• 検索結果がありません。

反 宗 教 改革 時代 の ユ ー トピア

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "反 宗 教 改革 時代 の ユ ー トピア"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

57

反 宗 教 改革 時代 の ユ ー トピア

カ ス パ ー ル ・シ ュ テ ィ ブ リ ン の 『 エ ウ ダ イ モ ン 国 見 聞 記 』

副 島 美由紀

1.ド イ ッ 最 初 の ユ ー ト ピア 小 説

1553年 夏,ア ル ザ ス 地 方 の 小 都 市 シ ュ レ ッ ト シ ュ タ ッ ト(Schlettstadt,現 在 の セ レ ス タS61estat)に 住 む 若 き ラ テ ン 語 教 師 が,仕 事 のi憂さ 晴 ら し も兼 ね て ラ テ ン 語 で 架 空 の 旅 行 記 を 書 く。 『エ ウ ダ イ モ ン 人 の 国 に 関 す る 短 い 報 告 (CommentariolusdeEudaemonensiumRepublica)』(以 下 『エ ウ ダ ・fモ ン 国 見 聞 記 』 又 は 『見 聞 記 』 と 略 記)と い う 表 題 を 持 つ こ の 架 空 の 見 聞 録 は2 年 後 の1555年 に ス イ ス の バ ー ゼ ル で 出 版 さ れ て い る1。 エ ウ ダ イ モ ン と い う の は マ カ リ ア 島 と 呼 ぼ れ る 島 の 首 都 の 名 で,エ ウ ダ イ モ ン 市 は ギ リ シ ャ の ア テ ナ イ の よ う な 都 市 国 家 で あ る 。 「エ ウ ダ イ モ ン 」(画 δαZμωの と 「マ カ リ ア 」

(μαπαρZα)は 共 に ギ リ シ ャ 語 で 「幸 福 」 及 び 「至 福 」 を 意 味 し,エ ウ ダ イ モ ン 人 た ち の 社 会 は そ の 名 の 示 す 通 り"幸 福 な 国 家 の 完 壁 な 模 範2"と も言 う べ き 理 想 郷 で あ り,こ の 見 聞 録 の 著 者 は 黙他 の 国 々 は す べ て こ の 模 範 を 見 習 う べ し3"と い う 考 え の も と に 自分 の 見 聞 き し た エ ウ ダ イ モ ン 市 の 社 会 制 度 に つ い て 記 憶 に あ る が ま ま を 書 き 記 す の で あ る 。

1Stiblin

,Kaspar,Coropaedia,sivedemoribusetvitavirginumsacrarum, 1ibellusplaneelegans,acsaluberrimispraeceptisrefertusGasparoStiblino autore.euisdem,deEudaemonensiumRepublicaCoエnmentariolus,Base1, 1555.

2Stiblin

,Kaspar,CommentariolusdeEudaemonensiumRepublica(Base1 1555),Hrsg.,ttbersetztundkommentiertvonIsabel‑DorotheaJahn,Regens‑

burg,1994,p.9.

3ibid .,P.9.

(2)

フ マ ニ ス ト

実 は ヨ ー ロ ッパ の 人 文 主 義 者 た ち に と っ て 「マ カ リ ア 島 」 と い う の は 未 知 の 名 で は な か っ た 。 トマ ス ・モ ア は 『ユ ー ト ピ ア 』 の 中 で,ユ ー ト ピ ア 島 の 近 隣 に あ り賢 王 の 治 め る 国 と し て マ カ リ ア 人 た ち の 島 を 紹 介 し て い る 。『エ ウ ダ イ モ ン 国 見 聞 記 』 は,『 ユ ー ト ピ ア 』 を 既 に 読 ん で い た と 推 測 さ れ る ド イ ツ の 若 き 人 物 主 義 者 が,無 可 有 郷 に つ い て の 記 述 と い う形 式 を 借 り て 憂 う べ き 現 実 を 批 判 し,球 り よ い 世 界"を 想 定 し て 書 い た ユ ー ト ピ ア 小 説 で あ る 。 年 代 的 に は モ ア の そ れ に 次 ぐ も の,ま た ド イ ツ 語 圏 に お い て は 最 初 の ユ ー トピ ア 文 学 で あ る は ず な の だ が,イ タ リア の 歴 史 学 者,ル イ ジ ・フ ィ ル ポ が1959 年 に 再 版 し4,ま た1963に そ の 論 文5に お い て 著 者 で あ る カ ス パ ー ル ・シ ュ テ ィ ブ リ ン を ユ ー ト ピ ス トの 系 譜 に 位 置 付 け る ま で,こ の 『見 聞 記 』 は 長 く 忘 却 さ れ た ま ま で あ っ た 。ドイ ツ に お け る 最 初 の ユ ー ト ピ ス ト と い う 名 誉 は, 一 般 的 に は 『ク リ ス テ ィ ア ノ ポ リ ス 』6(1619)を 著 し た プ ロ テ ス タ ン ト神 学 者 に し て 薔 薇 十 字 団 の 中 心 的 人 物,ヨ ハ ン ・ヴ ァ レ ン テ ィ ン ・ア ン ド レ ー エ (JohannValentinAndreae,1586‑1654)に 帰 す る も の と さ れ て い る7。 が, よ う や く1994年 に な っ て 『エ ウ ダ イ モ ン 国 見 聞 記 』 が ド イ ツ 語 に 翻 訳 さ れ8,

ドイ ツ に お け る ユ ー ト ピ ア 文 学 研 究 の 空 白 の 補 填 が 容 易 に な っ て き た 。

4Stiblin

,Kaspar,DeEudaemonensiumRepublica,conunaintroduzioneeIa bibliografiadel1'autoreacuradiLuigiFirpo,Turin1959(=Monumenta politicararioraSeriesIINumerus1).

5Firpo

,Luigi,KasparStiblin,utopiste,in:LesutopiesalaRenaissance, Bruxelles,1963,p.107‑133.

6Andreae

,JohannValentin,Christianopolis,miteinemLateinischenubersetzt, kommentiertundmiteinemNachworthrsg.vonWolfgangBiesterfeld,

Stuttgart,1975.

7Andreae

,JohannValentin,Christianopolis1619,0riginaltextundUber‑

tragungnachD.S.Georgi1741;eingeleitetundherausgegebenvonRichard

vanDulmen,Stuttgart,1972;江 藤 恭 二 『 ド イ ツ の こ こ ろ 』,講 談 社,1980,p.

94;丸 山 純 「J.V.ア ン ド レ ア の 理 想 都 市 論 『ク リ ス テ ィ ア ノ ポ リ ス 共 和 国 に つ い

て の 記 述 』(1619年)の 都 市 像 に つ い て 」,in:「 日 本 建 築 学 会 論 文 報 告 集 」第342

号,1984,p.122。

8Stiblin

,Kaspar,CommentariolusdeEudaemonensiumRepublica(Base1 1555),Hrsg.,ubersetztundkommentiertvonIsabe1‑DorotheaJahn,Regens‑

burg,1994.

(3)

反 宗 教改 革 時代 の ユー トピア

59

トマ ス ・モ ア の 記 念 碑 的作 品 や フ ラ ン シ ス ・べ 一 コ ン の 『 ニ ュー ・ア トラ ン テ ィス 』 な ど,代 表 的 な ユ ー トピア文 学 を有 す る英 文 学 や,カ ベ ー や デ ィ ドロ らの 空 想 的航 海 記 が存 在 す る フ ラ ンス 文 学 と較 べ る と,ド イ ツ文 学 史 に お い て は世 に知 られ た ユ ー トピ ア文 学 は少 な い。 ル イ ス ・マ ン フ ォ ー ドの 紹 介 に よ って9知 られ る よ う に な っ た 『 ク リス テ ィ ア ノ ポ リス』で さ え,カ ンパ ネ ッラ に よ る ほ ぼ 同 時 代 の作 品 『 太 陽 の都 』10と較 べ る とそ の知 名 度 は低 い 。 しか しカ ー ル ・ マ ンハ イ ム が 説 く よ う に,黙 よ りよ い世 界"に つ い て の 「 虚 偽 意 識 」 を伴 っ た 「 存 在 を超 越 した 表 象 」 が 方 向 付 け の 違 い に よ っ て イ デ オ ロ ギ ー 的意 識 と もユ ー トピ ア 的 意 識 と も呼 ぼれ 得 る の で あれ ぼ,宗 教 改 革 や 『 資 本 論 』,J.ハ ー バ ー マ ス の 「 批 判 的 公 共 性 」な ど,ド イ ツ の 思 想 史 は 「 存 在 を 超 越 し た 表 象 」 に実 に富 ん で い る。 ドイ ツ語 圏 に お け るユ ー トピア 文 学 もそ の よ うな 表 象 の系 譜 上 に位 置 して い る とす れ ば,文 学 ジ ャ ン ル の 一 つ と言 え ど も よ り広 い 歴 史 的 ・社 会 思 想 史 的 文 脈 に お い て読 まれ るべ きで あ ろ う。

以 下 の拙 論 は,ド イ ツ最 初 の ユ ー トピ ア 文 学 と言 うべ き 『エ ウ ダ イモ ン国 見 聞 記 』 の 内 容 を紹 介 し なが ら,こ の作 品 が 成 立 した 時 代 の背 景 な どを考 慮

しつ つ 知 識 社 会 学 的 な 作 品 鑑 賞 を行 う試 み の 一 つ で あ る。

2.著 者 に つ い て

『エ ウ ダ イ モ ン国 見 聞 記 』の著 者 で あ る カ スパ ー ル ・シ ュ テ ィブ リン は ,1526 年,ア ル ゴ イ 地 方 の帝 国 自 由都 市 ヴ ァ ン ゲ ン(Wangen)に 近 い ア ム ツ ェ ル

