• 検索結果がありません。

ヴェネツィアの起源 (1)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ヴェネツィアの起源 (1)"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ヴェネツィァの起

     ピΦoコαq言 9<①昌oN冨

源ω

久志本

1  ヴェネツィアは、言うまでもなく世界にその比を見ぬ水の都を示す イタリア語の名辞であるが、古典ラテン語におけるウェネティア <o口Φ翫勢は、ウェネト人の居住地を意味していた。ウェネト人は、B 。C・一〇〇〇年頃、北イタリアに移住してきた民族で、B.C.五       ① 世紀よりB・C・一世紀迄に約四百の碑文を残した。それを研究した        ② 言語学者たちは、ウェネト語をイリュリア語系としていた。これはへ       ③ ロドトスの﹁イリュリアのウェネト人﹂なる記事にも一致して、従来 より有力であったが、最近は、ウェネト語をイタリア語の’系列とみ       ④ る説も出ている。  ウェ・不ト人の主邑はエステ︵ローマ時代のアテステ︶で、ここはま た女神レティアー出産の神と考えられている1信仰の中心地でもあっ

    ヴェネツィアの起源ω

た。考古学者はエステ文化を四段階に分かち、B・C・二〇〇年頃に 終ったとしている。  ウェネト人は、概して争いを好まない民族であり、商業に専念し        ⑤ た。なかでも、バルト海沿岸より陸路で運ばれる號珀は、ウェネティ アより積み出されて地中海に出た。またウェネティア産の馬は優秀 で、古代ギリシア世界でも著名であった。  ウェネト入は、ローマに対しても事を構えず、B・C・二五五年の ガリア戦争ではローマー6協力し、B・C・四九年にはローマ市民権を        ⑥ 獲得した。またB・C・一八一年には、ローマの植民地アクィレイア        ⑦ が創設された。アクィレイアはポストゥミア街道の要衝として、後に 大きく発展する。  ローマ帝国初代の皇帝アウグストゥス︵B・C・三〇lA・D・一       ⑧ 四︶は、はじめてイタリアの行政区を確定した。それまでは北イタリ ア全体を含むガリア9キサルピーナは、予州とみなされていた。この ことはユリウス・カエサルがイタリアとガリアの境界ルビコン川を渡 七三 154

(2)

・・

刀E製吻

ヴェネッィアの起源ω

マラーノ

ρへゆ

     グラード  e オデルツオ x ひ

霊地

ク S・・ コンコルディア    e e チッタノーヴァ  イエゾロ e 吃こン

 忽呂

     占。

 珍 カオルレ トレヴィーゾ  〃凸 ノρ。。 仁 豚 σ ア● もノ         くミ         うくミくキノらハ  ピァーヴェ川は、つけかええて、⋮ 現在、チッタノーヴァを経て、イェ ︷ ゾロの東でアドリア海に流入してい   る。また、わが大和川の如く、旧流 も規模は小さくなったが、残されて

 いる。    ‘.⋮く,       でピー︵r一⋮

縛八

・、瀞タ“

俳抽 ツイ7)

周キオ。ジア   アドリア海 カヴァルゼーン アディジエ川 ●アドリア 七四 って、はじめて反乱軍となった有名な挿話でも明らかである。現在、       ⑨ カエサルの渡河を記念する小さな碑石が、リミニの広場にある。リミ ニの西、約=二〇キロメートルにフィレンツェがあることから考える と、共和政時代の北イタリアの概念がつかめよう。  アウグストゥスはイタリアを十一の行政区に分かったが、ウェネテ ィアは東のイストリア半島︵現在トリエステを除いて、ユーゴ。スラ ヴィア領︶を含めて、その第十番目のウェネティア・ヒストリア区と なった。この地域は、北はアルプス東山脈が境となってラェティアと ノリクムに接し、西はアッダ川が境となって第十一区であるトランス パダーナ区と接し、南はポー川が境となって第八区であるアエミリア 区と接し、東はイストリア半島のアルシア川の線を北に延長してパン ノニアと接した。ウェネティア・ヒストリア区を構成する民族は多様 で、まずウェネト人がポー川とりヴェンツァ川との間の地域にいた。 主な町としては、パタウィウム︵現パドヴァ︶、ウィケティア ︵現ヴ ィチェンツァ︶、アテステ︵現エステ︶、 ハトリア︵現アドリア︶、ア ルティヌム︵現アルティーノ︶、オピテルグム︵現オデルツォ︶、ベル ヌム︵現ベルーノ︶、フェトリア︵現フェルトレ︶があった。次に、 ガルダ湖の周辺に本拠があったガリア系のケノマニ人がいた。彼らの 主たる町は、ブリクシア︵現ブレシァ︶、ウェロナ︵現ヴェローナ︶、 トリデントゥム︵現トレント︶、クレモナであった。第三番目に、タ ッリアメント川とイソンツォ川の流域にいたケルト系のカルニ人で、 主な町としてコンコルディア、アクィレイア、テルゲステ︵現トリエ ステ︶があった。最後はイストリア半島のイストリア人で主な町にポ

(3)

