イギリス行政哲学の起源︵二︶
一九世紀公務員制度改革の三つの背景
辻
隆 夫
前稿では︑一八世紀後半から一九世紀初頭にかけてのイギリスにおけるバトロネイジ・システム︵O讐δ轟αq①
ω岩5ヨ︶の機能と実態︑及びこれに対する幾つかの批判と初期の改革について検討した︒引き続ぎ本稿では︑一八三
〇年代よリノースコートーートレヴェリアソ報告までの時代に試みられたイギリス国内の公務員制度︑東インド会社の
職員任用制度︑オックスフォード・ケンブリッジ両大学の試験制度︑の三分野における一連の改革を姐上にのせる︒
一 イギリス国内の諸改革
一 一九世紀前半におけるバトロネイジ・システム ︵
数あるイギリスの小説家のなかにあって︑アンソニー・トロロープは比較的我が国では馴染みの薄い作家である︒け
れどもイギリス公務員制度︑特にノースコート日トレヴェリアソ報告に前後する時代の公務員制度改革を語るにあた
91 早稲田社会科学研究 第29号(S59.9)
っては︑決して見落とされてはならない人物のひとりである︒その第一の理由には︑彼が一八五八年に発表した﹃三
人の書記官︵﹃譜﹃ミ禽Qミ書︶﹄と題する小説が挙げられる︒この小説は︑チャールズ・トレヴェリアソとスタッ
フォード・ノースコート及び同︐時代の改革者のひとりであったベンジャミン・ジョウェット︵しdO昌冨Bぎ︸o乏①算︶の
三人をモデルとして︑当時の公務員制度改革を風刺したものとされている︒第二の理由は︑トロロープ自身が郵政局
やアイルランド地方郵政監察官などの職を通じて公務員としてのキャリアをもっていたことである︒そして彼の死の
翌年︑一八八三年に出版された自叙伝には︑この時代の平均的官吏の実態を知るうえで極めて興味深い事実が数多く
描かれている︒とりわけ目をひくのが︑一八三四年に彼が郵政局事務冨に採用された経緯である︒そこには︑中等教
育を終えた一九歳の若老がバトロネイジの伝を頼って官界の一隅に職を得るまでの実情が生々しく描き出されている
のである︒以下では︑トロロープの自叙伝に含まれる幾つかの記述を通じて︑一九世紀前半のイギリスにおける公務
員の任用状況の一例を明らかにしておぎたい︒
トロロープが郵政局職員への任用予定の通知を受けとったのは︑彼がブラッセルにある私立学校に在学中のときで
あった︒ ﹁六週間後に私を郵政局の職員に任用しようという一通の手紙が届き︑私はそれを受けることにした︒私の母の
親しい友人のひとりであったフリーリング夫人はクレイトン・フリーリングの妻であり︑彼の父親は当時郵政局を
統轄する立場にあったフランシス・フリーリング卿であった︒フリーリング夫人は私の苦境を伝え聞いていたの ︵1︶ で︑義父に頼んで私を彼の職場の一官職に就かせてくれようとしたのであった﹂
この記述をみる限りでは︑トロロープの場合のバトロネイジの媒体は政治的支持や影響力の問題ではなく︑母親の
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イギリス行政哲学の起源(二)
友人という個人的な人間関係の絆であったことがわかる︒トロロープは年俸九〇ポンドという収入に魅せられ︑急遽
ロソドソへ赴いた︒けれども任用ば決して無条件ではなかった︒
﹁フランシス・フリーリング卿ば長官であるから︑下級職員の新規採用のためにはその地位は高過ぎると思われ
た︒それゆえ私は︑長男で長官補佐の地位にあったヘンリー・フリーリング氏のところへ連れてゆかれ︑彼が私を ︵2︶ 試験することになった﹂
斯くして︑彼が受けた﹁任用試験﹂の経緯が詳細に借かれることになる︒以下︑少しく長文ではあるが引用してみ
よう︒ ﹁私は︑使い古された羽根ペソでタイムス紙の記事を何行か筆写するよう命じられたが︑その場で幾つものシミ
を落したり︑綴りを間違えたりしてしまった︒ 〃これでは駄目だねと︑ヘンリー・フリーリングは弟のクレイト
ソに言った︒クレイトンは︑私が神経質であることを弁明し︑家へ帰ってから書ぎ直したものを翌朝改めて持って
来ることができるように依頼してくれた︒次に私は算数の成績が良いかどうかを尋ねられたが︑これには答えよう
もなかった︒なぜなら︑私は九九を全く覚えていなかったし︑円錐曲線論が未知の世界であるのと同じ程度に︑比
例計算についても知識を欠いていた︒ 僅かぽかりの知識ですと答えた私は︑明朝︑自分の筆写が期待に違わぬ
ものであることを示さなければ︑乏しい算数の知識を試されることになってしまうだろうと思った︒もし私が︑熟
渇した手ばやい筆記技術も含めてあらゆる通常の業務規程に耐え得るだけの知識を欠いていることが明らかになれ
ば︑郵政局で私の人生をぎり開いてゆくことは不可能になるだろう︒建物の中央階段を下りながら1私には︑そ
れが今や分別係や押印係にさえ道を譲らねぽならない所まで降りてゆく階段に思えた クレイトン・フリーリソ
93
グぱ︑あまり気を落とさぬようにと慰めてくれた︒ともすれば私は︑もう︸度ブラッセルの学校へ戻った方が良い
のではないかと考えこんでしまった︒けれども︑それにも拘わらず私は仕事に着干した︒そして長兄に教えられな
がら︑ギボンの文章の四〜五ページ分を美しい筆写に仕上げることができた︒翌日︑望みを回復した私は︑これを
役所へ持って行った︒自分の筆写について私は十分満足していたけれども︑他の人々に比べられればきっと駄目だ
ろうと信じていた︒ところが︑ザ・グラソドー当時私達ばその建物の場所からセント.マーティソズ.ルウ・グ
ランドをそう呼んでいた一に着いてみると︑私の能力についてそれ以上とやかく言われることなく︑事務官とし
ての私の席が用意されていた︒私の美しい筆写文を見ることに対しては︑誰もが気にも留めていなかったのであ
︵3︶ る︒L
こうしてトロロープは︑郵政局の一事務官としての職を獲得した︒しかし︑その任用にあたっての審査は全く形式
的であり︑凡そ﹁試験﹂︵①凶p旨ぎμ二〇ごの概念とは程遠いものであることが明らかにされている︒そしてトロロープ
自身︑次のように回顧している︒
﹁私はどのような試験を受けることもなく宮職を得た︒今振り返ってみれば︑当時の私がどんな精神状態にあ
り︑知性の程がどのようなものであったかを鮮明に恩い出すことができる︒ ︵中略︶極めて基本的な科学的知識に
ついてさえ︑私は全くの無知であった︒実際︑私の筆記能力は劣っていたし綴りも不完全であった︒私が面目を失 ︵4︶ することなく省稻でざるような試験科目は両ひとつ無かった︑﹂
画稿で触れたとおり︑この当時のイギリスは︑伝統的なバトロネイジの弊害を克服するために︑有給閑職の削減を
始めとする幾つかの改革が試みられ始めた時代であった︒けれども︑それらは文字通り試行錯誤の過程であり︑時代
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イギリス行政哲学の起源(二)
の推移に伴う﹁貫した施策が整備されっっあったのではない︑という点に留意しておかねばならない︒右に述べたト
ロロープの場合︑それが全くの形式的であったにせよ︑公務員としての任用の時点では何らかの審査〜新聞の文章
