たましいとは何か・人間はモノなのか
著者 黒崎 政男
出版者 法政哲学会
雑誌名 法政哲学
巻 7
ページ 27‑42
発行年 2011‑06
URL http://doi.org/10.15002/00007941
法政哲学会の記念すべき第三○回の記念大会の特別講演に、講演者としてお招きいただき、たいへん光栄に存じます。私は、大学生の時から約十年間、ひたすらカント哲学に没頭し「純粋理性批判』研究にほとんどすべてのエネルギーを費やしました。当時は、フランス現代思想や新たな英米哲学など、さまざまなはやりがあったのですが、カント以外は哲学にあらず、とばかりの勢いで、他のことには見向きもせずに研究してきました。そうこうしているうちに、友人達は、大企業に就職したり、官僚になったり、さまざまな活躍をするようになっていました。私の営みは、いったい何なのだ。こんな疑問が、
たましいとは何か。人間はモノなのか
はじめに就職もせずに学生をしている三○歳近い私にのしかかってくるようになりました。確かにカントは面白い。しかし、カテゴリーは十二個だとか、時間空間は人間の直観形式だ、なんていうことを友人の銀行員に語ることは、何か意味があるのだろうか。では、私が没頭しており、芯から豊かだと思っている哲学研究を社会に伝えるにはどうしたらよいのだろうか。それからまた十年(そして今日にいたるまで)、哲学は現代にとってなにか意味があるのだろうか、という視点から考え続けることになりました。人工知能の哲学、決定論的カオスの哲学、デジタルの哲学、とさまざまな分野を哲学的に考察する、という形で、現代における哲学の役割を実践してきたように思います。本日は、脳科学やDNA研究によって変容する今日の人間観を「たましいとは何か。人間はモノなのか」という視点からお話しようと思います。導入として、この視点は、
里LJb、、
崎政男
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「哲学」という言葉がロー・のg言の訳語として造語され たのは、明治の始め、西周によることはよく知られている。 では、それまで日本には、フィロソフィーという言葉はま
ったく知られていなかったのだろうか。いや、そんなことはないのである。イエズス会宣教師たちによって、 で三・mg三mは日本に紹介されている。天草の日本イエズス 会によって編纂された『羅葡日辞典』(文禄四年二五九五 年)には、ロ三・m・ロ亘伊o巨胃巨目・昌目:巨巳(学文の好き)、 ご目目・曰・言。g巨富目巨皀、胃圓・ロ(万物の理を明らむる学 文)と紹介されている。①巨眉巨曰目(学文)の旨巳(好き) と言えば、知(m・已冒)を愛する(己三・‐)からなるロ三・m・已旨
の見事な邦訳となっている。実はアリストテレスから日本のキリシタンをへて現代の脳 科学まで繋がっている問題なのだ、ということから始めま
しょう。1ギリシャ哲学の最古の日本語訳の発見
Iわが国初の西洋哲学の翻訳 I天下無双のヒロウソホーキリシタン版『〒・アニマ』邦訳の発見I この例一点からでも、キリシタン時代には、西洋的哲学 と日本との交流、もうす一」し控えめにいって、西洋的発想 の日本への導入があった、と考えることができる。だが現 在では、それらの様子を十全に知ることはかなり難しい。 なにしろ、江戸時代を通じて行われた、過激ともいえるキ リシタン弾圧によって、これに関係するあらゆる資料は、 ほぼすべて完全に無きものとされたからである。もし、そ れらが発見されるとすれば、当時、ヨーロッパ本国に持ち 帰られたものなどが奇跡的に発掘される、という形を取る
ことになるだろう。そして、まさに、そのような或る奇跡的な発掘が二十世紀末に起こった。アリストテレスの『デ・アニマ』の毛筆
による日本語翻訳の手稿本がイギリスのオックスフォード大学の図書館の片隅から一九九五年に偶然に発見されたの である。それは「アーーマノ上一一付テアリストウチリスト 云天下無双ノヒロウソホノ論セシ一決ノ条竺と題された、
アリストテレスの「デ・アニマ』の注解書だった。アリストテレスのこの書物こそ、古代ギリシャから中世・近代の 哲学を経て、今日の脳科学や人工知能研究までを貫く問題 群をはじめて呈示し、西洋思想のまさにバックボーンを形 づくっているものである。つまり、西洋中世近世を通じて 大きな影響を与え続けた著作が、宣教師と日本のキリシタ ンとの共同で、日本語に訳されていたのである。日本初の
