生産力という概念の意味
大 木 啓 次
lま
一 じ
め
﹁影響の範囲︑期間︑深刻さのいずれの点でも︑チェルノブイリ原子力発電所の事故は人類史上最大にして最悪の
事故である﹂(雑誌﹃世差二九八六年七月号所載︑五木昭郎﹁制御できなかった核エネルギー﹂﹀といわれる︒
ソ↑
連当
局も
つぎ
のよ
うに
いう
︒
﹁こんどの災害は原発従業員たちが原子炉設備の運転規則の乱暴な違反をおかしたために生じたものであることが
確認された︒無責任と職務怠慢︑無規律は重大な結果を招いた︒﹂(駐日ソ連大使館広報部編﹃今日のソ連邦﹄︑一九八六埠
九月
一五
日号
所載
︑﹁
テェ
ルノ
プイ
リの
総括
﹂)
どのような自動制御機構であっても︑それをつくるのは人間であり︑運転するのも人間である︒どのような技術的
規律も運転規則も︑それをつくるのは人間であり︑それを守るも守らぬも人間である︒
チェルノブイリ原発事故は︑生産が人間の行為であり︑人間こそが生産の主体であるということ︑そして︑人間の
支出する労働こそが労働過程の主役であり︑生産力は︑まさに労働の生産力にほかならぬことをまたしても痛烈に実
生蕊
力と
いう
概念
の意
味
四
立教経済学研究第四Q巻三号(一九八七年V
四四
証したのである︒
※
※
※
本稿では︑生産力という概念はどのような内容のものであるべきかということについての基本的な考察を鈴こな
生産がおこなわれるためには︑遇常︑労働力と労働手段と労働対象とがなければならない︒ う
生産にさいし︑人聞は労働をおこない︑労働手段を介して人間の外にある自然にはたらきかける︒そして︑あらか
じめざめておいた目的にそって︑具体的存用労働によって労働対象に特定の形態変化をおこさせ︑人聞の欲望をみた
すのに適した形態にする︒
生産する能力が生産力であり︑人間こそが労働を支出して生産をおこなうのであるから︑生産力は労働の︑しかも
具体的有用労働の属性にほかならない︒
生産力とは︑つねに︑なんらか特定種類の生産物をうみだす労働の能力である︒つまり︑なんらかの具体的有用労
働の作用力であり︑その力の大きさ︑高さは労働の効率︑作用度を規定する︒労働の生産力は一定の時間内になんら
か特定種類の生産物をどれくらいうみだすことができるかという具体的有用労働の作用度︑つまり労働の生産性を規
定するのである︒
このさい肝心なことは︑生産力とは具体的有用労働の属性にほかならないということである︒
たと
えば
︑
マルクスもつぎのようにのべている︒
﹁生産力は︑もちろん︑つねに有用な具体的労働の生産力であり︑じっさい︑ただあたえられた時間内の合目的的
生産活動の作用度だけを規定する︒だから︑有用労働は︑その生産力の上昇または低下に比例して︑より豊富な生産
物の源泉となるのであるよハ﹃資本論﹄一巻︑ディl
ツ社
刊全
集版
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本論
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記す
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以下
問
様
、
Jー
ところが︑経済学のもっとも基礎的な概念の一つであるこの生産力という概念について︑はなはだしく誤った理
解︑それも足なみそろえた共通な誤解がかなり広汎にみられるのであり︑それがまた放置されてきているのである︒
手ぢかな例をあげてみよう︒まず︑宮川実氏が﹃経済学小辞典﹄
"
大阪 市 立 大
学経
済 研叶 ? 7t.