を筆写するだけではあっても一が行なわれており︑任用試験制度の導入の繭芽と見ることもできよう︒ところが︑
この=二年後の一八四七年に同じく郵政局職員に採用されたエドモンド・イエーツ︵国UOヨニコ像 網p⊃一①ω︶の語るところ
によれば︑彼の名付け親によって初めて職場へ連れて行かれ︑その場で同僚職員に紹介されただけで何らの審査を受 ︵5︶けることなく直ちに任用が決められたとされている︒このように一八三〇年代から四〇年代にかけての公務員の任用
方法をめぐる改革は︑正に一進一退を繰り返す状況にあったことが︑右のトロロープとイエーツの例を比較してみた
だけでも明らかになるのである︒
しかしながら︑他誌では︑こうした任用方法から生ずる弊害の是正︑とりわけ公務員としての不適格者の排除のた
めの改善策を試みた機関もあった︒ここでは︑トロロープの場台とほぼ同蒔代にみられた幾つかの例を以下にとりあ
げてみよう︒
(二)
各省における先駆的改革
公職に任用さ馳る人々の脚病性及び能力如.割を判断するために一九恒紀前半に試みられた手段としては︑任用試験
制度自体を導入強化することよりも︑任用後に一定の見習い期間を課することに重点が置かれていた︑この方法は︑
既に一八世紀末から一九世紀初頭にかけて議会の委員会で提案され︑関税局や大蔵省会計監査局などで部分的に実行
されていた︒けれども不適格者の排除という面では︑さらに時代を下った一八四一年忌関税局で︑ひとりの職員が僅
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かな算数の知識があるだけで筆記能力を著しく欠いているとの理由で解雇されたという記録以外には︑その詳細は明 ︵6︶らかではない︒
最も明確に見習い期間の制度化を導入した機関として挙げられるのば︑軍需省である︒同省では︑一八二五年の機
構改革以来職員に対して.新規任用後三年間の事務見習い期聞を課し︑その閲の給与は年額九〇ポンドに据え置くとい
う方法が採られていた︒そして当初の任用がいかなるバトロネイジの形態で行なわれたにせよ︑すべての新任職員は
首席事務官による審査に合格しない限り正規に任用が認められない︑という仕組みを通じて職務不適格者が排除され
︵7︶ていた︒また任用資格年齢も︑一六歳以上三〇歳以下と定められていた︒このような軍需省の制度について一八二九
年の下院におかれた公的収入・支出に関する能率促進委員会は︑ ﹁それが既に導入された省庁において有効な制度で ︵8︶あるのみならず︑他の省庁のためのモデルとしても役立つであろう﹂と賞賛したとされる︒そして︑これより二年後
の一八ゴ=年には︑大蔵省においても見習い期間制度が導入され︑一八三四年目同省訓令では︑職員の昇進は飽くま ︵9︶でもその勤務成績にのみ基づいて定められるべぎ旨が勧告されている︒しかしながらこうした見習い期間制度は︑不
適格者の排除を目的とする制度ではあっても︑積極的に公務員の質を高めるための有能な人材登用の手段たり得なか
った︒換言すれば︑それはバト戸ネイジ・システムの事後処理のための方便であったといえよう︒
これに対し︑バトロネイジ・システムのもつ政治的支持獲得及び影響力行使の手段としての機能を否定し︑任用候
補者の政治的立場や信条に関わりなく︑その能力に照して任用を決める万法を試みたのが海軍省であった︒この方法
は︑一八三〇年から三四年にかけて︑当時の第一海軍大臣ジェームズ・グラハムQ9自動○鑓び二三︶のもとで︑同省
の機構改革の一環として推進された︒けれども︑選挙法改正後の政党政治確立の過程にあった議会では︑尚公務員の
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イギリス行政哲学の起源(二)
能力や行政能率の促進よりも政治的考慮を優先させようとする根強い執着があった︒それゆえグラハムの行為は︑彼
の所属するホウィッグ党の同僚から厳しい批判を浴び︑ ︸八三二年には任用長官︵勺昼頃︒轟αq①QDΦ箕Φ冨蔓︶からの誰
責を受けることになる︒彼の行為に対しては︑対立するトーリー覚の人々でさえ︑自分達を肩利にするためという以
外にその真意をはかりかねている︑という任用長官の詰問に対し︑グラハムは次のように答えている︒
﹁私は公務に対して誠実に努力しているのであり︑自分の所轄する省におけるバトロネイジをいかなる不純な目
的のためにも悪用してはいない︒我が省の職員は︑私が︑彼らの政治的立場ではなく能率という観点から選抜した
者ばかりである︒私の後任者が職務成績という点を重視してくれるならば︑今の私の任用方法を批判する理由は何 ︵10︶ も見い出せないであろう︒﹂
こうしたグラハムの主張については︑次のような二つの論点を提起することができよう︒第一は︑グラハムの任用
方法がノースコートnトレヴェリアソ報告で提言されたような競争試験による任用とは異なる性格をもつという点で
ある︒右の引用から明らかなように︑グラハムはバトロネイジの﹁悪用﹂を批判しているのであって︑バトロネイジ
そのものを否定しているのではない︒寧ろ︑政党による政治的支持獲得のための手段に代えて︑積極的に有能な人材
を集める目的でバトロネイジの活用をはかろうとした立場とみることができる︒蓋しこの立場は︑前稿でふれたとこ
ろの︑同時代の内務省においてはバトロネイジによってこそ有能な人材を登用することが可能であったという指摘に
対応するものであろ濾そしてその限りでは・グラハムの採・労法ば︑客観的な任用基芝索く選抜ではなく彼
個人の判断に依る方法であるという点で︑競争試験制度の導入とは本質的に異なるのである︒因みに︑P.G.リチ
ャーズの指摘によれば︑海軍省は当時の各省庁のうちで特にバトロネイジの威力が強く︑一八五四年以前に任用試験
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︵一2︶の導入が一切試みられることのなかった省のひとつに数えられる︑とされている︒
第二の問題は︑グラハムの言葉のなかに含まれている﹁能率﹂︵Φ欺同︒団Φg︽︶という観念が何を意味していたか︑と
いう点である︒この問題に明確な解答を得ることは容易ではない︒周知のように︑能率が行政活動における中心的原
理として提起され︑その概念目体がさまざまな面からの知的探求の対象とされるのは︑ウッドロウ・ウィルソン以降
のアメリカ行政学の発展過程にまでまたねばならない︒ルーサー・ギューリックが︑能率を行政の価値尺度における
第一の公理と規定した時代より一世紀も前のイギリス社会における能率の観念の意味内容を明示的に捉えることは極
めて困難である︒けれども敢えて迩べるならば︑この時期の人々が口にした能率とは︑どちらかといえば節約︵①09
口05気︶に近い意味ではなかったかと推測できるであろう︒公務貞制度の問題を能率との関連で捉えた最初の政治家
がエドモンド・パークであるというハーマン・ファイナーの評価については前.備で述べた︒但しそのパークにして
