をすすめる課題をもつr障害者の生活と権利を守る全国協議会」

(以下、障生協と略す)の結成に至り、障害者運動は権利保障運動として全国的な組織化の実現 をみるのである。

 奈良県においても、全国教研に学び地域で障害児教育の研究にとりくむ教師集団が1963年にr

特殊教育研究グループ」(陵に、65年には障害児教育研究グループと改称)というサークルをつ

くり、全障研奈良支部結成(1968年)の母体となりた。また、1969年には障害者への人権侵害

事件を契機に、全障研奈良支部が中心になりr奈良県障害者を守る連絡会議」が組織され、この

会はやがてr奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会」(以下、奈陸連と略す)へと発展した。

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2.県立西の京讐講学校開校珪で〔〜1971年,

ω 障害児教育運動の萌芽

 奈良県における障害児の教育権保障のとりくみは、早くから教職員組合連動の中で同和教育連 動と相まってとりくまれてきた。

 1951年、日教組は第1次教育研究全国集会を開催し、特殊教育分科会を設置したが、同時に出発 した宗教組教研は、非行の問題や学業不振児の問題とあわせてr特殊教育」の分科会を設置して いた。しかし、民主的な教育研究運動の全般的な進展の中で、「特殊教育」についても盲学校、ろ う学校の教職員を中心にr第1回特殊教育を語る会」が開催(1960年)されるなど、特殊教育 分科会独立の気運が高まり、1961年第11次宗教組教研から特殊教育分科会が独立して設置され た。日教組教研特殊教育分科会におけるr差別から解放へ」の提起をうけて、第13次奈教組教 研特殊教育分科会ではr特殊教育は民主教育の貢要な柱である」というスローガンを確認し同、

その位置づけのもとに県下の障害児学校・学級づくりの連動がすすめられるようになりてきた。

 この時期には、障害の重い子の教育はまだ具体的な連動の課題とはならず、重度障害児のほと んどは在宅のまま放置されていた。しかし、日教組教研を中心とした民主的、科学的な障害児教 育連動の発展(特殊教育から障害児教育への提起)の中で、奈良県でも県下の教職員により自主 的に組織され研究活動を続けていたr特殊教育研究グルーブ」が「障害児教育研究グルーブ」と 改称され、その成果が宗教組連動にも反映されるようになりた。こうした連動を通してrすべて の障害児に教育を受ける権利がある」とする権利としての障害児教育の実践が徐々に深まりてい

りたことは、障害の重い子どもの教育権保障の課題にとりくむ方向を必然的にもっていたと言う ことができる。

② 県立登美学園を中心とするとりくみ

 1965年、奈良県立登美学園に障害の重い子どもたちを対象にした定員20名の貢度棟r太平 寮」が併設された。

 1964年、厚生省児童局長通知「重度精神薄弱児収容棟の設備及ぴ連営の基準について」によ り、重度棟の設置が可能となりていた松登美学園においては、1963年に中・軽度棟ができたこ とによって入所を希望する障害の重い子どもをかかえた親たちが、児童相談所や登美学園に相次 いで相談に訪れていたこと狐重度棟併設の大きな力になっていたと推測される帖い970年には さらに重度棟r若葉寮」も併設されている。

 登美学園重度棟におけるとりくみは、奈良県下では障害の重い子どもを対象とする最初の施設 であること、学校ではなく施設であったにもかかわらず保母集団を中心に子どもたちの発達を保 障しようと実践にとりくんだことなど、奈良県の障害の重い子どもの教育権保障の運動にとって 大きな意義をもつはじめてのとりくみであった。

 しかも、この実践はきわめて困難な状況の中でとりくまれていた。開設当時は重度児20名に

対して保母4名という国の最低基準の中で、r掃除や洗濯、食事の用意といった雑用におわれて、

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子どもの指導などとてもできない状態」ωでありた。その当時の記録にはこう書かれている。。

  rほとんどの子どもを遊戯室に入れ、出られないように入口にくぎをさし、中で遊ばせまし  た。……女の子は・一・遊具もない狭い一室で遊ばなければならないので毎日自分の髪の毛をぬ  き男の子のようにすっかりぼうずになってしまいました。遊戯室から出られるのは、食事のと  きと便所につれていくときだけでした。・・…・ご飯は少しでおかずといっしょにどんぶりの中に  入れ……みんなスプーンでいつもまぜご飯をたべました。」〔引

