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「善き生」とは何であるか?
――人間の生き方 古代と近代――
石崎
嘉彦
これから「善き生とは何であるか?」という問題を暫く考えていくことになるが、そ のような問題を考えることから、「哲学する(Philosophieren)」生こそ我々にとって最も 「生きるに値する生」であり、したがってまた、「善き生」であるという結論へと論を進 めるというのが、本稿の粗筋である。そのような考察を行う中で、改めて「哲学するこ と」の意味を問い直し、それこそがニヒリズムの只中にあるポストモダン人に「生」を 取り戻させるのに不可欠であることを主張しようと思う。その上で、最終的に、その「哲 学すること」へと人々を導くはずのリベラル・エデュケーションの輪郭を浮かび上がら せることができればと考えている。 近代性が破局を迎えつつあるこの時代にこのような問題に考えることによって、同時 に、現代に生きる我々にとって「哲学とは何であるか?」、「哲学的探求がなお意味を有 するのか?」を改めて問い直すことにもなる。そういった意味からすれば、これからの 考察は、近代の知的パラダイムを超え行くために「哲学」が必要とされていることを再 確認する作業となるとともに、同時に独特の仕方での「哲学の勧め」ともなるであろう。 そのような「哲学すること」を考察する中で、我々は、「哲学する」仕方として今日最 も一般的であると考えられ、それゆえにまた多くの人々が「哲学すること」をそこから 始めるリベラル・エデュケーションについて考えてみることになるが、その理由は、本 来リベラル・アーツ習得の教育としてあるリベラル・エデュケーションによって形成さ れる人間の精神的要素のなかに、「近代性」の語で言い表される知的パラダイムを根底か ら変換させるものが含まれていると考えられるからである。そして、そういった事柄を 考えるなかで、いったいそういった教育が何ゆえどのような仕方で「ロゴス」育むのか、 さらにはまた、それがもたらす「ロゴス」こそ、真の意味での「共生」的生の実現に資 するものであることを、明らかにしていこうと思う。 1 「哲学する生が最善の生である」というテーゼを巡って そこで、「哲学する」生が最も「善き生」であるというテーゼを擁護するいくつかの言 説を取り上げ、その言説を巡って思考する中で人々をそのような考えへと導くリベラ ル・エデュケーションへと論を展開していくことになる。「哲学する」ことが人生にとっ ての「最善の生」であるという命題に対して向けられてきた反対論は、大きく分けて次 の二種に纏め上げることができる。まずはこれら二種の反対論に目を向けるところから20 議論を開始しよう。 古来哲学的思考に敬意が払われてきた西洋の伝統の中にあっても、「哲学すること」が 「最善の生」であるという考えが常に必ず受け入れられてきたわけでない。哲学につい ての歴史的諸記述、とりわけ過去の哲学者たちの生涯や彼らの口から発せられた言説に ついての記述から、そのことは容易に理解できる。そこから、哲学者たちが自らの生命 を賭して「哲学」せざるを得なかったこと、世間一般の人々が描いている「善き生」と は懸け離れた生を送っていたことが分かるのである。ソクラテスの刑死はそのことを象 徴している。 プラトンの『国家』第2 巻の「最も正しい人間」と「最も不正な人間」とを対比的に 論じている箇所は、哲学的な「善き生」と一般の人々の目に映る「善き生」とを対比す る記述と見ることができる(Politeia. 360e.ff)1。そこでは、ソクラテスの対話者の一人であ るグラウコンが、正しい人間の生とはいかなる生であるかを見極めるために、まず、不 正を企てるにあたって誤ることなく、不正が発覚してもそれを抗弁と説得によって揉み 消す能力を持った人間と、あらゆる「正しいこと」の見せかけ、つまり「正しい」と「思 われている」もののすべてを剥ぎ取った後に残る純粋に「正しい」人間の生を描き出す ことによって、それら二つの生き方が対比されている。 そこで描き出される「正しい人間」とは、「何一つ不正を犯していないのに不正である という最大の評判を立てられる」(Politeia. 361c)人間であると言われる。そのような正し い人間の生は、見せかけの正しさの生や正しく生きている「かのような生」とは区別さ れる「生」になるはずであるが、そのような人が遭遇するのは、以下のごとき生である。 「正しい人間というのが、先に言われたごとくであるならば、彼は鞭打たれ、拷問 にかけられ、両眼を焼かれてくり抜かれ、あげくの果てにはありとあらゆる責苦を 受けたすえ、磔にされるだろう。」(Politeia. 361e-362a) しかし、ここに言われているような生は、受難者の生であって、宗教の開祖であると か悲劇の主人公に見られる人間の生ではあっても、決して一般の人間が日常生活の中で 体験するような生ではないであろう。当然のことではあるが、そのような生は我々が想 定している「哲学する」ことから得られる生でないことは言うまでもなく、それゆえ、 そのような生は、語の本来の意味での「善き生」であるとは言い得ないであろう。 したがって、そのような「正しい生」を生きることは、通常の人間には至難であるこ
1 Cf. Platon, Politeia, 360e ff. 〔プラトン、『国家』360e 以下を参照。〕以下、この書物からの引用は、
Politeia. の書名とステファヌス版のページを( )内に記すことによって示す。訳文は,岩波書店版
21 とはもとより、哲学する者にとっても至難であることは言うまでもない。なぜと言って、 そのような「正しい」と「思われる」ものをすべてそぎ落とすことによって浮かび上がっ てくる純然たる「正しい生」の範型は、独特の仕方での抽象の産物であって、大多数の 人間が日常的に経験する生の姿では決してないからである。たしかに、それは、求道者 の生、つまり自己克己のための鍛錬を経て到達される「有徳的」人間の生、つまり神の ごとき人間に見られる生であるかもしれない。しかし、そのようなそぎ落としの実例と して哲学の歴史の中に刻まれている物語をたどって、狂信的群衆に捉えられ牡蠣の貝殻 でその肉体をそぎ落とされ惨殺された新プラトン派の哲学者アレクサンドリアのヒュパ ティア(Hypatia)の無残な最期に行き着くとき、我々にはそのような抽象化された「正 しい」生に「善き生」を見出すことなど、到底できないであろう。したがって、グラウ コンが描こうとした「正しい」生は、正義や真理に殉じる人の生ではあっても、好んで 選択すべき「善き生」であるとは言えないであろうし、それどころか、できれば回避し たい生であろう。 このようなグラウコンの描き出す抽象化された正しい生に対して、兄であるアデイマ ントスは、純粋に「正しい生」を貫き通した正義の人がその報酬として神から来世に与 えられる生の姿を、ミューズ(詩神)とその息子の言説をもとに、次のように描き出し ている。彼は、詩人たちが描く「善き生」を纏め上げる仕方で、来世に「正義の人」に 与えられる生は、「永遠の酩酊」であると言い、 「彼らの物語によれば、正しい人々はハデス(冥界)に赴いてから、そこで寝椅 子に横たわり、頭には花冠を戴いて、敬虔な人だけに許される饗宴にあずかるこ とになり、それからはもう、全時間を陶然たる酔いのうちに過ごすというのです。」 (Politeia. 363c) と描いている。 このような「饗宴」とその後の「永遠の酩酊」の生は、プラトンの他の作品の読者に、 『饗宴』に描かれている酒宴とその中でのスピーチを想い起させるであろう。ただここ でアデイマントスが描いている饗宴と酩酊には『饗宴』で描かれている「ロゴス」が欠 けている。言うまでもないが、アデイマントスの描く饗宴とその後の陶酔は、死後の世 界のものであって、人間性の象徴でもある「ロゴス」の不在をその特徴としている。そ のことから分かるように、「哲学すること」を「最善の生」と主張しようとするとき、哲 学する者が人間存在であることがその前提なのである。 ここから、『国家』第2 巻でソクラテスの対話者たちが提出した二種の哲学的「生」は、 そのいずれもが、「善き生」とは言い得ないことが分かる。しかしよく見ると、彼らの描
