• 検索結果がありません。

ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898-1910年)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898-1910年)"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子ど もの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年). Author(s). 千賀, 愛. Citation. 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 61(1): 75-90. Issue Date. 2010-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2289. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第61巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(Education)Vol.61,No.1. 平成22年8月 August,2010. ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある 子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年) 千 賀. 北海道教育大学札幌叔特別ニーズ教育学研究皐. SpecialEducationalConsiderationforChildrenwithVariousDifncultiesin. PublicSchooIsandSpecialSchooIs/ClassesinWorcester(1898−1910) SENGA Ai. DepartmentofSpecialNeedsEducation,SapporoCampus,HokkaidoUniversityofEducation. ABSTRACT Thispaperdiscussesspecialeducationalconsiderationforchildrenwithvariousdifficultiesinpublic SChooIswithaparticularfocusonspecialschooIsandspecialclassesinWorcesterfrom1898to1910.1n OrdertoelucidatetherolesofspecialschooIs/classesandpreparatoryschooIsaswellaseveningschool andtruantschoolforchildrenwithspecialneedsinpublicschooIsannualreportsfromWorcesterschooIs Weremainlyanalyzed.TheresultsshowedthataspecialschooIwithjustoneroomwasfirstopenedina publicschoolbuildingin1898.InWorcester,thereweretwotypesofspecialschool:SpeCialorungraded Classesandself−COntainedspecialschooIs.MostspecialschooIsweretheformertype;generallythere. WereOneOrtWOClassesingradeschool,andsometimesateacherandanassistantteachertaught together.Overageforeignpupils,backwardorretardationchildrenlearnedintheseclasses.. 1.問題の所在 2007年度の学校教育法改訂に伴って制度化された特別支援教育は,従来は「教育政策上は放置してきた障 害の種類にまで特別な教育の対象を拡大し」,通常学級に在籍する様々な学習困難やニーズをもつ子どもへ の対応が大きな課題となっている(茂木,2007)。また指導内容が増加した新学習指導要領の実施により, 今後は通常学級における学習困難・落ちこぼしの問題が顕在化することが予想される。公立学校における学. 習困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮は,19世紀から20世紀初頭の米国においても就学児におけ る過齢児や落第・退学,就労のための離学の問題が深刻化し,1910年前後から様々な実態調査が報告された (Kleabard,pp.87−89)。. 米国では19世紀後半から義務教育法が制定され「19世紀末から精神薄弱児や学習不振児もしくは英才など. 75.

(3) 千 賀. 愛. 『異常(exceptional)』な生徒に対する特別学級が公立学校の中に設置され始めた」(宮本,p.48)。特別学. 級の通史的研究はサラソンら(Sarason&Doris,1979)やラザーソン(Lazerson,1971)などによって行わ れ,その後,地域を限定した特別学級史の研究は,1900−1930年代のロスアンゼルスと1900−1920年代の ニューヨーク市を対象としたヘンドリックら(Hendrick&MacMillan)の研究,プロヴイデンス(ロード アイランド州)やニューヨーク巾を中心に検討した中村(1992他),フィラデルフィアを検討したトロピー (Tropea,J.,1987,1993)ボストンを対象地域としたオスグッド(Osgood)の研究などにより,外国人子弟 や学業不振児の学級が特殊教育の場として分化する過程が明らかにされてきた。なお特別学級に関する先行 研究の詳しい検討は千賀・高橋(2005)を参照されたい。. 筆者はこれまで『G.S.ホールの児童研究と特別な教育的配慮の史的研究』という全体構想のもと,① G.S.ホールの児童研究における発達の個人差と教育問題への視座(1880−1890年代)(千賀:2007),②クラー. ク大学数青学科の児童研究とウスター(Worcester)の児童・教育問題(千賀:2008)に取り組んできた。 筆者がマサチューセッツ州ウスター(Worcester)の公立学校を特別な教育的配慮の観点から検討する理由 は,第一に児童研究に取り組んだG.S.ホールのクラーク大学(ClarkUniversity)がウスター市内に位置し, 1890年代からクラーク大学がウスターの教員養成の研修や共同調査を行っていたためある。クラーク大学は 1890年年代初めから教員養成に取り組んでおり(Lagemann,p.10),クラーク大学のホールのもとで心理 学を学んだ大学院生はマサチューセッツ州立ウスター精神病院のマイヤー(A.Meyer)とウスター師範学 校(WorcesterNormalSchool)の校長ラッセル(E.H.Russel)のもとで活動することを奨励された。ラッ セルは1880年代後半から1890年代にかけて学齢児童を調査対象としたホールにとって重要な協力者であった (Zenderland,p.46&p.356)。またクラーク大学の教育学科が開講した土曜講座にはウスターの教師や教 育長が参加し(千賀,2007),ホールや同僚のバーナムは教育委員会が主催する研修の講義を担当していた(千. 賀,2008)。したがってクラーク大学の地元であるウスターの公立学校の特別な教育的配慮のあり方は,ホー ルらの児童研究から何らかの影響を受けたのではないかと考えている。 19世紀末から20世紀初頭のウスターの公立学校を研究対象とする第二の理由は,端的に言えば,アメリカ の特別学級史においてウスターが未検討となっているためである。アメリカの教育局が1929年3月に人口10 万人以上の都市に質問状を送って得られた回答をもとに一覧表にまとめた宮本(2005)によれば,ウスター では「聾学級」が1927年に設置されたとされるが,その他の特別学級(学校)は記録がない(宮本,pp.46−47)。. また1870−1915年のマサチューセッツ州における公立学枚の形成過程を検討したラザーソン(Lazerson:1971) においてもウスターの特別学校(学級)に関する言及はなく,州レベルの資料を用いた研究ではウスターの 公立学校における特別学校(学級)は確認されてこなかった。筆者も拙稿(2008)においてウスターでは特 別学級(Special/UngradedClass)は設置されなかったと述べたが,ウスター市教育員会の年報の巻末に 記載される教員名や給与が記載される学校一覧を参照し,各年の報告書を検討したところ,1898年に公立学 校内で学級形態の特別学校(SpecialSchool)が開設されたことが分かり,本稿における中心的課題として ウスターの特別学校(学級)を検討することとした。. 2.研究の視点と方法 本稿では,1898−1910年のウスターの公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもへの特別な教育 的配慮のひとつとして特別学校・学級がどのように位置づけられ,いかなる性質のものであったのかを明ら かにするため,①公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもへの特別な教育的配慮としてどのよう な対応がとられていたのか,②特別学校の開設経緯及び運営形態,③対象児の変化と学級種別の分化の3つ. 76.

