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イギリス農業環境政策の展開に関する研究

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

イギリス農業環境政策の展開に関する研究

田代, 正一

https://doi.org/10.11501/3100012

出版情報:Kyushu University, 1994, 博士(農学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)
(3)

イギリス農業環境政策の展開 に関する研究

田 代 正 -

1 995

(4)

目 次

序 章 課題と構成

第1章 イギリス農業環境政策の歴史的背京

一一一一一一一一一11

第1節 1947年農業法の成立過程 一一ー一一一ーーーー一一一一一一一ーーーーー一一一一一14 1 . 穀物法撤廃と農業大不況(14)

2. 両世界大戦とイギリス農業(15) 3. 農業政策をめぐる国民的合意(17)

第2節 全国農業者組合( N F U)の歴史とその戦略 一一一一一 一 一 一 一20

1. N F Uの政治戦略(20)

2. 年次価格審議とNFU (23)

第3節 農業法農政の展開過程 ー一一ー一一一一一一一一一一一一一一ーーーー一一一一25 1 . 戦後初期の農業拡大計画(25)

2. 固定価格制から不足払い制ヘ(28)

3. 価格引き下げと「農業の長期保証J (29) 4. 1958年の「小農計画J (31)

5. 価格市場政策の修正(3 4)

第4節 E C加盟後のイギリス農政 一一一一一ー一一ーー一一ー一一一一一ー一一一一 一一一一37 1 . 共通農業政策(C A P)とイギリス農政(37)

2. 1980年代の農政転換(39)

第2章 イギリス農業環境政策ESA計画の展開

一一一一一一一42

第1節 イギリスESA計画の背景と概要 一一一一一一ーー一一一一一ー一一一ーーー 一一43 1 . イギリスESA計画の背景(43)

2. E S A計画の概要と実績(47)

第2節 ESA計画の評価:環境モニタリング ー一一一一 一 一一一ーーーーーー一一52 1. ßroads地域におけるESA計画の概要(52)

2. ßroads E S A計画の環境モニタリング(55)

(5)

第3節 E S A計画の社会経済的モニタリング 1 . モニタリングの視点と方法(

61)

2. 標本農場の性格(62)

3. E S A計画が農業経営に与えた影響(65) 4. 標本調査にもとづく全体の推計(72)

5. E S A計画に対する農業者の態度(74) 6. 社会経済的モニタリングの要約(76)

61

第4節 E S A計画の展開と課題 一一一一一一一一一一一一一一一一一ーーーー一一ー一一一ー一一一-77

1 . 第l次ESA計画の改善(77) 2. E S A計画の課題と展望(79 )

第3章 EC農政改革とイギリス農業環境政策一一一一一一一一一89

第1節 E C共通農業政策(CA P)の改革 1.

C

A

P改革の背景(90)

2.

1980年代までのCAP改革(94)

3.

1992年CAP改革の槻要(95)

第2節 CAP改革後のイギリス農業環境政策 1. E

Cの農業環境行動計画(99)

2. イギリス農業環境政策の新展開(

104)

第3節 E C型直接所得支払い制度の諸問題 1 . 所得補償の恨拠(

107)

2. その他の諸問題(108)

第4章 結 論

参考文献(

118)

謝 辞

一一90

- 99

ー-107

(6)

ADAS BGMCS BSU CAP CC

CEC CPRE EC ECU EEC ESA EU

FEOGA FWAG

GLU LFA LISA MAFF MMB

NCC NFU NSA RASE RSPB SGM SMD WWF

略語一覧

AgricuJturaJ DeveJopment and Advisory Service ßroads Grazing Marshes ConservatioJl Scheme British Size Unit

Common AgricuJturaJ Policy Countryside Commission

Commission of the European Communities CounciJ for the Protection o[ RuraJ England European Community

European Currency Unit European Economic Community EnvironmentaJJy Sensitive Area European Union

Fonds Europeen d'Orientation et de Garantie Agricole Farming and WiJdJife Advisory Group

Grazing Livestock Unit Less Favoured Area

Low Input SustainabJe AgricuJture

Ministry of Agriculture, Fisheries and Food MiJk Marketing Board

Nature Conservancy Council National Farmers' Union Nitrate Sensitive Area

Royal Agricultural Society 01' England RoyaJ Society for the Protection of ßirds Standard Gross Margin

Standard Man Day

World Wide Fund for Nature

(7)

序 章 課題と構成

1 . 第2次世界大戦後, イギリス農業は目覚ましい発展を遂げてきた。 それは 戦後世界における農業のサクセス ・ ストーリーのlつに数えられる。 1993年現 在, イギリスの食料自給率は58%であり, 国内で生産可能な温帯農産物に限る と自給率は73%にまで高まっている。 戦前の食料自給率が40%を切っていたこ とを考えるなら, 戦後のイギリス農業の発展がいかに成功的であったかがわか る。

しかも, 自給率の向上は農業就業人口の急速な減少を伴いつつ達成された。

すなわち, より少ない労働力でもってより多くの食料を供給できるようにな っ たのである。 現在, イギリスの全就業人口に占める農業就業人口の割合は2.2

%にすぎない。 これは世界最低の水準である。 国内総生産(G D P)に占める 農業生産の割合も戦後一貫して低下し, 現在では1.4%を下回っている。 しか し, これは農業以外の産業がより急速に発展したことの結果であって, 絶対亙 で見れば, 今日の農業生産の水準は過去のどの日寺代のそれよりも高い( MAFF,

1994 )。

ところで, このようなイギリス農業の発展の裏には, 戦後の歴代政府による

農業支持政策がある。 戦中 ・ 戦後の食料不足という苦い経験にもとづき, イギ リスでは1947年に「農業法J (AgricuJture Act 1947)が制定された。 この農業 法のもとで農産物の価絡と販路が保証され, 農業の「安定と効率」が追求され た。 そして, その政策基調は保守党および労働党のいずれが政権を担当しても

大きく変わることはなかった。

イギリスは, 1973年に欧州共同体(E C )に加盟したが, それを契機に農業

-E-EA

(8)

生産の拡大はさらに加速された。 EC域内で生産された農産物の消費を優先す るEC共通農業政策(CA P)のもとで農業保護がさらに強化されたからであ る。 しかも, イギリスの平均農場面積は他の加盟国のそれに比べると大きく,

とくに穀作経営には有利であった。 CAPのもとで穀物価格が優遇されたこと もあって, 1974年に世界第6位の穀物輸入国であったイギリスが, 1990年には

同じく第G位の穀物輸出国となっている( MAFF. 1991c )

2 このようにイギリス農業が成功を収めるためには, 経済の面でも環境の面 でも, それなりのコストが支払われた。 たとえば, C A Pの予算は1978年の96 億ECUから1992年には347億E C U (欧州通貨単位, 1992年12月現在, 1 E CU=約160円であった)にまで増加した。

他方, 米国も農業支持政策を強化してきた。 その結果, 1980年代に入ると,

大西洋の両岸, すなわちECと米国に過剰農産物の山が築かれるようになった。

これらの国々では過剰在庫の保管や処分のための費用が増大し, 農産物の補助 金付き輸出競争が激化した。 補助金付きの輸出競争により世界の農産物価格は 低迷を続け, その結果, 途上国農民の所得も低迷せざるを得なかった。 さらに

