印度學佛敎學硏究第66巻第1号 平成29年12月 (215) ― 278 ―
『華厳略記』第五・第六について
―慧苑述『続華厳略疏刊定記』との関係を中心に―
曺 勢 仁
1.はじめに
本稿で取り上げる資料は,根津美術館蔵『華厳略記』第五と,個人蔵『華厳略 記』第六の二本である.『華厳略記』は,諸目録中にその名が見当たらない未知 の文献である.第五の存在については,かつて横超(1941, 76–84)によって紹介さ れているものの,これまであまり注目されてこなかったのは,本資料がまったく 公にされることがなかったためであると考えられる.新資料である第六について は,落合(2017, 185)が養鸕徹定(1814–1891)の『古経捜索録』(乾)に記載されて いる「華厳略記三巻」が初見であることを指摘している.藤堂(1972, 53)による と,『古経捜索録』は1852年に養鸕徹定が奈良などの諸刹で古経を捜索して完成 したものであるとされる.また同書には「華厳略記」の他に11種の『華厳経』関 連の書名が列記されている. 両本とも書写年次・書写者の情報を欠いているが,書誌学的特徴よりかなり早 い時期の書写であると考えられている.さらに後述するように,両本は唐の静法 寺慧苑(673?–743?)述『続華厳略疏刊定記』(以下,『刊定記』)第六∼十の五巻に相 当する注釈として,これまでその名が知られていない極めて貴重な資料であると 言える.本稿は両本の書誌事項を示し1),その注釈形式や特徴などを考察するこ とによって,新資料の性格を明らかにすることを目的とする. 2.『華厳略記』第五・第六の書誌学的概要
『華厳略記』第五は,根津美術館蔵(蔵品番号: 書00234/旧番号: 波80)の巻子本 一軸.首尾完全なものであり,書写年次・書写者は不明.端正な楷書体.改装黄 檗色無地表紙.楮紙.押界.裏打ち補修あり.法量は,横1,213.5 cm×縦28.9 cm であり,全23紙737行(1行24字前後)である.外題には「華厳略記第五」,内題 には「経本第二十巻 十行品第二十一之下」とあり,尾題には「花厳略記指事第(216) 『華厳略記』第五・第六について(曺) ― 277 ― 五巻」と記されている.巻首には「花厳略指事巻第五」とあり,「記」の一字を 外した旧表紙外題の一部が残存している.しかし,この旧表紙外題の書体は本文 とは別筆であることから,後に尾題を参考して付したものと推定される.従っ て,尾題の通り「花厳略記指事第五巻」というのが第五の正しい表題であると考 えられる.また「華頂山」「古経堂蔵」「徹定珍蔵」などの蔵書印からも知られる ように,第五は養鸕徹定が旧蔵していたものである2). 『華厳略記』第六は,個人蔵の巻子本一軸.首尾完全なものであり,書写年次・ 書写者は不明.端正な楷書体.改装黄檗色無地表紙.楮紙.墨界・押界.裏打ち 補修あり.法量は,横1,518.9 cm×縦28.7 cmであり,全30紙935行(1行25字前後) である.外題には「華厳略記第六」,内題には「経本第三十四巻 十地品第 二十六 三十五」とあり,尾題は記されていない.『華厳略記』第五と同様の蔵 書印が確認できるため,第六もまた,養鸕徹定の旧蔵であることが分かる. 先述のように,両本には成立年代を示す情報が記されていないが,落合と赤尾 は写本の形式や書体などの特徴から,両本とも9世紀頃であると推定している. ちなみに高精細デジタル顕微鏡による料紙調査では,その製造法より日本の紙で はないことが指摘されている3). 3.
『華厳略記』第五・第六の文献学的性格
横超(1941, 76–81)がすでに指摘しているように『華厳略記』第五は唐の実 難 陀訳『大方広仏華厳経』(以下,『八十華厳経』)第二十巻の十行品の第七無著行から, 第三十三巻の十 向品までの注釈であり,『刊定記』第六∼八の三巻に相当する. 『華厳略記』第六は『八十華厳経』第三十四巻の十地品の初地から,第三十五巻 の四地までの注釈であり,『刊定記』第九∼十の二巻に相当する.このように両 本は『刊定記』第六から第十までの注釈を残している.両本は法蔵(643–712)の 『華厳経探玄記』(以下,『探玄記』)に大きく依拠しており,また文字の出入などは 多少見られるが,ほぼ『刊定記』の文章を採用している.即ち「蔵師疏」「苑師 云」や「蔵師広釈如彼疏見之」「苑述四説如疏第九巻見之」などの引用例は,各々 『探玄記』と『刊定記』を指している.また「安云」「案云」「安小云」などの割 注が確認される.つまり,両本は構造的に『刊定記』の科段に従い『探玄記』と 『刊定記』の文章を引用しつつ注釈を進めており,注釈範囲や引用例より一見し て明らかな共通点が認められると言えるのである.周知の通り『刊定記』は法蔵 の『華厳略疏』を継承して完成したものである.そのため『刊定記』には,法蔵(217) 『華厳略記』第五・第六について(曺) ― 276 ― の 述になる部分(第一巻世主妙厳品∼第十九巻十行品の第六行善現行・第四十巻∼ 四十三巻十定品の前の九定)と,慧苑自身の 述になる部分(懸談・『華厳略疏』を除 いた部分)とに分かれていることが知られている4).ところで,現行本『刊定記』 は第六∼七の二巻を欠く.この点『華厳略記』第五は,散逸している『刊定記』 の一端を知り得る資料として注目に値するのである.かつ両本からは慧苑独自の 解釈についてもこれを窺うことができるのである. 両本の作者は未詳であるが,横超(1941, 81)は「慧苑の華厳刊定記を釈したも ので慧苑の刊定記は五教章指事中に最も有力な参考として屡々引かれている所で あるから,…寿霊の作と見るのが妥当である」と指摘し,永超の『東域伝灯目録』 (1094年成立)と凝然(1240–1321)の『花厳宗経論章疏目録』に記載されている作 者未詳の「同経略疏指事八巻」(T55, 1147a)と「華厳経略指事八巻」(『仏全』1, 250) に当たると推定している.一方,落合(2017, 185)は『華厳略記』第六について, 当初は義天の『新編諸宗教蔵総録』(1090年成立)に見られる「刊定記纂釈二十一 巻或十三巻法 創造正覚再修」(T55, 1166a)と推定したが,『華厳略記』第五の実 見調査によってこの推定を改めた. ただし,義天の記録のように『刊定記纂釈』は再修,即ち再治本で,再治の際 に元の書名に手を入れる場合もあり得るため,本来の書名については断言できな い.しかしながら,現在のところ『刊定記』の注釈は法 が唯一であるため,両 本の作者が法 である可能性も完全には排除できない.それゆえ,現存する法 述書との比較も視野に入れて検討すべきであろう5). 4.
