著者 安川 哲夫
著者別表示 Yasukawa Tetsuo
雑誌名 日本の教育史学
巻 36
ページ 153‑169
発行年 1993
URL http://doi.org/10.24517/00052999
doi: 10.15062/kyouikushigaku.36.0_153
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
『
エ ミー ル』影響 下
のイ ギ リ
ス の 〈学校教 育
〉論
の展 開
一
競争
と共 感
の概 念 を 手
が かり と
して一金 沢 大学
安 川 哲 夫 Emulation
andSympathy
;The
Theory
ofPublic
Education
in
England
under theTmpact
ofEmile
Tetsuo
YASUKAWA
は じめ に
ル ソーの 『エ ミール』(
1762
)が 三種類の英訳を通して広範に流布し, 一部の 進歩的な 知識 人や 親た ちに大 き な影響を与 えた こ と は良 く知 ら れてい る。 こ うし た事情 を捉 え て, 現代の歴史家たちは, 十八世紀 後半の イ ギ リス の教育に与 えた 『エ ミール亅の イン
パ ク トを肯 定的に評価 し,そこ に独自な 地位と価 値を与えて き た。
た とえば
N
ハ ン ス は,ロ ッ クの 提案で 始 まっ た 家 庭 教育は 『エ ミール』の 影響で 「一 層強化され た」と主張 し1>, 社会学者F
.マ ス グロ ウブ も, 「1770
年代か ら80
年代にかけて 目新 し かっ た」の は, 家庭教 育が再び力強 く提 唱さ れて, 中産 階級にまで広がっ たこ と である と 述べ , この 時期 を 「家庭 教育が 質と量の双 方に お いて勝利 し た」 時代 と断 じ た2>
。 教育史家
B
.サ イモ ンがこの 時代の 思 想 と実践に 「教育改革の先駆 」を認め3), そ れを起 点に 『イ ギ リス教 育 史研 究』を描い たことは周 知の通 りで ある が, 『教育の革新 者たち』の著者た ちもまた, そこ に イギ リス進 歩主義教育の真の 始ま りを求めて教育史 上の分 水嶺とした4)。 そ して最近で は, 『十八世紀 イギリス 啓蒙哲 学の教 育学者たち』と
題 さ れ た ドイツ語の著作において,
L
.レーズ ナーはこ の時期の教 育理 論に経 験論 的な教 育科 学の生成を跡付 けようと試み て き た5>。十入世紀後半の イ ギ リスがル ソ ーの影響下にあっ たこ と は事実で ある。 また, こ の 時
代が イ ギ リス 近代 教育思想 史上の 重要な画期を なすこ と も肯首さ れ よう。 しかしなが ら 従来の研 究は, まさに
r
エ ミール 』との意識 的 な対決の な かで 次の時代を方向づ ける新た な理論動 向が 生 ま れて いた事 実を看過し てい る。 古 典 的教育シ ス テム の再興を訴えて 十 九 世紀の学 校 改革に影響 を与え た ヴィ ケシ ム ス ・ノ ッ クス (
Vicesimus
Knox
,1752
−1821
)の 『教 養教育亅(1781
)が, 教 育の 「革新」に対する嫌悪 と 『エ ミール 』批判に基づい てい た とい う事実は, その ひ とつ の例証で あっ たが6)
, 同様のこ と は, 当初ル ソーを
称賛して止 ま な か っ た デ イ ヴ ィッ ド・ウ ィ リ アム ズ
(
David
Willia
皿s,ユ738
一ユ816
)とリチ1 イ亅廾 究 卩侖 文
ヤー ド・ラ ヴェ ル ・エ ッ ジワース (
Richard
Leve1LEdgeworth
,1744
−1817