所
編
、
岩波
書r,S 刊
九五
年)に﹁生産力﹂の項目で執筆されたものをみてみよう︒
﹁生産力は︑人聞が物質的財貨を生産する手段である生産手段と︑一定の生産上の経験および熟練によって生産手
段を使用し・物質的財貨の生産を実現する・人間すなわち労働力と︑から構成される︒詳しくいえば︑生産力の構成
要素の第一は︑労働対象であり︑これは人間の労働が働きかける一切のものである︒既にあらかじめ労働を介して何
らかの変化をうけた労働対象は︑原料とよばれる︒すべての原料は労働対象であるが︑すべての労働対象が原料では
ない︒生巌力の第二の要素は︑労働手段︑すなわち人聞がその助けをかりて労働する一切のものである︒これには︑
生産
力と
いう
概念
の意
味
四五
立教経済学研究第四Q巻二号(一九八七年)
関山
ハ
労働過程を行いうるために必要な一般的な物質的諸条件も含まれる︒たとζ丈ば土地︑港湾施設︑運河な古がそれであ
る︒あるものが労働対象であるか︑ー労働手段であるかは︑その
Jものが生産過程で占める地位によって定まる︒たとえ
ば伝意の機械は︑それを製造したり︑修繕jvたりするときは︑労働対象であるが︑その助けをか刀て労働する︑とき
は︑労働手段である︒ー労働手段と労働対象とを合せたものが九生産手段である︒生産力の第三の要素は︑生きた人間
の労働力である︒これは生産力の最も重要な要素である︒人間は一)外部の自然に対する働きかけの過程において︑彼
自身の身体に属する諸種の日然カを働かせる司被はこの運動を介して外部の白然を変化させ︑同時に彼自身の性質を
も変化させ︑能力を展開させ︑この力の活動を彼自身の支配下におく︒この過程での人間の性質の亡︑つりJ
変化
は︑
一
生産力発展の一のモメントをなしている︒しかじイ生産力のこれらの構成要素は︑個々別々に︑孤立的に存在する之
きは︑可能的な生産力ではあるが︑現実的な生産力ではない︒
つ生産力は︑これらの諸要素の機械的総和ではない︒これらの諸要素は︑人聞の一定の関係すなわち生産関係を通
じて︑有機的に結合され︑統一され︑現実に生産の運動と作用とを行うとき︑はじめて現実的に生産力である︒﹂
みられるように︑宮川実氏のばあい︑生産力は具体的有用労働の属性ではなく︑生産手段││労働対象と労働手段
とをあわぜたもの││と労働力とから構成されるものである︒
J
f J U E
ぜ L'
生産力は︑生産がおこなわれるさいの三要素とまったくおなじ三要素
ι
よって構成されるのであり︑それらが生産関係を通じて結合され︑︑現実に生産がおこなわれるときに‑はじめて現実的に一生産力となるということが説かれでい
る︒‑つまり︑生産の三要素が結合して生産がおこなわれるとき︑おなじその三要素が結合して生産力となるといわれ
るのである︒生産力と生産主は混同され︑r内容空虚な認識が︑余けいなことまでふくめて︑さももったいぶった言い
まわしでのべられているだけである︒おそらく︑これではご本人がじぷんの言っていることの意味がわからないでい
るのではないであろうか︒生産力は具体的有用労働の属性であるとの認識はその臭いすらないのである︒
それではつぎに︑ソ連邦科学院経済学研究所の共同著作である﹃経済学教科書﹄の初版C九五四年刊)︑および二
版(一九五五年刊)をみてみよう︒そこには︑こう書いてある︒
﹁財貨を生産するさいにつかわれる生産用具と︑この用具宏︑つごかして一定の生産上の経験や労働の熟練によワて
財貨を生産する人間とは社会の生産力を構成する︒勤労大衆は︑人聞社会のどの発展段階でも社会の基本的な生産力
であ
る︒
つ生産力は︑財貨を生産するためにつかわれる自然物と自然力とにたいする人聞の関係をあらわす︒﹂
人間が生産用具をもちいて生産をおこなうぽあいに︑生産用具と人間とがむすびあわさって生産力を構成する︑と
説明されている︒生産用具とは︑﹃教科書﹄じしんの説明によれば︑﹁原始人のそまつな石器から現代の機械にいた
るまで︑およそ人聞が労働するときにつかうさまざまな用具﹂ということである︒
おなじ﹃経済学教科書﹄のコ一版(一九五九年刊)になると︑こんどはつぎのようになっている︒
寸財貨を生産するのにつかわれる生産手段と︑この生産手段をうごかして財貨の生産をおこなう人間とが社会の生