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そもそもアリストレスの□①足三日ロ(勺の1℃望○百m)は、〈魂・心〉について史上始めて本格的・組織的に論じた書物である。三巻からなっており、第一巻は先人たちの〈魂・心〉論の検討、第二巻はアリストテレス自身による展開、第三巻は、〈魂・心〉の能力である知性の分析、となっている。このテーマは、生命とか生物とはいったい何なのか。それはモノとはどう違うのかという、この人類にとっての最大関心事とも言える事柄に答えようとした書物である。そして、この書の主張を端的にいえば、「アニマは生命の原理だ」(第一部第一章)というものである。つまり、ある物質を〈生きもの〉にしているのは、プシュケー(アーニ)である、という主張である。このプシュケーには段階があり、植物的アニマ、感覚的アーーマ、知性的アニマがある。 西洋哲学翻訳が、キリシタン時代になされていたのは感激である。西洋との出会いが明治時代に先立って、実はかなり本格的なものだったことを改めて思わされる。しかし、いったい全く異文化の書物が、なぜ膨大な労力をはらって翻訳されなければならなかったのだろうか。安土桃山時代における西洋哲学の翻訳。これはいったい何を意味しているのか。何を意図しているのか。
2アリストテレス『デ・アーーマ』とは 植物が生きているということ、動物が生きているということ、人間が生きているということ。これを可能ならしめているのがそれぞれのアーーマである、ということになる。さて、ここで問題が生じることになる。アニマ(心・魂・精神)は通常は、心は身体と共に存在しているのだが、アニマは物質的な質料から離れてもそれ自身で存続可能なのだろうか、どうだろうか、という問題である。私の考えるところ、この問題こそ、洋の東西を問わず、人間の最大関心事の一つである、と思う。この問題を見通しのよい形で整理して組織化したのが、アリストテレス『デ・アニマ』であると言ってよいだろう。だから、このアリストテレス『デ・アニマ』から発せられた問いは、時代を貫いて問い続けられることになる。特に第三巻で展開された能動知性の問題、つまり身体を離れても不滅でありうる可能性を持つアニマの存在は、中世キリスト教神学の根本的問題となり、また、この問題は中世神学を超えて、カントの構想力の問題にまで繋がってくるのである。だが、アリストテレスの著作群は、その伝搬の問題もあって、テキストとして完全でないものも多いが、この『デ・アニマ』のテキストの状態は「残存する他のいかなるテキストにも劣らず悪い。」だから、現在残されている『デ・アニマ』における「能動知性は光であり、不滅である」という最重要な記述箇所も、アリストテレス自身の
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さてキリシタン版『デ・アニマ』に話を戻そう。一六世紀半ば宣教師たちが日本にきて、キリスト教神学を教えようとしたとき、日本人ははじめてヨーロッパの学問に接す 真意の記述ではあるかどうか明確でなく、〈能動知性の不滅性〉をどう解釈するのかどうかが、まさにその後の大問題となっていたのである(1)。このアリストテレスの記述は、能動知性が万人に共通の唯一のものか、あるいは、各人にひとつずつあるのか、明言していない。さらに、身体に依存しない活動の存在を認めるからといって、それが個人の不滅を保証しているわけでもない。さらに、能動知性は受動知性なしには思惟することも出来ないという記述もあるのだから、能動知性の不滅の問題はとてもあやふやなものとなる。しかし、この暖昧さこそ、その後の議論の基礎となって、さまざまに議論が繰り広げられていくのである。そして、近世を代表するデカルトは、イエズス会というキリスト教的神学校での批判的成長によっておい育ってくる。心と身体をくっきりと二分する近世的一一元論の祖であるデカルトも、アリストテレスのアニマ的世界観から発生してきているのである。
3「アニマノ上一一付テアリストウチリスト云天下無双ノヒロウソホノ論セシ一決ノ条々」 ることになる。’五九三年ごろペドロ・ゴメスは、九州にあったイエズス会コレジョで学ぶ日本人のために、『天球論』『霊魂論(デ・アーーマ)』『真実の教』の三部からなる『講義要綱(コンペンディウム)』をラテン語で編纂する。これは天草のコレジオで実際に、ポルトガル人や日本人の神学生など三○人を越す人々に講義され使用された。天正少年使節の一人である伊藤マンショもローマ宛の書簡で「天草のコレジオで管区長(ペドロ・ゴメス)の『講義要綱』を学んでいる。ラテン語でも日本語でも充分に説明できるパアデレが私たちの授業を担当してくださっている」と記している。そして、ルイス・フロイスは一五九五年の年報で、この年の初めに日本語訳が完成したことを報告している。このラテン語原本のほうも長い間行方がわからなかったのだが、この文書がバティカン図書館で一九三七年に発見される。そして、’九九五年にオックスフォード大学の古文書室から、この『講義要綱』の日本語訳、つまり「モードリアン手稿本馬望と名付けられたマヌスクリプトが発見されたのである。(『イエズス会日本コレジョの講義要綱』(二oF皀冒目。]呂自の叩の二路・角宅の巳『。。・己のN-mO・ヨロの呂邑一九九七年)この手稿本のなかに「アニマノ上一一付テアリストウチリスト云天下無双ノヒロウソホノ論セシ|決ノ条々」と題されたものが含まれている(2)。この「アニマノ上一一付テ」は一一一巻から成っている。表題