)がやがてその ik 場を否定 し, 競争と共感とい う、二つ の概 念を軸に学校 教 育論 を再構 築して い っ た過程にも等 し く当て は まる であろ う。
本稿の 課 題は, 上 記 二人の代 表的なル ソ ー主義 者たちの教育理 論の変遷 を思想 史的コ
ン テ クス トに位置づ ける なかか ら,
『エ ミール』の イン パ ク トをで きるだけ相 対化 し,
十八世 紀 後 半の 学 校 教 育論の歴史 的地 平を明 ら かにす るこ とにある。
1
.『
エミ
ール』 とイ ギ
リス のル ソ ー主 義 者
たち 1
) 『エ ミール亅受容の背景まずは, 『エ ミール』を好意的 に迎 え 入 れてい っ た 人々 が そこに見 ,期待 した もの は 何であっ たの か,とい う問 題 か ら 見て い くこ とに し よう。
周知の ようにル ソーは,現代におい て は 「人 間で あ る と同時に市 民で もある」人間は も はや存在する こ とが で きず, また国家の ない とこ ろ に学 校 教 育はあ りえない として ,
「家 庭 教 育つ ま り自然の教 育」を 優 先 させ た。 そ して,親たち (と くに母親)に向っ て子 ど も を自ら養育し教 育する こ との 重 要 性 をこ う訴えて い た。
「母親が再び す すん でわが子 を育て るこ とにな れ ば, マ ナーは ひ と りで に改まり, 自
然の 感情が わ れ わ れの心 に よ み が えっ て く る。 国の 人 口 も増えて くる。 この最 初の
の コ ロ . ロ ロ コ ロ ロ ロ
点 ,この点 だけ が あ ら ゆ る もの を再び結びつ ける こ と になる。 家庭生活の 魅力はマ
. . ■ ■ ■ り ■ ロ ■ コ サ
ナーの堕 落に 対 す る最 良の解毒 剤である。 … …こ うして, この た だ ひ とつ の弊 害が 正
さ れ た だ けで, やがて全体の改 革が もた ら さ れ, 自然はやがて そのすべ ての 権利 を取
り戻すで あろ う。 ひ とた び妻が 母 と な れ ば, やがて男性は再び父と な り, 夫となるだ
ろ う」7)。 (強調点は引用 者〉
有名な一文で あ るの で省略 して引用 した が,こ こで は と くに次の 二点が 重要である。
第一は
, ル ソーは当時 『新エ ロ イーズ』(原著 も英 訳 も
1760
年刊 )の著者と し て名声 を博 して おり, その 彼が著 し た 『エ ミ ール 』に イ ギ リ ス人が真っ 先 に見, 共 感 を覚え たのは, 田 園 詩 に慣れ親しん でい た中流 階層に はすで に 馴 染 みのテーマ で あ
っ た幸せ な家庭 生活, 幸せ な結婚の 理想で あっ た とい う点である。 この こ と は, 最初の英訳が 『新エ ロ イーズ
j
と 同一の訳者 (William
Kenrick
)の手に よっ て なさ れ, その タイ トルがヒ ロ イン の名を わ ざ わざ付 した 『エ ミール とソ フ ィー :別名教育の新 しい 体系 』となっ てい た
こ と か ら も容 易に窺い 知る ことが で きよう。 ち な み に,私立図書館に所 蔵され てい る フ
ラン ス語版の ル ソ ーの著作の 中で,
『エ ミール』は 『新エ ロ イーズ』に次い で第二位 を 占めて い た8)。
第二 は, 『エ ミール』が 「新 しい」家 庭 教育の書 と して見ら れ,世 紀末まで に
8
度 も出 一154
一『エ ミール』影響下 の イギ リスの く学 校 教 育〉
論の展 開
版さ れ る ほ ど広範に 普 及 した背 後に は, 十八 世紀 後半の イ ギ リスが抱えてい た固有の歴 史課題があっ た とい う点で ある。
