生命科学と社会
2009
生命科学と社会
長谷川眞理子
総 研 大 先 導 科 学 研 究 科
生 命 共 生 体 進 化 学 専 攻
1
<1> 科学的思考/生命観の変遷
1.
科学的思考と問題解決の方向
私は、3年前まで早稲田大学政経学部で、自然科学の素養のない学 生に科学について教えていました。政経学部の学生は優秀で活発です が、そもそも物理、化学、生物など理系科目を履修しなくても入試に 受かるので、科学全般に興味のない学生も多いのです。そういう学生 に、科学全般や生物学について教える立場になって、私も改めて勉強 し直しました。また、私自身、科学者としてのキャリアは長いにもか かわらず、これまで、今これから私が話そうとしているような講義の 内容は、どこでも聞いた経験がないことに思い当りました。そのため、 私自身にとっても、ずいぶんプラスになりました。 そういう経験もふまえて、これから生命科学の諸分野に進み、さら に詳しく専門的な勉強をしようとしている人たちに、一歩離れて全体 を俯瞰しながら、生命科学のありかたや歴史を提示することは、今後 の方向を考えるにあたって大きな意義があると思います。そこで、生 物学には雑多な内容が多いのですが、いくつかの軸にそって考えてい きます。まず、生命科学と社会という観点から、生命科学は人間や社 会からどんな影響を受けたか、また逆にどんな影響を与えたかについ て指摘し、さらに、生命観の変遷を学ぶきっかけを提供したいと思い ます。 1.1. 人間の生活と密接に関わっていた生物界の理解 科学と社会について考える目標は、科学や技術の発達は人間をどの ように変えてきたかについて正負の両面から検証し、また科学と技術 は人間に何をもたらし、人間や社会をどのように変容させてきたかを 俯瞰的に検証し、さらに、今後の方向性についても展望することです。2 特に生物学については、生命科学の観点から、生命及び生命観につい て理解するとともに、さらに人類の福祉にとって何ができるのか、で きないのかなどについても考えてみたいと思います。 私は、東大の生物学科人類学専攻の出身なので、人類学的思考がか なり身についていますが、人間という生き物がどう地球上で進化した かについて長い視点で見ると、人間の行為や科学、技術についても異 なる見方ができます。生物としての人間がどう生き、知識を蓄積し、 子孫を残してきたか――何百万年にわたる歴史の延長に、現在の文明 や文化や科学、技術があるわけです。 そのような長期的な観点から見ると、人間の生活は、最初から生物 界の理解と密接に関連していました。人間はホモサピエンスの時代か ら、あるいはそれ以前から、自然界、特に生物界に対して、なんらか のシステマティックな理解をしなければ生存は不可能でした。すなわ ち、食糧の採集と調理、道具の製作と使用、衣服やシェルターの製作、 病気やケガへの対処、出産、子育て、死者の埋葬 これらはすべて 生物界の理解と密接に関わっています。それは科学とは言えないかも しれませんが、人間は生きていくために、生物界において知識と行動 をパターン化してきたのです。 現在われわれは、文明社会、都市化社会、科学技術社会の中で生き ていますが、今日のような社会は突然生じたわけではなく、何百万年 にもわたる、科学技術以前の社会が存在していました。その様子をい まだに垣間見せてくれるのが、今日も現存する伝統小規模社会です。 そして、その社会の人々が、どのように生活し、何を知識として伝承 しているかなどの研究は、民族(フォーク)植物学、民族動物学、民族 生物学 などのように呼ばれています。それは決して現代の近代科 学社会のモデルではありませんが、どの時代、どの文化、どの社会に おいても、自然現象を説明する知識体系は伝承されてきました。それ らを説明する体系は、現代の科学から見れば、正しかったこともあれ ば、まちがっていることもあります。しかし、それなりに機能してき たこともたしかです。