産力を構成する︒か生産の社会的形態がどうであろうと︑労働者と生産手段はつねに生産の要因である00生産用具
だけでなく︑労働対象もまた生産力のきりはなすことのできない要素である︒生産用具が主導的な役割をはたしはす
るが︑労働対変の発展(新しい程類の原料︑とくに生産用具製造用の新しい種類の材料の創出︑新しい動力資源の出
現︑その他﹀は︑生産力の水準をしめすきわめて重要な指標である︒たとえば︑労働用具の生産に金属をつかうよう
生産
カと
いう
概念
の意
味
四 七
立教
経済
学研
究第
四O
巻三
号︿
一九
八七
年﹀
四 /¥
になったこと︑石油や電力を利用するようになったことがどんなに大きい意義をもっていたか︑また最近では︑化学
の発展や新金属の生産や核エネルギーの利用にむすびついた労働対象の変化がどんなに大きな意義をもっていたか
は︑だれしらぬもののないことである︒勤労大象は︑人間社会のあらゆる発展段階で社会の基本的な生産力である︒
﹁生産力は︑財貨の生産につかわれる自然物と自然カとにたいする人聞の関係をあらわしている︒﹂
初版およびニ版では生産用具と人間とであったが︑一ニ版では生産手段と人間とでもって生産力を構成すると説明さ
れている︒労働者と生産手段とがつねに生産の要因であるからという理由でもって︑生産手段全体が生産力を構成す
る要素であると主張されているのである︒しかし︑生産手段が生産の要因であるとしても︑そのことをもって︑生産
手段が生巌力の要素であると主張する理由にはなりえないであろう︒ここにも︑生産と生産力との混同︑すりかえが
みられるのである︒
さらに︑おなじ﹃経済学教科書﹄の四版(一九六二年刊﹀になると︑こんどはつぎのようになっている︒
﹁生産力を構成するのは︑労働力と︑社会が自然にはたらきかけ︑自己の欲求にしたがって自然をつくりかえるの
につかう生産過程の諸要素︑すなわち︑いぜんの労働によってつくりだされた生産手段︑そのうちでもまず労働用具
とで
ある
︒
﹁技術的進歩のために︑生産力の発展段階がちがえば︑ちがった種類の生産手段が︑より重要な意義をもつように
なる︒たとえば︑生産力の発展のうえで︑動力はますます大きな役割をはたしてきている︒蒸気の時代が去ヮて︑電
気の時代がきた︒現在では︑人類は原子エネルギーをとらえており︑熱核反応の制御の問題が解決されれば︑巨大
な︑実際に無限のエネルギー源がひらかれるであろう︒それとともに︑生産力をたかめるうえで労働用具の先導的な
意義が増大する︒機械製作ゃ︑とくに生産の機械化と自動化の急速な発達にともなう器機製作の発展がそれである︒
﹁だが︑人間労働と接触しない生産手段は︑死物のかたまりである︒:::
﹁だかち︑自然によってあたえられて地中または地上にある労働対象︑まだ労働の助けによってわが物とされてい
ない自然資源は︑生産力の内容にはいらない︒
﹁勤労大衆は︑人聞社会のどの発展段階でも主要な生産力である︒.
﹁:::社会的生産力とは︑社会によってつくりだされた生産手段︑なによりもまず労働用具と︑これを運転し︑財
貨の生産をおこなう人間とである︒
﹁生産力は︑財貨を生産するために利用される自然物と自然にたいする人聞の関係をあらわしている︒﹂
労働力
l l
三版のばあいは人間!│と生産手段とでもって社会的生産力を構成する︑という点は三版とおなじであ
るが︑こんどは労働用具の﹁先導的意義﹂が強調されている︒労働用具とは︑﹃教科書﹄じしんの説明によれば︑
﹁労
働用
具と
いう
のは
︑
マルクスの言葉によると︑砂労働対象の容器として役だつだけでその全体をまったく一般的
に生産の脈管系統とよぶことのできるようなu労働手段と比較したうえでのか全体として生産の骨格・筋肉系統とよ
ぶことのできる機械的労働手段aのことである己
ソ連邦科学院経済学研究所の﹃経済学教科書﹄は︑当時のソ連共産党書記長スターリンじきじきの指示と指導によ
ってその著作活動がすすめられ︑期限をきってソ連共産党中央委員会への提出がもとめられたほどのものである︒そ
れがやがて︑フルシチョフのいわゆるスターリン批判がおこなわれるようになり︑﹃経済学教科書﹄も︑政権構成の