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「デ・アニマ」。ギリシャ語ではプシケー(b望so・EC三)であり、ラテン語でアニマ(目言巳。さて、これをどう訳するか、というのは、のっけから大問題である。現代のデ・アニマの日本語翻訳名も、霊魂論、心理学、こころ、とさまざまである。そして、まさに、アニマ(それは、旦己.m・巳・
言四員呂二など英語訳でも同じ困難が生じるのだが)とは
なにか、という今日まで脈々と続く問題群が、十六世紀の日本にもたらされたのである。さて、表題を改めて見てみよう。アーーマについて。それは、アリストウチリスという天下無双の哲学者(ヒロウソホ)の論じた一つの決着、とある。キリシタン版『デ・アニマ』は全三巻であるが、そのもとはトマス・アクイナス は正式には次のようになっている。「アニマノ上一一付テアリストウチリスト云天下無双ノヒロウソホノ論セシ一決ノ条竺巻第一総別ノアニマノ道理、・アニマヘセタチイワヲ論スル巻第二阿爾摩センシチイワヲ論スル巻第三羅志与那留阿爾摩ヲ論スル(付録)アニマラショナルノ正体ハ不滅ナリト云事(日本版のみ) の『(アリストテレスの)アニマ註解』が下敷きになっている(3)。つまり、日本には、いわゆる中世カトリックの元祖たるトマスの改訂を経た『デ・アニ二が、キリシタンの中に入ってきたのである。その当時のヨーロッパで「哲学者」と言えば、アリストテレスのことを指すような時代であり、そのことをわざわざ示すために、日本語訳では、〈天下無双の〉という形容詞が付け加えられたのであろう。というのも、原典のラテン語版では、表題はたんに「アリストテレスのアニマについて一一一巻」となっているだけだからである。この表題の訳をみただけでも、日本語訳版には、なみなみならぬ勢いが感じられる。第一巻はアニマについての総論と、植物的アニマについて。第一一巻は、感覚的アーーマを論じる、とある。アニマがここでは「阿爾摩」と表記されている。第一一一巻では、理性的アニマを論じる、とある。三一・昌一は「羅志与那留」である。これは翻訳というよりは、音を漢字で表現したもの、である。確かに、室町時代、桃山時代の日本人が、合理的理性とか、アニマとかを、意味的に理解することはとても困難だったに違いない。ところで、このようにラテン語オリジナルと日本語訳版を比較してくると、きわめて興味深い事にであう。それはラテン語オリジナル版には存在しない日本語翻訳、というか、オリジナルが存在していないので、翻訳ではなく、日本語
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このキリシタン時代において、ひときわ興味深いのがキリシタン宣教師と日本の儒教・仏教徒たちとの論争である。例えば、フランシスコ・ザビエルが日本について詳細に書 版のみの書き加えが存在している、という点である。それは、「アニマラショナルの正体は不滅ナリト云事」ではじまり、「アニマヲ不滅ノ正体也卜論スル事ハ、人間ノ為二大ナル位也。大徳也」という節で終わる要約である。その中には例えば、人間とは天使と禽獣との中間者であり、身体については、禽獣と同様であり滅び、アニマについては天使と同様で不滅なのとある。なぜ、オリジナル版には無いこのような書き加えが必要だったのだろうか。おそらくこの書き加えの内容こそ、この「アニマノ上一一付テ」という日本語版を作り上げる最も重要な目的であったのだと思われる.」」の意図はいったいどんなものだったのだろうか。このことを考察するためには、まず持って、もう少し大きな文脈、つまり十六世紀にキリスト教宣教師たちによってもたらされた西洋的思想と、それを受け止めたく和〉の反応はそもそもどのようなものであったか、を理解しておく必要があるだろう。
4阿弥陀と釈迦は悪魔の発明Ⅱ対Ⅱデウスはたわけ仏 いた書簡(一m縄・一・墨コチンにて、欧州の会友宛)をぱらぱらとめくってみるだけでも、実に興味深い記述が満載である(4)。たとえば、日本の仏教についてはこう書いている。「阿弥陀(目]&巳と釈迦(×胃巳とは、哲学者(言目の、1.8旨@m)であったかどうかを織るために、信者達に頼んで、二人の正確な伝記を調べてもらった。その本に依ると、二人とも人間ではない。何故かというと、一千年、二千年の寿命を保ち、釈迦は八千回も生まれたからであり、尚外にも多数の不可能なことが沢山書いてある。確かに人間ではない。純然たる悪魔の発明品である。一一つの悪魔(&房忌日・己。⑰)である此の釈迦と阿弥陀とを始め、その他の多数に悪魔に対して、勝利を得なければならないのであるから、此の手紙を読む人は、我等の主なる神の愛の故に、切に祈って下さることをお願いする。」(’’三頁)こんなに赤裸々で直裁な他宗教批判にはなかなかお目にかかれない。今日では、他者や他流の存在を認めるという相対主義、多元主義がすっかり我々のメンタリティーに染みついているため、ここまではっきりと他宗教を非難することはあり得なくなっているからである。しかし、わが国側のキリスト教批判も、これに負けず劣らず、かなり直戴なものである。一八四○年代に鈴木正三が表した『破吉利支丹』(はきりしたん)を、見てみよう(5)。「きりしたんの教えに、でうすと申す大仏、天地の主に