おわりに
以上をまとめると,新資料『華厳略記』第六は,従来未公開であった根津美術 館蔵『華厳略記』第五に連なるもので,養鸕徹定旧蔵「華厳略記三巻」のうち, 二巻がこれに当たることが推定できた6).また両本は『刊定記』第六から第十ま での五巻に相当する分量を有する文献であり,『刊定記』の逸文を伝える資料と してその価値は極めて高いと言える.『刊定記』の写本は,長笹(1951)によって 第九後半散逸文の存在が報告されているが,それとの比較も求められる.本稿で は作者の究明までは至らなかったが,今後の課題として追求していきたい.(218) 『華厳略記』第五・第六について(曺) ― 275 ― 〈附記〉 貴重な資料の閲覧及び調査・研究に当たり格別のご配慮を賜った『華厳略記』第六の所持 者様をはじめ,落合俊典教授ならびに赤尾栄慶(京都国立博物館名誉館員)と白原由起子 (根津美術館学芸員)の両先生方に深く感謝の意を表する. 1)両本については2回(2016.10.3, 2017.6.6)にわたり実見調査を行っている.また両本の 書誌事項については赤尾の法量調査に基づいている. 2)白原によると,本資料は1933年に玉井久治郎(奈良大閑堂)によって購入されたもの であるという.筆者は田中光顕(1843–1939)輯集『古経題跋随見録』(早稲田大学図書 館/ハ04 05096)巻第一に「花厳略記指事第五巻」とあることを確認し,これが根津美 術館蔵『華厳略記』第五を指すものと判断した. 3)調査参加者(2017.1.27)は,江南和幸(龍谷大学名誉教授),石塚晴通(北海道大学名 誉教授),Anna-Grethe Rischel(テンマーク国立博物館名誉研究員),吉川也志保(一橋大 学言語社会研究課特別研究員),徐小潔(東洋文庫研究部),『華厳略記』第六の所持者, 落合俊典教授,筆者の8人である. 4)坂本(1956, 18–19).李(2000, 86–87)参照. 5)法 の『梵網経疏』は,恵谷(1937, 188–221)に上巻之上が掲載されており,『続蔵』に 上巻之下が収録されている.また『梵網経疏』における彼の教学については中西(2011) が指摘している. 6)ちなみに佐藤厚(専修大学特任教授)によると,書道博物館に所蔵されている養鸕徹 定旧蔵『華厳経疏』と題する断片は,実際には『華厳経』の注釈書ではなく,無性『摂 大乗論釈』の注釈であるとのご教示を頂いた.記して深く感謝申し上げる. 〈参考文献〉 養鸕徹定著・藤原弘道編 1972『古経捜索録』(乾)東山学園. 恵谷隆戒 1937「新出の唐法銑 梵網経疏巻上之上に就いて」『日華仏教研究会年報』2: 188–221. 横超慧日 1941「華厳略指事について」『日本仏教史学』2: 76–84. 落合俊典 2017「日本の章疏の現状と課題」『東アジア仏教章疏と大覚国師義天の諸宗教蔵 (韓国高麗教蔵学術会議資料集)』ソウル: 高麗大蔵経研究所,18. 坂本幸男 1956『華厳教学の研究』平楽寺書店. 藤堂恭俊 1972「養鸕徹定上人の古経捜索録」『日本仏教学会年報』38: 45–57. 中西俊英 2011「天竺寺法 の教学とその背景」『印仏研』59(2): 45–48. 長笹淳信 1951「続華厳略疏刊定記巻第九後半佚文追補」『仏教学研究』5: 44–62. 李恵英 2000『慧苑 『続華厳略疏刊定記』の基礎的研究』角川書店. 〈キーワード〉 法蔵,慧苑,法 ,寿霊,『華厳経探玄記』,『続華厳略疏刊定記』,『華厳 略記指事』,『刊定記纂釈』 (国際仏教学大学院大学)