3 石器時代から古代文明まで、人間は、道具・材料(石器、冶金、土 器、陶器、布)、建設(シェルター、家、橋、大建造物)、移動(車輪、 いかだ、船)、エネルギー(火の使用と制御)、数学(記録、計算、測 定)、天体観測(暦、占い)、医療、コミュニケーション(絵、彫刻、 記号、文字)など、さまざまな知的資産を残してきました。これらは 目に見えるモノとして残っているので、われわれもその存在を知るこ とができますが、それらの知識がどのように継承されてきたかについ ては、無文字社会の場合は記録としては残っていません。しかし、太 古からそれらについての知識が存在していたことはたしかです。 科学技術の発展は、人々の生活を物質的に豊かにさせただけでなく、 その知識が人間の自然観、人間観、世界観を徐々に変えてきました。 伝統小規模社会にも知識はありましたが、そこに科学が介在すること によって、人間の価値観を大きく変容させてきたわけです。その意味 で、純粋科学の知識体系は、モノとしてのテクノロジーに反映されな いので有用性がないということはなく、長期的に見れば、人間の世界 観に大きな影響を与え、それがまた社会のあり方も変容させてきたの です。 1.2. 問題解決の方法としての「生活知」と「説明知」 伝統小規模社会に代表されるような社会において、科学の説明体系 を確立させていなくても、知識をパターン化し伝承することができた のは、「生活知」と呼ばれるような、ものごとを円滑に行う知識があっ たからだと考えられます。生活知とは、われわれが日常生活をうまく 営むこと、つまり、自分自身を維持し、社会関係を保ち、さまざまな 道具を使いこなすなどの作業を円滑に行うために使われている知識を 意味しています。この知は、科学的な体系化も、厳密な意味での仮説 検証もされていませんが、日常生活を円滑に営むには、けっこううま くいく知識です。現代のように科学技術が発達した社会でも、われわ れが日常生活で使っているのは、ほとんどこのタイプの知識です。た
4 とえば、自転車に乗る、クルマを運転するなどの行為は、その原理を すべて理論的に理解している必要はまったくありません。 このようなタイプの知恵を生活知と呼びますが、この知をもってい ればうまく暮らすことができます。原理を知らなくてもうまく利用で きますし、なぜうまくいくのかについても知る必要はありません。も ちろん、原理を知りたいという方向に進むときもありますが、そうで なくても、生活する点ではまったく問題がありません。こういう知が、 われわれの生活の中には膨大に存在しています。この生活知は、科学 的な意味での普遍化は求めていないので、だいたいにおいて局所的で 一般性がありませんし、体系性もありません。 それに対して「説明知」は、なぜそうなるのか、なぜそのようなこ とが起こるのかについて説明するために使われる知識です。したがっ て説明知は、一般性、体系性を求めていきます。ただし、説明するた めに使われる知識は科学とは限りません。神話や宗教でも、説明知の 役割を果たすことができます。実際、なぜ人間は死ぬのか、死んだら どこに行くのかなどについて、多くの宗教は説明の体系をもっていま す。 しかし、説明知をもっていても、うまくものごとが行えるかどうか は分かりません。先に紹介した生活知は、それをもっていれば、物事 をうまく行なうことができますが、説明できるとは限りませんし、局 所局所でうまくいくので、一般性をもてない場合がほとんどです。そ れに対して、説明知は体系化して一般性をもたせることはできますが、 日常生活がうまくできるとは限りません。いくらエンジンの構造に詳 しくて説明できても、運転できるとは限りません。このように、生活 知と説明知は、人間の知の両輪ですが、両者には違いがありますし、 どちらかが優れているというわけでもありません。 どの時代のどの社会が説明知を重視したかと言えば、明らかに古代 ギリシャは、説明という価値のためだけに知識を追求する文化を作り 上げた変わった社会だったと思います。古代ギリシャの文化が特別優 れていたわけではないのでしょうが、そういう条件が整ったのでしょ
