「ボヘミア」の起源
著者 進藤 牧郎
雑誌名 金沢大学経済論集 = The Economic Review of Kanazawa University
巻 20
ページ 196‑151
発行年 1983‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/37293
−
‑ 1 9 6 ‑
チェコ人が︑ボヘミアⅡモラヴィア地方にいわば完全に定着するのは六世紀に入ってからといわれる︒そうとす
れば︑このチェコ民族は︑この定着するまでにどのような歴史的体験を経てきたのであろうか︒言語の問題を含め
て︑チェコ民族が︑その素質のなかに刻み込んできたいろいろな要素を歴史的に辿ってみよう︒本稿では︑紀元前
一千年紀後半︑私たちの世界史の表面には殆ど現われない︑ある意味では謎の民族といわれるケルト人のボヘミア
支配の時期までを辿り︑スラヴ系先住農耕民とこのケルト人との関係をいくらかでも浮び上らせ︑﹁ボヘミア﹂の起
︵1︶源あるいはチェコ古代の歴史的性格に触れてみようと思う︒
一九三九年ポーランド西部ポズナニの東北にあるビスクーピン湖村遺跡が発見されて以来︑ラウジッッFPpの言
︵ルジッェFp竪○の︶文化の発掘が進み︑その文化圏の範囲が次第に明らかにされるにつれ︑この文化の担い手が
︵2︶誰であったか︑が問題とされるに至った︒
このラウジッッ文化は紀元前一三○○年〜前五○○年ごろの青銅器文化で︑このビスクーピン湖村遺跡は︑その
後期前七○○年〜前五○○年ごろを代表する︒①湖底の泥炭層の上に樫の丸太を組んでつくられた杭上村I湖上村
落で②五〜六人を一家族とする長屋式の千に近い部屋をもつ氏族共同体の生活の場であった︒③防禦施設を施した
この集落趾では側コムギ・オオムギ・キビ・ダイズなど多量の穀物と各種の農具が出土したばかりでなく︑⑤農耕 ﹁ボヘミア﹂の起源
進藤牧
郎
一 一 一
‑ 1 9 5 ‑
〆●0︸に馬が使用されていたことを示す木製の車輪も発見された︒第1図は清水睦夫氏が作成したものであるが︑文化圏
は⑪オーデルⅡヴァイクセル︵オドラⅡヴィスワ︶流域にわたり︑南はズデーテンⅡカルパートの稜線を越えて︑
ボヘミア・モラヴィア・スロヴァキアの北部にまで及んでいる︒②﹁ラウジッッ文化の高城︵防禦施設を施した集
第 1 図 ラ ウ ジ ッ ツ 文 化 圏
舜職
落︶﹂がかなり西部︑オドラ流域に集っている︒
③﹁スキタイの遺跡﹂および﹁スキタイによっ
開て破壊された遺跡﹂は全領域に及ぶが︑ことに弓洲ズデーテンⅡカルパートの稜線の南に目立つ︒
︾誕川一一研酎︽州嘩︾︾舛評︾価鵡︾群いま鵡畔 ︵4︶
化雌住地は︑一般にはカルパート山脈の北︑ヴィス倣煉ワⅡプリペトの上中流域と考えられてきた︒も
︑田矢しこのラウジッッ文化がこの原スラヴ人によっ
う剛て担われたとすれば︑このスラヴ原住地はさら
伽に西方に拡げられることになろう︒たしかにチ
暗エコ人もスラヴ人であればへ私にとっても︑多水清少違った意味で︑ラウジッッ文化とスラヴ原住
地の問題に触れねばならない︒前稿﹁ボヘミア
前史﹂におい滝︸ボヘミアⅡモラヴイア地方を
−−−鮫盛時におけるラウジッツ文( の境界+スキタイの垣跡
+スキタイによって破壊された遺跡
●ラウジ・ソツ文化の高城− ..−…一ポメラニア文1駁)第一次及び第二次南下
二監室二二駕穿}魏紬一一ケルト詞…4噸ヤムカ博士による!(コスツシェフスキ錘による)
−194−
第 2 図 ヨ ー ロ ッ パ へ の 農 業 伝 播
ゴ・訓ゴ・訓
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地図22.ヨーロッパにおける梨の形と最古の種類の穀物の分布
は 月の等温線 :すなわち方形型と古代のヒトツブコムギ栽培の緊密な分布地域 の西南限界で,同時に,脅韓型の緊密な分布とエンマーコムギ栽培の主要地域の東北 限界でもある。IIとIⅡは「後氷河期の最も高い気温の」時期にIがそこまで行ってい たことを示す(カンピニー文化の主要分布),Ⅳとvは轡輔型の散在と古代エンマーコ ムギ栽培の東の限界。Ⅵは新石器時代の農業文化の東北限界であり,同時に,方形梨 の東北限界でもある。この線の北と東では今日,ロシア梨(対型)が支配的である。
からⅥまでの線はすべて1月の等温線(Iは1:Ⅵは−6。)に沿って走っている。
上述の梨地域に,それぞれ関係する梨形の図式的な表示が記入されている(西南から 東北へ,轡輔梨,方形型,対型,その他,東アナトリアでは,おそらく方形梨の前身 であり,なお強く「インド」梨を思い出させる梨がある。「トルコ」梨)。記入された 小さな円は,労シと三二文化時代の作物の発掘地,黒丸は同時代の家畜の遺骨の発掘
地。大文字とそれから出た細い破線の矢印線は,ヨーロッパにとって最も重要な種類 の穀物の野生の発生中心地とその主要な分布線を示している。すなわち,Dはエンマ ーコムギTγ〃jCw7zdiCoCCw7z,Mはヒトツブコムギ孤77zo7zococCum,Hはヨーロッパ の雑穀(キビとアワ),Rはライムギ。著者原図。
ヴエルト『農業文化の起源』540頁から引用。
え 源 な ロ
るとかγ広宅麦,飼三塞讃当伝ル史ウ時舞 こそでパくあ問そジでとの 雲更農ご澆言
と の ス 語 イ る 題 の ツ も し 経 ロ 経 以 開 | 歴 展
は 原 ラ 族 ン 。 に 性 ツ 結 て 過 ツ 路 北 の ( 史 開
月i監更窪ド 直 格 文 局 辿 と パ と へ な ル を し 面 と 化 は つ を 語 イ の か な 、 た
の を の 汎 ヨ し 担 、 こ た 二 族 ン 農 で 世 か 先
言 考 起 の I た い と の が 本 の ド 業 ア 界 な 史、
−193−
前稿でも触れたが︑第2図ヴェルトの見解によれ僅7最初の農業はヴュルム氷期以後最も温暖なヒプシサーマ
ル期に深くバルト海沿岸地方にまで西ョIロッパを経て北上していた︒エンマーコムギと脅韓型を特徴とするD経
