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生産力の概念について

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(1)

生 産 力 の 概 念 に つ い て

第一苛 生産力概念の関越

二︑扱術主義的生産力論批判三︑生産力概念と生産話力

四︑スタ﹂リン新撰罠の意味

第二等 生産力構成要素の開項

一︑マルクスの労働過程の三要因

二︑﹁自然地理的条件﹂について

三︑生産力構成要素の技術︑三義的把捉に対する批判

四︑スターーリンによるマルクスの歪曲

社会はその発展の諸段階に於て︑夫々異なる生産様式を持つ︒生産力は生産関係との対立物の銃︼として存在し︑か

生産力の概念について四七

(2)

V E  

かるものとして生産様式を侍戒する︒生産力ば生産様式の一のモメントである︒苦々経済学の研究にたづさわるもの

は︑常にこの本質的な問題に立帰らざるを得ない︒然し乍ら︑生産力の概念についても︑種々の論議が行われて︑必ず

しも碓回たる概念規定はない︒筆者自身に於ても︑経済学の研究に当って︑この問題を明らかにするのでなければ︑前

進し得ない焦燥を感ずる︒こ

t A

に政て非力を省みず︑生産力の概念について一の試論を行う事により︑前進えの足掛り

を得ると共に︑諸党学の御批判を仰ぎ︑自らの反省の資とし皮い︒

生産力の博成要素

r

ついては︑旦って吾国学界では三要素説が支配的であったが︑労働対象の除去という形に於て}一

要素説が行はれた︒然し乍ら︑スターリンの新規定が生れるに及ん・で︑之の賛否に関して新たな論争を発生せじめた︒

筆者自らの結論はスターリンの意味に於けるこ要素説に基本的には賛成である︒然し乍ら︑賛成説をとる立場の人々︑

豊田︑宮川︑遊部各教授及び常盤氏の説明には納得出来ない︒笹川儀三郎氏の﹁生産力の儲戒要素について﹂の論稿は

脱稿後入取し得た︒氏もまた︑賛成説を明確に説明しておられるが︑之に対しても同様のことを云うことが出来る︒

寧ろ之等の諸説に関聯して︑スターリンの規定そのものに︑非マルクス主義的側面が見出されるが故に︑その説明に納

得し難い点を感ずるのではなかろうか︒即ち︑本稿はスターリン規定賛戎説の人間の主体性説に対する批判を主たる目

的とすると共に︑一つの新しい立場を試みようとするものである︒

第二早

一︑生産力概念理解の為の前提

生産力なる用語に就ては︑生産力・生産諸力・労働の生産力・資本の生産力等々︑種々用いられ︑必ずしも概念が明

確でない場合がある︒本稿に於ては︑問題の所在︑所説を明らかならしめる為︑原光雄教授︑常盤政治氏の諸論稿(経

蛍研究第二O

号原光雄﹁生産力の概念﹂・経済評論一九五五年九月号︑常盤政治氏﹁史的唯物論における﹃生産力﹄概愈の分析視

角について﹂﹀の批判の形式を採る事を了解して裁く︒両先生の諸論が︑スターリン﹁社会主義の経済的諸問題﹂の﹁生

(3)

産力﹄概念に凋する新規定を中心として展開せられているが故に︑本論稿に於ける生産力概念は︑スターリン新規定の

概念についての分析︑批判に関するものである︒従って︑その他の意味に於て用いられている生産力概念に対する批

判は︑スターリンの生産力概念の筆者の理解による立場に立つての批判であり︑又その事はスターリンの生産力の概念

を原則的には︑自ら正当と認めるからである︒まづ所論を明白にする為に︑基礎的考察に際して︑拙稿(﹁怪営と経済﹂

第六四号﹁社会的分業と技術的分業﹂)より重点的に引用する事とする︒

人間の生産はごつの側面

! l

社会的生産力と人々の生産関係

! l

の統一である社会的生産としてのみ行われる︒この

統一なしには︑社会的生産は一般に存在する事は出来ない︒即ち︑﹁社会主義制度であろうと︑他の社会構戒体であろう

と︑生産の両側面が存在して︑初めて社会的生産が行われるのである︒﹂(スタ1リシ﹁社会主義の経済的諸問題﹂)従って︑

人間の生産過程は︑一般に︑人間と自然との問にが︑ける一行程としての︑自然的・技術的側面と︑人間と人間との

関係としでの社会的・歴史的側面との統一︑として把握せられ︑凡ゆる人同社会の発展過程に適用せられる︒即ち︑資本

主義生産過程に於ては︑労働過程と価値増殖過程との統一として把握せられ︑そして︑労働過程は社会的生産力的側面

であり︑価値増積過程は生産関係的側面である︒従って︑労働過程は﹁諸々の使用価値︑或いは財の生産は︑それが資

本家の為に︑且つ資本家の統制の下で行われると一五うことによっては︑その一般的本性を変じはしない︒﹂(マルグス﹁資

本論﹂長谷部訳四七七頁)としても︑即ち︑社会に於ける生産過佳より︑労働過程を抽象して考察するとしても︑資本主

義社会に於ては︑価値形戎・増植過程とは切離して考える事は出来ず︑社会的・歴史的規制の下にとらえねばならな

い︒それはあたかも︑商品のご側面の一たる使用価値を価値と切離して考察するならば︑機械論的誤りに附る如く︑即

ち︑使用価値を価値の荷ひ手として︑商品に内在する矛盾の一側面と七て把握せねばならぬように︑内容たる生産力も

叉︑形式たる生産関係と切離して考察することは出来ない︒五日々は生産力を主要なる分析の対象とする場合でも︑生産

関係的視角を忘却し得ないことは当然のことLいわねばならない︒

(4)

玉:

一一︑技術主義的生産力論批判

吾々は︑星野芳郎氏の生産力の概念把握に︑

﹁生産力とは一つの自然力である人間と︑自然との間の物質代謝の過程に於て発邸される力である︒生産力は生産の

単なる一面を代表している︒生産的実践でなくて︑た父生産というと︑人間の自然に対する能動的な関係ばかりでな

く︑人間と人間の社会的関係を合んだ概念だからである︒生産力というのは︑生産的実践の範囲内において戒立する概

念であり︑そのなかには人間と人間の関係の一微分子だにも合まない︒﹂

﹁生産力は従って︑労働力・労働手段・労働対象のなかにそれぞれ合まれ︑蓄積されて民り︑この意味で先に之らを

生産諸力と呼んだのである︒生産諸力は生産的実践の火に投ぜられるや否や︑総体として労働の生産力を実現する︒従

って生産力と技術︑或は技能は全然別仰の概念である︒技術・技能は生産諸力のなかに統一され︑含まれており︑生産

力の実現に際し本来の意味に於て現われる︒技術・技能は目的により法則として規定される︑生産的実践の様式・仕方

のみに関するものであって︑エネルギー的なものは何等それに合まれていないo

l

リンが技術と生産力を同一視し

'たのは︑この区別を見誤ったのであり︑また技術を労働手段の体系とする人々も︑この点ではプハ

l

リンと同じわだちを踏んでいるわけである︒﹂(星野芳郎﹁技術論ノ1

Iリンは生産力を次の如く説明する︒

﹁自然と社会との問の関係は︑一方では産出された有用エネルギーの帝王︑他方では社会的労働の消費との問の比と

なって現われる︒即ち︑社会的労働の生産性によって表現される︒しかし社会的労働の消究は既に見た通り︑生産手段

中に保存されている労働と︑﹃生きた﹄労働︑即ち︑生きた労働力の消究との︑ごつの部分から戎っている︒労働生産

性の大さをその物質的要素の立場から見る時︑一二つの大さが得られる︒第一︑産出された生産物の量︒第二︑生産千段

の堂︒第三︑労働者︑即ち︑生きた労働者の長︒この三つの大さは凡て相互に依存し合っている︒実際生産千段がどれ

技術主義的な例を見る事が出来る︑

氏の説明を問

(5)

だけあり︑労働者がどれだけいるかいA分っておれば︑一定の労働時間内にどれだけのものが生産されるかも分ることは

明らかだ︒このこつの大さに依って︑また第三の大さ

│ i

産出された生産物

! l

も決定されるoこのこつの大さが一緒

になって︑五日々が社会の物質的生産力と名づけるものを構成する︒

五日々が或る社会に就て︑その社会が如何なる生産手段と︑どれだけの生産手段を有し︑どれだけの労働者と如何なる

労働者とを有しているかを知るならば︑それによってまた︑社会的労働の生産性がどうなっているか︑この社会はどの

判何度に自然を支配しているか︑この社会はどこまで自然を服従させているかも分って来る o

働力とは︑社会的発達の程度を示す正確な去一不穏である

0

(

Iりえ﹁唯物史観︐広島定吉訳一九O

瓦 ﹀

以上︑長々と引用させて裁いたが︑それは次に指摘する点を除いては︑星野教授の概念規定に賛成する事が出来るか

らである

o即ち︑﹁技術・技能は生産諸力のなかに統一されて︑合まれており﹂︑生産諸力(経済時十教科書に於ける﹁生涯

の要因﹂)は一般的に︑労働力・労働対象・労働手段として把握されているが︑本来的な意味に於ては物質的生産に役

立つものは凡て︑一応合まれるものと併する oその限りに於て︑人間の労働の濫起物でない意味に於ける自然も︑人間

にとっては可能的実在としての生産諸力とみなすことが出来るのである︒然し︑之ら生産諸力は技術が伺別的に含まれ

ているところの笑在として把握され乍らも︑現在の技術水準を現実化しうる意味での可能性にすぎず︑それが労働力に

火が点ぜられることによって︑生産力として実現するものであり︑技術・及び生産力はかLる怠味に於て︑宍践的概念

として把握される︒従って生産力概念は︑生産諸力の労働力による具体化として︑社会的生産の一側面として把握され

る ︒

﹁技術・技能は目的により︑法則として規定される生産的実践の様式の仕方のみに関するものであり︑エネルギー的

なものは何らそれに合まれてはいない﹂とされる限りに於て︑プハ1リン批判は正しいと判断するが︑プハ1リンの最

大の欠陥は︑生産力と生産関係の矛盾を自然と社会との矛盾にすりかえたことではなかったか︑

社会の発日以は︑社会の内的矛尻によって推進せられ︑自然と社会との矛盾は︑社会内的矛盾に転化して初めて︑社会

発展に

mM響を及ぼし得るにすぎない︒即ち︑生産力と生産関係の矛貯はあくまで社会内の矛盾でなければならないo

1 i  

(6)