国によっては食料援助により一層低価格に輪がかけられた。

このような状況を背景として, 1986年にガット ・ ウルグアイ ・ ラウンド‘が開 始され, 農業保護削減のための交渉が行われてきた。 同ラウンドは7 年半に及 ぶ交渉の末, 1993年12月にようやく合意をみることができたが, そこでの最大 の難問がECと米国の農業補助金をめぐる対立であったことは周知の通りであ る。

ガット農業交渉と平行して, E CではCAPの改革も進められてきた。 CA

円/臼

(9)

Pは過去30年以上にわたってEC農業発展の基盤を提供し, 農業生産の拡大に 寄与してきた。 戦後, 欧州における食料不足の不安を取り除いた点で, C A P のもつ意義は大きい(CEC, 1991)。 ところが, 1980年以降, E Cは過剰問題 に直面し, その処理のためのコストはEC財政にとって耐えがたいまでに大き な負担となってきた。 EC域内で過剰となった農産物が, 輸出補助金を付けて 域内価格をはるかに下回る価格で域外に販売されることに, E Cの納税者や消 費者は不満を募らせた。 ECの行政機関であるEC委員会は, 支持価絡の引き 下げによって過剰問題の解決をはかろうとしてきたが, 加盟各国の思惑の違い などもあって, 事態は思うように改善されなかった。

3. 戦後, イギリスでは47年農業法のもとで農業の近代化が進められてきた。

食料自給率の向上はいわばその成果である。 ところが, この過程で闘場の大別 化や低湿地の排水などの土地改良が進み, 農薬や化学肥料の利用が地大してい った。 その結果, 伝統的な田園景観が破壊され, 野生生物の生息環境が損なわ れ, 水質が汚染される地域があらわれた。 農業の近代化のために環境が犠牲に されたのである。

ところで, イギリス国民の多くは農村の土地と景観に対して特別の思い入れ を持っている。 すなわち, 田園地域に深い愛着をおぼえ, 多分に理旬、化された ものとはいえ, 農村での生活に魅力を感じるイギリス人は多い。 都会での生活 に見切りをつけ, そこから離れた農村に生活の根を張ることができる能力は,

多くのイギリス人にとって成功と安定のシンボルであると考えられている。 そ れだけに農村環境の破壊や悪化に対する国民感情は敏感である。 近年, 集約的

農業に伴う環境倣地が環境保護団体やマスコミによって大きく取り上げられ,

円ぺU

(10)

それがlつの社会問題にまで発展した背景には, そのようなイギリスの国民感 情がある。 イギリスの農業者は田園地域における環境保全の担い手として長ら く人々に尊敬されてきたのであるが, しかし最近では, その破壊者の役割を演 じていると一部で非難されるようになった。

農業による環境破峻は, もちろん, いまに始まったことではない。 生活の糧 を得るために自然に働きかけ, それを改変してきた農業の歴史はいわば‘自然、破 域の歴史でもある。 しかし, 食料が不足し, 食うや食わずの生活を余儀なくさ れている問は, 人々にそれを問題にする余裕などなかった。 飽食の時代となり,

人々の脳裏から食料供給に対する不安が解消されて初めて, 農業による環境破 峻が注目されるようになったのである。

農業者にしてみれば, 国民の食料を確保するために, 政府の農業政策に導か れるまま, ただひたすら追求してきた近代化であり, その結果生じた環境破域 であった。 収益追求を至上目的とする農業経営の在り方に問題があるという批 判もあるが, しかし, それはなにも農業に限ったことではない。 農業者だけを 責めることはできない。

4. とはいえ, 環境への配慮を欠いた農業が社会に受け人れられなくなってい ることもまた事実である。 食料が不足から過剰に転じるとともに, 社会が農業 に求めるものも変化してきた。 そのことは当然ながら政策の変更をも要求する。

1986年にイギリスで農業法が改正され, 農業政策のH標が見直されたのもその ためである。 1986年農業法では, これまでのように農業の安定と効率のみを迫 求するのではなく, 新たに環境保全や農村のアメニティなども視野に入れた政 策の必要性がうたわれている。

4 -

(11)

農業における生産過剰と環境破峻, この両者は高投入 ・ l有産UJ型の集約1'1な農 業のもとで生じた現象であり, 互いに密接な関係がある。 そのため, 近年EC では, 生産の粗般化, 耕地のセット ・ アサイド(set aside) , 農地の林地化な ど, 過剰を削減しつつ環境保全をはかる政策が採られつつある。 このような農 業と環境を同時に視野に入れた政策は, 一般にわが国では「農業環境政策」と 呼ばれており1), OECD (経済協力開発機構)の最近のレポートでは「農業 政策と環境政策の統合」などと表現されている(OECD, 1993 )。

ところで, 農業活動(agricultural practices)が環境に及ぼす影響がプラスで あるかマイナスであるかによって, 農業保護政策に対する人々の評価も分かれ てくる。 農業が環境に対してマイナスの効果を与えているとき, 農業保護政策 は環境破壊を助長するものとみなされる。 生産の集約化, たとえば肥料や農薬 の大量投入は農業保護に促がされたものであり, また野生生物の豊富な湿地の 開発なども多くは農業保護によるものである。 農産物の価絡支持は土地面積当 たり要素投入量の増加を招き, またそれによって引き上げられた農産物価絡は

耕境の拡大を可能にするからである(生源寺, 1993)。

以上のことから導かれる環境保全のための方策は, J.農業保護水準の引き下げ による農業のキ[l政化である。 もちろん, 環境保全のための方策は保護水準の引 き下げにつきるものではない。 欧米において実際に採mされている政策として は, 次の2つタイプが注目される。 1つは自然保護や水質保全の観点から, と くに重要な地域を指定し, そこでの肥料や農薬の投入量を制限したり, 農業生

産それ自体を停止するなど, 地域限定的な規制を導入する方法である。 いまl つは要素投入量の減少につながる技術開発を促す政策である。 これに関述して は, アメリカの持続型農業のための研究教育プログラム(Sustaínable Agrículture

「hJ

(12)

Research and Education Program )がよく知られているZJ O

本論文で考察されるイギリスのES A (EnvironmentaJly Sensitive Area)計画 は地域限定的な手法にもとづく環境保全策の一例である。 1987年以降, イギリ スでは, 自然景観, 野生生物の生息地, 歴史的遺跡などを保全すべき地域をE SAとして指定し, そこで環境保全型の農業を営む農業者に特別の交付金を支 給する政策が採られている。

さきのガット農業交渉にみられるように, 近年, 農業保護削減の要求が世界 的に高まっており, 生産刺激的な価絡引き上げや補助金支出の拡大は困難な状 況にある。 そうした中にあって, 環境保全型の農業活動に交付金を支給し, 結 果として農業者の所得支持を行うESA計画は新たな政策手法として注目され る。 農産物の生産に対してではなく農村環境の保全に補助金を出すというES A計画の考え方は, これからの農業 ・ 農村政策において重要性を増してくるも のと思われる。 本論文でESA計画を取り上げた所以である。

5. ところで, 1992年6月, E CではCAPの抜本的改革が実施された。 改革 の背景として, 第1に, E Cが食料輸入地域であった約30年前一一この時期に CAPが制定された一ーと食料輸出地域となった今日とではCAPの果たすべ き役割が基本的に違ってきたという事情がある。 そのことは, C A Pのもとで の高水準の価格支持が生産を刺激して過剰生産を生み出すとともに, 過剰を処 埋する方法は, 介入買い入れによる在庫の積み地しと補助金による世界市場へ のダンピング輪山しかないという状況に端的に示されている。