変化に応じた改訂がおこなわれてきた︒しかしながら︑生産力とは︑人間なり労働力なりと︑生産用具なり生産手段
生産
力と
いう
概念
の意
味
四 九
立教
経済
学研
究第
四
Q巻
三号
(一
九八
七年
)
五O
な訟とで構成されるものであるという理解の仕方は一貫してきている吻
︑なるほど﹃経済学教科書﹄の各版は︑いずれも労働力は生産の能動的要素であるといい︑勤労大衆はつね
ι
社会の主要な生産力であるとの代︑生産および生産力における労働力と人同との一義的な位置づけを指摘してはいる︒しか
し︑わずれも生産と生産力とを混同し︑生産がおこなわれるさいの要素が生産力を構成する要素と誤解されている︒
そして︑生産力が労働の属性であり︑労働手段や労働対象は︑労働の生産力が生産において発揮されるさいの条件
l i
l
労働力が生産の労働にとっては︑いわば外的な条件ーーにす︑ぎないことが見とどけられていない︒したがって︑ i能動的要素であろということについても︑その内容まで理解したうえでの指摘であるとはいいがたいのである︒なんγ
となれば︑人間あるいは労働力が生産の主役であるということは︑じつは︑生産力が人間あるいは労働力の支出する
労働の属性であるということにもとづいているからである︒生産力とは労働の生産力にほかならぬことの認識を前提
にじないでは︑生産における労働力の主体的︑能動的役割を充分精確に把握することはできないはずなのである︒
つぎ口︑ソ連邦の﹃経済学教科書﹄があらわれていごの︑わが国におけるもっともポピュラーな経済学の概説書で
ある︑金子ハルオ著﹃経済学﹄(新日本出版社刊︑一九七六年﹀をみてみよう︒
﹁生産力とは︑人聞が自然にはたらきかけ︑自然を支配する力の乙とで︑生産における人間と自然との関係をあら
素は
︑
わしています︒生産力がたかまるほど︑人間の自然にたいする支配力が大きくなります︒社会の生産力を混成する要
(いいかえれば︒労働手段eと砂原料
H )
とで
﹂労働する人間eとH労働によってつくりだされた生産手段︒
す︒社会的生産力のなかで︑もっとも重要な主体的・能動的要素は︑
か止
方働
する
人間
uです︒また︑それぞれの時代
の社会の生産力の水準と性格を規定する要素は︑歴史的に改良きれ発達していく生産用具です︒﹂
人間と生産手段という要素でもって生産力が構成されるという考え方は︑これまでみてきた生産力概念の理解と軌
を一にしているといえよう︒したがって︑﹃経済学教科書﹄における生産力概念の理解にたいしてのべてきdた
批評
は︑
このばあいにも︑そのまま基本的に妥当するであろう︒もっとも金子氏めばあいは︑労働する人間と生産手段││生
産手段を﹁いいかえればか労働手段uとか原料aとです﹂とし︑原料いがいの労働対象がぬけおちてしまっているの
だが︑それはともかく
ll
tとが社会の生産力を構成する要素であるとしたうえで︑﹁社会の生産力のなかで︑もっと
も重要な主体的・能動的要素は︑労働する人間です﹂と断定的に主張されるだけで︑およそその理由らしきものは説
明されていないようではある︒
ところで︑経済学のもっとも基礎的な概念の一つである生産力という概念についての誤解が︑これほど足なみそろ
えて広汎に普及しているのには︑かならずそれなりの理由があるはずである︒しかし︑その他の理由についてはとも
かく︑ここではあやまちの理論的なプロトタイプ(原型)だけを問題とすることにしよう︒
思うに︑禍根はスターリンが﹃弁証法的唯物論と史的唯物論﹄のなかでつぎのようにのべているところにあるだろ
︑﹁ ノ︒
﹁その助けをかりて物質的財貨を生産する生産用具︑一定の生産ょの経験や労働の習熟をもっているおかげで生産
用具を運動させ︑物質的財貨の生産を実現する人間︑││これらすべての要素がいっしょになって社会の生産力を形
成す
る︒
﹁だが︑生産力は生産の一面︑物質的財貨の生産に利用される自然物と自然力にたいする入間の関係を表現する生
産様式の一面をなすにす︑ぎない︒:・﹂
生産
力と
いう
概念
の意
味
五
立教経済学研究第四O
巻三
号ハ
一九
八七
年)
五
みられるように︑生産がおこなわれるために必要な各要素のうちのあれこれをとりあげ︑それらの要素でもって生