当時 イ ギ リスでは, 社会の秩 序と平 和に寄 与 してい た位階 的 な従 属 関係が次 第に弛 緩 し, 家 族の崩壊, マ ナーの堕落 ,人間と市 民の分 離 ・対 立, およびこれ らの結 果と して 現れ た無秩序の 蔓延が大 きな社 会問 題 と な り始めてい た。 これらの 問題の 原 因をロ ッ ク
的 なジェ ン トル マ ン教 育の あり方に求めてい っ た教 育 家たちは,
「善 良な 人 間」に代わ
っ て社会に有用 な 「善 良な市民」を目的とし て掲 げ, 学校 教育を 社会の新た な秩 序創 出
の 道具 と して推奨 してい た け れ ど も9)
, 学校 教 育の誕 生 を促した こ うし た時代の心性 は, また一方で, 瓦壊 しつ つ ある家庭 を私的な教 育の再構 築に よっ て修 復 ・再建 し,よ
っ て社 会 秩 序の 回 復 を 図ろ う と する気運 をも醸成 して い た。 英 訳 出 版に先 立っ て計 7 回
「エ ミール』の抄訳 を載せ て いた 『ロ ン ドン ・クロ ニ ク ル』誌が, 「家庭生活の魅力はマ
ナ ーの堕落に対 する最良の 解毒剤であ る」 とい う一
文を 三度にわ たっ て掲 げてい た事実 は, これ を特徴 的に示 すひ とつ の 事例で あっ た。 家族に社会 「全体の改革」の基礎と 人々を 「再 統合する 」拠点を求め てい こ うとする, ル ソー
が 『エ ミール』で採用した戦 略は, ま さに こ うした時代の 要求に合 致し たもの で あっ たの である。
個 人 的 な 関 心 か ら 『エ ミール』に接 近して い っ た とはい え, 教育を学校に譲 り渡 すこ とに強 く反対 し,
「自然に従うこ と」を基本 原理と して教 育家 とし ての ス ター トを切っ たウ ィリ アム ズ とエ ッ ジワ ース の 思 想は,そうし た 十八世 紀後半の イギ リス の歴史課題
に応 え ようとする ひとつ の 時代の 精神を体現 して いた。
2
>ウ ィリ ア ム ズ とエ ッ ジワ ース の 初期の 教 育論パ ブ リッ ク ・ス クール を 「すべ て の 絶 望 的 な 人 間 が最 後の 拠 り所 とし て送 られ る精神
ユ0)
病の ため の総合病 院」
とみ な し, 実際に 自らの手で わが子 を家庭で 教育 し たの は,ア イル ラン ドの旧 家に生 ま れ たエ ッ ジ ワースであっ た。 父 親 と なっ た
23
歳の 年に, これ ま で見て き た家庭 教 育の 「欠陥と不 合理さ」と対 比 して, 『エ ミール』が ど れ だけ信頼の お け る もの である か を検 証する た め,彼は長男デ ィ ッ クをル ソーの原 理 に従っ て教育しようと決 意 した。 進取の気象に富んだこの 若い 父親に は,
『エ ミール』は 「雄弁の魅 力 と新奇さの力」を兼 ね備 えた作 品であっ た。
息子の 肉体 と精神 をで きる限 り 「自然と偶然の 教育」に委ねる 厂公正 な実験」11)は,
1767
年か ら5
年間 (息子が3
歳か ら8
歳に なる まで の 間)続け ら れ た。 その間に は, 当時カ レッ ジの学生で,
1769
年の エ ッ ジワ ース 宛ての 手紙の な かで,『エ ミール』を 聖書に 次い で 二番 目に重 要 な作品 と して位 置づ け, ル ソーを 「第一級の 人間」と絶 賛し てい た トーマ ス ・デイ(
Thomas
Day
,1748
−89
)の協力 もあっ た12)。 彼ら は1772
年に フ ラ ン ス に出1 研 究 論 文
かけた折, ルソー を訪 ね, 彼にデ ィ ッ ク を直接 引き合せ た。 検分の 結果はお お む ね 満 足