第2に, E Cの農業財政支出は増加の一途をたどってきたが, それ は少数の 大経営の利益になることはあっても, 大多数の中小経営の所得改善には必ずし

(13)

も役立たなかったということがある。 たとえば, 穀作では6%の大経営が生産 の60%を占め, 肉用牛では10%の経営が頭数で50%を占めている。 このような 農業機造のもとで, E C財政による農業支持予算の80%はトップ20%の大経営 が受け取っている(CEC, 1991)。 このことは, すなわち, 従来の価格支持制 度によって中小農業者の所得改善を行うことはきわめて困難であることを示す。

さらに, 第3に, さきにも指摘してきたように, C A Pによる農業保護のも とで必然的に進行する生産の拡大と集約化は, 様々な環境問題を引き起こして きた。 そうした事態に対応する農政の展開が必要になったのである。

そこで, E CではCAPの改革によって, まず第1に, 農業の国際競争力の 確保と市場均衡の回復がはかられることになった。 すなわち, 農産物輸出地域 となったECにとっては農業の競争力の確保が必要であり, そのためには価格 の抑制が不可欠である。 また市場の需給均衡を回復するために, セット ・ アサ イドによる生産調整が実施される。 そして, それに伴う農業者の所得減少は7 接支払いによって補償する政策が打ち出された。

第2に, 直接所得支払い制度の導入によって, 中小刻模の経営や劣等地域で の経営に一定の支持をする方向が打ち出された。 これまでC八Pの'1-l伎は価絡 支持政策であり, その所得移転効果は生産量に比例したものであった。 すなわ ち, 規模の大きな経営と豊かな農業地借により大きなjg、恵を与えてきた。 これ に対し直接所得支払い制度は, 中小経営や条件不利地域農業に特別の配慮をす るという形で, それまで生産量に比例しがちであった農業支持のための財源配

分の在り方を変更するものであった。

第3に, 環境問題に関しては, 農業者の二重の役割が重視されることになっ た。 食料の生産者であると同時に環境保全の担い手でもある農業者の二重の役

7 -

(14)

割について, E Cでは早くから注意が払われてきた。 今凹の改革ではこの点が さらに重視され, 農業の多面的機能に配慮、した政策の強化が行われることにな った。 このようなECの農政改革は, イギリスの農業環境政策にも少なからず 影響を及ぼすものと考えられる。

6. 本研究の課題は, 以上のような問題意識にもとづき, E S A計画を中心と する最近のイギリス農業環境政策の展開を分析し, その今目的意義を明らかに することである。 そのために, 以下, 次のような順序と方法で考察を行う。

まず, 第1章において, 1980年代以降に本格化してくるイギリス農業環境政 策の歴史的背景を明らかにする。 さきに述べたように, 第2次大戦後イギリス では1947年農業法のもとで農業の振興がはかられてきた。 最近のイギリス農業 の動きを理解するには, この47年農業法の成立とそれにもとづく政策展開につ いての知識が不可欠である。 ど の国の場合にもいえることだが, 現在のイギリ ス農業政策は過去の諸施策の累積として形成されたものであり, それを埋解す るには歴史的な視点からの分析が必要となるのである。 そのような視点からイ ギリス農政の流れを振り返るとき, 全国農業者組合(NF U)の役割を見落と すことはできない。 NF'Uは政府の政策形成および遂行に大きな影響を及ぼし てきたからである。 そこで, 本論文では, N F Uが巣たした役割に注日しなが ら, 1947年農業法の成立とその展開過程を分析してみたい。

砂くに, 第2章では, イギリス農業環境政策の典型とされるESA計画の展開 について分析する。 前述のように, E S A計画は, 農業活動の変化や集約化に

伴ってその存在を脅かされている自然景観, 野生生物, 歴史的遺跡などを保全 あるいは保護しようとする施策であり, イギリス農漁業食糧省(MAFF)に

8 -

(15)

よる最初の本格nなな環境保全政策であった。 ところで, E S A計画の最初の5 年間はいわば試行期間であり, その間に計画の影響を評価するモニタリングの 作業が行われた。 それは環境および社会経済の両面から行われた。 本論文では,

MAFF'から出されたESAモニタリング ・ レポートやその他の政策文書, お よび現地調査によって得られたl次資料にもとづき, E S A計画が登場してき た背景, その槻要と実施状況, 計画の評価と問題点などを明らかにする。

第3章では, E Cにおいて農政改革が不可避となった事情を概観するととも に, E C委員会発行のパンフレットや公式文書を用いて, 1992年CAP改革の 概要を明らかにする。 その上で, 改革後のECおよびイギリスにおける農業環 境政策の新たな展開について考察する。 今回の改革によって, E Cでは直接所 得支払い制度が広範に導入された。 農業者の所得支持は価格支持から直接支払 い方式に転換されたのである。 EC型直接所得支払い制度は, 今日, わが国で も注目されることが多いが, 本論文では, それが抱える問題点についても触れ てみたい。

最後に, 第4章では, 本論文を総括し結論を述べる。 そこでは, イギリス農 業環境政策のw型とされるESA計画の特徴が, L F' ^政策などと対照される ことによって, よりl明i確にされるはずである。 また, 本論文に残された課題に ついても言及する。

;主

1 )農業環境政策に関する邦詩文献として, 和泉(1989), 指士(1990a) , tlll 山(1991), 宮崎(1991), 田代(1992), 中林(1993), 機川(1994a)な

nud

(16)

どがある。

2)これは当初, L I S A (Low Input Sustaínable Agriculture )すなわち低投入持 続型農業のための研究プログラムと呼ばれたが, 持続型農業を低投入だけに限 定しないという観点から, 1990年に名称が変更された。

10

(17)

第1章 イギリス農業環境政策の歴史的背景

第2次大戦後, イギリスでは, 1947年農業法が制定され農業の振興がはから れてきた。 1973年のEC加盟後もイギリス農業はCAPによる手厚い保護を受 けてきた。 その結果, 戦前には食料の3分の2を海外に依存していた国が, い まではその8割近くを国内で自給できるようになった。 しかも, E C加盟以前 には穀物の純輸入国であったが, 加盟後はその純輸出国に転化している(表I

- 1 , 表1 -2参照)。 年々低下していくわが国の食料臼給率に不安を党え,

日本農業の危機を訴える人々によってしばしば‘引き合いに山されるのが, こう したイギリス農業の発展である。

ところで, 1947年農業法の目的は, 農業における「安定と効率」の追求であ った。 この目的を達成するため, 戦後イギリスでは, 様々な農業支持政策が採 られてきた。 そして, その際に政府の政策形成および逆行に大きな影響を及ぼ したのが「全国農業在組合J (NationaJ Farmers' UnioIl)すなわちNFUであっ た。 NFUは, 戦後, 経済的安全保障の基盤としての国上および国内資加の完 全利用の必要性を国民に訴え, 食料確保のためには国内農業を設大阪に発展さ せるべきことを強く主張してきた(NFU, 1945)。 そして政府もNFUのそう した主張をいろいろな点で採り入れてきた。

本章では, N F Uが果たした役割に注円しながら, 1947年農業法の成立と反 開の過程を分析する。 そのことはまた, 1980年代になって本格的に登場してく るイギリスの農業環境政策の歴史的背景を明らかにすることでもある。

1 1

(18)

表I - 1 イギリスの食料自給率

(単位 : %)