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して、万自由の一仏あり。……その名を、ぜず-きりしとと云う也。余国に是を知らずして、詮もなき、阿弥陀・釈迦を、尊び奉ること、愚痴に至りなりと云うより、聞き及ぶ。」(四五○頁)つまり、キリシタンの教えで、デウスという大仏、天地の主で、すべて自由の一つの仏があった。わが国ではそのことを織らなかったので、しようもない阿弥陀や釈迦を、尊び奉っていることは愚かの極みである、と言っているらしい。それに反論して次のように言おう、とある。「破していわく、でうす天地の主にして、国士万物を、作り出し給ふならば、何として、そのでうす、今まで無量の国々を、捨て置きて、出世し給わざるや。.…・・でうす天地の主ならば、我作り出したる国々を、脇仏にとられ、天地開關よりこのかた、法を弘めさせ、衆生を済度させ給る事、大きなる油断なり。正しく此でうすはたわけ仏なり。」(同)もし、デウスが天地の主であり、すべての国士を作り出したというのなら、何故、そのデウスは、いままで広大な国々を捨てておき、ここに現れてこなかったのか。……デウスが天地の主だというならば、自分が作り出した国々を脇仏にとられてしまい、天地開關よりずっと、彼らに法を弘めさせ、衆生を済度させてしまったのは、大きな油断ではないのか。まさしくこのデウスはたわけ仏である、と。 さらに文章は次のように続く。「その上せず1きりしと出世して、下界の凡夫に、はたものに、かけられたりと云也。是を天地の主とせんや。かようの筋なき事あらんや。:.|仏をかすめ奉り、此国に来り、魔法邪義を弘る科、天罰まずかるくからず。かほど拙き理を、弁えずして、これが教を敬い、命を捨る、蒙昧の人多し。此国の恥辱にあらずや。」(同)繰り返すが、現代人であれば、このような発言はなかなかロが樟られる。このように素朴な感想を赤裸々に表明することは今日的でないからである。つまり、こうある。イエス・キリストは、世に出て、下界の凡夫に、はたもの、つまり、十字架にかけられた、ということらしい。こんなものが天地の主などであろうか。こんなに筋の通らない話しはないではないか。デウスという一仏だけを奉って日本に来て、魔法や邪義を弘める科は、天罰を免れないだろう。こんなに拙い話を、ちゃんと判断できずその教えを敬って、命を捨てるような蒙昧な人が多い。これは日本の恥辱でなくてなんだろう。と、まあ、こう書いてあるのである。これらの素朴で直戴な意見表明と対立は、時が経ち、文化が熟してくると消えてしまう。それだけに、原始的で正直な宗教上の対立である。今日では良くも悪くも、このような根本的事柄に関しての宗教論争はしないことになってしまっている。異文化とのはじめてで直接的な出会い、な
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人間とは天使と禽獣との中間者である、という主張である。身体については、禽獣と同様であり滅びるものである。アニマについては、天使と同様で不滅なのである。そして、 このように、アニマ羅志与那留(理性的霊魂)の本質は、不滅であることを十三箇条にわたって書き出す、としている。ここでは第七と第十三を見てみよう。 らでは、の対決なのである。
第七是ヲ徹スルニ人へ安如ト禽獣トノ中間ノ作ノ者ナレハ、コロホノ所ハ禽獣卜等シク、終二減スル相也。アニマノ所ハ安如卜等クシテ、不滅ノ正体也。(一三七頁) アニマラショナルノ正体ハ不滅ナリト云事弦一一於テ、アニマラショナル不滅ノ霊体也卜云ヘル道理ヲ十三箇条一一拳テ論スヘシ あらためて日本語版のみにある書き加えを見てみよう。 5人間だけが特別の存在であるⅡ『アニマノ上二付テ』の目論見
人間の位置を禽獣と天使の中間として考えること。アニマは消滅すると論じる輩は、つまり、人間の徳というものを減し、人間を禽獣と同様の存在と考えることになってしまうだろう、と一一一一口うわけである。そして、「アニマヲ不滅ノ正体也卜論スル事へ人ノ為二大ナル位也ト、徳也卜、亦也卜云事」という記述で〈書き加え〉が終了する。この書き加えは、明らかに、理性的アニマの不滅性を強調している、ということがあきらかである。そして、そのアニマは人間だけに特別のものであり、禽獣・動物とは明らかに異なる、という主張も強くなされている。宣教師たちの主張は、「生きとし生けるもの、みな平等」ではない!というのである。当時、キリスト教を日本で広めるためには、人間だけは特別であり動物とは違う、動物に不滅の魂があっては困る、石や木に霊魂があっては困る。程度の低い霊魂はあってもいいが、人間だけは特別であると言わないかぎり布教はできないのである。つまり、オケラだって 最終の箇所となる第十三箇条では次のようにある。
