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類 似 性 の 倫 理

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(1)

類似性の倫理

ーーースピノザにおける﹁共通概念﹂をめぐって!|i

アレ

クサ

ンド

ル・

マト

ゥロ

ン︵

注民

自色

店宮

山吾

g

ロ︶

がい

みじ

スピノザの倫理学は﹁類似性の倫理﹂

5 5

1︶ 

E ρ

己ゆ常一白

m H B E E

目︒

︶と

でも

言︑

つべ

き一

面を

もっ

てい

る︒

フラ

も指

摘し

てい

るよ

うに

スにおける﹁スピノザ・ルネサンス﹂の金字塔というべき﹃スピノ

ザ に お け る 個 人 と 共 同 体

︵ 宮

S A

8

5 3

£ 還 さ 尽

g ♀

S O S

− 呂

52

H C S

︶という大著を残す偉業を成し遂げたマトゥ

ロン

のこ

の指

摘は

︑ス

ピノ

ザに

おけ

る倫

理が

︑人

間相

互の

類似

性︵

﹁類

似性

の意味はのちにおのずと明らかになるであろう︶に基づく共

同体形成の問題と不可分であることを適切に示している︒われわれ

もまた︑こうしたマトゥロンの指摘に導かれて︑スピノザにおける

倫理と共同体の問題に分け入ろうと思う︒

その第一歩として︑まずスピノザの﹁類似性の倫理﹂の輪郭を浮

き彫りにすることが肝要であるが︑このためには︑少なくとも次の

類似

性の

倫理

メ入

二つの観点からのアプローチが有効であろう︒ひとつは︑

いわ

ゆる

﹁感情の模倣﹂のシステムがっくりだす人格的他者とのイマジネlル

な自己同一化の過程に関する分析︑もうひとつは︑われわれが第二

種の

認識

︑す

なわ

ち﹁

理性

﹂︵

吋在

︒︶

によ

って

﹁共

通概

念﹂

︵ロ

♀5

5m

n o g B 5 2

︶を形成する過程で芽生える社会的共同体の基礎的機構

に関する分析である︒前者に関しては︑すでにすぐれた論考も存在

2︶ するので︑稿をあらためて論ずるとして︑本稿では︑後者に関する

分析に立ち入ることで︑﹁共通概念﹂がいかなる意味で﹁類似性の倫

理﹂の基礎となる概念であるかを明らかにする︒

共通概念とその形成過程

﹁共通概念﹂とは︑二つ以上の物体の聞に存する︑共通な特質につ

いての十全な観念である︒こうした共通の特質は︑最小限二つの物

体の聞に存在するものから︑最大限すべての物体の聞に存在するも

のに至るまでの幅をもっており︑この幅の聞に無数の共通性の量的

(2)