も︑バトロネイジを通じて行使される国王の政治的影智力の抑制を第一の目高とした立場であったから︑彼の抱いて
いた能率観は︑王室費の削減を甲山とする経済改革一すなわち節約のための改革として具体化されたに他ならなか
った︒そして一九世紀前半には︑納税者民主主義を基本原理として政府支出の節減を要求する︑・・ドル・クラスの聞 ︵一3︶に︑節約とぽ公務の能率化によってもたらさ覧るもの︑という考え万が広まっていった︒彼らにとって︑能率は改革
のための一種の象徴語であったが︑その内容は公務貞制度における桧賞と人員の削減を心心に︑旧態依然たる手続や
機構の廃止及び浪費や不正支出の防止といった範囲までの意味において用いら馳ていたとみることができる︒これに
対しグラハムの言葉では︑政治的バトロネイジに対するアンチテーゼとして︑有能な人材の登用と公正かつ迅速な事
務処理という意味での能率の観念が強調されている︒そして︑この能率観こそは半世紀後のアメリカにおいて︑行政
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イギリス行政哲学の起源(二)
を政治の影響刀から解放すべく唱えたワイルソンの能率観と軌を一にするものといえるであろう︒その意味で︑後年
アメリカ行政字の展開を闘えた基本原点である政宿・行政二分諦の旧藩が︑このイギリスの開明的政治家の言葉のな
かに︑極めて素朴ながらも見い出され得るといっては過言であろうか︒
有能な人材をバトロネイジによらずに登用する万法は︑一八三四年に大蔵省で試みられた︒すなわち︑それぞれの
空心ごとに三方の任用候補者を指名し︑そのなかから同省独自の審査に照して最優秀者を選抜するという方法であっ
た︒しかしながらこの方法は︑その成果を示す確たる記録を.残さぬまま一八四一年の同省訓令によって廃止されてい
る︒この廃止の理由についてE・W・コーヘソは︑方法自体の失敗によるものか︑或いはバトロネイ・シ・システムの ︵4王︶温存をはかる政治的意図の影響によるものかは明らかではない︑としている︒けれども︑一八四〇年代に至っても︑
依然公職への任用をバトロネイジに頼ろうとする風潮がイギリス社会に広く浸透していたことは︑エドワード・ヒ
ューズの論文における幾つかの例によって示されている︒すなわち︑一八四一年から四六年にかけての首相ピール
︵菊Oげφ﹃け ℃OΦ一︶と彼の腹心で任用長官を務めたトーマス・フレマソトル︵日ゴ︒き窃閃δB窪二〇︶は︑しぼしばバト
ロネイ・シによる任用の要求とこれにみあうだけの空職の不足という問題の処理に苦慰したことが明らかにされてい
る︒そして︑こうした人々の信条と停職の実態との乖離が︑ピールをして首相就任直後の一週間というもの毎日六時
間もの執務時間を求職者に対する返事の執筆に宛てることを余儀なくせしめた理由である︑とヒューズは指摘してい
︵15︶る︒
このように︑ピールの時代においても尚︑バトロネイジに代えて公務員の任用試験制度を導入しようという気運
は︑イギリスの国民感情のなかに未だ醸成されてはいなかった︒寧ろ︑当時の国民の政府に対する批判の中心は相変
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わらず政府支出削減の要求と増税の反対とにあった︒特に︑一八四六年以降の政府予算規模の拡大と四七年の経済不
況に誘発された財政改革の運動は︑北部工業地域の都市を中心とした各地に財政改革同盟︵霊轟口9巴ヵ①h二三︾︒・︒・o・
︒一讐δ口︶を結成せしめた︒これらの同盟は︑言うまでもなくミドル・クラスの商工業者によって構成されたが︑一八 ︵16︶四九年には全国で三六団体に上り︑政府支出の厳しい節約と減税を要求した︒けれども︑こうした改革運動の目的は
飽くまでも当面する財政問題の解決にあり︑そのための処方箋として提案されたのは公務員の数と給与の削減であっ
た︒無論︑これらの問題自体は︑ときの政府にとって重要な政治課題であったけれども︑これを異る広汎な議論は︑
必ずしも公務員の任用方法に関する積極的な改革の提言には結びつき得なかったのである︒それゆえ︑こうした財
政改革論者のなかには︑ノースコート目トレヴェリアソ報告が公刊された後でさえ︑新しい公開競争試験制度の導入 ︵17︶が︑却って政府の経費増大をもたらすことになるのではないか︑と批判する老もあったとされている︒そして同時に
このことは︑既に述べた個々の省庁における部分的改革の試みと︑ノースコートーートレヴェリアソ報告で提言された
全省庁を横断する競争試験制度の理念との間に︑依然として大きな隔絶が存在していたことをも意味しているといえ
よう︒この隔絶を埋める役割を果たしたのが︑以下に述べるところの東インド会社における職員制度の改革と︑オッ
クスフォード・ケンブリッジ両大学の試験制度の改革であった︒
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ニ インドの職員制度改革
イギリス行政哲学の起源(二)
一 ハイリーベリーの設立 ︵
一七世紀初頭以来イギリスの対インド貿易を一手に担ってきた東インド会社が︑単なる貿易会社から一種の統治機
関へと性格を変えた直接の契機は︑インド支配をめぐる一七五六年半ら六三年にかけてのフランスとの戦争であった
︵18︶とされる︒戸バート・クライヴ︵殉︒σ興けΩ曰くΦ︶の指揮する東インド会社軍はこの戦いに勝利し︑同社は一七六五年
にムガール帝国からベンガル地域一帯に対する行政・徴税権を割譲されることによって︑イギリスの東インド支配が
確立された︒そして︑商業会社から実質的な統治機関への移行につれて︑東インド会社の職員も商業従事者に留まら
ず︑次第に行政官としての機能を担うに到ったのである︒彼らは︑陸・海軍兵士及び聖職老とは区別される意味で文 ︵19︶官︵O醜く一一 ω①同く9⇒け︶とよばれた︒我が国で古くから﹁公僕﹂と訳され︑公務員一般を示す意味で用いられるこの言
葉は︑実に一八世紀後半のインドに起源を発するものである︒
これらの職員は︑同社の理事の指名によって書記官として任用され︑一六歳でインドへ赴任するのが普通であっ
た︒尤も︑後に弱冠二八歳でフォートウイリアムの知事となったヘンリー・ヴァソシタート︵=重壁くp︒づω葺費け︶が ︵20︶インドへ=二歳で赴任したといわれているように︑より年少でインドへ送りこまれた者もあったとされている︒氏名
の後に﹁名誉ある東インド会社職員︵頃80三三①日戸二巳冨Ooヨ娼岩団.ωωo﹁58一出・国﹂.O.ω︶しという称号を付
101
された彼らは︑任用後馬年間を文書の筆記や荷物の点検などの仕事に従事し︑然る後にそれぞれ責任ある地位に就く
ことになった︒インドの行政に関する文献でしばしぽ引用されるエドワード・ブラントの記述によれば︑東インド会
社職員制度の特色は︑その担当業務が極めて多様化していたことであったとされる︒すなわち︑当該担当地域の道