産力が構成されるという定式は︑ここにそのプロトタイプをみいだすことができるのである︒
それではつぎに︑めさきをかえ︑﹃資本論辞典﹄(青木書底刊︑一九六一年﹀での記述をみてみよう︒執筆者は関崎次
郎氏であり︑かかげられた項目は︑﹁労働の生産性︹生産力︺﹂である︒内容は︑﹁I
意義
﹂︑
﹁
E生産性と商品価
値l
一 ︑ ﹁
E生産性と相対的価値﹂︑﹁羽資本の蓄積と労働の生産性の発展﹂という四つの小項目からなっている︒当
面︑直接かかわりのあるのは︑小項目のEまでである︒それらをつぎにかかげることにしよう︒
一「
I
意義
﹂
﹁質的および量的に一定した使用価値の生産に必要な労働時間の大小は︑その労働の生産性の大小をあらわす︒
いか
えれ
ば︑
それ
は︑
一定の労働時間内に生産される使用価値の大小によって表わされる︒それは︑労働者の熟練
度︑科学とその技術的応用との発展度︑生産過程の社会的結合︑生産手段の規模およびその作用力︑土地の豊度など
多種の社会的および自然的諸条件によって制約される︒ゆえに︑労働の生産性を高くするためには︑労働過程の技術
的および社会的諸条件を︑したがって生産方法そのものを変革せねばならない︒﹂
右の最後の一文が対応する﹃資本論﹄の当該個所をみてみよう︒
﹁:
::
やめ
る靴
屋は
︑与
えら
れた
手段
で︑
一足の長靴を一一一時間の一労働日でつくることができる︒彼がおなじ時間
で二足の長靴をつくろうとすれば︑彼の労働の生産力は二倍にならなければならない︒そして︑それは︑被の労働手
段か彼の労働方法かまたはその両方に同時にある変化がおきなければ︑二倍になることはできない︒したがって︑彼
の労働の生産条件に︑すなわち彼の生産様式に︑したがってまた労働過程そのものに革命がおきなゆればならない︒
われわれが労働の生産力の上昇というのは︑ここでは一般に︑一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するよ
うな︑したがって︑より小量の労働によヲてより大量の使用価値を生産する力を与えるような労働過程における変化
のことである︒そこで︑これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では︑生産様式は与えられたものとして想定
されていたのであるが︑必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには︑資本が労働過程をその歴史
的に伝来した姿または現にある姿のままでとりいれて︑ただその継続時聞を延長するだけでは十分ではないのであ
る︒労働の生産力をたかくし︑そうすることによって労働力の価値をひきさげ︑こうして労働日のうちのこの価値の
再生産に必要な部分を短縮するためには︑資本は労働過程の技術的およぶ社会的諸条件を︑したがって生産様式その
ものを変革しなければならないのである︒﹂弓資本論﹄I
︑ 一 一 一
三 三
l
四 ﹀
みられるように︑﹃資本論﹄では労働の生産力と記しているところを︑岡崎氏は労働の生産性と書きかえておられ
る︒
しか
し︑
﹃資本論﹄の右の個所で労働の生産力と記しているところは︑まさにそれを労働の生産性の意で用いて
いるところであるから︑労働の生産性と書きかえてもさしっかえないといえよう︒
ー寸
E
生産性と商品価値﹂
﹁一般的にいえば︑労働の生産性が大きければ大きいほど︑一定の量の商品の生産に必要な労働時聞は少なく︑そ
の商品の価値ば小となる︒逆ならば逆である︒すなわち︑一定量の商品の価値の大きさは︑その商品に実現される労
働の量に正比例し︑それを生産する労働の生産性に反比例して変動する︒それは︑生産性なるものは︑つねに具体的
生産
力と
いう
概念
の意
味
五
立教経済学研究第四O巻三号(一九八七年)
豆函
有用労働の生産性であって︑一定時間における合目的的生産的活動の作用度を規定するだけで︑具体的有用的形態か
ら抽象された労働の価値形成度には影響しないからである︒すなわち︑同種同量(同時間)の労働は︑その生産性の
変化にしたがって異なる量の使用価値を生産するが︑しかしそれは︑生産性がいかに変化しようとも︑つねに同じ大