路であり︑バルト海沿岸地方にはカンピニー文化を始源とする農耕民が現われ︑次いで西方から北上した巨石文化
三の窓三〒穴三言圃ついで鐘形杯文化臼○異の弓の︒言同︲閑三目旬の影響を強く受けながら︑農耕民として先住していた︒
ラウジッッ文化圏はその東の限界地域に入る︒このいわば温暖型農業は寒冷化が進むにつれ︑後退し︑一種の逆流
これに比べれば寒冷化に強いヒトッブコムギと方形型を特徴とする農業がM経路をとって北上するが︑この農業
はボヘミアⅡモラヴィア地方で東方からH経路を辿ってもたらされたキビ・アワなどの雑穀栽培を知る︒この二つ
︵8︶の農業を基礎に刻文土器文化国四国二の同騨昌詩︲宍三目門を生み出すが︑この文化はバルト海沿岸地方にまでは進出でき
ず︑より寒冷型のヒトッブコムギⅡ方形型の農業だけが北上する︒バルト海・北海沿岸地方の寒冷化が進むなかで
エンマーコムギⅡ脅韓型の農業は後退し︑それを駆遂する形で北上したのであろう︒
問題はR経路を辿っての農業であろう︒ライムギと対型を伴うこの農業は︑新石器時代末期︑紀元前二千年
紀前半までにはバルト海さらに北海沿岸地方に達している︒この対型には馬の飼育が伴い︑この農耕民が担う
文化が繩文土器Ⅱ戦斧文化浮言巨呉の門四目芽︲○号同望吋の算︲凹鶯︲穴三目門に比定されることになる︒この文化では い方をすれば︑この原住地において原スラヴ人が形成されたということになろう︒そうとすれば︑原スラヴ人だけにとどまらず︑少くともアルプス以北のョIロッパを取り上げるならば︑こうした問題は原ゲルマン人の形成︑そして原ケルト人の形成というグローバルな問題との相互関連のなかで考えねばなるまい︒しかもインドーョーロッ
︵6︶パ語族は大別してケントゥム語群とサテム語群とに大別されるという︒ゲルマン人・ケルト人は前者に属するが︑
現象を伴うのである︒ スラヴ人は後者に属する︒
−192−
第 3 図 漏 斗 状 杯 文 化 の 分 布
最も重要な武器が戦斧とされるが︑この担い手は︑馬を
︑qnu飼育しても︑一般にはなおインドーョーロッパ語族ではAVOないと思われている︒しかもこの後期には︑バルト海・LSE北海沿岸地方に漏斗状杯文化弓凰o三の吾の︒言同︲穴昌冒吋LPが現われ︑この担い手の起源も東方に由来するとされなE SUがら︑不明である︒しかし小部屋風に仕切られた細長いAH正家屋に居住している︒この文化の範囲は︑西はライン川RDに達しているが︑東方もラウジッッ文化圏の東限と重なJり︑南方では西ドイツ北部に限られ︑ボヘミアⅢモラヴ画nCanくイア地方でも︑ミルデンベルガーから引用した第3図のru6よう岡﹀ほぼその北部に限定されている︒t
unKrA4S少くとも新石器時代末期には︑西方から北上してきたe
Une c″M先住の農耕民の上に︑ドナウ川に沿ってボヘミア地方にbr
tech達し︑そこから北上した農耕民︑さらに東方からカルパ h
●も■△C
rn
Ta
唾me血Ⅵ−トの北麓を西進した農耕民とが︑重層的に重なり︑混帥蛎棚帥蕊渚・融合していたにちがいない︒そうとすれば︑ヴェル︒︒mE︵︒r2諏皿正韮舵トのいうョIロッパヘの農業伝播のすべての経路がバル
睡崎呼恥鈍恥ト海・北海沿岸のこの地方で重なり︑したがって︑それ
ぞれの経路によってもたらされた農業の類型のすべてが
−191−
ここに蓄積されたことになる9ョIロッパに伝えられた︑あらゆる型の農業が︑気候・風土の条件の変化に応じて︑
自由に選択される可能性をもち︑それだけに新石器時代の農業技術の水準としては︑おそらく最高の水準に達して
いたともいえよう︒もちろんこうした新石器時代の農耕民が︑純粋な農耕民であったわけではなく︑むしろ主とし
ては狩猟・漁携の民であり︑山羊・羊・牛・豚のほかに馬までも家畜として飼育していた︒いわば半農半牧︑ある
いは少くとも農主副牧の農耕民であったといえよう︒
︵m︶チェコスロヴァキアの歴史家︑カフカによれば︑ボヘミアⅡモラヴィア地方における新石器時代︑紀元前三○○
︵︑︶○年ごろの農耕民はいわゆるドナウ人に属したという︒ギンプタスの第三期クルガン人と考えられるが︑なおイン
ドーョーロッパ語族に属したとしても︑馬を飼うことは知らなかった︒この後を黒海北岸地方で紀元前三千年紀に︑
馬を家畜化し銅を知っているインドーョーロッパ語族︑ギンブタスのいう第四期クルガン人が追って︑ドナウ流域
を経て︑ボヘミアⅡモラヴィア地方に進出する︒先住民とこの新しいクルガン人との混渚・融合のなかで︑紀元前
︵吃︶二千年紀前半に初期青銅器文化としてアウ一三ティッンロ且の三N︵ウー一三ティッェロ忌註oの︶文化が︑先行する刻
文土器文化の土壌の上に成立する︒この文化を伴ってボヘミア農耕民は︑スデーテンⅡカルパートの稜線を越えて
北上することになる︒繰り返すまでもなく︑その農業的基礎は︑ヴェルトのいうH経路を伴ったM経路︑ヒトッブ
しかし西半分では︑東半分に比べてより温暖であっただけに︑ウーニェティッェ文化の進出とその影響を強く受
けながらも︑先住の新石器農耕文化の抵抗力も強かった︒この地方では︑新石器時代農耕民は北上したウーニェテ ジッッ文化圏に重なるのである︒ 紀元前二千年紀前半を通して︑このウーニェ|ティッェ文化の強い影響を受けたバルト海・北海沿岸の農耕的色彩の濃い漏斗状杯文化圏では︑次第に東西に分れ︑後半には明確に二つの異った文化圏をつくり出す︒東半分がラウ コムギと方形型の農業であった︒
−190−
イッェ文化の影響を強く受けて独自の青銅器文化をつくり上げ︑直接にウーニェティッェ文化を継承したウルネン
フェルダーロ目のご︲註丘の園︵骨壺墓地Ⅱ火葬墓︶文化人をむしろ撃退し︑紀元前一四○○年ごろまでに︑フィシャ
︵過︶IⅡファビアンによれば︑原ゲルマン人が完成されたといわれるのである︒
これに対して︑東半分︑より寒冷な︑それだけにD経路による農耕文化の抵抗力の弱かったオドラⅡヴィスワ地
方では︑西半分の領域における原ゲルマン人の形成とはちがって︑東半分のラウジッッ文化圏では︑ウーニェティ