(Amtzell)と い う村 で 生 まれ た。 そ の生 家 につ い て は何 も知 られ て い な い が, 奨 学 金 を頼 り に学 生 生 活 を送 っ た事 実 や,そ の後 も給 与 の 支 払 い に 関 す る苦 情 を残 し て い る こ とな どか ら,決 して 裕 福 な生 まれ で は な か っ た ろ う と推 測 さ れ て い る11。 フ ラ イ ブ ル ク で ギ リ シ ャ語,ヘ ブ ラ イ語,ギ リ シ ャ哲 学 ・ 芸 術

9ル イ ス ・マ ン フ ォ ー ド 『ユ ー ト ピ ア の 系 譜 』 関 裕 三 郎 訳

,新 泉 社,2000,p.78ff。

10カ ン パ ネ ッ ラ 太 陽 の 都 』 近 藤 恒 一 訳,岩 波 書 店,1992。

(4)

な ど を学 ん だ シ ュ テ ィブ リン は,1549年 にバ カ ロ レ ア を,ま た1550年 に はマ ギ ス ター を取 得 す る。 そ して この 頃 に は後 に彼 に とっ て の大 作 とな る エ ウ リ

ピデ ス の戯 曲 の 翻 訳 に着 手 し て い る。1551年,シ ュ テ ィブ リ ン は フ ラ イ ブ ル ク大 学 の学 芸 学 部 で ラ テ ン語 の文 法 教 師 と して採 用 され るが,53年 に はペ ス

トの難 を逃 れ るた め に フ ライ ブル ク脱 出 を余 儀 な くされ る。

彼 が 落 ち着 い た 先 は ア ル ザ ス地 方 の シ ュ レ ッ トシ ュ タ ッ トで,そ こで 古 典 語 学 校 の ラ テ ン語 教 師 と して 職 を得 る。 シ ュ レ ッ トシ ュ タ ッ トの古 典 語 学 校 は か つ て は名 門 校 と して 知 られ て い た が,シ ュ テ ィ ブ リ ンが 赴 任 した 頃,そ の名 声 はす で に凋 落 しつ つ あ っ た。1525年,当 時 の 校 長 が ル ター を擁i護した た め に解 任 さ れ,以 来 市 の 参 事 会 は 自 由 な精 神 活 動 を抑 圧 す る方 策 に 出 た 。 教 師 の 採 用 人 事 で は カ ト リッ ク教 義 へ の 帰 依 が 重 視 さ れ る よ う に な り,寛 容 さ を失 っ た学 校 は不 人 気 とな っ て 向学 心 の あ る若 者 た ち は信 仰 の 自 由 が 存 在 す る シ ュ トラ ー ス ブ ル クや バ ー ゼ ル の ギ ム ナ ジ ウ ム へ と移 っ て 行 っ た12。学 校 は設 備 的 に も給 与 の面 で も理 想 と は ほ ど遠 い状 況 に あ っ た 。

『 エ ウ ダ イ モ ン 国 見 聞 記 』は1533年 ,シ ュ テ ィブ リンが シ ュ レ ッ トシ ュ タ ッ トへ移 住 した 最 初 の年 に 書 か れ て い るが,後 述 す る通 りそ の 序 文 は彼 が 赴 任 して す ぐ勤 務 に困 難 を感 じて い た こ と を伺 わ せ る。また2年 後 の1555年,彼 は 次 の 著 作 と して 「 娘 た ち の 教 育(Coropaedia)」 とい う名 の 論 考 を著 し,そ れ を 『 エ ウ ダ イ モ ン 国見 聞 記 』 と共 に一 冊 の書 物 と し,バ ー ゼ ル の著 名 な 出 版 業 者,ヨ ハ ネ ス ・オ ポ リー ヌ ス(JohannOporinus)め 元 で 出 版 し て い る。

書 物 全 体 の表 題 と もな っ た 『 娘 た ち の 教 育 』 は家 庭 に お け る少 女 た ち の 教 育 と女 子 修 道 院 の理 想 的 な あ り方 を描 い た 随 筆 で,ア ル ザ ス は マ ス ミュ ン ス タ ー(MassmUnster,現 在 の マ セ ヴ ォ ーMasevaux)の 女 子 修 道 女 院 長,フ ォ ン ・フ ァル ケ ン シ ュ タ イ ン(vonFalkenstein)に 献 じ られ て い る。 この 教 育

11Jahn

,Isabel‑Drothea(Hrsg.),KasparStiblin,Commentariolusde EudaemonensiumRepublica(Basel1555),Regensburg,1994,p.XI.

12Jahn

,ibid.,p.XIV.

(5)

反 宗教 改 革 時代 のユ ー トピ ァ

6ヱ

論 を書 き下 ろ し た 時,シ ュ テ ィブ リン 自 身 も まだ20代 の若 さで は あ っ た が, そ の 内容 は精 神 性 と学 問 的 営 み に欠 け た 当 時 の 修 道 院 を批 判 した もの と言 わ れ,女 性 の 資 質 も男 性 と同 様,あ る い は そ れ 以 上 に哲 学 的 理 念 の 学 習 に適 し て い る とい う著 者 自 身 の 考 え か ら,若 き尼 僧 た ち に 瞑想 や ラ テ ン語 に よ る聖 典 の 精 読 とい っ た学 問 的 修 業 を薦 め て い る13。

『 娘 た ち の教 育 』 は シ ュ テ ィブ リン に とっ て 『 エ ウ ダ イ モ ン国 見 聞 記 』よ り 重 要 な作 品 で あ っ た と言 わ れ て い るが,彼 が 最 も力 を注 い だ の は 学 生 時 代 か ら構 想 して い た エ ウ リ ピ デ ス の全 戯 曲 の ラ テ ン語 訳 で あ っ た。 シ ュテ ィ ブ リ ン は シ ュ レ ッ トシ ュ タ ッ トに落 ち 着 い て す ぐ この翻 訳 作 業 に着 手 し,約10年 後 の1562年 に や は りバ ー ゼ ル の オ ポ リー ヌ ス 社 か ら 『 エ ウ リ ピ デ ス 悲 劇 集 』14として 出 版 して い る。この試 み は ギ リ シ ャ語 の原 文 とラ テ ン語 に よ る対 訳 を併 記 し,そ れ ぞ れ の 戯 曲 の筋 書 き とシ ュテ ィ ブ リ ン に よ る場 面 ご との 内 容 分 析 を付 した 意 欲 的 な もの で,当 時 の神 聖 ロー マ皇 帝 フ ェ ル デ ィナ ン ド1 世 に捧 げ られ た 。 しか し この意 欲 作 は世 の 賞 賛 を浴 び る こ とは な か った 。 そ の 年 折 り悪 し く高 名 な 人 文 主 義 者 で あ る フ ィ リ ップ ・メ ラ ン ヒ トン(Phillipp Melanchthon,1497‑1560)に よ るエ ウ リ ピデ ス の翻 訳 の 新 版 が フ ラ ン ク フ ル

トで 出 版 され,シ ュ テ ィブ リン の労 作 を二 義 的 な もの に した 。130年 ほ ど後 の エ ウ リピ デ ス 研 究 家 に よ っ て も シ ュ テ ィブ リ ン の翻 訳 は批 判 さ れ,以 降 そ の 評 価 が 定 着 す る こ とに な った15。 恐 ら く 『 娘 た ち の教 育 』等 の作 品 が 顧 み られ な か っ た こ と も この評 価 に も起 因 が あ る と考 え られ る。

1559年,シ ュ テ ィブ リン は か つ て 学 生 時代 を過 ご した フ ラ イ ブ ル ク の ラ テ ン語 学 校 の校 長 と して 招 か れ,ア ル ザ ス を 去 る。 そ して そ の2年 後 に は ヴ ュ ル ツ ブル クの 領 主 司教 に よ っ て新 し く設 立 され た 学 園 の 古 典 語 お よ び文 学 の

13Kytzler ,Bernhard,Stiblins,Coropaedià,in:Jahrbuchfurinternationale Germanistik,Jahrg.16(1984),p.82‑93.

14Stiblin

,Kaspar,EuripidespoetatragicorumprincepsinLatinurnsermonem conversusadiectoeregionetextuGraeco,cumannotationibuset

praefationibusinomneseiustragoedias,Base1,1562.

15Jahn

,ibid.,p.XIX.

(6)

教 師 と な っ て ヴ ュ ル ツ ブ ル ク へ 移 住 し て い る 。 ヴ ュ ル ツ ブ ル ク で は1558年 に,領 主 司 教 メ ル ヒ オ ー ル ・フ ォ ン ・ツ ォ ー ベ ル(MelchiorvonZobel)が 政 敵 で あ る 貴 族 の ヴ ィ ル ヘ ル ム ・フ ォ ン ・グ ル ム バ ッ ハ(WilhelmvonGrum‑

bach)に よ っ て 暗 殺 さ れ る と い う事 件 が 起 き て い る 。 シ ュ テ ィ ブ リ ン は こ の xxグル ム バ ッ ハ の 抗 争"と し て 知 られ る 事 件 に 関 し て 領 主 司 教 を 哀 悼 す る2編 の 悲 歌 を 作 り,そ れ ぞ れ1561年 と1562年 に 出 版 し て い る が16,後 者 が シ ュ テ ィ ブ リ ン の 遺 作 と な っ た 。1563年 前 半 に は 彼 は 死 亡 し て い た と 言 わ れ て い る が,死 因 は 不 明 で あ る 。 こ の 頃 ヴ ュ ル ツ ブ ル ク で は ペ ス トが 狙 薇 を 極 め て お り,ま た63年 に は ヴ ュ ル ツ ブ ル ク の 街 が 前 述 の フ ォ ン ・グ ル ム バ ッ ハ に よ っ て 襲 撃 ・占 領 さ れ て い る こ と か ら17,こ の 擾 乱 あ る い は ペ ス トの い ず れ か が シ ュ テ ィ ブ リ ン の 死 と関 係 し て い た と推 測 さ れ 得 る 。 い ず れ に せ よ こ の 若 き 人 文 主 義 者 は 早 過 ぎ る 死 を 迎 え,そ の 著 作 は 殆 ど顧 み ら れ る こ と も な く ヨ ー ロ ッ パ の い く つ か の 図 書 館 に 眠 る こ と に な っ た 。1994年 に 『エ ウ ダ イ モ ン 国 見 聞 記 』の ド イ ツ 語 訳 を 出 版 し た イ ザ ベ ル ード ロ テ ア ・ヤ ー ン は,こ の 驚

くべ き学 問 的 空 白"18を 埋 め る べ く翻 訳 に 着 手 し た と 序 文 に 記 し て い る 。以 下 に お い て は ヤ ー ン に よ る ドイ ツ 語 版 に 依 拠 し て 『 見 聞 記 』 の 内 容 を 紹 介 し つ っ,そ の 特 徴 を 捉 え て み た い 。

16Stiblin,Kaspar,AdReverendissimumPrincipemFridericumHerbipolensem episcopum:SatyrainsicariosMelchiorisZobelii.CasparoStUblinoauctore.