 このままでは重度榛の保母はみんな倒れてしまう、保母増員を要求しようという労働組合のと りくみとあわせて、1967年より重度棟の子どもたちにも「清潔で人間らしい生活をさせてやりた い」という保母集団の話しあいと実践がはじま孔それは最初・r夜はねまきにきせかえよ㌔

ごはんは保母よりも先に食べさせよう。風呂はせめて隔日に入れよう。歯をみがかそう。」側  こうしたrできることは今日からしていこう」という実践は・

 「・おしめをとって便所へ行かせよう。

  ・自分で服を着よう。

  ・スプーンでなくおはしでたぺさせよう。

  ・太陽の下で遊ばせよう。

  ・日課表を作ろう。」oo

という指導目標として具体化され・とりくまれるようになりてい㍍日課表づくりでは・重度の 子どもにも学習をという保母の願いからr絵画(月)、リズム(火)、よみ・かき(水)、かず

・あそび(木)、歩行訓練(金)」をとり入れ、この実践を通して「重度児とて別人ではありま せん。人間の子どもです。環境の条件がかわれば・重度の子どももかならず伸びます。伸びない

ときめつける前に、まず子どもの可能性が伸ばされるような条件を保障することが大事です。」㈹

と提起している。

 登美学園重度棟におけるこれらの実践は、障害の重い子どもの発達の可能性を実践的に深めた だけでなく・これ以後の障害の重い子どもの教育権保障の運動をすすめる大きな基礎を築いたと いうことができる。

制 要求の組織化

 1967年は全障研の結成、障生協の発足と、わが国の障害児教育運動にとって画期的な年であ った狐奈良県においてもこうした情勢の影響をうけて、障害児教育運動が新しい前進をみせ、

障害の重い子どもの教育権保障の運動でもようやく組織的な運動がすすめられはじめた年であっ

た。

 この年6月には県下の障害児教育関係者があつまって、「障害児・者の教育と生活を守る会準

備会」が開かれ、障害児教育についての悩みや要求が話しあわれている。こうした動きとも関連

して、宗教組はr障害児教育実態調査」をするとともに、r宗教組障害児教育部」としてはじめ

て障害児教育に関する要求をまとめ県教委交渉をもっている岬。この要求書は4項目からなって

いるが第3項目r教育条件」についての中で、r精神薄弱児養護学校の新設」とrろう学校小学

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部に重複障害児学級の新設」を要求している。さらに第4項目では、r就学免除児童に適切な対 策を考えよ」と要求している。

 精神薄弱児養護学校の新設については、奈良県手をつなぐ親の会も第3回総会(1966年)で 決議している狐まだ具体的な運動の課題とはならず、先の宗教組と県教委との交渉の中でもほ

とんどふれられていない。

 就学猶予・免除児童・生徒の問題は、これまで同和教育運動の中で提起され、一定のとりくみ はあったが、障害児教育運動の中でとりくまれたのはこれがはじめてである。登美学園重度棟の 実践もこの年から発展をみせているが、これと合わせて、奈良教育大学の学生によって卒業論文 r奈良市における就学猶予・免除の実態と問題点」㈹がとりくまれ、全障研奈良支部結成大会に 報告されたことは特筆に価する〇一。

 こうして、登美学園重度棟の開設、国立療養所西奈良病院重症心身障害児病棟開設と県下で障 害の重い子どもへの一定の施策がすすむとともに、父母、教職員、保母、学生等を中心に障害の 重い子どもの教育権保障の課題が徐々に明確になり、組織的な連動としてとりくまれていく基盤 が育っていったというζ。とができる。

 1969年に入って、 r県立精神薄弱養護学校新設計画に私たちの要求を結集しよう」と、全障 研奈良支部が主催して「養護学校新設についての要求懇談会」が開かれた。その要求書によれば 要求項目は、①設置場所、②対象児童・生徒、③施設、設備、④人事についての13項目にわた りまとめられているが、rすべての障害児の教育権を保障すること」、特にr重度障害児」のた めにr寮をつくること」、rスクールバスを走らせること」、r治療・訓練の可能な施設、設備 と人員を配置すること」、r介助員をおくこと」などが要求されており、障害者・父母・教職員 のねがう養護学校の構想が提起されている㈹。