ーラ︵現プーラ︶があった。この第十区の政庁所在地は、三世紀にア クィレイアに置かれた。  さて、ウェネティアの南、アドリア海に沿い、約一〇〇キロメート ルにわたってラグーナ︵潟︶がある。アドリア海とラグーナとを分つ ものは、狭い間断なきかのような海岸の紐帯、すなわちリドである。 ラグーナの中には、数多くの島や砂州があり、かっては漁民や水夫の 小屋が散在しているのみであった。ここは本土11陸のウェネティアに 対し、海のウェネティアとも称すべき区域であり、ヴェネツィア史の 主要舞台は、やがてこの場に移されることになる。しかし、しばらく は陸のウェネティアの動きを辿ってみよう。 2  A・D・五世紀より六世紀にかけて、異民族がウェネティアを通過 してイタリアに侵入する。既に四世紀末より五世紀にかけて、ウェネ ティア・ヒストリア区は衰退の徴候を見せ始めていた。アラリックに 率いられた西ゴート人の侵入︵第一回・四〇一年、第二回・四〇三 年、第三回・四〇八年︶は、ウェネティアにはさしたる被害を与えな かったが、四五二年のフン族の襲来は甚大な損害をもたらし、特にア クィレイアは、ほとんど再起不能の損害をこうむった。本土の住民は ラグーナの島や海岸に避難を余儀なぐされ、数々の伝説が生れた。その 最も有名なものは、ヴェネツィアの起源を、この時の避難民が島に定

    ヴェネツィアの起源ω

着したことをもって噛矢とするものであるが、この伝説は学問の上か         ⑩ らは否定されている。昔日の如く繁栄しなかったとはいえ、ウェネテ ィア・ヒストリア区は、フン帝国崩壊後、徐々に復興し始めた。五世 紀後半イタリアにあいついで定着した二つのゲルマン王国ーオドアケ ルの王国とテオドリックの東ゴート王国1は、ウェネティアをそれぞ れの王国の重要部分として、その体制内に編入した。  次にビュザンティオン帝国のイタリア再征服が始まる。三三〇年、 コンスタンティヌス帝︵三〇六一三三七︶が、ローマ帝国の首都を、 黒海とエーゲ海との境に位置するビュザンティオン︵現イスタンブー ル︶に移し、自からの名を与えてコンスタンティノポリスと改称して 以来、歴史の中心は西のイタリアより東のギリシアへ移行し始める。 我々が歴史を整理する便宜上、ビュザンティオン帝国とよんでいるも のは、ローマ帝国の後身である。ビュザンティオンの人たちは、自分 たちを﹁ローマ人﹂とよび、皇帝たちはローマ帝国正統の後継者であ ることを自負した。皇帝ユスティニアヌス︵五二七一五六五︶のイタ        ⑪ リア征服事業は、この文脈の上で考えて始めて理解されるであろう。 また、ヴェネツィア︵海のウェネティア︶は、ビュザンティオン体制 の中から独自の歩みを始めるので、その相互関係を綿密に跡づけねば 初期のヴェネッィア史の把握は困難となるであろう。  さて、ユスティニアヌスは莫大な費用と入員を投じ、将軍ベリサリ オス及びナルセスをして、まずアフリカのヴァンダル人、ついでイタ リアの東ゴート人、最後にスペインの西ゴート人を討たしめ、ほぼこ          ⑫ れらの地域を制圧した。        七五 152

(4)

ヴェネツィアの.起源ω  かってヴァンダル王国に属したコルシカ島とサルデーニャ島は、rそ のままアフリカの統治下に入った。アフリカは、後.期帝政においては     マギステルリミリトウム イタリアの全軍.長、官の下にいたが、独自の全軍長官を持つように

  ⑬プσウイン浄ア

なった。シチリア島は独立の属 州となり、イタリア本土より離れ た。イタリアを統治したのはバトリキウスの称号を持つナル.セスであ   ⑭       ドウクス つた。彼は国境に要塞地帯=慧8ωを設け、軍司令官に指揮をさせ       ⑮ た。リミテスは、イタリアではアルプス国境に沿って四つあった。・  不幸なことにイタリアは、ユスティニアヌス没後三年目の五六八年 周り、ウェネティア・ヒストリア区を経由して新たな侵入者を迎える こととなった。       ⑯  ゲルマン人の一派、ロンゴバルド人が記録に現われるのは、A・D ・一世紀初頭、エルベ川の下流でローマ軍に敗北した時が最初であっ た。A・D・=ハ五年頃、ロンゴバルド人はマルコマンニ人と組んで パンノニアに侵入したが、ローマ軍に撃退された。次にローマの国境 に出現したのは、四八七年、オドアケル王国崩壊後の下オーストリア を占領した時であった。その後馬ヘルール人の王国を滅亡させ、ユス ティニアヌス帝の承認の下、.パンノニア北部に居住した。ロンゴバル ド王アルボイン︵五六五頃−五七二︶は、アジア系のアヴァール人と 同盟してゲ.ピド人の王国を滅ぼし、更に二士となったパンノニアとノ リクムをアヴァール人に譲渡して、より豊かなイタリアにその矛先を 向けた。  五六八年春、ロンゴバルド人がアルプスを越えてウェネティア・ヒ ストリア区に乱入した時、イタリア軍長官ナルセスは、皇帝ユスティ 七六 ヌス挫骨に召喚されて不在であった。そのたあ、ナルセスが帝国を裏 切.否.ゴ啄ル犬を引き入れたという﹁ナル地ス伝説﹂.窪じる こととな.つた。ともあれ、ナルセスが設立したリミテスは、簡単に突 破された。まずフォルム.ユリイ︵現チヴィダ﹂㍗。フォルム尋ユ リイはユリウスのフォルムの意で一ここかちブリウリなる地方名が派 生した︶.を占領し、五六九年、.第十区の・主邑アクィレイアを陥落さ せ、破壊した。アクィレイアの総大司教パウリヌスは、宝物を持って 約十二キロ南のグラード島へ避難した。しかし、目パ下ヴァ、モンセリ チェ、マントヴァは防衛に成功したつ一方、ヴィチェツツァとヴェ旧 iナが占拠された。五六九年九月四日、rアルボインはミラノに入城し た。またロンゴバルド人は、.アルボインの没後、三十五のグループに 分かれて南進し、そめ中からやがてヰ部イタリアにスポット公国、南       ⑱ イタリアにベネヴェ.ント公国が出現することになる。  ウェネティアを通過したロンゴバルドの第一波の後、約三〇年後に 再びこの地に圧力が及び、六〇一年、モンセリチェ、六〇三年、マン トヴァとパドヴァ、六一五年、コンコルディア、六四〇年、オデルツ ォとアルティーノが陥落した。  ロンゴバルド人の攻勢は、ウェネティアに重大な影響を与えた。第 一は﹂ウ.エネティア・ヒストリア区の領土的統一が崩壊したことであ る。陸のウェネティアは、今やロン.ゴバルディア、すなわ.ちロンゴバ ルド人の地となった。 ︵以下、.海の.ウェネティア、すなわちラグーナ を中心とした区域をさす場合、ヴェネツィアと呼称する︶,第一、一は、本 土の住民がラグーナ内の島や海岸に移住を開始したこと.である。ここ