(4) ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年). の視点から分析を行う。. 本研究に際して,マサチューセッツ州WorcesterPublicLibraryおよびBostonPublicLibraryにおいて 3回の史料調査を行った(2006−2007年)。分析対象となる史料は,特別学校(SpecialSchool)が開設され た1898年から,学習の遅れの原因や子どもの特性に応じて5つの特別学級(SpecialandUngradedClasses) が提起された1910年のウスター巾教育委員会の年報“ReportoftheWorcesterSchooIs”(以下,年報)で ある。. 3.ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子ども ウスターはマサチューセッツ州の州都ボス1、ン(Boston)に次いで第二の都市であったが,その人口は1900 年の11万8421人から1910年に14万5986人となり,この10年の増加は23.3%にとどまっていた(年報:1902& 1910)。また表1より5歳から15歳の就学人口は,1899年に2万人を超えて(20,159人)1910年には23,160 人になったが,毎年平均199人増という穏やかな増加であり,1905年と1909年のように前年度を下回ること もあった。. この時期の就学人口の増加は大都市において顕著であり,たとえばニューヨークでは1898−1915年に在籍 人口が2倍になり,校舎や教室の確保が追い付かずに二部制やパートタイムの授業で対応していた (Ravitchi,p.190)。. ウスターの教育制度は,初等学校(PrimarySchool)の3学年制,グラマー・スクールは4−9年生の 6学年制であり,それに続いて3年間のハイスクールから成っていた。大規模校には初等学校・グラマー・ スクールと同じ校舎に幼稚園も設置された。また郊外校(SuburbanSchool)や私立学校が存在した。 表1には年報の報告にもとづいて全口制学校の「出席率」を示した。出席率とは平均年間在籍者数と平均 出席人数から算出されたものであり,年間の在籍者数と平均出席人数を計算すると出席率はさらに10%程度 下回ることになる。本研究にあたり就学率を算出しようと試みたが,5−15歳の就学人口よりも公立・私立 全日制学校の年間在籍者数が常に多く計上され,在籍数から15歳以上の人数を差し引いても正確な就学率を 把握することができなかった。これは学期の途中で進級する者や市内の転校による在籍のダブルカウントが. 原因と考えられる。後述するようにこの時期は学校への通学は最低20週間(このうち10週間は連続)が確保 されていれば就労が許可されたこ. とから,マサチューセッツ州全体でも90%程度が平均的な出席率であった. と思われる(Lazaerson,p.p16)。 では学級規模はどのように変化したのだろうか。年報によると1898年の初等学校146学級に7282人が在籍 し1学級あたり平均49.8人,グラマー・スクールは,188学級に1万31人が在籍し,1学級あたり平均53.3 人であった(1898,p.62−63)。1905年には初等学校の学級規模は平均43.1人,グラマー・スクールは44.6 人(1905,p.92&pp.102−103),1910年に初等学校では平均39.1人の学級規模となり,グラマー・スクール では1910年には平均43.0人となり,大規模学級は徐々にではあるが改善されつつあった。. ウスターは大都市ではなかったが,ボストン近郊のため様々な移民が流入していた。1899年の公立学校(全 日制)では合衆国生まれの子ども16,517人にたいして,スウェーデン568人,カナダ339人,ロシア205人, イングランド161人,フィンランド54人,イタリア35人,アルメニア35人,スコットランド25人,ドイツ23人, ポーランド21人,その他139人を含め34カ国で生まれた子どもが通っていた。1905年には18,084人の合衆国 生まれにたいして,ロシア320人,スウェーデン303人,カナダ173人,イングランド161人,イタリア95人, アイルランド63人,フィンランド54人,フィンランド46人,アルメニア45人,スコットランド26人,Nova Scotia24人,シリア22人,トルコ20人,ポーランド16人,ドイツ15人,その他82人を含め31カ国で生まれた. 77.

(5) ∴二丁.、■. 二∴. ・、、㌧. ■こ. ﹁. ∴ −こ■.叫. 丁・、\∵一丁∴︰二三∴一. 、∴ ..、、.∴.㌧二∴﹂二∴・ ∵こ. ∵.∵︰.一・∵∵丁 ⊥. 丁. ∴∵.∴−∴︰∵■∴−・、こ■.=二∴一∴∴∴∵ コ∴T T÷二. 二十.丁・㌧∴. :こ︰︰−..二⊥・二.∴. 。吏﹂竃琳〓一刃♂融裔世剥榊空eせ朴の−t鯨︶盤漣壁掛空木輔.空車扉eせ剥麗朴コ取替 ∴. ∴・∴∵\ニ、∵. ∴.︰二.﹂ニ二丁∴−.∵.丁. ∵∵︰■∴一■■﹁. ..、、..∵. ︰︰∵∵ .∴. T﹂ ∵.こ ∴ ∵÷■■. こ∴.て二こ∴ ∴∴∵∵■ /ナ. ﹂∴ ノ〓丁 ■.、∴、.. ﹂︰∵.﹂⊥丁㌧、一.二∴∴﹂∴・∴∵ ∵∴ニ・.ニ、、..・・..ニ、∴. 辞 皿] ・−ヽ 輔く 辞. 零占. −.㌧、∴㌧・∵∴ニ、∴−、二.丁. ∴∵. ︵OL巴−票讐︶車両e世朝せ朴宗替刃癖Y蝶悼匪廿eせ朴増車‖N脈. ∴−.㌧. ∴..︰.〓二〓ニーJ. 。曝璧簑紳鮒か月鮒S−UU雲○盲忘戸こ∵占. 。岬′︶レ﹂爬漣裔Ye㌣囁皆皿t巧のせ厘望□Y朴梶. 丁・、÷÷ニ.∴=∴一.一−=∴一.∵二.∵=ニー.ニ二.一=∴一.‡ニ.こ.二.了ニ.=︰ニ.∴ニ二.一÷一..一−二′三.・二二ノて二丁ニー=丁二︰. ∴■. T﹁〓ニーこ二二−′∴一て、・二∴一.∴=∴一.一−=ニー.ト=∴一.∵=∴一.二三.一=二.∵ニー﹂二.了ニ.==∴一.∴∴二.∴二..一二二二J三・二丁−ノノ・±丁二丁=丁ユ︰.■■. 丁二丁=丁㌧二〓一﹁﹁ 〓 ・ ニ ー 二 二 二 − ′ ∴. ︵O﹁巴−霊芝︶癖Ye璧朴H鹿・せ朴匪悼冷叫稲胤嘩君刃□Y朴崗‖ L脈. 78. 叫. ∃] ※※※. 1√) 堪 しn †−」 剥 樫 蟹. 萄く →Nぐつ. †−」 □ 周 増 エ 宣 増. 、.

(6) ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年). 子どもが通っており,東欧・南欧の増加が顕著であった。 表2は公立学校の年間在籍人数と英才学校・特別学校生徒の割合(1898−1910)を示したものである。特 別学校の開設当初は公立学校(第1−9学年)生徒の0.1%であったが,1901年は0.7%,1906年には1.0%, 1910年には2.0%に達している。特別学校の内容は次節で詳しくとりあげることとする。. 表3は英才学枚に進級する生徒が含まれる第7−9学年を除いて,前年度の学年と次年度の学年の在籍人 数を比較して,第1−6学年の進級率の算出を試みたものである。 たとえば,1898年に入学した1年生が次年度の1899年に2年生へ進級した割合は,83.1%である。ただし, 新たに就学人口に加わった者は,必ずしも第1学年に入学するとは限らないこと,年度内に次の学年に進級 した場合は二重になることから,1901年の第4学年(120.6%)や1906年の第3学年(128.3%),1907年の 第3学年(119.6%)のように100%を超える学年が生じている。一方で初等学校の第2学年から第3学年に は80%以下の進級率が多くみられ,低学年の進級が困難な傾向がみられる。初等学校の改革は,1906年に改 訂された教育課程によって始まり,第1−2学年では校庭を使った身体活動や各種のゲーム,リズム活動な どが取り入れられた(年報,1907,pp.64−65)。表3の太字で示した学年は,いずれも80%以下であるが, 次の年次には前年度に比べて10%から50%の回復を示している。. 表3:各学年の前年度比による進級率(%) 学年. 1898. 1899. 1900. 6. 107.0. 89.9. 5. 96.9. 111.3. 4. 97.0. 92.0. 3. 99.5. 100.7. 2. 93.7. 83.1. 1901. 90.8. 1903. 100.7. 107.6. 94.7. 1902. 97.0. 100.9. 120.6. 87.3. 105.9. 113.8. 89.1. 90.3. 1904. 1905. 86.0. 81.8. 96.0. 1907. 92.8. 94.5. 116.2. 81.8. 1906. 1908. 89.9. 93.7. 99.3. 92.6. 106.7. 94.4. 94.2. 95.7. 99.1. 128.3. 78.6 88.1. 76.0. 63.7. 1909. 1910. 平均. 100.0. 98.3. 100.9. 95.4. 106.6. 119.6. 60.4. 96.6 87.2 107.0. 98.6. 71.9. 95.3. 75.2. 99.3. 88.4. 87.3. 83.5. 104.4. 101.2. 89.5. 78.4. ウスターの学校では,進級は校長の権限で生徒の学業成績をもとに個別に判断すること可能になっていた こと(年報,1900.pp.37−39),1904年には初等学枚とグラマー・スクールにおける次学年への進級・留年 の決定機会が半年毎になる半年進級制(Semi−AnnualPromotions)が実施され,実際には夏季休暇を除く5ケ 月間とされたこと(1904.pp.34−41),柔軟な進級システムに変化したことが何らかの影響を及ぼしたと考 えられる。. 4.公立学校における特別な教育的配慮の形態 表1・2・3に示すように,ウスターの公立学校では多様な困難・ニーズのある児童生徒に対して,学年 制の公立学校内に設置された特別学校と英才学校,就労する生徒のための夜間学校(EveningSchool)や非 行や無断欠席による生徒が措置された矯正学校(TruantSchool)によって対応していた。 寄宿制の矯正学校は,ウスターを含むカウンティ内に6校設置されており,ウスターにはそのうち1校が 開設されていた。矯正学校が市の教育予算項目に含まれるようになるのは1896年以降であったと思われる (1896,p.60)。 マサチューセッツ州は全米で最も早い1852年に義務就学法を定めて8歳から14歳の子弟に対し少なくとも12. 79. 95.. 100.4. 94.4. *表2および1897年の年報をもとに,前年度の学年から次年度の次学年に進級した人数の割合を算出した。太字 は各年度で最も低い進級率の学年を示している。. 95.2. 81.5.