年度 食料全体 温帯産食料

1956 46. 7 61. 1

1967 46.2 58. 1

1970 47.0 59. 1

1975 53. 9 66. 9

1980 59.4 73. 8

1981 62. 0 76. 9

1982 62. 5 77. 4

1983 61. 2 77. 7

1984 62. 9 82. 6

1985 57.9 76. 7

1986 56. 7 74.7

1987 57. 5 74.6

1988 57. 0 73. 0

1989 58.5 75.5

1990 56. 5 72.1

1991 57.9 73. 7

1992 56. 4 71. 6

1993 58.0 73. 4

出所: Burrel1 el al. (1987)

比t\FF(1994)

12

(19)

表I - 2 イギリスの品目別食料自給率

(単位: %)

戦前

平均 1953 1961 * 1973 * 1983 * 1992

小麦 23 41 42 59 106 124 大麦 46 67 93 95 136 127 燕麦 94 97 98 100 96 117 ライ麦 93 100 72 33 88 93 (穀物全体) 31 57 53 67 108 114 馬鈴薯 96 98 97 95 91 91 砂糖 16 19 30 32 55 64 牛乳 100 100 100 100

ノ〈ター 9 12 18 63 55

チーズ 24 38 46 60 70 65

m1 61 80 94 98 99 96

牛肉 49 66 71 81 98 96 羊肉 36 36 42 50 70 105 豚肉 78 89 96 99 102 104

ヘ ーコン・ハム 29 43 34 44 43 42

家禽肉 80 86 99 99 98 92 (食|勾全体〉 47 59 62 78

注 * は前後3カ年の平均。

Wffr: Burrell ct al. (1987), MAFF (1984). MAFF (1993)

13

(20)

第l節

1

9471T-農業法の成立過程

穀物法撤廃と農業大不況

1846年の穀物法撤廃は, 旧来の土地貴族に代わって新興の産業資本家がイギ リス経済の主導権を姪ったことを示す象徴的な出来事であった。 穀物法の撤廃 によって輸入禁止的な高率関税が廃止され, 穀物の輸入が原WJ的に自由化され た。 地主の地代収入を維持するための農業保護政策は放棄され, 代わって安価 な食料と低労賃を望む産業資本家のための自由貿易政策が採用されたのである。

とはいえ, 穀物の輸入自由化は, 直ちに農業関係者が恐れていたような困難を もたらしたわけではない。 たしかに穀物の輸入は地大したが, しかしそれ以上 に国内経済が拡張して需要が増大したため, 穀物価絡は安定し, 農業は繁栄し た。 1850'""'-'60年代は海外にいまだ強力な競争相手がいなかったこともあり, イ ギリス農業 にとってはまさに「黄金時代」であった。

イギリス農業が大きな転換点を迎えたのは, 穀物法撤廃から約30年を経過し た1870年代後半の ことである。 アメリカ南北戦争の終息と大陸償断鉄道の完成 はアメリカの農業輪山ブJに革命をもたらし, やがてイギリス市場を安い穀物で­

;;'i�巻するに至る。 それはイギリス農業, とりわけ穀作農業を 「大不況」 に陥れ た。 たとえば‘, 1840年代から1870年代までの小麦仙i絡はlクォータ一当たり55 シリング前後で安定していたが, 1890'""'-'95年には27シリングにまで低下した。

その結果, 小麦の作付面積は1870年の約350万エーカー( 1エーカー=約40ア ール〉から1913年には約176万エーカーに半減し, 小麦自給率も1870年の61% から1910年の20%に落ち込んだ。

それでもイギリスは農業保護政策を採らなかった。 ドイツやフランスは1870

14

(21)

年代に国内農業の保護に乗り出したが, イギリスでは1930年代に至るまで民業 に対する白山 政任政策が維持された。 もっとも当時のイギリスと大陸諸国とを まったく同列に扱うことはできない。 イギリスは世界で最初に工業化を達成し た固としての利点をもっていた。 すなわち他国に比べてはるかに強力な貿易綱 を世界中に張りめぐらし, しかも貿易の大部分を旧他民地である自治領, その 他の英語閣の国々と行うことができた。 I世界の工場Jであったイギリスにと って, 海外から安い食料を輸入することは, 海外の購買力を創出すると同時に 国内の労働コストを引き下げることにもなる。 そのことがたとえ国内農業を不 況に陥れようとも, 国際貿易の利益がもたらす生活水準の向上と経済の繁栄は それを償って余りあると考えられたのである(McCrone, 1962 )。

2. 両世界大戦とイギリス農業

しかし, こうした考えにもとづく自由貿易政策は, 第1次世界大戦によって 時的に中断を余儀なくされた。 ドイツ軍のイギリス船舶攻撃により, 食料の 海上輸送が困難さを地すにつれて, 食料危機という問題が深刻化してきたから である。 このことは国民に衝撃を与え, 多くの人々に農業の戦略的重要性を認 識させた。 そこで政府は1917年に「穀物生産法」を制定し, 不足払い方式によ り穀物価絡を保証してその生産を奨励した(福士, 1988b)。

政府の支持に支えられて大戦中イギリス農業は繁栄した。 さらに政府は1920 年「農業法」を制定し, 農業支持の方策として大戦中に導入した不処払い制度 を戦後も存続させることを農業者に約束した。 ところが終戦後, 農産物過剰に 伴う倒絡の崩法で財政負担が急増したため, 政府はわずかl年でその廃止を余 儀なくされた。 農業は再び自由政任政策のもとに投げ出されたのである。 この

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ときの政府の行為は「大いなる背信」として農業者から激しい非難を浴びるこ とになっfこ(Whetham. 1974 )。

1929年に始まる世界的な大不況を契機に, イギリスもようやく農業保護に乗 り山し, マーケテイング・ ボードの設立, 輸入関税の導入, 補助金の供与など の惜置を採りはじめた。 まず1931年と1933年の「農産物販売法Jによって, 生 産者はマーケテイング・ ボードを設立し, 農産物の販売規制計画を実行したり,

輸入統制を行う権限を与えられた。 また1931年「園芸作物(緊急関税)法」お よび1932年「輸入関税法」によって輸入農産物に関税が賦課されるようになっ た。 さらに1932年には「小麦法」が制定され, 不足払い制度によって小麦の生 産が奨励された。 ところがその一方で, 同じく1932年の「オタワ協定法」によ ってイギリス連邦諸国からの輸入が免税とされたため, 関税はイギリス農業に とっては実効ある惜置とはならなかった。 この関税政策に切らかなように, 政 府の様々な農業保護政策には基本原f!lJが欠けていた。 したがって農業者にとっ てはどれも便宜的で, おそらく一時的なものにすぎないと感じられた。 こうし た状況のもとでは農業者の所得は低迷せざるをえなかったし, それ以上に問題 だったのは, 農業者は農業の将来について確信を抱くことができなかった。 し たがって, 当然のことながら, 農業に対する投資も低迷せざるをえなかったこ とである。

やがて第2次世界大戦の勃発とともに食料自給力の向上が再び緊急、の諜匙jと なると, 農業に対する政府の介入は保護から統制へと変化した。 政府は食料増 産をはかるため, 農業者に生産助成金を提供するとともに, 農産物を一定価絡 で買い上げて彼らにj仮路と利潤を保証した。 その結果, 第l次大戦時と同僚に