ッェ文化と︑それを直接に受け継いだウルネンフェルダー文化を受け入れてしまう︒東西両域を覆う漏斗状杯文化
が︑一方でボヘミアⅡモラヴィア地方へまで進出しているにもかかわらず︑他方でウーニェティタェ文化は︑先
にも述べたように︑ズデーテンⅡカルパートの稜線を越えて北上している︒ここでの融合は︑西半分における原
ルマン人の形成とは性格はちがうにしても︑新しいラウジッッ青銅器文化を前一三○○年ごろには形成する︒しか
しこのことは︑必ずしもサテム語群に属する原スラヴ人の形成とは直接に結びつくとは限らない・
たしかに繩文土器Ⅱ戦斧文化にしても︑漏斗状杯文化にしても︑インドーョーロッパ語族には属さないとされな
がら︑馬を飼い︑東方由来といわれている︒ロシア史のがわからいわれているヴィスワⅡプリペトというスラヴ原
住地を考えるならば︑もしラウジッッ文化の担い手が原スラヴ人であるとするならば︑このラウジッッ文化に先立
って︑紀元前二千年紀前半までに︑このスラヴ原住地において原スラヴ人が形成され︑それがヴィスワ川を越えて
西進拡汎したと言わざるを得ない︒その原スラヴ人は︑馬を飼い︑戦斧をもって︑しかも農耕民的性格を備えてい
なければならないことになる︒
だがこのラウジッッ文化は八○○年の伝統を誇りながらも︑紀元前五○○年ごろに突然終末を告げる︒清水氏に
︵型︶よれば︑スキタイの侵略と考えられるのである︒あらためて東方からの影響を考え直して見なければなるまい︒
︵1︶ボヘミア先史時代について︑拙稿﹁ボヘミア前史﹂金沢大学経済論集︑第一八号︑一九八一年︑参照︒
−189−
︵8︶甸箇昌尿異宍ゆく言・ロ蔚弓mo言○言巴○言異9.シヶ風︑芸再の吋○のの︒豆○三の.遍霊.の.Pここではく○房の鼻の旨ョ房
とあり︑同じ刻文土器のなかで︑渦文土器をあげている︒
︵9︶○の吋言a三一瓦①.言侭の筍.く○吋︲匡己吋昌高の伽︒ごo三○茸の号再悪ご三助o言︒F晋号旬.ご妻顕Paggg冨○の○三o宮の
○の再ずびゴヨ厨◎ずのご伊騨冨匡の再胃暑.目@の式の.︽︑六口貝の四・
︵皿︶詞穴四ぐ六goで︐○一庁・︾P亜旦○・・シコ○昌一言の&○Nの○ず○m︸○ぐゆ天函一mg再﹈・岳のい︑で.P
︵皿︶角田﹁前掲論文﹂七三頁︒
︵吃︶国︻ゆく六Fジシ胃葛︽の.旨.丘○・︾多○ロ二言の吾.ロ己.中○.三一瓦の冨冨品の壕8.o茸.のの.臼霞.
︵過︶S・フィッシャーⅡファビアン︵片岡哲史訳︶﹃原始ゲルマン人の秘密﹄佑学社一九七七年︒とくに八七頁︒
︵の.司厨◎ずの旬0句画匡ゆご︾多口蔚の甸翼のごロの具の○ケの︒.ロの局︑の国︒言写すの甸旦画伽甸騨の①壹口津のく○房﹂の圃○の再日四国の口︑︒毛司︑.︶ ︵7︶ヴェルト︵薮内芳彦・飯沼二郎訳︶﹃農業文化の起源﹄岩波書店一九六八年︑ことに第2図は五四○頁から引用︒但し拙稿﹁ボヘミア前史﹂第4図は︑執筆当時︑この訳書が入手出来ず︑このヴェルトの図を簡略化したものを引用し︑それぞれの経路にA〜Dの記号を挿入して説明したが︑この訳書が入手出来たので︑本稿ではこれを引用した︒したがって前稿叙述のなかでの説明のAはDに︑BはMに︑CはHに︑DはRになる︒|日三一三の再三.厚号切g呉︾函PC言︒匡己 七年︑︵3︶一︵4︶一︵5︶壁︵6︶堂以下︒ ︵2︶たとえば︑鳥山成人﹃スラヴの発展﹄大世界史脂文芸春秋一九六八年︒同﹃ビザンッと東欧世界﹄世界の歴史的講談社一九七八年︒清水睦夫﹁古代の東欧﹂︑矢田俊隆編﹃東欧史︵新版︶﹄世界各国史週山川出版社一九七七年︑所収︒国本哲男﹃ロシア国家の起源﹄ミネルヴア書房一九七六年︒等々参照︒︵3︶烏山﹃スラヴの発展﹄三○頁︒︵4︶清水﹁前掲論文﹂一九頁以下︒第1図﹁ラウジッッ文化の遺跡分布図﹂は二一頁から引用︒︵5︶拙稿﹁ボヘミア前史﹂参照︒︵6︶角田文衛﹁インド・ョIロッパ人の起源と拡汎﹂﹃征服と遠征﹄古代文明の謎と発見岨毎日新聞社︑所収︒四三頁
勺室こい﹈の︑缶︶
−188−
一一
︵1︶スキタイの西方ョ−ロッパヘの影響を強調したのは︑ヘレニズム史家のロストフッェフであった︒それは第一次
大戦直後であったが︑以来スキタイ自身だけではなく︑さらに数多くのユーラシア草原遊牧民の研究も進み︑わが
国でさえ︑数多く紹介されるに至った︒しかし︑わが国では︑この遊牧民の研究も東西交流の担い手としての役割
に関心が傾き︑むしろロストフッェフの本来の意図は忘れられていたとさえいえる︒
しかし最近では︑東欧世界への関心が増すにつれ︑ユーラシア草原遊牧民の歴史的役割が再評価されるまでにな
った︒その意味で︑紀元前一千年紀も前半︑今日のウクライナ︑黒海北岸に君臨したスキタイ︑典型的な遊牧騎馬
民族の世界史への役割も見直されてきたのである︒
︵2︶へロドトスは︑スキタイの四部族について記述を残している︒王族スキタイ・遊牧スキタイ︑そして農耕スキタ
イと農民スキタイである︒ことにド一三プル川の西岸︑ステップから森林地帯への移行地帯にあった農耕スキタイ
は︑もっぱらギリシアへの輸出向け穀物生産に従った︒しかも最近では︑イラン系の王族および遊牧スキタイの支
︵3︶配下にあった別の部族として︑この農耕スキタイは原スラヴ人であったとさえいわれている︒
別稿では紀元前三千年紀にこの地方で銅を知り︑馬を飼うことを知った第四期クルガン人が︑それに先行する第
三期クルガン人を追って︑黒海沿岸からドナウ川に沿って西進し︑北上してボヘミアに達するいわば南方経路を辿
って︑ウーニェティッェ文化に到達した︒このインドーョーロッパ語族は︑そのなかからギリシヤ︑ローマ︑さら
にゲルマン︑ケルトなどケントウム語群を生み出すのであるが︑この系統のなかで考えられるボヘミア農耕民のズ
デーテンⅡカルパートの稜線を越えての北上という線上に︑サテム語群に属する原スラヴ人の形成を果たして考え ︵M︶漬水﹁前掲論文﹂二四頁︒
−187−
第 4 図 イ ン ド 一 ヨ ー ロ ッ パ 語 族 の 西 進
f土製壱
l、穴十麗叉化
毒 三
鰯雲鬘簔議毒辮 認讓鐙雪↓
の ・中郡ア熟ノアの遜雲皇鰯蕊駕東アナ│、リアの初卵青銅器時代̲L