22 く「善き生」は、その聞き手であるソクラテスの人生と対比してみれば、それぞれがソ クラテスの生の一面を描き出したものであることが分かってくる。つまり、最初の正し いと「思われる」ものをすべてそぎ落とした純粋な「正しい生」は裁判にかけられ判決 を仰ぐソクラテスの誇張と言ってよいであろうし、次の「永遠の酩酊」の生も、友人た ちと酒を酌み交わしながら談論に耽るソクラテスの誇張であると言ってよいのである。 前者は『弁明』の、後者は『饗宴』のソクラテスの誇張なのである。 そうであるとすれば、「哲学する生」を「最善の生」とする古典的哲学の「哲学者」と は、このような誇張されたソクラテス的生を総合したものであるということになるであ ろう。そのような観点から、古典古代の哲学の生を「最善の生」とする説のモデルとなっ ているのは、クセノフォンが描くソクラテス的生ではないかと思えてくる。 それは、『メモラビリア』の中でアンティフォンがソクラテスに対して述べている哲学 の生の中に典型的に描かれている。アンティフォンはソクラテスに対して次のように 言っている。 「君はいつも主人がそんな扱いをしたら奴隷でさえ我慢できないような生活をし ている。最低の物を喰い、最低の物を飲み、衣服もひどいだけでなく、夏でも冬 でも同じものを着ているし、裸足で下着なしで通し過ごしている。しかも、それ を貰うと嬉しいし、それが手に入ると自由に楽しく暮らせるお金も稼ごうとしな い。」2 このように描き出されているソクラテスの生は、「哲学する者」の生についての我々の イメージを具体的に示すものであることは疑いないが、そのなかでもとりわけ強調して 描かれているこの上なく質素な食事とみすぼらしい身なりの中でも満足を得ることので きる生は、知恵の探求に全霊を傾ける哲学者の生き方がどのようなものであるかを、我々 によく伝えている。そしてそのように描かれた生の姿から、我々は、哲学者は、自分が 他人の目にどう映るかといったようなことをまったく気にすることなく、ひたすら知恵 の探求に勤しむ人であることを理解させられる。哲学の生が「金銭」的なものに対して どのような姿勢で臨むかという問題は、哲学的な知とソフィスト的な知との分岐点で あったが、「知恵の探求」である「哲学」の生は、人間的生のこの要素を人生の表面的な 形姿に関わるもの、すなわちその人の人生の外見と見て、それを軽視する生であった。 2 Xenophon, Memorabilia, I, 6, 2-3. 〔クセノフォン、内山勝利訳『ソクラテス言行録1』、京都大学学術 出版会、52-53 頁〕、以下、この書物からの引用は、引用箇所の後に、Mem.の略号と巻数、節、パラグ ラフの番号の順に( )内に記して示すことになる。ただし、訳文に関しては、前後の繋がりから、 若干変更を加えたところもあり、内山氏の訳文通りでないところもある。
23 言うまでもなく、そのことが、アンティフォンによって、「お金を稼ごうとしない」人と いう形で言い表されていたのである。 金銭と無縁であることが哲学者の生を特徴づける第一のものであるとすれば、哲学者 の生が一般に裕福とされるものとは正反対の生であることは間違いない。そしてそのよ うな生は、実際に、洋の東西を問わず、また時代貫通的に推奨されてきた生き方のモデ ルであると言えそうである。そこから我々は、哲学的な生を、思惑(臆見)や情念に揺 り動かされるのではなく、それらを自らの精神の力によって制御することによって得ら れる自己克己の生、つまり節制(節度)と知恵による生と解してもよいように思われる。 自らがそこに最大の価値を見ることになる真理が何物によっても動かされることのない 精神によってのみ把握されるのだとすれば、真理探究者である哲学者にとっての関心は 自らの精神の中に存する自然とは何であるかということになろう。そこから、哲学者た ちは自ら生きるべきは「自然」に即した生であるという考えに到達したようである。 その際に、「自然とは何であるか」が問われなければならなくなるが、それにいかに答 えるかによって哲学的な生も一様でないことが分かってくる。「見せかけ」を重視しない という点では哲学者たちの間に一致が見られたし、それが哲学者とその他の知者たちと の分かれ目であることも理解されてきたが、「自然」概念が多義的であるところから、自 然に即すると言われる哲学の生も様々に理解されてきた。そこから、「善き生」と言って も、シノペのディオゲネスに典型的に見られる都市と政治に背を向けた独我的自然主義 の生、キュレネ派に見られる刹那的快楽主義の生、自然と一致して生きるために「不動 の心(apatheia)」を養うことに専念したストアの哲学者たちの生、身体の健康と「平静 状態の快」によって得られる「自己充足(autarkeia)」の生といった、様々な生の形が提 唱されることになった。しかし、それらいずれの生も、一般に受け入れられ得るような 生とは言い難いものであって、その故に、哲学の生を実践する者たちは、都市の辺縁に 生きるか、一般の市民たちの生活世界に背を向けて生きることを余儀なくされた。 しかしまた、それら市民たちとの隔たりを意識しながら、その中で共に生きる途を択 んだ哲学者たちがいたことも間違いない。彼らが実現可能と考えるようになった共同的 生は、哲学者の市民に対する「弁明(apologia)」という形での、独特の対話をとおして 実現される共同的生であった。しかし、ソクラテスへの死刑判決が示すように、哲学の 言説が市民との和解を達成するに至らなかったという事実は、我々が改めて考え直さな ければならない事柄である。というのも、哲学する生が自然に即した生であるかぎりに おいて、哲学者と都市との間に存する溝は決して埋められることにはならないからであ る。
24 この溝を埋めるためには、「青年を腐敗させる」3という語によって言い表されてきた ことが示す、「哲学」が身を破滅させる危険な試みであるという俗見に、論駁しなければ ならない。古代の哲学者たち、ソクラテスの弟子たちはその溝を埋めることによって「哲 学」を守り抜いたと言ってよいが、彼らが「弁明」による哲学的な生と市民の生の間の 溝を埋めるために試みた修正は、我々が今日の哲学の窮状を脱するために参考にされる べきものを含んでいるはずである。たしかに、「弁明」の「ロゴス」の敗北は「哲学」の 「ロゴス」の敗北と言えそうであるが、ソクラテスの後継者たち採用した新たな「ロゴ ス」は、「最善の生」である哲学者の「生」を存続させる道でもあったからである。この 新たな道は、哲学者たちには心得られていたがそれ以外の者には容易には気付かれな かった、相手に応じた「ロゴス」の使用によるものであった。最終的に「学校」の形へ と発展させられてゆくこの「ロゴス」の使用は、我々がこれから作り上げてゆくべき「ロ ゴス」の共同性という問題に重要な視点を提供してくれるはずである。 本稿は哲学する生が最善の生であることを確認することを第一の課題とするが、その ことの確認のために、古典古代の哲学者たちが自ら哲学する生を防御するために採用し た「言論の技術」についても考えてみなければならないという観点から論を進めようと するものである。というのも、言論すなわち「ロゴス」の存在の様態こそ、我々の生が 「善き生」で否かを判定する際の決定的な基準となりうるものだからである。「善き生と は何か」という問いに答えようとするとき、古代の哲学者たちは、相手と腹を割って語 ることができるか否かを、それを判定する基準と考えていたことは、プラトンの対話篇 を見ればすぐに了解できる。彼らにとって「哲学する」生が「善き生」であることは自 明の前提であって、快楽や金銭の問題は二の次であったことは、先のクセノフォンから の引用にあったとおりである。 したがって「善き生」は、我々にとっても、「ロゴス」の問題が第一の問題であって、 それゆえ「哲学する」ことにとっても死活的問題であったのである。ところで、その際 問題とされるべき言論の技術は、ソクラテス的言論を特徴づける「弁明」という形で示 されるものに変更を加えたものである必要があった。そこで、プラトンがそれに対して 加えた変更は、対話篇の「ロゴス」に結実させられることになった。その際に主な変更 点は、口頭での言論を「書かれたもの」にするという点と、言論の存在する空間を制限 するという点であった。 対話の相手を制限することによって、哲学者の生活の場所と「言論の自由」が保証さ れることになり、「哲学する」可能性が確保されることになった。我々はこうして確保さ