差異を考えることができる︒そうした幅の間にある無数の中間段階

を捨象して︑幅の両極に注目するならば︑すなわち︑後述するよう

に︑いくつかの物体の聞に存する共通な要素を考えるか︑すべての

物体に共通な要素を考えるかという二点に注目するならば︑共通概

念を二つのタイプに類型化することができるのである︒ドウルlズ

︵ の

E

g

ロ 巳

gH NO

やゲ

l

︵宮

山同

氏札

58

己ぎといった︑共通概念

の重要性に着目する注釈家たちはいずれもこの二つのタイプの共通

概念の内実とその機能を詳細に分析している︒まずは彼らにならっ

て︑共通概念の基礎的特性を確定するところから始めよう︒

まず第一のタイプは︑ドゥルl

ズが

﹁も

っと

も一

般的

な共

通概

念﹂

ゲル

lが﹁一般的共通概念﹂と呼ぶものであり︑﹁エチカ﹄第二部定

理三八にその規定を見出すことができる︒すなわち︑﹁すべてのもの

に共通であり︑そして等しく部分の中にも全体の中にもあるものは

十全

にし

か考

える

こと

がで

きな

い﹂

︒﹁

すべ

ての

もの

に共

通で

あり

そして等しく部分の中にも全体の中にもあるもの﹂とは︑﹁エチカ﹄

第二部定理二二の後の補助定理二をみれば明白なように︑﹁延長﹂︑

﹁運

動﹂

︑﹁

静止

﹂と

いっ

た諸

要素

であ

る︒

次に第二のタイプとして挙げられるのは︑ドゥルlズが﹁もっと

も一般性の低い共通概念﹂︑ゲルlが﹁特有な共通概念﹂と特徴づ

けるものであり︑これは﹃エチカ﹄の第二部定理三九にその規定が

ある︒すなわち﹁人間身体および常に人間身体を刺激するいくつか

の外部の物体に共通でかつ特有であるもの︑そして等しくこれら各 物体の部分の中にも全体の中にもあるもの︑そう

L

たものの観念も

また精神の中において十全であるだろう﹂︒この第二のタイプの共通

概念については︑当然のことながら︑それがもっ共通要素の量を変

化させることによってさまざまな度合いを考えることができる︒

U

ずれ

にせ

よ︑

﹁延

長﹂

︑﹁

運動

﹂︑

﹁静

止﹂

とい

う究

極の

共通

要素

を与

る第一の共通概念以外は︑すべてこの第二のタイプのものに包摂さ

れると考えられる︒留意すべきは︑どちらの共通概念もわれわれに

十全な認識を︑すなわち︑観念と対象の関係を度外視しても観念白

身がその真理性の内的特質を備えているような認識︵尽ロ巾医︶を与

えることができるということ︑そしてそれはすべての人聞が等しな

みに有することができる認識であること︑これらのことである︒

それではこうした共通概念はどのようにして形成されるのだろう

か︒われわれが共通概念を単に抽象的にではなく︑その具体的発生

過程において分析するためには︑

ドゥ

lズの手ほどきにしたがっ

て︑﹁もっとも一般性の低い共通概念﹂から出発するのが至当であ

ろう︒というのも︑﹁もっとも一般的な共通概念﹂から出発するなら

ば︑

﹁延

長﹂

︑﹁

運動

﹂︑

﹁静

止﹂

とい

う︑

すべ

ての

物体

に遍

在す

る︵

れゆえに厳密に言えば発生的過程とは無関係の︶構成要素をとらえ

ることに終始することとなり︑それは自然科学の手続きとしては理

に適ったものであるとしても︑共通概念をその形成過程のダイナミ

ズムにおいてとらえ︑実践的・倫理的機能を明らかにするという目

的を達成するにはそぐわない手続きであろうからである︒

(3)

スピノザによれば︑人間精神が︑外部にあるもろもろの物体につ

いての認識を有するのは︑それらの物体が人間身体を刺激し︑それ

によって人間精神がみずからの身体の変様の観念を有することに

よってのみである︵開N足︒︶︒しかし︑人間身体の変様の観念は︑外

部の物体の十全な認識を含んでおらず︵尽足印︶︑そのため人間精神

は︑外部の物体を表象する限り︑それについての十全な認識を有す

るこ

とは

ない

︵開

匂訟

の︶

0スピノザは言う︑﹁精神は物を自然の共通

の秩序にしたがって

S H 8 5

5 2

5 E

O

E

丘宮

ゆ︶

知覚

する

たび

に︑

すなわちそれが外部から︵ゆ凶

5 5

0

︶︑もろもろの物の偶然的出会い

によって︑これないしあれを観想するように決定されるたびに︑白

分自身についても︑自分の身体についても︑外部の物体についても︑

ただ混乱し︿そして段損した﹀認識を有するだけである﹂︵開N

足包

0

﹁自

然の

共通

の秩

序﹂

とは

やや暖昧な表現であるが︑これは︑

ゆる﹁永遠の相のもとに﹂とらえられた自然ではなく︑有限性と偶

然性によって特徴づけられる限りの自然︑すなわち有限様態として

みられた限りの自然の秩序のことを指していると考えてよい︒この

秩序においては︑諸物相互の接触機会はまったく偶然なものである

ため︑たとえその接触によってある種の関係が生まれ︑それが維持

されるとしても︑それは諸物の内的共通性に基づくものではなく︑

あくまで外的な︵表面的な︶共通性によって構築されたものにすぎ

h v

・ν

たとえば言語秩序といったものは︑こうした偶然的な出会いの秩

類似性の倫理 序の最たるものとして考えられる︒スピノザによれば︑言葉とそれによって名指された対象との聞には恋意的な対応関係が存するのみであり︑例えばラテン語の

H 5

5 5

︼という名詞が指示する果実は﹁か

の発音された音声とは何の類似性も︑また何の共通なものももって

いな

い﹂

︵開

N E

∞ 印 ︶

0したがって︑宮

B E

H

が果実を指示するのは︑

ローマ人が果実を表象しつつ︑同時に宮

E C

B

という言葉を聞くこと

によって︑身体の変様を被り︑さらに記憶の助力によってそうした

身体の変様が習慣的に秩序化されることによって︑それら二つの要

素︵果実の表象像と宮ヨロBという言葉︶が結びついた結果にすぎな

いというのである︒また︑ある表象像から別の表象像への連想が起

こる

原因

につ

いて

も︑

スピノザはそれを︑個々の人間身体の変様の

秩序が有する特殊性に還元されるものとみなしており︑

たと

えば

軍人であれば︑砂の中に残された馬の足跡から騎士の想念へと︑さ

らに戦争の想念へと連想を働かせるが︑これが農夫であれば︑馬の

想念から鋤や畑などの想念へと特異な連想を働かせるという具合で

ある

つまり言葉とそれが名指す対象︑表象像とそれが差し向ける

別の表象像との聞には偶然的出会いが存するのみであり︑その両者

の聞には共通なものは何もない︒スピノザが﹁記号﹂︵巴官己B

︶に

よる認識を第一種の認識に分類するのはこのような理由による︵巳・

N

hp oω N︶ ︒

これに対して知性の秩序に相応して生ずる観念の連結は︑すべて

の人聞にとって同一であると考えられており︵開

N E

∞印

︶︑

これ

は複

(4)