(5)

に真のヴェネツィア史が始まったといえる。 3  一方、ビュザンティオンの皇帝たちは何をしていたのであろうか。  ユスティニアヌスの没後、帝国は混迷期を経てヘラクレイオス帝 ︵六一〇1六四一︶による再建事業を迎える。その間の諸皇帝は、 ﹁ユスティニアヌスの後継者たち﹂という一つの主題と時期でもって 総称されている。皇帝たちは、何よりも東方問題一対ペルシア人、ア ヴァール人、スラヴ人iに忙殺されて、イタリアを省りみる余裕がな かった。ただマウリキオス帝︵五ハニー六〇二︶は積極的な関心を示 し、フランク人を買収してロンゴバルド人を討伐しようと試みたが成      ⑲ 与しなかった。更にマウリキオスは、イタリアの行政改革でもって危 機を乗り越えようとした。すなわち、ラヴェンナ軍事総督領国×母 99言ωの創設である。  ディオクレティアヌス帝︵二八四一三〇五︶の改革以来、文官と武       ⑳ 官を分離して、権力の集中を防ぐことが鉄則となっていた。ユスティ        ⑳ ニアヌス帝の征服事業の後も、この原則は守られた。しかるに今や、 一人の為政者に強大な権力が付託されることとなった。  一体、いつ軍事総督領制が採用されたのかは定かでない。史料には        @ じめて現われるのが五八四年であるから、恐らくこの頃、時の皇帝マ        ㊧ ウリキオスが制定したのであろうと考えられている。

ヴェネツィアの起源①

 ビュザンティオン帝国よりラヴェンナへ派遣される最高官は、以後 すべてエクサルクスの称号を与えられた。﹁彼は民政権と軍事権の双方 を掌握し、その政治活動はより自由となった。この制度は、帝国イタ リア領の危機に際してとられた臨時のもののようであったが、危機の 永続化にともなって軍事総督制も永続化した。  ところで、皇帝たちは軍事総督を助けるために大軍を派遣しようと はしなかったが、その理由として次の二つが考えられる。e、帝国の 東にペルシア人の、北にアヴァール人とスラヴ人の脅威があって、国 境の守備を解くことが出来なかった。口、軍事総督が余りに強力にな ることを皇帝たちは恐れたようである。特に軍事総督が独自の政策を 持ったり、独立の王国をつくることが懸念されたらしい。  この問題を解決するために、マウリキオスは五九七年に遺書を書い 欄 ⑳ た。それによると、長男テオドシウスはコンスタンティノポリスと帝 国の東の部分を治め、次男ティベリウスはローマにあって、イタリア        ⑳ とティレニア海の諸島を統治することになっていた。世界帝国の理念 は持続していたのであり、この計画が実現すれば、ラヴェンナ軍事総 督領は消滅したであろう。  しかし、六〇二年、ドナウ川守備隊の反乱を契機に、帝国全体が震 評し、百人隊長であったフォーカスがマウリキオスを廃して帝位の座 にのぼり、先帝の計画は水泡に帰した。フォーカスの恐怖政治の時代 ︵六〇二一六一〇︶にはもちろんであるが、それを収束したヘラクレ イオス帝の時代︵六一〇一六四一︶にもイタリア政策は存在しなかっ た。ヘラクレイオスも東方問題i最初はペルシア人、次にアラビア人 七七

(6)

