バー‑
ヤ ー
ンの 仏 教 世 界
宮 治
昭
パー‑ヤ
ー
ンは、インドのアジャンタ‑、中国の敦煙と並ぶ、アフガニスタンのT大石窟寺院として知られ、と‑わけ仏教世界屈指の二大石仏‑五十五メートルと三十八メートル1の存在によって名高い古
代遺跡である。
アフガニスタンは中央アジアの真申に位置し、海に面しない内陸国である。北をソ連、西をイラン、
東と南をパキスタンに接し、東北部のパ‑
1
ル高原において一部、中国とも境を接している。近代アフガニスタンは南下する帝政ロシアの勢力とインドを基地として北進するイギ‑スの二大勢力衝突の緩衝
国として成立し、イギ‑スとの三次にわたる戦争の結果、一九一九年に独立を達成した。しかし、内陸
アジアの乾燥地帯にあるこの国は、降雨量は極めて少な‑、国土の大半は砂漠と高地から成ってお‑、
現在も多‑の遊牧民を有し、生産力は極めて低‑、加えて多民族、多言語という困難な状況は、近代化
を著し‑困難にしている。一九七三年のクーデターによって、王制から共和制に移行したが、その後の
度重なるクーデターとソ連の侵入は、この小国の苦難を象徴する出来事で‑ある。
現代日本からは最‑縁遠い、このアフガニスタンは、しかしながら古代においては「文明の十字路」
に位置し'古代日本の仏教文化とも少なからざる関係をもっていた。トインビーのいう「文明の十字路」
とい‑言葉は、アフガニスタンの古代の地理的状況をよ‑言い当てている。東に中国世界、西にイラン
および遥か地中海のギリシャ・ローマ世界、南にはインド世界、北には遊牧民の世界が控え、これらの
異質な文化圏が中央アジアでぶつかり合い、アフガニスタンにおいて交わっていたのである。
しかも、古代アフガニスタンの重要性は'単に東西交易の中心地、中継地にあったという点にのみあ
る訳ではない。この地の重要性は、東西・南北の大文化の渡を受けながら、それらを吸収し'独自の仕
方で混盾させ、それ迄知られなかった新しい世界を創造していった点にある。イスラム以前の古代アフ
ガニスタンには、宗教的にみてもシャーマニズム的な遊牧民の宗教、ギ‑シャ・ロ
ー
マの宗教、イランの拝火教、インドからの仏教およびヒンドゥI教など、多様な宗教が入っているが
、
その中でも仏教は異文化を受け入れ、かつ自己の内に吸収してしまう寛容性を具えた宗教であったためであろうか、異文
化のぶつかり合うこの地においてと‑わけ繁栄をみる。バ
ー
‑ヤー
ンの仏教美術はそのfつの頂点に位置するものといえよう。仏教のもつ異文化に対する寛容性は、他文化を容易に吸収し、それによって大
きな発展を可能ならしめたが、同時に自己変貌を意味するものであった。解説を求め、像を造ることな
ど何らの関心をもたなかった仏陀の宗教が、やがて多‑の神々の世界に匹敵する、仏・菩薩・天部の広
大なパンテオンを創‑出し、それらを礼拝供養することが主要な目的といえるまでに変貌してしまうの
である。バ
ー
‑ヤー
ンの仏教美術は'このような仏教美術のあり方をよ‑示す‑のである。バー‑ヤーンは
、
アフガニスタンの中央を斜めに横切っているヒンドゥークシュ山脈の山中懐深‑にある。ヒンドゥ
ー
クシュ山脈はパ‑1
ル高原の一画、この国の東北部に位置するワハン新谷から東西に走り'海抜四
〜
五千メートルの峰々を頂いて'この国を南北に二分している。そればか‑か、この山脈は‑つと大き‑、南の温暖湿潤のインド亜大陸の世界と、北の乾燥中央アジア世界とを分つ障壁でもあ
る。ヒンドゥ
ー
クシュ山脈の北側は、アラル海にそそぐオウサス水系、南側はアラビア海にそそぐインダス水系とな
っ
ており、その事情をよ‑物語るOヒンドゥーウシュ、すなわち「インド人殺し」というペルシャ語は、この山脈を境にインド文化の容易に越え難いことを象徴的に示すもので‑ある。しかし、
仏教とその造形活動は'湿ったインドの人地から興‑ながら'このヒンドゥーウシュ山脈を越え出て、
中央アジアの乾いた大地に根づ‑。バー‑ヤーンは'このイン‑世界と中央アジア世界の両他界のまき
し‑接点に位置している。
バー‑ヤ
ー
ンは、ヒンドゥー
クシュ山脈の奥深‑'コ‑イ・パパ山系との間、山あいにあり、現在村人およそ千人ほどの寒村にすぎない。バ
ー ‑
ヤー
ン川の雪どけ水が耕地を潤おすとはいえ、標声云〇 〇
メートルの高地で'狭い谷あいのこの地の生産力はしれている.この黙谷にそって道路があり、バザー
ルが並ぶ。このバザ
ー
ルの裏手に、南面して高さ約一〇 〇
メートルの大断崖が約一・五キロメートルにわたって続‑。硬岩質の脆弱な岩質であるが、この大断崖の西の端に高さ五十五メートルの大仏(西大
仏)、東方に高さ三十八メートルの大仏(東大仏)が、岩を掘‑出して彫刻されている。また、この二
大仏の中間には、三つのかな‑大きな坐仏のあとが残り、さらに断崖のいたる所に、あたか‑蜂の巣の
ように移しいはどの石窟が掘‑込まれている。バー‑ヤ
ー
ンの石窟は、敦煙石窟のような整然とした列をなす配置をとらず、無計画ともいえる雑然さであるが
、
石窟の数の多きは他に例をみないほどで、七五
〇
ほどの窟が数えられる。しかもこれは主要な断崖に掘られた石窟の数で、これ以外にバ‑
,"ヤー
ンの新谷から枝分れする形で、西南の谷あいにフォラディの石窟群、東南の谷あいにカクラクの石窟群が
あり、これらを総計すれば優に千を越す数である。石窟はすべてが必ずしもしっかりした造‑という訳
ではぢ‑、その大半は装飾をもたない簡素な洞窟ともいうべきものにすぎないが、当時の仏教徒たちの
熱狂的ともいえる信仰のあ‑様を窺わせる。実際、二大仏と移しい数の窟寺が穿たれた大断崖を前にし
たときの最初の感激は忘れ難い。しかし、大仏の顔は二体ともに削‑取られ、石窟の内部は到る所に激
しい破壊のあとがみられる。今は静寂なこの村の通‑に立って、この大断崖の廃嘘を眼のあたりにする
と、当時の人々の仏教世界がどのようなものであったかtという思いが過る。
バー、こヤーンの仏教を特徴づけているのは、何といっても巨大な三体の仏像'大仏の存在であるoし
かし、この二大仏がどのような事情のもとで、いつ頃造立きれたのか、それを記す記録は何iつ残され
ていない.ただ紀元六二九年にここを訪れた玄失法師は、換価と輝いていたll大仏をはっきりと記して
3
いるから、それ以前に造られたことは間違いない。フランスの硯学
A
・ブシュは五世紀中頃の雲岡の大仏J・i‑早いと考え、三世紀頃の製作と推定し、現在でもこの見解に従う学者が少な‑ない。しかし、後
述するようにインドにみられない大仏の道立というものが、単純に西から東へ次第に伝わっていったも
のかどうか甚だ疑わしい。まず、大仏自身を観察しよう。
東の大仏からみると、仏像が堀‑出された仏轟の形はかなり歪んでお‑、大仏自身‑その形体は重苦
し‑、頭が大き‑てプロポーションはよ‑ない。上半身は厳つ‑、両脚は棒状につっ立った感じがす・
る。(Pt,E・耳の後に残る頭髪は、ガンダーラ仏のように波打つが、大層形式化されている。こ
の大仏は石で形を刻み出し、その上に厚い漆喰を上塗‑して仕上げているが、表文の栗も漆喰を筋の形
に溝状に施して表わしている。このような平板な線条的表文の表現は、ガンダ
ー
ラの遅い時期の仏像に比較的近い例が見出される。右脚の膝頭がわずかに表現されているが、これは遠‑ギ‑シァ彫刻に遡り、
ガンダ
ー
ラ彫刻によ‑みられるコントラポストの表現の名残‑であるが、ここでは全‑形骸化している。いずれにしても'この人仏は太い大きな柱の如き威圧感に満ちている。実はこの大仏の周囲には、足下
から頭上に至‑、再び下ってE周できる階段が、摩崖の内部に造られてお‑、大仏の頭上に上ることが
できる。そして仏轟の天井には、太陽神の大壁画が描かれている。
これに対して、西の人仏は、整然とした二葉形の仏嘉の内に収まり、大仏自身の均斉もとれている(Pt.V.