ブームが訪れた。 こうして戦争中に農業が繁栄することは, イギリスのみの特

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微ではないが, ナポレオン戦争以米, イギリスの伝統となった(小林, 1973)。

戦時における食料自給率を供給熱量ベースでみると, 開戦時の約30%から1943 /44年度の最高40%へと上昇した。 ヨーロ ッパの参戦凶の�IIで, 戦争直後の農 業生 産が戦前水準を上回っ て い た 国はイギ リ ス の みで あったといわ れる ( Britton, 1952 )。

このような農業生産の拡大にあたっては農業者の並々ならぬ努力と犠牲とが 要求された。 ところが農業者は第l次大戦直後の苦い経験を思い出し, 今回も 同様の事態が再来するのではなし1かと危倶した。 そのような農業者の不安を解 消し, 彼らの生産意欲を十分に引き出すには, 相当の経済的誘因と将来に対す る確信とが必要とされた。 そこで政府は戦争中はもちろんのこと戦争が終わっ てもしば‘らくの聞は, 主要農産物の価絡と市場を保証することを約束するとと もに, 将来の保証水準については農業者団体と協議しながら検討するという協 定を結んだ。 両者の聞で結ばれたこの協定が, のちに戦後イギリス農業政策の 基本法となる1947年農業法に盛り込まれることになる。

3. 農業政策をめぐる国民的合意

第2次大戦中にはまた, 多くの農業団体や政治団体が農業政策についての政 策提言を行った。 たとえば, 1944年に英国王立農業協会(RASE)を1j1心と する主要な農業団体は, 共同で戦後の農業政策についての椛怨を発表した。 そ れは, 農業者に生産費を補償し, かつ都市生活者と同等の生活水準が享受でき るような所得を補償する価格保�jEmlJ 1支を要求した。 その見返りとして, すべて の農用地の占有者および所有者は, 適正な農業経営および適正な土地管理の義 務を負うべきことを認めた(Courlhope, 1944)。 このように農業諸団体は国家

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による体系ÎIなな保証tlJljJ支を希望し, その必然的結巣としての農業に対する出家 の介入を受け入れることに同意した。 保守党から労働党に至るまで, 諸政党も こうした農業団体の要望に賛意を表明した。

財界や言論界も同僚の態度を表明するに至った。 1943年には自由貿易の伝統 を誇るマンチェスター市の商業会議所が政府の農業支持に賛成する決議を行っ たし, イギリス商業会議所も1945年に同僚の決議を行っている。 徹底した自由 貿易主義を襟携していた経済誌「エコノミストJ (The ECOflOmis( )すらも, 経 済理論的恨拠からではなく社会的な理由からとしながら, 国家が農業に支持を

与えるべきことを認めるようになった。

方, N F Uは, 1945年11月に「経済的安全保障の基盤」と題する政策文書 を発表し, rイギリス国民経済における農業の役割は, i以後の再建にとってがL 定的に重要であり, それゆえ政府は包活的な長期農業政策を直ちに実行に移す べきである」と勧告した。 その中でNFUは次のような具体的提言を行ってい る。 第lに, 主要農産物の価絡の安定と市場の保証による均衡のとれた凶内農 業は必要不可欠であり, それゆえ政府はNfUとの協議のもとに毎年間絡を審 議する現行の手続きを恒久的なものとすべきである。 またそうすることにより,

効率的な生産者には合理的な報酬を, 農業労働者には十分な賃金と労働条件を 保証すべきである。 第2に, 国内農業の潜在力に配慮、した輸入食料の効県的な 規制と謝笠が必要であり, さらに農産物の効率的な流通万法のi確立をはかる必 要がある。 第3に, 政府は優良な農業者の土地保有の安定をはかり, その経営 および土地管理の効半化に資するよう努めなければならない。 NFUはこれら の政策を遂行するために必要な法律の制定を政府に求めた ( NFU, 1945 )。

このような国民世論を背景に, 戦後最初Jの労働党政府は194 7年農業法を制定

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し, 農業者に第l次大戦後の悪夢を再び繰り返さないことを約束した。 政府は それが農業者の農政不信を晴らし, 将来に対する碓信を与える「農業憲章」と なることをJtJJ待した(Self & Storing, ] 962 )。

1947年農業法の目的は「国民の食料その他の農産物のうち国民的利益の見地 からイギリス国内で生産することが望ましい部分を, 農業者および農業労働者 のための適正な報酬と生活水準ならびに農業に投下された資本に対する適正な 収益を考慮、した最低価絡で生産しうるような, 安定(1なで・効率的な農業を維持促 進すること」であると規定されている。 その理念は, 農業における「安定と効 率」を同時に追求することであり, 安定をはかるために農産物の「価絡と市場 を保証」し, 効率改善のために「適正な土地管理と適正な農業経営」を義務づ けている(HMSO, 1947 )。

まずíúUi絡とr!r場の保証」についてみると, 主要農産物の保証{IUí絡は毎年定 則的に聞かれる政府と農業者代表との協議にもとづき決定される。 この協議は

「年次価絡審議」とよばれ, 対象農産物は穀物(小麦・ 大変・ 燕麦・ ライ亥) I .l!t鈴薯, 百|↑菜, I勾畜(牛 ・羊・豚) I 牛乳, 卵, 羊毛の12品目であるJ) 。 政府 はこれらの農産物について価格と市場を保証しなければならない。 ただし農業 法の規定によればI {!llj 1各保証は必ずしも生産物の価給支持である必安はなく,

l血杭別交付金あるいは生産助成金の形で与えることもできる。 またdf場の 保�IE も1!!�制限というのではなく, 農産物ごとに, 政府はその数量をmlJ限することが できる。 したがって, 政府はその時々の経済状況に応じてÍlllj絡保証の方法を柔

軟に変化させていくことが可能である。

次に「適正な土地管理と適正な農業経営J の規定であるが, これは上地所有 者および農業者がそれぞれ遵守すべき義務とされている。 土地所有者は効率的

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な農業生産に必要な農場の固定設備や設備の提供, さらにそのト分な補修の義 務を負う。 一方, 農業省は土地を荒廃させぬよう適切に農作業を行う義務を負 うばかりでなく, 家畜の管理や飼養, 作物品種の選択などについても一定の技 術効率を要求される。 そして, これらの義務を怠るものに対しては国家による 監皆, さらには制裁の措置がとられる。 国家による制裁は重い場合, 所有権の 買上げ ・ 耕作権の無効化による「土地の取立て」であった;t)O

このように農業法では, 土地所有者や農業者は1111日絡と市場の保証」により 経済的安定を約束される代償として, 合理的な営農水準を維持する義務を負う べきであり, また農業資源の等閑や濫用に対しては法的な制裁が)JIIえられて然 るべきであると考えられた。

第2節 全国農業者組合(N

F

U)の歴史とその戦略

N F Uの政治戦略

1947年農業法のもとで政府の協議相手とされたIlj�ーの農業者団体は「全国!従 業者組合J (NfU)であった。 NFUはイギリス農業における最強の組織で あり, 最も傑出した同業者組合であった。 イギリスの大 多数の農業者はNfU に加入し, その指導者たちは農業者の代弁者として広く一般に認められた。

r Uは農業社会のいろいろな勢力を結集することに成功したのである。

Nruは1904年にコーリン ・ キャンベル(Colin Campbell)の指導のもとに 結成された「リンカン州農業者組合J (Lincolnshire Farmers' Union)をもって 始まる。 キャンベルを中心とするリンカン州の農業者は, 自らの地位を改善す るには何をなすべきかと自問し, 自分たちの意見を聞いてもらうためにはじlら