ItemelegiaConradiDinneriAcroniani/gewidmetFriedrichv.Wirsberg, [Bibl.WolfenbUttel:Dillingen1562,SebaldMayer]);Stiblin,Kaspar,De caedeReverendissimiPrincipisetDominiMelchiorisZobeliicarmenher‑

oicumCaspariStueblini,etElegeiaConradiadJoannemAegolphuma Knoeringen/gewidmetFriedrichv.Wirsberg(Base1,1561.) 17Jahn ,ibid.,P.XXVI.

18Jahn ,ibid.,P,V.

(7)

反宗 教 改 革 時代 の ユ ー トピ ア

63

3.『 エ ウ ダ イ モ ン 国 見 聞 記 』 3‑1.航 海 の 始 ま り

『エ ウ ダ イ モ ン 国 見 聞 記(CommentariolusdeEudaemonensiumRepu‑

blica:KurzerBerichtUberdenStaatderEudaimonenser)』 は,マ ス ミ ュ ン ス タ ー の 修 道 院 長 で シ ュ テ ィ ブ リ ン の 学 友 で も あ っ た ヤ ー コ プ ・ブ レ ン ツ (JakobBrenz)に 対 す る 献 辞 で 始 ま っ て い る 。 こ の1553年8月12日 付 の 献 辞 は,友 人 に 長 期 の 音 信 不 通 を詫 び つ つ マ カ リ ア 島 へ 旅 し て い た こ と を 報 告 し,自 分 が 見 聞 き し た 幸 福 な 国 に つ い て の 記 録 を 友 情 の 印 と し て 友 に 贈 る, と い う 物 語 の 枠 組 提 示 と も な っ て い る 。 『ユ ー ト ピ ア 』の 場 合 と違 い,著 者 自 身 が 理 想 郷 へ の 旅 行 を 行 っ た と い う 設 定 で あ る が,航 海 に よ っ て そ の 地 へ 導 か れ た と い う 点 で は 共 通 し て い る 。 シ ュ テ ィ ブ リ ン は 回 想 に よ る 見 聞 記 を 次 の よ う に 始 め て い る 。(以 降,本 文 中 の 頁 数 は ヤ ー ン に よ る ド イ ツ 語 版 中 の 頁 を 示 す 。)

この と こ ろ学 校 勤 め の厄 介 事 に飽 き飽 き して い た が,こ の秋 は ず っ と役 職 の 義 務 か ら解 放 さ れ る こ と に な っ た の で,息 抜 き の 目 的 と新 しい 分 野 に対 す る関 心 か ら ア リス トテ レ ス,プ ラ トン お よ び ク セ ノ フ ォ ン の都 市 を 眺 め て み た 。(中 略)こ れ ら の 都 市 国 家 の体 制 が か つ て は 比 類 な い 繁 栄 を 享 受 し て い た こ と を私 は以 前 か ら 聞 き知 っ て い た が,(中 略)そ の名 声 も事 実 そ れ 自体 に は遙 か に及 ば な い よ うだ 。 最 初 の 一 瞥 にお い て さ え既 に,こ れ らの 国 の 崇 高 な壮 麗 さ は か く も偉 大 で,諸 事 情 は か く も幸 福 で あ っ た 。 よ っ て 私 は これ らの 都 市 に 数 日留 ま る こ とに し た(p.5)。

読 者 は 恐 ら く16世 紀 の 人 物 で あ る シ ュ テ ィブ リ ンが ア ル ザ ス 地 方 の 小 都

市 にお い て ギ リシ ャ 古典 を観 賞 し,プ ラ トンや ア リス トテ レ ス に よ る理 想 的

都 市 国 家 像 を眺 め て い る,つ ま り省 察 して い る の だ と考 えつ つ この 旅 行 記 を

読 み 始 め るだ ろ う。 が,い つ の 間 にか 主 人 公 が 時 間 的 に も空 間 的 に も移 動 し

(8)

て か つ て ギ リシ ャの 哲 人 達 が 理 想 国家 と し て描 い た 共 同 体 に 身 を置 い て い る こ とに 気 づ か さ れ る。 と こ ろが そ れ もつ か の 間,シ ュ テ ィブ リ ン はや は り輝 か しい評 判 とな って い た マ カ リア 島 とそ の首 都 エ ウダ イ モ ン に心 惹 か れ,さ

らに太 洋 の東 方 を 目指 して 船 旅 を続 け る の で あ る。 船 は嵐 に見 舞 わ れ て 難 破 しか か るが 運 良 くマ カ リア 島 に漂 着 し,シ ュテ ィ ブ リ ン は14日 間 エ ウ ダ イ モ ン市 に滞 在 す る。 そ の 間人 々 に歓 待 され,彼 ら と意 見 を交 わ し,こ の 国 の 政 情 に つ い て学 ぶ 。 そ れ は 自 らが 住 む ドイ ツ の惨 状 と較 べ る と 「 幸 福 な 国 家 の 完 壁 な る模 範 」 の よ うな世 界 で あ っ た 。 シ ュ テ ィ ブ リ ン は ドイ ツ社 会 の 憂 う

マ カ リア 島 の 見 取 り図:著 者 自身 の ス ケ ッ チ と あ るが 、本 文 の 説 明 を 忠 実 に反 映 し

て い る わ け で は な い 。

(9)

反 宗 教 改革 時 代 の ユ ー トピア

65

べ き欠 点 と比 較 し な が ら,そ の名 も 爪幸 福"の エ ウ ダ イ モ ン に関 す る素描 を 始 め る。

3‑2.エ ウ ダ イ モ ンの トポ グ ラ フ ィー

マ カ リア島 は多 くの ユ ー トピ ア が そ うで あ る よ う に,大 海 に浮 か ぶ孤 島 で あ る。 そ の 形 状 は 円形,標 高 は高 く,風 向 に恵 まれ 気 候 は 温 暖 で,そ の極 め て肥 沃 な 土 地 はお よ そ人 間 が 必 要 とす る もの を 全 て 提 供 す る こ とが で き る。

首 都 で あ るエ ウ ダ イ モ ン は島 の 中央 に位 置 し,東 西 南 北 に4つ の門 を持 つ 環 状 の 防壁 に保 護 され て い る。 市 内 に は他 に も防壁 と同 心 円 を成 す 二 重 の 隔 壁 が あ り,水 を湛 えた 堀 が そ れ ぞ れ に平 行 し て張 り巡 ら さ れ て い る。 市 の 中 央 か ら街 路 が 放 射 線 状 に走 っ て お り,環 状 道 路 と交 差 し て い る。 市 内 の建 築 物 の豪 華 さ,壮 麗 さ は筆 舌 に尽 く し難 い ほ どで あ るが,中 で も最 も豪 奢 な の は 市 の 中央 の 高 台 に建 つ官 庁 舎 と教 育 機 関 の コ レギ ウム(collegium)で,そ れ は建 築 の 粋 を集 め た 王 宮 の よ う な建 物 で あ る(p.85)。 建 物 の 外 壁 ・内壁 に は 寓 話 や 歴 史 的 事 実 を題 材 と した 壁 画 や韻 文 が 多 く描 か れ,見 る者 が そ こか ら 教 訓 を学 び,高 い 志 を持 つ よ う配 慮 され て い る 。

一 般 市 民 の住 居 用 建 築 も壮 麗 で ,万 一 の擾 乱 や 戦 争 に備 えた 兵 姑 学 的 見 知 か ら余 裕 の あ る空 間 配 置 が な され て い る。 エ ウ ダ イ モ ン の 周 囲 に は豊 か な葡 萄 畑 が 広 が っ て お り,お そ よ果 樹 に は恵 ま れ て い る。 防 壁 の 門 を 出 て か ら は 一 日 の行 程 で 海 岸 に達 す るが ,エ ウ ダ イ モ ン以 外 の都 市 に関 す る言 及 は な く, エ ウ ダ イ モ ン は マ カ リア 島 唯 一 の都 市 国 家 で あ る。

3‑3.国 家 の 倫 理 的 ・宗 教 的 理 念

エ ウ ダ イ モ ンの 住 民 は,か つ て野 山 で 原 始 的 な 生 活 を 営 ん で い た 自分 た ち

が 共 同体 と して 集 ま り,現 在 の よ うな洗 練 さ れ た 生 活 形 態 に至 った の は偶 然

で は な くて 神 の意 志 に よ る もの で あ る と信 じて い る。 よ っ て,人 体 に お い て

は多 くの 部 位 が集 ま っ て一 つ の 身 体 を成 し,そ れ ぞ れ の部 位 が 統 一 体 で あ る

身 体 の健 康 維 持 を 目的 と して 機 能 し て い る よ う に19,共 同体 に お い て は全 体

(10)

の繁 栄 と安 寧 こ そが 住 民 皆 の最 大 の 関 心 事 で あ る と彼 ら は考 え て い る。 神 は この 共 同体 を喜 び,絶 滅 か らそ れ を護 っ て い るが,共 同体 の 規 則 を犯 す 者, 国家 に反 し不 正 を犯 す者 が あれ ば重 い 罰 が 下 さ れ る。

