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イギリス行政哲学の起源(こ

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(1)

イギリス行政哲学の起源︵こ

バトロネイジ・システムと公務員制度改革の背景1

一 序章ーイギリス行政哲学への関心

(一)

イギリス行政学の伝統

 戦後の日本における行政学研究は︑そのエネルギーの大部分を︑アメリカ行政学の理解と吸収に向けることによっ

て展開されてきた︒しかしながら︑戦後既に四十年近い歳月を経た今日︑このようなアメリカ行政学への全面的な傾

倒に対する反省と再検討の気運が︑我国の行政学界において生じてきている︒すなわち︑従来の行政学において主た

る関心を集めていたのは︑アメリカ行政学のさまざまな学説に対する理解の部分であり︑その根底をなす理論自体を

咀解したうえで︑現実の日本における行政の諸現象を分析するフレームワークに結実させてゆく作業は︑著しく不十      ︵1︶分であったのではないかという反省である︒

 こうした反省を踏まえたひとつのアプローチとして︑近年我国の行政学者の間で︑従来顧みられることの少なかっ

早稲田社会科学研究 第28号(S59.3)

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(2)

たイギリス行政学に対する関心が広まりつつある︒既に一九二六年からロソドソ大学において行政学の講義を担当

し︑都市問題や地方自治︑公営企業論等に関する多数の著作を発表してきた故ウィリアム・A・ロブソン︵≦一一一ドヨ

︾●男︒げωoづ︶は別格としても︑その後継者と目されていたピーター・セルフ︵℃08Hω05を始め︑A・ダソサイア

︵︾・ ︼︶偉昌ω一同①︶︑リチャード・ローズ︵男ざげ9︒a口︒ω①︶︑R︒J・S・ベイカ!︵図.︸・ω●切9閃9︶︑F.F.リッド

レイ︵岡︒聞.閑一高一Φ冤︶︑さらには︑ネヴィル・ジョンソン︵Z㊦<二匂OげづωOロ︶︑マイケル・ヒル︵︼≦一990一出筥︶︑マー

チィソ・アルブロウ︵7臼餌﹃一一昌 ︾一σ円O婁︶といった人々の著作からの引用が散見され︑その理論や学説が紹介されるよ

うになってきている︒しかしながら︑右に挙げた学者達の研究成果の多くは︑何れも一九六〇年代以降に発表され︑

それらの大部分は明らかにアメリカ行政学の理論を摂取し︑さらにこれを批判的に検討するという知的態度のもとに

展開されたものと見なすことができる︒因みに︑現代イギリス行政学の代表的文献のひとつであるセルフの﹃行政官

の役割﹄ ︵原題︾亀ミミ無ミ勘竃↓ミミ§§織︑︒ミ詩♂H㊤醤︶を繕くと︑その第一章﹁行政理論の発展﹂で扱われ

ている主題は︑科学的行政理論︑サイモンの合理的意思決定論︑リソドブロムとプレイブルックの漸増主義モデルと

いうアメリカ行政理論の系譜である︒そして︑これらの理論に対する批判を拠りどころとしたうえに︑イギリス行政

組織に固有の性格を踏まえた理論化を試みているセルフのアプローチに︑我々は攻めてアメリカ行政学のイギリスに

対して及ばした影響力のほどを知ることができるのである︒

 さらに注目すべきことは︑こうしたイギリス行政学の新しい成果の出現が︑イギリスの行政機機にアメリカ的な管

理概念の導入されていった時代に対応しているという事実である︒既に筆者が別稿でふれているとおり︑プラウデ

ソ︑ジョン・モード︑フルトンの三つの王立委員会の報告において︑予算︑行政サーヴィス︑人事の各面にわたる管

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(3)

イギリス行政哲学の起源(一)

理の重要性が強調され︑これに基づいて︑中央︑地方を通じてのイギリス行政組織の内部に︑費用.便益分析やOR

等の新しい行政技術の導入や︑公務員省に代表される人事管理機構の設置が試みられたのが︑この一九六〇年代に他

ならなか・たのであ麓このように2九六〇年代以降のイギリスの行政は︑理論と実践にわた・てア・リ・行政学

の影響を受けつつ︑それを消化吸収し︑或いはこれに対決する形で発展してきたといえるであろう︒

 それでは一九六〇年代以前におけるイギリス行政学の成立と展開は︑どのように捉えられるであろうか︒もとよ

り︑イギリスが行政学にとって不毛の地であったわけではない︒現在もなお刊行されているイギリスの王立行政学会

の機関誌℃信σ一8>像ヨ一巳ω窪9二〇pが創刊されたのは一九二三年︵アメリカ行政学会の 勺仁三一〇︾匹8冒一ω霞三一〇出

切︒<δ毫髪の創刊は一九四〇年である︶であり︑その創刊の辞では︑﹁本誌はスペースと条件が許す限り︑行政の科学      ︵3︶に対してなされたさまざまな貢献を︑恒久的に残すように掲載するであろう﹂と述べられている︒しかしながら︑片      ︵4︶岡寛光教授が指摘しているように︑イギリスのアカデミズムは長い間︑行政学を実学として軽視する傾向にあった︒

かつてJ・S一・・ルが内閣制度や各省の大臣責任を論じ︑或いはハロルド・ラスキが行政官僚制に対する批判を明ら

かにした場合でも︑それらは常に政治理論を構成する一部分として扱われていた︒これに対して︑アメリカ行政学の       ︵5︶始祖ウッドロウ・ウィルソンの述べた﹁行政は実務の領域である﹂という有名な一文から想起されるように︑アメリカ

における現代行政学の起点は︑行政学を徹底した実学として規定することにあった︑そして︑このウィルソンの観点

から政治行政二分論が導かれ︑テイラーの科学的管理法との結合を経て︑一九三〇年代のアメリカにおける管理科学

の全盛を迎えた過程については今さら記述するまでもない︒けれども︑こうした行政能率を推進するための管理論や

組織理論の探求は︑イギリスでは飽くまでも技術の分野と見なされ︑行政の研究はより広汎に政治の領域と行政の領

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域︵ウィルソン的意味における︶とを包摂する統治︵σqoく︒旨8①2︶ の学問の一環として位置づけられたのである︒