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組合を結成する以外にないとの結論に達した。 そして, それから4年後の1908 年には, 同組合は各汁|に支部をもち, さらに州内に地区支部をもっ全国組織で あるNFUにまで発展した( NFU, 1981 )。

NFUは, 当初, 借地農を中心に構成され, 借地農の問題を主に放った。 し かし, のちにNFUは「現実に農業を営んでいる全農業者」を組合員として勧 誘することによって, 借地農のみならず農業者一般の利益の擁護を組織の基本 原理とするようになった。 当H寺, 自作農の数は増加lしつつあり, 農業者は自作 農, 借地農を問わず, 自分たちの利害は共 ìill であると考えるようになっていたo NFUは, このように農業者全体を基盤とすることによって, 徐々にその勢力 を強化していった。 その反面, この時期, 地主の力は相続税の賦課や借地農の 権利を強化する一連の法律の施行によって弱まりつつあった( Orwin, 1949 )。

こうして, 農業における主体は地主というよりも農業者を意味するようになっ ていた。 第l次大戦中, N r Uは政府の政策樹立および笑胞の面で重要な役1�IJ を演じ, 農政分野における一大勢力となっていた。 Nruの組合員数は1910年 のl万5, 000人から1918年の5万人へと一挙に増加し, その後, 192511:'までにl O万人へと倍増した( NFU, 1981 )。

ところで, N F U創設の主な理由は, 農業者の利益が二大政党によって無制 されすぎていることであった。 保守党と自由党は多くの問題で見解や政策を具 にし激しく対立してきたが, こと農業に関しては両党とも同じように冷淡であ った。 そこでNruは, 当初, 議会に代表を送り込むことに関心をよせたので あるが, しかし, いずれの政党とも同盟を結ぼうとはしなかった。 Nruの犯 いは農業問題を政党より重視し, 組合をあらゆる政治問題と無縁にしておくこ とであった。 換言すれば, 政治を農業から追い出し, 農業を政治の上位に引き

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|二げることであった。

そのためにNfUは, 農業に関するかぎり, できるだけ政党との結びつきか ら独立した議員団を結成して, 巧みに政党問の勢力均衡をはかることができる ような立場を求めた。 すなわち, 政党問の勢力均衡をはかることによって, い かなる政府といえども, イギリス農業者が主慢する, 合型的で, しかも適法な 要求に耳を傾けざるをえないようにすることができると考えたのである。 しか し, このようなNFUの 試みは結局は失敗に終わらさるをえなかった。 選挙を 左右するには農業者の力はあまりにも弱すぎたからである。

第2次大戦の進展に伴い, N f Uの戦略にも変化が現れた。 農業を戦11寺体制 へ転換するために政府はNFUの援助を必要とした。 1939年に政府とNfUと の定期的な協議が開始され, 戦時中も継続された。 NFUは組合員である農業 者に戦時努力を呼びかけることで政府に協力し, 政府はNfUを様々な農業者 の見解を代弁する機関として認めたのであった。 NfUの組合員数は大戦'1'に 急増し, 1939年の12万5, 000人から1949年には20万人に達している(NFU, 1981 )。

この時期の専業農業者の総数が約22万人で, しかも彼らがきわめて分散して照 住し, 経営形態も多様であり, かつ個人主義的であったことを考えるならば,

この組合加入率はきわめて高いものであったといえる。

こうして第2次大戦を契機に, N f Uと政府すなわち炭務省との関係は以前 にもまして緊密なものとなり, N F Uは政府に大きな影響を及ぼすことができ るようになった。 NFUの方針は議会に直接働きかけるよりも農務省との結び つきを強化する方向に転換された。 そうすることによって, N f Uは結*的に 政治的中立の原則lを笑現することになった。 もちろん, N f Uの指導者がíl箆 業を政治の持外におく」というスローガンを掲げたからといって, 農業政策と

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政治が1!!�縁であり得るなどと考えていたわけではない。 それが真に意味すると ころは, 農業を政党間の政争の具とすべきではなく, したがって農業に関する 問題は議会においてではなく農務省において決定すべきである, ということで あった。

1945年, 戦後最初に行われた総選挙において, N F Uは労働党政権の出現を 恐れながらも, 諸政党に対して厳正中立の立場をとった。 農業は必然的に政治 と関わりをもたざるをえないが, 政党間の紛争に巻き込まれではならないし,

また政党でないNFUは, できる限り, ときの政府と協力しなければならない,

というのがその方針であった。 こうしてNFUは, その指導者たちが予期した よりもはるかに緊密にかつ満足すべき状態で, 戦後最初の労働党政権と協力す ることカtできたのである。

2 年次価格審議とN F U

NFUと政府の緊密な関係は毎年行われる年次{,Ifi {各審議の際に羽れた。 農業 法の目標は農業の安定と効率の追求であったが, しかし問題は農業の安定とイ ギリス経済全体の要求とをいかに制和させるかにあった。 if.次f1l1i絡審議はこの 調和をはかるためのこ主要な手段とされた。{而絡審議は)illi常3週間から6週間か けて行われるが, そのための準備作業および価格決定後の事後討議には数カ)1 を要し, N F Uの指導者や政府の官僚はかなりのH寺問をとられる。 まず本米の

審議に先立ち, 農務省およびNFUのエコノミストたちは, 農業者の生産党,

所得および利潤に関する統計資料をl吟味した。 NFUは政府統計のほかに独自 の情報泌を得るため, 1945年以降, 5, 000の襟本農場から農場会計の記録を収

集していた。

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自lì11't審議での議論は大きく2つの段階に分かれる。 第l段階の目的は, 経済 全体の要求を考慮、した上で政府の保証総額を決定することである。 第2段階で は, この総額を個々の農産物商品の佃i絡保証および直接補助金として分割する ことである。 その際に政府は保証úllî絡決定の基礎となる生産目標を設定する。

佃i絡審議は毎年2月に聞かれるが, そこで検討される作物の保証価絡が翌年の 収穫物に適用される。 したがって農業省は収穫の1年、ド前に作物の価絡を知っ た上でその描種を行うことができる。 畜産物の場合, 保証仙絡は審議直後の4

月1日から効力を発するが, 畜産物生産の特性を考慮して, 農業者はその年の 保証価格のほか に, 3""'4年先までの最低価格を隔年ごとに知らされている

( Heath, 1951 )。

このような価格審議制度の確立により政府の農業支持政策はNF'Uの要求に 強く影響されるようになった。 政府は, 当初, 農産物の1I!Ii1各保証に関する最終 決定はもっぱら政府自身が行うもので, 法律上もそうならざるをえない旨を強 調したが, 間もなく政府の最終的な決定事項に対してNfUが正式な承認をつ・

えるという慣行が生まれた。 当時, 農務大臣はNfUのふ認が得られないこと によって自分の人気が低下することを極端に嫌った。 さらにj業務大臣は議会で 政府決定の保証Í!lIì格についてNfUの承認も得ていると答弁したが, そうする たびに合意にもとづく決定という慣行は強化されていった。

価格審議制度のもとで, 農業利益全体のスポークスマンとしてのNFUの地 位は大いに強化された。 第2次大!ìij;�1の倒絡交渉にはミルク ・ マーケティング

・ ボード(M M B)も参加していたが, 戦後はNFUの:志向により, それは付lì 絡審議の場から外された。 1947年にはその他いくつかの生産者団体が仙i梢審議 に参加しようとしたが, いずれもNFUの反対で失敗に終わっている。 仮にそ