ヴェネツィアの起源ω

       ⑳ 1に専心して、他を省りみる余力がなかったからである。ヘラクレイ オスを継いだコンスタンス二世︵六四一一六六八︶こそイタリア問題       ⑳ と正面から取組んだ皇帝であった。彼はスラヴ人とアラビア人の問題 を解決した後、六六三年、タラントに上陸して、イタリア再征服を試 みる。だがベネヴェント公国攻撃に失敗して、六六三年七月五日、ロ ーマに入った。これは正統皇帝による最後のローマ訪問であった。彼 の最初の意図は、 ローマに遷都しようという所にあったようである が、現状では不可能とみて十二日後にシチリアに向って出発した。コ ンスタンスニ世はシラクーサを皇帝の所在地に選んだが、六六八年九 月十五日、従者の一人によって暗殺された。おそらく遷都を嫌ったコ ンスタンティノポリスの貴族の指令によるものであろう。  コンスタンスニ世のイタリア遠征の失敗は、イタリアにおけるビュ ザンティオン帝国の権威の失墜を意味し、ひいてはビュザンティオン 領イタリアを支配するラヴェンナ総督領の没落を予告するものであっ た。  ここで七世紀初頭にラヴェンナ軍事総督が治めていたビュザンティ オン領イタリアを総括する。各地方では、ドゥクスまたはマギステル      ㊧       ㊧ ・ミリトゥム治下のドゥカートゥスが籏生していた。  8 ヴェネツィア・イストリア。後述するように、七世紀はじめに   は、まだドゥクスの支配を受けていないので、厳密な意味でドゥ   カートゥスとはいえない。  ⇔ 狭義のラヴェンナ・エクサルクトゥス。軍事総督の直轄地で、        七八   西の境はボローニャとモデナとの間、北はポー川に沿う線であ   る。八世紀にはフェラーラ・ドゥカートゥスが分離する。  日 ペンタポリス・ドゥカートゥス。ペンタポリスとはアドリア海   沿岸の五つの都市で、リミニ、セニガリア、ペサロ、ファーノ、   アンコーナをいう。ドゥクスはリミニにいた。  ㈲ ペルージア・ドゥカートゥス。ここには数多くの砦があり、ア   ベニン山脈の重要な峠とフラミニア街道がその区域に入ってい   た。この街道は、北イタリアのビュザンティオン領、特にラヴェ   ンナとローマとを結ぶ唯一の連絡路であった。  国 トウスキア。テヴェレ川上流の北側。  因 ローマ・ドゥヵiトゥス。ローマとその近郊。リリス渓谷に至   るカンパニアの砦の一部を含む。  ㈹ ナポリ・ドゥカートゥス。クーマよりアマルフィに至る沿岸諸   都市。  囚 カラブリア・ドゥカートウス。ブリアの残存地域︵カノーサ、   バリ︶とカラブリア︵イタリア半島南部の東の先端︶、ルカニア、   ブルッティア︵半島南部の西の先端︶。  この機会に、ドゥクス量の意義の変遷を述べ、ヴェネツィアのド       ⑳      ドウーカ ージェ伽ooqoに及びたい。ドゥクスは元来、ギリシア語動亀實の対格 ドウクス 9吊に語源をもつラテン語である。もともと案内者の意であったが、 転じて隊長、傭兵隊長を意味した。ローマ帝政時代に、ドゥクスとい う称号は、輝かしい業績をあげた統治者または将軍に贈られた。それ は名誉的なものであり、実際の官職ではなかった。ディオクレティア

(7)

ヌス帝の行政改革により、ドゥクスは、一又は二つの濠州の軍指令官 をいうようになった。中世に入って、軍事と民政の分離が曖昧となる に至って、ドゥクスは一領域︵ドゥカートゥス︶の長となり、軍事権 の他に行政、裁判、財政権を手中にした。ドゥクスはビュザンティオ ン領イタリアのみならず、ロンゴバルド人の征服地の長をいう場合に も用いられる︵スポレト公、ベネヴェント公はこの例である︶。ヴェネ ツィアの統領を意味するイタリア語ドージェは、ヴェネツィア語の ドルゼ αo図Φより来たもの。 ド二三はラテン語ドゥクスより派生した。︵ま た、ヴェネッィアのものを模したドージェ職が、一三三九年よりジェ ノヴァ共和国においても出現する。︶  ヴェネツィアにドゥクスが登場し、定着するまで幾多の曲節があっ た。またそれがいつであったか、その様態がどうであったかは、慎重 な考証を要する問題となっている。  ヴェネツィアはロンゴバルド人の侵入後、一五〇年間、独立してい         ⑳、 たとの伝承があるが、この伝承を否定し、ラヴェンナ軍事総督領に直 属していたことを証する決定的な史料がある。それは、サンタ・マリ ア聖堂への奉献碑文で、年代は六三九年九月∼十月である。聖堂は、 一般に今なおトルテェル中島にあるビュザンティオン様式のそれであ るとされている。以下、この一般的な立場より史料を解釈するペルト          ⑳ ウーシの説を紹介する。この碑文で興味あるのは、奉献者め名で、 ﹁ヘラクレイオス帝の保護の下、 エクサルクス、イサアクの命によ り、マギステル、マウリキオスの尽力を通じて﹂とある。碑文が語る ものは、ヴェネツィアの独立ではなく、ラヴェンナへの従属であり、