5 う。エジプト、中国、メソポタミア、アステカ、マヤ、アフリカなど のような古代社会では、知識はつねに人間の生活の役に立つことと不 可分であったと考えられます。しかし古代ギリシャでは、宇宙の構造 や世界の成立など、実際の生活には何の役に立たなくても、いかにう まく説明できるかという価値のために説明知を追求しようという試み がなされました。 もちろん同様の試みが、古代文明の他の文化や社会でも存在しなか ったわけではありませんが、古代ギリシャのように、生きていること と離れた価値体系として徹底的に追求しようという試みを始めた社会 はなかったのではないでしょうか。しかし、科学は古代ギリシャで始 まったという言い方は正確ではないかもしれません。科学をもう少し 幅広く解釈すれば、古代ギリシャだけが科学の元祖とは言えないでし ょう。ただ、説明知を説明という価値のためだけに精密化しようとし たのは、古代ギリシャの特異な点だと思います。 ソクラテス以前の古代ギリシャの哲学者の存在は、私には、きわめ て興味深く感じられます。彼らは、どのように暮らし、どのくらい暇 だったのか、一日中議論しながら暮らしが成り立ったのはなぜなのか ――おそらく奴隷制度をふまえて、ある種の余裕の中で議論の平等性 をもち、アイデアやその説明に価値と喜びを見出す文化が育ったので しょう。 後に、博物学のところでもふれますが、西洋と東洋のように二元論 的に分けて考えるのはよくないにしても、それでも私は、博物学的な 観点から言えば、日本、中国をはじめとする東洋の方法と西欧の方法 は非常に違うと思わざるをえません。その1つが説明のあり方です。 ギリシャを土台とする西洋科学の方向は、説明知の精密化をめざしま した。それに対して日本の江戸時代の博物学は、ありとあらゆる細か い記述にこだわりますが、決して一般性を求めようとしません。思考 の根源的な方向性が違うように思えます。それはなぜなのかは難しい 問題ですし、どうして2つの伝統が存在するのかについては、歴史的 な複雑ないきさつが絡んでいるため一言では言えませんが、やはり古
6 代ギリシャを核とする西洋科学の説明知の方向と日本や中国をはじめ とする東洋など、それ以外の文化がたどっていった科学の説明知の方 向は異質だと思います。 1.3. 科学における問題解決の方向 日本においては、科学者になろうとする人が、科学とは何かについ て科学方法論の基礎として教わる機会がほとんどありません――それ が、私が今回の講義でまとめて話をしておきたかった理由です。 生活知も説明知も、ともに問題解決のための知識であるはずです。 人間は問題を感じると、それを解きたいという欲求が生じ、そのため の問題解決の方法として、具体的に何かをする方法と、何かを知って 納得する方法があります。いずれにしても、生活知も説明知も問題解 決のための知識の体系ですが、それらの知識を習得、蓄積する方法は いろいろあり、科学だけが唯一の方法ではありません。多くの場合、 権威のある他人に聞く方法がよく採用されていますし、現在でもそう でしょう。また自分で試行錯誤する方法もあれば、仮説をたてて検証 する方法もあるでしょう。それでも解決しなかったら、別の権威のあ る他人に聞いたり、試行錯誤を重ねたり、仮説を改訂する など、 上記の方法を繰り返すこともしばしばあります。 長い歴史を経て、17 世紀末に近代科学として成立した科学において は、問題解決の方法として、仮説の提出とその改訂を採用します。ま た、そのために実験、検証をしなければなりません。したがって、権 威はアプリオリに存在しないことを前提に、説明を無条件に受け入れ ることはしません。仮説は説明力の強さで評価します。説明を無条件 で受け入れないという点には、神の存在を説明に加えないことも含ま れます。 デカルトをはじめとする 17 世紀の近代科学の創始者たちは、神を 否定してはいないし、その世界観から抜け出ていたわけでもありませ んが、科学の営みの説明の中に、「神が創造した」などという権威的な
7 存在を入れないことにしたのです。これは非常に重要なことだと思い ます。ニュートンは近代科学の元祖の1人として有名ですが、彼自身 もキリスト教徒でしたし、キリスト教的世界観を否定していたわけで はありません。しかし、神の存在を前提にしなくても万有引力を説明 できる体系を提示し、しかもそれを観察によって検証できることも主 張しました。このように、最終原因としての神を説明に入れなくても よいという発想が、近代科学が飛躍する原点になったと思います。 こういう科学の考え方は、一般の人には、まだはっきりとは認識さ れていないようです。先日私は、ある小規模なサイエンスカフェで進 化の話をしたのですが、数十名の参加者の大半は 65 歳以上と思われ る高齢者でした。高校生に話をすると、彼らは、そこから出発して、 いろいろ面白い質問をしてくれます。