第十三(最終章)人間ノ位ヲ禽獣ト安如ノ中間二備エタ玉者也。アニマヲ消滅ノ相也卜論スル輩ラハ、則人ノ徳ヲ減シ、禽獣卜等夕ナスニアラスヤ。(一一一一一一一一頁)
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アメンボだって生きているんだ、みな友達なんだ、ではダメなのである。人間だけが特別な存在なのだ、と教えることによってのみ、キリスト教の布教は成立するのであるか
ら。
今日のキリスト教が当時のままであるかどうかはわから
ない。それは別の問題として考えなければならないだろう。当時、少なくともイエズス会は上述のように考えていた、ということである。さきほどの書簡でもザビエルは「日本人はアーニの働きについて我々とはあまりにも異なった考えを持っている。特に、仏教九宗派のなかに、人間のアニマは動物のそれと同様に死すべきものであると説くものがある」と述べていた。人間と動物との存在の間に根本的差
異をみとめない日本でキリスト教をひろめるには、人間の魂の特異性、不滅性を教え込むことがどうしても必要だっ
たのである。さらに、キリスト教宣教師と日本の仏教徒との論争の、最大の論点は、誤解を恐れずに言えば、「人間が肉体と理性
的アニマから成り、その不滅のアーーマは非物質的存在である」という西洋側の主張と、人間死すれば無我に帰するし、また、二切衆生悉有仏性」とする仏教徒側との戦いであったと言えるのである。最初に挙げた鈴木正一一一の「破吉利支丹」を再び見てみよう。 「畜類と人間の霊を、作り分給ふならば何として人間の霊に悪心を作り添えて、地獄に落し給ふや。然ぱ人間を地獄へ落し給ふ事は、ひとえに、デウスの業」とする。畜類と人間の霊魂を、作り分けたと主張するが、それならば、何故、人間の霊魂に悪心を作り添えて、地獄に落としたりするのだろうか。言ってみれば、人間を地獄に落としてしまうことは、ひとえにデウスの業である、として、二切衆生、悉有仏性」「草木国士則成仏」という日本的心性の主張を掲げるのである。十六世紀のキリシタン論争において、右のように、西洋と日本の発想の基底が示されている、と言えるだろう。これは、どちらが正しいという問題ではなく、むしろ、異文化が初めて直接的接触をした時にに発生する自他それぞれの発見、というべきであろう。その後、この日本的発想が、さらにさまざまな〈他者〉に出会って自己確認と自己変革を繰り返していくことになるのである(6)。このアリストテレス『デ・アニマ』はわが国の十六世紀の思想に大きな足跡を残した、というのみに留まらず、さらに大きな射程を有している。それは、西洋思想全体を貫きながら、今日の最先端の脳科学が明らかにしてくる問題群に直結しているものであり、一言でいえば、「たましいとは何か。人間はモノなのか」という問題である。35
ここでは、今日的な哲学的テーマのうちでもっともヴィヴィッドな問題のひとつだと思われる〈心〉の問題を取り上げてみようと思う。.というのも、〈心〉は、|方では、科学や技術の急速な進展、具体的には、コンピュータ科学や脳科学、あるいは、DNA研究などによって、〈科学的に〉言い換えれば〈唯物論的に〉説明されつつある。「心はモノとして解明できる。」しかし他方、今日、前世や生まれ変わり、魂の救済、死後の世界など、いたるところで、心は霊魂として語られる。「心はモノではなく、死後も存続しつづける。」 3心の哲学とカントの第三アンチノミーⅡⅡ人はモノに還元できるのかⅡⅡ 2棋士の脳内過程を見る--直観とはなにか〈映像使用〉(省略)
1 Ⅱロボットの心・心脳同一説・カント
工学者石黒のアンドロイドとロボットのこころく映像使用〉(省略)
今日、一方では、科学技術による唯物論的進展が急激に進行している。人工知能、人工生命、ヒトゲノムプロジェクトなどのDNA研究などは、生命あるいは人間が、モノあるいは情報に還元できるという思想傾向を加速度的に進 二十一世紀の現在、私たちは、「心Ⅱモノ」と「心Ⅱ霊魂」という二つのまったく相反する思いのなかで生きている、といってもいいだろう。こんな相反する思いの間で動きが取れなくなっている状態、それをカントは、アンチノミー(二律背反)と名づけた。カントはこのような〈心〉問題についてどんな議論を展開したのか。それは、今日の私たちにどのような意味を持ちうるのか。最初に、そもそも現代科学主義時代の〈心〉の問題はどのように論じられているかを考えてみようと思う。このような現代科学の進展に影響された今日の哲学として、「こころの哲学」〈己三・8℃ご&己冒。)という研究分野がある。この「こころの哲学」を概観しながら現代的こころ問題の本質をつかみ、次にカントから学ぶ問題把握を呈示してみようと思う。