また,人 間 は神 の似 姿 で あ り20,そ の こ とが 人 間 に と って の"自 然"で あ る か ら,徳 の 完 壁 な手 本 で あ る神 の 次 元 に近 づ くよ う努 め な い 者 は 自 らの 自然 に反 して い る の で あ り,不 道 徳 に よ って 神 聖 な もの で あ るべ き 自分 を汚 す こ

と はエ ウ ダ イ モ ン人 に と って 最 大 の 悪 で あ る 。 エ ウ ダ イ モ ン人 の考 え る幸 福 と は正 義,貞 節,敬 度 さ とい っ た徳 を保 持 し,恥 ず べ き こ とを遠 ざ け る こ と に あ り,生 活 習 慣 の総 て が こ の 目 的 に適 う よ う営 まれ て い る(p.1!)。

3‑4.政 治 形 態

お よ そ ユ ー トピ アが 真 に理 想 郷 的 で あ る か ど うか は そ の 政 治 的状 況 に大 き く左 右 さ れ る はず で あ るが,ユ ー トピ ア で は 民 衆 は決 定 権 を持 た ず,政 治 的 エ リー トの み が 決 定 権 を持 つ 場 合 が 多 い。 エ ウダ イ モ ン も例 外 で はな く,そ の政 治体 制 は 元 老 院(senatus)が 治 め る貴 族 共 和 制 で あ る。 元 老 院 議 員 は大 変 な名 誉 を伴 う職 務 で,新 議 員 は 学 識,聡 明 さ,高 潔 さ にお い て秀 で た 男 性 た ち の 中 か ら現 元 老 院 議 員 に よっ て 選 ば れ る。 政 府 は元 老 院 と行 政 府(magis‑

tratus)と か ら成 り,行 政 府 の 官 吏 もま た貴 族 の グル ー プ で あ るオ プ テ ィ マ テ ィス(optimaties)21に よ っ て選 ばれ 任 命 さ れ る。 これ ら の指 導 者 た ち は立 法,司 法,国 防,社 会 福 祉,道 徳 の保 護,学 問 の 育 成,交 易 等 に責 任 を持 ち,法 案 は元 老 院 で の 決 定 後 に民 衆 に 告 示 され て民 衆 の合 意 を得 る こ と に な っ て い

る(p.49)。 しか しか くも人 々 の尊 敬 と信 望 を 集 め る元 老 院 の決 定 は神 の言 葉 に も等 し く(p.19),民 衆 が 法 案 を拒 否 す る 可 能 性 は皆 無 に等 しい 。 行 政 府 の 責 任 も大 き く,人 々 は国 家 に お け る行 政 府 の 役 割 を,身 体 に とっ て の 眼,ま

19プ ラ ト ン 『国 家 』462c‑dに 同 様 の 比 喩 が 使 わ れ て い る 。 20プ ラ ト ン 『国 家 』501bに 同様 の 記 述 が 見 られ る。

2い オ プ テ ィマ テ ィ ス"に 関 す る シ ュ テ ィ ブ リ ン の詳 細 な 説 明 は な い 。

(11)

反 宗 教 改革 時 代 の ユー トピァ

67

た 天 空 に お け る太 陽 の そ れ に等 しい と見 な し て い るか の よ うで あ る(p.21)。

しか し同 時 に指 導 者 が 舵 取 りを誤 っ た場 合 に 国家 を待 ち受 け る悲 劇 に つ い て も十 分 に意 識 され て お り,そ の運 命 は 「 岩 礁 に乗 り上 げ た船 」 や 「 谷 に 落 ち 行 く馬 車 」な ど の モ チ ー フ を使 った 壁 画 と して 官 庁 舎 に描 か れ22,そ れ らの 壁 画 は何 らか の過 失 に よ っ て正 義 と真 理 の 道 を踏 み外 す こ とが な い よ う指 導 者 た ち に警 告 を与 えて い る(p.23)。民 衆 は政 府 の 組 織 に無 関 係 で あ る とは言 え, エ ウ ダ イ モ ン人 は 生 まれ つ き賢 明 さ を 具 えて い る よ う に見 え,国 家 に対 して

は常 に才 能 と忠 誠 と献 身 と を捧 げ る とい う心 構 え で 暮 ら して い る(p.19)。

3‑5.身 分 制 度

この見 聞 記 に お い て 恐 ら く最 も興 味 深 い 事 象 の一 つ が 身 分 制 度 で あ ろ う。

例 え ぼ シ ュ テ ィ ブ リ ン は,「身 体 に も様 々 な 部 位 が あ る よ うに人 々 に も多様 な 違 い が あ る」と し,「 洞 察 が 得 られ る者 と得 られ な い 者 」 とい う能 力 の違 い を 例 に,平 民(plebeia)と 貴 族(patricia)と い う二 つ の 階 級 の存 在 を説 明 す る (p.15)。 さ ら に,個 人 の名 誉 と名 声 は国 に対 す る そ の個 人 の 貢 献 度 と賢 明 さ, 高 潔 さが 決 め る と し,個 人 の能 力 に よ っ て 所 属 階 級 が 決 ま る と して い る 。 ま た,低 い 出 自か ら 自 らの 徳 の 高 さ に よ っ て 指 導 者 の地 位 に就 く者 が 最 も尊 敬 さ れ て い る とい う。 一 部 で 祖 先 の 偉 業 に よ って 代 々名 望 を保 つ名 家 の存 在 も 認 め られ て はい る が,彼 ら もそ の 家 名 に見 合 うだ け の 資 質 を証 明 し な くて は な ら な い の で(p.17),エ ウ ダ イ モ ン の社 会 は ど う や ら能 力 主 義 的 平 等 主 義 社 会 とで も呼 べ そ う で あ る。 しか も人 々 は他 人 を見 下 した り嫉 妬 した り,ま た 高慢 に な っ た りす る こ とな く,円 満 に暮 ら して い る と言 わ れ る。

他 方,一 度 地 位 と名 誉 の階 級 が 決 ま る と名 誉 の軽 視 や 中 傷,理 由 の な い不 遜 は極 め て恥 ず べ き こ と とさ れ,社 会 秩 序 の安 定 が 強 く求 め られ て い る。 ま た能 力 とは 国 家 に対 す る貢 献 度 や 有 用 性 とほ ぼ 等 し く,能 力 主 義 の 裏 に は テ

22両 方 と もプ ラ ト ンの 作 品 に 見 られ る 国 の 舵 取 りの 比 喩 で あ る。 『国家 』488,『 ポ

リテ ィ コ ス 』266e。

(12)

ク ノ ク ラ シー 的 な全 体 主 義 的 側 面 も覗 い て見 えた りす る。 しか も国 に奉 仕 し た者,戦 争 で 武 功 を立 て た 者 に は 幸福 な年 金 生 活 が 待 っ て い る(p.79)。

この よ うな 身 分 制 度 との 際 だ っ た対 称 に お い て 語 られ るの が ドイ ツの 現 状 で あ る。シ ュ テ ィ ブ リン に よ る と,そ こで は土 地 も職 務 も金 持 ち に分 配 され, 下 位 の 者 は どん な に優 秀 で も名 誉 あ る地 位 に授 か る可 能 性 が な い。 司 法 や 行 政 の場 で 指 導 的 な地 位 を 占 め て い る の は経 験 も知 恵 も持 ち 合 わ せ ぬ俗 物 や 破 廉 恥 漢 で あ る(p.25)。 エ ウダ イ モ ン人 た ち を驚 か せ な が ら シ ュ テ ィブ リンが 語 る ドイ ツ の現 状 は,こ の よ う に対 立 像 と して頻 繁 に 『 見 聞 記 』に登 場 す る。

3‑6.反 民 主 主 義 と家 父 長 主 義

実 は エ ウ ダ イ モ ン の政 治体 制 は極 め て 反 民 主 主 義 的,ま た そ の社 会 は明 ら か に家 父 長 主 義 的 で あ る。 指 導 者 た ち の 考 え に よ る と,民 衆 は情 動 と欲 望 に 突 き動 か され るの で 適 切 に物 事 の判 断 を下 す こ とが で き ず,学 識 に富 み 志 操 堅 固 な 男 性 た ち に よっ て 治 め られ る 国 家 の み が み安 定 し て 堅 固 な の で あ る (p.19)。国家 の 基 盤 を危 う くす る叛 乱 は未 然 に防 止 され ね ば な らず,集 会 は個 人 的 な も の で あ って も禁 止 され て お り,反 国家 的 行 為 は死 刑 を以 て罰 せ られ

る(P.49)。

一 方 ,指 導 者 た ち は ほ とん ど神 的 な領 域 に達 す る ま で に 自 らの徳 を高 め よ う と努 力 し(p.27),プ ラ トン に よ る哲 人 統 治 の 思 想23が エ ウ ダ イ モ ン人 の 間 に も広 く浸 透 して い る。 した が っ て哲 学 は国 家 統 治 に関 す る知 識 の泉,総 て の 倫 理 的 規 範 の源 で あ る と され(p.37),子 供 た ち は幼 少 の 頃 か ら これ を学 ぶ 。 因 み に 指 導 者 た ち は言 うに 及 ぼず,教 師 も総 て男 性 で あ る と され,コ レギ ウ ム で の教 育 も特 に性 に関 す る言 及 は な い が,目 的 が エ リー トの 養 成 で あ る こ とを考 えれ ぼ女 性 の 教 育 は 念 頭 に置 か れ て い な い こ とは 明 らか で あ る。 ほ ぼ 男 女 同権 で あ り,女 性 の 司祭 も存 在 し得 るモ ア の ユ ー トピ ア 国 とは こ こで 明

らか な 違 い を見 せ て い る 。

23プ ラ ト ン 『国 家 』473d‑e

(13)