って生産力は社会的生産力を意味しなければならないし︑又逆に︑生産関係は社会的生産が物質的生産である限り︑そ

れは生産的実践としては生産力を荷ひ千としなければ存在し得ない関係にあるのである︒

星野教授は︑﹁生産力というのは生産的実践の範囲内に於て成立する概念であり﹂とし乍ら︑﹁その中には人間と人間

の関係の一微分子だも合まない︒﹂と一五はれる︒之の事は生産力を生産関係と無関係に︑いわば︑人間(自然の特殊な

q

即白的な関係に於て把握されたものと考えざるを得ない︒生産諸力の具体化としての生産力の実現は

生産関係を抜きにしては考えられぬ事である︒即ち︑生産力が具体的生産様式の一側面として︑従って人間は凡て︑社

会的諸関係に於てしか生産し得ない事を想起する限り︑生産力を即自的観点から把握する事は誤りであり︑叉生産力を

1ふるものと考える限り︑生産力と生産関係の矛盾は︑社会の内在的矛盾ではなく︑自然と社会との矛盾として把握す

る外ないであろう︒従って生産力概念は社会的生産力として把握すべきであり︑即自的な意味にが︑て生産力概念を用う

るとするならば︑それは単に技術学的な抽象的概念としてい

A

あり︑具体的社会にそのま

x

では存在し得ないものとして

把握せねばならぬだろう︒従って︑星野教授はプハ

l

リンの本質的誤りを克服することなく︑そのまL継承されている

と判断される︒

然し乍ら︑社会内的矛盾としての生産力と生産関係とを︑プハ

l

リンを批判したマルテイノフの如く把握するなら

ば︑宰ろ滑稽と云わねばならない︒ハデボ1

1

環境

ι

の問の交互関係﹂広巳定吉訳﹀マルチノフに従えば︑プハl

リンの﹁生産力﹂と﹁投術﹂の概念の同一視を批判し

て︑﹁凡てかくの如き誤謬はどこから生ずるか?それは生産力の概念の有するこ重の性質に対する無理解から︑即ち︑

生産力はマルクスの立場からは︑物質的生産力であると同時に︑社会的生産力であると云う専を珂併しない事から起

る︒﹂そしてマルクスから﹁資本の組成は二重の意味に鮮さるべきである︒価値の方面から云えば︑それは不変資本即

ち︑生産子段の価値と︑可変資本即ち︑労倒力の価値︑労働賃銀の総額として分割されてゐる比率によって規定され

る︒生産行程内に作用する物質の方面からいえば︑凡ゆる資本は生産子段と生きた労働力とに分割され︑この組織は一

方では使用される生産手段の萱と︑他方では生産手段の使用に必要なる労働の萱との問の比率によって規定される︒

(7)

私は前者を資本の価値構成と名ずけ︑後者を資本の技術的構成と名ずける︒このこつの組戒の聞には密接な交正関係が

︑あるοこれをいひ去す為に︑私は資本の価値総成が︑その技術的問的成によって決定され︑その変化を反映する限りそ

れを資本の有機的椛成と名ずける︒﹂と引加し︑マルクスは生産力をも二重の怠味に解して居ると説明する︒即ち︑彼

は︑社会的生産力と物質的生産力を︑生産関係の二重性としての︑財産諸関係と︑労働技術的生産諸関係と関嚇して説

明するが︑生産力の二重性が問題になるとすれば︑技術学的な可能性に於て考えられる生産力と︑具体的存在としての

生産力であって︑マルチノフが云った如き生産力ではあり如何ない︒ましてそれは︑資本の有機的構成の二重性とは何ら

の関係もない主であり︑生産関係の}一主性に五つては滑穏といはざるを得まい︒生産関係のご重性については︑社会的

分栄及び貯働組織の生産力的側面を生産関係と誤って併したものという事が出来る︒何故なれば︑人間労働力の合理的

配分は︑労働力が生産力の重要な要凶である限り︑生産力の発展として把握されるからである︒

生産力概念と生産諸力!原光雄教授の所説に関聯して

スターリンはよ鉦虫︑王義の経済的諸問題﹂では﹁生産諸関係は生産諸力の性格にかならず照応する︒﹂という如く︑生産関係と生産力の怠味に於て後数形を用いてい

γ

る︒それが複数形を刷用いられているのは︑生産力の構戎要因として労働

力と生産加具とが︑又生産関係の構成要素として︑﹁生産関係にふくまれるものはつぎのものである︒的生産手段の所

有ゆ形態︑例それからでてくる︑いろいろちがった社会集団の生産上の地位と︑それらの集団の相互関係ー的生産手

段の所有と人びとの生産上の地位とによってきまる︑生産物の分配の形態︒﹂ハ註︑経済学教科書倍補改訂版によって序文

に担入された)の如きものが考慮されたからと判断し︑生産関係との関聯に於て加いられた生産諸力なる用語は︑本来

的な﹁生産力﹂の概念と判断する事が出来る︒

本︐ねに於ては先に把握した生産力と生産諸力の概念区別の下に論を進める︒何故なれば︑問題の出発点はスターリン

の生産力概念の新規定であり︑これに関する限りでは両者の概念の区別は重要であり︑教科吉に於ては生産力と生産関

(8)

係なる用認を用いて︑生産諸力なる概念との混同を注意深く避けて生産諸力に相等する内容を﹁生産の要素﹂で支はし

ていると判断されるからである︒

生産力の概念については︑原光堆教授の論J稲あり︑教授は生産力の概念分析の出発点を︑河上照不教授のマルクス生産

力の概念把握から出発される︒(河上由主﹁マ刀︑グス︑主義の哲学的基時﹂)従って︑本稿に於ても議論の展開の都合上︑原教

佼の立凡に関係する両が多分にあるので︑引一周された河上教授の所論を倍加する︒

﹁マルクスの川いている﹃生産力﹄なる言葉には︑臭ったこ様のな味があるから︑それを明雌に区別することが︑

第一に肝一史である︒第一の立味に於ける生産力とは︑有刷物ハ財・官)の生産に役立つ力のことである︒かLる意味 においては︑例えば︑機械は疑ひもなく一つの生産力である