しかし高齢者は、これまで蓄積 してきた自分の知識や思いにこだわり、私の話に疑問をぶつけてきま す。たとえば進化の話をすると、「自分たちはダーウィンなどの説を教 わって育ってきたが、これまで種が変化したところを見たことがない。 だから進化は起こっていないのではないか」とか「チョウチョがあん なにきれいにデザインされて飛んでいるのを見ると、神様が考えたと しか思えない」とか「トンボにも生きたいという意志があるから生ま れてくるのではないか」などと質問してきます。 しかし「トンボに生きたいという意志があるから生まれた」という 説明を真ん中に置いてしまうと、そこから先に進めないわけです。こ の説明は実験や検証ができないし、もっと説明力のある方向に進むこ ともできなくなってしまいます。神がデザインしたという説明を核に 置いてしまうと、科学は成立しないのです。そのことを繰り返し説明 しなければなりません。しかし高校生には、そういうことを説明しな くても受け入れてくれます。その点は、年齢によって、頭の柔軟さの 違いや世界に対する興味がどのくらい開かれているのかの差異がある ように思えます。 いずれにしても、科学の営みは、神の存在を核に置かないという制 約の中で行なわれています。逆に、一般の人から科学について質問が
8 あった場合、科学者はそのことをきちんと答えないといけないと思い ます。科学はそうした制約の中で行なわれている知的探求であり、神 の意志など何でも入れて説明可能であるというものではないのです。 もちろん神の存在を信じ、それで納得してもかまいませんが、科学と して取り上げることはできないという条件を忘れてはなりません。
2.
生命観の変遷をめぐって
2.1. 生命を理解する3つの知識体系 次に、生命の理解について考えてみたいと思います。冒頭に、伝統 小規模社会や生活知についてふれましたが、人間には、生活知として の「博物学的知能」が備わっており、それが民族生物学のようなかた ちで伝承されていくと考えられています。 人間の脳にはいろいろなモジュールがあり、視覚に関しては視覚野、 聴覚に関しては聴覚野があるように、人間の理解に関しては、それを 司る部位があります。つまり人間の顔だけを認識する総合ニューロン や、人間が何を感じているかを推測する部位など、特化したモジュー ルが特定の機能を果たしているわけです。そういうモジュールの1つ として、人間には、生物界の理解に特化した博物学的知能があると考 えられます。たとえば、生き物と無生物を直感的に把握したり、食べ 物の味を記憶しておいたり、食べられるものと食べられないものを判 断したりします。 このような知能を通じて生命現象が説明されるようになり、人間は それぞれの文化の中で、さまざまな知識を蓄積してきましたが、生命 を説明する方法には、歴史的に3つの体系があります。それは①神秘 主義やアニミズム、②生気主義、③物理主義に分類できます。神秘主 義やアニミズムは、生命を神秘的な霊魂などで説明しようとします。 また歴史的には、生気主義より先に登場した物理主義は、17 世紀末の 近代科学の成立によって生まれ、生命を力やエネルギーなどの物理法9 則で説明しようとする方法です。この物理主義はかなり隆盛し流行に もなりますが、一部の生物学者は、複雑な生命現象を力やエネルギー などの物理法則だけでは説明できないと反論し、そこから生気論が登 場します。 私は恥ずかしながら、長い間、神秘主義・アニミズムと生気論は同 じものだと思っていました。そこで、17 世紀の天文学や物理学の近代 化によって近代科学が成立した後、生気論が登場したことに対して、 なんて古臭いことを言っているのかと誤解していました。しかし歴史 的経緯をたどってみると、神秘主義・アニミズムに対して物理主義が 登場し、その限界から生気論が登場したわけです(現在は、その生気論 も崩れていますが)。 ですから、一見、神秘主義・アニミズムと生気主義は同じように見 えるかもしれませんが、実は違うものであることを理解しておいてく ださい。神秘主義・アニミズムでは、生物には、無生物とは違う本質 的に神秘的なものがあり、それを霊魂などと呼びました。これは、ど この文明にも存在する考え方でしょう。人間は自分がそうだから、生 物には本質的に意志や魂があると感じてきたのでしょう。