それは︑行政の科学︵ωO一①PO①︶としてではなく︑ローザマソド・トーマスのいう行政の哲学e三δωoOξ︶としてで

  ︵6︶あった︒そして︑こうした知的伝統のもとにイギリス行政学のフレームワークを規定する基本的視座として形成され

た概念が︑アメリカの二分論と対照をなす︑政治・行政融合論に他ならなかった︒

 筆者は単身において︑イギリス︑アメリカ両国の行政における管理の導入をめぐる遅速の差異を論じた際に︑政治

・行政二分論と融合論の対比を︑トーマスに従って両国の統治構造に関わる四つの側面に求めている︒すなわち︑憲

法体制︑公務員の任用をめぐる経緯︑議院内閣制と大統領制︑立法権と行政権との関係についての制度的相違の諸側   ︵7︶面である︒本稿では︑これらのうちで特に第二の側面に視点を絞り︑政治・行政融合論の歴史的背景として︑イギリ

ス公務員制度の近代化の契機である一九世紀半ばのノ1スコートトレヴェリアソ報告とこれに基づく諸改革を姐上

にとりあげ︑それらが︑イギリスにおける行政の理論と実践の両面に及ぼした影響を再検討することを課題としたい︒

(二)

公務員制度改革に対する視座

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 チャールズ・トレヴェリアソ︵O冨二①ω日おくΦξき︶とスタッフォード・ノースコート︵ω3謹oaZ自夢88︶両

名の手によって起草され︑一八五四年に発表されたこの報告書とその後の公務員制度改革については︑我国でも既に       ︵8︶多くの論及がなされている︒筆者が改めてこれをとりあげる理由は︑主として次の三点にある︒

 第一の理由は︑言うまでもなくこの改革が以後一九六八年のフルトン報告に至るまでの約一世紀間にわたって︑イ

ギリス公務員制度を支える基本原則を確立したという点である︒フルトン報告の冒頭では次のような記述がなされて

(5)

イギリス行政哲学の起源(一)

いる︒ ﹁イギリス国内の公務員制度は︑今日なお︑基本的には一九世紀のノースコートーートレヴェリアソ報告における哲

 学の産物である︒しかし︑それが直面している業務は二〇世紀後半の業務である︒我々が調査し改革しようとして      ︵9︶ いるのは正にこの点にある﹂︑

 一九世紀半ぽから一九五〇年代までの一世紀は︑二つの世界大戦をはさむ歴史の激動の時代であり︑大衆社会の到

来と限りない技術革新の進展に伴って政府活動が広汎に変化︑拡大していった時代である︒こうした時代の推移のな

かで︑一九世紀半ばに確立された原則が︑政府活動を支える基本的機構というべき公務員制度の辿った歴史のなかに

生き続けた理由は何んであったのか︒この原則が︑時代の変化を貫く鋭い洞察と普遍性を内在するものであったから

か︒それとも大臣責任や省庁独立主義という制度的伝統や大蔵省統制といった独特の調整手段の展開のなかに︑公務

員制度の根本的改革の契機が埋没したという構造上の理由があるのだろうか︒或いは︑激しい変化を好まないという

イギリス国民の伝統的感情の反映であったのであろうか︒こうした点を探ることは︑イギリス行政学の淵源と展開を

明示的に整理するための有益な手懸りを提供してくれるであろう︒

 第二の理由は︑この改革によってイギリスの統治過程における政治家と行政官との構造的分離が確立されたことで

ある︒すなわち︑終身公務員︵℃O吋ヨ㊤旨Φ口一 〇涌く巳 ω①﹃<凶O①︶の概念の導入である︒アンソニー・H・パーチは︑イギリ

ス公務員の役割のもつ伝統的な四つの側面として︑ω匿名性︑㈹政治的中立性︑㈹大臣の決定する政策の執行︑㈹将       ︵10︶来へ向けての長期プランニングに対しては責任を負わないこと︑を挙げている︒これらの諸側面は︑明らかにイギリ

スの公務員が政治的党派性に染まることなく︑中立の立場で行政の運営に携わるものと見なされていることを意味す

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(6)

る︒しかし他方では︑こうした立場にある行政官が︑首相や各省大臣との間に絶えざる対話を交わすことによって︑

或いは彼らに対し争点の分析や解決手段についての有益な助言をすることによって︑政策形成機能の重要な部分を担

ってきたということも︑イギリスの政府活動に関して否定できない特色である︒既に述べた政治・行政融合論が主張

される所以もこの点にある︒そうであるとすれば︑このような政治家−行政官の構造的分離と︑政策形成過程におけ

る両老の機能的結合との関係を明確に捉えない限り︑イギリスの行政哲学に対する真の理解は得られないのではなか

ろうか︒この点に対する考察を歴史的に辿るならば︑任用に際しての競争試験制度の導入とともに︑すべての公務員

を知的︵一口けΦ一一①Oけ二ρ一︶業務担当職と機械的︵ヨ①︒冨巳︒巴︶業務担当職とに区分することを提言したノ;スコートーー

トレヴェリアン報告の理念にまで遡ることになろう︒

 第三の理由は︑この改革が後年のアメリカにおけるペソデルトソ法︵℃Φ口αo=oづ>9︶の制定に伴うメリット・シ

ステム導入のモデルとされたことである︒南北戦争の終結の後︑政党政治の支配によってもたらされた猟官制の弊害

が顕在化し始めた一九世紀後半のアメリカでは︑公務員の任用制度の改革が急務であった︒ショージ・W・カーティ

ス ︵OooおΦ芝・O⊆三ω︶を始めとするアメリカの先駆的改革者達は︑その処分箋をヨーロッパ諸国の先例に求めた

が︑とりわけ彼らの注目を集めたのが︑ノ!スコートUトレヴェリアソ報告以後のイギリスの制度改革であった︒ト

レヴェリアソは︑一八六九年とアメリカの改革者の一人であるチャールズ・プレイス︵O冨ユ︒ωしd轟︒Φ︶に宛てた書

簡のなかで︑イギリスにおける実践活動を解説した後︑次のように述べている︒

 ﹁これは我国の体験であり︑合衆国の状況にどこまで適用できるかは︑貴方を始めともに活動していられる方々の

 判断に委ねられる︒けれども我々は︑貴方の母国での我々の活動が︑海を隔てて活躍する我が娘たる貴国に対し︑

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(7)