3 Platon, Apologia, 24c. 〔プラトン、『ソクラテスの弁明』、24c〕、Xenophon, Memorabilia, I.1-1. 〔クセ
25 れた「自由な言論」が保証された場所とそのロゴスの存在の様態であるリベラル・エデュ ケーションの出現をそこに見ているのである。その変更によって確保されることになっ た場所は、やがてアゴラからアカデメイアやリュケイオンへの転移を促し、「ロゴス」自 体の現存する形態としての「産婆術」的言論の存在形態としてのリベラル・エデュケー ションに繋がって行くことになる。この開かれた「ロゴス」から「学園」での「ロゴス」 への変更によってロゴスの新しい形態が現出していることになる。そのロゴスが我々の 時代のロゴスの閉塞を突破する可能性を秘めたものであることを、以下において確認し ていくことにしよう。 この変更によって生存の場所を確保することになった「哲学」は、プラトンでは、哲 学者たちによる「理想の都市」の教説、またアリストテレスでは有徳的な人間とりわけ その「倫理(エートス)」と「都市(ポリス)」の教説に場所を与えただけでなく、その 後に訪れた「世界帝国」出現という生活世界の大変動にも耐えて、その生命を保持して いくことに成功した。以下、この歴史を生き延び、哲学することに「善美なるもの」を 見る、古典的哲学によって打ち建てられた哲学する生き方が、ポストモダン的世界にあっ ても尊重に値するものであることを、これから確認していくことにしよう。 2 近代啓蒙と哲学の変質――自然の改変による幸福実現は可能か? 古典古代の哲学の生は、それ以後の世界にあっても、その卓越した理論的整合性と知 的完成度の高さのゆえに、東方オリエントの地から来た「信仰」と「神の許での生」に 包摂されながらも、そこに己の存在の場所を確保していくことになる。ローマ期から中 世スコラの時代にかけての千年以上の年月を経て、哲学の生は「教団」の生の中で生き 続け、その中に根を張りさえして、強かに命脈を保ってきた。しかし、それとは別のルー ト(ユダヤ・イスラム的伝統)で受け継がれ命脈を保ってきた哲学の生との出会いの衝 撃から、その生は以前とは異なった方向性を見出すことになった。後に「啓蒙」の名で 呼ばれることになったその流れは、新たな哲学の生の範型を指し示すことになった。し かし、そこに出現した生の範型は、古の都市に息づいていた「哲学」とは似て非なる、 まったく新たなる「哲学」と哲学の生の範型であった。 哲学する生を最善の生とすることの対極にあるのは信仰に最善の生を見る見方である。 新たに出現してきたこの生の範型は、信仰のなかに最善の生を見る見方を退けたばかり か、同時に信仰の生の中に居場所を確保して生き延びてきた古の「哲学」をも、一挙に 葬り去ることになった。 この新たな哲学の生の範型の骨格を、ここでは、マキアヴェッリの『君主論』のよく 知られた箇所からの引用で、論点を二つに絞って描き出しておくことにしよう。一つは、 『君主論』第15 章の以下の文言である。
26 「私には、事柄についての想像の産物に向かうより実質的な真実に向かうことの 方が、より適切であると思われる。これまで多くの人たちは見たこともなければ本 当に存在したかどうかも分からない共和国や君主国を想い描いてきた。というのも、 人がいかに生きているかと人がいかに生きるべきかとは非常に懸け離れたことであ るので、行われるべきことのために現に行われていることを無視するような人は、 己を保持するどころか、己の破滅を思い知らされるだろうからである。」4 もう一つ引き合いに出しておきたいのは、以下の文言である。 「運命の女神が変わるものであり、そして人が自分のやり方に固執するものである として、人が幸福でいられるのはこの女神と一緒にいるときのことなのだから、こ の女神と不和になれば彼らは不幸になる。そこで私が判断するに、用心深くあるよ り果断であるほうがよいということである。というのも、幸運の女神というのは女 だからである。もしその女神を押さえつけようと思うなら、女神をぶったり突飛ば したりすることが必要なのである。」5 最初の引用文を言い換えれば、「目標を引き下げよ」ということになろう。それは、我々 が生きている世界の目指すところを、天上の世界から現に我々が生きている世界に「引 き下げろ」ということなのである。しかし、もう一歩突っ込んで言えば、それは古典的 な哲学の終焉を宣言するに等しい文でもある。それは、天上の世界を見る、あるいはコ スモスを「観照 (theōria)」する哲学を否定することと同義でさえある。 後者の引用文が明るみに出している最も重要な論点は、人間が運命(fortuna)を支配 できるというという思想を押し出している点である。先の引用文にあった「知」の転換 にこの論点が加わることによって、「哲学」の語の意味に大転換が引き起こされる。それ によって「知は力」、あるいは「知は力のためのもの」であるという観点が姿を現してく る。この「運命」を支配する「現実的な知」こそ、やがて「科学」の名で呼ばれること になる、「新しい学」なのである。 マキアヴェッリ自身には哲学者として生きているという自覚などなかったかもしれな いし、また自身が「科学」という「新しい知」を打ち出しているなどというようなこと 4 N. Machiavelli, The Prince, translated and with an Introduction by Harvey C. Mansfield, The University of
Chicago Press, chap. 15, p.61.〔マキアヴェッリ、池田廉訳『君主論』、世界の名著16、中央公論社、105 頁〕
27 を意識していなかったかもしれない。しかし、彼が打ち出した人間の生に関する考えは、 以後の哲学者たちに多大なる影響を及ぼしたことは間違いない。人間が生きている生の 「現実を見よ」という彼の姿勢は、明らかにデカルトやホッブズといった近代の哲学者 たちに受け継がれたからである。 「実践的な哲学」という考えをいっそう先に進めた典型は、デカルトの「哲学」に見 られる。デカルトは、マキアヴェッリによって敷設された軌道を、自ら新しい近代科学 という土台を打ち据えることによって、先へと延伸させることに力を注いだと言ってよ い。その軌道は、「哲学」を「科学」と「認識」の理論へと変換して、近代的「力学」と 科学の理論を基礎付ける方向へと向かうものであった。彼は、マキアヴェッリの現実主 義を「力」と結びついた知へと発展させ、「思弁的 (spécrative) 哲学」に代わる「実践 的(pratique)哲学」を提唱したのである。 『方法序説』の第6 部において、デカルトは、この実践的哲学について次のように述 べている。 「これにより我々は、火や水や風や星や天空やその他我々を取り巻くすべての物体 のもつ力とその働きとを、あたかも我々が職人たちの様々な技を知るように判明に 知って、それらの物を、職人の技を用いる場合と同様それぞれの適当な用途に充て ることができ、かくて我々自身を、いわば自然の主人かつ所有者たらしめることが できるのだからである。」6 ここに言われていることは、知恵の探求を自然や生命の構造の認識とその運動法則の 認識に変換し、それをもって己が「力」の増進を図る近代「啓蒙」の基本的立場である と言いうるであろうが、このような「啓蒙」の知恵と労働の「生」は「善き生」と言え るのか?以下において、この問題をいくらか考えてみたい。この問いに対しては、明確 な仕方で賛否が寄せられているが、まずは賛成意見から見てみよう。 後にマルクスとエンゲルスは、デカルトの「実践的哲学」を支持しながら、以下のよ うなことを述べている。 「思弁の止むところ、現実の生活のなかで、現実的で実証的な学、人間の実践的活 動の叙述、つまり人間の実践的発展過程の叙述が始まる。……そして、独立の<学