a「心とはなにか」現代科学主譲編
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ということであった。 展させていっている。そして他方では、宗教的なもの、オカルト的なもの、たましい的な存在問題が無関係に(あるいは前者への反作用として)ランダムに急進展している。現代の政治や軍事の背景には、死後の世界の存在について、つまり、たましいや霊魂の不死について、なにごとかを語ろうとする宗教的なるものがある種の影響を及ぼしていることは言うまでもない。この両極への加速度的分裂によって、当の人間も、両者の意味を統合できないほどにバラバラの存在へと亀裂を深めていっていることは前に指摘した通りである。時空的存在としての身体、そして、非空間的存在としての心、この一一元性は、デカルト以来の二元的諸問題(そして、以上の考察によって、この根本はアリストテレス『デ・アニマ』にさかのぼるものであることもあきらかだが)の根幹に存していた。精神・心の絡まない自然科学的対象物においては、したがって、機械論、還元主義の立場で研究を進めればよい。このことに関しては、なんら問題はない。しかし、生命とか知能とかいった、精神・心の問題が介在せざるをえない研究においては、問題は困難なものとなる、
前章でも述べたように、デカルトや一三1トンらによっ現代の「心の哲学」について現代英語圏の「心の哲学」 て確定された科学的対象の領野には、非空間的存在たる〈実体としての心〉は、入り込む余地のないものであるが、それでも心的なものを科学的対象としようとすれば、とりあえず、心は脳というモノの働きにほかならない、と考えることになる。心が脳というモノに還元されれば、それらの問題群は科学的検証の領野に入ってくるからである。しかしながら、もう一度確認しておきたいのは、『デ・アーニ』が問題とし、さらに近世二元論が問題とし、そして、その後の思想史において格闘されてきたのは、まさに〈脳〉(モノ)と〈心〉(非空間的存在)との間、なのである。心脳同一説は、ひとつの取りうる仮定にすぎないのであって、結論ではないことに注意を払うべきである。その後、空間時間的存在の領域をのみ扱う科学が肥大化し、ついには、〈機械の中の幽霊〉として、心的問題を排除する。そして、〈科学の対象とならないものは存在しない〉という越権が生じ、今日、ある人々にとっては、心の存在と、脳の働きを同一視してしまう発想が、自明の真理として定着してしまうにいたったことは前に指摘した通りである。
b〈心の哲学〉の唯物論的傾向
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は、G・ライルの『心の概念』(’九四九)におけるデカルトの心身二元論批判から始まるが、この分野の基本的態度は(心脳同一説、機能主義、消去主義などのバラエティを有しつつ)、心をなんとか物理的世界に位置づけようとする唯物論的、物質一元論的試みだと捉えることができる。これらの思潮は、現代の脳科学、コンピュータサイエンス、ヒトのDNA解析の躍進的な進歩と共にあり、現代の一部の常識的発想となっている。では、「心の哲学者」たちを標傍する議論を以下に見てみることにしよう。二人の意見を採り上げてみる。「心の本性をめぐる問いは、プラトンやアリストテレスの時代から今日にいたるまで、つねに哲学の中心問題のひとつであった。しかし、二○世紀半ば以降、英米圏の哲学において、心の哲学は画期的な変貌を遂げた。心とは何かという問いにたいして、さまざまな可能な立場がそれ以前には見られなかった精繊な概念的道具立てを用いて構築され、また厳しい吟味にかけられた。それは心の自然化、すなわち心を物理的世界に位置づけることが可能かという問いをめぐって展開された点でも異色を放っている。」(7)我が国を代表する「心の哲学」論者である信原は、二○世紀後半に英米圏で精繊な概念的道具立てを用いた画期的な哲学が発生し、それは、心を「自然化」する、つまり、 心を「物理的世界に位置づける」唯物論的なものだとして評価している。次に、「心の哲学」のかなり滑稽な主張を見てみよう。「心の哲学には、哲学の他の分野と違う特徴がある。ほとんどの哲学のテーマにおいては、専門家が信じているものと、教育を受けた一般人の見解のあいだに鋭い分裂はない。しかし心の哲学の問題では、一般人が信じるものと専門家が信じるもののあいだに大きなちがい(の曰・目・房昌隷『go①)がある。たとえば、今日の西洋世界ではほとんどの人がなんらかのかたちで二元論を受け入れていると思う。人々は自分が心や魂と身体の両方をもっていると信じている。……しかし、専門家たちはほぼ例外なく、なんらかのかたちで唯物論を受け入れている。本書はこうした事情を説明するとともに、それに付随する諸問題の解決に大きな努力を払うつもりだ。このような次第で、いまや心が哲学の中心トピックであり、他の問題はすべて、人間の心の性質という、より一般的な問題の特殊例にすぎないと考えておこう。」(8)サールによれば、「心」の哲学という〈専門家〉が存在しており、一般の教養人とはまったく異なった主張をする点で特異だ、と言う。|般の教養人は、自分が魂と身体の両方を持っていると「信じて」いるが、専門家はそれは間違