それを本当 の意味で検証することはできないのですが、人間の感覚としては圧倒 的に多い感じ方でしょう。 逆に、物理主義的に人間をとらえるのが本来の考え方だとは思いま せん。先に述べた博物学的知能がバイアスをかけていると思います。 人間は、物体の理解と他者の理解を別のところで行なっています。た とえば、ある物体を押せばどちらかの方向に行くだろうと考える部位 と、人間にどのような態度をとれば向こうに行くだろうと考える部位 はまったく別なのです。どちらかが損傷を受けても、どちらか一方は 残るので、物理的な物体の理解と他者の理解は違うはずです。そして、 他者の理解の延長に生き物の理解もあるので、生き物を物体として理 解するのは、本来の脳の働きとは違うと思います。 そこで、生物学の歴史を語ろうとすると、西欧近代科学の歴史を語 ることになってしまうのですが、ルネサンスまでの近代科学以前の自
10 然観や生命観は、神秘主義的、アニミズム的な考え方が主流でした。 魔術や錬金術は、すべての自然を生命的にとらえていました。結晶の 構造を考える際も、「結晶が自分の落ち着きどころに行きたいから」と とらえたり、地面の下で鉱物が形成されていくのは、「胎児が母体の中 で育つのと同じプロセスである」ととらえるなど、すべての自然を生 命の観点から理解しようと努めたのです。そこには、すべてのものに は意志と目的があり、また相性によって化学反応が生じるという発想 がありました。また人間の身体の構造は、全宇宙の構造とパラレルに なっていて、中心で輝く太陽が心臓にあたるなど、すべての自然をな んらかの生命的説明で理解しよう試みてきました。 もちろん、こうした魔術や錬金術は非科学的とも言えますが、地質 学も生物学もまったく発達していない時代に、なんらかの整合性をも って説明していくためには、生命の意志や霊魂や目的などが中心的な 役割を果たしたのです。 2.1. 近代科学と 19 世紀物理主義の台頭 17 世紀の近代科学の成立とともに、機械論的自然観が優勢になり、 それ以前の魔術的神秘的自然観を一掃します。この時代の旗手の1 人 がフランスの哲学者、ルネ・デカルト(1596∼1650 年)です。彼は、貴 族、士官として数度の戦いに参加した後、1629 年にオランダに移住し ます。その後 1649 年に、スウェーデンのクリスチーナ女王に招かれ ますが、翌年、49 歳で死亡しました。 デカルトは非常に明晰な論理展開をし、有名な「我思う、ゆえに我 あり」にたどりつきました。彼は、フランシス・ベーコンと並び、近 代科学の考え方の柱の1 つとして非常に重要です。ベーコンは、実験 など近代科学の実証的な部分で大きな役割を果たしましたが、デカル トは理論的な部分で大きな影響を与えました。彼が近代科学の祖と呼 ばれるゆえんは、機械論的自然観を大成させ、数学を基礎として確実 で明証的な認識に達することをめざしたところにあります。それによ
11 って、いっさいの曖昧さを排除して、疑いえない事実を積み重ねてい く方法を確立させました。私に興味があるのは、デカルトがどこまで 懐疑主義を貫いたかです。神への信仰がどこまであり、それを突き破 る力がどこまであったのかについて知りたいと思います。一説によれ ば、彼はカトリックの一派が送った刺客によって、砒素で暗殺された とも言われています。 いずれにしてもデカルトは、神を最終原因とする考え方を棚に上げ ておいて、自然現象を合理的、数学的、機械的に説明しようとしまし た。しかも原因と結果について、すべて数学的な記述が可能であると しました。この考え方によって、物理学や化学は 17 世紀に近代化を 果たすことができましたが、そこに根ざしているのは、機械論的自然 観です。すなわち、錬金術が機械との相性など生命的把握で世界を記 述しようとした方法と対照的に、自然現象の中から生命的要素を取り 去り、すべてを機械のアナロジーで説明しようとしました。すなわち、 機械は設計図で因果関係もすべて記述できるため、自然の複雑な現象 も単純な要素に還元でき、要素同士の関係としてとらえることができ ると考えたのです。17 世紀までには、機械仕掛けの時計やオートマタ 人形など、わりあい精密な機械が人々の生活に浸透し、機械のアナロ ジーによって自然の仕組みを解説する方法が比較的容易に受け入れや すかったと思われます。