イギリス行政哲学の起源(一)

 正しい原理を適切に応用するという具体例を通じて何らかの便益を与えることができるというのであれば︑望外の

    ︵11︶ 幸であるL

 一八七一年には︑グラント大統領によって公務員制度委員会が任命され︑短期間ではあったがイギリスの文献及び

実践過程についての調査が行なわれた︒さらに一八七七年にヘイズ大統領からイギリスの制度に関する調査を命じら

れたドーマソ・B・イートン ︵UO﹁ヨ曽昌一W● 団 騨↓O口︶は︑一年以上もイギリスに滞在し︑トレヴェリアソを始めとす

る多くの関係者に面接したうえで︑その成果を﹃イギリスの公務員制度︵↓ミOミ︑⑦導ミミきO︑偽ミ馬切篭ミ§︶﹄と

題する本にまとめ一八八○年に出版している︒こうした活動が一八八三年のペンデルトソ法の制定の呼び水の役割を

果したことに異論の余地は無いであろう︒しかしながら︑このような経緯にも拘わらず︑その後のアメリカ公務員制

度は︑明らかにイギリスとは異なり︑寧ろ対照的な展開−多数の政治的任命職の存続︑スペシァリストの重視︑科

学的管理法にみられる技術的能率の追求など一を示してきている︒したがって︑こうしたアメリカの状況との比較

を念頭に置いてノースコートーートレヴェリアソ報告の理念を再検討することは︑イギリス公務員制度の独自性を改め

て確認し得るとともに︑ひいてはそれを両国の行政に対する比較研究のためのひとつの出発点とすることができるの       ︵12︶ではないだろうか︒

 筆者が︑多くの先学の験尾に付して同報告の検討を課題にとりあげた理由は︑以上の三点にある︒

︵1︶ こうした批判と反省をめぐる議論については︑井出嘉憲・西尾勝・村松岐夫﹁行政学を考える﹂ ︵一九七六年︑良書普及

  会︶︑及び日本行政学会編﹃行政学の現状と課題・年報行政研究17﹄︵一九入三年︶所収の西尾勝︑村松岐夫︑片岡寛光︑今

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(8)

  村都南雄各教授の研究報告を参照︒

︵2︶ 拙稿﹁行政の管理化−二つの対応  ﹂︑﹃早稲田社会科学研究﹄第二十五号︑一九八二年︑一三四1;一六頁︒

︵3︶ Zo8ω︾勺§嵩︒︾職§き芝︑ミ軌§噂<〇一.P・δ卜︒も︒讐燭・ω・

︵4︶片岡寛光﹁行政学の現状と課題一諸外国の動向と行政理論の試み一﹂前掲﹃行政学の現状と課題﹄七〇頁︒

︵5︶ミ8紆塞誤ぎづ︑︑臣︒︒ε畠︒h>α目巨︒︒匿けδp︑.︑︒︑ミミ象燐§ミOミ・ミ§<︒ドH・H︒︒︒︒sお噂﹁葺巴貯↓ミ

  勲ミ︑ミ︑§§︾軋ミ暁覧無︑ミ馬§糟﹀ロg一ωoh︾ヨ︒ユ09昌Ooく︒二日①存日㊤α9

︵6︶ トーマスは︑一九〇〇年から一九三九年までのイギリス行政学が同時代のアメリカ行政学にみられるほどの隆盛に至らな

  かった理由として︑次の四点を挙げている︒第一は︑イギリス行政学が一個のまとまりをもつ思想の体系としてではなく︑

  断片的に形成されたという点である︒すなわち︑イギリスの政府機構の漸進的発展に伴って︑その研究頷域は経済学︑歴史

  学︑工学︑社会学︑心理学などのさまざまな分野に分散したために︑行政に関する研究が一貫性をもつ学問体系として成立

  することが妨げられたのである︒第二は︑行政の研究が政府機構と私企業組織とに重複して行なわれたこと︑そしてそれに

  も拘わらず︑イギリスにおいてその目的と発展を共有すべき行政経営を通じての共通の研究機関が存在しなかったことであ

  る︒このことが一層︑第一の弱点である学問としての行政学の分散化を助長することになったとされる︒第三の弱点として

  は︑理論化に対する抵抗が挙げられる︒イギリスの行政研究は行政の哲学の探求として展開されたがゆえに︑恰かもアメリ

  カ行政学にみられる如き厳密な体系的分析や論理実証主義を誇り得る方法論及び一般理論の追求を目的としなかったからで

  ある︒そして第四の弱点は︑研究者自身がもつ個人主義的パーソナリティである︒グレアム・ウォラス︑リチャード.ホー

  ルデソ︑ウィリアム・ビヴァリッジ︑ウェブ夫妻らは何れも今世紀前半のイギリスの行政を学問と実践の両面から支えた碩

  学であり︑ロンドン大学の設立という目的のもとに協力関係を形成しかつ行政に対する知的関心を共有していた︒しかし︑

  そうした絆で結ばれた彼らも結局はフェビアン協会をめぐる思想的対立がもとで離反していったとされる︒そしてこのよう

  な個人主義的態度が︑イギリス行政学のもつ断片的性格の統合を妨げたひとつの理由であるとトーマスは指摘している︒

  oh.男︒紹巳匡口O目げ︒∋β︒ρ ↓鳶bロミ欺急き匙8息壽勘ミ.︾織ミ篤ミ暁詮ミ欺§矯ピ︒口αoPHミG︒℃喝.ミあ一・

︵7︶ 前掲拙稿︑一三八−一三九頁︒

︵8︶ 主な文献としては︑足立忠夫﹃英国公務員制度の研究﹄︵一九五七年︑弘文堂︶︑赤木須留喜﹁イギリスにおける近代的公

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  務員制度の研究﹂東京都立大学法学会雑誌︑第十八巻第一・二号︵一九七八年︶︑辻清明﹁現代官吏制度の展開と科学的人

  事行政﹂国家学会雑誌︑第五十六巻二・四・五・六号︒

︵9︶↓ミ9ミ⑦ミ§♪刈︒︑矯ト肉§ミ馬田導恥O§ミミ恥恥這象山題︒︒圃O日巳・ω①ω︒︒噛国●ζ︒ω・○.P㊤・

︵10︶ ︸三ぎ昌楓口●bd蹄︒戸↓ミ馳︑馬装隷魯象恥ミ駄Oミミ嵩ミ§計きミ屋職ミ03ピ︒ロαoPHOo︒9や.δ卜⊃●

︵11︶ 頃拶巳即く餌昌閑60び亀芝ミヒミ↓ミq達帖ミ勲ミ禽9電軌h⑦ミミ9噂≡ぢ9ρ6α◎︒.弓・露.