反 宗 教 改革 時 代 の ユ ー トピァ

69

3‑7.教 育 と芸 術

エ ウダ イ モ ン人 に とっ て は国 の宝,国 家 の 柱 と も言 うべ き もの が 二 つ あ り, 一 つ は人 々 の弁 舌 能 力 ,そ し て学 問 的 修 業 で あ る。 彼 らは 教 育 とそ の機 関 で あ る コ レ ギ ウ ム の た め に は支 出 を惜 し ま な い。 コ レ!ギウ ム に は ギ リシ ャ ・ラ テ ン文 学 に通 暁 した 最 高 の 男 性 教 師 陣 が 集 め られ,子 供 た ち は まず 二 つ の 古 典 語 の 学 習 か ら始 ま っ て 哲 学,修 辞 学,算 数,幾 何 学,天 文 学 を学 ぶ 。 ま た 芸 術 科 目 と して は詩 学 と音 楽 が 教 え られ,さ ら に神 学,医 学,法 学 が 言 わ ぼ 発 展 的 科 目 と して 教 授 さ れ る。 科 目 に 関 し て は 中 世 に お け る ヨー ロ ッパ の学 問 的伝 統 と違 い は な い が,エ ウ ダ イ モ ン に お け る教 育 の特 徴 は,学 問 的 能 力 と して雄 弁 さ,っ ま り言 語 運 用 能 力 を最 も重 要 視 して い る点 で あ る。シ ュ テ ィ ブ リ ンの 説 明 に よ る と,人 間 は そ の最 も高 貴 な部 分 で あ る理 性 と言 語 能 力 を 以 て の み 動 物 か ら分 か た れ る の で あ り,人 間 が この 天 賦 の 特 性 を磨 い て 正 し く活 用 し な け れ ぼ再 び無 知 蒙 昧 の状 態 に陥 っ て し ま う。 また 言 語 使 用 が 思 考 や 行 為 の 総 て を規 定 す る の で あ る か ら,義 務 の遂 行 や 行 動 にお い て優 秀 で あ ろ う とす れ ば 自ず と言 語 能 力 に秀 で て い な け れ ば な らな い 。 この よ うな ア リ ス トテ レス 的,ス コ ラ哲 学 的 考 え に よ って,コ レギ ウ ム で は最 初 の学 年 か ら プ ラ トン,プ ル タ ル コ ス,ア リス トテ レ ス とい った 思 想 家 の 作 品 が 教 材 と し て 与 え られ る。 しか し教 育 の 目的 は純 粋 な学 問 の 深 化 よ り も公 民 と して の政 治 的能 力 の 育 成 に あ り24,学 年 を追 う ご と に哲 学 よ り修 辞 学 の 重 要 度 が 増 し て キ ケ ロ,デ モ ス テ ネ ス,ク イ ン テ ィ リア ヌ ス らの 修 辞 家 を模 範 と した 弁 論 や 討 論 の 訓 練 が施 さ れ る よ う に な る 。シ ュ テ ィブ リ ン の観 察 に よ る と,、彼 ら は この よ う に して 公 僕 と して の職 務 に 向 け て準 備 す る。 そ うす れ ば彼 ら の余 暇 が過 度 に学 問 に捧 げ られ て そ の魂 が 軟 化 した り男 性 ら し さ を失 っ た りす る

とい っ た こ と は起 こ らな い の で あ る(p.37)"。

また,彼 らの 芸 術 教 育 に も合 目 的性 が あ り,楽 興 の時 に は魂 の力 と精 神 を

24コ レ ギ ウ ム は 国 家 的 義 務 の 遂 行 に 適 し た 人 材 を 輩 出 す る た め の 工 房 で あ る と さ

れ る(p.45)。

(14)

鼓 舞 す る旋 律 や 歌 の み が 選 ぼ れ る。 音 楽 は華 美 で あ る必 要 は な く,楽 器 の 改 善 とい っ た 音 楽 の刷 新 は許 容 さ れ な い ぼ か りか25罰 を受 け る 可 能 性 さ え あ る。 そ れ で もエ ウ ダ イ モ ン人 は殆 ど皆 が ミュー ズ の神 と親 しい 関 係 に あ り, 異 邦 人 の シ ュ テ ィブ リン を そ の 点 に お け る 自分 た ち の 同 類 と見 て 厚 遇 す るの で あ る(P.9)。

3‑8.宗 教 ・神 学 ・教 会

敬 神 は エ ウ ダ イ モ ン人 に と って あ らゆ る 目的 の頂 点 で あ る。 そ し て エ ウ ダ イ モ ン に は宗 教 ・教 会 ・神 学 に関 す る意 見 の相 違 は存 在 しな い(p.71)。 そ こ に あ るの は カ トリ ッ ク の 信 仰 に裏 打 ち さ れ た 極 め て 均 質 的 な 宗 教 社 会 で あ る。まず コ レ ギ ウム に は学 校 の 宝 と も言 うべ き3人 の神 学 者 が お り,ギ リ シ ャ 語,ラ テ ン語,ヘ ブ ライ 語 の知 識 を駆 使 して 原 典 に 忠 実 に聖 書 の 解 釈 を行 っ て い る。 彼 ら は見 解 の 多 様 性 に よ っ て この 宗 教 の真 摯 さが 損 な わ れ る の を許 容 し な い(p.43)。 また 教 会 の神 父 た ち は キ リス トの 真 似 び に倣 って 生 活 し,

あ ら ゆ る堕 落 とは無 縁 で あ る。 彼 らは信 者 た ちが 敬 神 を疎 か に し な い よ う常 に気 を配 り,彼 らの 信 仰 心 の番 人 の役 割 を果 た して い る(p.73)。 ま た,宗 教 の 問 題 に判 断 を下 す こ とは平 信 徒 に は許 され ず,教 会 の 方 針 に反 す る こ と を 口 にす る者,神 を 冒 涜 す る者 は公 序 良 俗 の 破 壊 者 と して 舌 を抜 か れ るか26国 家 追 放,場 合 に よ っ て は死 刑 の罰 を受 け る27。 一 人 の 罪 が 町 全 体 を不 浄 に す る の で,神 の 罰 が 下 る前 に涜 神 の 罪 人 は追 放 され ね ぼ な ら な い か らで あ る(p.

61)。 しか し そ の よ う な例 は 希 で あ り,大 抵 のエ ウ ダ イ モ ン人 は熱 心 な指 導 者 た ち に導 か れ,偽 善 も カ トリ ッ ク の教 義 か ら の逸 脱 も知 らず,純 粋 で真 摯 か

25プ ラ トン 『国 家 』(405A) 。

26こ れ は16世 紀 当 時 実 際 に 行 わ れ た 刑 罰 で ,フ ライ ブル ク には1537年 に この 刑 の 記 録 が 存 在 す る 。が,普 通 は共 同 体 か ら の 追 放 とい う罰 が 適 用 さ れ た 。 『 見 聞 記 』

に 登 場 す る 刑 罰 は,16世 紀 に お け る ドイ ツ の 刑 法 の 実 状 に 合 致 し て い る 。Jahn, ibid.,p.102.

2716世 紀 の刑 法 で は この よ う な 罪 の 罰 は 死 刑 で あ っ た 。 特 に ア ル ザ ス,ス トラ ス

ブ ー ル で の 罰 は 厳 しか っ た 。Jahn,ibid.,P.105.

(15)

反 宗 教 改革 時 代 の ユ ー トピア

7ヱ

っ誠 実 な生 活 を送 っ て い る(p.71)。

一 方 で シ ュ テ ィ ブ リ ンが 住 む世 界 で は聖 職 者 た ちが 堕 落 し ,平 信 徒 が 勝 手 な 口 を聞 き,教 義 に関 す る論 争 が絶 え な い。 エ ウ ダ イ モ ン人 た ち は そ れ を聞 い て驚 き,神 の 教 え は誰 に とっ て も明 らか で あ るの に な ぜ 多 くの宗 派 や 混 乱 が あ るの だ ろ う と詩 しが る。それ に対 し シ ュ テ ィブ リン は,「聖 職 者 た ち は私 服 を肥 や す の に忙 し く,秩 序 の維 持 に は無 関 心 で あ る。 また ど ん な ろ くで な しで も宗 教 に 関 して 決 定 を下 す 自 由 が あ り,公 会 議 の決 定 や 権 威 に 関 心 を向 け る者 な どほ とん ど い な い と」 と言 っ て 嘆 くの で あ る(p.75)。

3‑9.市 民 生 活 と刑 罰

中庸 を守 っ た暮 ら しに よ り健 康 で長 寿 を全 うす る とさ れ て い る エ ウ ダ イ モ ン人 で あ るが(p.53),彼 らの 日常 生 活 につ い て は断 片 的 な 描 写 が あ るの み で あ る。 例 え ぼ私 有 財 産 は認 め られ て い るが 富 の蓄 積 に心 を砕 く者 は非 難 を受 け る(p.11)。 コ レギ ウ ム に 寮 は な く,子 供 た ち は家 庭 で作 法 や 道 徳 を教 え ら れ る。 生 活 は質 素 で,衣 服 は そ れ ぞ れ の 役 割(元 老,貴 族,平 民,母 親,未 婚 女 性 等)に よ っ て 定 め られ て い る(p.67)28。 外 界 か らの 悪 影 響 を 防 ぐた め

に貿 易 が 制 限 さ れ,旅 行 も禁 止 さ れ て い る の で人 々 が 遠 き を思 っ て無 価 値 な もの に焦 が れ る こ とは な い(p.65)。 人 々 は持 て る物 に満 足 して 暮 らす の で, 経 済 活 動 も必 要 最 小 限 に 限 られ,穀 物 の 値 段 も規 定 さ れ て い る(p.75)29。 そ

もそ も浪 費 や 贅 沢 が 大 罪 と され,国 家 の 転 覆 も浪 費 か ら発 す る とさ れ る ほ ど30共 同 体 に とっ て の 大 き な脅 威 と考 え られ て い る(p.49)。 そ の他 罰 を受 け る の は姦 通 す る者,暴 飲 す る者,不 信 心 者,卑 狼 な発 言 を す る者,守 銭 奴,

28当 時 の 社 会 で は 衣 服 の 規 則 違 反 に は罰 金 が 課 せ ら れ た が ,違 反 も多 く行 わ れ てい た 。Jahn,ibid.,P.105.