6 Descartes, Discours de la mthode, 6 Partie, Garnier-Flammarion,1966, Paris, p. 84. 〔デカルト、野田又男訳『方
28 >哲学は、現実性の叙述とともに、それが生存する手段を失う」7 近代の共産主義の思想家たちは、このように、自らがマキアヴェッリとデカルトの後 継者であることを明らかにしながら、語の本来の意味での「哲学」の終焉を予言してい るのである。さらに、哲学の終焉後は次のようになると言う。 「共産主義社会においては普遍的な生産は社会が調整しているので、各人は排他的 な活動領域を持たず、それぞれが任意の分野で己を形成することができるのであっ て、まさにその故に、私は、猟師や漁夫や牧夫や批評家にならずとも、気の向くま ま、今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りを、午後には漁を、夕方には家 畜を追い、食後には批評することが可能となるのである。」8 それに続けて、このような生き方の実現を人間の「解放」と述べ、それを可能にする生 産関係に関して、「解放は、一つの歴史的な事業(Tat)であって、思想が行うことでは ない。そしてそのような解放は、歴史的な関係によって、つまり工業や商業や農業や交 易によって実現されるのである。」9と言う。 この一文では、あらゆる桎梏からの人間の解放つまり人間的自由の実現のための現実 の世界における歴史的な人間実践としての生産活動の意義が確認されているが、それに よって、マキアヴェッリ以来の近代の哲学者たちの「現実主義」(それは、身体的・感覚 的欲求に基礎を置く善の実現のための理論と言いうる)の要点に、人間の合目的的な生 産活動たる「労働」を見る視点があったことが確認される。要するに、神から人間への、 天上から地上への視点の転換には、この「労働」への評価が絡んでいたのである。 このような「労働」の持つ意味を早くから理解していた思想家としてヘーゲルの名前 を挙げることに異論はないであろう。ヘーゲルこそ、その概念が持つ「対象」否定の独 特の性格に着目し、そこからその歴史の理論を完成させた人物なのである。彼の歴史の 理論は、「主人と奴隷の弁証法的転倒」の論理に歴史の運動原理を見て、その歴史貫通的 原理の貫徹されるところに人類の類的な労働による世界改変の理論として定式化された。 そして、その歴史の運動を突き動かす「労働」の契機の重要性を彼に教示したのが、そ の労働価値説をもって知られる近代政治経済学の祖アダム・スミスであった。 いまこの「労働」概念の歴史的な継受関係を見て分かることは、マキアヴェッリから 7 Marx/Engels, Hrsg. von Wataru Hiromatsu, Die Deutsche Ideologie, Kawadeshobo-shinsha Verlag, Tokyo, 1974. S.
33. 日本語訳は必ずしも廣松訳に従ってはいない。
8 Ibid. S. 34. 9 Ibid. S. 156.
29 始まった「現実主義」は、「労働」の契機が理論の中心的位置を占めることによってその 完成形を見るに至るということである。つまりは、「労働」の概念によってマキアヴェッ リの理論に付着していた「反抗的な性格」10が取り払われることが、歴史と社会につい ての新しい学の成立に不可欠であるということである。実際、マキアヴェッリの理論を 特徴づける「戦争」、ホッブズの「戦い」、ヘーゲルの「生死をかけた闘い」といった歴 史の破壊的要因は「労働」の概念の登場とともに後景に退き、「契約」や「承認」や「交 易」といった建設的な諸カテゴリーが主座を占めることになる。レオ・シュトラウスは、 「経済主義は成熟したマキアヴェリ主義」11と述べたことがあるが、その言葉がいみじ くも語っているように、「労働」が歴史の運動の中心的位置を占めるようになるに従って 「現実主義」は洗練度を増し、よりスマートな形へと姿を変えてゆく。それにより、「正 義」は、確立された制度の中での「等価物」の交換として現れ出てくることになる。 「労働」はある種の否定の運動であるが、その「否定」は単なる破壊ではない。それ は対象の「絶対的な否定」とは区別される「限定的な否定」である。それゆえ「労働」 は、世界の端的な破壊ではなく、世界を「物件化(Versachlichung)する」ことになる。 「目指すところを引き下げる」ことによって「目標達成の可能性を高める」運動として あった近代性は、これを運動原理とすることによってその完成を見るのである。自然を 人為的なものへと作り変え、その成果としての「物件」=「商品」によって人間の幸福 を実現することこそ、近代性の本意とするところなのである。 こうして近代性は、その初期の段階でそれに纏わりついていた粗野な諸要素を切り捨 て、その運動体を一つの合法的な制度へと確立していくことになった。ヴィーコのよう に知の基準を「それを作り得るか否か」に求めるなら、我々は「労働」をとおして世界 の要素をことごとく組み替え、それをもって世界を作り上げることに成功していること になる。それは、世界に光を差し込ませるという「啓蒙」の運動をこの上ない上質な仕 方で勝利へと導くことになった。我々はすでに世界を隈なく知り尽くすという「全的な 知(Gewissen)=良知」の境位を我が物としている。こうして我々は、たしかに、ヘー ゲルが予言した、哲学は「愛知(=哲学)」を捨てて「現実的な知」すなわち「科学 (Wissenschaft)」となるべきである、という命題が成就しているのを見ているのである。 ヘーゲルがスミスから「労働」の概念を学んだとき、彼はその行為を、「自己を物とな すこと(Sich-zum-Dinge-Machen)」というドイツ語の造語で言い表していた。そして彼 は、世界の歴史を、この「自己」を「物」となす長大な類的「労働」の過程と見做すよ 10 Leo Strauss, What Is Political Philosophy? and Other Studies, The Free Press, 1959, (Reprinted in 1973 by
Greenwood Press), p. 47.〔邦訳、『政治哲学とは何であるか?とその他の諸研究』(早稲田大学出版部、2014
年)、41 頁〕