 その後、こうした要求を運動化し、県教委との交渉を重ねながら県立西の京養護学校を開校(

1971年)させ、 障害の重い子どもの教育保障にとりくむ学校としてその内容を充実させる連動 をすすめてきたのも、こうした父母、教職員、学生等を中心とした運動の成果であった。中でも、

1969年10月、全障研奈良支部がよぴかけて奈良市手をつなぐ親の会など5団体によって結成さ れた奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会は、こうした運動の中心的な役割をはたしていた。

1971年11月に開催された同連絡会主催のr第1回奈良県障害児・者の生活と権利を守る要求集 会」では、生活・医療・教育・労働・施設の問題にわたって88項目の要求がまとめられ、県と の交渉がもたれるようになりている。同要求書にはr養護学校の新設」、r重度障害児の教育を 保障して下さい」と並んでr在宅障害児のために訪問教育を実施して下さい」という要求が出さ れている。訪問教育の要求については、同年12月、奈良市教組が市教委ともりた交渉の中でも 提起されているが実現には至らなかった。

3.不就学児をなくす連ロカの前迫{〜1975年】

ω県立登美学園重度棟への教師派遣

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 全障研を中心とする科学的障害児教育連動の前進、奈陸連を中心とした要求運動の進展の中で、

障害の重い子どもの教育についても要求が組織され、奈良県下でもさまざまな運動がとりくまれ るようになった。

 1972年1月から2月にかけてもたれた奈障連の奈良市教委、県教委交渉では、就学猶予・免 除児の問題が大きくとりあげられている。ここでは、同年の猶予・免除児135名(県教委調ぺ)

について、その教育保障のための対策を講じるよう要求するとともに、具体的には、①不就学児 を西の京養議学校で受け入れられるようスクールバスの増配、介助員の配置、高等部の設置をは かること、②県立登美学園の重度棟の子どもについて、県厚生課、県教委、市教委の三者で協議

し、学籍をもたせ教育を保障すること、を中心にした話しあいをすすめている㈹。奈陸連のこの とりくみは、不就学児をなくす運動が県下ではじめて具体的にとりくまれたものとして大きな意 味をもっている。さらに同年3月には、この交渉に参加した父母たちがよびかけ人になって、奈 良市教職員組合、全障研奈良支部、奈陸連の支援をうけ、 r学校に行きたい障害児をもつ親のつ

どい」が開催された。

 教職負の要求連動といえば教職員組合、全障研、奈陸連の運動が主であった狐この年、 r県 特殊教育研究会」の運営が一定程度民主化され、県下の障害児教育関係者の要求が民主的に反映

されるようになった。同年10月に県教委に提出された同会の「昭和48年度特殊教育振興に関 する要望書」㈹によれば、 135名という就学猶予・免除者に対し、その学習権の保障を要求し、

養護学校の増設、就学の適正化など40項目にわたる要求を出すに至っている。

 こうした県下の状況のもと、県立登美学園では、職員有志によってr教育分科会」が発足(同 年3月)し、r重度棟収容児全員が学校に行けるよう運動をしよう」という話し合いがもたれ、

園長との交渉がもたれている㈹。

 登美学園内外のこのような連動によって市教委は同年5月、中・軽度児学級3学級を2学級と し、教師1名を重度児への訪問教師のようなかたちにする案を提示するに至った。 1973年4月 より、県教委はr在宅心身障害児訪間指導制度」を開始させたが、同年6月、県立登美学園でも 重度棟に訪問教師が派遣されることになった。そして担任教師1名の配置のみという貧困な教育 条件のもとで、 16㎡の縫製室を教室にあてた重度棟での教育がはじめられた。障害の重い16 名の生徒に1名の教員しか配置されなかったために、結局は9名の生徒に限定された。

 しかし、厚生省通知(前出)の枠を破り、現実に重度精神薄弱児収容棟の子どもたちに奈良市 の教育委員会が施設内学級を認めたことは、次の学籍獲得へのひとつの足がかりをつくったもの として大きな意味をもつものでありた。