0

j

i ‑

かくの如く︑生産力として計上さるべきものに

は︑色々の極演の唱のがある︒だから︑人間社会に帰属している冶々の生産力の総計を指す場合には多くは複数形の

M M g

含 一

E

Z E

g

H v g

Z

S S

E

これに対し︑私が第二の意味の生産力というのは労働の生産力という場合のそれである︒それはやはり︑同

MHO

‑ n t ' iS H

あるいは労働の

H J a z r ‑ 2 2 g o

開 g

ハ生産能力﹀というのと︑同じ立味である︒かくて第一の意味における生産

力は︑絶対的な大きさを示すに反し︑第二のな味にが︑ける生産力は︑相対的な大きさ

!i

ii

原教授は之に対して︑﹁たしかに.マルクスの生産力概念は︑こLで指摘されたようなこ内規に区別することができ

る︒第一の怠味の生産力(または生産諸力﹀は生産関係と対置して用いられるばあいのそれであり︑第二のな味の生産

力は右に引川されたような立味での﹃労働の生産力﹄である︒故近出版されたソ同盟科学院経済学研究所発行﹃経済学

教科書﹄では︑この第一の生産力を﹃社会の生産力﹄とよび︑第二の生産力を一労仰の生産性﹄と呼んでいる o

このことは原教授が誤って︑生産諸力と生産力とを混同されているものと考えねばならない︒河上教授が﹁有用物の

生産に役立つ力﹂として把握された第一の生産力の概念は︑宍は生産諸力なる複数型に於て把握さるべき可能性として

の力の事なのであり︑之に反して︑生産力は生産的実践に関する'概念である︒生産力は生産関係抜きにしては考えられ

(9)

ないが︑生産出向力そのものとしては︑生産関係とは何ら関係のない技術学的概念にすぎない︒生産力の侍戒要因の一つ

を生産力なる川両で呼ぶことはあっても︑(教科書初版五ゴ一頁﹁奴殺という︑この柱会の基本的生産力︒﹂五五頁﹁主要な

生産力である勤労大泉﹂六三司﹁生産九である労倒九﹂手ユ唯物史観の基本概念たる生産力なる概念は︑決して生産諸力と

同一視さるべきものではなく︑え生産諸力は生産関係と対比さるべき性格のものではない︒又第二の生産力は労働の生

産力日労働生産性であるとされるが︑その限りでは一先々が問題とする生産力の概念はその何れでもない︒この場合概念

として問題とさるべき生産力が︑生産諸力又は労働生産性とすりかえられていると考えることが出来る︒

ところで原教授は︑生産力のこ様の立味については河上教授に同意されるが︑教授自身は第二の生産力の構成要素について如何に考えられるか︒﹁第二の立味での生産力の目的戒要素がどんなものかについては﹃資本論﹄のなかの記述が

手がかりをあたえてくれる︒﹂とし︑}一︑三例示される︒即ち︑

二商品の生︑産に必a

些とされる労働時間は︑労働の生産力のあらゆる変動につれて変動する︒労働の生産力ハ

US

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2

K F

H r

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)

は多様な諸事情によって︑なかんづく︑労働者の熟練の平均度︑科学およびその技術学的

応加可能性の発展段階︑生産過限の社会的結合︑生産手段の範囲および作用能力︑などによって︑また自然的諸事情

(Z

巳 ロ

2

2 E

F

)

(

﹁社会的生産の容態がどの程度に発展しているかは別として︑労働の生産性

(E op ac rz is ι2 KF Hr E3

は︑や

はり自然的諸条件

(Z

旦 C H F

mg

mぬるにしばりつけられている︒それらの白然的諸条件は︑すべて︑入居等のような

人間そのものの自然と︑人間をとりまく自然とに還元されうる︒外的な自然条件は︑経済学的には︑生活手段の自然的

豊筒︑つまり土地の豊能性︑魚細川の多い河海など︑および︑さかんな落流︑航行できる河川・木材・金属・石炭︑など

のような労働千段の自然的豊富という︑二大部規にわかたれる︒文化の初期には第一の種類の自然的豊宮が決定的であ

り︑よりたかい発展段併に達すれば︑第二の極演のそれが決定的である︒﹂(同右︑第一割下八O

)

﹁労仰の生産力の発展の泌をたどれば︑それは結局はつねに︑前勤させられる労働の社会的性格であり︑社会の内の

分業であり︑精神的労働ことに自然科学の発展である︒﹂(同右第三部︑上一四五頁)等

(10)

. '  