数の事物に共通な要素を精神が観想することによって形成される観

念の秩序にほかならない︒すなわち︑精神は︑﹁内部から︵

5 Z B

ゆ ︶ ︑

すなわち多くの物を同時に観想し︑それらの一致︑相違︑対立を考

えるように決定される﹂たびに︑それらの物についての明附判明な

観念を有するのである

︵思

足︒

印︶

0ここでは複数の物を相互比較す

ることが機縁になって共通概念が形成される︒この場合精神は諸物

をその偶然的出会いの機構において観相心するのではなく︑ある種の

必然性︑すなわち永遠性の機構において観想しているのである︒と

ころ

で﹁

物を

︑水

遠の

相の

もと

に知

覚す

るこ

とは

理性

の本

性に

属す

る﹂

がゆ

えに

︵開

NE KH

hN︶共通概念は﹁理性の基礎﹂たる身分を与えら

れ る

︵ 同

N

A H A H

υN

ロ ︶ ︒

共 通 概 念 と 表 象 力

このように共通概念はいわゆる第二種の認識︑すなわち理性によ

︵ ロ ︶

る認識の基礎であり︑表象力︵F包括店主5︶による感覚的認識︑す

︵ 日 ︶

なわち第一種の認識とははっきりと区別される︒二つ以上の物体に

共通なものを認識するということから︑共通概念の形成にあたって︑

ある種の抽象作用が働き︑それが表象力の介入を不可避なものとす

るようにも思われるであろうが︑共通概念と表象力の関係を考える

際には慎重な考察が必要である︒というのも︑のちに明らかになる

であろうように︑共通概念の形成は︑表象力の介入を妨げるもので

はないが︑それはある種の抽象概念の形成とはまったく異なるもの

︵ は ︶

だからである︒実際スピノザにおいて抽象作用は︑もろもろの個体

の特殊性を構成する諸要素の区別が表象力によって不分明にされる

過程そのもののことであり︑それゆえ非十全な認識であると考えら

れている︒すなわち︑表象力の相関者である表象像︵

5 お

O

l

ある一定数を越えると混乱して表象されるようになる︒そのため︑

われわれは判然と表象できない個物の特異性を捨象することを知覚

の本

性上

余儀

なく

され

る︒

スピ

ノザ

は︑

﹁存

在﹂

︑﹁

物﹂

︑﹁

ある

もの

﹂と

いっ

た﹁

超越

的名

辞﹂

︵門

B

H E R S R B

母ロ

Eg

ゃ﹁

人間

﹂︑

﹁馬

﹂︑

﹁犬

﹂と

いっ

た﹁

一般

的概

念﹂

︵ロ

5♀

吉 田

5 2 2 g z

m

︶を︑表象力が

個物を一定数しか判然と区別して表象することができないがゆえの

無能力の産物として考えている

︵ 開

NH

h H

︵ ︶ 巴

0

たと

えば

われ

われ

は︑

個々の人物の些細な相違を︑それが二疋数を越えると表象できなく

なり︑それら個々の人物の一致点に着目して︑それを﹁人間﹂とい

う名によって総括する︒しかもそうした一致点となる要素は︑これ

もまた個々人によって相違があるので︑ある者は人間を﹁直立した

姿の動物﹂として︑またある者はそれを﹁笑う動物﹂として名指す

ような結果となる

︵ 門 戸 開

NECmH0抽象概念に対するスピノザの批

判は︑唯名論者としてのスピノザの一面をもっともよくあらわして

いるが︑共通概念の導入がそうしたスピノザの一面と矛盾すること

はない︒それというのも︑共通概念で問題となる諸要素は︑あくま

で存在論的なレベルにおいて諸物に﹁共通なもの﹂であって︑それ

(5)