29こ れ は 古 典 語 学 者 た ち の 経 済 問 題 に対 す る無 理 解 か ら来 る 設 定 で は な く ,16世 紀 普 通 に行 わ れ て い た 当 局 に よ る穀 物 の価 格 統 制 を意 味 し て い る 。Jahn,ibid.,p.

105.

30プ ラ トン の 『国 家 』 に お い て も,「 贅 沢」 が領 土 の必要 性 か ら国家 が戦 争 へ突 入

す る 時 の原 因 と さ れ て い る 。 『国 家 』372e‑373.

(16)

浪 費 家,学 業 を厭 う者 な どで,「 エ ウ ダ イ モ ンは そ の よ うな人 間 の屑 を許 容 せ ず,有 害 なペ ス トの ご と く国 家 か ら追 放 す る(p.25)。 」 また 盗 賊 は絞 首 刑31, 殺 人,誹 諦 中傷,放 火 な ど も重 罪 で,国 外 追 放 か 死 刑 を宣 告 され る(p.75)。

が,エ ウ ダ イ モ ン の お け る最 大 の 罪 は国 家 転 覆 罪 で あ る。 そ もそ も刷 新 や 改 革 的 試 み も厳 し く罰 せ られ る。 革 新 は内 面 的不 安 の根 源 で あ り,変 化 に対 す る欲 望 が 何 ら良 い こ と を もた らさ な い こ と をエ ウ ダ イ モ ン人 た ち は歴 史 か ら学 ん で い る の で,彼 ら は前 例 や 伝 統 に従 っ て生 き る こ と を好 む。 公 益 に適 う こ とが 証 明 さ れ な い 限 り変 化 を求 め る試 み は厳 し く罰 せ られ る(p.47)。 ま た,子 供 た ち を 父 親 の子 供 時 代 と同様 の 方 法 で育 て る こ と に同 意 で きな い者

は市 民 権 を奪 わ れ る(p.65)。

「どれ 程 エ ウ ダ イ モ ン人 は我 々 よ り幸 せ な こ とだ ろ う?」 とシ ュ テ ィ ブ リン は 自 らの 住 む世 界 を省 み て 嘆 く。 ドイ ツで は天 地 を逆 に す る こ とさ え許 され る。 次 々 と破 壊 と変 革 が 繰 り返 さ れ るの で,法 律 も指 導 者 も権 威 を失 い 悪 徳 が 蔓 延 って い る(p.47)。 また 放 増 と外 国 か ぶ れ が 手 に手 を取 っ て横 行 し,伝 統 的 な 知 識 や 技 能 を見 下 す の で,ド イ ツ固 有 の秩 序 や 規 律 は失 わ れ て い くぼ か りで あ る(p.67)。 一 方 エ ウ ダ イ モ ンで はか つ て の スパ ル タ の よ うな規 律 が 生 きて い る の で,放 堺 も怠惰 も許 さ れ な い。 休 日で も人 々 は何 らか の競 技 会 を催 して 向 上 の た め の努 力 を奨 励 して い る(pユ7)。 ま た エ ウ ダ イ モ ン人 は 自 分 の 身 の 回 りの風 紀 や 作 法 の 乱 れ を 少 しで も見 逃 さず,互 い に行 動 を修 正 し 合 うか 行 政 官 の 指 導 に委 ね る。 そ の こ とに よっ て 悪 を芽 の う ちか ら摘 む こ と に成 功 して い る の で あ る(p.21)。 自分 た ち の世 界 に この よ う な社 会 の修 正 機 能 が あ れ ば どれ だ け よ か っ た か,し か し今 とな って は手 遅 れ で あ る,と シ ュ

テ ィブ リン は嘆 い て い る(p.63)。

3‑10.国 防

「 平 和 は 幸 福 の母 ,国 家 の花,戦 争 は あ らゆ る不 幸 が 大 海 とな っ て押 し寄 せ

31当 時 絞 首 刑 は 断 頭 台 に よ る 死 刑 よ り 重 い 刑 で あ っ た

。Jahn,ibid.,p.105.

(17)

反 宗教 改 革 時代 のユ ー トピア 四 る の に似 て い る(p.79)」 が,必 要 とあ らば エ ウ ダ イ モ ン人 は兵 士 とな り皆 が 祖 国 の た め に喜 ん で 死 ぬ準 備 が あ る。 国 家 は防 壁 と要 塞 に よっ て 厚 く保 護 さ れ,防 衛 体 制 も万 全 で あ る。 武 装 準 備 も申 し分 な い の で 戦 争 は い つ も勝 利 に 終 わ る。 しか し何 よ り もエ ウ ダ イ モ ン人 は 神 の 加 護 を信 じ て い るの で あ り, 神 に祈 る こ とが 何 よ り も先 決 と され る(p.81)。

4.ル ネ サ ン ス 期 の 人 文 主 義 的 ユ ー トピ ァ

以 上 の よ う な こ と を見 聞 き した 後,シ ュ テ ィ ブ リ ン は再 び太 洋 を渡 っ て帰 国 す る の で あ るが,現 代 の 読 者 が こ の見 聞記 を読 め ば 恐 ら く果 た して これ が ユ ー トピ ア だ ろ う か と 自問 す る こ とだ ろ う。 読 後 の 印 象 とし て残 る の は,エ ウ ダ イ モ ンの 集 団 主 義 的 ・ 全 体 主 義 的勤 勉 さ,宗 教 的 非 寛 容,刑 罰 の厳 し さ, 禁 欲 的 な暮 ら しで あ り,生 活 の豊 か さや 快 適 さで は な か ろ うか らで あ る。『 エ ウ ダ イ モ ン国 見 聞 記 』 の 発 見 者 と も言 うべ き フ ィル ポ は,シ ュ テ ィ ブ リ ンの 理 想 国 家 論 を 「 宗 教 的幻 想 で あ る。 加 え て そ の 貴 族 主 義 的 ・スパ ル タ的 生 活 規 律 の 経 済 的観 点 は初 歩 的 で,独 創 性 と批 判 的 ・社 会 的 モ デル と して の大 胆 さ に 欠 け る」32と手 厳 し く評 し て い る。 しか しな が ら,フ ィル ポ の観 点 か ら見 る シ ュ テ ィブ リ ン は や は り正 統 な ユ ー トピス トな の で あ る。

あ る架 空 の社 会 を ユ ー トピ ア と呼 び 得 る か ど うか を判 断 す る た め の"ユ ー トピア の 定 義"は これ まで 多 く試 み られ て お り,ど れ も似 か よ って は い るが, 例 え ぼヤ ー ン は序 文 の 中 で デ ィル ク ・オ ッ トー に よ る定 義 を紹 介 し,エ ウ ダ イ モ ンが ユ ー トピ ア と して の 条 件 に十 分 に合 致 し て い る と説 い て い る。 オ ッ トー に よ る ユ ー トピ ア の 条 件 は,1.フ ィ ク シ ョ ン で あ る こ と/2.実 現 可 能 性 が な い こ と/3.理 性 的 な構 築 物 で あ る こ と/4.理 想 的 な共 同 体 で あ る こ と/5.現 実 批 判 と して 構 想 され て い る こ と/6。 地 理 的 ・時 間 的 な遠

32Seibt ,Ferdinant,Utopica:ModelletotalerSozialplanung,Dttsseldorf,1972,p.

105.

(18)

隔 性 が あ る こ と,と い う6項 目で あ る が33,実 は エ ウ ダ イ モ ン は特 にル ネ サ ン ス期 の ユ ー トピア とし て の特 徴 を もほ とん ど総 て 具 え て い るの で あ る。

ル ネ サ ン ス期 の 人 文 主 義 者 た ち の特 徴 とし て挙 げ られ る の は,例 え ば ギ リ シ ャ ・ロ ー マ 時 代 へ の 回 帰 願 望,自 然 に対 す る宥 和 的 な 姿 勢,理 性 へ の 信 頼, 文 献 学 の 重 視,エ ラ ス ム ス に代 表 され る福 音 主 義 な どで あ るが,J.プ リ ュス が エ ウ ダ イ モ ン を 「プ ラ トン以 来 最 も学 問 を重 視 した 」34理想 国 家 と呼 ん だ よ う に,古 典 主 義 的 な悟 性 主 義,神 と 自然 と理 性 の 言 わ ぼ三 位 一 体 的 な 関 係 付 け, 福 音 に対 す る原 典 主 義 な ど,そ の ル ネ サ ンス 的 な特 微 は際 立 っ て い る。また, ジ ャ ン ・セ ル ヴ ィエ の 整 理 法 に従 っ て ル ネ サ ン ス期 の ユ ー トピア の性 格 を考 察 す る とす れ ば,例 え ば正 義 の 法 の確 立(共 同 体 にお け る制 約 の 存 在 を明 確 にす る こ と),個 人 の共 同体 へ の適 合(自 分 が 所 属 す る共 同体 の 理 念 を理 想 と し,自 分 が そ の 理 想 に と っ て有 益 で あ ろ う とす る こ と),明 確 な 政 治 機 構 の 存 在(支 配 者 と非 支 配 者 との 間 に平 等 と和 解 を暗 示 し,階 級 闘争 の 問 題 を解 決 す る こ と),外 界 か ら隔 離 され た 安 全 な 世 界 で あ る こ と,等 を そ の 特 徴 と して 挙 げ る こ とが で き る。どれ もエ ウ ダ イ モ ン に 備 わ っ て い る特 徴 で あ る。「こ う して 千 年 王 国 運 動 と深 刻 な宗 教 的 危 機 が 最 高 潮 に達 す る に も拘 わ らず,ル ネ サ ン ス は,都 市 計 画 へ,プ ラ トン的 都 市 とい う昔 な が ら の テ ー マ へ と回帰 す るの で あ る。 」35とセ ル ヴ ィエ は言 う。 しか し古典 的 な理 想 都 市 国家 へ の 回 帰 と,過 激 な改 革 運 動 お よび 宗 教 的対 立 は,た だ平 行 して存 在 す る の で は な い。

旧 教 徒 に と って の ユ ー トピ ア で あ る とい うエ ウ ダ イ モ ン固 有 の 特 徴 と 「当 時 の 社 会 的 状 況 とユ ー トピア 構 想 の 間 に は どの よ う な連 関 が あ る か」36とい う

330tto

,Dirk,DasutopischeStaatsmodellvonPlatonsPoliteiaausderSicht vonOrwellsNineteenEighty‑Four,Berlin,1994,pユ44ff.