処で︑原教授は第一の生産力の諸要素と第二の生産力の諸要素なるものを問題とされ︑河上教授を引用して両者の関

係を考察される︒﹁:::生産諸力を構成する諸要素と労働の生産力を規定する諸条件とは︑同一物たるを得ない︒例え

ば︑﹃外界の自然的諸条件

l i

生活資料に関する自然的な旬︑即ち︑土地の豊箆性・魚類に広める河海等々と労働手段

に関する自然的なん品︑例えば︑活力に広める水落︑航行されうる河海・.木材・金属・石茨等々﹄は労働の生産力を規定

する条件の一ったるに相同誌ないが︑しかし︑それらのものは︑人間によって占有される以前は未だ生産諸力の構成分と

なっているものではない︒﹂(河上竪)に対して教授は生産力の二様の意味については︑河上記生に同意されるが︑両者

の関聯については︑必ずしもその説にに対して︑賛成される訳ではないが︑﹁自然的諸条件も︑吋人間によって占有され

る以前には

L

︑労働の生産性を規定する可能的条件たるにとYまっており︑現実的諸条件とはなっていないのである︒

それらが現実的諸条件に転化するや否や﹂︑それらは同時にまた第一の生産力の諸要素にも転化する︒つまり︑現実的

な生産過程に清目する限り︑第三の生産力の諸要素は︑同時にまた第一生産力の諸要素でなければならない︒しからば

逆に︑第一の生産力の諸要素はすべて同時に第二の生産力の諸要素かというと︑逆は必ずしも真ならずである︒﹂とさ

れ︑両者を区別するものは何かと一五う問題については殆んど明械にされる処はないと息われる︒た

N A

労働時間の延長に

よる自然に対する力の総量の増加は生産力の増進ではなくて一労働単位当り生産物分量が問題にされねばならぬと一五う

ような去現が行はれているにすぎない︒

それは︑本来両者が生産力のごつのものとして併列的に論ぜられ得る問題ではないからであり︑労働の生産性(力)な

る刷誌は︑単位労働当り生産物量の比較に於て︑技術的な意味とか︑生産力の発展の一般的な表現で川いられているの

であって︑五日々が問題としている生産力概念とは具る︒それは場合によっては労働生産性の発展を総体的に︑一般的な

意味における生産力の発展と去現されても主支えないものなのである︒又︑第二の生産力の椛戎要素に対する﹁資本

論﹂の引加は何ら第二の生産力の府吹一要采を説明したものではない︒単に前述の意味に於ける技術的な労働生産性の把

握︑又それに関係ある自然的諸条件!人間そのものの自然と人間を左りまく自然

i

を説明したものにすぎない︒

教授は第一の生産力の諸要索として︑川上教授と小高良雄氏の把おを例示されるが︑ムヘ体原教授の考えを示している

(11)

シ﹂間山われるので︑その理解の為に︑小高氏の例を引用しよう︒

小高良雄氏(﹁唯物論研究﹂一九三二年第二号四

O 頁)

﹁一︑社会力としての労働力

﹁労働の熟練︑労働の組織︑編成﹂

i

﹁社会内部における分業﹂︑協栄︑その他﹁生産過程の社会的結合﹂

二︑社会力としての自然

﹁節約のために社会的に統制され︑人間の子の労作によって大規模に占有または馴致﹂

よって溢過された自然物材︑等︒

一二︑物質的および精神的生産物

﹁社会力としての自然﹂のうちの日・然物材は︑この項目のもとに分類されることを適当とするかも知れぬ︒

他︑労働手段等々自然科学︑それの応用︒﹂

又教授は説明の都合上︑次の五つの生産力の概念を詳述される︒その大要は次の如くである︒

ω

最広義の生産力の概念

スターリンその他によって一般的に迎解されているものであり︑﹁生産力は生産様式から生産関係を捨象したもの﹂

であって︑﹁生産関係を反映しているので︑力という接尾語から連想されるような能力的なものだけを内包しているの

ではないむだから︑この意味での生産力の諸要采が︑人間労働と労働千段ばかりでなく︑労働対象をふくむことは︑い

うまでもない︒﹂然し︑之を﹁生産力と呼ぶのは不適当である︒﹂と説明され乍らも︑﹁筆者が先に発表した論稿﹃技術の

概念七のなかで論じた生産力概念は︑主としてこの最広義のものであった︒﹂とされ︑この矛盾した表現は筆者の理解に

苦しむところである︒

ω

社会の生産能力を芯味する場合ーその一

﹁前誌のマルクスの﹃第一の生産力﹄概念に相当するもので︑社会の生産能力を現す場合である︒'一 人間労働に

とされ︑﹁生産高

、 ブ コ

~

(12)

又は生産量の形で数量的に表現出来ねばならない﹂とし︑﹁社会の生産力の権戒要素﹂は︑

(i )

生産に利則される労働対象︑原料およびエネルギーに関する諸条件︒

( H U )

笠働者に関する諸条件︒

( ⁝

m

とされ︑これを更に自然科学的に決く﹁物質的担体﹂の側面から﹁労働対象﹂﹁労働者﹂﹁労働手段﹂の三つを生産

力要素とすることが出来るとされる︒之れは明らかに再々の把握する﹁生産諸力﹂の概念に近い事が理解されるが︑之

を以て︑マルクスの﹁生産力﹂概念として犯握するのは誤りである︒苦々は之れを後述する如く︑広義の生産力を侍戒

する生産諸力として把握する︒

ω

労働生産性を意味する場合

ω

社会の生産能力を意味する場合ーそのこ

生産力を

ω

と同様社会の生産能力と解するが︑

ω

が生産能力を規定づける諸要因の中︑能動的要素と︑受動的

H

容体

的要素を合めたのに対して︑こLでは教授の独自の労働手段を意味し︑広義の労働千段として次の五つを列記される︒

(

a

)

道具や機械のような機械的労働千段(マルグスの生産の筋骨系統﹀

(b

﹀化学反応装置・:等︑装置と呼ばれる労働手段(マルグスの生産の脈管系統)

( C )

原料の部煩に入る労働千段(苦干のもの)

(d

﹀土地︑建物等施設的労働千段(マルグスの生産の対象的諸条件)

e

)

労働対象兼労働千段という性格をもつものハ作物︑家畜)

ω

最狭義の生産力の概念

l

スターリンの新規定

以上︑教認は生産力の概念としては

ω

の立場をとられるが︑物的担体としては三要素説も是認され︑又或場合には

ω

の立場にも解釈され︑え河上限市教授の第三の生産力の概念を認められる限りに於ては︑

ω

の立場も許容されるのではな

(13)