30 うになる。歴史は、その最終局面において、人間という類の労働による世界に自己意識 を浸透させる運動を完了する。結果として世界は「精神」となり、「人倫」的世界が現実 的なものとして存在を得るに至る。こうして、物への欲求に支配されていた物の体系は、 人間がそれを制御する術を心得ることによって、その中で人間が善く生きることのでき る共同性の場へと姿を変える。こうして、労働をとおして生活世界を再生産する人間の 生こそが、近代人に推奨される最高の生となった。 ヘーゲルによれば、現存在する「精神」の体系は「人倫」を含む「客観的精神」とし て叙述され、さらにその「ロゴス」の自己運動は「論理学」として叙述される。そのよ うな叙述をヘーゲルは「哲学」の「体系」の一部をなすものと考えているように見える が、そこに言われている「哲学」こそ、本来の「愛知の学」とは決定的に区別される「学」 の体系に他ならないのである。こうして、現実的な世界を「科学」的に叙述することが 哲学者の仕事となり、「哲学すること」が学の体系化としてある「大学」で「講義する」 仕方で「善く生きること」となったが、そのような「善き生」を達成できるか否かは、 マックス・ウエーバーいみじくも指摘したように、この上なく「サイコロ賭博(Hasard)」 12的要素に満ち溢れたものであったことは言うまでもない。 3 ポストモダンの生世界――末人たちの世界の到来 さて、議論を開始するにあたって私が設定した本稿の課題は、現代を生きる我々にとっ て「善き生」とはいかなる生であるかという問いに答えを出し、ポストモダンの名で呼 ばれるこの時代にあっても「哲学する生」が最も「善き生」であることを確認すること であった。これまで見て来たように、近代の理論は、「哲学」を「科学」と読み替えるこ とによって、古き時代の「哲学する生」をもって「善き生」であるとする見解とは異な る「善き生」を展望しようとしたが、その試みは、最終的に、「哲学すること」の否定に まで行き着かざるを得なかった。ヘーゲルの歴史の哲学も、その点では、マルクスが指 摘したように、「精神」化された人倫が再び「物象」的世界に陥ってしまわざるを得ない という難点を抱え持っていた。人倫的世界「実現」という「近代」のプロジェクトは、 未完のまま我々の前に残されているのである。いったい近代に出口はあるのだろうか? そこで、以下では、その出口を探し求めるべく「古代」へと「回帰」することの可能 性について考えてみようと思う。我々は「善き生」について問うということを課題とす る本稿の表題に「古代と近代」という語を副題に配しておいたが、ここでは、そのよう な副題を配したことにいくらか説明を加えるところから議論を始め、その「出口」の問 12 Max Weber, Wissenschaft als Beruf. In Gesammelte Aufstze zur Wissenschaftslehre, 3 Auflage, J.C.B.Mohe
Tbingen, S. 585f. 〔マックス・ウェーバー、野口雅弘訳『仕事としての学問』、講談社学術文庫、21 頁以 下〕
31 題を考えていくことにしよう。 我々が「古代と近代」という語を掲げることによって言い表そうとしているのは、近 代に対して古代を対置することと、対をなす二つの語を対比させる思考つまり対話的な 「ロゴス」の思考枠組みに注意を喚起するためである。つまり、「近代」と「古代」の二 語による対話的思考のパラダイムに近代を超え行く「ロゴス」の地平を見ようとするた めである。ここではそのことの必要性を以下の二つの概念を引き合いに出すことによっ て明らかにしておきたい。 ここで取り上げる二つの概念とは、「科学」と「進歩」のことである。これら二つの語 は、「古代と近代」という対立する二語のうち後者による前者の否定から出てくる概念、 つまりは「古代」を否定することによって出てくるのである。それもとりわけ、古代と 関りのある「哲学」の否定によって「科学」が出現し、古きももの否定によって「進歩」 の観念が出てくるのである。したがってここから、「科学」と「進歩」の観念は対立的な ものの否定によって成り立つ観念であることが分かる。 ところで、「科学」と「進歩」が近代を特徴づける概念であることは言うまでもない。 そこで今、我々は、近代性の置かれている窮状を前にして「古代」と「近代」の二項対 立を思考の俎上に上げようとしているのであるが、我々はそれを、「科学」と「進歩」の 二概念に代表される近代的思考の一次元的思考の土台を根底から揺るがすものとして持 ち出そうとしているのである。我々はそうすることによって、「科学」に対しては「哲学」 を、「進歩」に対しては「回帰」対置することの可能性を問おうとしているのである。 では、そのような「科学」と「進歩」に代わる思考が必要とされるのはなぜか。我々 がいま危機の只中にあるというのが、その第一の理由である。現代が危機に直面してい ることは、ポストモダンを予見した思想家たちによって指摘されていた。そのような思 想家たちが我々の時代を危機的であると診断した際、彼らが指標として見たものの一つ に、「価値」評価の問題があった。一言で言えば、近代人が最高とか最善といったものを 見なくなったというわけである。その危険を察知した哲学者ニーチェは、白昼、提灯を 灯して市場にやってきて「神を探している」13と喚いている狂人を描き出した。彼はそ れによって、我々が「哲学」を見失ったこと、つまりニヒリズムの只中に足を踏み入れ ていることを告げ知らせたのである。そこでは真理探究者は「狂人」とされてしまって いる。「啓蒙」の光が当てられている世界にあっては、「神」すなわち「真理」は隠され、 人々の視界からかき消されてしまっている。そして、それを求める者は、狂人とされて しまう。真理を消し去った下手人は近代人である。それとともに、その探究者、つまり 「哲学者」も、姿を消してしまう。
32 このような哲学の不在あるいは哲学の科学への変貌が意識されるに至ったとき、すで に近代=モダンの終焉が意識されていたはずである。確かに、彼は、「近代」の終焉とポ ストモダンの到来の予見者であった。彼が見て取った「哲学」の終焉は、以前の「哲学」 の中心に位置づいていた「超越的なもの」あるいは「絶対的なもの」、本来「形而上学」 の名で呼ばれてきたものの否定の上に成り立つ。そしてこの形而上学の否定から帰結す ることは、近代科学がもたらした最大の成果である世界の合理化であった。先に見た「科 学」と「労働」は、その合理化推進のための兵器であった。そして、そこから、価値の 低位化と排除あるいは隠蔽が行われることになった。 人間と社会についての「科学」という学問分野の開拓者となった M・ウェーバーは、 独特の学問的知識の思想を生み出すことになったが、それは「道徳」や「倫理」の学に 代わる「価値自由」的社会科学として結実した。しかし、そのような独特の「価値」の 取り扱いによってもたらされる不都合を、彼は、近代的理性による人間と社会の認識の 限界として目にせざるを得なくなる。こうして我々は、ウェーバーがその主著の末尾に 近いところで「価値自由」的科学が直面する窮状を吐露して口にした、次のような言葉 を目にすることになる。 ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾に差し掛かっ たところには、「禁欲」的人間「労働」を基にした機械的で技術的な生産的社会としての 資本主義的「コスモス」に生きる人間を「職務遂行」の意味をすら考えなくなった機械 的人間と描く、以下のような文言が見られる。 「将来そのような檻(Gehäuse)の中に誰が住むのか、将来この恐るべき発展の終局 においてまったく新しい預言者が立ち現れるのか、あるいは古き思想と理念の再興 が行われるのか、それとも――そのいずれでもない場合――機械化された化石化… …が生じるのか、誰も知らない。その場合、このような文化的発展の「最後の人間 たち」にとっては、もちろん、「精神なき専門家と心情なき享楽人」という言葉が真 理となるであろう……。」14 ウェーバーがここで述べようとしていることは、資本主義の最終段階では、人間の生 が「檻」の中での生と同じになってしまうということ、そしてそこの住人たちは「精神」 と「心情」を喪失し、ただ快楽を追求するだけの「最後の人間たち」になってしまうと いうことである。彼は、その状態のから抜け出すために、「聖書」の「預言」へと回帰す