︵12︶ こうした点についての優れた先駆的業績として︑ψ国●霊鳥Φ♪..℃恥胃︒冨oqo動巳90℃鶴げ嵩oqQ臼≦oo..︑導ミ﹄靴ミご㍗

 無︑ミ§噂く︒ピω9H8P唱ロ・ωトっOlω①Oが挙げられる︒

ニ イギリスにおけるバトロネイジ システム

イギリス行政哲学の起源(一)

 歴史に名を残すいかなる事例に対するアプローチにおいても︑それを囲綾する社会的環境及びそれに先行する時代

背景を無視することはできない︒とりわけその事例が既存の制度や慣習に著しい変革をもたらしたものであれば︑そ

の変革の直接の鉾先に目を向けることが︑研究老にとって不可欠な要件として要求されるであろう︒その意味で︑本

号ではノースコート肌トレヴェリアソ報告が克服すべき最大の課題として捉えた官職の政治的情実任用制度︑所謂バ

トロネイジ・システム︵℃⇔一﹃O昌簿αq① ω︽ω件①已︶をめぐる一八世紀末から一九世紀前半までにおける状況と︑これに対

する批判についてとりあげることにしたい︒

       一 バトロネイジの機能と実情       ︵

 バト戸ネイジという概念は︑単に官職の配分に関わるだけに留まらず︑より広い意味で用いられる︒これを一言で

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(10)

定義すれぽ﹁政治的指導者や公選による官職保有者らが︑自己の政治的支持者︑友人︑親戚に対して︑党派的任用︑       ︵1︶免許︑契約︑特権︑名誉及びその他の便益を提供する権利﹂とされる︒赤木須留喜教授も︑イギリスにおけるバトロ      ィンフルエアスネイジを︑政府との特権知な請負契約︑栄誉の授与と並んで﹁国王の政府﹂の影響力の行使における形態として位置    ︹2︶づけている︒それゆえバトロネイジは︑公務員制度のみならずイギリスの政治体制全体に浸透した権力行使の手段で

あった︒そしてこのような意味で︑一八世紀のイギリスでは下院の議席自体もバトロネイジの対象とされた︒

 ウォルポールが下院の信任投票に敗れて首相の座を去った一七四二年以降一八三〇年までの間︑選挙で敗れた現職

大臣は皆無であ・たとされ儒.内閣の改組は・選挙民の意志によるものではなく・国王と閣僚の間︑閣僚相互間及

び閣僚と彼の有力な政治的支持者との間のそれぞれに生じた対立が原因であった︒選挙民には︑候補者を指名する権

力を握る各地域の有力者の意向を実現したいという一般的傾向があり︑この傾向を政治的統制の技術へ転じる手段と

なったのが懐中選挙区の制度であった︒そして︑大臣達は議会の議席数を支配できるだけの十分な後見者︵醤賃︒ロ︶

が確保できていれぽ︑選挙民の意志を恐れる必要は殆んど無かったのである︒逆に言えば︑こうした議席数の支配が

当時の政府による影響力の行使を決定づける要因であった︒ 一七六一年の選挙を調査したルイス・ネイミエ︵ピ①三ω

乞p︒巨興︶によれば︑五一人の貴族によって一〇一のバラの選挙が支配または影響を受け︑他の九一の議席は五五人

の下院議員の影響力のもとにあったとされる︒最も強力な後見者の例として挙げられるニューカッスル公爵は︑一人       ︵4︶で七議席を支配したといわれている︒このような議席のバトロネイジ・システムに支えられた政府には︑常にその支

持勢力の流れを自己にひきつけておくことが必要である︒この必要を充たす最も有効な手段が︑言うまでもなく官職

の配分であり︑選挙区を支配する後見宝達は︑彼らの友人や親類に対する官職の賦与を大臣に要求した︒そして︑こ

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(11)

イギリス行政哲学の起源(一)

うした官職の配分が後見者の勢力を一層増大させるという形での影響力の行使の循環作用によって︑中世以来のイギ

リスにおける政権の安定と社会の秩序が維持されてぎたのである︒      ︵5︶︑以上のようなバトロネイジの仕組みが果たした政治的機能を︑赤木教授は次の五点にまとめている︒第一は︑政治

指導者とその下位にある従者との間に︑目的のために組織化されたリーダー・フォロワー関係を形成すること︑第二

に︑既存のリーダー・フォロワー関係の崩壊︑解体︑再編を通じて新しいリーダー・フォロワー関係を成立せしめる

こと︑第三に︑当時の政党に欠如していた政党規律の形成と組織の維持のための機能を補足する役割を果たしたこ

と︑第四に︑土地所有貴族にとって︑彼らの子弟や親類︑友人達に対する官職の授受配分を通じてバトロネイジが︑

その政治的投資の代価を補填する機能を果たしたこと︑そして第五には︑バトロネイジが︑上流支配階級の社会的権

威を確立する一方で︑能力と野心に恵まれ社会の階梯を上昇しようと志向する人々に路を開く結果をもたらしたこ

と︑である︒これらの機能を赤木教授は︑バトロネイジがもつ﹁貴族支配の寡頭制階級社会秩序における安定装置の

 ︵6︶機能﹂として重視している︒

 次に︑バトロネイジがどのように実践されていたかを︑一八世紀後半の例によって簡単にみてみよう︒公務員の任

用にはそのランクに従って幾つかの方法があった︒収税局長官や大蔵省首席事務官などの最上級職は︑一般に国王の

開封勅許状︵︼UΦけけ①吋ω 勺①榊①昌一︶によって任命されていた︒しかしその他の下級職員については︑殆んどがバトロネイ

ジの対象とされた︒そして︑この任用方法には何ら定まった規則は存在していなかった︒それゆえ︑同一の行政機関

に所属する下級職員が︑必ずしも同じ人間または機関によって任用されたわけではなかった︒例えば︑すべての徴税

機関は原則として大蔵省の管轄下に置かれたにも拘わらず︑そこで働く職員の罵る者は大蔵大臣によって︑また曲る

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(12)