 同時に、この重度棟rすぎのこ学級」での実践は、保母集団の協力も得て、それまでの重度棟 における実践をさらに発展させたものであり、障害の重い子どもの教育課程編成への試みとして 貴重な内容をもつものであった09。

12〕障害の重い子どもの教育をすすめる会

 不就学をなくす運動の一定の前進にもかかわらず、就学猶予、免除児は減少せず1973年度も

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不就学児は138名となっている。

 全障研第6回奈良県大会の要項によればr登美学園重度障害児学級」ではr子どものねがいが かなえられ、その発達のすがたがいきいきととらえられている」狐それは「先生と保母さんの 献身的な努力と犠牲の上に支えられ」てのことであり、またr県立西の京養護学校は未だに保護 者の付添いが入学の条件」でr障害児と家族の生活を一層苦しいものにして」おり、r来年度か

ら病虚弱の養護学校が開校されます狐その入院病棟はすでにできあがっているのに、看護婦さ んが確保できないために開院できないありさま」だと問題を提起している㈲。こうした状況に対

して、県教委は奈陸連との交渉の中で、r西の京や明日香養護学校はまだ義務制度化されていな いので、多少の問題はやむを得ない」、r就学免除者をなくす方針はもう少し時間的な余裕がほ しい」と回答し、障害の重い子どもの教育権保障について無責任な態度に終始していた㈱。

 こうした県教委の方針に対して、rすべての障害児の教育を受ける権利を守るために、それぞ れの団体がかかえている問題やいままですすめてきた運動をおたがいに交流しあおう」と奈陸連 がよぴかけて、r障害児の教育権を守る各界交流会」が2回にわたってひらかれた(1973年)。

これに参加したのは、宗教組、奈良市教組、障教組、奈良県生活と健康を守る連合会、奈良教育 大学サークルすぎのこ、心臓病の子どもを守る会、奈陸連、全障研奈良支部、視力障害者の生活と権 利り守る会、奈良教育大学障害児学研究室、それにこれらのとりくみの中で結成準備をすすめていた

r障害の重い子どもの教育をすすめる会」準備会の11団体でありた・

 この各界交流会では連動の要求の交流の中で、各団体の一致できる要求をまとめ、県教委との 合同交渉をもつ準備がすすめられた。それは、同年ユ0月、 11月の2回にわたってもたれてい る。交渉の内容は、すべての障害児・者に、①幼児教育・保育の保障を、②豊かな義務教育の保 障を、③後期中等教育の保障を、の要求を中心に県の教育行政のあり方が厳しく追求された。こ の交渉で注目すべきものは、県教委がこれまで不明確にしていた就学猶予・免除について、①ど んな障害の重い子どもにも教育は必要である。②免除はしない、免除したものについては猶予に かきかえるよう指導する。③重度障害児の実態を調査し、重度学級等の設置を検討する、とはじ めて具体的に回答していることである酋。

 先にのべたr障害の重い子どもの教育をすすめる会」(以下、rすすめる会」と略す)は、登 美学園の教職員、教育大サークルすぎのこの学生が中心になって各々教職員、父母を組織し、同 年11月結成された。会は、rどんな障害をもった子どもにも教育をうける権利を保障する」こ とを目的に、活動方針として、①毎月1回学習会をもつ、②不就学児の在宅訪問を行なう、③行 政に対し要求連動をする、④教育相談活動を行なう、⑤民主的障害者運動と交流する、ことをき めている㈲。同年11月には教育委員会交渉をもち、13項目の要求を提出している。rすすめ る会」はまた在宅不就学児への訪間活動の中から障害者、家族のねがいに応え、 1974年6月か らは「日曜子ども会」を開くようになっている。

③ 養護学校、精神薄弱児施設の増設

 政府は、 1973年11月、長い間ひきのばしていた養証学校の義務制を1979年度より実施す

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るよう政令で決定した。この決定は、これまでの障害者、父母、教職貝などによるねばり強い運 動の成果であうた。

 しかし、奈良県の現状は、1974年にいたってもなお156名の就学猶予・免除児を残し、これ に対して、県教委は10名の在宅訪問指導員を委託し、49名の在宅児と登美学園重度棟児に対 して訪間指導をおこなうだけであった。しかもこの訪間指導制度は、非常勤の指導員狐週に1 回訪問する程度のきわめて不十分なものであっれ

