【学位論文審査の要旨】
1 研究の目的
ポルフィリンは生物学的な配位子としての役割をもつことから長年研究が続けられてい る。オキソ鉄ポルフィリンとオキソマンガンポルフィリンは酸素運搬や酸素貯蔵、電子移 動、酸化反応など幅広い化学現象に関わっている。これらの反応に於いては、アキシャル 配位子やポルフィリン環周辺の置換基、更に、反応場周辺の環境が生成物の分布や反応メ カニズムに多大な影響を及ぼしている。特にこれらの反応では幾つかの高スピン多重度の 電子状態が交差するなど複雑に励起状態が関与しており直感的な理解を阻んでいた。本論 文の目的は、電子状態理論と電子状態計算の方法を使って、オキソ鉄(IV)ポルフィリンと オキソマンガン(V)ポルフィリンを対象として、オレフィンのエポキシ化と水酸化反応にお けるアキシャル配位子、ポルフィリン環周辺の置換基や反応場周辺の環境がもたらす機能 が発現するメカニズムを明らかにし、ポルフィリン化合物の多様な反応性を理解し、更に は予測するための知見を与えることにある。
2 研究の方法と結果
本論文の第1章の前半では、本論文の理論的な基礎となる電子状態理論と反応速度論の 概要が纏めてある。電子状態理論の記述の特徴としては、電場効果を考慮する方法が説明 されている。更には、Mulliken 電荷解析とスピン密度解析が丁寧に纏められている。反応 速度論の記述では、ポテンシャルエネルギー曲面の特性、反応機構の具体的な取り扱い、
反応速度の計算方法、遷移状態理論についてそれぞれ解説している。第1章の後半では、
オキソ鉄ポルフィリン錯体とオキソマンガン(V)ポルフィリン錯体を触媒とする種々の反 応についての概論が述べられている。
第2章には電子状態理論についての詳細部分が纏められている。本論文では、主として Density Functional Theory (DFT)法が使われているが、第2章ではDFT法だけでなく、波 動関数法の基礎である分子軌道法についても纏めてある。DFT法の汎関数、及び、長距離相 互作用の検討についても記されている。続いて基底関数展開法についても詳細に解説して いる。以後に多用する軌道相互作用についても説明が加えてある。
第3章では、四重項と六重項状態のオキソ鉄(IV)ポルフィリン錯体を触媒とするエチレ ンのエポキシ化反応におけるポルフィリン環周辺のフッ素置換基の効果が DFT 法によって 系統的に研究されている。実験的な観測で示唆されているように、環周辺のフッ素原子数 の増加によって反応性が増すことをDFT計算でも確認し、この効果がフッ素原子の電子吸 引性によることを電子状態解析によって示している。特筆すべき点として、四重項と六重 項状態の系間交差(ISC)が置換基効果によって大きく影響を受けることがDFT計算によって 示されている。反応律速段階はC=C結合とFe=O結合の活性化が起こる最初の遷移状態にあ る。この遷移状態の周辺で四重項から六重項状態への ISC が起こる。本章の研究は以後の 研究の基礎となる重要な研究であると位置付けられる。
第4章では、反応場の周辺タンパク環境として人為的な外部電場を置いたモデル系の研 究が展開されている。触媒反応として塩化オキソ鉄(IV)ポルフィリンを採用したモデル反応 系に於いて、電子移動やエネルギー変化が外部電場に強く影響を受けることを示している。
特に、外部電場によって、エチレンからオキソ鉄ポルフィリンへの電子移動が促進される ことが確認されている。タンパク中で生じる程度の電場によって活性化エネルギーが消失 することも示されている。このように外部電場によって触媒活性が大きく変化することは 注目に値する理論化学的な発見である。