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いだ、と主張する、というわけである。私にはこのサール の主張はきわめて滑稽なものに思われる。専門家しか知り 得ないような事柄、例えば、ある化学物質の毒性とか、あ る脳部位の機能について、とかなら、一般の教養人は、専 門家に意見に耳を傾けるべきである。しかし、心とか魂と かについては、特殊な専門家というのは(当人が自称する
のは別として)おそらく存在していないと思う。そしてある小集団の意見が、大多数の一般的教養人たちのそれと異
なるとしたら、間違っているのは、小集団の意見のほうであることは、ほぼ間違いないはずであろう。このように、英語圏の「心の哲学」は、もうすでに消え 去ってしまった「言語分析哲学」と同様に、たかだか数十 年単位しか持たないようなトリヴィアルな議論であるよう
にも思われる。人間の心や人間存在についてのなんらかの洞察や直観に支えられたというよりは、表面的整合性のみ で考えたり議論したりしていくというような、なにやらや せ細った議論に感じられる。それはむしろ、そもそも人間
の洞察が及ばない問題に、なんとか分かる範囲でチャレンジしているにもかかわらず、性急に結論をだそうとしてい る姿に思われる。「科学の対象となるものだけを扱う」から 「科学の対象とならないものは存在しない」という科学の
越権的発想がその根底にあると思われるのである。カントは〈心〉や〈魂〉についてどのように考えていた のだろうか。カントは『純粋理性批判』の冒頭で次のよう
に述べている。「人間の理性は、ある種の認識について特異な運命を担 っている。すなわち、理性が退けることもできず、さりと て答えることもできないような問いに悩まされるという運 命である。退けることができないというのは、それらの問 いが理性自身の本性によって人間の理性に課せられている からであり、また答えることもできないというのは、これ らの問いが人間理性の一切の能力を超えているからであ
る」(エョ己。つねに問題として悩ませられるが、それに答えることも できないような、そんな問いが存在している、とカントは
述べている。具体的には次のようになる。「たましい(汗①一①)の単純な本性とか世界のはじまりの必 然性など……こうしたことは私の能力を全面的に超えでて
いると謙虚に告白する」(二冒己この発言を、本章の文脈で考えてみるならば、〈心とはな にか〉に正面から答えを与えることは、我々人間の能力を
超えている、というのがカントの基本的スタンスである。c第三アンチノミーと「心の哲学」
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この第一一一アンチノミーは、自由と必然との間の二律背反を論じている。だが、このアンチノミーは、人間がすべて自然法則にしたがって説明しつくせるモノと考えてよいのか、それとも、それを超える何かを想定すべきなのか、という問題として捉え直すことができる。〈心はモノなのか〉あるいは、〈心はモノを超える側面を持つのか〉という間の対立である。だから、この第三アンチノミーは、人間はモノに還元しつくせるのか、という問いに対するカント的立場の表明である、と捉えることができる。つまりこれはアリストテレス『デ・アニマ』によって提出され、中世神学において吟味され、近世中国や日本と宣 そして、〈霊魂への強烈な関心〉と〈客観性という冷徹な知性〉の分裂の表現として、あるいは、心の本性について正面から答えることはできないということの表現として、我々は、カントの第三アンチノミーを考えることができる。
反定立およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。定立自然法則にしたがう原因性は、世界の現象がすべてそこから導出されうる唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお、自由による原因性をも想定する必要がある。(夛虐簿.Ⅱ因s黒・) 教師との対決というかたちで議論されてきた問題の、まさにカント的態度表明なのである。現代の〈心の哲学〉論者の唯物論的立場は、カントの第三アンチノミーの「反定立」の立場を取るものだといえよう。世界におけるもの、それは人間のこころも含めて、すべては、自然法則によって説明されつくすことができる。モノの説明様式である自然法則によって、人間のすべては説明することができる。人間はモノに還元しつくしえるというのである。他方、「定立」は、人間は自然法則によってすべて説明しつくしえる存在ではない、つまり、人間はモノに還元しつくしえない存在である、ことを主張している。この定立と反定立の分裂は、(過去を見れば)『デ・アニマ』問題系のカント的表現、そして(未来を見れば)科学技術による唯物論的発想と、宗教的たましい的発想の分裂の、カント的なきめわて秀逸な表現である、と考えることもできる。カントによれば、反定立も定立もどちらも妥当性を有しているが、また、それにもかかわらず、両者は同時に成立することはないような二律背反の関係にある。ここでは、たしかに明確な答えが与えられているわけではない。むしろ、こころの本性をめぐるような問いに対して、我々はどのようなスタンスを取って考えるべきなのか、
