日 本 倫 理 思 想 史 上 の 中 世
伊東洋一
「中世」とは何か'それを日本の倫理思想史の上で考えてみたい、というのがわたしのねらいです。
ところで「中世」というのは時代の区分上のことでしょうから、日本の中世という場合あるいは西洋の歴史上の時代区分の適用ではないかとも考えら
れます.がそうでをいのかも知れませんDそれにしましても'「中世」という以上西洋史上のそれとの類似が考えられてしかるべきでしょうLtまた中
国史上の「中世」とどう関係するのか'「中世」という以上等し‑何か共通するものがなければ在らないとも思われますoこ‑いった視点から問題をと
り上げることも可能でしょう。というより'こういう視点でこそ日本の「中牡」が位置づけられ、異に日本の「中世」が問題とされたといえるでしょう。
しかしここではそのような巨視的を世界史的視野でするのではな‑'日本の「中世」が何よりも歴史上のl時期として'普通鎌倉'南北朝・室町'戦
国の時期を指すとして、それに限ってその時期の特徴は一体いかなるものか'「中世」的とは端的にどういうことなのかをへ「中世」が始まったと見ら
れる時点に'つまりここからは既に古代ではをいといわれるような時点に捉えてみようと思うのです。勿論時代と時代との間には過渡期といわれる時期
があって'その時期にはこれまでの時代のものとそうでをい何か異質なものとが並存するということがありましょう。そしてそのそうでない異質なもの
が次第に成長して次の時代の主流となれば'それこそ次の新しい時代の特徴的なものといえるでしょう。それが捉えられればと'そのような方向で考え
てみようとするのです。
さてそれでは「中世」の開始、展開がどういうかたちで意識されてい‑のかという問題で、古代末から「中経」の初期の頃をとり扱っているとされる
文献を手がかりに見ていきましょう。
その場合よ‑引かれるのは、﹃今昔物語﹄の「源頼信朝臣男頼義、射殺馬盗人語」という説話です。この説話を有名にし注目すべきものにしているの
はへ評者達が等し‑述べている'二人の武士(頼信頼義親子)の事件を処理するに当っての電光石火ともいうべき実にきびきびした行動であり'更に家
来たちまでがlつの集団と在って事件を乗り切ろうとしていること'それを作者が武士社会の新しい人間関係として新鮮なおどろきで生き生きと語って
いるという点でありましょ‑。事実馬が盗まれたという騒ぎと同時に寝所にあった親子の武士はもう馬上の人となって盗人を追っているという敏速さ'
日を.‑,暗闇の中を実走っているこの親flの武卜は「我が子は必ず追Jlqlている」と川心い'他方は義が机は必デ先を追っている」と思っているUよ
う÷\盗人に追いついて,盗人がもう大丈1(と宣心して馬に小を紙圭〜J嘉入れて水際を歩∵いる水音を閉‑と'「まるですっかり打へ"わせができて
「l,美際は̲=1て子の頼義が後にいるかどうか分らぬのに、u射よ被れやと」といってイ供に射させ'モ)たえがあったと知ると後は家来たち
注汗三さと帰二‑寂てしまう,といった描写に評の適切与」とを読みとることができるのであります。﹃念。物語﹄の編者は源隆凶(L
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七)といわれ、また讐1<=もあって確・11L/ではありませんがt.汚
して武十に優越しているという姿勢がみられるところからもへおそらく貴族階級の人であろうとうそrれてわるものですが'またそこに分たちとは違った人間の出現に驚いていることは「惰キ老共ノ心バヘ也カシ')兵ノ心ハへ哀土気
:A;;)ハ此ゾ有ケル‑ナム語り伝へタルトヤ」とこの説話を結んでいることにも知られるところです。
二の説話肢は編者が今日山準.15ではありませんが'その収トルは凡そ卜一世紀末から卜■一批紀前半とせりれるもので'そうしますとこの時期に従来と違
った何か準小目をものとして呪われてきたものは、武十(「兵」)という新しい人間'そして武者気肺;(「兵ノ心バヘ」)といったエートスが大き‑浮び
卜つてきた一つといってよいのではないかと川心います。
そこで淡にこの「武圭」という八問を考慮しながrJ・^、これは作者も成立年代もはっきりしている﹃方丈記﹄をとりあけてみようと思いますDこの随筆
は、作方鴨k叫へ1.年∴‑一六)が物心がついてから凡そ四十年間をふりかえってみて'「牡の不思議」を経験したことがしばしばであったとい
‑ことをへこの井を打名にしている「ゆ‑河の流れは絶えずして‑・‑」という冒頭のl̀這架に続いて述べているものであります。ところで良明が経験した
「世の̀小思譲」というのは「.tL年の京都の二分の上を焼きつ‑した大火と二八
〇
