一九世紀における契約説
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︿資料﹀
一 九 世 紀 に お け る 契 約 説
を残存と再生
白石正樹
一九世紀初頭︑英国で流行したベンサム派功利主義は社会契
約を拒否したし︑またヒューム以後の他の著作家たちもそれを
信用しないことに尽力したが︑依然︑適当な修正や改作によっ
て︑それを自分たちの政治哲学の一要素として保存することに
努めた少数の人々があった︒これらの人々のうち最も著名で興
味深い者のひとりはコールリッジ(Ooδ誌ααq①)であって︑かれ
の思想は︑幾人かのかれの同時代人の︑それに賛成であれ反対
であれ︑相対的に皮相的な議論よりも︑契約説が代表したもの
(1)の核心に一層接近したゆえに特に注目に値するのである︒コー
ルリッジは躊躇することなく次のことを認めた︒すなわち︑も
し﹁原始社会契約﹂が世界の最初の時代における︑ある現実の
歴史的出来事﹂として示されるならば︑たがいに結合しようと
する人々の間の信約の形式においてであれ︑あるいは︑﹁多数 者が⁝⁝少数者と協約を結び︑一定の条件の下で一方が統治さ
れ︑他方が統治する﹂形式においてであれ︑それは﹁純粋な虚
構﹂であった︒さらに︑それは政治的義務の起源を説明しえな
かった︒なぜなら︑われわれの祖先がすでにその刺激の下にあ
るのでない限り︑かれらは原始契約を結ぶことはできなかった
であろうから︒社会的義務は事実上︑何らの契約もなしに︑
二般的善のために行動すべき﹂義務に帰されうる︒それゆえ︑
原始契約は︑たんに﹁事実として歴史的に立証しえない﹂のみ
(2)ならず︑また︑﹁理論として無意味﹂である︒
ヘへ原始社会契約は︑それゆえ︑完全に捨てられうるし︑そうさ
れねばならないが︑しかしコールリッジは代りに︑﹁臣民と主
権者の相互的義務を表現する極めて自然で意義深い様式﹂とし
ての︑﹁つねに生じてくる社会契約の観念﹂を提出する︒ちょ
うど︑﹁世界の連続が継続的創造の行為として表わされうる﹂
ように︑この意味における社会契約も︑﹁社会的結合のつねに
継続する諸原因を︑われわれの理解力に対して単純化する手
段﹂なのである︒というのは︑﹁政府と強盗団との間に何らか
の相違があるとするならば︑同意の行為が︑統治される人民の
(3)側に想定されねばならない﹂からである︒これこそ︑﹁臣民と
農奴の間の︑コモンウェルスと奴隷農園の問の︑相違の全ての
根拠をなす﹂ものである︒この相違の背後にはまた︑人格‑
道徳的自由の可能な︑責任ある存在‑と︑﹁全く︑単に目的(4)のための手段として使用されうる﹂事物との相違が横たわって
いる︒
この﹁つねに生じてくる契約﹂をコールリッジは憲法のなか
に見るのであるが︑それについては多くの人々が誤った見解を
もっている︑とかれは示唆する︒それは︑権利章典のような何
らかの特定の法律と︑または︑﹁われわれの法律の集合﹂とさ
え︑同等視されるべきでない︒それはむしろ﹁国家の観念から
生じてくる一つの観念﹂であって︑﹁アルフレッド(とぐ⑦住夢o
O器象餅濤︒︒謡ー㊤Φ醤)以降のわが国の全歴史が︑公的人間と
しての性格や職務におけるわれわれの祖先の精神に及ぼした︑
そうした観念︑ないし究極目的の継続的影響を証明している︒﹂
この観念こそ︑いくつかの政府形態に抵抗し︑かつ︑他のもの
を樹立しようと努めるとき︑かれらの努力を鼓舞したものであ
ったし︑また︑われわれは正しくこの観念について︑﹁それに
ょって義務が規定され︑またそれによって権利が決定された人
々の精神と良心のなかにー現に存在するものとして︑すなわ
ち︑原理が存在しうる唯一の仕方において存在する一つの原理
として﹂語ることができる︒﹁⁝⁝数学や幾何学という学問︑
その精神︑その生命自体︑実在性をもつのと同じ意味におい
て︑憲法は真の実存をもつのであり︑また︑それが一つの観念
としてあり︑かつ存在するがゆえに︑やはり現実に存在するの
(5)である︒﹂
コールリッジの思想が明らかに影響を受けたドイッ観念論的
形而上学をここで論ずることは︑適切ではない︒この種の哲学
は今日︑流行遅れであるが︑しかしこのことによって︑かれが
主張していた原理ー国家の倫理的基礎を認識する必要ーの 重要性に盲目になってはならない︒共同体は力と恐怖のみによ
って結合させられることはない︒あるいは︑もしそういう場合
があるとしても︑それは国家ではない︒征服者たち自身︑あた
かも人民が奴隷でなく臣民であるかの如く︑かれらが征服した
人民から忠義の宣誓を要求するとき︑このことを認めているの