つまり、どんなに複雑な機械でも、分解して いけば単純な要素に還元して理解できるので、因果関係の積み重ねを 自然界にも適用し、数学的な分析を行なえば、自然もすべて理解でき ると考えたわけです。 デカルトはこのようにして機械論的自然観を展開したのですが、で は生命についてはどうとらえたのでしょうか。彼の機械論における生 命観は「物心二元論」に集約できます。つまり、多くの部分を機械論 的に解明しようと試み、人間の「心」や「魂」以外の身体は機械論的 に理解できるとしましたが、「心」や「魂」は特別で機械の領域にはな いと考え、機械論では解明できないと保留したのです。 また彼は、動物は機械と同じととらえ、有名な動物機械論を主張し
12 ました。たとえば、人間が犬を蹴飛ばすと吠えるのは、人間がベルを 押したときに音が出るのと同じ反応だというわけです。そういう意味 では、彼は生命の理解を平板にし、非常に不毛にしてしまったと思い ます。この考え方を受けて、18、19 世紀に物理主義が台頭しましたが、 その後に生気論が台頭してくるのは、この不毛さが原因だと思います。 精密な機械が自然のアナロジーになるという感覚は理解できますが、 生命に関してはあてはまらないという生気論の直感は正しいと思いま す。いずれにしても、機械論における生命観は、物心二元論を最終の 砦として、人間の心以外はすべて機械論的に説明しようとしました。 こうして、19 世紀には物理主義が台頭します。ヨハンネス・ミュラ ー(1801∼1858 年)、ジュストゥス・フォン・リービッヒ(1803∼1873 年)、ヘルムホルツ、デュボアレーモン、ブリッケなどが、その代表で す。彼らは、デカルト流の世界の機械的理解をもとにして、自説を展 開しました。たとえば、ウィルヘルム・オストワルドは、ウニとは「空 間的に限定されたエネルギー量の凝集した集合」であると定義してい ますが、これでいったいウニの何が分かるでしょうか。また、ウィル ヘルム・ルーは、発生とは「エネルギーの不等分布によって多様化が 起こること」(1895 年)と定義しています。これでは生気論者が反論 するのも分かります。しかし当時は、こういう理論が流行したのです。 新しい理論によって、新しい世界観が開けたときにもたらされる興奮 と、さらに新たな世界が切り開かれるだろうという期待と予感が背景 にあったからでしょう。ですから、機械論的な解釈で生命が理解でき るのではないかという期待も大きかったのだと思います。また、生命 を物理的に記述しようという流れが、一種の流行をつくっていったと 言えるでしょう。 2.2. 生気論の台頭 しかし、その後、生物は複雑で分からないことも多く、生命現象は 機械論的には解けないという認識が強まり、生気論が台頭してきます。
13 たとえば、発生、生理学的恒常性、神経行動、遺伝などは、当時の物 理主義的な法則ではいっこうに説明できていないではないか――これ が、当時の生気論者の重大な反論でした。たしかに、その疑問には物 理主義者は答えられません。しかし、いつかは物理法則で説明できる ようになるし、生気論者の指摘は古いと主張し続けます。それに対し て、また生気論者が反論するという具合に、両者の議論は続きました。 先に指摘したように、18、19 世紀に台頭した生気論は、ルネッサン ス以前の単なる神秘主義やアニミズムではなく、生物学理論としての 生気論です。つまり、万有引力、電磁気力などとともに「生気力」が 存在しているという考え方に基づいています。しかし、では「生気」 とは何かについては答えられず、レーベンスクラフト、エラン・ヴィ タルなどさまざまな表現をしています。ですから、生気論者にはいろ いろな人がいて、決して一枚岩ではありません。まさに百花繚乱状態 で、この点は、物理学者とは対照的です。たとえば、ハンターは、18 世紀のイギリスの生物学者、生理学者、解剖学者ですが、奇形に関心 があったようで、ロンドンのハンター博物館には、数多くの奇形の標 本が展示されています。ジョン・プリチャードは人類学の元祖の1 人 で、さらに、フランスのビシャなどのモンペリエ学派、ドイツのカス パー・フリードリッヒ・ウォルフ、ブルーメンバッハなどのグループ がありました。 