2Y
顔は破壊にあい、両前脚部も失われている。この大仏も岩を‑り抜いて造り出し、厚い漆喰を塗っ
て
仕上げているが、表文の柴の表現は東大仏と異なっている。すなわち、石仏の体躯に木杭の列を打ち込み、
そこに縄を結び、その上に漆喰の上塗りを施して、表文の集を表わしている。衣文禄を衣から独立させ
た図式性の強い表現である。この表現は五世紀のインド、グブタ時代のマトゥラ
ー
仏の嚢の表現へよ‑近‑はアフガニスタンのカ
ー
ピシー
地方出土の仏像(ショトラック、パイタ‑
ヴァ
等)のそれに類似する。堂々たるヴォ‑ユ
ー
ム感に富む体躯の表現に‑グブタ仏の影響が感じられる。この人仏には摩崖の西 方 か ら 道 が 通 じ ' 頭 の 周 囲 に 穿 た れ た 廻 廓 を め ぐ っ て 、 や は り 頭 上 に 出 る こ と が で き る 。 こ の 大 仏 の
仏 亀 に は 、 剥 落 が 激 し い が ' 一 大 仏 教 世 界 を 描 ‑ 壁 画 が み ら れ る 。
東 西 の 二 大 仏 の う ち 、 一 般 に は 作 の 未 熟 な 東 大 仏 が 先 に 造 ら れ た と 考 え ら れ て い る が 、 二 大 仏 の 年 代
的 差 は そ れ ほ ど な い ・L・6 う に 思 わ れ る O l セ ッ ト と し て 造 ら れ た か ど う か は わ か ら な い が 、 lt 方 は 他 方 を
意 識 し て 造 っ て い る 。 い ず れ に し て も 、 こ の 二 大 仏 は ど ち ら に お い て も 、 そ の 足 下 に 立 っ て 見 上 げ る と 、
あ た か も 天 を 貫 ‑ 柱 の よ う な 印 象 を 受 け る 。 こ の よ う な 大 仏 、 巨 像 を 造 ら し め た 動 機 は 一 体 何 だ っ た の
で あ ろ う か 。
東 大 寺 の 大 仏 を 知 る わ れ わ れ は 、 大 仏 の 造 像 に 対 し て 特 別 の 不 思 議 を も た な い か も し れ な い が 、 考 え
て み る と イ ン ド 世 界 に は か ‑ ‑ 大 き な 大 仏 は み ら れ な い 。 イ ン ド で の 仏 教 の 礼 拝 の 中 心 は も と も と 仏 塔
( ス ト ゥ ‑ パ ) に あ り 、 ガ ン ダ ー ラ で 紀 元 f 世 紀 末 ご ろ 初 め て 仏 像 が 造 ら れ て 以 来 、 イ ン ド 内 部 で も 造
像 活 動 が 行 わ れ る が 、 イ ン ド 内 部 で は 不 思 議 に そ れ 程 大 き な 仏 像 、 大 仏 は 造 ら れ て い な い 。 龍 谷 大 学 の
山 門 明 爾 氏 が つ と に 指 摘 さ れ た よ ‑ に 、 大 仏 を 道 立 す る 意 讃 ・ 動 機 は 、 等 身 大 の 像 か ら 次 第 に 二 倍 、 三
倍 と 大 き く し て い っ た と い う よ う な ‑ の と は 全 ‑ 異 な る 発 想 、 い わ ば 「 大 仏 思 想 」 と も 呼 ぶ べ き 新 た な
仏 陀 観 が な け れ ば で き な か っ た に 違 い な い ( 同 氏 「 イ ン ダ ス か ら パ ‑ 1 ル へ 」 ﹃ ァ ジ ア 仏 教 史 中 国 編
V ﹄ 佼 成 出 版 社 ) . し か も 、 「 大 仏 忠 相 こ の 起 源 、 あ る い は そ れ が ど う い ‑ も の と し て 成 立 し た の か 、
と い う こ と に つ い て は ほ と ん ど 何 も わ か っ て い な い 。 古 い 大 仏 の 例 を 想 起 し な が ら 、 こ の 問 題 を 少 し 考
え て み た い と 思 う 。
最 も 占 い 人 仏 と 思 わ れ る の は 、 五 世 紀 初 頭 に 法 顕 が タ ラ マ カ ン 砂 漠 か ら パ ‑ 1 ル を 越 え て 、 イ ン ド 世
界 に 入 っ て い ‑ 最 初 の 入 口 に 位 置 す る 陀 歴 国 で 見 た 、 木 彫 の 弥 勧 菩 薩 の 大 像 で あ ろ う 。 こ の 像 は 現 在 伝
わ ら な い が 、 玄 矢 も 目 撃 し て い る O 法 & 'は 高 さ 八 丈 、 玄 笑 は 高 さ 百 余 尺 と 記 し て お り 、 二 〜 三 十 メ ー ト
ル あ っ た も の と 思 わ れ る 。 そ し て 彼 ら は こ の 像 の い わ れ を 伝 え て い る 。 す な わ ち 、 苦 こ の 国 に い た 一 阿
5
羅漢が、神通力で一人の巧匠をつれ、兜率天に昇って、弥勤菩薩の妙相を観察させ、木を刻んでその像
を作らせたとい‑。そして、この像が出来て以後、仏法が東方に流転したと伝えている。ダラダ(もし
‑はダレル、陀歴、達麗擢)という地域は、インダス河の上流で、現存のパキスタンとインドの国境地
域に当り、パ‑
1
ルの山々が複雑に入り‑んだ狭谷にあり'大変な難所である。こんな山奥にどうして大仏が造られたのか'誠に不思議な気がする。しかし考えてみると、この地はインド世界と、パ‑1ル
を越える異邦世界との接点にあり、仏教の生まれ育ったガンジス中流域からみれば、まことに辺境の地
といわなければならないがへしかしながら、ここは単なる辺境ではち‑、東西交通路上の重要なルート
に当っていた。ガンダーラからここを通って、バ‑1ルを越え、タクラマカンのオアシスに出るこがで
きたのである。辺境であり、かつ異世界をつなぐ接点にこの人仏は造られた。辺境の仏教徒たちは、仏
教の中心、申インドを意識し'それに対抗する新しい仏教世界の象徴として巨像を打ち立てたのではな
いだろうか。この大像から仏法が東方に流転したという伝えはこのことを暗示している。
バー‑ヤーンの大仏‑このダルダ(ダレル)の弥勧大仏の造立と、相近い事情を感じさせる。陀歴は
パ‑
1
ルを越えて中央アジア・中国の世界と接しているし、バー‑ヤー
ンはヒンドゥー
クシュを越えて中央アジアに接しており、両者ともインド世界の辺境、インド世界と異邦世界の接点に位置している。
しかもダラダもバー、くヤーンも、単なる辺境というので
な
‑、中央アジアとインドとを結ぶ舌代交通路上の重要なルートに位置していたのである。
そして興味深いことに、ダラダのあるパ‑
1
ル・カラコルム越えのルー
トと'バー
‑ヤー
ンのあるヒンドゥ
ー
クシュ越えのルートは、歴史的に栄えた時代が異なる・Liうである。最近京都入学の桑山直進氏は、中国資料を‑とに、求法僧たちの通った中岡からインドへの古代交通路を検討され、六世紀を境に
して、早い時期はもっぱらパ‑1ル・カラコルム越えが使われ、遅い時期はヒンドゥーウシュ越えの交
通路が繁栄したことを明らかにされた(同氏「バ
ー
‑ヤーン大仏の出現」
﹃同朋﹄第五八号)。これはバ1 ‑ ヤ
ーン の 大 仏 が い つ 造 ら れ た か と い ‑ 年 代 の 問 題 に ‑ 重 要 な 示 唆 を 与 え る も の で あ る が ' イ ン ド と
中 央 ア ジ ア を 結 ぶ 交 通 路 の 交 替 と い う 現 象 は 、 お そ ら ‑ 歴 史 的 な 事 情 が 反 映 し て い る の で あ ろ ‑ 。 末 だ
こ
の 問 題 k 結 論 を 出 す こ と は で き な い が 、 バ
ー‑ ヤ
ーン の 大 仏 の 道 立 は 、 エ フ タ ル も し ‑ は 突 厭 と い っ
た 中 央 ア ジ ア の 遊 牧 民 の 動 き と 関 係 あ る こ と が 充 分 考 え ら れ る 。 大 仏 の 道 立 と い っ た こ と は 、 l 殻 の 人