(7) 千 賀. 愛. 週間の就学を義務付けて始まったが(安藤,p.50),1889年の改訂では年度内の通学期間が20週間に延長さ れ,2つの学期(term)に連続して10週間通うことが義務付けられた。また違反した保護者に対して罰則 が設けられていたが,身体的・精神的状態がその通学に際して不適当または不可能な場合には20ドル以内の 課金対象から外すことも明記されていた(1889,pp.54−55)。矯正学校は毎年欠席調査官(TruantOfficer) が学枚を対象に欠席数と欠席届の理由を調査し,無断欠席数,いずれの学枚にも通っていない者の数,無断 欠席による補導者,就労許可が下りる者について対象者を把握して教育委員会に報告し,毎年一定数が矯正 学校に送致された(表1)。寄宿制の矯正学校に送致される子どもの多くは,非行や怠学による無断欠席を 繰り返すケースであったが,「家庭のしつけ(home−training)に欠ける男児」や低学年のうちに留年して「学 年を繰り返すうちに意欲を失った遅滞児(backwardchildren)」も含まれた(1900,p.58)。また矯正学校 への送致は少数であったが,「道徳的疾患(moraldisease)」が「慢性的な状態」に達した後からではなく, 早期の段階から矯正を行うために「個々人の興味を喚起し,個別のニーズ」に対応すべきであることが提起 されていた(p.39)。 次に,公立学校における多様な教育形態の一つとして夜間学校(EveningSchool)をとりあげる。もとも と夜間学校は,「徒弟(Apprentices)のための学校と関連して位置づけられ」,「1828年より少し前,冬期 の3−4ケ月間に仕事のない若者」が通い始めたとされている。1847年には夜間学校の維持に関する法が整 備され,1874年までは11月または12月から3月にかけて公立学校で夜間学校の授業が行われた。1883年以降 には夜間学校の開設・維持は人口1万人以上のタウンと市に義務付けられた。夜間学校の教育予算は,生徒 一人当たり16.69ドルであり,全日制学校の3分の2に抑えられている(1903,pp.43−44)。これは学期 (Session)が12週間と短く,担当する教師が月給制ではなく,1日2時間の授業を時間給講師が担当して いることに起因している。また夜間学校は,読み書きや社会人として必要な貨幣計算,税金や選挙制度,ビ ジネスレターの指導などを行う一般の夜間学校の他に,夜間調理学校(tiveningCookingSchool)と夜間絵 画学校(EveningDrawingSchool)が設置されていた(表l)。 一般の夜間学校は成人を含めた就業者が主な対象者であるが,外国人の増加に伴い就学年齢の子どもも通 うようになっていた。たとえば,1901年に報告されたチャンドラー(ChandlerStreet)夜間学校の生徒71 人の平均年齢は21歳であるが,11歳から42歳までの幅広い年齢層が通っており,国籍はアメリカ26人,アル メニア27人,フランス9人,スウェーデン4人,アイルランド3人,フィンランド2人,中国人1人であっ. た(pp.119−122)。チャンドラー夜間学枚では,多様な年齢と国籍の生徒に対応するため4種類の学級を設 置しており,A学級では割り算や測量などの基本的計算,地理や歴史の概略,投票や碗金などの市民生活, 英語の読み書きではビジネスレターの書き方などが扱われ,B学級は初等学校の内容を中心に四則計算や合 衆国史,手紙の書式やビジネスレター,C学級はアルメニア・フランス・スウェーデン・アイルランド・フィ ンランド人の13人が対象であり英語の読み書きが中心に行われ,D学級では英語を全く話せない6人を含む. 9人全員がアルメニア人であり,主として読み書き・計算の基礎的な内容の授業が行われた (ibid.pp.120−121)。夜間学校は学年制の学級とは異なり,生徒の母国語や学習進度に応じた学級編成を行 うことが可能であったことがわかる。 さて次に,学年制の公立学校内部における特別な教育的配慮の形態として英才学校(PreparatorySchooIs) をとりあげる。宮本(2005)によれば「1900年以後,ニューヨーク市をはじめとして,各地の公立学校に英 才学級が設置され」ており,ウスターはニューヨークに次いで全米でも2番目に早く英才学級が設置され, 第7・8・9学年を対象学年としてハイスクールの教科を教育内容としていた(pp.87−90)。宮本(2005) はボルモティア市の英才教育を検討し,「優秀な生徒は第6学年修了時に英才学級(PreparatoryCenterと よばれた)」に入り,「通常の第7−8学年の課題に加えて,ラテン語,フランス語(またはドイツ語),上. 80.