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れが友好的な凶休であっても他の団体が審議に参加することは, 農業のあらゆ る部門の利益を調整して権威ある主張を展開するNfUのノJを弱めることにな る, というのがその反対理由であった。 だが他方, 農業者の利益を代表する団 体であると認められたことにより, N P Uは価格審議に際して段々な種類の農 業者間の利害の対立を調整しなければならなくなった。 それと同時に, 自らも 審議に一役買って成立にこさ・つけた価絡について, ある程度までは, その決定 の理由を説明し, 弁護せざるを得なくなった。

4,400万の人口のうちわずか25万足らずの農業者は, ともかくも自分たちの 意見を聞いてもらうためには, まとまった意見を述べるべきだとNFUの指導 者たちは考えた。 統ーこそが最も重要だと思われたのである。 農業には多数の 独立の専門組織や商品別組織があるが, 事実上それらのほとんど全部は, N P Uこそが農業者の意見を代表する団体であることを認めていた。

第3節 農業法農政の展開過程

戦後初期の農業拡大計画

第2次大戦後, イギリスは戦H寺中の海外投資の喪失, 戦H引責務の累杭, さら には交易条件の必化によって国際収支の困難に悩まされた。 しかも戦後初JVJの 世界の食料需給はきわめて逼迫した状態にあった。 そこで政府は国民の食料を 調達するため, また輸入を節約して国際収支を改善するために, 農業生産を拡 大して食料自給率の向上をはかる必要に迫られた。

1945年から51 年までの労働党政権JVJを通して食料は欠乏状態を続け, -11寺は 戦時rllよりも不足することがあり, 食料統制と害IJ当配給はi以後も引き続き実施

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された。 政府は凶内および海外から大量に食料を購入し, 食料流 jill を組織化し,

f!lIï絡を統制した。 炭産物の大半は固定価絡で政府に購入され, 農業省にはIl:_注 された農産物全体の市場が保証された。 一方, 食料の消費者1111ï絡は政府の食料 補助金によって低く押さえられた。 そのため政府の財政負担は巨額に達したが,

それは食料価絡を低水準に安定させるための社会経済政策の結果であって, 股 業サイドに原因があるとはいえなかった。

1947年に農業法を成立させた労働党政府は, 同年8月のドル不足を契機に

「農業拡大4カ年計画」を発表し. 1951年度までに農業の純産山高を戦前水準 の50%増にまで引き上げることを目標に尚げた。 ドル不足のもと, 農産物輸入 に費消される外貨は消費的消費とみなされ節減が求められた。 それが地産計画 となってあらわれたのである。 その目的達成のため農産物価絡を15 %から20%

引き上げて, 農業者に生産費のよ首加を補償するとともに, 地産に必要な新胤の 資本投下に大|幅な援助を与えた。 表1 - 3からもわかるように, この計lilliはお おむね目的を達成し. 5年間に純産出高は戦前のほぼ150%になった。

この時期政権を担当した労働党は, かつて農村にほとんど基盤をもたず, 農 業政策の経験も乏しかった。 しかし, 労働党は固定filfi絡, 生産目標, 保証rlf場 tlJlj度などの採用に対して, 他の保守的諸政党よりもはるかに積極的であった。

その点では農業者の要請に応えることができた。

1951年に政権を獲得した保守党もしばらくは農業の拡大政策を統けた。 1952 年のf!Jfi絡審議では. 11}伎のドル不足の影響を受けて, ドルの節約になる炭産物 の増産を重要な柱に渇げた。 政府は農業純産rBを以前の60%増にまで引き上げ る 「新4カ年地産計画」 を発表し, とくに|勾畜, 小麦, 飼料作物の生産に重点 をおいた( Williams, 1960 )。

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表1 - 3 1947年農業拡大計画の目標と実績 ( ì以前平均= 100)

1943/44 1946/47 1951/52 1951/52 実績 実績 目標 実績

作物(作付面積)

小麦 187 111 160 115 大麦 192 238 279 205 燕麦 153 148 156 119 馬鈴薯 192 197 129 145

目It菜 124 130 131 127

畜産物(生産量〉

牛乳 96 107 123 129

�I� 51 84 152 121

牛肉 83 93 110 107 羊肉 79 72 77 75 豚肉 32 33 92 107 農業純産出 125 119 150 147

出所: Whetham (1955)

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2. 固定価格制から不足払い制へ

ところで, 保守党政府の方針は食料についての統制や配給fnlJを廃止し, 白山 市場にもどすことであった。 さらに政府は, それまで労働党によって採用され てきた生産の計画化からも手を引き始めた。 このfI寺以降, 政府とNruの方針 は鋭い差異をみせ始めた。 NF'Uの要望によって直ちに新しい長jVl 政策樹立の ための検討会が閃かれたのであるが, 話し合いは進まなかった。

Nruは, 1945年に価絡審議が開始されて以来, 審議の前提とされてきた生 産計画の継続を望んだ。 生産計画はNruにとっては非常に有効な戦略手段で あった。 生産計画達成のためにはかなり高い価格が約束される必要があった。

このもとでNF'Uは, もし政府と国民が十分な援助を提供しないならば必要な 食料は得られないであろう, と警告してきたのである。 しかし政府は1954年頃 になると農産物ごとに生産目標を設定するのではなく, 当而どの部門の生産を

fttlばすことが望ましし1かを一般的に示すだけにとどめるようになった。

結局, 1954年の価格審議では, 穀物(小麦, 大麦, 燕麦)および肉畜(牛,

羊, jJ家)については不足払い方式が導入された。 つまり農業者は最も高い市場 価格を求めてその生産物を販売し そうして実現された111場価絡の全国平均が 何Jj絡審議で決定された保証価絡を下回った場合, その不足分が販売量(飼料穀 物である大麦, 714麦については作付面積)に応じて, 政府補助金の後払いによ り埋め合わされるシステムである。

不足払い方式には伯l別農業者の販売量(ないし作付[町積)についてのIE惟な 数値, および個々の農産物についての正確な平均1tlfi 1各の数値が必要であるo 1[�1 々の農業者が手にする市場価格は様々であるが, j農業者は全て単位量(lfIT柏)

山たり同級の不足払いを受ける。 そのため農業者は, 生産量の明大とともに,

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生産物の品質を維持し, できるだけ高い(dlî絡で販売しようとすることになった。

穀物および肉畜の生産者にとっては, 市場制絡に補助金を}JIJえた報酬を最大す るためには, どのような販売方法を講ずるかが重要な課題ーとなった。

牛乳, 馬鈴薯, 卯の保証は生産者のマーケティング ・ ボード、を通じて実胞さ れた。 それぞれのボードは審議 ・ 決定された保証価格を生産者に支払うのに必 要な資金を補助金として交付されたが, 支持費用の一部はマーケテイング ・ ボ ード自体が負担することになった。 牛乳の場合, 保証価絡は引き続き従来の基 地で決定されたが, 保証の対象となる乳量に一定の制限が加えられることにな った。 その数量を必えて生産された牛乳は価格保証の対象とはならないという ものである。 これは政府が, 農業法の規定にもとづいて, 農産物の保証数量を 制限した最初の例であった。