路︑水路︑橋梁の建設に始まり︑井戸掘り︑獄舎の管理︑衛生の監督などはすべて通常業務の一部として遂行され︑ ︵21︶さらに場合によっては︑職員は警察︑郵便︑関税︑教育︑塩の仲買いまで処理することを求められた︒そして︑こう
した多様な仕事を遂行する過程で必要な職務上の知識と技能を習得してゆくという方法が︑当時の東インド会社で実
行された唯一の職業訓練万法であった︒それゆえ︑比較灼若い頃から上級の地位へ昇進する者も多く︑前出のヴァソ
シタートや︑後に初代ベンガル総督となるウォレソ・ヘイスティソグス︵自9・霞①口︸貯ω二嵩臓︒・︶の例にみられるよう ︵22︶に︑二十歳代後半にインド各地域の統治における中枢的要職に就くものもあった︒
しかしながら︑他面こうした東インド会社職員の特権的地位は︑しばしぽ利権と結びついて賄賂や不正契約などの
温床となった︒インドで私腹を肥やして帰国した所謂﹁インド成金﹂︵Zpσoσω︶は︑イギリス本国で激しい反発を受
けた︒そして︑こうした反発を背景として︑その侵略的政策を理由にヘイスティソグスが本国へ召喚され下院でパー
クらの弾劾を受けたこと︑及びこれに対応して一七八四年置︑東インド会社の運営に対するイギリス政府の監督権限
の強化を説慣したピットのインド法が制定された経緯については︑イギリス植民政策史上広く知られるところであ
る︒ピットのインド法とその後の一七九三年法でぱ︑人事権の本国政府への部分的移管︑書記官任用者の年齢制限︑
年功による昇進制度︑不正行為の禁止等が定められていたが︑任用資掻の審査や見習い期間制度の導入にまでは到ら
なかった︒こうしたなかで︑一七九八年総督に就任したリチャード・C・ウェルズレー︵閃ざげ霞αOo=①図芝Φ一δω一Φメ
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イギリス行政哲学の起源(二)
ζ霞ρ三ω︶は︑単なる商業上の基礎知識以上に︑インドの行政に関する専門的教育を実施する研修機関の必要を認識
した最初の人物であった︒彼ぽ一八○○年に会社の理事に書簡を送ってこの必要性を説くとともに︑次のような計画
を提言した︒すなわち︑フォ:ト・.ワ・/・リアムに寄宿制のカレッジを設立すること︑マドラス︑ボンベイ︑ベンガル
三州のすべての新規任用者はこのカレ曽・ジで三年問の研修を受けること︑カリキュラムは︑インドの歴史・法律・宗
教︑及び民族学︑東洋語︑倫理学︑民法︑国際法︑歴史学の各課目とするという計画であった︒この計画ぱ︑カリキ
ュラムの内容が必要以上に高度であり費用も高価に過ぎるとの理由で東インド会社理事に拒否され︑結局ベンガル地
域職貝のみを対象とする研修機関の設立をもって具体化されるに到った︒カリキュラムは東洋語と法律学だけに限定
され︑イギリス本国での予備審査に合格した新規任用者が六ヵ月から四年間にわたって此処での研修を受けるべぎこ ︵23︶ととされた︒この研修機関は︑その後一八三五年に寄宿制を中止し︑一八五四年には廃校となっている︒
フォート・ウィリアムのカレッ・シはウェルズレーの理想を十分に反映するものではなかったが︑時を経るにつれて
彼の考え万は次第に理事の問に浸透していった︒そして一八〇六年にフォート・ウィリアムを補完する研修.尊墨がイ
ギリス国内のハートフォード・キャッスルに創設された︒この学校は一八〇九年春ハイリーベリー︵鵠艶︒旨ξ団︶に
移され︑以来この地名を通称としてよばれるようになる︒
ハイリーベリーのカリキュラムは︑東洋語と東洋文学︑数学︑自然史︑古典及び一般文学︑法律︑歴史︑政治経済
の各分野にわたり︑ウェルズレーの理想をほぼ全面的に実現する形で組まれていた︒研修期限は二年間とされ入学年
齢は当初一五歳からであったが︑一八三三年には一七歳以上二〇歳以下と改められ︑さらに四年後には上限が二一歳 ︵劉︶ 03まで引き上げられた︒こうして一八=二年には︑同校における四面期間の研修を受けない限り︑書記官はインドへの ー
赴任を認められない旨が成文法で明記されるに及び︑ハイリーベリーはインドの行政と通商に関わるすべての職員に
対する正規の関門として見なされるようになったのである︒その入学試験及び砥修内容も次第に高度化し︑一年大学
のそれに匹敵するものとなって︑パブリック・スクールの最も優秀な卒業生を集めるようになった︒若き日のチャー
ルズ・トレヴェリアソも︑そうした学生のひとりに数えられるのである︒また︑同校に学び後にサンスクリット語の
教授となったモニエール目ウイリアムズ︵ソ自・ とOコ一Φ吋ーノ<一一一一溝bρω︶は︑ハイリーベリーでの勉強について﹁平均的学
生のレベル以上に成績を上げることを望むには︑かつてのオックスフォード時代の私の勉強など児戯に過ぎないと思 ︵肪︶いこむほど学業に励まねぽならないことが︑すぐに明らかになった﹂と回顧している︒尤もFバート・モーゼスによ
れば︑モ半平ールーーウィリアムスのように︑ハイリーベリi入学以前に︸流大学での教育を体験していた秀才は飽く ︵26︶までも例外であって︑同校の学生の知的レベルを過大評価してはならない︑と指摘されている︒
ハイリーベリーの設立は︑当初から東インド会社の職員の資質向上に多大な貢献を果したが︑そこには次のような
二つの問題があった︒第一は︑同校への入学に際しての審査が依然としてバトロネイジ的性格を根強く残していたこ
とである︒確かに入学試験は行なわれていたけれども︑受験者及び合格者を指名する権限は︑古くから東インド会社
と深い関わりをもつ特定のアソグロ・インド家系の勢力に牛耳られていたがために︑合格者の大半はそうした家系の
子弟が占めるという状況であった︒第二の問題は︑インドにおけるすべての職員の地位がハイリーベリー修了者によ
って占められたわけではないという点であった︒特に下級職についてはハイリーベリーでの研修が適用されず︑それ ︵コ︶らの任用は理事による自由なハトロネイジに委ねられていたのである︒
これらの問題点に関する転質は︑東インド会社の勅許状更新期限にあたる一八三三年におとずれた︒そしてこの転
104
期を導いた人物こそ︑ブルジョワジー階級の生んだ最も開明的指導者のひとり︑偉大な政治家としてと同時に歴史家
としても後世に名を残し︑後にチャールズ・トレヴェリアソの義兄となりノースコート目トレヴェリアソ報告の理念
に最も深い影響力を及ぼした人物︑すなわちトーマス・パビソトソ・マコーレイ︵目げ︒ヨpωbd餌σぎαq8昌冨⇔8偉一①曳︶
に他ならない︒
イギリス行政哲学の起源(二)
(二)
マコーレイと競争試験制度
東インド会社に対する勅許状は︑二〇年毎に更新されるよう定められていた︒一八三三年の更新に際して議会は︑
従来会社が独占していた対インド貿易の特権を撤廃する一方で︑職員の任用に関しても理事による指名制に代る新た
な選抜方法を規定した法律を制定した︒これは︑ひとつの空職に対し四人の候補者を理事がハイリーベリーに指名
し︑そのうちの最優秀者を統制局︵しuO﹃畠 Oh OO旨け﹃O一︶が指名する試験官が行なう選抜試験によって任用する︒とい ︵28︶う方法であった︒この新しい選抜方法の継続性や実効性如何については幾人かの研究者の間に評価の相違がみられ