(8) ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年). 級英語,まれに数学」について「各教科の専門の教師が教え,ハイスクールの単位として認定される」と述 べている。英才学級は「ハイスクールの卒業が普通の生徒よりも1年早くなる」ことが示された(p.89)。 ウスターのグラマー・スクール内に設置された英才学校(PreparatoryGrammarSchool)は1901年9月, ディックス(DixStreet)校舎とベルモント(BelmontStreet)校舎に各1学級,ミルバリL(MillburyStreet) 枚舎に2学級,サウス・ハイスクール枚舎に2学級の計5学級が開設され,194人の定員が設けられ(年報, 1901,p.11&p.129),運営形態は大規模校に開設された学級の形態をとっていた。英才学校の生徒が第7 −9学年に占める割合は,1901年の4.3%から1904年には9.0%まで高まった後,1905−1907年には6−7% 台に下がり,1908年から1910年には8.2%から11.0%まで増加した。 英才学級の設置校はいずれも幼稚園・初等学校からグラマー・スクールを含む大規模校舎であり,各校の 年間在籍人数はディックス.校舎は659人,ベルモン1、校舎は783人,ミルバリー校舎は1056人,サウス・ハ イスクール校舎は614人であった(ibid.pp.136−137)。初年度の1901年にはウスター全体で英才学級の定員 (194人)を超える203人が在籍し,1学級の平均規模は40.6人であった。1901年度,英才児学校の在籍生徒 の平均年齢は13.6歳であり,第8学年の平均年齢13.1歳と第9学年の14.0歳の中間程度となっていた。その 後の1902年から1910年の年報を調査したところ,平均年齢は12.7歳と若干下がり,15歳以上の生徒も10∼3% 程度在籍していた。また一般のハイスクールと比較すると平均年齢では3−4歳程度の開きがあった。 ウスターの英才学校は,カレッジの準備期間であるハイスクールへの準備期間を1年短縮し,フランス語 とドイツ語をハイスクールよりも下の年齢から学習することを目的として設置された(年報,1902,p.43)。 基本的には第6学年修了後,第7学年から早進して第8学年への進級を許可された生徒が対象であるが,制 度上は第7・8・9学年いずれの年度初めからでも英才学校に入学することができた。2年間の英才学校で は,ハイスクールの1年間分のラテン語・フランス語・. ドイツ語の授業が前倒しで行われたが,実際には英. 才学校を終えてハイスクールに入学した生徒であっても最初から2年目の授業についていくことは不可能で あるとされた(年報,1902,pp.43−44)。. ウスターでは,1899年9月の教育課程(CourseofStudy)の改訂に伴い,第9学年にラテン語と代数学 (algebra)のカリキュラムが導入され,この2科目を必修とするのか選択科目にとどめるのか,試行錯誤 が行われていた(年報,1901,pp.74−77)。代数学は第8学年で行われる数学との継続性があると考えられ たが,ラテン語を必修化した学校では,ラテン語は生徒が最も嫌いな科目となり,ラテン語を理由に学校に 通わなくなったケースがあるとされた。しかし,1901年9月に設置された英才学級(preparatoryclass)で は,ラテン語の学習によって英文法の理解が進むと報告されていた(ibid.)。. 5.公立学校における特別学校の開設経緯 ウスターの学校統計の項目に初めて「特別学校(SpecialSchool)」が掲載されたのは1898年であり,45人 の定員が確保された(年報,1898,p.62)。しかし統計調査が行われた1898年11月7日は,特別学校の教師 が1名採用された直後であり,1898年の年報には特別学校の在籍人数は掲載されていない。表4は最初の特 別学校が設置された校舎と教員・給与を示す一覧(CLERK’SREPORT)である(年報,1898,p.108)。 ここでプロヴイデンス校の校舎の構造をみておこう。1898年の学校当局が所有する校舎および校舎の敷 地に関する場所,面積,資産価値の一覧表によれば,プロヴイデンス通りには隣接する2つの校舎があり,. それぞれ8教室を有する2階建てと4階建の構造で校舎の状態は良好(Good)となっている(年報, pp.76−77)。プロヴイデンスの2つの校舎には計16教室が設置されていることから,表4に示すように,数 枚長を除いて教員17人のうち幼稚園のアシスタントを除くと,特別学校のキャリガン(Carrigan)を含めて. 81.

(9) 千 賀. 愛. 16人がそれぞれ自分の教室を持ち,担任を務めたと考えるのが妥当であろう。特別学校がどちらの校舎に設 置されたのかは不明であるが,幼稚園・初等学校・特別学校を含めて7教室が一つの校舎,9教室を必要と するグラマー・スクールは8教室を有するもう一つの校舎では教室が不足するため,初等学校側の校舎を一 部間借りした可能性がある。幼稚園,初等学校,グラマー・スクールまでが一つの校舎に設置され,一人の 枚長による学枚運営はこの時期のウスターでは多くみられた。. また先述したように1898年の特別学校の定員はウスター全体で45人であった(年報:p.62)。プロヴイデ ンス校には幼稚園から第8学年まで全体で年間延べ698人(男子353人,女子345人)が在籍し,年間の平均 出席人数は498.8人であった(ibid.,p.69)。16教室に698人の在籍では1教室当たりの平均は43.6人,平均 出席人数では31.2人となり,新しく開設された特別学校には1つの教室に45人の定員が設けられ,1899年に 26人が在籍したと考えられる。通常,「特別学校」とは管理職や複数の教室や教員を有する「学校」として の形態を想定するが,1898年11月にウスターで初めて開設された特別学校は,公立学校内の1教室に1人の 教員という「特別学級」の形態として出発したことになる。. 次に特別学校の名称と運営形態の変化をとりあげる。プロヴイデンス校に特別学校が設置された1898年に は「特別学校(SpecialSchool)」の名称であったが,1900年の年報から“SpecialandUngradedSchool’’ と常に併記して記載されるようになった。. 表4 プロヴイデンス(PROVIDENCE STREET)校舎の教員一覧(1898) 担当学年等 校長(Principal). 岩フ ヨマ. 教員名(採用年等*). 月給(ドル). ThomasJ.Higgins(1887年). 8年生 アシスタント. AnnaG.Cullen(1891年11月). 7年生. KatherineE.White(1895年10月). 525. 6年生. HonoraL.Murphy(1888年). 600. MargaretJ.McCann(1877年). 600. ヨl. 600. 賀・. 未定. 〔つス 5年生. AnnaM.Johnson(1890年2月). 600. 5年生. CarrieM.Adams(1878年). 600. 4年生. MaryE.Joyce(1887年). 600. 4年生. AnnaH.GrifEin(1898年6月). 450. 3年生. Sarah,Newton(1869年). 600. 2−3年生. S.MariaDavis(1891年9月). 575. MaryC.Smith(1883年). 600. NellieJ.Wattie(1892年3月). 600. CatherineJ.Murphy(1895年10月). 525. VirginiaHenry(1896年7月). 525. GraceA.Durfee(1898年5月). 450. MargaretJ.Carrigan(1898年11月). 500. 岩ク 計l. 巴ル. ト「コ コ.. 2年生. 邑校 で 〔/つ. 1年生. 幼 椎. 園. 特別学校(SpecialSchool). 出典:ReportoftheWorcesterSchooIs1898,p.108より筆者が作成。*採用年月の記載は,資料の表記 に従ったものであり,採用年が1880年代以前の教員は採用年の記載のみの傾向にある。. 2校目の特別学校は1900年,レッジ(LedgeStreet)校舎に設置された特別学校(SpecialSchool)であり, 1佼目のプロヴイデンス佼とともに,その目的は「英語を話すことができない外国人」,「遅滞児(backward)」 そして「身体的障害(bodilydisability)」のために「個別の配慮(individualattention)を必要とする生徒 のため」とされた(年報,1900,p.56)。最初の2校であるプロヴイデンス校とレッジ校は,1899年4−. 82. 1300.