々 の 寄 進 に よ っ て 自 然 に 出 来 る と い う よ う な も の で は な か ろ う 。
大 仏 造 営 の 事 情 が 知 ら れ る 早 い 例 は 、 中 国 の 名 高 い 雲 間 石 窟 で あ る 。 雲 岡 は 、 遊 牧 民 で あ る 鮮 卑 族 の
拓 践 部 が た て た 北 魂 の 部 、 大 同 の 西 方 十 五 キ ロ メ ー ト ル ほ ど の 所 に あ る 。 こ こ に は 五 十 足 ら ず の 石 窟 が
断 崖 に 開 か れ て い る が 、 第 十 六 洞 か ら 第 二 十 洞 と 名 づ け ら れ た 五 つ は 、 い わ ゆ る 曇 曜 五 窟 と よ ば れ る も
の で 、 五 体 の 大 仏 ( 高 さ 十 四 〜 十 七 メ ー ト ル ) ( を 造 っ て い る 。
これ ら の 大 仏 は 、 涼 州 出 身 の 僧 、 曇 曜 が
時 の 皇 帝 文 成 帝 に 上 奏 し て 道 立 し た も の で あ る こ と が 、 ﹃ 親 書 ﹄ 釈 老 志 に 記 さ れ て い る 。 こ の 五 体 の 大
仏 は 、 北 魂 の 建 国 者 太 祖 道 武 帝 以 下 、 五 人 の 皇 帝 の た め に 造 ら れ た も の と み ら れ て い る 。 こ こ で は 大 仏
は 、 い わ ば 祖 萄 皿 と な っ た 皇 帝 像 の イ メ ー ジ と だ ぶ っ て い る O
バ ー ‑ ヤ ー ン の 大 仏 を 造 っ た 民 族 ' 王 者 は 知 ら れ な い が 、 東 西 世 界 を 結 ぶ 古 代 交 通 路 の い わ ば 関 所 に
位 置 し 、 こ こ を 通 過 す る 旅 人 、 商 人 た ち の 落 し て い た 財 、 富 の 蓄 積 を 握 り な が ら ' 王 者 の 力 を 駆 所 し て 、
大 仏 や 石 窟 が 造 営 さ れ た で あ ろ う こ と は 容 易 に 察 せ ら れ る 。 し か も そ れ は 、 宗 教 を 政 治 の た め に 利 用 し
た と い う よ う な も の で は な ‑ ' 王 権 自 体 が 宗 教 的 価 値 を ‑ っ た 世 界 で あ ろ う と 想 像 さ れ る の で あ る 。
二 大 仏 の 仏 轟 に 描 か れ た 壁 画 を 観 察 し て 、 バ ー ‑ ヤ ー ン の 宗 教 世 界 を 掘 り 下 げ て み よ う と 思 う 。
ま ず 、 東 大 仏 の 仏 轟 天 井 に 描 か れ た 壁 画 は 、 そ の 図 様 と い い 、 様 式 と い い ' 大 層 ユ ニ ー ク な ‑ の で あ る (P t
.(
.2 ) . 大 仏 の 足 下 か ら 天 井 を 見 上 げ る と 、 ラ ピ ス ラ ズ ‑ ー の 鮮 や か な 青 地 に 、 大 き な 円 光 を つ け た 白 い
太
陽神が 、 四 頭 立 て の 有 翼 の 馬 車 に 乗 ‑ 、 天 駆 け る 図 柄 が 浮 か び 上 っ て ‑ る 。 そ の 絵 画 様 式 は 、 隈 取 り や 明
暗 法 を 排 し て 、 色 塊 の 対 比 と 図 式 的 線 描 に よ る 平 面 性 の 強 い 様 式 で 、 サ サ ン 系 絵 画 の 流 れ を ‑ む も の と み
ら れ る 。 そ の 図 像 も 、 仏 教 図 像 と い う に は あ ま り に 大 胆 な 表 現 で あ る 。 太 陽 神 は 筒 袖 の 遊 牧 民 の 服 装 で 、
7
マントを大き‑翻し、右手に槍をもち、左手は腰に下げた長剣の柄に手をやっている。この主神の上
には、数羽の白い烏が飛来し、両端にはショール状の風袋をなびかせた風神の姿がみられる。またF万
には車上の左右に'二人の戦神がみえる。二人とも有翼の女神で、兜を被っており、向って左の女神は
人面のついた楯を、右の女神は弓矢を手にしている。女戦神のすぐ上には、半人半島の人物が、右手に
松明をかざしている。この太陽神の図像は、)椴にインドの太陽神ス
1
‑ヤであろ‑といわれている。ス
1
‑ヤは古‑インドのヴェ‑ダ神話に現われる太陽神で、仏教の守護神として紀元前後から図像化されている。と‑にクシャン時代(紀元l
〜
111世紀)を中心にスー‑ヤ像が数多‑造られているが、この図像は遊牧民の信仰と関係が深かったらしい。というのも、ス
‑
‑ヤの図像には二つの大きな特徴がある。lつはこの神像がほとんど決って正面性の強い表現をとること、もうrつはこの神像は遊牧民の
王者の姿をとることである。クシャン時代には縛る姿勢をとり、ダブタ時代以降は立勢が一般的となる
という変化はあるが、遊牧服を着た正面性の強い造形という特徴は変わらないoインドの神々の造形が
一般に、柔軟で動きを求める裸体表現を好む中にあって、大層異色の図像である。太陽神ス
‑
リヤの信仰は吉‑からインドにあったとして‑、その図像は遊放民の太陽信仰と関係が深かったことが窺える。
ところで、この壁画の太陽神は、人駆ける有翼の白馬に引かれ、しかも天空には白い烏(ハンサ)、
風神、半人半烏の人物が描かれ、二人の女神も有翼である点など'天空を駆けめぐるイメージが極めて
強‑現われている。このような飛糊のイメージはインドのス
‑
‑ヤ像にはみられず、バー‑ヤー
ン図像を特徴づけている点である。
そこで西方に眼を向けると、ローマ世界では太陽神へ‑オスが、しばしば四頭立ての馬車に乗って表
わされている。しか‑、この図像は舌代末期に興味深い転用が行われる。すなわち、馬車(四頭立てが
多い)に乗って天駆ける図像、すなわち昇天の図像は、「死者の魂の旅立ち」や「皇帝の神格化」(ァ
ポテオシス)の意味を‑つ。「死者の魂の旅立ち
」
は石棺の浮彫やカタコンベの壁画に見出され、魂の不死を象徴する図像として好まれた。これは、太陽が不死であり、かつ毎夜死者の国へ降りてい‑こと
から、死者の霊魂を彼岸世界に導‑ブシコポンプとしての太陽のシンポ‑ズムに基づ‑ものといえよう。
また「皇博の神格化」の図像は、コインやメダイユにしばしば見出される。これは世界の中心にあって
輝き続ける至高存在者'絶対的至上権という太陽シンポ‑ズムのもう一つの重要な側面を物語っている。
そして、太陽シンポ‑ズムに基づ‑昇天の図像は、西洋においてキリスト教美術に借用きれる。直接的
な形では太陽神ヰ‑スト(サン・ピエトロ大聖堂の地下墓所のモザイク)の像があるが、凧預言者エ‑
ヤの昇天
V
には、しばしば太陽神との融合が生じている。またエゼキエルの幻視による菰ヰ‑ストの昇天
V (
ラブラ福音書)の図像にも、太陽神図像は大きな影響を与えている。ところで'このような古代末期の「皇帝の神格化」の図像、さらにはキ‑スト教美術の「昇天の図像」は、
実はイランの帝王のイデオロギーと深‑関係していると考えられている。ササン王家の王権の象徴であ
った、タフト・イ・タクディースの建物は、宇宙支配者たる帝王が坐す玉座をしっらえたもので、イラ
ンの帝王イデオロギーをよ‑表わしている。この建物はビザンツ皇帝へラク‑ウスの侵入によって消失
したが、文献によってある程度この建物を推測することができる。建物の内部は、外側から多‑の臣下
たちの席、近衛の騎士たちの席と次第に階段を登り、中央部には高さ約三
〇
メートルのカーテンで覆われた玉座があ‑、その上に半球のド
ー
ムがかけられていた。ドームの中にはホスロー
二世の肖像があったといわれるが、このド
ー
ムに天空を象徴し、十二宮の星座が正確に配置され、しかもプラネタ‑ウムのように天体が動‑仕‑みになっていたという。タフト・イ・タクディ
ー
スは宇宙の支配者(co
smocr at or )
としての、太陽に比すべき帝王のシンポ‑ズムをよ‑示している。