ヴェネツィアの起源ω

マギステル:・・リトゥムが行う軍政である。更に、ペルトゥ!シは六 三九年頃、トルチェルロは繁栄していたらしいこと、そしてマギステ ル・ミリトゥムはトルチェルロに居住していたこと、すなわち、トル チェルロこそ、政庁所在地であったとする。  さて、ヴェネッィア史の磧学チェッシは、かっては奉献碑文がトル チェルロの聖堂のものであるという説を承認していたが、奉献者に司        ⑳ 教の名がないことから出発して別の説を立てた。彼は、本土における 最後の拠点オデルツォ陥落の年を六三九年とし、そこの住民が無名の 島に移住したが、のちに町となり、キウィタス・ノウァ︵﹁新しい町﹂ の意、イタリア語でチッタノ!ヴァ︶と名づけられたという。その移 住を記念して建立されたのが、サンタ・マリア聖堂であり、マギステ ル:・・リトゥムがイニシァティヴをとっているのが碑文よりはっきり 侶 分るという。トルチェルロに政庁が存在したことはなかったし、トル チェルロの聖堂は、ムラーノ島やグラード島と同様、聖職者がイニシ ァティヴをとって建立したものにちがいないからという。  実際、オデルッォ陥落後、政庁所在地はただちにチッタノーヴァに 移されたので、チェッシの立論にも聞くべきものがある。︵ペルトゥー シも、マギステル・ミリトゥムはトルチェルロに数年いたのちチッタ       ⑳ ノーヴァに移ったとしている。︶  現在チッタノーヴァは、海より約十キロ内陸へ入った位置にある。 アルプスより流れ出た川は、アドリア海へ流入する過程において東へ 向う傾向がある。川が運んでくる沈泥は、徐々に推積し、結果として ロンゴバルディア平野は東へ拡張されている。ラヴェンナ、アドリ 七九

(8)

ヴェネツィアの起源ω

八○ ア、アクィレイアの諸都市は、かって港を持っていたが、現在は何キ ロメートルも内陸に入っている。陸の形成は、千年間に七三マイルと         ⑳ 見積もられている。チッタノーヴァはそのような町の一つである。  チッタノ!ヴァは九世紀以降につけられた名で、それまではヘラク       ⑳ レイオス帝に敬意を表してヘラクレーアと称していた。  ともあれ、チッタノーヴァに政治の中心が移るに及んで、ヴェネツ ィア史は新しい段階を向えることとなった。       ︵未完︶       ︵大学音楽学部助教授︶ ︵注︶ ① ラテン文字とウェネト文字との碑文が残されているが、ウェネト文字は非   常に特殊で、エリスで使用された西ギリシア文字との比較も試みられた   ︵℃9。巳押ρ︾.b蹄忘謹、ミ建嵩幽き鳶の魯ミ貿§幕§ミミ”冨︷二陣σqρo。Oじ”   詑㊤︶。しかし現在はB・C・六世紀末にポー川渓谷に定着したエトルスク   人の文字に影響を受けたという説が一般的になっている。 Oh.切①90二   言.ω‘、.<o口①け︻oに50qロooqo..魍寒夏帯魯ミミ幽しロミミ腎自”︵以下乱しqと略   称︶bob。︵μo忠yo㎝b。・ ② イリュリアはバルカン半島の北西部をさし、先史時代よりイリュリア人が  .住んでいた。インド・ヨーロッパ語の一系列としてのイリュリア語につい   ては、切ooδ戸寓.ω二.、旨胃貯5巨oq§oqo.、肉bU噸目︵昌OO唖︶口8刈lHO㊤◎。を参   照。ウェネト語をイリュリァ語系としたのは注①のパウリの研究が最初で   あり、以後、約六十年間、イリュリア語として分類されてきた。例えば、.   Qo巴日oP国.目.㌦.︿o口。謡.・噛OさミOミ鴇融ミbミごミ霜ミ︵以下OObと略   称︶噌O臥oa︵同O巽YO陰も、ウェネト語をイリュリア語系としている。 ③ヘロドトス、第一巻、一九六。Oh・9色Oざ︾・U‘ミこ魯ミ吻・トピOOぴ   O冨ω臥8μζぴ頴﹃ざぎロ&昌・︵HOO①︶﹄軽①●ヘロドトス﹁歴史﹂上巻︵松平   千秋訳︶.東京、一九七三年、一四六頁。 ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ 他に、ラテン語系、系統不明説もある。Oh●田90お ζ.ω‘ .、♂δ昌O江O H程oq轟oqo..曽爵B︵μ02︶りO認’ バルト海沿岸、特にデンマークより現珀が輸出され、地中海より青銅が見 返り物資として来たという。琉珀の道は、三つのルートが考えられるが、 東のルートは鉄器時代に開拓されたもので、ダンツィヒより出発して︵そ の結果デンマークの独占は終った︶ウェネティアに達し、特にイタリアの アドリア海沿岸側に琉珀を豊富にもたらした。 O抄幻き魯ロ。言8冒。戸 ..卜目冨H..噛OOb輸劇Pなお次回⑥も参照。 B・C・一八六年、アルプスの.北より来たガリア人がこの地を占拠した が、ローマは彼らを追い、ラテン人の植民地をつくった。同じような侵入 を防ぐため、また近隣の金鉱を利用するためであった。アクィレイアは、 ジュリアン・アルプスを越える道を掌握していたので、軍事的に重要であ ったが、気転と産業分中心地にもなった。アクィレイアの號珀貿易は殊に 重要であった︵ストラボン、第四巻、二〇七以下。第五巻、一二四︶。ロー マ帝政時代には﹁第二のローマ﹂と呼ばれたこともあった。古代世界の大 47 都市の一つであったが、四五二年のアッティラの侵略を境として衰退に向 つた。O戸ω巴ヨoP国.↓・讐..bρ幕冨、.鴨OGb為伊 ウェネティア・ヒ.ストリア区の西端の都市クレモナが中心となる道で、こ こからデルトーナを経由してジェノヴァへ行く道と、マントヴァ、ヴェロ ーナ、ヴィチェンツァ、オデルツォを経由してアクィレイアへ通じる道に 分かれる。アクィレアより更にジュリアン・アルプスを越えてパツノニア に入る。要するにアクィレイアにはウェネティアの幹線であったポストゥ ミア街道の他に諸道が集中していたので、交通の要衝となつ.たのである。 ︾ωげび罫三二、.Hけ巴団IOOロ。OO属畠9自寓OロOh騨巴団..噂吋鈎肉貯竃ミ漕ミミO§H㎝ ︵δ旨︶bOl卜oS B・C・四九年、カエサルが渡ったルビコン川の位置については、ボッカ チオの時代より今日まで論争の的となっている。現在のルビコン川は、リ ミニの西北約十ニキロメートルの地点でアドリア海に流れこんでいる。と       フォルム もあれ、カエサルはルビコン川を渡ってリミニペ入り、ローマ時代の広場