自体としては非実体的な理念的構築物という性格をもっ抽象概念の

諸要素とは異なるものだからである︒

このように理性知︵第二種の認識︶と感覚知︵第一種の認識︶

区別をあくまで前提とした上で︑共通概念の理性知たるゆえんを見

誤らぬようにしなくてはならないのであるが︑ここで問題となるの

は︑スピノザにおいては共通概念は︑その内実からすれば︑

デカ ル

トにおいてそうであるのとは異なって︑数学的公理と同一視されて

いるわけではなく︑あくまで﹁身体の様態の観念﹂であるという独

自性をもっている以上︑身体の変様にともなう表象力の感覚的特性

が共通概念の理性的特性といかにして折り合うことができるのか︑

という疑念を解消する必要がでてくるということである︒先ほども

述べたように︑精神が事物を﹁自然の共通の秩序﹂に従って知覚す

る場合には︑外部の物体の刺激によって惹起される身体の変様の観

念は︑外部の物体についての十全な認識ではない︒﹁人間身体のおの

おのの変様の観念は︑外部の物体の十全な認識を含んでいない﹂

︵ 開 N H U N ω

︶︒しかし人間精神が外部の物体を現実に存在するものとし

て知覚するのは︑自己の身体の変様の観念によってのみなのであり

︵尽足︒︶︑しかもこの身体の変様の観念は︑人間身体の本性と同時

に︑外部の物体の本性を含んでいるのであるから︵開

NE AY E∞ 印 ︶ ︑

この帰結として︑外部の物体のいくつかの特性と人間身体の特性と

の聞に共通な要素が認識されるのは︑やはり身体の変様の観念を介

するほかない︒しかし︑こうした共通な要素は十全にしか認識され

類似性の倫理 ないというのがスピノザの主張なのであるから︑この限りでは﹁われわれが何らかの明断判明な概念を形成しえないようないかなる身

体の変様も存在しない﹂︵開旬仏︶ことになる︒ここでは表象力の介

在する余地はまったくないようにも思われよう︒しかし︑たとえ十

全に認識された身体の変様であっても︑それが外部の物体の本性を

含む限りにおいては﹁たとえそれが諸物の形姿を再現することがな

くて も﹂

︵開

NE討︶身体の変様は物体の﹁表象像﹂と等置され︑こ

の﹁表象像﹂を観想する様式は呂田肉店主5以外のなにものでもない

のである

︵ 門 戸 開

N句 ﹈

弓 印 ︶

0

したがって共通概念によってもたらされる理性知と表象力との関

係をはっきりさせる必要がどうしても出てくる︒スピノザは︑われ

われが明断判明に認識するものと表象像との関係を明らかにするこ

とで

ひとつの回答を示す︒すなわち﹁諸物の表象像は︑他の表象

像とよりも︑われわれが明断判明に認識する諸物に関する表象像と︑

より容易に結合する﹂︵開屯−N0この定理の証明において﹁われわ

れが明断判明に認識するもの﹂と諸物に共通な特質およびその特質

から導出されたものとが等置されていることからも明らかなように︑

われわれが共通概念によって明断判明に認識する物の表象像は︑他

の表象像よりもいっそう頻繁に喚起され︵何百ロロ︶︑われわれの精

神を占有するようになるということがわかる︒この意味で表象力は

共通概念の定着を補助する役割を担っているとさえ言える︒ゲルl

が指摘するように︑共通概念がもっている﹁知性的明証性﹂は︑表

(6)