(10) ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年). 5月にクラーク大学のホッジ(C.F.Hodge)の協力のもとで行われた学校保健の調査で,最も貧困地区に 位置する5つの学校のうち2つにあげられている(千賀,2008)。またこの学校保健の調査では視覚異常 (defectiveeye−Sight)の富裕層が多い地区の学校で異常が15.5%であったのにたいして,プロヴイデンス 校は視力低下や眼病などによる視覚異常が最も多く36.6%,レッジ校も27.2%となっている。プロヴイデン ス枚の特別学枚が弱視や眼病などによる視覚異常と関係があるかどうかは不明であるが,1900年の年報では 特別学級の対象児には深刻な視覚障害,聴覚障害による遅滞児が含まれることが示されている(p.55)。. 初めて独立した「特別学校」が設置されたのは1901年であった(表5)。年報によれば,もともとレッジ 校に設置されていた学級形態の特別学校が1901年4月に移設される形でワシントン特別学校に開設され (1901,p.11),2階建て校舎の2階で通常の授業を行い,1901年末の時点で24人が学んでいた(ibid.,pA8)。 表5:ワシントン(Washington Street)特別学校の教員一覧(1902) 担当学年等. 教員名(採用年等*). 月給(ドル). 指導主事・校長. EdgarE.Thompson. 特別学校. MargaretJ.Carrigan(1898年11月). 700. アシスタント. MargaretV.Kirby(1902年5月). 500. アシスタント. 未定. 400. 出典:Report ofthe Worcester SchooIs1902,p.150より筆者が作成。. このワシントン特別学校には1901年度に年間35人(男子33名:女子2名)が在籍し,このうち15歳超の生 徒数は1人のみであった(年報,1901.p.137)。同校の教師(M.」.Carrigan)によれば入級児は「身体的,. 精神的,道徳的に劣った子ども(physically,menta11y,mOra11yweakchildren)」であった(年報,p.104)。 表5は,開設2年目の1902年,同校には66人の生徒が在籍したが,12人は就労のために学校を辞めており, 平均年齢は12歳であった(年報,1902.pp.45−46)。なおウスターで特別学校として初めて単独設置校を任 された教師キャリガン(MargaretJ.Carriga)は,1898年にプロヴイデンス校に設置された最初の特別学級 の担任を務めた教師の氏名と採用年月が一致することから(表4),同一人物である可能性が高い。 表5の段階では未定となっていた3人目の教員採用は1902年9月には決まり,元の学級から著しく遅れて しまった子どもに対して,手工訓練や歌唱指導,体操などを取り入れつつ,学習面では7つの学年にわたっ て個別の指導を中心に小集団も併用した指導を行っていた(年報,1902.pp.46−47)。手工訓練の導入は開 校当初から続けられ,「筋肉の協調性が大きく改善され」,目を注意深く使うことや「神経が過敏な子ども」 にとって適した活動として報告されている(1901,p.104)。ワシントン校の教師キャリガンは,こうした 特別学校の生徒は放置されていれば「確実に学校をドロップアウト」するため,外国人子弟を対象とする学 校よりも「わずかに高い出費ではあるが,このような特別な指導(specialinstruction)は,不利な子ども たちにより多くの利益をもたらす」(1902,p.45)と学校運営の効率性の面からもその意義を主張した。 1902年にはウスター全体で3つの特別学級に143人が年間を通じて在籍(出席率88.3%)し,学級規模の 平均は46人程度であった(表6)。プロヴイデンス校(1−8年生と幼稚園)の特別学校(UngradedSchool)1) とワシントン特別学校(SpecialSchool)2)には教員と常勤アシスタントが1名ずつ加配され,学級規模は当 時の通常の学級よりも少人数体制をとっている。. 以上のように,ウスターでは,1898年に公立学校内における特別な学級形態による特別学校が設置され, その後1901年には学業不振児を中心とする特別学校として単独設置校が開設された。また物理的には公立学. 83.

(11) 千 賀. 愛. 校内のひとつの学級から出発し,初等学校とグラマー・スクールのいずれにも属さないという意味で「特別 学校」の名称が用いられた。予算や教員の配置の側面から毎年の教育委員会の予算・人事記録を参照すると, ハイスクールやグラマー・スクール,初等学校などの学年制学校,さらに夜間学校・郊外校・幼稚園には予 算項目や学校種別の教員数の記載があるが,特別学校は校舎および定員数,生徒数のみの項目であり,学年 制学枚の予算に含まれていたと考えられる。特別学枚は独立した予算・教員数の枠を持たないことは,公立 学校内の「特別学級」としての意味合いが強いことを示唆している。. 6.特別学校の学級数と対象児の変化 1898−1910年における特別学校・学級の学級数・定員・生徒数(男女)・加齢児(15歳超)・平均年齢・ 外国出生者数・非英語圏の親の割合について,各年報の調査結果をもとに一覧を作成した(表6)。特別学 級の定員と実際の在籍生徒数を比較すると,定員よりも実際の在籍人数が少ない年が多く,定員を超えた年 は1904年(6人分不足),1905年(33人分不足),1907年(19人不足)に限られ,それ以外の年度は確保した 定員には十分な余裕がある。男女比は一貫して男子の方が多い傾向にあったが,1899年の男子が76.9%に 対して,1910年には61.5%になっている。. 表6 特別(Specialand Ungraded)学校・学級数と児童生徒の変化(1898−1910) 項目/年. 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 1909 1910. 学級数 定員人数 男子(人) 女子(人) 在籍生徒(計). 2. 3. 3. 4. 9 10 12 14 17. 9. 5. 45 47 89 115 176 176 142 177 327 257 446 483 508 20 33 103 93 95 99 96 124 178 248 196 219 6 14 35 50 52 49 48 68 98 104 102 137 26 47 138 143 147 148 144 192 276 352 298 356. 出席率(%). 87.8. 79.1. 83.4. 88.3. 90.0. 90.2. 86.1. 88.7. 88.8. 85.7. 87.2. 87.5. 平均年齢. 13.2. 13.2. 12.2. 11.9. 12.1. 12.0. 12.3. 11.9. 12.1. 12.5. 11.4. 11.4. 78.2. 78.8. 81.3. 75.2. 69.5. 15歳超(人) 外国出生者(人). 非英語圏の親(%). 3 17 25 21 30 21 23 16 41 110 72 42 21 30 119 106 96 98 80 76 224 294 113 252 68.8. 78.4. 81.9. 72.1. 58.7. 61.9. 68.1. 出典:ReportoftheWorcesterSchooIs,1898,1899,1900,1901,1902,1903,1904,1905,1906,1907,1908, 1909,1910各年のSchooICensus等より筆者が作成。1898年については,開設初年度のため定員と学校(学級) 数の記録のみになっている。. 先述したように特別学校の開設から3年目の1900年までに,2つの特別学校では「個別の配慮を必要とす る」「英語を話すことができない外国人」,「遅滞児(backward)」,「身体的障害(bodilydisability)」が対 象となった。プロヴイデンス校は空き教室の1つに遅滞児と「合衆国に来たばかりの移民の40人近くが」入 り,「時別な生徒は(specialpupils)」がレッジ校の対象となり(年報,1900.pp.56−57),学級種の分化が みられた。. 保護者にとって公立学校の通常学級から特別学校に子どもを入級させることは,現代と変わらず抵抗が あったようである。学業不振児が多かった特別学校の教師は次のように述べている。「最初は特別学校に子. どもを通わせることに保護者が過敏になっていた」が,学校見学を勧めて説得し,ひとりひとりの生徒への 教師の愛情や熱意,各児の活動の適切さに接してもらい,保護者の理解を得ることができた(年報,1902,. 84.

(12) ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年). p.46)。 1903年には4つの特別学校が公立学校内に設定されており,「レッジ校とプロヴイデンス校は「理由を問わ ず同じ年齢の子どもから非常に遅れてしまった生徒や特別な措置(Specialtreatment)を必要とする欠陥 (defect)を理由とする生徒を対象」とした特別学校(SpecialSchooIs)として,メイソン(MasonStreet) 枚に開設された特別学枚(SpecialSchool)は,精神的な特性を理由に特別なケアが碇供される生徒のため の学校であり,通常の学業に加えて手工訓練が割り当てられた。「その他の二つの特別学校(SpecialSchooIs) は無学年制(ungraded)であり,勉強に失敗して遅れている生徒および本国に来たばかりで我々の言語を 話すことができない生徒のための学校である」(年報1903,p.33)。 ウスターの特別学校・学級在籍者の平均年齢は,1899年の13.2歳はグラマー・スクールの第7学年(12.8 歳)と第8学年(13.6歳)の中間であり(年報,p.98),1904年の12.0歳もまた第7学年(11.6歳)と第8. 学年(13.6歳)の間であったが(年報,p.94),1910年の11.4歳では第5学年(10.10歳)と第6学年(11.8 歳)に下がっている(年報,p.104)。 表7の対象児の出生国と英語以外を母国語とする親の子どもの割合から,特別学校・学級の対象児は移民 の子弟が多かったことがわかる。これまでのアメリカ特別学級史研究において,中村(1993)は初期の「精 神薄弱学級」の対象児童の「共通の傾向として,移民,それも東欧・南欧出身が中心であり,言語は非英語, 宗教は非キリスト教」であったと述べている。本稿ではウスターにおける特別学級の対象児童の比較対象と して,第1−9学年の通常学級の生徒との比較を行うため表7に示す。. 表7:公立学校と年寺別学校の生徒間における出生国の違い 1900. 出 身 国 アメリカ合衆国. 1905. 1910. 第1−9学年 特別学校 第1−9学年 特別学校 第1−9学年 特別学校 14707. 7. 260. 2. 152. 2. 118. 4. 69. 0. 59. 1. 40. 1. 113. 0. 97. 0. 158. 0. 20. 0. 15. 0. 5. 0. 33. 0. 21. 0. 37. スウェーデン. 466. 0. 257. 6. 191. 11. ロシア. 203. 6. 253. 34. 555. 54. イタリア. 87. 3. 117. 32. フィンランド. 42. 1. 62. 11. 15. 191. 15. 126. 15825. カナダ アイルランド イギリス ドイツ スコットランド. その他. 248. 合計(人数). 16119. 外国生まれの割合(%). 8.8%. 81.1%. 14823. 22. 136. 37. 15942 7.0%. 64. 14351. 49.2%. 9.3%. 104. 1. 233 55.4%. 山典:ReportoftheWorcesterSchooIs,1900,p.106,1905,p.104,1910,p.106より筆者が作成。. 外国で生まれた児童生徒の数は一般の公立学校生徒に比べて明らかに高く,1900年では第1−9学年の 8.8%に対して特別学校は81.1%,1907年には7.0%に対して特別学校は49.2%,1910年には9.3%に対して 55.4%となっているが,特別学校の対象児における外国生まれの割合が高まる傾向は顕著ではない。ウスター. の就学年齢児の識字率をみると,「読み書きができない(illiterate)」14歳以上の人数は,1900年は4人,1905 年は56人,1910年は16人となっており,外国人子弟が就学した小規模都市ウスターにおいて夜間学校や特別 学校・学級を含む公教育が普及していたことがうかがえる(年報,1900,p.152;1905,p.164;1910,p.163)。. 85.