第5章では、アキシャル配位子の効果について詳細な研究が実施されている。オキソ鉄 (IV)ポルフィリンを触媒とするオレフィンのエポキシ化反応をモデルとして種々のアキシ ャル配位子による電子状態や反応機構への影響を検討するための計算を実施している。極 限的反応座標(IRC)に沿った分子軌道、電子スピン密度、及び、Mulliken電子密度の変化を 解析し、アキシャル配位子とオキソ鉄ポルフィリンの相互作用が、反応初期の電子状態を 変化させ、それによって全体の反応性を変化させていることを示している。オレフィンか らオキソ鉄への電子移動もアキシャル配位子によって影響を受ける。続いて起こる Fe=O 結合からポルフィリンへの電子移動、その後のC=CからFe=Oへの電子移動もアキシャル 配位子がフッ素若しくはアセテートの場合に増大する。一方、アキシャル配位子が塩素や ニトリルの場合は、C=C 結合からポルフィリンへの電子移動が強調される。更に、第二遷 移状態の周辺にある四重項から六重項状態への ISC を2パラメーターのポテンシャル曲面 を計算することによって決定している。
第6章では、オキソ鉄(IV)ポテンシャルによるプロペンの C=C 結合のエポキシ化反応と C-H結合の水酸化反応についてDFT計算による研究が実施されている。メソ位の置換基とし てメチル基とフッ素を採用している。メソ位の電子吸引性置換基が存在するとその錯体の 電子受容軌道が安定化し、2軌道間のエネルギー間隔が縮まり、その結果として活性化エ ネルギーを減少させる。更に、メソ位のフッ素のpull効果が水酸化を有利にし、メチル基 はエポキシ化を有利にすることを計算によって示した。すなわち、オキソ鉄(IV)ポテンシ ャルによるプロペンの酸化反応性がメソ位の置換基の電気陰性度によって大きく影響され ることを示した。
第7章以降では、オキソ鉄(IV)ポルフィリンと等電子構造であるオキソマンガン(V)ポル フィリンの触媒活性についての研究を実施している。実験データはシクロヘキサンとシク ロオクタンの低収率が示されており、中性とカチオン性の中間体が存在している可能性が あることから、中性のオキソマンガン(V)ポルフィリン錯体を形成する OH-と F-、及び、カ チオン性のオキソマンガン(V)ポルフィリン錯体を形成するH2Oとイミダゾールを配位子と して採用している。DFT計算によって種々の反応中間体を予測し、この反応が最終的に低収 率であることを確認した。中性のオキソマンガン(V)ポルフィリンは活性化エネルギーを増 大させシクロアルカンのヒドロキシル化の収率を減少させることを見いだしている。電子 状態の解析から、CH活性化に於いて、C-H のσ結合からMn=O のπ*結合への電子移動が起
こる、この電子移動にはMn=Oのπyz軌道が複雑に関与していることを示唆している。更に、
カチオン性の錯体における正電荷による電場が電子供与軌道に比べて電子受容軌道をより 安定化させ、反応の活性化エネルギーを減少させていることを示している。
第8章では、オキソマンガン(V)ポルフィリンを触媒とした、ヒドロキシル化、水素化、
ラジカル移動反応が協奏的に起こる現象を扱っている。反応基質としてはノルカレンを採 用した。DFT計算の結果、反応律速段階である水酸基の脱離をトリガーとしてヒドロキシル 化と水素化反応が起こることを示している。一方、ラジカル移動反応の律速段階は再結合 が起こる段階であることが示されている。また、endo-2 反応が全体の反応の中で最も有利 であることが示されており、これは実験結果と一貫性がある。ノルカレンの競争的な反応 はノルカレンとポルフィリン環との弱い立体障害とドナー・アクセプター軌道のエネルギ ー間隔に依存することを示している。
以上の研究はオキソ鉄(IV)ポルフィリンとオキソマンガン(V)ポルフィリンの触媒活性 を電子状態の側面から総合的に比較検討しており、これら両錯体の電子論的メカニズムを 系統的に理解して、触媒活性を変化させるための重要な知見を与えるという点で大きな意 義があると考える。
4 最終試験の結果
本学の学位規定に従い、最終試験を行った。公開の席上で論文の内容を発表し、化学専 攻教員他との質疑応答をもって試験に充てた。また、論文審査委員が本論文および関連分 野について試問を行った。その結果、専門科目および外国語(英語)についても充分な学 力・能力があることを認め、合格と判定した。