いかということになれば︑結局仰のスターリンの規定のみは﹁論拠不明で批判にくるしまれる﹂が︑目下の処反対だと

いうことになる︒いはば教授の方法は生産力概念を未整理のまL︑即ち︑生産力︑生産諸力︑労働生産性等の概念を︑

本来並列的に比較すべき概念でないものを並列化せられ︑常識的に広い狭いという尺度応よって批判されることを意味

し︑生産力概念は如何に把握さるべきかという本質的理併の欠如から︑用語上の混加がそのまL教授自身の理論上の混

乱となって反映されていると判断される︒然し乍ら︑教授は本質的には生産力概念を生産諸力として判断されているも

のと理解出来る︒

苦々が問題としている生産力既念は︑唯物史観の基本的概念としてのそれであり︑問題の出発点はスターリン新規定

の︑上記の内容規定の上に把握されようとする概念であって︑無規定的なそれではない︒又︑五日々が問題とするのは言

葉の夫現の問題ではない︒表現の困難さの為に種々の言葉が色々な意味に周ひられているからと云って︑それを考証学

的につミくことでもない︒五日々は一一一﹂口業の表現の図雑さを乗越えて︑何を問題としてこの言葉が用いられているかと云う

事を︑本質的に把握しなければならない︒

試みに経済学教科書をとつでみても︑表現の困難さの出に︑厳密に使い分けられているとは考えられない︒﹁労働の

生産性は:::単位労働時間内につくりだされる生産物の主によってきまるc﹂(二九五)﹁手工業者の労働生産性は高

まった︒﹂(七六一良)﹁紡結の労働生産性﹂等々︑似別具体的に労働金と生産物宝との比較に於て用いられ︑それらの一

般的社会的表現として︑﹁社会の生産力は発展する︒﹂(一三四頁)﹁生産力が高まるにつれて﹂ハ一三二頁)︑﹁生産力の水

O

一瓦)等々加いられるが︑又たとえ﹁協会は労働の新しい社会的生産力﹂ハ一回

O

瓦﹀﹁社会的労働の生産力﹂

(一五三頁)等の凶認が使附されたとしても︑それは一言葉の去現の問題にすぎない︒即ち︑教科書に於ても生産力なる

川話が随所に無規定的に用いられているとしても︑一一一口実の去現の問題のみによって︑概念としての生産力を云々するこ

とは出来ない︒それがどういう意味に於て別いられているかによって︑その内容の把握は相兵せねばならない︒こ

η

以下論述の関係上︑教授が

ω

を広義の生産力の概念と認め︑

ω

を狭義の生産力の間的成要宗として把握されるものと理

L

(14)

経 営 と 経 済

O

解する︒投一一一目すれば︑生産諸力の中︑生産力の構戒要素として把握せねばならぬものは何かという問題に帰一する︒か

くて初めて広義の生産力の概念と狭義の生産力の概念規定が必要となる︒又それは問題を同一平面上に泣くことによっ

て︑初めて広狭の問題として把握され得るのである︒

広義の生産力概念は︑生産に役立つもの主して生産諸カが労働の火が点ぜられた場合に発却する能力として把握せら

れ︑従ってその構戒要素は生産に関係する凡てのものが合まれる︒その限りでは労働被過物であるか否かは問題になら

ない︒場合によっては︑現在の技術水準でもって生産に利用され得る﹁人間労働の未溢過物﹂であっても差支えない︒

従って又︑自然的条件が合まれるか否かも問題にはならないであろう︒

かふる広義の生産力概念から︑狭義の生産力概念を規定する為には次の事は重大な分析視角として忘却されることは

出来ない︒即ち︑狭義の生産力概念は秀れて抽象化せられた社会科学的概念として把握されねばならぬ事である︒又広

義の生産力概念と狭義の生産力概念とは︑応出産力を如何なる意味に於て考祭の対象とされるのか︑それによって生産力

の侍成要素の内容も相臭せねばならない︒生産力の無規定的な把握は概念の混誌を生ずる丈である︒かL

る意味に於

ては︑スターリンの所詔新規定なるものは︑決義の生産力概念である事は明らかであり︑且つ︑彼が何故に狭義の概念

に於て規定したのか︑従って又︑社会科学としての経済学に於て把握される生産力概念は狭義のそれでなければならな

いかの問題に要約される︒

スタ

1Y

ンに於ける新規定'の意味

﹁経済学は社会科学の一つでおる

0

・経済学は財貨が︑人間社会のいろいろのちがった発展段階で社会的に生産され︑

分配される法則を研究するものである︒﹂と経済学教科書の冒頭ぬ記され︑﹁生産には︑技術的側面と社会的側面とがあ

る︒生産の技術的な側面を研究するのは︑物理学︑化学︑冶金学︑機械工学・農学などの自然科学と技術関係の科学で

ある︒経済学は生産の社会的な側面を研究するοそれは人と人との社会的な生産関係︑即ち︑経済関係(﹁の発展﹂十頁)

を研究するのである︒レl一一ンはこう書いているっ経済学が研究するのは︑決して︑生産ではなくて︑生産の商での人

(15)

と人との社会関係︑生産の社会制度である︒﹄﹂(七頁﹀﹁生産関係は生産力とたがいにはたらきかけあっているが︑経 済学はそのような生産関係を研究する︒生産力と生産関係は統一されて生産方法(様式)をかたちづくるc

(

)