(13) 千 賀. 愛. 7.1906−1910年以降における特別な教育的配慮と特別学校・学級の分化 これまでみてきたように1898年に1校から出発した特別学校・学級は,1906年3)には9学級に定員327人 まで拡大し,対象児の割合も初めて1−9学年生徒の1.0%に達し,1905年から1906年の間に年間在籍人数 も144人から192人と33.3%も増加した(表6)。1906年以降は,外国人のための特別学枚の新設が相次いで. おり,1906年5月にラマーティン(LamartineStreet)校の特別学校(年報,1906.p.10),1907年12月に はゲージ(GageStreet)校,1908年1月にはミルバリー(Mi11buryStreet)校にそれぞれ設置され(年報, 1907p.10),各1人の教師が配属された(ibid.p.118&122)。ウスター年報の教育統計によれば,1907年度 の特別学校対象児の出生国うちロシアが最も多く50.8%,次いでアメリカ27.5%,スウェーデン9.0%,イ タリア3.7%(1907,p.88),1908年度ではロシア36.5%が最も多く,次いでアメリカ27.9%,イタリア8.2%, スウェーデン6.7%となっていた(1908,p.98)。 表6より1907年の1学級当たりの人数27.6人であるが,平均出席率が9割を割っていること,学校によっ てはアシスタントを常勤採用しているクインシグモンド(Quinsigamond)校の特別学校(UngradedSchool) の学級もみられ(年報,1907,p.124),実際の教師一人当たりの生徒数は27.6人よりも少なかったと考え られる。. 一方,公立学校における特別な教育的配慮の対応のひとつとして,1908−1909年の夏季休暇を活用した休 暇学校(VacationSchool)では新たな試みが始まった。「ハイスクールや初等学校の上の学年で進級に失敗 した生徒や通常の課程よりも早い進級を望む子どもを対象に」公立学校の教師による授業が行われ,十分な 成果を上げたと報告されたのである(年報,1909,p.46−47)。それまで休暇学校は幼稚園クラブや市民団 体のボランティア活動の一環として,校庭を活用した野外活動,裁縫などの活動が行われていた。ウスター の公立学校には英才学校と特別学校が学級形態で設置されて様々な困難・ニーズへの対応が行われていた. が,夏季休暇の間にも公立学校の教師が雇用され,補助的な授業が行われた(年報,1900,.59)。この休 暇学校の補修授業の詳細については今後の課題である。 次に,学校を欠席して補導された子どもが特別学校に措置された記録をとりあげる。1910年,ウスターの. 学校の523件について調査した出席調査官(SupervisorofAttendance)によれば,欠席の主な理由は①義 務教育法に従うべき親による故意の無視(neglect),②貧困(poverty),③健康調査官によって除外された 子どもの適切なケアの欠如であった(年報,pp.94−95)。欠席理由の第一は,「主に外国人女性のケース」 であり,子どもの就学義務に関する法律の理解が不十分な場合であるが,説明を受けた親が子どもを学校に 通わせなければ欠席調査官(TruantOfEicer)に引き継がれた。次に,欠席理由の第二である貧困は,学校 に通う「衣服がない」場合に様々な慈善組織から欠席調査官に報告された。また「子どもが母親が働いてい る間,年少の子どもを世話するために家庭から離れられない」場合には,「通常は幼い子どもを保育所 (DayNurseries)に照会することになる」(ibid.)。第3の欠席理由は「最も対応が難しい」とされ,健康 調査官による出席停止を受ける主な理由は「シラミ症,とびひ(膿痴疹),かいせん」であった。これらの うち,「とびひ」と「かいせん」は,比較的解決しやすいとされるが,眼病の場合には病院の治療が必要と なり,母親が多忙や貧困などを理由に病院に連れて行けない場合には出席調査官が子どもを病院へ連れて いった。もっとも根深いのは「シラミ症」であり,一人の感染から短期間のうちに学級全体に広まった。こ のためシラミ症に握った子どもの頭が完全に良くなるまでの期間は出席停止扱いとなった。こうした問題に 対して出席調査官は「もしスクール・ナースを雇用することができれば,(シラミ症)の拡大期間は確実に. 短くなるであろう」とし,「ウスター女性福祉連盟(WelfareLeagueofWorcesterWomen)は最も深刻な ケースについて短時間の看護師を雇用することに貢献した」と報告している(年報,1910.p.94−95)。. 86.