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西アナ│・リフ マ.4ケ
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一 一 ■ ■ 一 ■ ■ ‑ 一 一 一 一 一 一 一 一 =
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ヌ化I及び'1 一 一 一 ー ヘ ー ー ー ニ
初嘩ミノア:
一 一 ヘ ー ヘ ー ー ー へ ー d ■ ■
初嘩ミノアヌ化
ヨーロッパにおけるクルガン文化の広がり へルム『ケルト人』121頁
られるものであろうか︒
新石器時代に︑ヴェルトのいう農業伝播のR経
路にあたり︑繩文土器I戦斧文化をもたらした農
耕文化を東方に求めるとすれば︑トリポリエ文化
︵4︶以外には見当らない︒香山陽平氏によれば︑この
トリポリエ文化は紀元前四千年紀以来の原始農耕
文化で︑穀物ではオオムギ・コムギ・キビなどを
栽培し︑家畜として山羊・羊・牛・豚に加えて馬
も飼われている︒後期には数室に仕切られた細長
い家屋をもち︑この家屋が円形に並ぶ︑内がわに
広場をもった集落を丘の上につくった︒最盛期に
は二○○以上の家屋︑おそらくは三○○○人ほど
の規模にもなり︑豊饒を願う女人像が出土してい
るとされる︒しかも家畜文化史を書いた加茂儀一
︵5︶氏も︑紀元前二八○○年ごろの遺跡から最も古い
家畜馬の骨が発掘されているという︒
このトリポリエ文化とクルガン文化の拡汎とは︑
どのよミフに絡み合うのであろうか︒ヘルムから引
︵6︶用した第4図によればウーニェティッェ文化もトリ
−186−
ポリエ文化もすでに展開した段階︑紀元前二千紀後半におけるクルガン文化の西進であり︑黒海沿岸←ドナウ流域
←ボヘミアといういわば南方経路とは別に︑黒海沿岸から直接にカルパート北方︑プリペトLヴィスワ流域を経て
バルト海・北海沿岸地方への北方経路が示される︒その担い手はインドーョーロッパ語族と推定される︒紀元前三
千年紀に黒海北岸地方に現われた銅を知り︑馬を飼うまでに至った第四期クルガン人に追われたトリポリエ文化人
は︑カルパートの北︑森や沼沢の多い地方に追われ︑漁携に従事しつつ一層牧民的性格を失い︑しかも馬を使うこ
とを知った農耕民としての性格を強める︒このような土壌の上に第四期クルガン人が進出︑混清・融合する過程で︑
紀元前二千年紀前半のカルパート北方クルガン文化を形成し︑スキタイ文化の影響を受け︑紀元前七五○年〜前五
○○年ごろのチェルノレス文化に受け継がれ︑さらには王族スキタイ・遊牧スキタイに征服されて︑ヘロドトスの
︵7︶いう農耕スキタイになっていく︒山本忠尚氏によれば︑ことに紀元前六世紀末ころに︑濠や土聲をめぐらせた防禦
施設をもった集落ゴロディシチェが急激にその数を増し︑木徹墳の伝統がこの地方︑ド一三プル西岸地方の森林ス
テップ地帯に引き継がれていた︒しかもこのゴロディシチェは河川の合流する肢状部分に多く見られ︑トリポリエ
文化人の丘の上にある集落とはちがうのである︒
スキタイ文化について︑その特徴を簡単に挙げておけば︑それは最古の古典的な騎馬民族︑騎馬遊牧民のもので
あり︑ヘロドトスのいう王族および遊牧スキタイにとっての特徴である︒ヘロドトスも︑彼らは﹁町も城塞も築い
ておらず︑その一人残らずが家を運んでは移動してゆく騎馬の弓使いで︑生活は農耕によらず家畜に頼り︑住む家
︵8︶は獣に曳かせる車である﹂という︒初期のクルガンは黒海北岸でも西方アゾフ海からも西︑クバン川流域にあった
が︑後期になるとドニエプル流域へと西進する︒その出土品から見ても︑強力な短弓と三翼鑛をもつ矢︑この弓矢
をおさめるゴリュトゥス︒アキナケス剣と呼ばれる両刃の短剣︒とくに轡には馬衞と︑これがずれないようにする
鑛が伴い︑これに手綱が結びつけられ︑現在の轡に必要な要素がすべて整って︑騎乗して馬を自由に操ることが出
185
− −
来るようになる︒装飾や副装品に多量の金や琉珀が使われ︑動物文様が特徴的で︑純金製の﹁屈脚鹿﹂は有名であ
る︒大量の馬の殉葬ばかりでなく︑人間︑ことに多数の馬上の従士が殉葬されている︒最近ではこうしたスキタイ
の言語も北方イラン系のインドーョーロッパ語とされるに至った︒
動物文様を一つとっても︑たとえばオオジカなどはスキタイが君臨するステップには存在していない︒こうした
文様を最盛期においてなお残しているとすれば︑スキタイ文化はその起源において︑北方タイガ地帯の諸動物を狩
猟の対象とし︑加えて弓射に長じたことにもなる︒北はこのシベリア狩猟民から︑また南はイラン高原の半農半牧
の民から︑どのような過程を経て︑騎馬遊牧民が形成され︑スキタイにおよぶのであろうか︒
山本氏は︑この問題を︑紀元前三千年紀︑南シベリア︑シベリアータイガの南縁にあって栄えたアファナシェヴ
︵9︶ォ文化に求める︒この文化は狩猟・漁携文化ではあったが︑その末期には農耕とともに羊・山羊・牛さらには馬を
飼うようになり︑オビ・エニセイ両河川の上流域の小河川や湖沼の周辺に居住するようになった︒加茂氏も︑こと
︵皿︶にトナカイの馴化を通して複韓の肩そりを早くから知って︑これに騎乗するようになるという︒この文化の担い手
は︑したがってインドーョーロッパ人とされる︒ちなみにオリエントの車は牛に曵かせることにはじまり︑単較二
頭曳きであり︑その後オナーゲル︑馬を使用するようになっても︑複韓一頭立ての馬そり︑馬車︑馬に曳かせる戦
︵︑︶ 頭曳きであり︑そ︵
︵車は生れなかった︒
このアファナシェヴォ文化における農業はヒプシサーマル期の温暖期に︑西南アジアの高原地帯︑型農耕の発生
地がようやく乾燥化しはじめるにつれて︑今日の中ソ国境に連なる山麓地帯をいわば飛び石伝いに北上し︑この南
シベリアに達し︑コムギやオオムギのほかにライムギをも伴ったばかりでなく︑多少とも銅・青銅の冶金技術も伝