説明されてある︒

﹁経済学教科書﹂について豊田問郎教授は︑﹁序論はなによりもまづ︑経済学がとりあっかうべき研究対象を﹃生産

関係﹄であると︑はっきり規定している︒然し乍ら︑経済学は生産関係を研究対象とするといっても︑生産力から切り

はなして︑そうするのではなく︑生産力との相互作用においてそうするのである︒しかし︑これは方法の問題であっ

て︑対象の問題ではない︒私はかつて経済学の対象が生産関係であると云う点を強調する余り︑対象と方法を切りはな

し乍ら︑論争ぬ参加したので︑その点あらためてこの序論に学んで反省したいとおもう︒﹂と記されている︒(経済評論

一九五五年六月号)かくて経済学の対象として考察され得る生産力の概念は・自ら明らかになるだろう︒

又﹁生産力は決して﹃純技術的﹄範時ではなく︑社会的な範時であるのと同様︑生産関係も︑その﹃社会的形態﹄も︑

この形態のうちに行われる︑物質的日技術的返程から決して分離して居るものではない︒ハ観念論者が考えるように

) 0

他方ではこの質的生産関係は︑機械論者が考えるように︑生産の技術的組織︑および人間の配置に還元されるものでは

0

マルクス主定技術的混程と経済的混在との︑生産関係主連力との弁託法的統一の見地に立ち︑両者の同一性 を認めると共に︑その区別をも指摘する︒﹂そごl

1

経済学教科書に夫現せられている生産力もか斗る意味に於て把握されねばならない︒然し乍ら︑﹁生産には技術的な側

面と社会的な側面とがある︒生産の技術的側面を研究するのは︑物川崎学︑化学︑冶金学︑機械工学︑農学などの自然科

学と技術的関係の科学である︒﹂と一五う文平は注立して読まねばならぬだろう︒こLにいう﹁

!l

a等の自然科学﹂と﹁技

術的関係の科学﹂とわけてとらえられていることは︑両者が決して同世さるべき性格のものでないことを示している︒即

ち︑前者は即自的な意味でのそれであり︑自然科学としての技術学的把握であり︑自然法則の認識の問題である︒後者

の﹁技術的関係科学﹂とはいわゆる生産様式の一側面としての生産力︑即ち︑生産関係に規定された人間と自然との問

の質料代謝の関係を示し︑可能性としての生産諸力の生産力としての現実化の問題であり︑社会技術的実践の科学と解

‑‑L  ノ

(16)

..‑L. 

すべきであって︑この怠味では教科書では生産の技術的側面はこ様にとられている︒即ち︑結技術学的なものと︑生産

力の商とであり︑後者が経済学の対象となり得る生産力であって︑之を広誌に於ける生産力の概念とするならぼ︑広義

に於ける生産力を特に生産関係的視角から把握せられたものが︑狭義に於ける生産力概念の内容となる︒

かくて︑狭義の概念としての生産関係的視角から把握せられた生産力とは具体的に如何なることを立味するのか︑一え

Lる意味における生産力の構成要素は何であるかの問題となる︒

社会的生産様式のご側面として把握される生産力と生産関係とは矛盾の関係にあるc然し乍ら︑この矛応の関係は

生産諸力の性格と︑具体的な生産諸関係の性絡とによって︑矛盾の関係は兵って現われる︒即ち生産諸力の中には︑そ

の発展が生産関係の形態の変化に影響を也接に与えるものと而らざるものとがある︒又その生産力発展の影響が具体的

にはいかなる形態をとるかは︑生産関係の性格によって兵る︒逆に︑生産関係の性絡は︑生産諸力の犬々の発展に犬々

相兵した影響を与える︒即ち︑各生産様式の利息(によって︑生産力と生産関係との和五作川が︑即ち︑発展法則が相具

して把握されねばならぬように︑各生産様式によって生産力と生産関係の矛盾は相具する︒換言すれば︑資本主義社会

を運動せしめる矛盾の主要な側面を以って︑封建社会の主張な矛府となす一引は出来ない︒資本主義社会には資本主義の

基本法則が倒き︑封建社会には封建社会の基本法則がなければならない

o m

m

級社会に於ては︑生産関係の形態変化に市一一

大且つ︑直接的な膨替を与える生産諸力の発現は︑生産力と生産関係との敵対的矛盾を崎明し︑しからざる生産諸力の発

現は非敵対的矛盾を博成する︒生産力として機能する生産諸力の仰れが︑敵対的か非敵対的かは生産様式の形態によっ

て相具する︒従って︑資本主義社会に於ける生産力(広義)の発展は︑社会的矛府の増大を結果する面もあると同様

. しからば︑生産諸力の発現の中︑生産関係の矛貯を激化し︑生産関係に市一六︑

R

也接的影山討を与えるものは何かという

ことを理解するために一応の結論をのべれば︑それは人間の労働に代位し得る生産諸力であると規定することができ

る︒即ち︑労働力と︑機械的労倒手段である︒労働力はその剰余労倒によって他人の労仰に代位しうるとぷうな味に於

τ

︑又機紋的労働手段は︑人間の生産的労働が物理的運動による物代生産品刀似であると一五う立味に於て︒

(17)

生産諸力の生産力としての発現が生産関係に及ぼす影響の相具する事をマルクスは﹁数学者や機械学者は︑道具は

単純なる機械にして︑機械は複雑なる道具だといっている︒彼らはかくいうとき︑両者の内にが︑ける何等の本質的区別

をも見ず︑加ふるに領粁︑飽︑螺旋︑棋などの如き単純なる機械力に機械という名称を与えている︒如何なる機械も之

らの単純なる機械力

1

それが如何に仮装されたものであり︑複合的なものであるにしろ!ーから成立っていることは

1

事実である︒然し︑経済学上の立場からすれば︑右の如き説明は何の役にも立たぬ︒それは歴史的要素を欠いでいるか

らである︒﹂と云っている︒又生産力の社会的形態としての機械の採用は資本主義社会に於ては生産関係の敵対的な矛府

として作則しでも︑社会主義社会に於ては敵対的な生産力としての結果を生じないのである︒

問題は如何なる問題意識において︑五口々は広義の生産力により浬解し︑又狭義の生産力に於て理解せねばならないか

を明らかにすることである︒五口々が一般的な意味に於て生産力の発展という場合︑又資本主義等に於ける特定の一生産

様式の範囲内に於て︑生牢力の発展等表現する場合は︑広義の生産力として生産に役立つも・のとしての凡ゆる生産諸力

が考慮されているし︑又考底されねばならない︒従って︑か

LA

る対象を具体的に問題とする場合には︑敵対的な矛盾の

激化を促進する生産諸力も︑そうでない生産諸力も考慮されねばならない︒

然し乍ら︑生産力の発展が生産関係との関連に於て問題にされる場合は︑生産関係的視角に於て︑従って狭義の生産

力の内容に於て把握されねばならないc

L

る生産関係的視角が典型的に現われるのは︑生産様式の発展止揚という社 会発展法則の問題として把握される場合である︒従って︑かLる狭義の生産力の内容は︑生産関係の敵対的な矛盾の激