(14) ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年). こうした主要な3つの理由が大部分を占めていたが,欠席児のうち「遅滞児(backwardchildren)は特 別学校に措置され」,「放置された(Neglected)子どもはしかるべき機関に照会された」(ibid.)。特別学校. に措置された正確な人数は定かではないが,1910年の欠席調査官の報告では補導人数36人のうち,34人が寄 宿制の矯正学校(TruantSchool)へ措置された(年報,p.164)。 最後に1910年の副教育長報告における特別学枚・学級の分類と担当教師の役割に関する見解をとりあげ る。副教育長のハリス(AliceLouiseHarris)によれば1910年には「全部で17の特別学級(specialclasses) のうち,7つは英語以外の言語を使用し最低学年では年齢が高すぎる生徒の学級,5つは恒久的な遅滞 (permanentlyretarded),5つは一時的な遅滞(temporarilyretarded)である」(年報,p.56)。 「恒久的な遅滞」とは,「ゆっくりした進歩のため通常の子どもより著しく遅れる子どもであり」「何らか. の不治の脳損傷(incurablebraindefect)による精神欠陥(mentaldefect)である」。「義務教育法の施行 と健康診断の導入は,遅滞(retardation)の存在を強制的に表面化させることとなった」。「一時的な遅滞」. の背景には,家庭や教室の諸条件による健康問題,就学の遅れ,不規則な出席,転校,大人数学級,子ども の態度や興味に対して不十分な教材や方法,限や耳の身体的欠陥,のどや鼻の慢性疾患,虫歯,不十分な栄 養,劣性遺伝性の神経疾患,結核性の傾向,言語困難,脳の構造的欠陥など様々なものが含まれていた。ハ リスは,通常の子どもは「精神薄弱(feeble−minded)」と同じ段階をたどるとし,両者の主な違いは「精神 薄弱児」がある段階に留まるのにたいして,通常の子どもはより高い発達の段階に進むと述べている (pp.52−55)。こうした副教育長ハリスによる通常の子ども(normalchildren)と「遅滞(retardation)」 の発達に関する連続的なとらえ方は,ニューヨーク訓練学校のゴダード(H.H.Goddard)やペンシルヴァ ニア大学の心理学者ウイトマー(L.Witmer)の見解を引用しながら5頁にわたって展開された(1910,p.55)。. ハリスによれば,ウスターでは「特別学級(specialandungradedclass)の再分類」が試行されていた: (a)正常な能力(normalability)の者で自分の言語では諸教科の知識をもっているが,外国生まれで英 語を使いこなせない。同じ場所に2学級が開設されている場合には,年齢に従って年少児を年長児から 分ける。英語での読み書き能力の強調,特別学級は学年制の教室であり,その生徒は通常学級に進むこ とになる。これらをいわゆる「特別学級(specialclasses)」に含めるべきであるのか疑問である。 (b)正常な能力の子どもだが,先ほど述べたような何らかの理由により1つ又は複数の教科で一時的に遅 れている。このような特別学級は,通常の学年へ進むための手形交換所(ClearingHouse)である。 (C)理解するのが遅く,生まれつき劣った知的能力の子どもであり,そのために集団指導(massteaching) に適応することができず不安定になり,進歩は遅いが真面目である。 (d)上述したものに加えて,通常学校の方法によって進歩することが全く不可能であるほど薄弱 (deficient)であるが,それにもかかわらず,現存する知性を最大にすることが学校の課題である。. (e)深刻な視覚障害や聴覚障害など何らかの身体的欠陥によって遅滞している正常な(normal)子ども の学級。」. 副教育長ハリスは,「特別学級における子どもの長所や短所は,分析を可能にするほど際立って顕著であり,. その場所(特別学級)は原因や方法,手段の研究および個々の子どもの研究のための実験室になる」とし, 特別学級を受け持つ教師にたいして「精神的欠陥(mentaldefect)」の症状や対応方法のみならず「学級の 欠陥児(defectivechildren)の実際の観察と研究に裏付けられた知識」が求められると指摘した。また特 別学級の教師は,いかなる学級であっても最善の指導に必要とされる多くを学ぶことになるであろうとし, 専門性の高い教師の役割を積極的に期待した(年報,1910.pp.52−53)。以上のように,副教育長ハリスの 報告によって1910年の時点ではウスターの特別学級では外国人子弟の過齢児のための学級,恒久的な遅滞,. 87.

(15) 千 賀. 愛. 一時的な遅滞の3タイプの学級に対象児を分類し,恒久的な遅滞の学級では「精神薄弱児」も含めて対応し ていたことが明らかになった。. 8.結語と今後の課題 本稿は1898−1910年のウスターの公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもへの特別な教育的配 慮のひとつとして特別学校・学級がどのように位置づけられ,いかなる性質のものであったのかを明らかに するためにウスター教育委員会の年報を分析の対象とし,①公立学校における多様な困難・ニーズのある子 どもへの特別な教育的配慮の内容および形態,②初期の特別学校の開設経緯と運営形態の変化,③1906−1910 年における対象児の変化と学級種別の分化の3つの視点から検討を行ってきた。 1898−1910年のウスターの公立学校では,外国人の子どもや成人に対する夜間学校,無断欠席児のうち行 動や養育の問題のある子どものための矯正学校,大規模な学年制学校に開設された英才学校(学級),健康 問題を含む様々な理由で通常の学級で困難をもつ子どもの特別学校・学級という特別な教育的配慮の対応が とられていた。. 1898年にウスターの公立学校内に学級形態で開設された「特別学校」は加齢児の外国人子弟,様々な理由 による遅滞児(backward)を対象としており,個別の指導を実現するために設置された。1900年までに開 設された最初の2つの特別学級はいずれもウスター内の貧困地区の学校であり,特別学級の対象児には視覚 障害・聴覚障害による遅滞児が含まれた。その後1903年には4つの特別学級のうち,2学級は様々な理由に より同じ年齢の子どもから著しく遅れた子どもが措置され,その他の2学級には英語以外の言語を母国語と する生徒と「勉強に失敗して遅れた子ども」が対象になった。その後,1910年にかけて特別学級の数と対象 児は徐々に増加した。1910年の副教育長の報告から,ウスターの特別学級では外国人子弟の過齢児のための 学級,恒久的な遅滞,一時的な遅滞の3タイプの学級に対象児を分類し,恒久的な遅滞の学級では「精神薄 弱児」も含めて対応していたことが示された。. ウスターの特別学校・学級は開設当初(1898)から遅滞児(backward)を対象に含んでいたが,1910年 頃には“retardation’’が用いられるようになった。この遅滞(retardation)は,狭義の精神遅滞ではなく, 学業不振児を含む幅広い概念としてとらえるべきであろう。アメリカでは知能検査が影響力を発揮する以前. から,都巾部の学枚問題に対する警鐘を示すデータが示されており,1908年にソーンダイク(Edward Thorndike)は,落第や学年を繰り返す子ども,基礎を習得する前に初等学校を辞める子どもを多数調査し て報告しており,学年制学校の限界に対してその論拠を先駆けて示したのがユアーズ(Ayres,1909)の “LaggardsinOurSchool’’であった(Reese,p.162)。マサチューセッツ州の公立学校では7%が遅滞児 (retarded)とされ,アメリカ各州の平均はおよそ33%の遅滞児が公立学校内に存在したと考えられた (Ayres.L.P.1909,p.1)。当時の「遅滞(retardation)」とは,6−7歳で就学したが14歳になっても第 8学年には到達せず,第5−6学年にしか到達しない子どもを指している(ibid.,p.8)。したがって必ず しも遅滞児の問題がすべて「精神薄弱児(feeblemindedchildren)」に関連しているわけではない(ibid., p.3)。. 本研究では,ウスターの公立学校における特別な教育的配慮のひとつとして特別学校・学級の成立過程を 検討してきたが,特別学校・学級の教育内容と教師の専門性や資格について分析することは今後の課題と なった。また特別学級史においてウスターをどのように位置づけるのか,他の都市の特別学級の動向を再検 討しで慎重に位置づける作業が必要であると考えている。. 88.