る︒モーゼスの記述によれば︑この方法は四年後の一八三七年に廃止されたとなっているが︑チャップマソによると ︵29︶一年限りの実施で終わっているとされている︒これに対しE・W・コーヘソは︑東インド会社の理事達によってこの ︵30︶方法の実施が長い間延期されていたと述べている︒またローレンス・ヘルスビーの記述では︑マコーレイが選抜試験
制度を王慌したことは認めているものの︑一八五五年まではそれについて何らの方策も実践されていなかったとされ ︵a︶ているのである︒ 05.しかしながら︑ここではこうした事実関係の経緯に拘泥するよりも︑当時の統制局長官の立場で︑競争試験による ー
任用制度の確立を唱えたマコーレイの理念に着目する方が有萱であろう︒ 一八三三年の議会においてこの制度の導入
を訴えた彼の演.況ぱ︑インドのみならずイギリス国造の公務員の任用方法に関して︑今口に至るまでの公開號争試験
の原則の発展段階における最初のステッ.フとしての意裳を有すうがらである.︑任用候補者の実務能力如何は髭争試験
によってのみ判断し得るというのが︑マコーレイの誤想であった︒繊は次のように述べている︒
﹁ラテン語やギリシア語︑数学の試験が︑ひとりの人間の生涯のゆく末を判定する試験ではないといわれている
が︑それは私も承知している︒私ぱ︑完全無欠な試験などあり得ないということも十分に弁えている︒しかしそれ ︵32︶ らの試験は︑私が確信をもって主張できる試験であるということもまた︑私にとって明白なのである︒﹂
そして︑いかなる学問分野であれ︑そこで最も優れた成績をおさめた者こそが︑最も聡明で熱心で意欲的であると
の評価を受けるであろう︑という考え万をマコーレイは次のような極端な例をひいて主張している︒
﹁たとえケンブリッジ大学でニュートン力学の代りに天動説が講義されたとしても︑数学の首席合格者︵ω○巳︒﹃
を類コ振興︶は席次未尊者︵芝oo二等︒︒℃ooコ︶よりも優秀であろうし︑ギリシア語の代りにチェロキー語を習うとし
ても︑チェロキー語を最も良く判読し︑チ甲一ロキー語の詩を最も正確かつ流麗に書き︑チェロキー語の接続詞の効
果を最も正確に理解した者が︑一般的には︑その分野に不得手な者よりも優秀であろう︒我が国の大学で占星学を
教えたとしても︑出生時の星座位を最も巧みに計算できる者が︑概して優秀であるということになろう︒錬金術が ︵33︶ 教えられたとしてさえ︑〃賢者の石を最も精力内に探し求めた者こそが総して最も優秀であるといえるだろう︒﹂
今日的視点からすれば些か奇異にさえ感しられるこうした極論をマコーレイが敢えて強調した背景には︑ハイリー
ベザーの設立以来三〇年近い年月を経たこの当時においても︑職員の任用に能力主義を導入することに対するアンダ
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イギリス行政哲学の起源(二)
ロ・インド家系の人々の根強い抵抗があった.︑こうした抵抗の根拠は︑インドにおける実務の特殊性と経験を重視す
る考え方である︒すなわち︑東インド会仕の職員として要求される資質は︑公開競争試験で測られるべきものでばな
く︑若い頃からインドにおいて現実の諸問遡を見聞し︑霊媒インドの公務に就くべくして育てられたアソグロ・イン
ド家系の子弟こそそれにふさわしい資質を備えていること︑それゆえ彼らは號争試験に合格する能力は無いかも知れ
ないが︑オックスフォードの閉ざされた壁の中で古典的学問には長じていても異国での統治活動には全く夫熟な者に ︵43︶比べれば︑インドでは余程有能な人材であろう︑という主張であった︒このよフな経験重視の思考が既得権益の擁護
と強力な血縁関係の絆に支えられることによって︑以後二〇年問にわたり︑マコーレイの提唱する能力臆面の導入に
対抗する当直を形成したのである︒しかしながら他方では︑この二〇年聞に東インド会社自体が次第に企茱体として
の性格を失い︑イギリス政府自身によるインドの植民地支配体制の確立が準備されつつあった︒そして一八五三年の
最後の勅許状更新をむかえたとき︑イギリス議会は東インド会社の職員の任用に関する理事の指名権限を一掃し︑公
開競争試験制度を導入すべき旨を立法化したのである︒
この改革の内容は赤木須留喜教授の論文に詳述されているところであるが︑一言でいえば︑それはマコーレイの理 ︵35︶想を細部にわたって実現したものであった︒彼の理想とそれに基づく具体的提案は︑一八五三年の議会における演説
と︑統制局によって任命された特別委員会の議長として彼自身が起草したとされる翌五四年の報告書とによって明ら
かにされる︒それらの特色は︑概ね次の四点にまとめることができよう︒
第一は︑言うまでもなく能力主義の原則であり︑特に青年期における目由教育の成果を重視する考え万である︒こ
の点は既に引用した一八三三年の︑議会演説で明︐確に打ち出されてはいるが︑五三年の演説のなかでも︑青年期の学業
107
成績が人聞の生涯を決定する目安になり得ない︑という主張に対しマコーレイは次のように反論している︒
﹁貴卿︵反対者のエレンズバラ卿一筆鞍置︶は自由教育に優れた成績をあげた若者が結局のところ怠け者で実
社会の職業に全く不適格であることもあろう︑と考えておられるのだと思う︒そして貴卿は︑自由教育よりもボク
シソグやクリケットを適格性審査の方法とする方が賢明であると考えているのではないかとさえ感じる︒私にとつ
て︑次のような事実ほど多くの証拠と一貫した経験から証明できる事実は無いと思う︒すなわち︑青年期において
他の人々から卓越している者は︑殆んど常に︑その人生の出発点で得た地位を生涯にわたって保ち続けることにな ︵36︶ る︑という事実である︒﹂
マコーレイは︑この事実を立証するためにイギリス議会政治史上に名を連ねる優れた指導者達や︑インド統治に名
声を博した人々の業績や能力と︑彼らのオックスフォード︑ケンブリッジ両大学やイートン校時代における優秀な成
績との相関性に言及する︒そして翌年の委員会報告書では︑試験の合格者にオックスブリッジでの学士号取得者をで
ぎる限り集めるようにすべきことが主張されている︒
第二の特色は︑特定の専門的知識よりも一般教養・古典の知識の重視である︒この点は前述の経験主義・専門主義
を重視しようとするアソグロ・インド家系の人々の主張に対する反論の根拠であるともいえよう︒けれどもそれだけ
の意味に留まるものではない︒マコーレイが委員会報告のなかで述べている次の一文は︑しばしば引用されるよう
に︑後世までイギリス公務員制度を特長づけるところのジェネラリスト行政官重視の基本理念を︑初めて明らかにし
たものと評価されているからである︒
﹁二一〜二歳までの間︑いかなる専門職業の実務とも直接の関連をもたず︑只自己の精神の開放と高揚と豊かさ
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イギリス行政哲学の起源(二)