そして'ササン朝の帝王は'帝王の死後、その霊魂(F
ra v as hi )が天に昇り、神となって再生する
と信じられていた。ササン末期に属するとされるストレル
カ
出土の銀皿(エル‑クー
ジュ博物館蔵)やホスロ
I
l世(?)の責金・水晶・エマイユ製の杯(パリ国立図書館蔵、P t .I.3)には、両脚部に天馬
9
のついた玉座に腰掛ける帝王の図像があるが'これは帝王の至上権と帝王の昇天とを同時に意味してい
る。帝王の霊魂は天上において再生し、太陽に比すべき宇宙支配者としての絶対権を確立する。有翼の
馬車に乗って天駆ける碍子の図像は必ずしも類例が多い訳ではないが、ササン朝のスタンプ印章やササ
ン風として知られるビザンティンの織物などに見出される。「帝王の昇天」を表わす代表的な例は、ク
‑モヴァ出土のボス‑・ササン期の銀皿にみられるが、ここでは四頭立ての牛車に引かれ、しか‑帝王
は三日月形の中に表わされ、月神との結びつきを示しているのが異色である。宇宙支配者としての帝王
の至上権や帝王の昇天を表わす図像は、実はササン朝白身の‑のはほとんどな‑、王朝滅後のボス‑・
ササン期に多‑現われるのが注目される。
太陽シンポ‑ズムと結びついた、イランの帝王イデオロギーとその儀礼は、イラン周辺世界において
「図像」として出現し、中央アジアの仏教美術にも大きな影を落としているoバー‑ヤ
ー
ンの東大仏の天井に描かれた太陽神の図像は、その描かれた位置からしても単なる守護神というようなものでないこ
とは明らかである。キリストや預言者エ‑ヤが太陽神と混漬し、神格化の図像、昇天の図像を形づ‑っ
たのと同様に、おそら‑バー‑ヤーンの天駆ける太陽神も、仏陀の宇宙的かつ帝王的な至上権という観
念を反映するものであろう。仏陀は本来世俗を脱した悟達の存在であるが、バ〜‑ヤーンでは、太陽の
シンポ‑'スムを背景に、死者の霊魂の天上での再生と宇宙支配を司る「天上の仏世界」というイメージ
を創出するに至っている。大仏の足卜に立って、巨大な柱の如き大仏を見ヒげろと、頭上の天駆ける太
陽神とともに、仏陀の天上的∴干宙的性格が実感される。実のところ、インドにおいてはこのような仏
陀の天上的な性格を表わした図像は見出されないのであるO
東大仏の天井壁画が太陽神という大胆な図像をとろのに対し、西大仏の天井壁画は完今な仏教図像に
とって代ってお‑、しか‑「天上の仏世界」という観念を充分に展開させた図像となっている。酉大仏
は、大仏白身も調和のとれた堂々たる彫像で、仏寵も整った三葉形アーチを示す(P1.It.こ
。
この仏轟 の 壁 画 は 大 層 質 の 高 い 絵 画 で あ る が ' 残 念 な が ら 剥 落 が 著 し ‑ 、 部 分 的 に し か 残 ら な い 。 し か し 、 全
体 の 図 像 構 成 は ほ ぼ 推 測 で き る 。
天 井 壁 lE の 前 方 部 は 大 き ‑ 剥 落 し 、 奥 の 万 に コ の 字 形 に 壁 画 が 残 る に す ぎ な い が 、 剥 落 し た 中 央 部 分
に は 大 き な 菩 薩 の 坐 像 が 描 か れ て い た と 推 定 さ れ る ( P I. r . )) O と い う の も 、 台 座 の 一 部 と 天 衣 の 翻
り の 一 部 が 認 め ら れ 、 仏 陀 で は な く 菩 薩 像 が 描 か れ て い た こ と が わ か る 。 台 座 の 下 に は 弓 形 ハ
ープ を 奏
で る 二 人 の 楽 女 の 姿 が み ら れ る が 、 ノ ー ス ‑ 1 ブ の 胸 元 か ら は 豊 か な 乳 房 が の ぞ き 、 ウ ェ ス ト は ‑ ぴ れ 、
腰 ・ 腿 は 大 層 豊 か で 、 顔 つ き も 艶 っ ぽ い (P t . 臼 , 3 ) . 天 上 の 菩 薩 は 麗 し い 天 女 の 奏 で る 調 べ の 供 養 を
受 け て い る の で あ ろ う 。 こ の 大 菩 薩 像 の 周 組 に は 、 多 ‑ の 菩 薩 た ち が 取 り ま い て い る 。 彼 ら は ア ー チ や
梯 形 の 轟 の 下 で 、 椅 子 や 敷 物 に ゆ っ た り と し た 姿 勢 で 坐 し て い る 。 彼 ら は そ れ ぞ れ み な 南 側 の 柱 の 上 か
ら 上 半 身 を み せ る 天 人 た ち に よ っ て 讃 嘆 、 供 養 さ れ て い る 。 以 上 が 仏 禽 天 井 の 大 構 図 を 構 成 す る 。 中 心
に 大 き な 菩 薩 の 坐 像 、 そ れ を コ の 字 形 に 取 ‑ 囲 む 菩 薩 群 と い う 構 成 で 、 菩 薩 た ち は 天 人 や 天 女 に 讃 嘆 さ
れ て い る 。
こ の 天 井 壁 画 の 絵 画 様 式 は 、 隈 取 り や ハ イ ラ イ ト を 重 用 す る イ ン ド 絵 画 の 影 響 が 強 ‑ 現 わ れ て い る 。
し か し 、 顔 立 ち や 表 文 線 な ど に 鋭 い 線 描 を 用 い る 画 法 は 、 中 央 ア ジ ア 美 術 と し て の 独 白 の 様 式 を 示 し て
い る 。 し か も 、 絵 画 様 式 の み な ら ず 、 図 像 構 成 の 上 で も イ ン ド と は 異 な る 仏 教 世 界 観 を 反 映 し て い る 。
こ の 大 構 図 は 、 イ ン ド 仏 教 絵 画 が 好 ん だ 仏 伝 図 と か 木 生 図 と か い っ た 説 話 画 で は な ‑ 、 中 央 の 大 菩 薩 を
中 心 に 整 然 と し た 幾 何 学 的 配 置 を 示 す 、 理 想 的 な 仏 世 界 図 と い っ た も の に な っ て い る 。 イ ン ド の 仏 教 美
術 は 、 説 話 表 現 か 、 も し ‑ は 単 独 の 尊 像 表 現 が ほ と ん ど で 、 浄 土 閑 の よ う な 彼 岸 世 界 を 表 わ し た も の は
ほ と ん ど な い 。 仏 陀 を 中 心 に し て 両 側 に 菩 薩 を 配 す る 三 尊 形 式 の 図 像 は み ら れ る が 、 整 然 と し た 幾 何 学
的 構 成 の ‑ と に 仏 ・ 菩 薩 の 浄 土 世 界 を 表 わ す と い う 構 図 は 見 出 さ れ な い の で あ る 。
と こ ろ で こ の 西 大 仏 の 大 構 図 は 、 東 西 の 両 側 、 丁 度 大 仏 の こ め か み に 当 る 部 分 に お い て 、 花 綱 文 様 お
i f l
よび垂れ幕文様で縁取りがなされている。これは単なる縁取りの装飾ではな‑、大仏の頭上にかざした
大天蓋の縁飾‑の役割を果たしている。垂れ幕文様よ‑上は、大仏頭上の天上世界を表わしたものとい
える。この垂れ幕文様の下に、約二メ‑トルの間隔で穴があけられているが、これは名古屋大学の小寺
武久氏が想定されたよ‑に、おそら‑、‑とそこに材木を突き出していた柄穴で、大仏の頭上をめぐる
1大バルコニーが造‑出されていた‑のと推定される。丁度これらの穴の奥に、大仏の頭の周囲をめぐ
る廻廓が据‑出されているのである。この大バルコニーから、王侯・貴族・僧・あるいは楽人たらが'
大仏と天上の菩薩世界を讃嘆したことであろう。
この天井壁画は、中央の大菩薩像を中心に、周囲には多‑の菩薩たちを従え'楽人・天人たち‑この
大画面に参加する。おそら‑天上の菩薩世界、人上の彼岸世界を表わしたものであろう。
それでこの菩薩世界が、果たして仏教のいかなる世界なのかが問題となる。しかし、この菩薩世界図
はどうもある特定の経典に依拠にして、それを絵画化したというようなものではないらしい。文字で書