わり︑アルタイ山脈の鉱床に結びつく︒
しかし紀元前二千年紀に入って︑この地方においても寒冷化がさらに進むといわば逆流現象もあって南・西へと
−184−
へと成長する︒
︵吃︶増田精一氏もこのアンドロノヴォ文化からカラスク文化への移行を取り上げる︒アファナシェヴォ・アンドロノ
ヴォ両文化では墳墓が一地に一○ないし一五以上集っていることは稀であったのに比べて︑カラスク文化の墳墓
は一地に百以上の高塚を数えることも珍らしくないともいう︒居住地も河川・湖沼の周辺を離れてステップに広が
り︑住車を思わせる覆い付きの︑しかも単韓の四輪車を出現させ︑牧畜が中心となり︑かなり移動性の強い生活を
推定させる︒青銅器も鍛造から鋳造に進み︑短剣も柄と刃とが同時に作られ︑加えて柄頭を飾る動物立像には蝋型
鋳造を必要とするまでに進んできた︒このような新しい冶金技術は︑単猿の四輪車と並んで︑南方オリエントから
の影響を想定させるという︒
いわばシベリアータイガの南縁にあって栄えたアブアナシェヴォ文化︑アンドロノヴォ文化︑カラスク文化と︑
恐らく寒冷化に伴う逆流現象としてステップ地帯に南下する︒他方ではイラン高原・ザグロス高原にあった半農半
牧の牧民たちも︑オリエント文明を背負いながら︑ここでも乾燥化が進むにつれて北上してステップに達し︑ここ
で北からの流れと︑南からの流れが合流︑融合する︒しかもこの南ロシアのウラル・ヴォルガ・ドンなどの河川流
域には紀元前三千年紀末から前八○○年ころまで木撤墳文化が栄えていた︒
竪穴のなかに樫・樺・松などで家形の撒室をつくり︑馬の副葬も現われる︒馬の飼育も盛んで頭絡に手綱を結びつ
ける骨角器の鱸が出土するが馬術はなかった︒今日でいう水勒による騎乗では︑かなりの規模の畜群を追うことは
可能であっても︑騎射戦法を集団で行うほどには達していない・幾何学文・平底土器類を伴っている点からも︑な 拡大し︑紀元前一八○○年ごろにはシベリア青銅器文化を代表するアンドロノヴォ文化に推転する︑と山本氏は考える︒闘斧Ⅱ戦斧を石器から青銅器に代え︑従来の小河川・湖沼の畔を離れてステップへと進出するにつれ︑農耕民的性格を失いながら牧畜の比重を増し︑馬の飼育と馬への騎乗を通して︑大規模な遊牧へと進み︑騎馬遊牧民族
竪穴のなかに樫・樺・松などで家形の撒室をつくり︑馬の副葬も現われる︒馬の飼育も盛んで頭絡に手綱を結びつ
ける骨角器の鱸が出土するが馬術はなかった︒今日でいう水勒による騎乗では︑かなりの規模の畜群を追うことは
可能であっても︑騎射戦法を集団で行うほどには達していない・幾何学文・平底土器類を伴っている点からも︑な アンドロノヴォ文化︑カラスク文化と︑ラン高原・ザグロス高原にあった半農半こつれて北上してステップに達し︑ここ
−183−
お純遊牧の民ではなかったろうとされる︒
小林氏や増田氏も考えたように︑純遊牧民の形成が︑北方における寒冷化と南方における乾燥化によって︑周辺
の半農半牧の民が︑このステップ地帯に進出するにつれて︑遊牧騎馬民族に成長し︑紀元前一千年紀前半には史上
最古の騎馬民族国家スキタイへと発展する︒
ヘロドトスの王族および遊牧スキタイに代表される全く農耕に従事しない純遊牧民が存在するためには︑その縁
辺︑あるいはステップ地帯内にあっても河川・湖沼の周辺︑オアシスなどに︑かなりに発達した農耕文化が存在し︑
純遊牧民が植物性食料を入手する条件が充たされねばならない︒これにとどまらず︑日常必要な生活手段︑とくに
激しい移動にも耐えられる金属器類︑鑛や戦斧︑短剣等︑少くともその素材を入手できなければならない︒たしか
に半農半牧の牧民や農耕民に比べて︑自給自足的に不安定な遊牧民は︑必要な生活手段を求めるために交易への志
向は強く︑しかも騎馬を知ってからは︑その機動力を十分に利用する交易の民であり︑その擁護者であるとともに︑
反面ではその略奪者︑周辺地区への破壊的な侵略者でもあった︒
︵1︶ロストフッェフ︵坪井良平・榧本亀次郎訳︶﹃古代の南ロシア﹄ユーラシア叢書4原書房一九七四年︒復刻原本
昭和十九年︵一九四四年︶刊︒︵三・両○の8ぐ目の民岸凹昌P国のPao制の①訂言琶匡夢幻匡切切冨.邑侭.︶
︵2︶へロドトス︵松平千秋訳︶﹃歴史﹄中岩波文庫一九七二年︒一七頁以下︒スキタイ人についての記述は﹁歴史﹂の
巻四の冒頭﹁ダレイオスのスキュティア遠征﹂について一一四四まで︵岩波文庫版で﹁中﹂七八二頁︶書き残してい
︵3︶角田﹁前掲論文﹂﹁
族の先祖と考えている︒
︵4︶香山﹃前掲書﹄七
︵5︶加茂儀一﹃家畜文︑ フハ︾︒
皇層七一頁以下︒
﹃家畜文化史﹄法政大学出版局︑ 八八頁︒香山陽坪﹃騎馬民族の遺産﹄沈黙の世界史6新潮社一九七○年六三頁で︑スラヴ
一九七三年︒しかし本書の元の版がはじめて世に出たのは一九三七年であ
−182−
一一一
紀元前一千年紀前半︑オリエントの大河文明を核に︑その周辺高原地帯には半農半牧の牧民︑さらに砂漠地帯で
もオアシス農耕文化が展開していた︒北方でもシベリア南部からウクライナにかけてのシベリアータイガの南縁と
ステップ地帯の中間︑林草交雑地帯には︑半農半牧の牧民や農耕民が展開し︑その北の広大な森林地帯には狩猟・
漁携の民が存在していた︒ことに農耕文化に︑オリエント︑のちにはギリシヤにおいて剰余が蓄積されると︑こう
した地方から金銀・毛皮・號珀など著侈品をめぐって︑いわゆる遠隔地交易も展開する︒加えてこれらの地方に奴
隷制が一般化するにつれて︑奴隷もまた重要な商品として︑この交易のなかに登場するのである︒このようにいわ
ば世界的規模における交易網は︑おそらくは諸氏族・諸部族間のいわば社会的分業を前提とすることになろう︒ここ