年の京都の旋風であり'二八1年から半年に及ぶ飢繕更に1l・八.〜rJ隼の大地震をどであります。かれはこれらの‖然現象や社会現象にわたる事件を記述するのにへ例えば大火について「人のやることはすべて愚劣
につきるのだが'京鮎のような危険な町に家をつ‑るといって財貨を祭したり心を配ったりすることは﹃すぐれてあぢきなく(愚劣)侍る﹄」といって、
終始持者として客観視する姿勢をとっているのですが'旋風を述べているところでは「辻風は珍らしいものではをいが、ただごとでない'こんなことが
あご‑よいものだろうか'﹃さるべきもののさとし﹄ではないかと疑った」というのですO長明はこれらの事件を通じて「さるべきもののさとし」つま
り何か神仏のお告げなのではをいかと孝三・∴る。このように長明はこれらの出来事を何かの前兆とうけとっていることは注意されてよいように思われ
ますそれでは一体何の前兆をのでしょうか。
京都の旋風は長明によると治本州隼のEHのころとありますが、歴史年表を見ますと'それから間もないと思われる'rhHには源頼政が以仁千を奉じて
挙止ハし宇治に敗死するという事件があり'更に六日には清盛による福原遷都'八円には相朝が伊l塩に挙托ハし石橋山に敗れるということがあり'九日には
源糞仲の信濃挙止ハ、富‑二川の戦は・LHというふうに'この二八
〇
年という年はようや‑源平一l大武土集団の角逐が桧舞台に登場してきたことがはっきりと印象、つけられる年であります作▲九・半拾S乱はこれより雌L1'̀○隼も前の単作ですから、長叫がとりあげている時制はいわば源平争乱の前夜とい
ってよいでしょう。長明はしたがって古代一L柳体制が・:肌壊していく前ぶれと比たといってよいのではないでしょうか。
そこで、二二で奇妙なことは'長州は穏LIですかJr関わない
と
しても、T
峠の穀族や歌人等の凡そ文学斉や記録寅がこの人動乱を殆ど仕えてない、少くとも今日のわたしたちの前に遣してをいということです。その理由は隠宵も八p=めて貴族や歌人等が耕し‑登場してきた「武士」に対して抱いたLLTえん
とった態性に閲係していると説桝することが=‑肘もよいとHjわれます︺つまりかれらはl様に'武上を教養も何もない田舎者としか見ず'したがって触関
心乃車は細山関心的態度をよそおっているのですーかれらの関心は花a?風日にあったのです‑そのことを先ず障者を代表させて再び長州にみてみ苦し、ナう
かれは遷都なった堪原を訪ねます。そこでは
牛
車に乗るはすの人はj=Tに乗りへ衣冠狩衣をつけるはすの人が武士のようを直垂をつけて・T.カり:小の風俗が変ってしまったことに驚いて'「これではまるでいちかっへの武上と違いはしない'こんなことは乱世の前兆と聞いていたか全‑そ・T,仙りた」と感
懐を述べているのです。
次にT時打力古であった貴族の九条兼夫はこの福原遷郁を「物汁いの世」と妃ており'頼朝の伊豆挙兵や維盛の追討草を率えてC裾偵進発に乱れ飛ぶ
埼▲TE飛語に聞手しておる様十が日記﹃上乗﹄からうかがわれます。このような貴族の態度を典型的にあらわしているのは清原頼業へlド‑八九)で
しょう"かれは半J.女末期の儒者(別紙博tlですが'関東の兵乱や叡山の大衆の動きに対してt
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髪のわたしはひたすら中国某の校訂をやっており'これは什預が賀陽の地でやったと同じ気特である」と'アウトサ‑ダⅠの姿勢を打出しているのです。
卜九才の藤原定家へ1.1tJハ11‑l二g]二は征東草の出発を目前にして「世卜の乱逆追討、耳に満つし一い,Jとi'これを注さず、紅旗征戒は吾が郭に
あらず」とその﹃1‑jH記﹄に記しておりますが'若き定家の二の気負った言葉にも藤原̀門の新興武卜11対ぐる感情ありありとうかがえるように思われ
ます。つまりこれまでいわば臨使していた荘園の番人らが急に成りLつて貴族面をしているO平末の小ハ逐ハ打ち扶てる赤旗など‖分には関係がないtと
いうのであります。凡そ貴族、教養人l般の源平争乱に対する態度はこのよ‑をものであったのでありま‑)ようだからこそ、‖分の境涯や牛溝を歌に
した建礼門院右京人夫や順鞘に答えて歌の「奥旨を知らず」といいえた西行が特異に見えるのは'歌会や贈答のための冊と心得へ作歌の秘訣や奥義をの
み問題にしていたT時■椴の歌人から余りに飾っているためではないでしょうか。源平争乱を歌にしえるのは、人争乱をよそことにするのでなJ\、かえ
ってそこを突きぬけるところにひらけて‑る日出の娼地に・tjつことによってのみ可能であるといえるように思われます。
とに杓このように妃てまいりますと、武Lの詫牛、形成されてい‑武士社会というものかわたしどもの注意を
∵
ノ、という二とは今更疑いのをいと二ろといってよいよ‑に川心かれます。