 この年、全障研奈良支部は、不就学児の問題を中心に白書運動にとりくみ、在宅不就学児の実 態を調査して、障害の重い子どもの教育を保障するための奈良県の運動の現状と課題を明らかに する中間報告を発表している船。

 登美学園重度棟では、教職員・父母の中から、一部の子どもしか学校へ行けないことへの疑問 が出され、学籍復権の必要性が話しあわれ始めた。rすすめる会」の中心的担い手となっていた 登美学園職員の一部は、特に、学籍復権への熱意を強くもち、保護者全員への家庭訪問を行いな がら、父母とともに、県教委、市教委への運動を強めた。こうして、登美学園における学籍獲得 のとりくみは、県下の不就学児をなくしていく運動とともに進められ、その結果、遂に1975年   月、重度児の学籍が復権された。このとりくみと成果は、奈良県における不就学をなくす運 動にとってきわめて大きな意義をもつものであった。

 こうした県下の情勢の中で、1974年から1975年にかけて、養護学校や精神薄弱児施設の増設 がすすめられている。すなわち、1974年の県立七条養護学校の開校、1975年の県立大淀養護学 校開校、精神薄弱児施設吉野学園開設、同じく五条学園開設、重症心身障害児施設松顧荘(国立

)の開設などがそれである。

4.讐竈学校奏新制完全実施をめざして

 不就学をなくし、すべての障害児にゆきとどいた教育を保障しようとするさまざまなとりくみ にもかかわらず、県下の就学猶予・免除児の数は1972年135名から、149名 (1973年)、

163名(1974年)と増え続け、1975年には、117名とやや減少したものの、その後は、109 名(1976年)、111名(1977年)、108名(1978年)とほとんど減少しないままにきてい る。また、猶予児に対する免除児の率も高く、近畿の他府県と比べても、障害児の全員就学につ いて最も遅れた県となっている。

 1町9年度より養護学校義務制実施の政令が出されたとは言うものの、こうした状況の中で79 年度義務化はきわめて不十分な形でなされる恐れが強く、これに対して義務制完全実施にむけて 県内の障害児教育連動が広箱にとりくまれるようになっていった。

 1975年には、 こうした県内の情勢を反映するかのように、日本共産党奈良県委員会狐 「民

主的・科学的な障害児教育の前進のために」を発表している困。この政策では、奈良県の現状を

ふまえて、障害児教育の当面する課題を、①すべての障害児に義務教育の完全実施を、②早期か

ら長期にわたるゆきとどいた教育を、③あらゆる権利の総合的・統一的保障を、④職場と地域に

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根ざす障害児教育の発展を、の4つの柱、13項目にわたって提起している。

 1976年から77年にかけては、奈陸連や障教組の運動も活発にすすめられている。重症心身障 害児施設松籟荘が設置された翌1976年、奈陸連の要求書には、r就学保障委員会の設置」やr 訪問教育制度の拡充」とあわせて、r国立病院松頼荘でも、ゆきとどいた教育がうけられるよう 学級を設置し、教育条件を整えてください」という要求が出されている㈱。

 同年11月には、県下の不就学をなくす運動にとりくみ、障害の重い子どものための日曜子ど も会などをすすめてきたr障害の重い子どもの教育をすすめる会」は発展的に解消して、新しく

r障害児の保育・教育をすすめる会」が組織され、今日に至っている。

 この時期には、教職員組合と奈陸連、全障研奈良支部が協力・共同して運動にとりくむ関係が 前進した。 1977年には、宗教組、障教組、奈陸連、全障研の四者によって、r障害児教育義務 制完全実施に関する懇談会」がもたれ、県教委に対する交渉などが準備されている。この中で県 教委は、r県北部に肢体不自由養護学校を増設すること」を約束し、 1978年度にはそのための 学校用地の先行取得の予算を計上した㈱。