象力によって﹁感覚的明証性﹂を与えられ︑﹁精神の眼﹂は︑いわば

﹁身体の眼﹂との共同作業によって︑認識の明証性のレベルを上昇さ

せていくのだと考えることもできるであろう︒実際︑われわれは第

一種の認識から第二種の認識へと進むとしても︑決してそれによっ

て透明な論理的知性の空間に移行することができるわけではなく︑

依然としてイマジネlルな空間の中を動いているわけであり︑その

意味では共通概念の形成は︑表象力の法則に多くを負うている︒ドゥ

ルーズが﹁共通概念一般の適用は︑理性と表象力との聞の︑理性と

表象力の法則との聞の興味深い調和を含んでいる﹂と主張し︑あえ

て﹁表象力と理性との自由な調和﹂という表現を用いているとして

も︑それは決して過言ではあるまい︒

共通概念と理性の共同体

われわれはこれまで︑共通概念の一般的規定を確認するところか

ら出発し︑次にその形成過程のメカニズムを分析し︑さらに共通概

念の実際的適用の場面において表象力が果たす役割についても述べ

た︒これによってすでに︑共通概念がその認識論的枠組みを越え出

て倫理的次元へと突出する有様をとらえるための下準備を終えたよ

うに思われる︒ところでスピノザの倫理学についてなにごとかを言

おうとする際には︑その感情論を考慮せずには済まされないことは

周知のことと言えよう︒したがってここではスピノザの感情論に定

」 ー

位するところから出発して︑共通概念の倫理的側面の解明へと進ん

でい

こ︑

っと

思︑

っ︒

スピノザは彼以前の思想家たちが感情を論じる際に︑﹁自然の共通

の秩序﹂の一部をなすものとしての人間について論ずるのではなく︑

自然の中の人聞を﹁国家の中の国家﹂︵

B u q E B E F B H

足 立

︒ ︶ のご

とく

に︑

つまり︑あたかも自然の只中に飛ぴ領地を形成する特権的

存在であるかのごとくに扱っていることを論難している

開 ω

m wm w

0

﹁人聞が自然の一部分でないということは不可能であり︑また人聞が

単に自己の本性によってのみ理解されるような変化︑自分がその十

全な原因であるような変化しか受けないということも不可能であ

る﹂

︵開

品川

豆一

︶と

主張

する

スピ

ノザ

にと

って

︑感

情の

本性

は個

々の

聞の内面性という閉じた空間を分析対象とすることによっては把握

不可能なものであり︑むしろ︑外部から圧倒的な力をもって人間身

体を触発してくる外部の物体の本性と︑触発される人間身体の本性

との相互的交渉のダイナミズムを考慮することによって初めて理解

可能となるはずのものであった︒それゆえスピノザによれば︑われ

われ

を翻

弄し

しばしばわれわれをして﹁よりよきものを見ながら

︹そ

れに

もか

かわ

らず

より悪しきものに従う﹂︵肘ω

足 印

ようにさ

せるほどの絶大な力をもった感情を抑制するためには︑感情に対す

る理性の優位を自明の前提とし︑ひたすら理性の鍛錬を事とする従

来の道徳は無力であり︑むしろ感情の力学的法則を明らかにし︑感

情の力を理解するところから始めなくてはならない︒それはスピノ

(7)

ザにおいて感情がもっぱら力学的に定義されていることからもわか

る︒すなわち﹁感情とはわれわれの身体そのものの活動能力を増大

しあるいは滅少し︑促進しあるいは抑制する身体の変様︑また同時

にそうした変様の観念であると︑私は解する﹂︵思庶民︶0次に身体

の活

動能

力は

一︑

増大

する

二︑減少するか︑:︑増大も減少

もし

ない

か︑

のいずれかであることが明らかにされ宙

ω 3 2 H

︶︑

らに心身平行論の立場から︑身体の活動能力の増減が精神の思惟能

力の増減とパラレルに対応することが主張される︵開

ω E

H

0

そし

有名

なコ

ナト

ゥス

の法

則︵

丘・

ω

2 h

叶︶によって︑人間精神がつね

に身体の活動能力を増大するものを表象し︑活動能力を減少するも

のの表象に対して︑それを排除する別の表象を置換するべく努める

傾向性をもっていることも導出される︵開

ω E N H

Z

︒こ

うし

てい

たん感情の力学的法則が確定済みになると︑その法則にしたがって

様々な個別的感情の特性が説明されていく段取りとなっている︒周

知のようにスピノザは﹁喜び﹂︵

g i s t

目︶

︑﹁

悲し

み﹂

5

2

白︶

︑﹁

望﹂

2

立宮

山田

の三つの感情を基本感情とし︑他の諸感情をこれ

らの基本感情から合成される派生的感情をみなしている︒スピノザ

の感情論において特徴的なのは︑こうした基本感情の合成の力学が

直接的に善・悪といった道徳的価値形態の産出の力学と一体になっ

ていることである︒すなわち善とは﹁あらゆる種類の喜び︑そして

さらに喜びにとって役立つもの︑そして特に︑それがいかなるもの

であれ︑願望を満足させるもの﹂であり︑悪とは﹁あらゆる種類の

類似

性の

倫理

悲し

み︑

特に

願望

を妨

げる

もの

﹂︵

開ω

沼お

であ

る︒

とい

うの

も︑

スピノザによれば﹁われわれはものを善と判断するから欲するので

はなく︑反対にわれわれの欲するものを善と呼ぶ﹂︵開

ω H u S

印 ︶

か ら

である︒このように欲望の感情を基軸として︑喜びの感情の増大は

活動能力の増大と︑悲しみの感情の増大は活動能力の減退と一体化

しているのであるから

︵ 丘 ・ 開

ω E

5

ω

同︶

︑結

局﹁

善お

よび

の認識は︑われわれに認識された限りにおける喜びあるいは悲しみ

の感

情に

ほか

なら

ない

﹂︵

h F E

︶︒したがって︑われわれの善悪の認

識は︑常にこうした身体および精神の活動能力の増減と直接的に結

びつ

いて

いる

ので

ある

ところでスピノザによれば︑善悪の認識が成立するためには︑わ

れわれの身体とそれを触発する諸事物との聞に︑ある共通平面が成

立していなければならない︒そもそもわれわれの本性とまったく異

なる個物は︑われわれの活動能力の増減に何の影響も与えることが

でき

ない

ので

あり

自白

向︒

︶︑

したがって善悪の認識を成立させる機

縁とはならない︒これはいわば関係性の成立の条件としての共通平

面であり︵これを﹁第一の共通性の次元﹂と名づけよう︶︑たとえわ

れわれの身体と対立的であるような事物であっても︑それがわれわ

れを触発することができる以上︑この共通平面上に位置づけられる

ので

ある

さらにスピノザは第二の共通性の次元を提示し︑それにある倫理

的規定を与える︒すなわち﹁いかなる物も︑それがわれわれの本性

(8)