(9)

⑩ ⑪ ⑫     ピアツツア デイ トレ マルテイロリ ︵現在﹁三人組殉教者の広場﹂と呼ばれている︶で、第十三軍団の兵士に 演説したという。O戸睾ミ騎帖鵠。ミ亀偽ミ3蜜鵠彗O︵μO昭︶翫誤−零O・ Ooooω㌍四曽さ謹N智b§ミ馬噛トbミ§鳴ミミ。噛ぎロoN冨ρ8G。︶μ◎o● ︵以下O題恥h、と略称︶ ﹁アッティラの時代においても、またその後も 長期間にわたって、市民生活と政治生活は、ますます弱く混乱したリズム ではあったが、脈打つことをやめなかった﹂ ユスティニアヌス一世に関する文献は非常に多いが、簡明なものとして は、次の二点がある。 Oの霞ooqoお屏メO二亀蹄、o遷ミごぎ導怨ミ暁ミ要ミ♪窪.び網匂.出露ω器ざ ◎臥。註︵ OΦq。︶”81﹃q。.︵以下Oqo目開OOO開ω二重と略称する︶ 国口ω巴ざ一﹂︿︻二..冒ω鐵巳90日H、.’肉b口噂Hω︵μO曾︶レ81δ㎝・ 同じエンサイクロペディア・ブリタニカでも、じd日層’H切‘、.冒ω翫巳p昌同、.℃ 鴇噂甦ミ§ミ豊ミ§樋窃︵HOに︶もOO一①8.の方は大へん詳しい。更に 詳細なものは、同じ著者による 切庶団噛﹄.切‘霞ミ。曙ミ、ミトミミ肉。§窺ミ肉§帖鳶\ごミ、ミb§ミミ ↓譜。軋。鴇蕊Nぎ、書b鳴ミ︸ミ冒⇔、ミ§暢bのく9ρ♂5α8︵おNGo︶●︵以下 切d幻属と略称︶ の第二巻は、ほとんど全巻がユスティニアヌス一世の時代について述べら れている。最近の研究としては 力巳ぼ嚇閑二b蕊Nミミ舞ミ誉見巡ミ轟蕊’図 がある。 我が国ではユスティニアヌス時代の本格的な研究は、まだ出ていないが、 次の二点.が.概略をつかむのに役立つであろう。 渡辺金一﹁ユスティニァヌス﹂世界歴史事典 十九、東京、一九五三年、 五九六−六〇二。 弓削達﹁末期ローマ帝国の体制﹂岩波講座世界歴史、七、東京、一九六九 年、十九−五二。特に第四節﹃ユスティニアヌスの時代﹄。 ベリサリオスに関しては 開。器。顔↓●,︾二.、切。虚ω弩Mロω.一肉bロ’ω︵おOM︶鴇卜器一劇匂QO●