かれた経典と視覚的な図像との関係は、微妙なものがある。中国の唐代以降の仏教絵画、またインドで
もポスト・グブタ朝以降になると、多‑の場合、経典に基づいてそれを造形化している。と‑に密教の尊像
においてはいわゆる〟
儀 軌
〟として、経典の記載を正確に表わすことが要求される。しかし、仏教美術の早い時代、と‑わけ、経典の教義的内容よ‑も具体的なイメージを重視した中央アジアの仏教美術においては、
造形美術が先に生まれ、その後に経典が作られるといった場合‑稀れではなかったと思われる。いずれにせ
よ、中央アジアにおいては経典と図像の関係はl元的ではない。それだけに図像の解釈に国難がつきまとう
が、図像と経典をそれぞれ成り立たせている「原イメージ」といった‑のに遡って考察することが重要となる。
私はバー‑ヤーン酉大仏の天井壁画は、弥勤菩薩の天上世界、兜率天上の世界を表わしたものではな
いかと考えている。一つの手がか‑は、バ
ー 、、J
ヤーンの石
窟の残存壁画をずっと調べてい‑と、その壁画の図像構成にはほぼ共通したパターンがあり、大井の申央部はほとんどみな菩薩の坐像を描いている。
そ し て そ れ ら の 菩 薩 像 は 一 暇 に 宝 冠 を 頂 き ' し ば し ば 手 に 水 瓶 を ‑ っ て い る 。 こ の 特 徴 か ら 弥 勤 菩 薩 と 推 定
さ れ る 。 お そ ら ‑ 天 井 壁 画 の 大 構 図 は 、 弥 初 を 中 心 に し た 兜 率 天 世 界 を 措 い た も の と 思 わ れ る 。 弥 勤 菩 薩 は
現 在 兜 率 天 の 天 上 世 界 に い て 、 釈 尊 滅 後 、 や が て 遠 い 未 来 に
この 世 に 下 生 し て 、 釈 尊 の 説 法 か ら 漏 れ た 衆 生
を 救 っ て く れ る と 信 じ ら れ て い る 。 そ し て 弥 勤 の 在 す 兜 率 天 自 身 、 一 種 の 浄 土 世 界 と み な さ れ 、 阿 弥 陀 の 西
方 極 楽 浄 土 の 信 仰 が 風 摩 す る 以 前 に 、 弥 勤 の 兜 率 天 信 仰 が と ‑ に 中 央 ア ジ ア に お い て 非 常 に 盛 ん で あ っ た 。
仏 教 の 世 界 観 で は 、 欲 界 ・ 色 界 ・ 無 色 界 の 三 界 に 分 け 、 兜 率 天 は 欲 界 中 の 下 か ら 第 四 番 目 の 天 に 当 り 、
比 較 的 低 い 天 で あ る が 、 菩 薩 が 我 々 の 世 に 下 り て 来 る 時 は 、 そ の 前 に い つ も
この 兜 率 天 に 在 す と 信 じ
ら れ た 。 弥 勤 菩 薩 は こ の 天 上 世 界 の 主 と し て 、 遠 い 将 来 我 々 の 世 界 に 下 生 す る ま で こ こ に 留 っ て い る 。
釈 尊 自 身 も こ の 世 に 下 る 前 に 、 兜 率 天 に い た と 伝 え ら れ 、 釈 尊 が 下 生 す る に 際 し て 、 自 分 の 王 冠 を 弥 勤
菩 薩 に 被 せ た と い う ( ﹃ ラ ‑ タ ・ ヴ ィ ス タ ラ i l ) 。 兜 率 天 は サ ン ク ス リ ッ ト の ト ゥ シ タ ーu
Si ta ∧ 満 足 し
た ∨ と い う 語 に 山 菜 す る が 、 西 方 極 楽 浄 土 に 比 べ 人 層 感 覚 的 な 享 受 に 満 ち た 世 界 で あ る 。
弥 勘 の 兜 率 天 に つ い て 詳 し ‑ 記 し た ﹃ 観 弥 勧 上 生 兜 率 天 経 ﹄ に よ れ ば 、 兜 率 天 で は 多 ‑ の 天 子 た ち が
み な 各 々 の 宝 冠 を 脱 ぎ ' 誓 願 を 発 し て 弥 勤 菩 薩 に 供 養 す る 。 す る と 、 そ れ ら の 宝 冠 は 宝 の 宮 殿 と な っ て 、
光 り 輝 ‑ 。 七 重 の 垣 ・ 無 数 の 蓮 華 ・ 並 木 が あ り ' 木 の 下 に は 天 女 が 理 路 を 手 に し て 美 し い 音 楽 を 奏 す る 。
木 に は 水 晶 の よ う な 果 実 が な り 、 光 明 を 発 し 、 様 々 の 音 を 出 す 。 こ の よ う な 極 楽 浄 土 の 描 写 が 続 ‑ が 、
と く に 兜 率 天 の 弥 勤 浄 土 の 特 徴 は ' 多 ‑ の 天 女 た ち が い て 、 彼 女 た ち は 宝 の 器 や 理 路 で 身 を 飾 っ た ‑ 、
音 楽 を 奏 で て 侍 し て い る 点 で ' 西 方 の 極 楽 浄 土 に は 女 性 が い な い と さ れ る の と 大 き な 違 い で あ る 0 バ
‑ヤ
ー ン の 酉 大 仏 の 天 井 壁 画 で は ' 剥 落 し て し ま っ た 中 心 の 弥 勤 の 大 菩 薩 像 を 取 り ま い て 、 そ の 周 囲 に
ア ー チ や 梯 形 破 風 形 に 宮 殿 を か た ど り 、 そ こ に 多 ‑ の 菩 薩 た ち を 配 し て い る 。 と ‑ に 注 目 さ れ る の は 、
そ れ ら 菩 薩 た ち を 供 養 し て い る 天 人 や 天 女 の 姿 で 、 散 華 し た ‑ 、 音 楽 を 奏 で た ‑ ' 微 妙 な 手 つ き で 讃 嘆
し た ‑ し て い る 。 巾 に は 僅 か に 腰 飾 ‑ を つ け る だ け の 魅 惑 的 な 裸 女 の 姿 も み ら れ 、 そ の 大 胆 な 表 現 に 驚
13
かきれる。この壁画には表現の上で、官能的なインド美術の影響がみられるが、主題の上で‑兜率天世
界の魅力的な天女の姿を表わしたものと思われる。インドの世俗的な官能の女性が'ここでは天上世界
の理和心因十の侍女として現われている。
ところで、弥軌菩薩は釈尊の次にこの世に出現する未来の仏陀として信仰されたが、バ
I ,ミ
ヤー
ンの弥軌信仰は、インドの初期の弥勤信仰とかなり性格を変えているようである。すなわち、
ガ ン
ダー
ラやマトゥラーの弥勘菩薩は一般に右手を施無畏印に結び、左手に水瓶をもっている.ガンダーラの
弥
勧菩薩は'菩薩の常として胸に嘩格をつけるが、それ以上に装身具をあまりつけず、と‑に頭髪は留を結う
のみで冠飾を何‑つけないのが特徴であるOこれは釈尊の成道以前の悉達多太子‑釈迦菩薩
I
が'干族クシャトリヤ出身であるところから、王侯・貴族のように身を飾るのに対し、弥勧Maitr
ey
aは
諸弥徽辞典においては、バラモン学者バ
ー
ヴァ‑の弟子ないし息子とされていて、その出身からバ ラ
モンのように髭を結い、行者の持物である水瓶を‑つと考えられている。
ところが、バー‑ヤーンの弥勧菩薩は、華麗なまでの装飾で身を飾っている。西大仏の天井中心部は
剥落してしまっているが、他の坐仏仏轟、あるいは石窟ドームの天頂にはほとんど決って弥勘菩薩が表
わされ、彼らは頭に豪華な冠飾を頂き、胸には̀一重、三重の理路をつけ'腕にも管釧・腕釧をつけてい
る。このことは弥軌菩薩の性格が大き‑変わったことを意味する。弥勘菩薩の図像は、歴史的にバラモ
ンの行者から、王者のイメージに変換するのである。それではどうして王者的な弥勤菩薩が現れたので
あろうか。諸弥観経典の巾において'それを跡づけることができる。
弥勧信仰について書かれた弥勤経典は六部の漢訳﹃弥勧経i経典のはか、パー‑LFアナ
‑
ガタ・ヴァンサ(禾来吏)﹄、ホタン語﹃マイトレーヤ・サ、‑アィ(弥勤会)﹄などの経典が知られ
、
それぞれにヴァ‑エーションがあるが、最も基本的な内容はこうである。すなわち、釈尊滅後の遠い未来において、
理想的な都城ケートゥマティに転輪聖子C
a k ra v]i rt in (