者は他の行政機関を管轄する長によって︑さらに或る者はその他の属吏によってそれぞれ任用されるという状況であ

った︒また印紙局︵ω鼠巳OO窪8︶の場合では︑長官と会計検査官がそれぞれ自己の管轄下の職員を任用する一方      ︵7︶で︑倉庫保管係と押印係に関しては︑すべて大蔵省が任用するという具合であったとされる︒

 このような複雑な仕組みが形成された要因としては︑次の諸点が考えられる︒第一に︑政治的指導者達が自己の握

るバトロネイジの範囲を少しでも広げようとする欲求をもっていたこと︑第二に︑それぞれの行政機関が全く別個に

業務を遂行し︑それらの間に何ら一貫性が保たれていなったこと︑それゆえ第三には︑各行政機関の職員が担当する

職務が重複錯綜していたこと︑第四に︑そうした行政機関の活動に対する統一的な監督機関︑とりわけ会計監査の機

能が著しく不十分であったこと︑である︒けれども︑バトロネイジ・システムを複雑化せしめた最大の要因として

は︑何よりも有給閑職︵ω一﹈POO=﹁Φ︶の存在が挙げられねぽならない︒有給閑職の性格は多様であり︑一概に定義する       ︵8︶ことは困難であるが︑P・G・リチャーズによれば︑概ね次の三種に分類される︒第一は担当職務が廃止されている

か或いは他の官職に移管されているにも拘わらず︑その職だけが有給のまま残されているもの︑第二は︑その担当職

務が極めて限られており給与額に比べて取るに足らぬほどであるもの︑第三は︑相当量の業務を担当する職ではある

が︑その業務を当該官職保有者が個人的に任用する代理者に委ねられるもの︑である︒特に第三に挙げた代理者の任

用は︑政府機関のトップから下級職員に至るあらゆるレベルで実行されていた︒例えば︑陸軍省支払総監は年額百ポ       ︹9︶ソドの奉給で支払監代理を任用し︑また大蔵省では次官室の清掃係までが代理人を雇っていたとされるのである︒こ

のように︑さまざまな官職において代理者の任用が行なわれ︑その都度有給閑職が生れるという状況は︑これを対象

としたバト戸ネイジの行使を一層複雑に錯綜させる結果をもたらしたといえよう︒

92

(13)

イギリス行政哲学の起源(一)

 さらに︑バトロネイジに伴う慣行として︑幾つかの省庁では官職の売買が行なわれていた︒一七八六年当時海軍省

会計検査官の地位にあったチャールズ・ミドルトソは︑同省の職員の任用に対する報酬として年間平均三〇〇ギニー

︵三一五ポンド︶の金銭を受領し︑しかも彼ば︑この方法が海軍省で古くから確立された伝統でありこの種の報酬は      ︵10︶公務による収入の一部と考えられている︑と語ったとされる︒

 以上のようなバトロネイジ・システムの作働のもとで︑一七九七年のイギリス国内︵アイルランドを除く︶では︑

E・W・コーヘソの記述するところによれぽ︑五三の行政機関において一五︑八八四人の公務員が雇用され︑その給       ︵11︶与に年額一三〇万ポンド余を写していたとされる︒特に全公務員数のうち︑関税局︵O=ω8∋︶と内国税収局︵国道

︒一ωo︶を合わせた徴税関係職員が全体の八割︵前者が六〇〇四人︑後者が六五〇八人︶を占めていることには注目す

べぎであろう︒アメリカ独立戦争やフランス革命とそれに続くレポレオン戦争に︑一八世紀後半のイギリス政府は多

大な戦費を必要とした︒そして︑これを賄うための増税対策に多数の徴税官が任用されることになる︒リチャーズが      ︵12︶指摘するように︑こうした徴税職員の増員はバトロネイジに格好の対象とされたのであった︒しかもこれらのなかに

は︑前述の有給閑職が数多く含まれていたのである︒以上が︑一八世紀後半のイギリスにおけるバトロネイジ.シス

テムの概要である︒

       二 批判と改革       ︵

 ウィリアム・ロブソンは︑ ﹃公務員制度におけるバトロネイジから熟練職へ﹄と題する小冊子のなかで﹁一八五五

年までの間︑通常の公務員の任用方法はバトロネイジであり︑これに対する何らの抑制も統制も加えられていなかっ

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(14)

た﹂と述べ︑さらにチャールズ・トレヴェリアンの次のような記述を引用している︒

  ﹁社会の一般的傾向として︑公職に就くことは︑法律︑医学︑商業界の専門職業における自由競争のなかでは成

 功できる見込みのない若人にとって︑生活を維持するための手段と見なされている︒ ︵中略︶他のあらゆる職業の       ︵13︶ 残澤となった人々が︑恰かも養護施設の代わりに公務員制度へ引き寄せられてゆく﹂