(16) ウスター(Worcester)の公立学校における多様な困難・ニーズのある子どもの特別な教育的配慮と特別学校・学級(1898−1910年). 【付記】本報告は科学研究費(若手研究B)「G.S.ホールの児童研究と特別な教育的配慮の理論と実践に関する史的研究」 (No.20730563)による研究成果の一部である。. 【註】. 1)1902年のProvidenceStreet校舎は,1年生から8年生の11学級と幼稚園が設置されており,校長1名とアシスタント(幼 稚園と特別学校)の2名を含めて16人の教員から構成されていた。同校の特別学校は教員のMargaretBrown(月給500ド ル,1901年11月採用)と常勤アシスタントのAgnesE.Daniels(月給500ドル,1902年5月採用)が担当していた。 2)ワシントン校舎の特別学校(SpecialSchool)は1903年9月にメイソン(MasonStreet)校舎に移設された(年報,1903. p.9)。メイソン校も2階建ての2教室を有するワシントン校と同様の構造である。 3)1906年の年報によれば「教育課程において年度内には一切変更がなかった」(p.31)とされており,公立学校における何 らかの変化が特別学校・学級の定員や在籍人数の増加に与えた影響を確かめることはできなかったが,学校保健の面では. 大きな進展があった。1906年10月,学校保健委員会(BoardofHealth)は,市内を15地区に分けて15人の医師を雇用し, すべての公立・私立の学校で健康診断(medicalinspection)を開始した。大規模校には医師が毎日訪問し,その他の学校 は過に2回の訪問を行い,校長の要請があれば追加の訪問が行われた。その結果,年度初めにしばしば起こっていた伝染 病による学校閉鎖を防いだことが指摘された(年報,1906.p.33)。1904年の年報では,伝染病の症状がみられる子どもを 早期に発見し,学校内で伝染病の蔓延を予防することによって,出席率を高めて多くの子どもが順調に進級できるように すべきであると碇起されていた(p.47)。1906年10月以降にシステム化された健康診断のための学校訪問は,1909年の年報 においても毎週1回以上の頻度で継続されていたことが報告されている(p.49)。. 【文献・資料】 安藤房治(1996)アメリカ公立学校制度における特殊学級(学校)の成立一特殊学級(学校)対象の明確化と州法の規定を中. 心に,『弘前大学教育学部紀要』第76号,pp.6780. Ayres,LeonardP.(1909)L(脚rdsinOurSchooIs:AStudyq/RetardationandEliminationinCi&SchooISysiems.New York:CharitiesPublication Committee.. 粟野正妃(1997)1920年代ニューヨーク市初等学校における等質集団編成の実施とその意義,『日本の教育史学』40,pp.319−335.. Hendrick,IrvingG.&DonaldL.MacMillan(1987)CopingwithDiversityinCitySchooISystems:TheRoleofMentalTest− inginShapingSpecialClassesforMentallyRetardedChildrenInLosAngeles,1900−1930.EducationandTraimngln 胞〃ね7月ゼねγdαfわ〃,20(1),pp.10−27.. Hendrick,IrvingG.&DonaldL.MacMillan(1989)SelectingChildrenforSpecialEducationinNewYorkCity:William Maxwell,ElizabethFarrell,andtheDevelopmentofUngradedClasses,1900−1920.TheJournalofSpecialEducation.22 (4),pp.395−417.. Hendricks,J.D.(1968)TheChild−Stu4yA4bvementinAmericanEducation,1880−1910:AQuestjbrEducationalRdbrm ThoughAScientificStuめ′q′theChild.IndianaUniversity,Ph.D.(UnpublishedDissertation). Kliebard,H.M.(1995)TheStruggh?jbrtheAmerica71Curriculum1898−1958(SecondEdition).Routledge. Kline,LinusW.(1897)TruancyasRelatedtotheMigratingInstinct.月ヲ吻icalSemina7T,Vol.Ⅴ,pp.381−420. 是永かな子(2007)『スウェーデンにおける統一学校構想と補助学級改革の研究』風間書房。. Lagemann,EllenCondliffe(2000)AnElusiveScience:The TroublingHisto7TqfEducationResearch.TheUniversityof ChicagoPress.. Lazerson,M.(1971)Originsofthe th,banSchool:PublicEducationin腸ssachusetis,1870−1915.HarvardUniversity Press.. Losen,DanielJ.&OrfieldGaryed.(2002)Racia11hequi&in秘ecialEducation.HarvardEducationPress. 松岡信義(1982)アメT)カ児童研究運動(ChildStudyMovement)−その思想と性格−,『教育学研究』49(4),pp.353−362. 宮本健市郎(2005)『アメリカ進歩主義教授理論の形成過程:教育における個性尊重は何を意味してきたか』東信堂. 茂木俊彦(2007)『障害児教育を考える』岩波新書.. 中村満紀男(1991)20世紀初頭アメリカ合衆国における公立学校センター論と特殊学級の確立,『社会事業史研究』19, pp.85−101.. 89.

(17) 千 賀. 愛. 中村満紀男(1992・1993)世紀転換期アメリカ公立学校制度における精神薄弱特殊学級(学校)の成立とその意義について(1) (2米3)『秋田大学教育学部紀要(教育科学)』第43号一第35号. 二文字理明(1974)アメリカにおける精神薄弱児特殊学級の成立過程序説,『精神薄弱間組史研究紀要』16,pp.2−11. r)ノ笹川た(J///りJ/イ//Jl・J(、/川/,/〔1/りノ川J〟ん・l・.凡・♪/げ//イ//Jl・IIlげ(、l・∫/l・J・J(、/川/,りiげノババナノ. り/即JJた(J/わJJrイ肋(・J(、/汀椚/(1「りノ川J〟ん・(・.凡・♪rJ/イ「イ肋(・IIlれ、(・∫/l・/・J(、/川rJりわ・ノ〟ナノ「Jlノ〟J〃ノ. り/津川た(J/わJJrイ肋(・J(、/汀椚/(1「りノ川J〟ん・(・.凡・♪rJ/イ「イ肋(・IIlれ、(・∫/l・/・J(、/川rJりわ・ノ川ノ十↓仇叫.. Osgood,RobertL.(2000)凡r“Children Tmol匂7THomtheNormal乃少e”:即ecialEducationinBoston,18381930.Gal−. 1audetUniversityPress. Ravitch,Diane(2000)TheGreatSchooIWb7T:AHiito7Tq/爪屯uJI句rkCi&PublicSchooLs(Orなinal&PublishedbyBasic β「州血′JJノナノ7イノ.. Rice,J.M.(1893)ThePublic−School伽temq/thethliiedSiates,TheCkntu7TCo. Reese,WlliamJ.(2005)AmericabPublicSchooIs:釣′OmtheCommonSchoolto‘WoChildLqHBehind”,TheJohnsHop−. kinsUniversityPress. Ross,D.(1972)G.Sian励励Il:TheP町Cho10giitas月「坤het,Thethlive7Ti&q/ChicagoP柁SS. Sarason,SeymourB.&Doris,John(1979)EducationalHbndic(ゆPublicPolicy,andSocialHiito7rABroadenedPer*ec− tive on胞nialReiardation.The Free Press.. 千賀愛・高橋智(2005)米国における義務教育普及と特別な教育低配慮の史的研究−19世紀中葉以降の東部諸州の動向を中心 に−『障害者問題史研究紀要』40,pp.21−36. 千賀愛(2007)G.S.ホールの児童研究における発達の個人差と教育問題への視座:1880−1890年代を中心に,『北海道教育大 学紀要(教育科学編)』58(1),pp.209−220. 千賀愛(2008)クラーク大学数青学科の児童研究とマサチューセッツ州Worcesterの児童・教育間組:1890−1900年を中心に, 『北海道教育大学紀要(教育科学編)』59(1),pp.195−207.. 菅野文彦(1987)アメT)カ革新主義期における都市公立学校の機能拡人に関する考察−Welfare−Orientedprogressivesによ る民間事業からの影響に着目して−,『日本の教育史学』29,pp.150−168.. Taff,StevenDavid(2005)ThePhenomenologyq/theBachuJardChild:AHisto7Tq/SchooIEbilureinProgressiveEra America,1890−1且ヲ0.TheGraduateSchooloftheUniversityofMissouri−St.Louis.UnpublishedDissertation. Tropea,JosephL.(1987)BureaucraticOrder andSpecialChildren:UrbanSchooIs,1890s−1940s.HistoryofEducation Quarterly,27(1),pp.29−53.. Tropea,JosephL.(1993)StructuringRisks:TheMakingofUrbanSchoolOrder,intheChildrenatRiskinAmerica:His− tory,Concepts,andPublicPolicy,RobertWollonsed.,StateUniversityofNewYorkPress,pp.58−88. Tyack,DavidB.(1975)TheOneBestSystem:AHistoryofAmericanUrbanEducation.HarvardUniversityPress. Zenderland,Leila(1998)MeasuringMinds:HenryGoddardandtheOriginsofAmericanIntelligenceTesting.Cambridge. UniversityPress.. (札幌校准教授). り0.

(18)

参照

関連したドキュメント

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

青少年にとっての当たり前や常識が大人,特に教育的立場にある保護者や 学校の

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

工学部の川西琢也助教授が「米 国におけるファカルティディベ ロップメントと遠隔地 学習の実 態」について,また医学系研究科

教育・保育における合理的配慮

目標を、子どもと教師のオリエンテーションでいくつかの文節に分け」、学習課題としている。例

・学校教育法においては、上記の規定を踏まえ、義務教育の目標(第 21 条) 、小学 校の目的(第 29 条)及び目標(第 30 条)

 英語の関学の伝統を継承するのが「子どもと英 語」です。初等教育における英語教育に対応でき