シャンカ転輪聖工)が出現する。転輪聖王は七つの宝(輪宝・象・馬・マ二珠・女性・居士
・将 軍 )
を得 、
千人の息子を有するといわれ、武力と武器を用い ず 、 正 義 に よ っ て 全 世 界 を 統 治 す る 理 想 的 な 帝 王 で あ る と い う 。 転 輪 聖 王 が 出 現 し た と き 、 弥 勤 は 出
家 し 、 龍 撃 樹 N ag ap u? pa の ‑ と で 悟 り を 開 き 、 釈 尊 の 説 法 か ら 漏 れ た 多 く の 人 々 に 説 法 し 、 悟 り に 導 ‑
と い う も .の で あ る O 遠 い 将 来 に ( 人 寿 八 万 四 千 歳 に な っ た と き ' あ る い は 五 十 六 億 七 千 万 年 後 に ) 、
転 輪 聖 王 が 出 世 し 、 そ の と き 同 時 に 弥 勤 が 仏 陀 と な る 、 と い う の が 弥 勤 信 仰 の 骨 子 で あ ‑ 、 未 来 の 救 世
主 た る 弥 勘 の 信 仰 は 、 転 輪 聖 王 の 神 格 と 深 ‑ 結 び つ い て い る こ と が わ か る 。 実 際 、 弥 勤 は バ ラ モ ン の 家
に 生 ま れ 出 家 す る の で あ る が 、 弥 勤 が 発 心 し た の は ず っ と 以 前 、 前 生 に お い て 、 弥 勤 自 身 が 転 輪 聖 王 で
あ っ た と さ れ て い る ( ﹃ 賢 愚 経 ﹄ ﹃ デ イ ヴ ィ ヤ ・ ア ヴ ァ ダ ー ナ ﹄ ﹃ マ ハ ‑ ヴ ァ ス ト ゥ ﹄ な ど ) こ と か ら
も 明 ら か で あ ろ う 。
弥 勧 信 仰 は 、 後 世 し ば し ば 理 想 国 家 実 現 の 世 直 し 運 動 、 革 命 運 動 と 結 び つ ‑ が 、 そ れ は 弥 勘 が 単 に 未
来 の 仏 陀 と い う に と ど ま ら ず ' 転 輪 聖 王 と い う 理 想 的 な 王 権 と 結 び つ い て 、 聖 俗 の 両 世 界 に お い て 理 想
世 界 を 実 現 す る ユ ー ト ピ ア の 象 徴 と し て 信 仰 き れ た か ら で あ ろ う 。 イ ン ド の 伝 統 的 な 仏 教 世 界 に お い て
は 、 俗 世 界 ・ 王 権 を 離 れ た と こ ろ に 、 僧 団 と し て ' 仏 教 の 聖 世 界 が 成 立 す る が 、 弥 勘 信 仰 に お い て は 、
王 権 と 結 び つ い た 次 元 に お い て こ そ 理 想 世 界 が 達 成 さ れ る と い う 考 え を 反 映 し て い る 。 バ ー ‑ ヤ ー ン の
弥 勧 菩 薩 が 、 バ ラ モ ン の 修 行 者 の 姿 で は な ‑ 、 冠 を つ け 装 身 具 で 飾 ら れ た 王 者 の 姿 を と る の は 、 こ ‑ し
た 聖 俗 両 界 の 絶 対 者 と し て の 弥 勘 の イ メ ー ジ に 基 づ い て い る か ら で あ ろ う 。
弥 勧 信 仰 は ' こ の よ う に 理 想 的 な 帝 王 と し て の 転 輸 聖 王 の 観 念 と 深 ‑ 結 び つ い て お り 、 し か も 、 転 輪
聖 王 の 観 念 の 背 後 に は 太 陽 信 仰 が あ る と 考 え ら れ る 。 転 輪 、 す な わ ち 輪 を 転 ず る こ と は ' 日 輪 が 全 世 界
に 遍 ‑ 回 転 し て 支 配 す る こ と を 意 味 し 、 転 輪 聖 王 は 理 想 的 な 至 上 権 ' 支 配 権 を 象 徴 し て い る の で あ る 。
太 陽 信 仰 が 王 権 の シ ン ポ ‑ ズ ム 、 王 権 の 神 格 化 と 結 び つ ‑ こ と は 、 東 大 仏 の 天 井 壁 画 で み た と こ ろ で あ
る が 、 こ こ で は 弥 勧 菩 薩
1‑ 転 輪 聖 王 の 信 仰 と な っ て 、 完 全 に 仏 教 世 界 の 中 に 吸 収 さ れ て い る と い え よ う O
実 際 、 弥 勘 が 転 輪 聖 王 で あ っ た と き ' そ の 名 を ヴ ァ イ ロ
ーチ ャ ナ 王 ( ﹃ マ ハ ‑ ヴ ァ ス ト ゥ ﹄ ) 、
毘慮遮1 5
邦王(﹃仏本経集経﹄)といったとする経典さえある。
そして'.この転輪聖壬の観念と密接に関係する特異な図像が、バ
ー
r〜ヤー
ン美術の中に数多‑現われる。それは、「飾られた仏陀」Bouddhaparreと名づけられた像で
、
僧衣の上に豪華な肩掛けを羽織り、頭に冠飾を頂いている。通常の仏陀が拙家の身として、装飾や冠などを全‑つけないのと対照的である。
豪華な肩掛けや王冠は干者の特徴であって、この「飾られた仏陀」は帝王と仏陀の混宿したイメージと
いえよう。
さて、バー‑ヤーンには二体の大仏のほか、かなり大きい三体の坐仏、さらに千に近い石窟が穿たれ
ている。仏教の石窟はインドではT'椴に、僧たちが住む僧房窟、あるいは僧院(ヴィハ
‑
ラ)窟と、礼拝のための画聖(チャイティヤ)窟とから成っている。バー、ミヤ〜ンでは、簡素な構造の僧房畳とみら
れる石窟が多いが、塑造の仏像を取り付けたり、壁画の装飾を施していた伺望窟とみるべき石窟‑百近
‑ある。これらの多‑の石窟については別の機会に譲‑、ここではバー‑ヤーンの仏教世界を考える上
で重要な、両堂窟の図像構成について二、三述べるにとどめたい。
バー‑ヤーンの両望窟の山つの典型は、正方形や八角形のプランに、ドーム天井を墳‑構造である。
正方形プランにドーム天井を載せる場合、側壁とドームとの問の四隅にスキンチア
ー
チの移行部を設けているが、この建築構造はササン朝イランの創始になるといわれ、中央アジアにおいて‑煉瓦建築とし
て広‑行われ、後にはビサンティン建築、さらにはイスラーム建築に大きな影響を及ぼしている。バ
‑ヤーンのドーム構造もこうしたイラン・申央アジアの伝統を取り入れたものに相違ない。因みにイン
ドの仏教建築には、スキンチアーチを用いたド
〜
ム建築はみられない。インドの石窟寺院における両望窟(チャイティヤ窟)は、馬蹄形プランに列柱をめぐらし、ヴォールト天井で、奥にストゥ‑パ(仏塔)
をお‑のが通例である。この構造は、入口から奥のストゥ‑パへ向っての直進的な方向性をもっている。
これに対し、バー‑ヤーンの圃堂窟は、正方形や八角形あるいは円形といった集中堂形式のプランをと
る た め 、 礼 拝 者 の 方 向 性 は 、 掌 の 中 心 に 立 っ て ド ー ム の 天 頂 へ と 垂 直 に 向 う 。 し か も イ ン ド の 両 堂 窟 は
礼 拝 の 対 象 と し て 、 常 に ス ト ゥ ‑ パ を 安 置 す る の に 対 し 、 バ ー ‑ ヤ ー ン に お い て は ' ス ト ゥ ‑ パ は な ‑ 、
ド ー ム や 周 壁 を ぎ っ し り と 壁 画 や 塑 造 に よ る 千 仏 で 埋 め て い る 。
二 、 三 の 例 を 挙 げ よ う 。 西 大 仏 近 ‑ に あ る W 洞 ( 第 六 〇 五 窟 ) は 、 八 角 形 プ ラ ン の 堂 々 と し た 構 造 を
示 し て い る 。 (直 径 ヒ ・ 五 メ 1 ‑ ル 、 高 さ 六 ・ 八 メ ー ト ル ) o 側 壁 に は 入 口 を 除 い た 七 つ の 壁 面 に 仏 鳥
が 掘 り 込 ま れ 、 そ の 上 に 二 段 の 列 鳥 帯 が あ る 。 こ れ ら の 仏 轟 に は も と み な 塑 造 の 仏 像 が 取 り 付 け て あ っ
た が 、 悉 ‑ 剥 奪 さ れ て い る ( P 1. tH .