をもたらす学問に励んでいた者は︑一八〜九歳の時点で特定の職業教育に専念した者よりも︑すべての専門的職業 ︵37︶ の能力において一般に優秀であることが判明するであろう︑と我々は信じている︒﹂
こうしたジェネラリスト重視の方針を支える手段としてマコーレイは︑試験課目と配点︑研修期間の設定︑という
二つの面で具体的提案を行なっている︒試験課目と配点については︑必須課目として英語及び英文学︵作文︑歴史︑
一般文学各五〇〇点︑計一︑五〇〇点︶︑選択課目としてギリシャ語︑ラテン語︵各七五〇点︶︑フランス語︑ドイツ
語︑イタリア語︵各三七五点︶︑数学︵一︑○○○点︶︑自然科学︑道徳科学︵十五〇〇点︶︑サンスクリット語︑ア ︵38︶ラビア語︵各三七五点︶という配分である︒これらの総計点は六︑八七五点となるが︑必須課目以外に数学︑ギリシ
ャ語︑ラテン語の配点が高いこと︑及びマコーレイ自身が︑受験者は総計点の半分の成績をとれば合格としてよい旨
の見解を述べていることに鑑みれば︑ギリシャ・ラテン以外の特定の語学よりも古典文学や数学などの知識に優れて
いる受験者の方が︑明らかに有利であることがわかろう︒次に研修制度については︑一年以上二年以下の期限で︑イ
ンド語やインド史及び法律学など実務面に重点を置く教育を施すとともに︑期間中にそれらについての内部試験を行 ︵39︶なったうえで︑その成績順にインドにおける実際の任地を振りわけるという仕組みが提案された︒そしてこの概修制
度を通じて︑優れたジェネラリストであると同時にインド問題を担当するための実務能力をも兼備した人材の育成が
期待されたのである︒
第三の特色は︑受験資格者の年齢制限である︒これについてマコーレイの報告書では一八〜二三歳までと定められ
ていた︒この制限範囲は︑前述のハイリーベリーの規定よりも上下限ともにやや引ぎ上げられているが︑その目的
は︑やはりアソグロ・インド系の人々の影響力を排除することにあった︒すなわち赤木教授が指摘しているように︑
109
東インド会社の理事をはじめ同祉との深い関わりをもつ人々︑陸海軍将校らが彼らの子弟を極めて着年時から優先的
に職員へ任用させようと望んでいることに対し︑一定の知町レベルでふるいをかける試験制度の導入には︑応募者の ︵40︶年齢をそのレベルにふさわしい範囲内に限定することが不可欠な要件だったのである︒
最後に第四の特色として︑ハイリーベリーに対する消極的評価があけられる︒既に述べたように︑ハイリーベリー
は当初から東インド会社職員の見習い研修のみを目的とした︑言わばインドに関するスペシァリスト養成のための機
関であった︒加えて当時も向︑同校の入学に関しては理事達によるバトロネイジが深く作用していた︒さりとてこの
弊害を克服するために入学を公開試験で判定することとしても︑その課目を同校のカリキュラムに対応するインドに
関する特定の技術的課目にすることには問題があった︒何故ならばマコーレイは︑陰野に必要な資質として大学教育
で施される一般教養馬副を重視する立場から︐一六〜八歳程度の少年期にあまりにも阪られた分野の教育︵東洋語や
インド史など︶を詰め込むことには反対だったからである︒それゆえ︑マコーレイは同校の廃止を望み︑もし存続す
るとすれば︑その性格は大学卒業後の一般競争試験に合格した財修生に対する大学院的教育機関とすべき旨を勧告し
︵41︶ている︒
右のような四つの特色をもつマコーレイの提言は︑一八五五年七月に行なわれた第一回の公開競争試験において結
実した︒そして試験妻貝は統制局が任命するものと定められ︑これによってインドの職員に対する東インド会社理事
のバトロネイジは完全に排除され︑任用は全面溺二公開の学科試験による筆記へと改められたのである︒
以上述べたように︑インドにおげる職員任用制度の改革は︑第一にフォート・ウィリアムとハイリーベリーという
専門の研修学校の設立と︑第二に公開競争試験制度の導入︑の二つの段階に大別することができる︒そして第一の段
!10
階から第二の段階への移行過程において︑一方でばバトロネイジの排除を通じての︑職貝の任用に対する政治的影響力
の一掃がはかられ︑他万では深い知識と.教養を身につけた︑所感イギリス特有のジェントルマン的資質を備える人々
の登用という原則が確立されていったといえよう︒蓋し︑この原則の実現如何は︑マコーレイの理念から明らかなよ
うに︑当時の高等教育の内容と成果に依存するところが大であった︒この意味において次に述べる大学の試験制度の
改革は︑インドの職員制度改革とともに︑ノースコートーートレヴェリアソ報告の理念と蜜蝋な関連を有するものであ
る︒すなわち︑今日に至るまで尚︑イギリスの公務貝に要求される基本的資.質としての人格・知識の両面にわたるジ
ェントルマンシップの育成は︑当時のオックスフォード・ケンブリッジ両大学に対して期待された課題に他ならなか
ったからである︒
三 オックスフォード・ケンブリッジ両大学制度の改革
イギリス行政哲学の起源(二)
イギリス社会が学歴を極めて重視する社会であることは広く知られている︒オックスフォード・ケンブリッジ両校
がこの学歴社会の頂点に位置づけられ︑今日までこの社会の伝統を揺るぎなく文えてきたこともまた周知のとおりで
ある︒ けれども︑試験制度に関する限り︑ 一八世紀末までの両校における単位取得のための学課試験は極めて貧弱であっ
た︒すなわちオックスフォードでは︑一八○○年までの問今日的な形態の学位試験は無きに等しかった︒例えば︑一
七七〇年に同校を卒業した守る学生の卒業試験は︑ ﹁ヘブライの引田の地はどこか﹂と﹁ユニヴァーシティ・カレッ
111
ジの創立者は誰か﹂という極めて幼稚な二つの質問に口頭で答えることだけであったという︒そして一八世紀後半の
同校では︑多くの教授が優秀な受講生の減少をばじめ自己の怠慢︑能力不足などの理由から講義を中止してしまうと
いう傾向乏あ・聡これに対しケソブリ・ジの場合では・フ・・−シ・ブの資格候補者は貴族の家柄かキ・グス・
カレッジの学生でない限り哲学と数学に関する口頭試験に豊幡しなければならなかったが︑実際にこれを受験する者
は極めて少数であ・たとされ馨公務員制肇東イ・ド会社の例と同様に︑こ・でも能力叢績以外の影響力孝位
やフェローシップの授与を決める要素を占めていたとみることができよう︒
こうした状況に対する改革は︑一八世紀後半から一九世紀前半にかけて漸進的に進められた︒家柄や政治的影響力
の作用を排除し︑純粋に能力主義の原則を導入するために︑ケンブリッジでは一七七八年にトリニティ・カレッジの
フェローシップの授与を試験による選抜制へと改める試みがなされた︒さらに一八二二年には二年生に対する一次試
験︵℃﹁Φ<一〇二ω 国×9浮田づ帥け一〇⇔︶制度が︑また一八二四年には優等卒業試験︵Ωoω巴︒巴↓同ぢ︒ω︶の制度が導入されてい
総他方オ・クスフ・ードの改革ぱケソブリ・ジに遅れをとり︑天二八年になぞベりすル・カ・・ジの奨学生
の選抜に︑競争試験制度が導入されたのが最初であった︒しかしながら一八三一年から三四年にかけてウィリアム.