 この叙述をみる限りでは︑当時のバトロネイジが如何にも一八世紀後半の状況と大差なく︑悉く無批判に受け容れ

られていたという印象がもたれるであろう︒しかしながら︑これまで度々引用してきたリチャーズやコーヘソの記述

によれば︑既に一七八○年代からバトロネイジの濫用に対する批判がなされ︑これに対応する幾つかの部分的改革が

試みられてきたことが明らかにされている︒そして︑これらの諸改革が︑言わばノースコートuトレヴェリアソ報告の

改革理念に対する先導的役割を果たしたのである︒こうした意味においてコーヘソは︑イギリス公務員制度の歴史に

おける近代化の起点を一七八○年に求めている︒そして以後一八四八年冬でを︑近代化過程の第一段階として規定し

ている︒すなわち︑政府機関に雇用されている細々を大雑把にさして言われた勺ロげ一一〇〇窪oo畦が議会の承認を得た

財源によって雇用されるOぞ出ω興く9︒葺へ変わっていった時代であり︑慣例化していた役人による公金の私物化の

防止や有給閑職の削減︑時代遅れと化していた形式や手続の廃止を通じて︑一九世紀半ぽの公務員制度改革の確立が       ︵14︶準備されていった時代とされる︒けれども︑産業革命の進展とこれに伴うミドル・クラスの拾頭︑ナポレオン戦争の

勃発︑そして絶え間ない経済の好不況の循環という時代環境のなかで︑公務員制度改革は決して平坦かつ順調な進展

の路を辿ったわけではなかった︒寧ろ︑絶えず遅滞や後退を繰り返し︑個々の部分で多少とも成果をあげた実践活動

はあっても︑それが政府機構全体の改革に結びつくことは無かったのである︒このような過程におけるさまざまな部

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(15)

分的改革のすべてをとりあげることは︑改革の通史の叙述にのみ紙幅を費すことになり︑左程有益な意味をもたない

であろう︒したがって以下では︑一七八○年代のバト戸ネイジに対する活量とこれに対応する幾つかの改革と︑一九

世紀前半におけるバト冒ネイジの変質の二点にふれるに留めておきたい︒

ω 一七八○年代の批判と対応

イギリス行政哲学の起源(一)

 バトロネイジ・システムに対する批判は︑エドモンド・パーク︵国住ヨニ巳ゆξ醤①︶をもって塙矢とされる︒ハーマ

ン・ファイナーはパークをさして︑公務員制度の抱える問題が政府機関における能率の問題であると看破した最初の     ︵15︶政治家である︑と評している︒一七八○年二月十一日︑有名な経済改革に関する動議に際して行なわれたパークの演

説は︑しぼしば引用されるように︑政府支出が不明確であり︑永年にわたる膨大な浪費と無秩序を生み出してきたと      ︵16︶ころの腐敗した影響力を排除すべきことを主張した︒そしてこの批判の的にあげられたのが多数の有給閑職とバトロ

ネイジの濫用であった︒しかしながらパークの主張は決してバトロネイジに対する全面否定ではない︒彼はこの演説

において︑バトロネイジの対象である有給閑職の性格を分析する段に至ったとぎ︑それらの閑職のすべてを一掃する

ことを提案したわけではなかった︒ ﹁我国の公職の少なくとも半数は︑影響力の行使という目的のために︑ただその

目的のためだけに存在している﹂と一方で言明しながらも︑パークは︑永年国家に奉仕してきた人々に対してそれに      ︵17︶報いるだけの地位を用意し︑或いは年金を支給することの必要性を認めていた︒加えて彼は︑政治家がその家族のた       ︵18︶めにバトロネイジを行使する慣例を全廃したいと望んだのでもなかった︒それは何よりもパークの第一の目的が︑同

年四月にジョン・ダニソグ︵寸歩U巷ロ冒oq︶の提出した動議の場合と同様に︑バトロネイジの行使によって維持強

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(16)

化される国王の影響力から議会の独立を守ることにあったからである︒換言すれば︑バトロネイジ自体は所与のもの

としたうえで︑その程度を制限し︑議会に対する政治的影響力の手段としての行使を制限することであった︒このよ      ︵19︶うなパークの立場は︑足立忠夫教授の言葉によれば︑ 二八世紀の保守的立憲王義者の越えることのできない限界L

を意味していた︒

 けれども︑こうした限界内においてさえ︑影響力の抑制ーバトロネイジの制限一有給閑職の削減i政府機関の非能

率と濫費の是正という図式は︑議会内において︑明白な改革処方のプロセスとして認識されるようになった︒それ

ゆえ︑パークの主張に基づいて1彼が提出した動議そのものは否決されたが一下院に政府会計に関する委員会

︵OOヨヨ一ωω凶O昌Φ円ω O昌 勺重げ一一〇 >OOO¢一一ω︶が創設されたのである︒この委員会は一七八七年まで活動を続け︑政府機

関の実態に関する年次報告書を議会に提出した︒特に一七八二年の第一回報告は︑下院に熱烈な論議を喚起し︑これ

を契機として行政機構の改革に関する一連の法律が制定されるに至った︒この年︑パークの提案に基づく﹁文官人事

法︵Ωく二国ω富三一ωげヨ︒算︾9︶によって政府から支払われる王室費︵Oぞ出ピ凶馨︶の制限と︑二二四の有給閑職の

廃止が実現され︑さらに他の二つの法律によって︑全有権者数の一割以上を占めていた徴税職員の選挙権の剥奪︑及      ︵20︶び下院議員が在職中に政府との間で取引契約を結ぶことの禁止が規定された︒これら以外にも︑一七八三−八五年の       ︵21︶間には︑陸軍省︑大蔵省︑海軍省に関して会計手続の改善や閑職の廃止を規定した個別法が制定されている︒

 こうした一連の立法に基づく公務員制度改革の気運は︑一七八七年に至って頓挫する︒フランスから伝えられる革

命のニュースは︑かつて改革を主張したイギリスの政治家達を伝統的制度の擁護者へと一転させる結果をもたらし

た︒パークさえもが︑既存の制度に反対できぬ立場に置かれ︑その後七年間に改革の進展はみられなかった︒けれど

96

(17)

イギリス行政哲学の起源(一)