きさの価値に結品する︒労働の生産性の大小にしたがって同じ価値量が︑あるいは大きくあるいは小さい使用価値量
にになわれるので︑商品一単位景の価値は︑あるいは小さくあるいは大きくなるのであるよ
つねに具体的有用労働の生産性であって︑
ける合目的的生産活動の作用度を規定するだけで:::﹂が対応する﹃資本論﹄の当該の文章は︑さきにもみたが︑っ 右の小項目Eの四番目の文章︑
﹁生産性なるものは︑
一定時間にお
ぎのようである︒
﹁生
産力
は︑
もち
ろん
︑
つねに有用な具体的労働の生産力であり︑じっさい︑ただあたえられた時間内の合目的的
生産活動の作用度だけを規定する︒﹂日資本論﹄I
︑六
O)
ここには︑生産力概急についての﹃資本論﹄での基本的な規定がみいだされるとおもうが︑岡崎氏は︑ここでも︑
円資本論﹄で生産力と書かれているものを︑生産性と書きかえておられるのである︒だが︑ここの生産力を生産性と
書きかえることは︑こんどは許容されないのではなかろうか︒なんとなれば︑ここにいわれている﹁あたえられた時
間内の合目的的生産活動の作用度﹂とは︑ほかならぬ労働の生産性のことであり︑ここの生産力を生産性と書きかえ
るな
らば
︑
﹁生産性は︑・::ただ労働の生産性だけを規定する﹂と︑まったくの同義反復を生むことになるからであ
岡 る
崎氏
の文
索︑
﹁:;:生産性なるものは︑・:・一定時間における合目的的生産的活動の作用度を規定するだけで:
:﹂における﹁一定時間における合目的的生産的活動の作用度﹂とは労働の生産性にほかならない︒したがって︑右
の岡崎氏の文章は︑﹁:;:生産性なるものは:::労働の生産性を規定するだけで:・:﹂と︑まさしく同義反復となっ
ているのである︒
岡崎氏は︑まず項目をかかげるにあたって﹁労働の生産性︹生産力ピとされているのであるが︑このような表示
のしかたをされる理由についてはまったく説明されていないようである︒
労働の生産力という概念は︑しばしば労働の生産性の意味でももちいられる︒しかし︑両者はまったくおなじ意味
の概念ではない︒
本来︑労働の生産力とは︑生産にさいして労働対象にむかつて支出される労働の作用力であり︑労働の生産性と
は︑その労働の力が一定の時間内に結果としてどれだけの生産物をうみだすかということである︒
だから︑たとえば︑機械の生産性について語られることはあっても︑機械の生産力ということはできないのであ
る
閤
機械の生産性について語られるばあいをみてみよう︒
﹁もし︑ある機械を生産するのにその機械の使用によって省かれるのとおなじだけの労働がかかるならば︑ただ労
働のおきかえがおこなわれるだけで︑商品の生産に必要な労働の総量はへらないということ︑すなわち労働の生産力
は増加されないということはあきらかである︒とはいえ︑ある機械の生産に必要な労働とその機械によって省かれる
生産
力と
いう
概念
の意
味
五五
立教経済学研究第四O
巻三 号( 一九 八七 年﹀
五ノ、
労働との差額︑すなわちその機械の生産性の程度は︑あきらかに機械じしんの価値とその機械によってかわられる道
具の価値との差額によるものではない︒この差額は︑機械の労働費用︑したがって機械によって生産物につけくわえ
られる価値部分が︑労働者がかれの道具でもって労働対象につけくわえるであろう価値よりも小さいかぎりはなくな
らない︒それゆえ︑機械の生産性は︑その機械が人間の労働力にとってかわる程度によってはかられるのである︒﹂
(﹃
資本
論
I︑
四一
二)
﹁機械の生産性は・:・機械から製品にうつされる価値成分の大きさに反比例する︒﹂(﹃資本論﹄I︑四二六)
もちろん︑機械に生産力があるわけではない︒生産力はあくまでも労働の生産力なのであり︑その労働の生産力に
よって規定された労働の生産性が機械の使用によって増加する︒そして︑この機械を使用したばあいの労働生産性の
増加分が︑その使用された機械の生産性に転化して現象することになるのである︒だから︑機械から製品に移転され
る価値が︑製品単位あたりに小さければ小さいほど︑その機械の生産性はそれだけ大となってあらわれるのである︒
あるいはまた︑土地の生産性について語られることがある︒
﹁土
地は