34PrYs

,Joseph,DerStaatsromandes16.und17.JahrhundertsundseinErzie‑

hungsidea1,WUrzburg,1913,p.77.

35ジ ャ ン ・セ ル ヴ ィ エ 『ユ ー ト ピ ア の 歴 史 』朝 倉 剛 ・篠 田 浩 一 郎 訳

,筑 摩 書 房,1972, p.125.

36Vogler

,GUnter,VonEberlinzuStiblinus.‑UtopischesDenkenzwischen 1521undl555,in:SiegfriedHoyer(Hrg.),Reform,Reformation,Revolution, Leipzig,1980,p.144.

(19)

反 宗 教 改革 時 代 の ユ ー トピア

75

ギ ュ ン タ ー ・フ ォ ー グ ラー の も っ と もな 問題 設 定 に踏 み 込 ん で考 えて み る と, む し ろ騒 擾 と深 刻 な 宗 教 的 危 機 ゆ え に シ ュ テ ィ ブ リ ン の プ ラ トン 的 回 帰 が あ っ た,と 言 うべ き な の で あ る。

5.反 宗 教 改 革 時 代 の ユ ー ト ピァ

カ スパ ー ル ・シ ュ テ ィブ リ ンが生 まれ た の は1526年 で あ る。 そ の前 年 に農 民 戦 争 は敗 北 に よ って そ の最 も激 烈 な 時 期 を終 了 して い る が,彼 が 生 まれ た ア ル ゴ イ 地 方 と学 生 生 活 を送 った フ ラ イ ブル ク近 辺,ま た 『 見 聞 記 』 を書 い た シ ュ レ ッ トシ ュ タ ッ トは,そ れ ぞ れ個 別 の 農 民 一 揆 で あ るブ ン トシ ュ ー 一 揆 が 起 こ った 土 地 で もあ っ た 。 キ ッツ ラ ー の言 う よ う に シ ュテ ィ ブ リ ンが 農 民 戦 争 の余 韻 の 中 で 成 長 した とす れ ば37,新 教 派 の 改 革 の 熱 狂 が 千 年 王 国 運 動 な ど別 の 形 態 を取 り,1534年 に は ミ ュ ン ス タ ー にお け る再 洗 礼 派 の擾 乱 が 起 き て い る こ とに着 目 し な けれ ぼ な らな い 。 ま た諸 侯 同 志 の 反 目 に 目 を 向 け れ ば1545年 か ら1547年 に か けて 新 教 派 討 伐 の た め の シ ュ マ ル カル デ ン戦 争 が 起 き て い る。 この よ う な少 年期 の雰 囲 気 の 中 で,貧 し い家 庭 出 身 で学 業 に 秀 で た シ ュテ ィ ブ リ ンが 自 己 実 現 の可 能 性 と して キ ッ ツ ラ ー の 言 う 「 学 者 た ち の ユ ー トピ ア(Gelehrtenutopie)」38を 夢 想 し た と し て も不 思 議 は な か ろ う。 しか も旧 教 徒 で 帝 国 派 の彼 は勤 務 先 の シ ュ レ ッ トシ ュ タ ッ トで もヴ ュル ツ ブ ル ク で も,カ トリ ッ ク の教 義 に沿 う教 育 実 践 の 要 請 を受 けて いた 。 そ し て 『 見 聞 記 』が 出 版 さ れ た 年 で あ る1555年 は,ア ウ ク ス ブ ル ク の 和 議 が成 立 した 年,つ ま り帝 国 の 宗 教 的 一 体 性 が 失 わ れ た 年 で あ り,換 言 す れ ば反 宗 教 改 革 が 本 格 的 に始 まっ た 年 で も あ る。

モ ア の友 人 エ ラ ス ム ス が 晩 年 を過 ご した 地 で あ るバ ー ゼ ル との 知 的 な結 び

37Kytzler

,Bernhard,StiblinsSeligland,in:LiterarischeUtopie‑EntwUrfe, HiltrudGnUg(Hrsg.),FrankfurtamMain,1982.p.98.

38Kytzler

,Stiblins,Coropaedià,P.83.

(20)

つ き か ら,シ ュ テ ィ ブ リ ン は 『ユ ー ト ピ ア 』 の 存 在 に よ っ て 創 作 の 刺 激 を 受 け た と 推 測 さ れ る が,理 念 的 に は モ ア の 影 響 は 少 な く39,ユ ー モ ア や 快 活 さ に も 乏 し い 。 し か し モ ア と の 比 較 に お い て 『見 聞 記 』 を 反 民 主 的 で 宗 教 的 に 非 寛 容 な ユ ー ト ピ ア と し て の み 同 定 す る 前 に,ド イ ツ に お け る"改 革 文 書 (Reformschrift)"の 系 譜 上 に お い て 『 見 聞 記 』 を 眺 め て み る 必 要 が あ ろ う 。

ド イ ツ に は 農 奴 解 放 運 動 の 時 代 か ら,有 志 が 社 会 改 革 案 を提 示 し た 改 革 文 書 を 配 布 す る 伝 統 が あ る 。 農 奴 解 放 を 要 求 し た15世 紀 半 ぼ の 「ズ ィ ギ ス ム ン トの 改 革(ReformatioSigismundi)」,貴 族 制 の 廃 止 を 説 い た 「上 ラ イ ン 地 方 の 革 命 家(DerOberrheinischeRevolutionar)」 な ど で あ る 。 ま た,ル タ ー 派 の 説 教 師,エ バ ー リ ン ・フ ォ ン ・ギ ュ ン ツ ブ ル ク(EberlinvonGUnzburg)

の 「ヴ ォ ル フ ァ リ ア(Wolfaria)」(1521)や 著 者 不 明 の 「キ リ ス ト教 徒 の 生 活 の 新 た な 変 化 に つ い て(VondernewenwandlungeinesChristlichen

Lebens)」(1526/27)な ど に は ユ ー ト ピ ア 的 要 素 が 多 く あ り,前 者 は モ ア の

『ユ ー ト ピ ア 』 の 影 響 下 で 書 か れ た と言 わ れ て い る40 。 カ ト リ ッ ク 教 会 批 判 や 職 能 に よ る 身 分 制 度 の 導 入 要 求 な ど,そ れ ぞ れ 説 く と こ ろ は 異 な る が,概 ね 共 通 し て い る 点 は,社 会 の 平 等 化,民 主 化 要 求 で あ る 。 階 級 闘 争 を 鼓 舞 す る こ れ ら の 改 革 文 書 の 要 求 は 『エ ウ ダ イ モ ン 国 見 聞 記 』 の そ れ と 較 べ る と か な り過 激 で あ っ た り す る 。 『見 聞 記 』に お い て シ ュ テ ィ ブ リ ン が 何 ら か の 階 級 差 を 設 定 し つ っ も 階 級 間 の 宥 和 策 を 提 供 し よ う と す る 姿 勢 や,礼 節 や 秩 序 に 対 し て 見 せ る 偏 向 は,カ ー ル ・マ ン ハ イ ム の 言 う ユ ー ト ピ ア 的 な 意 識 の 段 階 的 変 遷 と い う 時 間 軸41に お い て 捉 え て み る と納 得 の い く現 象 で あ る 。 マ ン ハ イ ム の 分 類 に 従 え ぼ,シ ュ テ ィ ブ リ ン の 『見 聞 記 』 に お け る ユ ー ト ピ ア 思 想 は, 千 年 王 国 論 の 後 に 訪 れ る 自 由 主 義 的 ・人 文 主 義 的 観 念 の 段 階 と,そ の 後 の 保 守 的 な 観 念 の 段 階 と の 聞 に 位 置 す る も の と し て 捉 え る こ と が で き る 。 そ こ に

39Kytzler

,StiblinsSeligland,p.93.

40Vogler

,ibid.,p.144.

41カ ー ル ・ マ ン ハ イ ム 『イ デ オ ロ ギ ー と ユ ー ト ピ ア 』 鈴 木 二 郎 訳

,未 来 社,1968, p.220ff。

(21)

反 宗 教改 革 時 代 の ユ ー トピア

77

描 か れ て い るの は,革 命 的 か つ 熱 狂 的 で は あ るが 矛 盾 を孕 ん だ 千 年 王 国 運 動 を経 て 現 れ る合 理 的 な ユ ー トピ ア で あ る。 現 世 にお け る何 か の 突 破 口 を確 保 す る た め と言 う よ りむ し ろ 「 邪 悪 」 な 現 実 に対 抗 す る 「 正 し い」 合 理 的 な反 対 像 の提 示 で あ り,具 体 的 な 出 来 事 を取 り扱 う場 合 の 「 基 準 」 の強 化,つ ま り「 規 整 」の 動 き に過 ぎ な い 。 と同時 に,現 実 の安 定 を 目指 す 心 的 エ ネ ル ギ ー か ら発 し なが ら も,下 層 ・中 間 層 が貴 族 階 級 な どの 旧体 制 側 に対 して 合 理 性 と倫 理 性 に よ っ て 意 識 的 に 自 らを正 当 化 し よ う とす る点 に お い て は 自由 主 義 的 ・解 放 的 な側 面 も併 せ 持 つ 。 が,そ の 改 革 意 識 が 自 らの 属 す る社 会 層 の 現 実 秩 序 を脅 か す新 興 勢 力 へ の 対 抗 意 識 に よ っ て 主 に方 向付 け られ,自 己 防 御 手 段 と して 役 立 っ 反 対 ユ ー トピ ア を生 み 出 させ て い る点 に お い て,エ ウダ イ モ ン は保 守 的 な観 念 の段 階 にお け るユ ー トピ ア の 典 型 で あ る と も言 え る の で あ る。