 さきの4団体は数回にわたる懇談会をもった後、今後の奈良県の障害児教育の充実発展のため に連携を深めていこうと、 r奈良県障害児の教育をすすめる四者連絡会」という恒常的な組織に 改められた。そして、養護学校義務制実施を翌年にひかえた1978年12月、この4団体によりr すべての障害児にゆきとどいた教育をすすめる県民集会」が開催され、約200名の関係者が集っ た。奈良県における自主的・民主的な障害児教育の発展をめざし、これだけ広範な層の人々が一 堂に会したのは画期的なことであり、また集会の内容も、奈良県における障害児教育の現状と問 題を具体的・全体的にとらえ、今後のとりくみの課題と方向を明確に示す意義ある集会であった

鯛。

 こうした運動の中で、 1979年度より養護学校義務制が実施された。それはどんなに障害が重 くても、すべての子どもに権利としての教育を無差別平等に保障するという、障害児教育の義務 制完全実施にむけて新しく第1歩をふみ出したものとして大きな意義をもつものであるが、しか

し現状をみると、教育行政の怠慢により多くの課題が残されたままになっている。さきのr四者 連絡会」は、 1979年10月、こうした奈良県の現状と課題を明らかにするため、r養護学校義 務制以後の教育をめぐるシンポジウム」を開催し、肢体不自由養護学校の未開校、重症心身障害 児施設児童を含む訪問教育による名目だけの義務制実施、いぜんとして残されている不就学児、

就学指導体制の不備、義務制実施にともなう障害児学級のあり方等について討議を深めた毘田。

一往,

ω 大久保哲夫・田辺正友・中野忠好・藤森善正.奈良県障害児教育運動史研究はト年表づく   り一。奈良教育大学教育研究所紀要 第14号。P 94(1978)

② 厚生省児宣局長通知:重度精神薄弱児収容棟の設備及び運営の基準について。

  (1964・3・13児発197)

制 全国障害者間題研究会近畿ブロック出版委員会:みんなのねがいを実現するために。

(12)

 全国障害者間題研究会近畿フロック。 P−1(1968)

14〕障害児教育百年奈良記念会編:障害児教育百年奈良記念誌。 P.49(1979)

⑤ 第13次奈良県教職員組合教育研究集会基調報告(1963)

㈹ 小沢洋子:精神薄弱児施設における教育保障の発展過程と指導実践の課題一奈良県立登美  学園の場合一。奈良女子大学大学院文学研究科修士論文(1979)

m 全国障害者問題研究会奈良支部登美学園サークル:すべての障害児の発達保障と職員の権  利の問題。(1971)

  前矧31P.3   同上 p.5   同上 PP.6−11   同上 P.12

  奈良県教職員組合障害児教育部ニュース胞1(1967・12・14)

  永井峯;奈良市における就学猶予・免除の実態と問題点。奈良教育大学卒業論文(1968)

  全国障害者問題研究会奈良支部結成大会要項(1968・9)

  全国障害者問題研究会ニュース胞2(1969・5・13)

  奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会ニュース(1972・1・26)

  奈良県特殊教育研究会:1973年度特殊教育振興に関する要望書。(1972・10・16)

  奈良県立登美学園教育都会:障害児の教育権を保障せよ。(1972・3・31)

  浦川敏恵:障害の重い子どもの教育にとりくんで。第2I次奈良県教職員組合教育研究集  会(1973)

⑫①全国障害者間題研究会奈良支部第6回県大会要項(1973・11・4)

0D 同上

⑫ 奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会地:すべての障害児に教育の保障を。

 ( 1973 ・ 10 . 19 )

㈱ 障害の重い子どもの教育をすすめる会:ボク カッコウ イキタイ(1974・6・1)

僅O 全国障害者問題研究会奈良支部第7回県大会要項(1974・9・22)

㈲ 日本共産党奈良県委員会:民主的・科学的な障害児教育の前進のために。(1975・u)

㈱ 奈良県障害者の生活と権利を守る連絡会:すべての障害者・児が、人間らしく生きていく  ことの保障をもとめる要求書(1976)

⑳ 奈良県障害児学校教職員組合:第6回障教組総会議案書(1978・5・27)

囚 奈良県教職員組合化:すべての障害児にゆきとどいた教育をすすめる県民集会報告書  (1978)

四 奈良県教職員組合日教組第29次・日高教第26次教育研究全国集会障害児教育分科会報

 告書:あすを拓く障害児教育の創造(1㎝9)

参照

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