︑た
とえ
ば︑
一つの使用価値であり物質的生産物である小麦を生産するときに生産要因として働いてい
る︒しかし︑土地は小麦価値の生産とはなんの関係もない︒価値が小麦にあらわれているかぎりでは︑小麦はただ一
定量の対象化された社会的労働とみなされているだけで︑それは︑この労働をあらわしている特殊な素材とか︑この
素材の特殊な使用価値とかにはまったくかかわりのないことである︒これは︑(一)他の事情がおなじならば︑小麦
が安いか高いかは土地の生産性によってきまるということとは矛盾しない︒農業労働の生産性は自然条件にむすびつ
いていて︑その生産性の高低に応じて︑おなじ量の労働をあらわす生産物︑使用価値が多かったり少なかったりす
る
一シェッフェルにあらわされる労働量の大きさは︑おなじ量の労働が何シェッフェルを供給するかによってきま
る︒このばあいには︑どれだけの量の生産物で価値があらわされるかは︑土地の生産性の高低にかかっている:::﹂
農業労働の生産性とは︑単位時間内にどれだけの農産物をうみだすことができるかという農業労働の作用度のとと
であり︑それは労働のおこなわれる社会的条件によってとともに︑自然的条件によっても規定される︒
農業労働にかかわる自然的諸条件を土地によって代表させるならば︑農業労働の生産性は︑それがおこなわれる土
地いかんによって高くも低くもなる︒すなわち︑単位時間内に生産される農産物の量が多くも少なくもなる︒そして
そのかぎりで︑農業労働の生産性は︑土地の生産性へと転化してあらわされる︒農業労働の白然的条件としての土地
の自然力︑その生産への寄与が︑土地の生産性としてあらわれるのであるQ
念品
と め
生産力とは︑つねに労働の生産力︑それも具体的有用労働の生産力である︒すなわち︑労働の生産力とは︑生産に
さいし︑特定の目的をもって︑人聞が労働対象にむかつて支出する具体的有用労働の作用力
1
l一定の大きさ︑高さ
をもった作用力であるQしたがって︑労働の生産力は︑一定の時間内の具体的有用労働の作用度を規定する︒じっさ
ぃ︑労働の生産力は︑ただ一定の時間内の具体的有用労働の作用度だけを規定するのである︒
単位時間内に︑なんらか特定種類の生産物をどれくらいうみだすことになるのかという具体的有用労働の作用度︑
効率が労働の生産性である︒
だか
ら︑
労働の生産力ほ︑
じっ
さい
︑
労働の生産性だけを規定することになるのであ
り︑そのかぎりにおいて︑労働の生産力という概念は︑しばしば労働の生康性の意味でも用いられるのである︒
生産
力と
いう
概念
の意
味
五七
立教経済学研究第四O
巻三 号︿ 一九 八七 年﹀
五八
労働の生産性は︑基本的には労働の生産力の高さによって規定されるが︑労働手段の性能いかんによっても︑また
労働対象の品質いかんによっても規定される︒労働の生産性は︑生産手段のいかんによっても規定されるという条件
つきで︑労働の生産力・をあらわすことになるのである︒
他方︑生産力はあくまでも労働じたいの属性なのであって︑労働の生産力じたいは︑労働がおこなわれるさいの生
産手段のいかんによっては左右されることがない︒
こうLて︑労働の生産力という概念と労働の生産性という概念とは︑たがいに密接にかかわりあうと同時にl労働
の生産力が労働の生産性の意味でもちいられることもあるのであるが︑たがいに区別もされなければならないのであ
労働の生産力は︑生産の諸要素︑すなわち︑人間なり労働力なりと︑労働手段(もしくは生産用具とか労働用具) る
なり生産手段なりとでも'って構成されるものであるという理解は︑スターリンの生産力概念についての定式を源とし
産力を構成する要素であるととりちがえて主張するものである︒なかには︑ て広汎にいきわたった誤解である︒それは︑生産と生産力とを混同し︑すりかえ︑生産の要素であるからとい?で生
﹁生産力構造﹂などといいだすむさもあ
るようである︒だがしかし︑生産力とはあくまでもつねに労働の生産力︑労働の属性なのであって︑その構成とか構
造とかは︑およそ問題となりえないものなのである︒
︿一
九八
六年
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