14 Max Weber, Die protestantistische Ethik und der Geist der Kapitalismus, in Gesammelte Aufsätze zur
Religionssozioligie I, J. C. B. Mohr (Paul Siebeck), S. 204. 〔マックス・ウェーバー、阿部行蔵訳『プロテスタ
33 るか、「古典哲学」の「古き思想と理念」へと回帰するか、しかし、それがなしえないと すれば、そのような「虚無」の中でそれを甘受しながらさ迷い続けるしかないことを提 言しているのである。そして、ウェーバー自身がどこかで「聖書」や「哲学」に回帰す る道を指示した痕跡を確認できないのだとすれば、おそらく彼は、第三の「虚無」の中 をさ迷い、それに耐える道を選んでいたのではないか。 近代人が見出した「労働」する生に対して、ウェーバー以前に、その中に隠されてい る難点を指摘した思想家に、ニーチェがいる。たとえば、彼の『曙光』のある個所で、 我々は次のような一文に出くわす。 「人が労働に目をやるとき――人はいつもそれによって朝早くから夜遅くまで勤勉 に働くことを思い浮かべているが――感じるのは、そのような労働が最上の警察で あること、つまり、労働とは各人を轡で繋ぎ止め、理性や熱望や独立欲の発展を力 ずくで制御することを了解するものであるということである。なぜと言って、それ は、異常に多くの神経の力(Nervenkraft)を消耗させ、熟慮、思案、夢想、配慮、 愛、憎しみからその力を奪うものだからである。……そして、絶えず厳しい労働が 行われる社会は、より安全な社会となるだろう。そして人は、安全であることを最 上の神性として崇拝する。――そして今や、ゾッとするではないか。労働者が危険 なものになったのである。「危険な個人」が、うようよと群をなしているのだ。」15 ここから、ニーチェが「労働」をまったく否定的なものと見ていることが読み取れる。 「労働」によって実現されるのは、「崇高な自由」や「高邁な精神」などとは裏腹の、矮 小な一時の快楽的生でしかない。にもかかわらず、それによって人間は己の中にある「精 神」を作り上げる諸々の素材を自分の外に対象化し、結果として「精神」でないものに してしまう。己自身を抽象化し、平板化し、また自ら機械化されることによって、結果 として社会というシステムの中で「平等」を手に入れる。労働による人間の自己物化は 己の人間性の捨象であり、自己のアトム化に他ならない。それによって、人間は、一個 の個人とはなるが、自身は「精神なき専門家」であるか「心情なき享楽人」となってい るのであって、「孤独な群衆」の集合体の中の一員でしかなくなる。それが生み出す「力」 もまた、「力」の集合ではあるが、組織された機械のごとき社会機構の「力」、生産力へ と純化した「力」でしかなくなる。 それこそが、ウェーバーが目撃した近代合理性原理の臨界の地平、すなわち「最後の
34 人間たち(末人)」たちの生の地平である。この矮小化された人間たちを最初に「末人」 と呼んだのはニーチェであったが、彼はその「末人」に対して「超人」を対置した。そ の「超人」が、資本主義社会の「虚無(Nichts)」に対する有効な対抗者でありうるかど うかはともかく、我々に突き付けられているのは、「超人」ではないにせよ、少なくとも それに伍しうる新たな哲学者、あるいは新たな「力への意志」の保持者であるだろう。 以下で我々が論じようとするのは、そのような新たな哲学者を養成するための「リベラ ル・エデュケーション」についてである。 4 ポストモダン人の古代回帰のために――「近代人‐古代人」論争を再開する すでに見たように、ウェーバーが「禁欲」の精神とそれに基づく「労働」によって成 立した資本主義の最終局面において目撃した「固い檻」の中に住まう「末人」たちが、 ニーチェの提案した「超人」をも飲み込んでいっそうの深みへと近代人たちを駆り立て ていったことは、ここ百年程の人類の歴史を見ただけで了解されるところである。「超人」 となってその世界に立ち向かうという選択肢自体が、「温熱」と「毒」を所望し、「平等」 を叫びあって「身を寄せ合う」族、一切を矮小化し蚤に似て掃滅しがたきものと化した 「末人」たちには、有効な手立てとはなりえなかった。かくして、我々ポストモダン人 がこの世界を生き延び、善き生を回復させるには、なおいっそうの強靭な力を持った存 在者を俟たねばならないようである。 そのような存在者の出現が俟たれるのは、近代性が迷いこんだこの世界が、思った以 上に奥深くにまで達しているからである。それは、「啓蒙」のうちに隠されていた「洞窟」 のさらに奥深くにある「第二の洞窟」に嵌まり込んでいるからである。いったい何が、 彼らをそのような「洞窟」のさらに奥深くにまで導いたのだろうか。ここではこの問題 について考えてみることになるが、その原因を突き詰めていくとき、我々は、近代性の 根本問題、すなわち科学的真理の仮説性と歴史的真理の相対性という根本問題に行き当 たることになる。 近代合理主義を最もよく特徴づけるものとしてデカルトの「明晰判明」を挙げること ができるであろうが、この語に込められている哲学的意味の一つは、『聖書』の「光あれ」 が示す、「暗=カオス」と「明=秩序」の二分法である。いま一つは、暗闇に光を差し込 ませる「啓蒙」の意味である。「古代」と「近代」の二分法に基づくこの考察では、この 「明」と「暗」との二分法とともに、「暗」から「明」とその逆の「明」から「暗」への 変化の問題が問われるべき重要問題として、浮かび上がってくる。 「明晰判明」は「明」の勝利と「暗」を消し去ることに貢献する一方、時間の観念と 結びつくことによって「文化」や「発展」や「成長」といった「歴史」に関わる諸観念 を生み出す。後者への展開にあっては、二項対立の媒介項を挟んだ総合による解決といっ
35 た論理が定式化され、それとともに、二項的思考は三項的思考に道を譲ることになる。 しかし、この三項的思考とともに、論理の明澄さは希釈されざるを得なくなる。それゆ え、二項的思考の三項的思考による解決は、前者の真理性の堕落の始まりともなった。 「科学的」から「歴史的」な理性への理性概念の転換は、このような真理性の希釈、あ るいは真理の基準の低位化を伴ったものでしかなかったのである。 啓蒙の反啓蒙=蒙昧主義(obscurantism)への転化が生じてくるのはここからである。 その転化は、光を差し込ませることによって成り立つ「明晰判明」の原理それ自身の内 にその明澄性を混濁させる原理が備わっているところから生じる。啓蒙にそのようなパ ラドクスが孕まれていることについては、近代性の運動が始まった時点から、それを懐 疑的に見ていた人たちには意識されていた。例えば、オランダの医者にして風刺作家で もあったマンデヴィル(Bernard Mandeville, 1670-1733)が著した『蜂の寓話』16の記述に は、そのことが確認される。彼は、その時代の代表的な都市を風刺して、それを「ブン ブンうなる蜂の巣」に譬えた。その風刺作品には、たしかに近代性が孕んでいる危険な 兆候が描き出されていた。 彼は小悪人として生きる近代人を「蜜蜂」に譬えた。蜜蜂というのは「蜜」の収集、 すなわち私益追求に勤しむ小動物である。しかし、この動物は、針で刺すことでも知ら れている。蜂がせっせと蜜を吸い集める動物であるという譬えには、それがよく「働く」 ということが含意されているが、それが針で刺すものであることによって小悪を行う動 物であることが暗示されている。この譬えは、近代人がただ蜜を集めるすなわち「労働」 に精を出す勤勉な存在者であることの他に、彼らが「甘言」と「欺瞞」の心得があり、 ちょっとした詐欺師的存在でもあることをも示している。 マンデヴィルが描く蜜蜂たちの都市は、やがて「神」の怒りに触れて、都市から「悪 徳」が取り払われる。すると都市は、あっという間に勢いをなくし、衰退の憂き目にあ う。「節度」を欠く熱に浮かされた都市に「節度」を回復させるには、何らかの強制的な 規制が必要である。マンデヴィルの言う「神」の怒りは、このような強制力であったよ うに思われるが、それは人間のレベルに戻して言えば、法令や制度の制定、つまり規制 の導入を意味している。マンデヴィルの都市は、放縦を規制する強制力を必要とし、秩 序へともたらされなければならないのである。 しかし、彼の描く蜜蜂には針があるものの、その針は、古代人プラトンが僭主支配を もたらす元凶と位置付けた「雄蜂(kēphēn)」の針と比べると、明らかに凶暴さの点で劣