ま た,セ ル ヴ ィエ に倣 い,ユ ー トピア とは 「 補 償 的 な夢 の す べ て の誘 惑 に よ っ て飾 られ た,一 社 会 階 級 の 諸 々 の 渇 望 の表 現 で あ り,輝 く都 市 は,科 学 や 技 術 の 進 歩 が,こ れ ま で都 市 を苦 し めて きた諸 世 紀 の 災 禍,戦 争,飢 饅, 失 業 な い し は過 酷 な賦 役 か ら特 権 的人 間 を守 っ て くれ る,閉 ざ さ れ た 社 会 な の で あ る42」とす るな ら,シ ュ テ ィ ブ リ ンの ユ ー トピ ア は,農 民 戦 争 及 び 千 年 王 国 運 動 と反 宗 教 改 革 とい う二 種 の歴 史 的 出来 事 の 間 に 旧 教 徒 か つ 人 文 主 義 者 と して 教 育 を受 けた 下 層 階 級 出身 の 少 年 の,安 寧 と秩 序 を求 め る夢 で あ る と も言 え る。 同様 に夢 の表 現 で は あ って も文 学 作 品 と して の 形 式 を 持 た な い 千 年 王 国 論 的 観 念 段 階 の改 革 文 書 と は異 な り,シ ュ テ ィブ リン は完 成 され た 作 品 と して 『 見 聞 記 』 を提 示 し得 た 点 にお い て,や は り ドイ ツ最 初 の ユ ー ト ピ ス ト とい う名 誉 に値 す るの で あ ろ う し,ま た 『 見 聞 記 』 は,本 格 的 な反 宗 教 改 革 の 時 代 を迎 え よ う とす る ドイ ツの 一 社 会 階 級 の夢 で は あ る の だ が,そ れ 以 前 の 改 革 の 夢 の提 示 とい う伝 統 の 枠 組 み に お い て読 まれ ね ば な ら な い作 品 で あ る と も言 うべ きで あ ろ う。

42セ ル ヴ ィ エ

,同 上,p.126。

(22)

その 他 の 参 考 文 献

・AnneloreFrankeundGerhardZschabitz

,DasBuchderhundertKapitelund dervierzigStatutendessogenanntenOberrheinischenRevolutionars,Berlin,

1967.

・阿 部 謹 也 「ReformatioSigismundi研 究 へ の 一 視 角 」in:社 会 経 済 史 学 会 「社 会 経 済 史 学 」34巻4号,1968。

・Holborn

,Hajo,DeutscheGeschichteinderNeuzeit,MUnchen:Oldenburg, 1970.

・川 端 香 男 理 『ユ ー ト ピ ア の 幻 想 』 潮 出 版 社 ,1971。

・M・L・ ベ ル ネ リ 『ユ ー ト ピ ア の 思 想 史 』手 塚 宏 一 ・広 川 隆 一 訳,太 平 出 版 社,1972。

・高 柳 俊 一 『ユ ー ト ピ ア と 都 市 』 産 業 能 率 短 大 出 版 部 ,1975。

・澤 田 昭 夫 監 修 『『ユ ー ト ピ ア 』 一 歴 史 ・文 学 ・社 会 思 想 』 荒 竹 出 版,1976。

・澤 井 繁 男 『ユ ー ト ピ ア の 憂 欝 』 海 鳴 社,1985。

・Kytzler

,Bernhard,ZurneulateinischenUtopie,in:UtopieforschungII,Wil‑

helmVoBkamp(Hrsg.),FrankfurtamMain,1985.

・ ジ ル ・ ラ プ ー ジ ュ 『ユ ー ト ピ ア と 文 明 』 中 村 弓 子 他 訳,紀 伊 国 屋 書 店,1988。

・Braungart

,Wolfgang,DieKunstderUtopie:vomSpathumanismuszurfrUhen Aufklarung,Stuttgart,1989.

・井 口 正 俊/岩 尾 龍 太 郎 編 異 世 界 ・ユ ー ト ピ ア ・物 語 』 九 州 大 学 出 版 会,2001。

・vonGUnzburg

,JohannEberlin,SarntlicheSchriften,Halle,1900‑1902.

(23)

反 宗教 改 革 時代 のユ ー トピア

79

EineUtopiederGegenreformationszeit

KasperStiblins,,KurzerBerichtUberdenStaatderEudaimonenser"

MiyukiSOEJIMA

1553schriebeinjungerHumanistimElsasseinenfiktivenReisebe‑

richtmitdemTite1,,CommenimiolztsdeEudaemonensizamRepuろlica

(1(ur2er.BerichttiberdenStaatderEzadai〃aonenseク ク̀̀.,,Eudaimoǹ̀

(εω αZμω り=g1Ucklich)istdieHauptstadtderInsel。Makaria"

(μαπαρZα=dieSeligen),derenVolk,,Makarenser"schonThomasMorus alsBewohnereinerNachbarinselvonUtopiaerwahnt.NachdemBe‑

richterstatteristdieVerfassunginEudaimonein"vollkommenesVorbild einesg1UcklichenStaates̀̀,,,demdieUbrigenStaatennacheiferǹ̀sollen.

DieserBerichterschien1555alsBUchleininBaselundderVerfasser, KasparStiblin(CasparStiblinus)(1526‑1563),wareininFreiburgaus‑

gebildeterPhilologeundwardamalsLateinlehrerineinerHumanistens chuleinSchlettstadt.StiblinsgrδBtesWerkwardieUbersetzungsamt‑

licherTragbdiendesEuripidesindielateinischeSprache,die1562auchin Baselerschien.DiesesUnterfangenwurdeaberzweitrangigdurchdieim selbenJahr'erfolgteNeuauflagevonMelanchtonsEuripides"bersetzung undStiblinsExistenzgerietmitsamtseinenWerkenindieVergessenheit, bis1959LuigiFirpo,einitalienischerPolit‑Philologe,seinenBerichttiber EudaimonenserwiederentdeckteundihnindieChronologiederutopi‑

schenLiteraturplatzierte.DabegegneteeinkleinerGelehrtenkreisder erstendeutschenUtopie,wahrendderRuf,dererstedeutscheUtopistzu sein,imallgemeinenJohannValentinAndreaezugesprochenwird,dessen utopischeSchriftChristianl)olis1619erschien,denneswarerst1993,dass

(24)

StiblinskleineFiktioninsDeutscheUbersetztundaucheinern,1ateinlosen Leser̀zuganglichwurde.

Mank6nntewahrscheinlichGrUndedafUrnennen,warumStiblins Utopie,dieersteFolgeschriftdesberUhmtenBttchleinsvonMorus,so langeunbekanntblieb.AhnlichwiebeiAndreaesChristianoPoliswird manzuRechtMangelanHumorvorwerfen,dennbesondersheutigen LesernwirddieEudaimonenserGesellschaftwenigansprechender‑

scheinen,inderkeineAbweichungvonderkatholischenLehretoleriert wird,Gottlose,AufsassigeundUmstUrzlerausdemStaatvertriebep werden,NeuerungenundInnovationenalsdieWurzelninnererUnruhe verp6ntsind,undLuxusundFaulheitschwerbestraftwerden.Offent‑

licheundprivateVersammlungenunddasReisensindauchverboten.

DieRegierungsformistoligarchisch,wobeiderausPatriziernausge‑

wahlteSenatundderMagistratdenStaatsteuern.Eshandeltsichdabei jedochumkeinenBlutade1,sondernAdelausTugend.Jeder,dersichum denStaatverdientmachtundsichdurchKlugheitundTugendauszeich‑

net,verschafftsichdasAnseheneinesPatriziers.DasStudiumder WissenschaftenistdeshalbauBerstwichtig,weildurchdieErziehung alleinedieSteuermannerdesStaatesausgebildetwerdenk6nnenundnur

PhilosophenzurHerrschaftgelangensollen.TugendundVerstandsind dieerhabenstenGabenGottes,daeinMenschdasAbbildgdttlicherNatur ist.NachdemVorbildGottesundgemaBderNaturzuIebenistder

GipfelunddasZielallerDinge.

StiblinsUtopiehateinenJanuskopf.SiezeigttypischeCharakter‑

zUgevomhumanistischenIdealismus,z.B.IdealisierungderAntike, VertrauenindenVerstandundVers6hnungsversuchmitderNatur.Ihre konservativen,ordnungsfreudigenZUgepostulierenimLichteseiner gegenreformatorischenIdealitatdieBesserungderbeklagenswerten

(25)

反宗 教 改 革 時代 のユ ー トピ ア

81

RealitatderdamaligenGesellschaft,diedurchreligiUseundpolitische Unruhenstarkbelastetwar.NureineGenerationnachReformation,

Bauernkriegen,chiliastischenBewegungenunddemAufstandderWieder taufermusstedasVerlangennachFriedenundeineregalitarenGesell‑

schaftnochganz〈utopisch>wirken,aberaufderanderenSeitestehtdiese UtopieinderdeutschenTraditionderReformschrift,alsderenBeispiele

。ReformatioSigismundi",,,OberrheinischerRevolutionar"unddie SchriftendesEberlinvonGUnzburgzunennensind.ImGegensatzzu diesenFlugschriftenhatStiblinsReformideeeineliterarischvollkom‑

meneFormundsogebUhrtesihr,/)rimaeutopicateutonicαzusein,doch sollsiern.E.inderBeziehungzuderdamaligengesellschaftlichenSitua‑

tiongeleserlwerden,umihrreformatorischesPostulatrichtigverstehen zuk6nnen.

参照

関連したドキュメント

[r]

有利な公判と正式起訴状通りの有罪評決率の低さという一見して矛盾する特徴はどのように関連するのだろうか︒公

[r]

[r]

レーネンは続ける。オランダにおける沢山の反対論はその宗教的確信に

○国は、平成28年度から政府全体で進めている働き方改革の動きと相まって、教員の