と共通に有するものによって悪であることはできない︒それがわれ

われにとって悪である限り︑その限りにおいてそれはわれわれと対

立的

であ

る﹂

自白

必一

︒︶

つまり﹁ある物はわれわれの本性と一致す

る限

り必

然的

に善

であ

る﹂

E

B H

︶︒第一の共通性の次元が善悪を語

ることができる可能性の条件であったのに対し︑この第二の共通性

の次元は具体的な善の認識が成立する諸条件を規定している︒われ

われは︑われわれの本性に一致するものに出会うほどに︑言い換え

れば︑われわれと共通なものをより多く有するものに遭遇するほど

に︑喜びの感情に満たされ︑善の認識を形成し︑かっ自己の活動能

力を増大させていく︒共通概念の形成は︑単に十全な認識の形成と

いう認識論的意義をもつのではなく︑喜びの感情の増大および︑そ

れと不可分な善の認識の形成という︑感情の力学に基礎づけられた

倫理が具体化する過程そのものなのである︒

それでは人間の本性にもっともよく一致するものとは何であろう

か︒スピノザは言う︑﹁ある物にとって︑自分と同じ種に属するもろ

もろの他の個体ほど自分の本性と合致しうるものはない﹂︵巴﹀匂︶︒

すなわちそれは他の人間以外のなにものでもない︒ここから﹁人間

にとって人間ほど有益なものはない﹂︵開品目∞印︶という有名な定式

も出てくる︒ただしこの定式には次のような留保がついている︒﹁人

聞は理性の導きにしたがって生活する限り︑ただその限りにおいて

本性上常に必然的に一致する﹂︵開

h H B

印︶

︒な

ぜな

ら人

聞は

受動

感情

従属する限りは本性上の一致をみることがなく︑しばしば相互に対

j¥ 

立的

であ

るか

らで

ある

︵開

仏司

ω N i ω

U N

\早

口ω

匂 −

N2

0もっともわれ

われは﹁自然の共通の秩序﹂における偶然的出会いによっても互い

に一致することがあり得るが︑それはあくまで偶然的な一致であっ

て︑共通概念を有することによる理性的紐帯の形成ではない︒した

がって件の定式は︑理性に導かれる人聞を念頭におく限りは﹁理性

に導かれる人間にとって理性に導かれる人間ほど有益なものはな

い﹂となるだろう︒こうしてもしすべての人聞が理性によって導か

れ︑互いに類似性の有益性を認めるならば一つの理性的共同体が形

成されることになろう︒そしてそれは︑スピノザの根本思想である

コナトゥスが個々のコナトゥスから協働的コナトゥスへと移行する

ことでもある︒先ほど触れた定式を掲げたのち︑スピノザはすぐに

次のように続ける︒﹁言っておくが︑人間が自己の存在を維持するた

めには︑すべての人聞がすべての点において一致すること︑すなわ

ちすべての人間の精神と身体があたかもひとつの精神︑ひとつの身

体を構成し︑すべての人聞が一緒になってできるだけ自己の存在の

維持に努め︑すべての人聞が一緒になってすべての人間に共通な利

益を求めること︑そうしたこと以上に価値ある何ごとも望みえない

ので

ある

﹂︵

何仏

司民

的︶

︒ 結 び

スピ

ノザ

は︑

一方で︑われわれが共通概念を形成する過程で︑わ

(9)