16 Bernard Mandeville, The Fable of the Bees: or, Private Vices, Public Benefits. Oxford Clarendon Press, 1924 〔泉
36 る。マンデヴィルの「蜜蜂」には、マキアヴェリズムが「経済主義(economism)」17へ と仕上げられたことが反映されているのではないだろうか。我々は、この蜂たちの違い に、これからの議論の核心となるべきものが隠されていると見たい。そこに隠されてい る核心問題とは、一つにはマンデヴィルの都市が必要とする「力」の概念であり、いま 一つは彼がその問題を処理するのに採用した詩的なものと見なされうる「風刺」的な文 章表現の問題である。 前者の問題を考えるのに、「経済主義」へと仕上げられて「力」が柔弱化されたことで 真に権力政治の問題を解決する方向性が見出され得たのか、という問題が問われなけれ ばならなくなる。この問題は、「科学」と「労働」によって「力」の問題あるいは政治権 力の問題が解決されるのかという問題、と言い換えることもできる。いま一つは、「雄蜂」 と「蜜蜂」を対比するような表現法がもつ「力」の問題を考えてみることの必要性に関 わる。それには、「対比」的に見ることと「比喩」的に見ることに含まれる、「ロゴス」 の「力」という問題が絡んでくる。 ここでは前者の問題については結論だけを述べるに留めておかなければならないが、 一応の答えを出しておくと、「蜜蜂」に含意される「力」の柔弱化は、実は仮象でしかな く、実際には以前とは比較にならない別の「力」が生み出されているということである。 したがって、それ以来、近代的世界に生きる者は、その強大化した力の支配の中で生き ることを余儀なくされることになる。いずれにせよ、近代性の「力」の問題には、「知は 力である」という命題における「知」の理解が絡んでくるのであって、「科学」や「労働」 による世界の文明化あるいは文化化というA・スミスが「労働」の分割とその再組織化 である「協業」のなかに新しい「力」の源泉となるものを見ることによって示した解決 策も、結局は、その「知」の原始化(=分業)と低位化(=獲得術としての知)に他な らなかったのである。 これまで見てきた「経済主義」的解決は、社会あるいは生産機構を機械的なものとし て組み替えることによって「力」を生み出すものであったが、それは言ってみれば、「力」 の不可視化によって問題解決を図ろうとするものであった。「科学」と「労働」は、いわ ばその不可視化のための煙幕でさえあった。ポストモダンに哲学を再考しようという 我々の試みは、その煙幕によって身を隠すことに成功した「科学技術(technology)」の 正体を暴露することを課題の一つとしなければならない。我々には、その際、このよう な世界の原始化つまり野蛮化に抗するための「ロゴス」が必要とされてくる。我々がこ こで提示しようと考えているリベラル・エデュケーションは、そのための「ロゴス」を 養うものなのである。 17 前注9 を見よ。
37 ところで、さきにマンデヴィルの表現法に関して挙げたもう一つの問いは、このリベ ラル・エデュケーションへの通路を開くものである。その問いは、一つには「対比」と いう「ロゴス」の手法に関り、一つには「比喩」や「「風刺」といった「ロゴス」の機能 に関わる問いであった。前者の「近代」と「古代」を対比させることの必要性が意識に 上ってくるのは、科学の言語によっては語り得ぬものを語る必要性を意識するように なってからのことであろうが、しかしその必要性は、それ以前からさまざまな仕方で人々 の意識に上り始めていた。すでに触れたマンデヴィルはもちろん、デカルトに楯突き古 の暗闇の中に光を見たヴィーコにも、そして「新・旧論争」でホメロスに肩入れした人 たちの中にも、明晰で無矛盾的な真理に楯突き、対立をと矛盾を受け入れ、あるいは思 考の順序を逆転させて「回帰」を主張する、新たな思考への転換の試みが認められた。 我々が取り上げている「古代」と「近代」を対置する思考は、近代の始まりの時期に「進 歩」に対して「回帰」に可能性を見ようとする観点の表明のなかに見られたものである が、その思考の中に、我々は、近代性批判を可能にする「ロゴス」が表明されていたと 考えるのである。 二項を対立させて問題を解決へと導く思考のもっとも典型的なものが、「革命」の語が 表すものの中に見られる。それゆえ今では、その語は、本来の「回転」の意味より「対 立」と「転倒」によって示されるものを連想させるものとなっている。「コペルニクス的 転回」、「産業革命」、「政治革命」、「科学革命」などの語に含まれる「転回」「革命」には、 「安全」「安定」とは正反対の「対立」や「転倒」といった、地平を永続的に揺るがすも のが含意されている。それゆえ、その語が意味するものとともに現れた近代の「生世界」 は、常に「永久革命」の不安定な世界であり続けなければならなかった。「労働」という 「媒介」的活動による「安定化」の途が探られることもあったが、その試みが成功した ようには見えない。その結果、我々は、近代の後に訪れてくる平板なモノトーンの世界 でありながらその中で機械化した個体が蠢いているカオス的世界に依然として留まるこ とを余儀なくされているのである。 過去のロゴス的世界への「回帰」が必要ではないかという考えが浮かんできたのは、 それほど最近になってからのことではない。すでに触れたように「回帰」の可能性を問 おうとする考えは、17 世紀末から 18 世紀初頭にかけての新-旧論争の中にも見られた。 その論争自体は近代人派が勝利し以後「進歩」の観念が勢いを増して行くことになった が、敗れはしたものの、そこから古代人派が引き出した「回帰」の視点にも見られるべ きものがあることが分かってきた。それは、近代の文芸よりホメロスやギリシア悲劇の 中にいっそう高次の価値が認められるとする見解として表明されてきた。そして、彼ら が示そうとした視点には、「回帰」とともに、「啓蒙」とは別個のもう一つの視点が含ま れていた。それは、「古代」と「近代」の二項を対置させて問題を立てる視点である。そ
38
のような二項対立を軸にした思考は、初期の「啓蒙」の思考でも重要な役割を果たしそ
れを「進歩」の思想と結びつけ、「古代」に対する「近代」の優位を主張するために用い
られたのに、「回帰」の主張と結びついたこの新たな二分法的思考は、近代の弁証法的思
考を超える、対話的弁証法の思考へと我々の目を向かわせることになるのである。 J. スウィフト(Jonathan Swift)の『ガリバー旅行記(Gulliver’s Travels)』が、「近代人」