に生れる交易を︑経済的にも軍事的にも握ることによって︑遊牧諸部族は︑一層富を蓄積することになる︒ことに ︵胆︶増田精一﹁青銅器時代の東西文化交流﹂護雅夫編﹃漢とローマ﹄東西文明の交流1平凡社一九七○年︑九二頁以下︒ る︒八一︵6︶へ︾︵7︶山一︵8︶へ一︵9︶山一︵︑︶加一︵Ⅱ︶加一頁以下︒ 八頁︒なお三九頁︑とくに三三四頁以下︒ヘルム︵関楠生訳︶﹃ケルト人﹄河出書房新社一九七九年︑一七五頁aの局言且寺甸ョ︾豆の︻の岸の国.己計.︶山本忠尚﹁スキタイの興亡﹂﹃民族の光と影﹄古代文明の謎と発見9毎日新聞社一九七八年︑二九頁以下︒ヘロドトス﹃歴史中﹄三二頁︒山本﹁前掲論文﹂二○頁以下︒加茂﹃前掲書﹄七二三頁︒加茂﹃前掲書﹄二三八頁以下︒加茂儀一﹃騎行・車行の歴史﹄法政大学出版局︑一九八○年︑一三頁三三頁︒四八
、
−181−
新石器時代から青銅器時代へ進む過程のなかで︑特定の地域に限られた金・銀・銅・錫などを掘る鉱山諸部族との
交易をも深め︑遊牧諸部族の役割は大きくなる︒
こうした遊牧民の社会では︑たとえばアフアナシェヴォ・アンドロノヴォ両文化期の墳墓からカラスク文化期の
墳墓へというように︑半農半牧から牧主農副︑さらには遊牧への過程で︑人間集団の規模も急激に拡大するのであ
ことに遊牧という特殊な条件のもとで︑マルクスのいう共同団体牙ョのぎぎののコー家族・部族・部族連合l
︵1︶と大地同aのとの関係を考えれば︑マルクスもいうように︑移動する遊牧種族のばあいには︑大地は原始的な無制
限状態で現れる︒大地の草は畜群に食いつくされるが︑牧畜民族はこの畜群によって生存する︒領有され︑また再
生産されるのは︑事実上ここでは畜群だけであって︑大地ではない.しかし遊牧民族のあいだでは︑畜群l自然
に見出される土地生産物lに対する所有は︑同時に彼らが通過する牧草地に対する所有である︒大地は︑その時
々の滞留地では︑彼らによって共同的に空日の旨の︒ご津匡昌利用される︒一つの共同団体の言の①ョの冒言の伽の国にとって︑
大地は共同体的土地所有の対象であっても︑その大地に含まれる土地生産物の一つである︑たとえば畜群︑まして
家畜は︑成員個々人の個別占有向言圃のぎの切言の対象となる︒所有は︑たしかに本源的には動産ョ︒豆︸である︒なぜ
ならば︑人間はまずはじめに︑土地の完成果実をものにするからである︒このなかには︑わけても動物︑しかもと
くに人間が馴致しうるものがはいる︒しかし狩猟・漁携・遊牧・採集という状態でさえも︑たとえば︑狩猟地・畜
群の放牧地のためであろうが︑大地の領有シロの祠ご匡長を想定している︒
たしかに半農半牧の牧民にとっては︑部族団体の規模も小さく︑血縁的氏族共同体の性格も強いであろうが︑移
動性の強い遊牧生活の比重が増すにつれて︑一方では︑この氏族共同体は家父長制的家族へと解体し︑さらにその
家族さえも︑そのなかから個々人を分出する︒この過程のなかから畜群の再生産に必要な群団四○aのをつくり︑さ
る
。
−180−
らには長期の遊牧のための︑あるいは交易のための遍歴団体罰の厨品のいのこめo富津さらには隊商〆四局葛四国のをもつく
る︒しかしこの過程のなかから︑本来︑帰属する氏族共同体からも切り離される個々人は人間集団としての共同団
体○の日の冒葛のの①己から切り離されるばかりでなく︑この共同団体と不可分に結びついていた大地︑生産手段である
と同時に生活手段でもあった︑その大地からも切り離され︑自ら全く生きるすべのすべてを失う個々人をもつくり
出すことになろう︒換言すれば︑そのすべてとはいえないにしても︑まさに潜在的な奴隷の供給源をつくり出すこ
とになる︒もし人間自身が︑土地の有機的付属物として︑家畜のように︑土地といっしょに征服されるとすれば︑
人間は生産諸条件の一つとして一括征服されることになり︑こうして奴隷制や農奴制l生産手段としての土地と
切り離されることなしに︑したがって氏族あるいは部族共同体を温存したままでlが発生するが︑これらはあら
ゆる共同団体の本源的形態をやがてゆがめ︑また変形させ︑そしてそれ自体これら共同団体の基礎となる︒
しかし他方では︑このような氏族共同体の解体傾向あるいは再編の繰り返しは︑血縁的性格を弛めるだけに︑部
族の混清・融合・再編を激しくして︑逆にいえば︑氏族・部族をより容易に︑より大規模な部族︑さらには部族連
合へと急速に拡大させることにもならう︒
個々人のいわゆる帰属意識も︑古くて狭い血縁的氏族共同体から離れ︑より大きな氏族あるいは部族︑さらには
部族連合へと高められていくであろう︒このように血縁的性格の強い氏族共同体が崩れて︑それぞれの家父長制家
族を代表する個々の家父長が︑氏族あるいは部族の共同体を温存し︑さらには再編するにしても︑少くとも遊牧生
活のなかでは︑それぞれの家父長が連合くの旬の祠己屋長して︑共同体を構成するほかはないであろう︒そうとなれば︑
その部族あるいは部族連合の内部において︑その共同体にとって最大の課題が他の共同体からの侵害であるとすれ
ば︑その防衛のための軍事力とその指導と指揮が問題となる︒こうしたいわば軍事的民主制のなかで首長が生れ︑
その首長もまた家父長制家族の枠のなかでの家父長としての性格を免れ得ない限り︑この首長を頂点とする家族あ
−179−
るいは氏族は︑支配者の家族あるいは氏族司画三国の︵甸○e○号同盟弓の号の函の月のo言尉切となる︒こうした家族な
いし氏族のなかに︑先に述べた本来の氏族︑さらには家族からさえも切り離された個々人は︑自由人としてではあ
れ︑奴隷としてではあれ︑その首長あるいはその支配家族ないし支配氏族のなかに取り込まれる︒こうした個々人
の部族さらに部族連合への帰属意識は︑いろいろなシャー言一ズムや宗教を媒介とするにもせよ︑狭くて古い血縁
的な氏族ないし部族意識を越えて︑首長への帰属意識となる︒首長もまた︑狭くて古い氏族を単位とする共同団体
の枠を越えて︑部族ないし部族連合という共同体的所有の体現者冒冨目画威oロに昇華する︒しかしこの部族ないし
部族連合の結集力の弱さ︑逆に言えば家父長制家族の自立性の強さは︑常に下からの部族共同体と︑これを体現す
る部族の首長の自立化を許す可能性を︑常時内包していることにもなる︒スキタイの最盛期における絢燗たる巨大
な墳墓︑クルガンに象徴され︑ヘロドトスに述べられているスキタイの王たちは︑まさにこうした遊牧騎馬民族国
家という共同体的所有の体現者たちであった︒