2)。 僅 か に 光 背 の 跡 や 、 列 轟 の 狭 間 に 取 り 付 け ら れ た 鬼 面 や 、 列 轟
の 縁 を 飾 る 唐 草 の 装 飾 が 残 っ て い
る。上 方 ' ド ー ム 天 井 の 部 分 に は 、 天 空 の 星 を 思 わ せ る よ う に 亀 甲 の
区 画 を 設 け , そ れ ら に も 当 初 は 仏 像 が 取 ‑ 付 け て あ っ た ( P 1 . tH . ) )。 こ の 帝 の 当 初 の 姿 を 想 像 し て み る
と 、 実 に ド
ーム の 空 間 全 体 に 仏 陀 が 満 ち て い る よ う な 千 仏 構 成 を と っ て い て 、 窟 内 の 中 心 に 位 置 す る 礼
拝 者 は 、 そ う し た 天 空 の 仏 世 界 に 取 り か こ ま れ て い る よ う な 気 持 ち に な っ た に 相 違 な い 。
別 の 例 と し て 、 1 洞 ( 第 三 八 八 窟 ) を み る と 、 こ の 窟 は 正 方 形 の プ ラ ン で 、 天 井 を 浅 い ド
ーム と し て
い る 。 壁 画 は 損 傷 著 し い が 、 現 地 で の 私 の 作 図 に よ っ て 、 そ の 図 像 構 成 が 把 握 き れ よ う ( P t H .
3)。 ド
ー ム の 中 心 に は 、 頭 に 王 冠 を 被 り 、 右 手 を 施 無 畏 印 に 結 び 、 左 手 に 水 瓶 を も っ て 、 交 脚 の 姿 勢 で 坐 す 弥
働 菩 薩 が 描 か れ 、 こ の 窟 の 中 心 的 位 置 を 占 め て い る 。 弥 勤 菩 薩 の 周 囲 に は 、 達 弁 帯 を 侠 ん で ' 九 体 の 坐
仏 、 そ し て 再 び 蓮 弁 帯 が あ り 、 そ の 外 側 に 二 十 二 体 の 小 坐 仏 が 描 か れ ' 北 側 の 部 分 に は 小 浬 撃 図 が 見 出
さ れ る 。 ド ー ム の 天 頂 部 に 弥 勧 菩 薩 、 そ れ を 取 り ま ‑ 千 仏 構 成 ' そ し て 樫 禦 図 。 こ の 図 像 構 成 は 、 バ
‑ ヤ ー ン 図 像 学 の 典 型 と な っ て い る 。
も う 一 つ 、 E e 洞 ( 第
二三 一窟 ) の 例 を 挙 げ よ う 。 こ の 窟 ‑ 方 形 プ ラ ン に 、 四 隅 に ス キ ン チ ア ー チ を 設
け
' ド ー ム 天 井 を 頂 き ' 壁 画 装 飾 が 施 さ れ て い る 。 壁 画 は 後 世 の 煤 で 損 傷 が 激 し い が 、 こ れ も 線 図 に よ
っ て ' そ の 図 像 構 成 が 知 ら れ JI6 う 。 ド ー ム の 中 心 に は 、 や は り 弥 勘 と 思 わ れ る 菩 薩 の 坐 像 が 大 き ‑ 表 わ
1 7
され、それを四重の円周で取りま‑形で坐仏群がぎっしりと表現されている。これらの千仏は様々な印
相をとっPtJ'顔の向きも変化に富んでいる。さらにこの外側には、スキンチアーチのある鼓胴状小壁の
部分にも、中立仏像が並べられ、その中には「飾られた仏陀」‑みられる。その南壁の部分には、やは
‑.。E禦図が見出される。
バー‑ヤーンの壁画には、インドの仏教美術が好んで取‑上げた本生図とか仏伝図とかいった説
話図は、.LJ柴図を除いて全‑見出されない。バ
ー
‑ヤー
ンの樫禦図は仏伝図のtつとしてではない、特別の意味がこめられているのである。バ
ー '‑
ヤーンの滑栗図には、ガンダー
ラやインドの浸繋図にはみられない、い‑つかの図像的特徴がある
。
最‑顕著な点は、釈尊を取りまいて悲しむ人々が髪を引き抜いた‑、胸を叩いた‑して激しい哀悼の身振‑を示すこと、釈尊の枕辺に摩耶夫人が現われる
こと、足‑とでは長老大迦柴が釈尊の双足を作礼していること等である。葬礼における激しい哀悼の身
振りは、中央アジアの遊牧民の問にみられる習俗で、死んだ英雄・王者の蘇生を願う呪術的儀礼に関係
するといわれる。また浬磐図における摩耶夫人の出現には、ピアンジケン‑の「哀悼の図」にみられる
ような、中央アジアの葬送儀礼における'死と再生を司る女神信仰が関わっているのではないかと私は
考えている.バー‑ヤーンの浬磐図には、こうした中央アジアの英雄の死に纏わる信仰と儀礼が、色濃
‑影を落としているように思われる。バー‑ヤーンの樫磐図は、インドのそれのようにもはや仏伝中の
r場面として描かれているのではな‑、釈尊の死を通して、いわば新たな仏世界への蘇生を暗示する図像
となっているのである。
バー‑ヤー・・ノ石窟では、多‑の場合、ドーム天井の頂部に弥勧菩薩を描き、その周囲を千仏で埋め、
北壁もし‑は南壁の中堅に樫繋図を描いている。
K 洞 (第 三 三 〇
窟)は長方形プランで、ヴォールト天井の窟であるが'やはり中心に弥勧菩薩を大き‑描き、その周囲は全面、円輪構図の千仏で埋めている。.1JpJ・;浬磐図は、英雄の死に比すべ
き 法 の
体現者としての仏陀の死、いわば法域を暗示する図像となって、天頂 に 表 わ さ れ た 救 世 主 と し て の 性 格 を も つ 弥 勤 の 救 済 的 信 仰 と 結 び つ い て い る 。 バ ー ‑ ヤ
ーン 浬 磐 図 の
特 徴 の 一 つ に 、 大 迦 葉 に よ る 釈 尊 の 双 足 礼 拝 の 表 現 が あ る 。 経 典 に よ れ ば 、 大 迦 葉 は 釈 尊 入 滅 後 、 そ の
道 法 を 守 ro ベ ‑ ' 釈 尊 の 袈 裟 を 持 し て 弥 軌 に 手 渡 す 役 割 を 担 っ て い る の で あ る 。 バ ー ‑ ヤ ー ン で は 、 浬
架 図 は 釈 尊 の 船 浬 柴 の 完 成 を 表 わ す 図 像 で は な ‑ 、 仏 陀 の 死 滅 = 法 減 を 暗 示 す る 図 像 と な っ て 、 弥 勤 の
救 済 的 性 格 を 際 立 た せ て い る 。
と こ ろ で 、 空 間 全 体 を 仏 陀 で 埋 め 尽 す 千 仏 構 成 は 、 す べ て の 時 空 に お い て 、 仏 陀 が 遍 満 し 、 い つ ど こ
で も 仏 陀 に 会 う こ と が で き る こ と を 表 わ し た も の で あ ろ う 。 仏 教 の 時 間 の 観 念 に 三 劫 と い う の が あ る が 、