もその直後に︑レポレオン戦争に対処するための経費として政府支出が増大したことは︑再びその支出の使途如何に

対する批判と論議をよぶことになった︒その直接の原因は︑一七九四年に一万三千ポンドの経費を用いて戦時長官の

      へ︑η一︶職が設置されたことであった︒そしてこれ以後一八世紀前半までのイギリスにおけるバトロネイジに対する批判は︑

政治的影響力の問題としてよりも︑政府支出の節約という論点を中心に展開されてゆくのである.︑それば来るべき一

八三〇年代にイギリス社会の近代化への分岐点を示した三つの金字塔一選挙法改正︑救貧法改正︑都市団体法の成

立を通じて︑その政治権力の遊興を確立したミドル・クラスの利益と密接な関わりをもつ問題であった︒

② バトロネイジ・システムの変質

 一九世紀前半のバトロネイジ・システムの変質に最も大きな影響を及ぼした要因としては︑以下の三点を挙げるこ

とができよう︒

 第一は︑言うまでもなく右にふれたミドル・クラスの拾頭である︒足立教授が指摘しているように︑ミドル・クラ

スの議会における政治的支配の確立を約束した一八三二年の選挙法改正は︑同時に彼らの行政機構への進出の路を開       ︵お︶く契機でもあった︒議会の主導権を握った彼らにとって公務員制度は︑ファイナーの表現を借りれば﹁統治権力の部

分装置がもつ暗い半神秘的性格﹂を失い︑彼らの利益と理想に合致するひとつの機械へと作り変えられねばならぬも

    ︵24︶のであった︒そして︑エドウィン・チャドウィック︵国傷≦﹁一昌0プ騨α≦一〇吋︶に代表されるように︑歴史に名を残す同時

代の多くの公務員がミドル・クラスから輩出されたのである︒

 第二の要因は行政技術の高度化である︒無論のこと︑当時の公務員に求められる技術の程度は︑現代のそれと比べ

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(18)

るべくもない︒けれども︑産業革命の巨大なインパクトを経て近代的行政制度の確立へ向う過程のなかで︑貧民救

済︑教育︑警察︑道路といった個別の行政分野における機構改革が着手されたこの時代には︑行政の運営に従来とは

異なる職業的知識や能力が求められるようになったのである︒ウェブが︑この時代に確立された新しい行政の諸原理

︵Z①≦零冒︒旦①ωohOo<①﹃ロ旨①葺︶のひとつとして︑新しい行政サーヴィスに必要な有給の専門的官吏の拍頭︑を      ︵25︶挙げている所以もこの点にあるといえよう︒

 第三の要因は︑有給閑職の減少である︒既に述べたように︑政府の人件費支出の増大の原因が有給閑職の存在にあ

ることは一八世紀の改革燦燦に認識されるところであった︒然るに︑ミドル・クラスによる行政機構の改革が着手さ

れたこの時代には︑彼らのそうした行動を支える基本原理として︑所謂﹁納税者民主主義 ︵ヵ簿8塁Φ諺.∪Φヨ︒−

o轟︒団︶﹂の理念が明確に形成されつつあった︒それゆえ︑バトロネイジのために有給閑職が温存され︑有給閑職が存

在するがゆえにバトロネイジの行使が繰り返されるという悪循環を断ち切ることが︑政府の濫費を抑制するためにミ

ドル・クラスが手懸けるべき不可避な課題であった︒ 一八一〇年に下院に設置された有給閑職に関する特別委員会

︵ω巴0900ヨ日葺①Φoロωぎ①︒貫①Oh臣8︶は︑当時の政府機構全体で二四二の有給閑職の存在を列挙したが︑選挙      ︵26︶法改正後の一八三四年にやはり下院における同名の委員会は︑それらが一〇〇に減少していることを報告している︒

 以上のような︑三つの要件のもとで︑一九世紀前半のバトロネイジ・システムは︑かつての政治的影響力の行使の

ための有効な手段としての性格を失いつつあった︒公務員の任用方法は︑前世紀に重視された政治的支持の人脈や血

縁関係如何ではなく︑任用予定老が当該職務に相応の能力を有しているか否かという基準に従って対応せねばならな

くなったのである︒しかも一方では︑そうした基準に足る人材がミドル・クラス層のなかに輩出しながら︑他方では

98

(19)

イギリス行政哲学の起源(一)

その当面の需要源である有給閑職が減少している︒バトロネイジ・システムを支えるこうした人材と官職数との間の

需要と供給のバランスが崩れたとぎ︑バトロネイジの行使は大臣や有力政治家の特権ではなく︑彼らにとって寧ろ厄

介な仕事と化したのである︒そして︑それはもはや世論の批判に抗してまで維持されるべき任用方法とは見なされな

くなったのであった︒このような経緯を裏付けるように︑ 一八二二一四八年の内務省の人事に関する最近の研究で      ︵曽︶は︑次のような事実が挙げられている︒第一に︑同省におけるバト戸ネイジはノースコート目トレヴェリアソ報告で

批判されているほどには︑非能率の元凶ではなかったということである︒同省では却ってバトロネイジによってこそ

優秀な能力ある人々を登用することが可能であったとされる︒第二には︑同省の大臣によるバトロネイジの権限が決

して濫用されてはいなかったという事実である︒例えば︑ ロバート・ピール︵因OσO﹁け 勺①Φ一︶が七年間の大臣在職中

に自から任用した職員数は僅か六名であり︑また一八二二年以後四八年までに大臣の親類縁者で同省職員に採用され

た者は皆無であったことが明らかにされている︒そして第三には︑同省の人事の活性化にとってバトロネイジが有効

な手段たり得なかった要因は︑バトロネイジ自体の弊害というよりも︑上級職の人事の停滞にあったという点であ

る︒すなわち︑未だ定年退職制が定められず︑昇進人事がすべて年功法例に従っていた当時の制度のもとでは︑一八

四〇年代の内務省におけるすべての最上級ポストに一七九〇年代に同省に任用された人々が︑そのまま居座り続けて

いたのである︒例えば︑一七九二年に任用されたトーマス・プラスケット︵目ぎ∋器℃置艮ゑ︶は︑一八二二年から

四九年まで実に二七年間にわたって同省首席事務官の地位に留まっていたとされる︒それゆえ︑この時代の内務省の

人事問題では︑バトロネイジの弊害よりも定年退職制度の制定の方がより重視されていたことが指摘されているので

 ︵田︶ある︒

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(20)