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がきわめて明断に描き出されている、と言ってよいだろう。人間を徹底的にモノとして説明しつくそうとすること。この追求は極限まで推し進められてよい。カントは、反定立を一つの妥当な主張と捉えることで、それを肯定している。ここまでは、現代の「心の哲学」論者と歩調を共にする。だが、カントは、問題はこれだけでは尽きないことを知っている。人間はモノに還元しつくしえない、という視野も同時にカントには存在している。「心の哲学」論者の考察は、カント哲学が見ている領野の約半分を、全体だ、と思いなしているのである。私の考えるところでは、人間の知性で分かることと分からないことが確実に存在しているように思われる。つまり、我々の想像力や知性には明らかに限界がある。心身問題や宇宙の始源、神ということに関して、我々の知性は不充分な能力しか持っていないように思われる。この認識の限界、有限性という視点は、もちろんカント哲学から学んだものである。現代の「心の哲学」者たちは、現代の自然科学の発展の知見に勇気づけられて、自分の手持ちの道具だけで「心身問題」を解けると信じている。しかし、その態度は、ちょうど、月に到達しようとして、木に登って、我々は月に一歩近づいた、と誇っている態度のようにも思われる。我々の知性には、おそらく限界というものがあるのだろう。このことを私たちは、カント『純粋理性批判』の分裂に留 本日はご静聴ありがとうございました。決してオーソドックスとはいえない私の哲学的態度に、会場の法政哲学会のみなさまからこのように賛意と励ましをいただき喜びと感謝に堪えません。〈この時代にあって哲学すること〉の困難さと意義を改めてみなさまと共有できたこの三○回記念大会の日を、私は決して忘れることはないと思います。ありがとうございました。(1)この点についてくわしくは、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』(岩波書店、一九九七年)を参照のこと。(2)これらの事情について詳しくは、尾原悟箸『イエズス会日本コレジオの「講義要綱」I』(キリシタン研究第弧輯、教文館、一九九七年)を参照のこと。この「アニマノ上一一付テ」を解読するにあたって、尾原悟氏の詳細で繊密な校注を大いに参考にした。この校注はきわめて重要な労作であり、またゴメスのラテン語原本 まる節度と勇気から学ぶべきものなのである。
注 おわりに
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(7)信原弘幸「心の哲学のおもな流れ」『シリーズ心の哲学I人間編』(勁草書房、二○○四年)に所収。(8)].mの胃一q量三ご画三三邑言昌呂・P弱〆四C三○〆昏己己・用J・サール『心の哲学」(山本・吉川訳、朝日出版社、 料編纂所、一九九六年)原文ノ編豊(5)『キリシタン書・排耶書』(「日大書店、’九七○年)四五○頁以下。(6)この点については、拙論「なにが今岡倉天心・茶の本』(哲学書房、 (4)『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』(上・下岩波文庫)。ポルトガル語原文については『日本関係海外史料lイエズス会日本書翰集』(全六巻東京大学史料編纂所、一九九六年)原文ノ編を参照した。(5)『キリシタン書・排耶書』(「日本思想体系妬」岩波 (3)、二○己閉シ皀冒闇亟冒邑ミミ○厨雰吟sミヨ鳥』菖言noミーミ⑯ミロミミ.(丙・目①』口受)この内容については、』宜昌冒鯉〔〉○ミヨのミロミ・冨等買○涛吋C両誉言ロ(冨房一号。ご【・田○閏の『陣m・雪昌ロラゴ@m.】@J二℃震.□E弓。×国○○百)を照されたい。 【・田○呂四陣、参照のこと。
J・サール『心の哲学』一一一○○六年)二六頁以下。 を現代日本語に翻訳するという仕事まで行っている。この貴重な研究がなかったら、私のような門外漢がこの世界にアクセスすることはできなかったことをここで述べておきたい。
〈和〉でないのか」二○○六年)を参
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