@@@

⑯ 渡辺金一﹁ベリサリオス﹂世界歴史事典、.十七、東京、一九五三年、一五 九。 ナルセスに関しては 属ロ。摩ω畠、﹄●︼≦・’.、冥胃器ω..噌馬鈎旨︵ り9︶も伊 渡辺金一﹁ナルセス﹂世界歴史事典、十四、東京、一九五三年、一五七。 をそれぞれ参照されたい。 ヴァンダル王国征服は、五三三年一五三四年、東ゴート王国征服は、五三 五年一五五五年︵この間に指揮官はベリサリオスよりナルセスに代った︶、 南スペイン征服は、史料の不足で問題はあるが、五五〇年頃のようであ るoOh●切q国嶋噂H押bのQQ刈・ 切d即一メ一押置9 切d幻メ昌噂鵠ドー8劇・ U凶。匡”O二 ..冒ω葛巳琶陰円ゴoH日霊ユ巴幻。ω8吋歌口。昌ぎ昏。≦⑦ωけ... G匙§守ミ譜鳴ミ碍ミミミ亀財こ壱︵以下9ミ嵐と略称︶bりO①Bげユ骨。︵HO曾︶・ b。「目凶三才。ωの単数形際日。ωは、元来道路を意味したが、やがて砦のある 禰        リメス 軍用道路の意となり、転じて国境、更に国境防衛線の意味となった。国境 を整備したのはアウグストゥス帝に始るが、それを永続的な防衛線にした のはドミティアヌス帝︵八一i九六︶であった。 Oゆ.客。昌蒔崖m5ρ︾・り ==ヨOω.、嚇OOb噛αOq一㎝8・ Uδ貫ρ噂魯・9、・.b。Hでは、アフリカのリミテスの名︵トリポリタナ、ビ ュザセナ、ヌミデイア、マウレタニア︶はあげられているが、イタリアの 方はあげられていない。なお、アフリカのリミテスに関しては、 Uδ三噛 Oこト、鳶鳶§曾N亀ミ§魯ミ鋒§、&§ミきミご蕊書N亀ミミ恥ミ軸﹂藤心§ ︵oωω1圃8︶噛℃”ユ。。︵H。。㊤O︶よりの要約が切d男嶋.昌犀q。1嶺Oにある。 ロンゴバルド人に関しては 勺O葺ρ噂一一厳OaOΦくO冨ひ胃一8ユ.一け聾ρぎ噂ぼO︵お8︶りδ①一駆。㎝◎9・ ︵以下勺国℃国と略称︶ 出胃け日霞噂日﹂≦こ.、一富ξロロ自臼甘冨ぎ目ず鴛住ω..曽.Oミ舞応。︵同OO崎︶℃ 謹l hう b純

h

ヴェネツィアの起源ω

八一

(10)

ヴェネツィアの起源qP

八二 ⑰ ⑱ ⑲ ⑳ ⑳

@@

がある。 出釜日雪5.ド﹂≦ごミV・亀卦昌OO. ナルセスの召換については、ローマ市の人たちが、ビュザンティオン人の 下にいるよりゴート人の奴隷になる方がましであると、皇帝・皇后に訴え た為らしいという︵℃国玉国輝HOqQ︶。 ナルセス伝説は、史料解釈の上でも、年代学的にも未解決の問題である。 その代表的な文献は、O舅押野b。メPOを参照。 置理け目霞日噂H.嵐二曾’亀、こ同O刈一おQo● アルボインは五七二年に殺害、彼を継いだクレフも五七四年に殺害され た。その後、五八四年にクレフの子、アウタリが北伊のロンゴバルド王に なるまで空位であった。この間に、ファロアルドに率いられる︸隊がスポ セトに、ゾットに率いられる一隊がベネヴェントに定着し、空位期を利し て独立した。 国舞け雪丸日、ド.蜜‘§・亀、・噂HOO−NOρ マウリキオスは、アウストラシア のヰルデベルト王に五鈷ソリドゥスを送ったという。 しロ 国M葉群謡hh・に、ディオクレティアヌス帝が制定した行政、軍隊、財 政機構がよくまとめられている。 しかし、ユスティニアヌス帝はディオクレティアヌス帝が峻別した民政権 と軍事権を、多くの場合結びつけた。Oh噛切口多彩員ωωO.例えば、ナル セスはイタリア軍指揮官であると同時に総督の役割を果した。だが彼の側     プラエフエクトゥス らには、知 事のアンティオコスがいた。興味あるのは、アンティオコ        プラエフエクトウス ブラエトリォ スの称号が、文官の最高である近 衛 知 事ではなかったことである。 一玄ρ困押NQobの。 Oω↓幻OOOωω閑メ◎oρ戸N Oωけ30qo話吋どO‘、已.o建。げ9。けαo尊く。昌昌。虫下.o﹃ぼ置。山。ω暮①目。ω げ矯器曇ぼω..層ミ、Ooδoミ§馬ミミ簑畿.ミ貯、ミ§遷ミ鳴“ミミミ§3H噛 幻”§5聾︵同08yδμ. 軍事総督領に関する基本的文献は次の二点である。 U凶。耳ρ燭轟ミ塁始ミ、.ミ§§ミ§、∼§ミミミ篤ミ§蕩、、巽ミ忘ミ魯 ⑳