100

 以上に述べたように︑一九世紀前半のイギリスにおいて︑バトロネイジ・システムのもつ政治的重要性が低下する

と︑これに代る新たな公務員の任用方法が︑政府レベルで模索されるようになった︒その方法とは︑任用予定者に対

する適格性の審査及びそのための見習い期間制度の導入に他ならなかった︒かくして︑一八二五年以後の軍需省で︑

また一八三一年の大蔵省訓令において︑さらには一八三〇年から三四年まで大臣をつとめたジェームズ・グラハム

(匂

X9bo①ω  O﹃鋤げ餌ヨ︶の指導のもとにおける海軍省で︑これらの制度が試行錯誤的ながらも漸次導入されてゆくことに

なる︒けれども︑既に述べたようにこうした改革は︑飽くまでも個々の省庁や部局の枠内でのみ試みられたに過ぎ

ず︑それらがイギリス公務員制度全体に浸透するまでには︑尚多年の経過を要したのである︒そしてその間に︑ノー

スコートUトレヴェリアソ報告に結実する改革の理念は︑一見イギリス国内の公務員制度とは関係が薄いとも思われ

た二つの分野における実践活動ーイギリス統治下のインドの職員制度とオックスフォード.ケンブリッジ両大学の

学制改革一のなかで着実に芽ばえ始めていたのであった︒それゆえ︑次稿では︑一八三〇年代以降のイギリス国内

の公務員制度改革︑インドにおける職員任用制度の改革︑及び大学制度の改革の三点が検討の対象となる︒

︵1︶

︵2︶

︵3︶︵4︶ 力巴づゴρO冨β窪窪9つ傷蜜︒ドρ空きρ↓ミ︑さ§︾匙ミ§韓蓋織§bミ叫§ミ験赤木︑前掲論文︑二〇三頁︒℃①件葭ρ匹号胃駐.︑貸ミ§織鷺§笥︑ミ簿Oミミ醤ミ§計 ド︒巳︒昌.一8︒︒噛サト⊃O.一び乙二や凹醇 Zo芝畷︒﹁〆おつQP噂.卜⊃のゆ

(21)

イギリス行政哲学り起源(一)

︵5︶ 赤木︑前掲論文︑一二〇一二=頁︒

︵6︶ 同右

︵7︶国ヨヨ①ぎ①超・9冨p↓壽馬♀§ミ︒こ鳶穿ミS9ミ⑦偽ミ6ミN︒︒〒歪軸℃︾二二︒づ﹄¢σ9旨.NG・己α●

︵8︶匹︒冨aωり8・葺こり.卜・G︒・

︵9︶Oo冨Pε.9け二噂.b︒⑦・

︵10︶ 害乙こ戸卜OO・

︵11︶ 一び竃二賢卜⊃し︒・

︵12︶ 図ざげ震αω噛oPo一〜ウN一・

︵13︶ ≦一=冨ヨ﹀・凋︒冨oP︑こミ寄︑ミミ鎖偽ご ︑︑ミ岡ミ§遷尋き鳥︑§︑詩⑦ミミ融馬い︒昌ユoP一望F℃●S

︵14︶ O︒げ①Pob︒搾.P卜︒一︒コーヘンは︑公務員制度改.革の第二殺階を一八四八年から一八九〇年までとし︑ノースコート

  ㍑トレヴェリアン報告の理念やトーマス・B・マコーレイの考え方が支配的となり︑情実や政治的支持による任用に代って公

  開の競争試験による任用制度の確立をみた時代としている︒第三段階は一八九〇年から一九四〇年までであり︑彼はこれを

  統合と調整の時代とよんでいる︒すなわち︑公務員制度に一貫性をもたらすために頑強な省庁独立主義を打破することがこ

  の時代の中心的課題であったとされる︒但し︑この記述は一九四一年に発表されたものであり︑したがって第三段階はさら

  に一九六八年のフルトン報告まで至る時期とし︑同報告以降公務員の等級の変更や公務三省の設立がなされた時代を第四段

  階として付加することが妥当であろう︒さらに言えば︑一九八一年の公務員省の廃止にみられるサッチャー政権下の強力な

  行政改革の時代をもって第五段階とすることもできようが︑この時代の評価を下すことは未だ早計に過ぎると考えられる︒

︵15︶ =自ヨ9︒⇒瞬ぎ⑦5↓ミ︒こ§織︑ミ︒国電︒︑ミ9ミ蕊Oミミミミ§弓長≦ωΦ傷巴三〇P Z①≦団︒碁噂一〇8.や♂一.

︵16︶ ぎ乙こO.刈︷置噸

︵17︶ 目︒コ昌①芸ρ乏げ①霞ρ.δぞ=ω2≦8..噂く巴①ユoO﹁oヨ芝Φ=皿巴■層︾号ミ︑︒︒o︑Ooミ§ミ§味ミ≧焼ミ鷺§導9ミミk

  鳴︑謙ミ斜Uロ窪ぎ︑一㊤刈Q︒嘘弓.o︒噸

︵18︶ Hげ崔二〇・㊤︒

︵19︶ 足立︑前掲書︑四七頁︒       皿

(22)

︵20︶観︒匿aω駒8・鼻や悼㎝●︵21︶Oo冨P8.魯こ℃.翫﹂oo99ρ

︵22︶昌剛α二〇●心9

︵23︶ 足立︑前掲書︑六二⁝六三頁D

︵24︶ 同右︑六四頁︒出︒円憂き国ぎ①さ ↓ミb口︑ミ罫O帖ミ︑⑦ミミき⁝﹄蕊ミ壁鼠ミら︑ミヒh︑︒旨メU8αoPH露メ℃O.一門1一〇︒.

︵25︶on置器︽ρ巳ゆ9三8乏①σσ⑦§ミ︒蓮︾ミぎミ駐誉﹃9ミミぎ尋︒§㍉8ユ昌8Pぎ巳8し霧ω−Pお︒︒

︵26︶≦冨費P8●葺.矯︒.目ρ

︵27︶︾・即∪8巴σq﹃&N貫.肖冨Ω①鱒ω︒=冨=︒ヨ︒O窪8蕊NNム︒︒.︑19≡窪QD葺冨器巳︵①ユ︶⑦ミミ鹿§︑鳶♀ミミ

   ︒︑ミミ誉§きよ§︑ミ旨9竃§ミ§肺−い︒巳8二㊤認薯●⑩甲㊤9

︵28︶守斧O.㊤O.

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