を「小人国(Lilliput)」の人間と描き「古代人」を「巨人国(Brobdingnag)」の人間とし て描いたとき、二項対立的思考と「回帰」の思想がそれに影響していたと考えられるが、 それにはそれなりの理由があった。その理由とは、彼が風刺作家であったことと、もう 一つは、彼がその作品を書く際にT・モアの『ユートピア』を参考にしていたという事 実である。風刺という独特の表現技法は、それ自体が、例えばデカルトやスピノザら近 代の哲学者たちが採用した「明晰判明」をモットーとする表現技法とは対照的なもので ある。加えてモアは、近代における立派なプラトンの弟子であった。要するに、「新・旧 論争」の産物であるスウィフトのこの作品は、明らかにモアの作品に影響された独特の 「ロゴス」と古典「回帰」を志向するものであったと言いうるのである。 それ以後に現れたルソーのような思想家が、「退歩」の歴史を着想し、近代から古代を はるかに超えて「自然」にまで「回帰」することを目指したことを考え合わせてみると、 スウィフトはある意味で、近代の「哲学者」たちとは一線を画しながら、本来の哲学的 「ロゴス」を取り戻す第一歩を踏み出した人物だったのではないかとさえ思えてくる。 少なくとも、彼は近代性を領導した「科学」のロゴスとは異なる、こう言ってよければ、 「科学」の「ロゴス」を超える、もう一つの「ロゴス」を著作家の本能のようなものに よって掴み取り、その「ロゴス」の息づく場を、それと同じ本能のようなものによって 突き止めていた、と言いうるのではないだろうか。 彼が示した著作家がよって立つロゴスの地平は、近代の哲学者たちや科学者たちがそ れによって真理を探究し真理を極めたものとは異質のロゴスであるが、それは、古典哲 学者たち、とりわけプラトンが、それを「哲学」から除外することを潔としなかった独 特の「ロゴス」の地平である、と言ってよい。そのような「ロゴス」の地平を、プラト ンは、ひとたびは追放した「詩人」を帰還させたり、「コロス」の中に「老人」たちの居 場所を与えたりすることによって、「哲学」の一角に確保していたが、スウィフトは、そ のような「ロゴス」の地平を、「近代」と「古代」を対比的に論じる「推理能力(logismos)」 とは異なる「ロゴス」によって確保しようとしたのである。彼は、ちょうどツァラトゥ ストラをして「牧人」にその咽喉に咬みついた蛇を噛み切れと絶叫させることによって 新しい「ロゴス」の地平を確保しようとしたニーチェと同様のことを、自らの旅行記の 著述によって実際に行っていたのである。それはまた、先に触れたマンデヴィルの詩作 とも共通するものであった。たしかに、ニーチェの夢見た地球の引力さえものともせず
39 「舞う(tanzen)」ことのできる「超人」の軽やかさには及ばないかもしれないが、スウィ フトにせよマンデヴィルにせよ、そのニーチェ的「舞踏」によって表される「ロゴス」 への一歩を踏み出していたことは間違いない。 以下において、そのようなスウィフトやマンデヴィルにその先駆的形を認めることの できる「ロゴス」こそ、「第二の洞窟」で苦吟する我々ポストモダン人にいま必要とされ ている「ロゴス」であることを示し、そのような「ロゴス」を我々の内に育むリベラル・ エデュケーションの必要性について、いくらか述べてみることにしたい。 5 リベラル・エデュケーションによる「善き生」の回復について ソクラテスは都市アテナイの一市民ではあったが、彼の父や母とは異なり、生計を立 てて行くのに必要とされる専門的な「技術」を持ち合わせなかったようである。だとす れば、彼は、都市の中にあってその都市に役に立つことを何も為しえなかったと言える かもしれない。そのため、彼は、単なる都市の頭数にしかならないような存在でしかな かったのであろう。それゆえというわけではないだろうが、プラトンがそのような彼に 都市の中に居場所を与えようとしたとき、都市の「頭」に当たるところに「支配者」= 「哲人王」としてお飾りのように居着かせる場所を確保するより他、妙案は浮かばなかっ たようである。いずれにせよ、彼が都市の中で得意とするような技術を発揮できるとこ ろは、そこ以外に見当たらなかったことは確かである。もっとも、ソクラテスにとって は、「支配者」でいることさえ、「自己知」の探求の妨げになるこの上なく煩わしいこと でしかなかったようではあるが。 しかし、ソクラテス自身はともかく、少なくとも彼の後継者たちは、彼が辿った運命 を省みるに及んで、都市の中に自らの居場所を確保するには、「愛知者」=「哲学者」の 「技術」を、他の「技術」保持者と対等に渡り合える「技術」として持ち合わせている 必要があると考えるようになった。哲学者たちは、「言論の技術」を自ら弁えるべき「技 術」であると考えるようになったのである。しかし、後に「産婆術(maieutikē)」18とし て知られるようになった「言論の技術」は、元来「書くこと」に関わる言論より「口頭 での言論」に関わる「技術」であったが故に、その実際の形態や運用法などが書き留め られて後世に残されることはなかった。それは、「数学の言語で書かれた自然」を読み解 きそれを言語化=理論化して知識として残されていった「技術」の知とは異なり、熟練 工が手で覚えて身に着ける「技術」とよく似て、我々がこれから示そうとしている非科 学的な「技術」の典型であると見ることができるものであった。 それはともかくとして、初期の哲学者たちは、そのような技術を「産婆術」と呼び、 18 Cf. Platon, Theaetetus, 150b-c
40 たとえて言えば他の「石工」の技術などと同類と位置づけ、都市に役立つと主張してき た。しかし、それが他の諸技術に伍しうるような技術であるどころかむしろ有害ですら あるといって問題にされたのが、かのソクラテス裁判においてであった。しかし、それ とともに知られているソクラテス的「皮肉」やアリストファネスが『雲』で伝えている 「学校」の教授科目であった「弁論術」やプラトンが『饗宴』に書き残した「シンポジ ウム」形式の「言論」なども加えると、ソクラテスに帰されるさまざまな「言論の技術」 があることは否定できない。さらに、その「言論の技術」なるものが極めて多義的であ り、さまざまな解釈の可能性に開かれたものであったことから、この語を巡って膨大な 「注釈」がものされもした。そのことを考慮すれば、ソクラテスの「言論の技術」は、 ある意味で哲学の主要な「技術」あったとする解釈も成り立つことになる。そこから我々 には、そのような「言論の技術」が「科学」と結ばれた現代の「(科学)技術」に対抗し うる「技術」たり得ないのかを問うてみたい、という欲求が湧いてくる。 以下において、そのことに可能性があることを確認するとともに、そのような「技術」 の「何であるか」を明らかにしていこうと思う。それとともに、そのような技術の獲得 を目指すリベラル・エデュケーションの「何であるか」についても考えてみることにし たい。もちろんのことではあるが、この「技術」は「科学技術」のように直接世界を変 えるものとは言えないようである。そのことはあらかじめ確認しておいてもよい。しか し我々は、ここで、それが人間を変える「技術」であることは明言できる。そこから、 それが世界を変えうる「技術」である可能性までをも否定することはできないように思 われる。 加えて、そのことに含意されているように、この技術は、それを用いる対象とかそれ によってたらされる成果が明白な他の諸「技術」とは異なり、その明確な対象や成果を 定義づけることが難しい「技術」であった。その曖昧さのゆえに、あるいはむしろその 曖昧さのお陰で、その「技術」は、ここでもプラトンに即して言うことになるが、他の 諸技術とは逆を行くような、およそ何にでも関る知に基づきその成果もまた何ででもあ りうるような、およそ技術の通念からは捉えられない、知のあらゆる領域を照らし出す 「技術」の存在を明るみに出すことにもなるのである。 「産婆術」を後世に伝えようと努力したプラトンは、言語化の困難なその「技術」を 言語化するために工夫を凝らした。その結果、成果は、彼の書いた多くの「対話篇」の 中に言説の形をとって残されることになった。それゆえ、プラトンの「対話篇」は、そ のような「言論の技術」をその原型に近い形で言語化したものであると言いうるのであ る。しかしそれは、元来言語化することが困難なものを言語化したものであったがため に、多くの解釈に余地を残すものとならざるをえなかった。それゆえに我々は、いわゆ る「注釈」という独特の「哲学」の歴史を構成する分野を持つことにもなった。しかし、