れわれのそれぞれが互いの類似性の有益性を確知することによって

構築される理性的共同体のヴィジョンを提示しながら︑他方で︑理

性に導かれる人聞が稀であることを十分に認識していた

︵ 丘 ・

忠 明 ︶

ω印印︶︒そのように︑理性に導かれることなく受動感情に従属し

た人間たちが︑それでもなお共同体を築くことがいかにして可能で

あるかという問題はスピノザにとっての大きな関心事であった︒ス

ピノザの哲学が︑﹁エチカ﹂を通じて人聞を理性的生活へと︑ひいて

は理性的共同体の構築へと導く道を示す一方で︑とくに﹃政治論﹄

などにおいて︑感情に必然的に従属する人間本性と︑そうした人間

本性に根ざした共同体形成のメカニズムを分析するというもう一つ

の方向性をもっているのは︑スピノザが︑およそ人間たるもの︑理

性に導かれようと感情に従属していようと︑いずれにせよ何らかの

﹁国

家状

態﹂

︵丸

山吉

田口

三一

戸田

︶を

形成

する

もの

であ

ると

いう

事実

に注

し︵

寸巴

\叶

ω

U

N

3 N

g

︶︑またそうした国家状態が完全に解消して

しまうことは事実上ありえないという確信をもっていた

q E

\H D

ω

︒ ・

N φ

叶 ︶

からにほかならない︒

本稿で取り上げた共通概念は︑理性的認識の基礎であり︑受動感

情の機構からは導出されないものなのであるから︑なるほど受動感

情に根ざした限りでの人間本性から生ずる社会性の形成要因に直接

関わるものではない︒しかし︑スピノザが国家の発生およびその存

在論的諸前提を﹁人間に共通な本性あるいは状態﹂︵叶古江口ω

︒ ・

N 3

討︒︶から導き出さなければならないと主張するとき︑そうした共通

類似

性の

倫理

の本性をとらえようとするスピノザの態度は︑すでに共通概念から

出発することを前提としているのである︒それゆえ︑たとえ共通概

念を形成し︑理性に導かれるような人聞が事実上稀であるとしても︑

﹁人聞がなにゆえに諸感情に隷属するのか﹂を解明し︑こうした隷属

から人間を解放する方途を模索したスピノザにとっては︑共通概念

は無益であるどころか欠くことのできない︑理性の道具であったと

い ︾

え よ

︑ っ

* 

スピノザの著作からの引用はすべて︑ゲプハルト版スピノザ全

集︵

句︑

SONSO

3

F B

﹀ 丘 汁

E m

門 目 白 門

出 包 門 同

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2 m

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︵ 同 巾 円

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︒ 巾 σ

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︸ 戸 巾 一 円 一 以 己

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ゆ ぬ 巾

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︿ ︒ ロ

日出

︷笠

宮括

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山円

一ヨ

E

︿

ZB

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m g

σ

ロ 円 ︸ 岳

山 口 仏 −

E m

︶からのもので

ある︒ただし﹃エチカ﹄に関してはゲプハルト版の巻数と頁数を記

さず︑次のような略号を用いた︒

H

H 回 E g w H r H

︷疋

理・

円︶

H

証明

・印

H

備考

・︵

リH

系 ・ 円 ︑

H

補助定理・

32H

要請

咽ロ

T

定義

F

阻 止 H

序文

・開

同日

説明

・﹀

H付

録・

﹀ロ

H感

情の定義︿ 例

EE

∞ ω

﹃エチカ﹄第四部定理一八備考

(10)

﹁神学・政治論﹄に関しては寸叶司

352

yg

︸ ︒

23

E

gm

﹁政治論﹄に関しては

dU352

Eg

m︶︑﹁知性改善論﹄に

関しては叶同︵↓

gn ZE

印号

E

z

σ

25

5

5︶という略号を

H

D

の巻数と頁数を示した︒

i

o

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︿F

S H

F

D U o

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2U SO N

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dV Eh

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45 Q2 Nで ﹄

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印 印 r w

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︿

L

甲 山

A Y H

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2︶上野修﹁われらに似たるもの!