たしかにこの首長たちの権力の︑直接的な基盤は︑この首長に直結し︑しかもその出生による氏族︑さらには部
族共同体への帰属意識から切り離され︑この首長への帰属意識にのみ生存をかけ︑この首長を中心にこれを取り巻
く戦士たち︑その戦士たちの集団としての従士団であった︒
思いのままに馬を騎り廻わし︑三翼鑛をもった強力な弓矢で武装し︑馬上から騎射する戦闘集団の威力が︑周辺
諸部族を従属させるのである︒しかもこのような騎射戦法は周辺の半農半牧の諸部族にも容易に普及する︒こうし
た諸部族を従属させるなかで︑この首長を中心に直結する従士団あるいは親衛隊のさらにそのまわりに︑従属諸部
族による軽装騎兵を大量に結集させ︑スキタイの軍事力を幾何級数的に増大させることになる︒たしかに乗馬と弓
矢︑アキナヶス剣と呼ばれる短剣︒遊牧民の成年男子であれば誰でもが武装し︑戦闘集団に加わり︑しかも畜群を
追ってともに動く限り︑大地に生える牧草と水がある限り︑特別の輻重をも必要としない︒
−178−
しかし反面こうした遊牧騎馬民族にとって先に述べたように︑植物性食料の確保が︑やはり存立の重要な条件で
あった︒王族および遊牧スキタイにとって︑とくに農耕諸部族との関係が問題となる︒農耕諸部族に限らず︑一般
的に他部族に対する関係において︑また遊牧諸部族相互にあっても︑戦争は家畜や財産の︑人間そのものの略奪︑
殺裁を伴う︒農耕諸部族に対しても同様ではあるが︑しかしことに農業施設の破壊を伴う場合は︑遊牧民がその存
立の条件そのものを破壊することになる︒農耕民の農業がなお非常に原始的で剰余を生み出すまでに発展していな
い段階であれば︑極端にいえば︑人間と穀物・家畜など生活手段とを切り離して︑生活手段を奪い︑人間を奴隷化
するなり殺裁することにもなろう︒しかし農耕民の農業がある程度の段階にまで達し︑農業共同体として剰余を生
むとすれば︑農耕民への侵略と征服は︑この共同体をしたがって農耕諸部族を温存し︑貢納と軍役を求めることに
なり︑こうした農耕諸部族に対する支配・隷属の関係は︑破壊・掠奪・奴隷化と並存する︒ヘロドトスもいうスキ
タイの支配下に農耕および農民スキタイが四部族のうち二部族として存在しているのである︒
ヘロドトスの時代は紀元前五世紀であり︑この黒海沿岸にギリシヤの植民市がつくられ︑この頃にはオルビアな
どに代表される植民市は交易取引所の役割を果たし︑取り扱われる生産物では金銀・號珀・毛皮などの著侈品や奴
隷に加えて穀物の比重も増している︒農耕スキタイはこの輸出向け穀物の生産に従事しているという︒王族および
遊牧スキタイにとっては︑自分たちに必要な穀物等植物性食料の枠を越えて︑交易のための農業生産を農耕スキタ
イに強制し︑農民スキタイには当時一万二○○○から一万五○○○と推定されるオルビア市民へ穀物のほかに︑夕
︵2︶マネギ・ニラ・マメ︵扁豆︶・アワなどを︑おそらくは供給させている︒スキタイ支配層は︑こうしたギリシアと
の交易の展開に直面して︑その支配領域における︑ことに従属農耕諸部族に対する支配体制を︑いわば部族間社会
的分業の在り方に対応させて転換させていく︒
ヘロドトスによれば︑スキタイ人の領地の北方に連なる東方への道が︑第5図のようにシベリアータイガの南縁
‑ 1 7 7 ‑ 第 5 図 ヘ ロ ド ト ス の 東 方 へ の 道
− − − 同 境 一東方へのルート」
m m 山 脈
− − − 同 境 一東方へのルート」
、 、 山 脈
1 . サ ウ ロ マ タ イ 人 2 . ブ デ ィ ノ イ 人 3 . 無 人 の 地 4.テュッサケタイ人 5 . イ ユ ル カ イ 人 6.別種のスキュティヌ人 7.アルギッパイオイ人 8 . イ ッ セ ド ネ ス 人
鼻 薦
L 騨 鑑
6翌
、 − L
9 . ア リ マ ス ポ イ 人 10.ヒュペルボレオイ人 11.マッサケタイ人
東方へのルート
護『古代遊牧帝国』77頁から引用
に沿って︑ウラルからカザフ台地︑さらにアルタイ山脈
に連っている︒﹁スキタイ人で彼らの地に出かける者は︑
七人の通訳を使い︑七カ国の言葉を通じて取引を行って
︵3︶いる﹂と述べる︒このウラル山脈からアルタイ山脈へか
けては古くから金の産地で︑この取引は主に金の取引で
あった︒このいわば金の道は︑シベリア狩猟民との毛皮
取引の道でもあったばかりでなく︑新石器時代から青銅
器時代を通して︑馬を使う農業︑ヴェルトのいうR︵ラ
イムギ︶経路による農業伝播の道にも重なるのである︒
この道が金や毛皮をスキタイに運び︑オルビアを通して
ギリシヤに運んだとすれば︑號珀を運ぶ道はどうなって
いたのであろう︒
號珀の主な産地は北海沿岸のユトランド半島およびバ
ルト海に面した東プロイセン沿岸︑ザームラントにあっ
た︒たしかに號珀の道は︑後述するが︑主としてョIロ
ッパを南北に結ぶ道として注目されてきた︒しかしシュ
ライバーは第6図︵後出二一頁︶のように︑南北を結ぶ三
つの道に加えて︑第四の東方の道︑バルト海と黒海を結
︵4︶ぶ道を挙げている︒このオルビアに號珀が現われている
I
−176−
第 6 図 黒 海 へ の 琉 珀 の 道
蕊
蕊〃垂ふむ〃垂ふむ
霧 §
篝鍵溌霧慧 識I蕊 灘
篝
蕊灘卜 藩 f蕊§1f蕊§
繍 繍 客
識 蕊 II 識 識蝿
《蕊 ..ー。
鑑 秒秒
趣毒島塗罐
昂昂昂昂
: ツ:
ツ h溌
騨αス
蕊
蕊 』 上海蕊
;・湖;蕪・ロ、01■ ■ ■:職I。:0託 鶏も一■■△●︑︑一F﹃■直ゆ●■ 識 加順側スキタイ支配層が︑この古い道に沿ハロ 鱗鱗唖岫鞘していたことになる︒ 坪州州の道が第6図からもわかるように存在 剛卿乢経て黒海沿岸のオルビァに達する號珀愛1℃奔諏冨〃川おた が.世紀までに︑ヴイスワからプリペトを =さったという︒このことから︑紀元前五 一走元前四二一年までしか流通していなか 壷 肋かもそのなかでのアィギナの貨幣は紀 鰯ら ォリシヤ貨幣が発掘されたのである︒し ル オルビアで鋳造された貨幣を含めたギ 年ポーランドの小村シュビンで︑この のはたしかに知られていた︒一八三二励噛って︑その交易路へ進出しようとする発珀の號理由は︑ただ単に號珀への誘惑だけでヴる巧帷はなかった︒この地方こそが︑スラヴ