である︒﹁というのも︑誰が︑一群の奴隷に宣誓させようと考
えるであろうか︒しかし︑奴隷と臣民の間の相違をなしうるも
のは︑もし︑一方の場合における暗示的契約の存在︑そして他
方におけるその不在でないならば︑何であろうか⁝⁝︒奴隷船
においてのように︑恐怖のみが頼みとされるところにおいて
は︑哀れな犠牲者たちを拘束する鎖は︑物的鎖であるにちがい
ない︒﹂
コールリッジはそれゆえ︑ホッブズの教義を拒否した︒ホッ
(6)ブズに従えば︑﹁剣を欠いた法律は︑小片の羊皮紙でしかない︒﹂
しかし︑これが真実であるにしても︑﹁法律を欠いては︑剣は
(7)一片の鉄にすぎない﹂とコールリッジは答える︒実際︑政府の
唯一の健全な基礎は︑恐怖でなくて人々の義務の感覚である︒
政府は︑人々がそうすることが正しいと信ずるがゆえにそれに
服従するとき︑安全であるにすぎず︑そして︑かれらは政府の
目的や動機が善いものだと確信するときにのみ︑そうするであ
ろう︒こうした条件を満たす政府は︑自発的に︑同意によって
服従されるであろう︒なぜなら︑人々は︑それがその市民たち
にこうした目的の追求によって必要なものとされる義務を課す
道徳的権利を有していることを認めるであろうから︒この同意
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は︑現在の︑かつ連続的同意であって︑歴史的出来事でないと
しても︑たんなる仮定や擬制ではなく︑契約の観念によって象
徴ないし表現されうる一つの現実である︒このように契約を立
憲政治の暗示と結びつけるとき︑コールリッジは︑われわれが
すでにバーグや他の著作家たちのなかで出会った観念を発展さ
せていた︒それは近年︑アーネスト・バーヵ1卿(ω罵⇔ヨ霧什
じ⇔鋤昊o﹃)によって再び提出されたが︑われわれは多分︑当座は
それを離れて︑契約思想の歴史の概観を仕上げたのち︑それに
(8)立ち戻ってよいであろう︒
同様の観念は︑多少異なった︑そしてさほど綿密でない形態
(9)においてではあるが︑ヒューエル博士(∪び≦ずΦ類oεの道徳・
政治哲学に現われている︒かれは︑数学者および科学者として
の顕著な経歴ののち︑一九世紀半ば︑ケンブリッジのトリニテ
ィ・カレジの学寮長であった︒かれは︑政府を﹁外的事実﹂と
して表わす理論‑国王神授権および政治的権威を家父長体系
から引き出すことーとその反対理論︑すなわち︑政府を被治
者の意志の上に基礎づけ︑国家創設を社会契約に帰したもの︑
との中間の道を進んだ︒かれが指摘するところによれば︑政府
には秩序の原理および自由の原理という二つの原理が含まれて
おり︑これらの原理の一つを他方の犠牲において強調するいか
(10)なる理論も︑現実的状況にとって十分ではない︒つねに疑いな
く服従される政府は決して存在しなかったし︑また反対に︑い
かなる個人も服従している規則が︑かれ自身の意志の所産であ
ると主張されることもできない︒﹁人々が新しい独立の植民地 を設立するために自由に結合したとき﹂こうした事態に対する﹁何らかの接近﹂があるかもしれないが︑しかしそこにおいて
さえ︑諸個人はすべてのことをかれらの思い通りにするのでは
ない︒事実︑人間の状態は︑主にかれ自身の意志にとって外的
な状況の結果である︒それゆえにヒューエルは契約説の批判者
たちに同意して︑各個人が当事者である契約の上に政府を創設
することは︑﹁根拠のない不適当な虚構﹂である︑としている︒
またかれの考えによれば︑政府の下で生活し続けることによっ
て︑人間は︑それが樹立された契約に対して暗黙の同意を与え
(11)たという示唆にも異論がある︒
歴史的理論としては︑それゆえ契約の教義は何ら推賞すべき
ものをもたない︒だが︑このことにもかかわらず﹁それは︑道
(12)徳的真理の表現のための便利な形式であるかもしれない︒﹂し
かしながら︑ヒューエルに従えばこういうことがいえるのは︑
社会契約が︑諸個人間のどんな通常の契約とも区別さるべき︑
独特の何物かと見なされる場合のみである︒というのは︑政府
はその臣民たちの間のどんな契約からも導かれえない諸権利を
(13)もっていることが思い出されねばならないからである︒﹁こう
した諸権利は︑社会契約における諸条項である﹂が︑しかし
﹁人間社会の創設行為が︑これらの信約を含んでいるのは︑そ
ヘヘヘヘへれが一つの契約だからではなく︑それが社会契約(月団国ωO‑
(14)9諺いOOZ↓幻諺O↓)だからである︒﹂それでは︑この独特な契
約の条件は何であろうか︒ヒューエルは︑ジェームズニ世の廃
位のときの契約説の使用に言及している︒だが︑かれが示唆し