3. 価格引き下げ.と「農業の長期保証J

ところでは50年代半ばになると, 一部の農産物には過剰生産が現れ始めた。

卵, 豚, 牛肉の場合がそうである。 これらの農産物の生産過剰には政府の政策 もかなりかかわっていた。 すなわち, 食料が欠乏し配給制が実胞された1940年 代に, 生産地強をはかるため大幅な価絡引き上げがなされ, 結果として生産過 剰となったのである。

そのため195411:の1,lIî絡審議では, 初めてのことであるが, いくつかの炭産物 についてこれまでとは違った対応がなされることになった。 豚と牛乳について は, これ以上のJIQ産をおさえるために保証価絡が引き下げられた。 卵は生産に 必要な労働貨や物JIオ費が著しく増大したにもかかわらず保証価絡は耐え世かれ た。 穀物については, dT場の自由化がはかられ, 固定(dfi械は廃止され, 披低保

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�,E (illi桁が導入された。 df場価絡がこれをF 回った場合, ド111]った分を政府が保 証するというものだが, 最低保証(dfi 1各は従来の固定úlfi 1各 よりも低いものであっ た。

このとき以来, 農業者は農務大臣に対して不満や不信を強めることになった。

1947年農業法のもとでは, 農務大|をは1,Jfi絡審議のたびに非常に広い範聞で(,Ilj絡 を変更できる権限を与えられていた。 たしかに畜産物については, 前述のよう

に, 3 '"'"' 4年先までの最低価格が保証されていた。 しかし, その最低価絡は,

1947年の発足当初から, 毎年定められる実際の佃i格より意識的に低く設定され てきた。 農業者たちが生産の拡大を奨励されていた聞は, そして4年先までの 止産目標が彼らの前に置かれていた間は, N F Uの指導者も農業者一般もその ことについて真剣に呉をl唱えることはなかった。 実際の保証(dli絡が設低水準ま で落ちることなどとても考えられなかったからである。

しかし1954年の価絡審議にみられるように事態が変化すると, 農業者の考え 方も変ってきた。 固定した水準での将来の最低価絡の保証は, 1947年農業法の 基本精神であるところの「将来に対する確信」を生まないで, むしろ不満と不 信の原因となった。 また年ごとに価格が大|隔に変化する可能性のある価絡審議 の制度自体も農業者の間で疑問視されるようになり, 政府自身も(ùfi絡審議のJ[

介な手続きに代わる何らかの価絡決定機怖を望むようになっていた。

1956年のíilfi絡審議でNFUは政府の決定に承認を与えることを恒斉し, 両者 の聞に決裂が生じた。 この審議のあと政府は, 新たな(ùfi 1各決定の機椛と長J9J保 証について, N F Uとの協議にとりかかった。 この協議の成果は, 1956年11)1 に 公表された臼者 「股業の長期保証J で概説され, のちに1957年「炭業法 l に

盛り込まれた。

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この長JVJ保証によれば, 政府はし1かなる年にも審議対象農産物の保�lE総似を 前年に比べて2.5%以上削減しないこと, 個々の農畜産物の保証価格を年に4

%以上引き下げないこととされている。 そのうえ畜産物の保証価絡については,

どの3カ年の期間をとってもその問に9%以上引き下げることはできないと決 められた(MAFF, 1956)。 こうして, 新しい保託方式は畜産物について3'"'-' 4年先までの最低価絡を発表する必要をなくし, 将来の価格を現行の価絡にl直 接結びつけた。 農作物についても費用その他の状況の変化が迅速に反映される ように, 価格審議で決定された保証制lí絡がすぐさまその年の収穫物に適則され ることになった。 これらの措置に加えて, 農場の長期的改良に投下される資本 の3分のlを政府が補助する資本助成金の制度も新設された。

4. 1958年の「小農計画」

ところで, 向li桁審議で解決できなかった基本的な問題として, 農業者間の生 産規模や所得の稿差という問題がある。fiIG絡補助金の3分の2近くは専業j造業 在の約3分のlが受け取っており, しかも彼らの多くは相対的にみて宮俗であ った(Lloyd, ] 957 )。 また政府の農業支持貨川には1ifli栴保証のみならず凶接 補助金もかなり多く含まれており, 表1 -4に示すように, それが占めるさIJ令 は年々地)JIIしつつあった。 具体的には, 肥料, 石灰, 凶場1JI:ノ'.K , 給水, J農場改 良, サイロ, 仔牛飼育, 牧草地の耕起などのための制助金がそれであった。 こ れらの直接補助金についても, 肥料や石灰を最も多く使用し, 最も多く牧草地 を耕起し, 最もしばしば土地改良を行う大規模経営ほどそれを十分に享受する ことができた。

このように{illi桁審議では, 農業者の規伎の大小や投資量の差にはほとんど配

l nべU

(38)

表I - 4 農業に対する政府補助金の推移 (単位: 100万ポンド) 価 格 生 産 政策経費 年度 保証費 補助金 その他 合計

1955 143 58 206

1956 164 71 239

1957 203 75 284

1958 155 81 7 242

1959 155 95 7 257

1960 151 105 7 263

1961 226 108 10 343

1962 190 109 10 310

1963 179 104 11 294

1964 146 108 11 264

1965 122 104 11 237

1966 109 108 12 229

1967 135 114 13 262

1968 127 128 14 269

1969 128 139 15 281

1970 94 163 16 273

1971 141 182 16 338

出所 MAFF, Anllual Reviewωld Determinatioll of Guarantees, 1964 "-' 1972.

32

(39)

胤するところがなかった。 しかし一旦文持水準の切りドげが始まると, とくに 小規模の農業者は凶難に落ち込んだ。 これらの農業者が特別援助を受けたいと いう関心はますます高まり, 政府の側でもそれが効率改善に結びつくならば彼 らに特別の媛J:l)Jを提供してもよいと考えるようになった。

1954年以降, 小規模経営は牛乳, 豚, 卵の保証価格の切り下げや固定価lí給制 の廃止により困難に直面していた。 固定価格制のもとでは, 農業者は販売のた めの努力を要求されることはあまりなかったが, 不足払い制になると, 農業者 は販売や購買の仕事に多くの時間を取られるようになった。 そのことは仙i絡の 切り下げとも相まって, とくに小規模な経営を圧迫した。 このような小劇模農 業者の困難に対処するため, 政府は1958年に「小農計画」を発表し, その経営 改善に乗り出した( MAFF, 1958 )。

この計画は, 20エーカ一以上100エーカ一以下の農場で, 改良計画終了後l 年以内に, 少なくとも年間275S M Dの仕事量を占有者に提供できる可能性を もつものに適用された:3 )。 しかし, 450 S M D以上の刻撲をもっ農場は除外さ れた。 助成金は農業生産性の向上のための広範な改良に利川することができた が, 1 J.農場当たり段高1. 000ポンドに制限された。 助成の種類と程度は引地の 普及員との述批のもとに作成された農場経営計画にもとづき個々の農場ごとに 決定された。 この計画に充てられた金額は年間わずか900万ポンド(炭業支持 総額のがJ 3 %)にすぎなかったものの, この計画は新しいj点J!ljに立脚していた。

というのは, 経営がし1まだ経済性をもっていなくとも, そうなる可能性のある 股業者だけに援助を提供するものであったからである。

NFUはこの計画の笑施にあたって協力を約束したものの, あまり熱心では なかった。 むしろNFUはこの計画が保証制度一般の効力を減退させはしない

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