岬沈原住地といわれるように︑農耕民が住
鳥ビんでいたところであり︑この農耕民を
侵略・征服し︑従属させた上で︑よう
やく需要の増えてきた穀物を︑貢納と
−175−
第 7 図 ス キ タ イ の 西 進
… 字 冗 写 夛 天
◎ ハ ル シ ュ タ ッ ト 文 化 の 出 土 地 0
骨 壷 葬 地 文 化 骨壷葬地文イ
◎。 品
ユタットント
港
蕊
茎義瓦 ギリシアー ー ̲ 一 一 一 一 一 一シ ア
ー ー ー ー アッシリア
7m年頃
0 500km
! ロ
イ ン ド ケ ル マ ン 語 族 の ヨ ー ロ ッ パ へ の 侵 入 へルム『ケル.ト人』175頁から引用
して確保し︑併せて交易路の確保を安定させた
のである︒第7図のようなスキタイの西進が︑
紀元前五○○年ごろにラウジッッ文化圏に侵入
し︑これを破壊したことと符合するように思わ
れる︒
しかしこの盛強を誇ったスキタイも︑ギリシ
ヤとの交易に依存すればするほど︑一方で農耕
諸部族の貢納に依存する度合を高め︑騎馬民族
としての性格を失い︑他方では西方からケルト
人が進出し︑東方からも新しい遊牧騎馬民族サ
ルマタイが西進し︑紀元前三世紀には︑衰退す
るのであった︒
︵1︶マルクス︵手島正毅︶﹃資本主義的生産に先行
行する諸形態﹄国民文庫邪大月書店︑一九六
三年︒三六頁以下︒
︵穴四ユ三秒局〆・同○吋ョ①ご︾gのgの門︻P凰冨産め威切o三のご
勺再︒﹂巨穴茸︒ごく○局琴①局︑のゴロ﹂ご鋒の門匡.﹄凰切伽の︒①吋
穴局詳弄旦の局で○惠威い︒彦の国○六○国○ョ話︹○ずの昌葛匡匙︺
﹈雪mI﹄誤蝕ミロ討冨くの同置い︑のユ言.ご認.︶
︵2︶へロドトス﹃歴史﹄一七頁︒香山﹃前掲書﹄
−174−
カフカによれば︑紀元前一千年紀︑鉄器時代に入って鉄鉱床の豊かなこの地方では︑多量の鉄器︑ことに鉄製の
武器が生産され︑手工業と農業の発展が見られる︒そこでラウジッッ文化人は原スラヴ人に発展し︑高塚墳人は歴
史的なケルト人となり︑このケルト人はう︲テーヌF四目雪の文化をつくり出し︑一時期原スラヴ人を征服したと
︵1︶いう︒ボヘミアではボイイ族が支配し︑そこからラテン語によるボヘミアの名が生れるのである︒
先にも述べ・たウーーニティッェ文化はプラハ北郊のウー一三ティッェロ忌蝕︒①の部族長の墳墓の発掘によって名
付けられた青銅器文化前期で紀元前二千年紀前半とされ︑後半に入るとウルネンフェルダー文化口目の匙①丘の胃︲ 係︑征︑
○戻ろう 四
カルパート山脈の北麓を通るいわば北方経路による東方からの影響を考慮するあまりに︑遊牧騎馬民族︑スキタ
イの問題に深入りしすぎたかも知れない︒しかしその焦点は︑こうした遊牧騎馬民族と定住的な農耕諸部族との関
係︑征服と隷属の関係を明らかにしようとすることにあった︒この点を考盧し︑再びボヘミアⅡモラヴィア地方に 四八頁以下参照︒とくに五四頁︒︵3︶ヘロドトス﹃歴史﹄一六頁以下︒第5図は︑護雅夫﹃古代遊牧帝国﹄中公新書一九七六年からの引用であるが︑この東方への道については七四頁以下︒しかし香山﹃前掲害﹄一四六頁と対比すると比定された諸部族の位置が東に偏している︒勝藤猛﹁草原の道﹂﹃文化の交流﹄古代文明の謎と発見4毎日新聞社一九七八年所収︒二四頁も香山氏に近い・現在のウラル山脈・カザフ台地・アルタイ山脈と連らなる金産地を考えても︑香山・勝藤氏の比定が妥当のように思われるが︑いずれにしても︑この草原の道はまさに﹁金の道﹂であった︒七人の通訳については︑ヘロドトスの二○頁︒︵4︶シュライバー︵関楠生訳︶﹃道の文化史﹄岩波書店一九六二年︒一三頁以下︒
︵函の門白四ロゴの︒ご門のぎの再望の旨き己の﹂①胃の耳口吻mの︑岳①P︶
−173−
嗣巳冒周に発展する︒この文化は︑土葬に代って火葬墓文化を展開させ︑北西︑原ゲルマン人の文化圏からは撃退さ
れたが︑北東︑ラウジッッ文化圏に進出したばかりでなく︑ドイツ中部・西フランス・北スペイン・北イタリアへ
と西方に拡がり︑さらに東南方に向ってバルカンからさらにギリシア・アナトリアへといわば逆流している︒こと
に︑特定される銅山地帯として今日の西ドイツとチェコスロヴァキア国境のエルッ山脈画甸品①亘晶の︵クルシネー・
ホリ穴吋晟忌言昌︶あるいはスロヴァキア︑さらにトランシルヴァニア地方︑またオーストリアのアルプス地方が
開発されるにおよんで︑紀元前二千年紀後半にはこのボヘミア地方はョ−ロッパにおける青銅器文化の最も進んだ
地方の一つにまで発展していたのである︒
ウーニェティッェ文化にしても︑これを継承したというこのウルネンフェルダー文化にしても︑主としてボヘミ
ア地方を貫流するエルベーモルダウ︵ラベーブルタヴァF号のⅡ室冨ぐ巴川の︑またモラヴィア地方ではマルヒ︵モラ
ヴァ三○局ゆく画︶川の流域︑低地地域に展開した農耕文化であったが︑青銅器時代が進むにつれて農業と手工業との
分離もはじまり︑階層分化も進んでいる︒
ことにこの地方は︑新石器時代から︑第8図に示された︑いわゆる琉珀の道のうちで︑比較的早くから知られて
いたハンブルクからエルベⅡモルダウに沿ってドナウ川に出て︑ブレンネル峠を越えて北イタリアに出る中央道の
経路に当っていた︒今日のザルッカンマーグート蟹冒言日日の晶昌地域にある岩塩坑が︑青銅器の普及につれて生
産性を高めると︑ことにハルシュタット函巴房届茸は当時の交易の中心となり︑銅山の開発と相まって︑極言すれ
︵2︶ばョIロッパ交易網が体系づけられる︒シュライバーもその﹃道の文化史﹄の冒頭に述べるように︑北イタリアに
あってより先進的なエトルリアの青銅器︑細工物をその商人たちが︑ハルシュタットに運び︑ここに集められた北
海・バルト海沿岸産の號珀と交換したという︒
しかしこのハルシュタット文化の前期︑紀元前一二○○年ごろから前七○○年ごろまでは青銅器文化でウルネン