過 去 荘 厳 劫 、 現 在 賢 劫 、 未 来 星 宿 劫 の 三 劫 で 、 そ れ ぞ れ に 千 仏 が 出 世 す る と い わ れ る 。 バ
ー‑ ヤ
ーン の
ド
ーム の 両 室 に 入 り 、 壁 画 や 塑 造 で 飾 ら れ た 千 仏 の 環 内 に 身 を お ‑ と 、 ま さ に こ う し た 時 空 に 遍 満 す る
仏 陀 に 出 会 う 感 が し た に 違 い な い 。 一
﹃ 観 弥 勧 上 生 兜 率 天 経 ﹄ に い う 。 「 衆 生 、 も し 諸 業 を 浄 ‑ し て 、 六 事 法 を 行 へ ば 、 必
定し て 疑 な ‑ 富 に 19
兜 率 天 上 に 生 れ 、 弥 勤 に 値 過 し 、 亦 弥 勤 に 随 っ て 闇 浮 提 に 下 り 、 第 言 法 を 聞 い て 、 未 来 世 に 於 て 賢 劫 l
の 二 切 諸 仏 に 値 過 し 、 星 宿 劫 に 於 て も 亦 諸 仏 世 尊 に 値 遇 す る を 得 て 、 諸 仏 の 前 に 於 て 菩 提 の 記 を 受 ‑ べ
L L と 。
いみさとみて﹃ 法 華 経 ﹄ に ‑ 「 若 し 人 あ り て 、 受 持 し 、 そ の 義
趣を
解ら ば 、
この 人 命 終 す る と き 、 千 仏 は
手を 授 け え み・P と て 、 恐 怖 せ ず 悪 趣 に 堕 ち ざ ら し め た ‑ う こ と を 為 、 即 ち 兜 率 天 上 の 弥 勤 菩 薩 の 所 に 往 き 、
‑弥 勧 菩 薩 す な わ は 三 十 二 相 あ り て 大 菩 薩 衆 に 共 に 囲 遼 せ ら れ 、 百 千 万 億 の 天 女 の 寄 席 あ ‑
〜而ち巾 に お い て 生 れ ん 。
か ‑ の 如 き 等 の 功 徳 利 益 あ ら ん 。 」 ( 普 賢 菩 薩 勧 発 品 、 岩 波 文 庫 版 に よ る ) と あ る 。
イ ン ド の 仏 教 は も と も と へ 自 己 の 悟 り を 目 差 す 解 脱 の 宗 教 で あ っ た が 、 バ ー ‑ ヤ ー ン の 仏 教 は 、 A 救
済 W の 宗 教 に お き 変 っ て い る 。 し か も そ れ は 、 浄 土 教 の よ う な 彼 岸 世 界 を 憧 慣 ' 希 求 す る 宗 教 で は な ‑ 、
よ り 現 世 的 な 天 空 に お け る 再 生 信 仰 に 貫 か れ て い る よ う に 思 わ れ る 。 そ れ は 、 古 代 的 な 太 陽 信 仰 、
さらには英雄・帝王の死と蘇生の信仰を背景にした、聖俗両界の至上権に宗教的価値をおいた世界である。
バ
ー
‑ヤ「ンの仏教世界は、こうした中央アジアの古代的宗教との温情を通して、よ‑普遍的な'高次の救済の宗教世界を切‑開いている点に偉大な独自性があろう。
ヒンドゥ
ー
クシュ山中の小オアシスという辺境の地にありながら、当時の東西交易の一中継点にあって富を蓄積し、おそら‑はその富のほとんどすべてをつぎ込んで、大仏や窟寺を造営した彼らの信仰は、
新しい中央アジア的・中世的な仏教世界を打ち立てた、まさし‑画期的なものであったろう。八世紀初
めにここを訪れた新羅の僧慧超は、「此の王は鯛なれど余国に属さず。兵馬強‑して多ければ、諸国あ
えて釆侵せず。
‑ ⁚ ‑
王及び首領百姓等、大いに三宝を敬まい、寺多‑憎多し。大小乗の法を行‑。」
と記しているoバー‑ヤーンの王は、胡人であって、他の国に属さず、独立国として存在していたこと
がわかる。gTT時'周辺の国々は突厭に属していたが、バー‑ヤーンはそれらの中にあって、独立を保っ
た特異な国として栄えたこJJが琴乙る0彼らの歴史的実際を伝える、書かれた資料が何も残されていない
今
日、彼らの〝現実〟
がどのようなものであったか、すべては過去の歴史の海の中に没してしまっている。しかしながら'
残
された遺跡と
描かれた資料が、彼らの〟現実〟
を陰画のように垣間みせている.バ
ー
,Vヤーンの仏教美術をみるとき、その作品を生み出した想像力 と
いうものが'現実から抜け出、現実を超え出ようとする働き、と同時に、現実を牽引し、変革しまうとする働き'この二つの働きをもっ
ていることを攻めて教えられ、彼らの偉大な想像力に深い感銘を覚えるものである。
一九八四年二月ヒロ
︹付記︺本稿は7九八二̀年末月七日の第十八回弘前大学哲学会における講演の草稿をもとに、加筆、修正を加えた
ものである。筆者は一九六九年名古屋大学調査隊(代表小寺武久教授)、およびl九七四、七六、七八年京都大学
調査隊(代表樋隆康教授)の貝として、バー‑ヤ‑./遺跡の調査に加わる機会に恵まれLjc本稿もそれらの調
否研究に基づいている。なお、さらに御関心をお持ちの方は、以Fの拙論を参照頂ければ辛いである。
仙﹃バー‑ヤーンーl九六九年度の調査し(小寺武久編'名古屋大学学術調査報告書)、分担執筆、名古屋大学へ
一九七一年。
惚「バー‑ヤーン
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洞の浬繋図L﹃名古屋大学文学部研究論集﹄LX.1九七三年。8「バ
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・,Vヤーン研
究史‑先学の諸研究とその問題点‑」(上)﹃名古屋大学文学部研究論集﹄LXtX二九七六年。(下)﹃弘前大学教養部文化紀要﹄第十二号Ⅰ、1九七八年。
㈱「バー‑ヤーン西大仏(克卜五米仏)の仏尭壁画」
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国華﹄1九七六年。愉「バー‑ヤ
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ン壁画の展開」(上)(下)﹃仏教芸術﹄二三号、一九七ヒ年。二八号、一九七八年。㈲「バー‑ヤ
ー
ンの〝飾られた仏陀″
の系譜とその年代」﹃仏教芸術﹄l三七号、T九八l年。仰「バー‑ヤーンの塑造唐草紋」
﹃ 展
望アジアの考古学‑樋口降康教授退官記念論集﹄所収、
新潮社、l九八三年O胤
「中央アジア浸柴図の図像学的考察‑哀悼の身振‑と摩耶夫人の出現をめぐって‑」﹃仏教芸術﹄一四七号、一九八三年。
㈲﹃パー‑ヤーン﹄(樋口隆康編'京都大学中央アジア学術調香報告書)、分担執筆、図版篇
(Ⅰ
壁画・ Ⅱ
石窟構造)一九八三年。Ⅲ本文篇・実測図篇一九八四年、同朋含。(弘前大学教養部助教授)
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