のい くもの で あっ た。 実験は成功 し た かの ように思わ れ た。 後にエ ッ ジワースが語る と
ころ によ れ ば,
「息子 は, 野蛮人の あ ば ら屋 で育て ら れ た子 どもが持つ すべ ての 徳 と, 文 明 杜 会で育
て られ た少年が初期の時代に立派に獲得 する で あろ う事物の 知 識 すべ て を有 してい
た。 …書物の知識 に関 し て は,同 年 代の 子ども た ち が持つ 知識と 比べ れ ばわずか し か
持っ て い なか っ たが, 機械につ い て は,これ まで見て きた どの 子どもたちよ りもはっ
きりと した考 えを持っ て い た し, 知 識の適 用に つ い て も多 く 発 明の 才を持っ て
い た」13)。
1798
年に娘マ リア (Maria
Edgeworth
,1767
−1849
)との 共 著で公刊 さ れた彼の代 表 的な 教育論 『実 際的教 育』は, こ の 実験成果に裏打ち さ れて,上流 階層の3
歳か ら8
・9
歳ま での子 ど もを 対象に書 か れ た 教育書で ある 14>。
ユ ニ テ リア ン派の牧師で , 政治的には急 進改 革派, そ して後には不遇 な作家た ち を救 済する ロ イヤ ル ・フ ァ ン ドの 設 立者と して知 ら れてい る ウィ リ アムズ もまた,
『エ ミー
ル』に魅せ ら れ た 思 想 家の 一人で あ
っ た。 彼は
1774
年の 『教育論』でル ソ ーに最大の賛辞 を送 り, 自然の原 理 に基づ い て 「人間」を形成するこ とが教育の第一の 目 的で ある と し た。 そ し て こ の観 点か ら, 既存の学校 に権威に よっ て歪 め ら れた事物 状 態の 縮 図一「誤謬」「偏 見」「迷 信」厂機 械 的 な秩序 」「絶対 的な権 威の 鉄の笏」一 を見, また子 ども
の苦 労を取 り除 くこ とが 教 育の改善だ と す る流行の 考 え方を, 「自然が欲 し てい るの 15)
は, 援助で はな く, 奉仕で あ る」
と述べ て批 判 した。
彼は さ らに,父親を除 けば何 人 も子どもを教 育するこ と はで き ない し, 父親が家を治
めて子どもを教育で きる な ら, 学校は 不 必要と な るであろ うと主 張 した16)。 また, 「現 在の事 物の状 態にあっ て は,教 育は家庭の仕事であっ て, 政府の仕
事
では ない 」ユ7)と も 述べ た。 こ うした言説か ら, ウ ィリ アムズ は しば しば学 校 その ものが不 要になる時代 を 待望 し た 思 想家とし て位 置づ けら れ た りする が, しか し, 彼は純 粋に私 的 な 教 育 を構想して い た わけで はなか っ た。 彼に よれ ば, 父 親 が子 ど も を教 育 する こ と は,
「空 想 的
で , 実 践不可能」で あり,そ れ は 「無 知で 悪徳 的 な 人 間 (大人)が, 知識 と徳を もっ た
入 間 (子ども)を教育 する こ と」 を意味 してい た18)。 家庭教 師に よ る教育 も, 立 派な教 師を見つ け だ す こ と は困難な 上に, 発 見さ れ た と して も父親に は適否の 判 断がで き ない
し, 家庭 教 師は その精神やマ ナーに よ
っ て 生徒 を害 するこ との方が多い ,とい う理由で 推薦さ れ な かっ た。 多くの父親が息子を学校へ 送ら ざる を得な くなっ てい る の は この た め だ と解した ウ ィ リア ム ズは, そ れ ゆえに
1773
年,チェ ル シーの ロ ーレ ン ス通 りに小 さな学校を開い た。
一