ハミルトン︵暴馬一一帥旨 =9ヨ一一けO口︶がエディンバラ・レヴュー誌に連載した論文で当時の両大学の現状を批判し︑ま
た一八三七年に上院で大学の状況に関する調査を行なうべしとする法案が提出されるなど︑学外からの攻撃が盛んと
なるに及んで︑一九世紀前半には両大学の試験制度改革が急速に進展することとなった︒そして︑一八五二年分大学
問題の調査のために置かれた王立委員会は︑その報告書のなかで︑オックスフォードについては︑試験制度が学生の
優秀さをテストするためだけでなく︑同校の各研究課目に刺激を与えこれを指導するための主要な手引となっている
112
イギリス行政哲学の起源(二)
と述べ︑ケンブリッジに関しては︑フェローシップの地位の大多数は競争試験によって決められ︑そのことが同校の ︵45︶モラルの向上に役立っているとともに︑同様の条件が大学の報賞の配分にも適用されている︑と報告している︒
このような大学の改革運動における中心的指導者に挙げられるのが︑本稿の冒頭で﹃三人の書記官ロのモデルとし
てふれたところの︑オックスフォード大学パリオール・カレッジ学長をつとめたべソジャミソ・ジョウェットである︒
ジョウェットぱ︑一八四六年以降大学の改革の推進に深く関わりをもつ一方で︑インドの職員制度の改革にも関心を
もち︑マコーレイを議長とする前述の王立委員会の委員のひと9として︑東インド会社職員の任用に公開競争試験を
導入しようとするマコーレイの提唱の積極的支持者であった︒そして︑ひとりの人間のもつ可能性は勤勉な仕事と克
己心によって決定されるという固い信念を抱いていた彼は︑マコーレイやトレヴェリアソとの親交と協力を通じて︑
大学教育のみならずインドやイギリス国内の公務員制度への能力主義の導入に多大な貢献を果した人物のひとりであ
︵46︶つた︒また︑後にグラッドストーンの内閣で大蔵大臣を勤めたロバート・ロウ︵切OげΦ﹁け い○薯Φ︶も︑ジョウェットの
緊密な協力者に数えられる︒戸ウは︑公務員の任用のための公開競争試験制度を初めて明文化した一八七〇年の枢密
院令に同意するようグラッドストーンを説得した人物であったが︑彼もまたオックスフォードの卒業生として大学制 ︵47︶度改革の熱烈な支持者であったとされる︒さらにグラッドストーン自身も︑ナックスフォード大学選挙区から選出さ
れた下院議員として︑母校の改革を強力に支援した︒そして彼が通商局︵buO薗﹁Q Oh 一門憎9匹①︶の長官時代にその秘書
官を勤めていたのが他ならぬスタッフォード・ノースコートであった︒ノースコートもやはりオックスフォードのベ
リォール・カレッジ出身で︑ジョウェットと親交がありその能力主義の理念の共鳴者であったことは言うまでもな 塒い︒他方ケンブリッジに関しては︑マコーレイとともにトリニティ・カレッジの出身者としてJ.G.ショウーールフ
イーヴァ!︵冒巨○①︒薦Φωゴ署−いΦhΦ<﹃①︶の名が挙げられる︒彼は︑一八三四年に創設された救貧法委員会︵℃︒︒民
ピ㊤乏Ooヨ∋匿δ昌曾ω︶の初代委員を弱冠三七歳で勤めた人物であったが︑ マコーレイ︑トレヴェリアソとの親交が
あり︑後に一八五五年に設置された公務員制度委員会︵Ω<出ω興乱800望事﹃絵︒⇔︶の委員のひとりに任命されてい
る︒ 以上のように︑一九世紀初頭から一八五〇年代にかけてのオックスフォード.ケンブリッジ両校の改革は︑第一に
人間の能力を判定する最善の手段が競争試験制度であることをイギリス社会に認識せしめた点において︑第二にこの
改革の指導者達がそのままインド及びイギリス国内の公務員制度改革を指導する人脈を形成したという点において︑
ノースコートhトレヴェリアソ報告に結実する改革理念を先導する重要な役割を果したといえるであろう︒グラッド
ストーンは︑一八五四年にジェームズ・グラハムに宛てた手紙のなかで︑次のように述べている︒
﹁ハイリーベリーのケースで我々は︑バトロネイジに対する公然かつ徹底的な打撃を加えた︒オックスフォード
の事例では︑我々は制約や個人的贔屓に対抗するものとして︑競争試験の確立という目的のために︑強硬とは思・兄
るがしかし有益であろうと願う方法を提言したといえよう︒今︑私ぱ次のように確信している︒すなわち︑同様の
原則を公務員制度と多くの行政省庁に適用するための慎重かつ精力的な努力によって︑我々は力の及ぶ限りイギリ な ス国家に限りない奉仕をなすべきときにぎている︑と﹂
こうして︑東インド会社と大学の試験制度における改革の体験と︑これをズえる幾多の人材の結集とによって︑一
九世紀半ぽのイギリスにおける公務員制度の根幹の改革は︑その基礎的部分に関する限りの準備を完了したのであっ
た︒
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イギリス行政哲学の起源(二)
註
︵1︶ ︾コけげ︒コ矯門﹁o=o℃oい︾嵩︾ミ︒ミ︒偽ミ︑ざボH≦8げ働Φ一ω曽一①冒9コO閃﹃①αΦユ︒法身p⊃σq①︵①α︶・↓げ⑦≦oユ自.ωO一騨ωω一〇ω・O×ho﹁倉
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︵2︶ま乙二℃.G︒9
︵3︶守乙二唱.ω早ωN
︵4︶量こ薯●8ムリ
︵5︶田︒冨a︾9呂暴p↓︸・ミ讐ミ9ミ⑦ミ§こ遣しuミミ蓋い︒巳︒p奪9戸・︒・︒・
︵6︶国8ヨ︒=器≦9冨p↓魯・♀§ミミ§専ミ急︒ミ即・§ミ刈︒︒o岩ωρピ︒巳8Mまg︒ミ・
︵7︶量侮二や①①.