i

スピノザによる想像的自我およびその

分身と欲望﹂﹃精神の眼は論証そのもの﹄一一五頁二二九頁︵学樹書院一

九九九年︶を参照されたい︒

︒ − 一 一

g

ロ ∞ −

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SO N Q

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﹈ ︵

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− 句 ︑

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S F

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ω N

5

H W N E ω F N

ぜならすべての物体は同一属性の概念を含むという点で会致する︵この部

の定義一によって︶︒次にそれらは︑あるときは緩やかに︑あるときは速や

かに運動し︑つるという点で︑一般的に言えば︑あるときは運動しあるとき

は静止することができるという点で一致する︒﹂

6︶ 

円 ︶ 巾

− 巾 巴

N P C H U 口 一 色 −

uN岱 印 ・

の 己 巾

a o

C c p

M凶 口 氏

wUω ω

﹁もしわれわれが共通概念の形成の秩序を考えるならば︑もっとも一般性

の低い概念から出発すべきである︒というのも︑もっとも一般的な概念は︑

︵ U が感じる諸感情のなかにいかなる誘導原理も見出さないからである﹂ われわれの身体に対立する諸物体にも適用されるのであるから︑われわれ

巳 巾

N P

w u N

品 目 ・ ︶

0

﹁そのようにして共通概念の実践的形成の秩序は︑共通概念の理論的開陳

の秩序が︑もっとも一般性の高いものからもっとも低いものへと進んだの

と反対に︑もっとも一般性の低いものから︑もっとも一般性の高いものへ

g

2 N ロ 巳

p h H U S O N G

︑ ど

og

U P

S M U S H S £

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CE

− − ∞

y

u5

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HE

− − ︶

0

スピノザは︑一般性の高い事象から低い事象へと進む手続きを自然科学

の探求の方法論として妥当なものであると考えている︒この手続きは︑た

とえばスピノザの聖書解釈の方法論としても採用されている︒スピノザに

よれば︑聖書も自然の諸事物と同じように自然科学の手続きにしたがって

ω H Y

l

︵ 出 巾 ロ

FE

H

ωg

E

調

キストの物理学のごときもの﹂が志向されていると一言ってもいいかもしれ

FE EZ HW H三 宅S

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3 0 3 2

5

30 3P R

13 52 EM 83 5

H

a g

g

g

N 3

・ ︿ 円

558u3

IH S− ︶

0﹃神学・政治論﹄においてはこの方

法論の徹底化を自己確認する記述がみられる︒﹁自然の諸物を探求する際︑

われわれが何よりも先に︑もっともA般的であって全自然に共通な諸物を︑

すなわち運動と静止および︑その諸法則と諸規則

i1

自然がつねにそれを

尊ぴ︑それによって恒常的に活動するところの1

そしてそれから徐々に他のより一般性の少ないものへと進むように︑それ

と同線に︑われわれは聖書の歴史からまずもっとも一般的なものを︑全聖

書の基礎にして土台であるものを︑そしてついにはすべての予言者によっ

て︑永遠であってすべての人聞にとってもっとも有益な教えとして薦めら

れているものを探求するよう努めるのである﹂

﹁ 旬 ︑

3 1

吋 唱 の

ωU 5N

た方法論に則って︑スピノザは︑聖書の道徳的教説のなかで︑もっとも一

般的な要素として残るものを︑﹁普遍的信仰の諸教義﹂広島

2

5

Rg r

(11)

E

P

ωU

− ロ ω

15

0 ︶を︑さらに﹁普遍的信仰の教義﹂に関する優

れた論考としては︑上野修﹁スピノザと敬慶の文法

ll

﹁普遍的信仰の教義﹂をめぐって﹂︵上野前掲書七A頁|九四頁︶を参照の

︵日︶一言葉とそれが指示する対象との聞に存する関係に特有な︑恐意性・偶然

性は﹁エチカ﹄に先立つ﹁知性改善論﹄においてもすでに注目されている︒

﹃知性改善論﹄では︑知覚の機能が四つの知覚様式によって分類されている

が︑その第一の様式は﹁聞き覚えによる︑任意に呼ばれでいる記号による

知覚﹂である︵↓日間

5

UNU

0・ ︶

0

︵日︶﹁したがって︹スピノザにおいて︺言語の創設の連関は︑実在的類似性の

E25

PB 25 7A

ミg

Fh f言 ︒

N Q

3

3

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ロ ・ ω

戸 ・ ︶

0

lは第一種の認識が第二種の認識と対立するものではないというロ

HN

85

8ロ︶の見解を反駁している

555

T D

H U S H

− −

uω8

18

hF

0われわれもゲルl

B M

う二つの訳語があるが︑われわれは前者を採用することにする︒

M︶﹁というのも︑共通概念は抽象作用に訴えることなく︑一般的なものに到

ι

DE b・ ト 司 ︑

a s E Q

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司 唱 u d

﹈ ︷ 也 ∞

UH

由 日 ・ ︶

0

︵日︶デカルト﹃哲学原理﹄第一部一三参照︒﹁共通概念﹂はスピノザ以前にも

多くの哲学者によってその内実を異にして用いられている歴史の長い用語

である︒この用語の歴史的沿革ならびにスピノザとの関係については︑久・

5

cp

SS

MO

豆町口﹃〜すきさ門主己さ著作君芝

SH M U 3 ag

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ωP

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l

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ω c

︵凶︶﹁表象力は︑もろもろの物体のある特質の共通概念にとって︑支えのよう

類似性の倫理

なものであり︑障害ではない﹂

5E

Ro

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O M U S

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N P

C M U

三 円 ︑ 匂

N

叶 印 ・

︵却︶有益性という一見功利主義的な観点は︑スピノザの倫理学あるいは価値

論において見過ごすことができない要素でありながら︑これまでほとんど

注目されたことがなかった︒ピエlUフランソワ・モロlERB

P825

RE

C

5g

E E

︵幸運︑運命︶︑これらは﹇スピノザにおける︺経験の

異なった場を規定する諸カテゴリーである︒これらはこれまでほとんど研

究の問いかけの対象となったことがなかった﹂︵玄

05 2b

U

SH

− − u

・ 印 巴 ︶

0

gEBCι︶はモローのこうした示唆に刺激を受

けて︑スピノザにおける﹁有益なもの﹂2

cc

Z︶の概念を徹底的に分析し

︿

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s

ンの分析はスピノザの用語法を分析することにとらわれすぎていて︑例え

ば功利主義とスピノザ主義との関係といったテlマを論ずるために必要な

包括的視点からの目配りを欠いていると思われる︒モローが提起した問題

は︑依然として論じられるべき多くの余地を残していると言えるだろう︒

EA PH

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