牝を促進する生産諸力によって侍成されねばならない︒従って︑怒済学が生産関係を主たる対象とする限り︑生産力概

念は狭L議に於て規定されねばならない︒即ち︑生産様式の発展止拐︑扱一一目すれば生産関係に直接に影響を与える生産力

の椛成要索は︑生産諸力の中︑労働力と機械的労働手段に限定される︒資本主義社会に於ては賃労働と資本主義的機械

として︑即ち階級社会に於ては生産力(広義)の敵対的な椛戎張主として︑生産関係との矛盾の激化として現われる︒

その他の生産諸力は非敵対的な生産力として発現するにすぎない︒五日々は︑前者を生産力(広義)と生産関係の主要な

矛応としてとらえ︑後者を補足的矛盾としてとらえることが出来よう︒

ノ ¥

¥ 

(18)

経 営 と 怪 請

六回

かくて︑マルクスの資本主義社会の研究としての﹁資本論﹂が労働過程の三つの契機として︑労働力︑労働手段︑労

働対象が把握せられたのに対して︑スターリン規定︑及び広義の経済学を対象とした﹁経済学教科書﹂が︑生産力を︑

労働力と生産用具として把握したのは︑その対象の相異から淵源することを理解せねばならぬだろう︒このところに概

念の混誌があり︑従って理論の空転が行はれるのではなかろうか︒

第二章生産力の構成要素の問題

以上生産力の概念を明らかならしめ得たので︑生産力構嘆の問題について論じよう︒

一 、

Y

クスの労働過程の三要因

マルクスは﹁資本論﹂の労働過程の単純なる要素について次の如く説明する︒

ω

人類の必需品た必出来合の生活資料を供給する本来的の土地は人演の助力によることなく人間労働︑の一般的対

象として存在している︒

助労働に依って地球体との直接的結合から分離されるというに止まる一切の物は︑天然自然に存在する処の労働

対象である︒

け労働対象が過去の労働によっていわば波適されてあるときには︑吾々はこれを原料と名ずける︒﹂

又マルクスが﹁労働行程の単純なる要素となるものは︑人演の目的活動︑称︑一一一一目すれば労働それ自身と︑労働の対象及

び要旦︿とである︒﹂(同前)と説明することから︑生産力の構成要素をこれによっで説明するのは誤りであらう

0

スは労働過程の説明を行っている丈であって︑これが底義の生産力の間的成要素たる生産諸力の単純な要素であっても︑

狭義の生産力の構成要素を問題にしている訳ではないからである︒

この事は経済学教科書を見れば倫明らかである︒(教科書四頁)まづ︑﹁財貨の生産過程は︑次の要素を前提条件とし

ている︒①人間の労働②労働対象③労働手段﹂をあげ︑次いで労働︑労働対象︑労働力を説明し︑その次に初めて

(19)

生産力の構戒の説明に入る︒﹁財貨を生産するさいに使われる生産用具と人間とは社会の生産力をなしている︒﹂﹁生産

力は財貨を生産するために用いられる自然物と自然力とに対する人間の関係を現わす︒だが入問︑は生産するには自然に

対して働きかけるだけでなく︑また人間と人間とが互いにはたらきかけあう︒﹂とする主によって︑生産の要素としての

生産諸力と︑生産力の構成要素とを厳然と区別している︒準者は︑・前者を広義の生産力との関騎に於て把握し︑後者を

狭義の生産力の椛成要素として理解する︒

一 一

﹁自然地理的条件﹂について

広義と決義の生産力の区別を行わずして︑単に生産力一般として把握し︑﹁地迎的環境の一部分をもちこむことを意

味する﹂が故に︑自然地理的条件を無反省に捨象するならば︑具体的社会の生産を適儲に把握する事は困難になる︒ス

ターリンは︑﹁地理的環境は社会発展の恒常的な不可欠の諸条件の一つではあり︑かつまたそれは︑勿論︑社会の発展

に影響はする︒:::しかし︑その影響は決定的な影響ではない︒なぜなれば︑社会の変化や発展は︑地迎的環境の変化

や発展よりも︑比較にならぬ程急速におこなわれるからである︒﹂(スターリン﹁弁証法的唯物論と史的唯物論﹂﹀と去現

し︑又マルクスは︑﹁社会的分業の白然的基礎となり︑且つ︑人頒が生棲する自然的状態の変化を通じて︑人頒に︑彼

自身の欲望や︑能力や︑労働千段や︑労働様式等を多様化する刺戟を与えるものは︑土地の絶対的豊度ではなく︑むし

ろ土地の分化であり︑その自然的生産物の多様性である︒﹂(﹁資本論﹂第一巻六七六頁)といい︑経済学批判序説第問項

に於て︑生産︑生産手段︑生産諸関係に関脱して︑次の点を注意している︒

﹁八︑出発点は当然に自然的規定性

ll

主体的なおよび容体的なーーである︒﹂と︒従って︑自然地理的条件は︑マル

クスも︑スターリンも無反省に捨象して居る訳でなく︑広義の生産力としては︑五分な考慮が行われていると推測され

る︒又事実︑現実の生産関係は︑生産力(広義)を荷い千として自然的基礎の上に打樹てられているのであって︑﹁自

然地理的条件であるが故に﹂を以って︑広義の生産力から捨象することは出来ないのである︒

自然的諸条件の捨象は一社会の発展を規定する生産力と生産関係の矛盾という︑本質的抽象的な把握に於ては定八刀却

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