︵8︶ 一σ凶仙二 弓O①①1①刈・
︵9︶量匹二〇・①S
︵01︶ 一σ一αこ 口O.刈㎝i刈①.
︵11︶︾.勺﹄o量ゆq§5︑︑2︒≦巨︒ωh自︒拝目零Z霞けぎ︒仲①−日旨く①言コ菊89一四巳昏︒︒冥冨9誓Φぎヨ︒Ohh一6︒
@HGoN悼1幽co︑・O=賦9ロω⊆一げΦ=僧コq︵OO︶讐⑦牒ミ戚鳶し︒篤蕊妹︸鴨O︑oミ怖隷9\﹂<篤達ミ馬馬岬山壽一鳥恥嵩牒ミ︑ヒOoq鴨︑嵩ミミ醤ひピO昌食O口葡一㊤刈bO O・㊤らQ・
︵12︶ ℃08円O.園一〇﹃9門αω.︑貸㌣O嵩唇頭馬軌嵩し口篭直川瀞OOq馬︑嵩§馬匹ひピO昌畠Oコ脚Hり①ρ やら9 hOO一コOけΦ・
︵13︶ 国︒昌ロ①けげ O・ぐ﹃﹃09﹁P ・︑〇一≦一ωΦ︻く一〇〇..賢く巴Φユ① ○貝︒ヨ≦Φ= Φ一・巴・︾愚七口ミOo魁ミ嵩ミ恥ミ§﹂≦嵩恥︑恥恥嵩ミーG馬識ミ︑勘
切︑蹄貸噺嵩・ 一︻一ωゴ ごつ一く①円ω一け鴫 ℃﹃Oωω● 戸⑩刈GQ匂 O●一一齢
︵41︶ OOげΦ昌讐OO●O詳こ ℃︒刈メ
︵15︶ 国侮≦鋤﹃α=昏αqげ①ω−.︑O一く臨ωO亡く一〇①因①hOR日目GoOω1焼.︾︑ミミ詩︾織ミ§ぴ壁黛匙︒越・<O一・ωb⊃℃ H㊤㎝倉 戸09
︵16︶ 匂①巳楠Φ﹃出子二..・目げ①O①昌①ωδoh一げoZo答げoo一①一↓﹃oくΦぐ9コ図ΦOo二︑ドO==9コω=自げ〇二9コ口畠︵①缶︶・oPo搾こO・①ρ
︵71︶ 一σ一自二 〇●刈ピ
︵18︶ 梶谷素望﹃大英帝国とインド﹄︵第三文明社︑一九八一年︶︑一七−一九頁︒尚︑以下のインドに関する記述については同
書の内容に負うところが大ぎい︒
115
︵19︶ Oゴ9噂ヨ凶Poロ・o詳二戸O︒ 16︵20︶ ︻び置. 1
︵21︶ QD胃国ロ≦自︒a切一§ご↓ミぎミ§9ミ⑦ミミ撃︒一8α言O冨℃日p詳︒ヲ︒一一ニロ.H9梶谷︑前掲書︑二二頁︒
︵22︶ Oげρ噂ヨ帥ロ噂︒︾・o凶け二〇日O
︵23︶ 一三α二署﹂O山ド梶谷︑前掲書︑二二頁︒
︵24︶ 一σ崔二や目
︵25︶閑︒げ︒菖ヨ︒ω¢ω矯ぎい9ミ縛ミ暁ミ曼O遷ミしロミミ§憩ミ㍉禽§襲§電讐卑§︒ミa§賢覧ミq卜§り<︒ピいく員
Oo冒ヨぴ冨d巳ぐΦ誘犀ざ困⑩=噂℃.㎝ピ
︵26︶ ま置●
︵27︶ 一び乙こ弓.詔・
︵28︶ Oず鋤唱ヨ層Po戸︒ニニOb﹂ド山卜⊃・
︵29︶ ζoωoω噛︒℃●o淳二〇曹㎝POゴp弓ヨ餌炉oO.o躍二℃・HP
︵30︶ Ooザ①Po℃9酔こb●G︒一の
︵31︶8霞窪8属巴ωξ㌦.口︒︒歪即ヨ①葺8号︒Ω︿嵩QD︒二一8.︑貯≦=§ヨ﹀菊︒訂8︵巴︶・↓ミOミ︑吻ミミミごbロミ︑ミ篭
轟篭儀ミ犠嵩g鴇ピ︒ロ亀oP一り㎝9PGo⑦●
︵32︶ Oげ餌ロヨ餌β●o戸︒#二戸㎝し︒●
︵33︶ 目σ置二〇.Hω齢
︵34︶ 蜜︒︒僅①ω層︒や︒障ニロ●0ら︒●
︵35︶ 赤木須留喜﹁イギリスにおける近代的公務員制度の研究﹂︑東京都立大学法学会雑誌︑第一八巻︑一︐二号︑一九七八年︑
二四七1二五〇頁︒
︵36︶ 寓︒ωoω唱oO.o詳二戸α㎝
︵37︶ 同σ乙二亡戸㎝①ふ刈
︵38︶ 三仲二℃.㎝︒︒・足立忠夫﹃英国公務員制度の研究﹄︵弘文堂︑一九五七年︶︑八五一八六頁︒
イギリス行政哲学の起源(二)
︵39︶ 竃︒ω窃●oや9r℃.O㏄・
︵40︶ 赤木︑前掲論文︑二四七−二四八頁︒
︵41︶ H≦oω①PoPgr︾POG︒凸㊤・
︵42︶O﹃昌日ゆPo℃.鼻二〇℃﹂︒︒−峯但し︑オックスフォード大学自身によって編まれたイギリス史の記述においては︑当然
ながら︑こうした指摘に対する反論もみられる︒すなわち︑一八世紀の大学教育の停滞状況は一九世紀の改革者によって多
分に誇張されて伝えられているとして︑当時のオックスブリッジの学生は限られた学科を︑試験を受けることなく只学ぶだ
けに終始していたとはいえ︑その間両校からは一定の範囲内ではあっても深い学識を習得した学者が輩出した︑との自己評
価がなされている︒Oh.旨ω8く①P≦卑ωOP↓ミ肉工む蕊ミO馬ミ鷺ミ・NN軌OiNC︒N跡目げ①O×hOa頃δ8蔓Oh国昌ゆq冨づ住・
<Oピ×口愉O×h9像¢巳く①Hω津団勺﹁①ωω噂H㊤09b誌9
︵43︶ Ooず①PoO.9け二戸G︒H.
︵44︶ O﹃層℃B9昌oO.6諄二℃レリ・
︵45︶ OoゴoPoO.9曾こ戸︒︒b︒■赤木︑前掲論文︑二五一頁︒
︵46︶ Oゲ巷ヨ窪﹁8●9侍二〇るO.
︵47︶ Ooゴ9噂oO.o陣eこ戸ωG︒●
︵48︶ ○冨O日雪・o℃・︒一け二署・b︒O山一赤木︑前掲論文︑二五二頁︒
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