@@

⑳ 謁ミ§§︵切Oco一胡昌︶噂勺胃一ω︵H◎◎q◎qo︶● =母酔邑銭巨・ピ﹂≦.’§壽誘ミきミミきNミ、O$昏ひ融ミ帖概ミ守屋貸ミ帆ミ逡ぎ鳶 ぎ§ミ§轟§旨ミ帖§︵朝恥♀1拐Oy冨一婦蒔︵ ooqoO︶・ 日Oo善言ω巨08言。μ電ミ‘︿目押収噂﹃・ この遺書は、マウリキオス帝 の没後、ヘラクレイオス帝の統治時代の初期に発見されたらしい。 Oh.Q◎巳δ転層勺二鍵ミ嵩ミ轟ミ喬ミ、.垂下ミリト鍾N喬§恥ミ、、O象ミ§、亀蕊 馬霧硫§竃。・。・僑袋凌§智無§軌§唱勺霞6︵μ09︶い O一二・ Oω6幻◎○◎園ω国メQoOlQoμ・ 杉村貞臣氏は、我が国では数少いビュザンティオン学者として、特にヘラ クレイオス帝を中心に一連の研究を発表されている。次の三論考は、ヘラ クレイオスに関連して多くのことを我々に教えてくれよう。 ﹁フォーカス 時代とへーラクレイオスの即位﹂関西学院史学、七、一九六四年、一五三 −一六七。 ﹁ヘラクレイオス王朝におけるビュザンティオン世界の成立﹂ 史学雑誌、七九の十二、一九七〇年、一一三七。 ﹁ヘラクレイオス帝のペ ルシア遠征﹂オリエント、八の三∼四、一九七一年、八七i一二〇。また 矯 杉村氏は、未発表の﹁ユスティニアヌスの後継者時代考﹂なる論文を筆者 に見せて下さった。その御厚情に対して謝意を表する次第である。 ℃o邑ε玖︾二.、ピ.一目﹃8切尽懸けぼoo一.9δτo鴇。留四ω8=暮oBωωぢ巴、巴ε ﹀税す二8..胃卜鳴ミ喧ミミ§謹無点国乱。自。︵μOO劇︶︾♂●︵以下℃国即↓口ω︻ と略称︶ペルトゥーシの指摘は、ビュザンティオン皇帝のイタリア政策と いう点を強調し、示唆を含むものがある。なお、コンスタンス阿世のイタ リア遠征に関しては、杉村貞臣﹁コンスタンスニ世のローマ訪問とシチリ ア移住﹂関学西洋史論集、二、一九七二年、一一十二、がある。氏は、ビ ュザンティオンの諸皇帝が﹁ローマ人の皇帝﹂とよばれていたことから、 それは﹁単なる過去への回想だけでなく、ローマを含むイタリアあるいは 帝国領域西半髪を自己の支配下に編入しようとする一種の使命観をいだい ていたのではないであろうか。それが歴代諸皇帝の対西方政策に現われ、 コンスタンスニ世もその一人であった﹂︵七頁︶と、 ﹁ローマ人の皇帝﹄と いう名称がもたらす心理的な影響にも言及されている。

(11)

⑱ ⑳ ⑳ ⑳

@@@@@

ユスティニアヌス時代までは、マギステル・ミリトゥム日曽帆9雪ヨ臣ε目 は文字通り全軍長官の意であったが、後出のサンタ・マリア聖堂の碑文に 見られるように、この頃はラヴェンナ軍事総督の下にいた軍政担当者の意 味になっていた。従って以下、マギステル・ミリトゥムと原語のままで出 しておく。 霞胃言り碧5噂卜]≦ご.、同ヨ罵ユ巴犀巴周m5自︾hユ$”﹀伍Bげ凶ω言拶菖。昌..16ミζ N︵けOO刈︶品Nqo・ O鰍甑§ミ皆両§蹄、魯鳥ミらO㌶ミ貯嵩。.劇・国O目”︵H雪O︶の、、O¢o暁.やbgOμ .、島β8..Ph98噂.、90◎o..掌 劇朝の項目より要約した。 OOω臨層困ご.、︿⑭巳ΩOけOけげO国﹂δOh昏0聞O巨けゲO嬉βの”畠O.讐層Gミ亀胃企        デイアロコノ 勺舞の共μOOO︶・h。切。。●出典は﹁助 祭ジョヴァン一この年代記である。助祭 ジョヴァンニは、統領ピエトロ・オルセオーロニ世︵九九一一一〇〇九︶ の司祭で、 ﹁一〇〇八年までのヴェネツィア年代記﹂O冨。巳8ロ︿o口。営巨 ロωΩ8薗α鱒日目昌μOOo。を書いた。ジョヴァンニの生没年代は不明。Oh. 、.虫9産巨U留8巳...Oミ§ミご筒ミミ暑ミ§旨職§謹−只おざ︶茎8・ 勺国幻目dω押OΦ一Oメ O悶乙うの目脚図噂①甲−剛μ. 勺国”目口oo同.Oメ .、︿g一8..噂肉釦ミミ§き建ミ§﹄﹃︵お旨yO8● 、.O凶け富50爵、.、b蹄ざ嵩亀識。寒亀ミ魯恥ミら。訪ミミ嵩。噛90︵HO刈O︶讐bo8. ヘラクレーアはラテン語、イタリア語ではエラクレーア国壁9帥という。 144

ヴェネツィアの起源ω

八三

参照

関連したドキュメント

そのほか,2つのそれをもつ州が1つあった。そして,6都市がそれぞれ造

現在のところ,大体 10~40

A., Miller, J., 1981 : Dynamically consistent nonlinear dynamos driven by convection in a rotating spherical shell.. the structure of the convection and the magnetic field without

はありますが、これまでの 40 人から 35

を行っている市民の割合は全体の 11.9%と低いものの、 「以前やっていた(9.5%) 」 「機会があれば

熱源機器、空調機器の運転スケジュールから、熱源機器の起動・停止時刻

   縮尺は100分の1から3,000分の1とする。この場合において、ダム事業等であって起業地

これまで、実態が把握できていなかった都内市街地における BVOC の放出実態を成分別 に推計し、 人為起源 VOC に対する BVOC