生気論者たちが主張するように、どうして受精卵から発生が起こる のか、どうして素晴らしい適応ができるのかなどについて、機械論で は説明できないという問題意識は正しいと思います。そこで彼らは、 レーベンスクラフト、エンテレヒー、エラン・ヴィタルなどのように、 もう 1 つの説明要因を加えると説明できると考えたのです。現在は、 それらを「遺伝子プログラム」に置き換えれば、ほとんどすべて説明 できるでしょう。その意味で、彼らの主張は、物理主義者よりは着眼 点はよかったと思いますが、それぞれ別々の主張をしていて共通理解 ができなかったのです。また実証もできなかったので、論理で終わっ てしまったと言えるでしょう。さらに生気論者の主張は、最終的に目
14 的論を払拭できなかったために、後々まで非科学的な匂いがつきまと う結果になったと思います。つまり「生気」は自らの立ち位置を知っ ていて、行くべきところに行くという目的志向性から脱却できなかっ たわけです。 遺伝子プログラムも目的志向的に記述することも可能ですが、現在 の生物学では、デザインやエラン・ヴィタルなどの概念を入れなくて も描写できます。しかし生気論者たちは、両者を画然と区別すること について自分たちで決着をつけることができなかったので、最終的に 古臭い目的志向的な非科学的なニュアンスを払拭することができなか ったのです。 2.3. 生物学の歴史の4分類 ここで私は、科学論に一石を投じたいのですが、生命科学は 17 世 紀にはまったく近代化されていないと思います。一般的には、近代科 学の成立は 17 世紀と言われています。デカルトとフランシス・ベー コンを皮切りに、機械論的な自然観が成立して近代科学が誕生したこ とになっていますが、生物学はその流れにのっていません。ですから 生物学の近代化は、従来の科学史的な近代化のプロセスにはあてはま らないと思います。 では、いつ近代化されたのでしょうか。19 世紀の前半までは、まだ 生気論が論じられていました。生物学の近代化が始まった時期が、生 気論を払拭させる契機となる生物学の新たな発見がベースになると仮 定すれば、それは19 世紀前半以降に始まったと考えられます。17 世 紀の物理学、化学などに比べれば、かなり遅い時期ですが、逆に言え ば、それだけ生物学が複雑で難しいということでもあります。 以上をまとめてみると、生気論は、荒っぽくてとうてい真実とは思 えない機械論の(けっこうよくできた)代替仮説であり、古臭い神秘 主義やアニミズムの単なる復活ではありませんでした。しかし、「生気」 はついに検証可能になりえませんでした。また、19 世紀前半までに、
15 生物が無生物と全く異なる物質を持つという根拠が消えていきます。 さらに、発生や遺伝、進化の解明が進み、生気論的前提が不要になっ たため、生気論は消えていきました。 このように考えてくると、私は、生物学の歴史を、次の4 つの時代 に区分したほうがいいと思います。 (1) 類人猿時代からの「博物学的知能」 周囲の生物に対する感覚的知識が中心の時代 (2)紀元前ギリシャから 19 世紀半ばまで 記載と分類の開始から、生気論の終焉までの時代 (3)19 世紀半ばから 20 世紀終わりまで 生命機構(とくに遺伝)の還元的解明の時代 (4)20 世紀終わり以降 ゲノムレベル大容量情報、複雑系を基盤とする生命解明の時代 生物学は、類人猿時代からの博物学的知能で何百万年も経過し、古 代ギリシャから19 世紀半ばまでの約 2000 年を経て、その後の半世紀 で急速に発展したことになります。そういう意味で、生物学について は、物理化学を主体にした科学史や科学哲学とはまったく異なる観点 からとらえる必要があります。 1930∼40 年代に進化総合説を提唱した、生物学者のエルンスト・ マイヤー(1904∼2005 年)も『これが生物学だ』(八杉貞雄、松田学訳、 シュプリンガー・フェアラーク東京、1999 年)の中で、まさに同様の 指摘をしています。彼はドイツ生まれですが、アメリカに亡命して、 ハーバード大の教授となり、100 歳まで現役の研究者として活躍しま した。彼がこの著書をあらわしたのは 90 代だと思いますが、非常に はつらつとした文章で書かれており、近代科学の成立と生物学の近代 化は異なることなどがきちんと説明されています。マイヤーは生物学 に関してたくさんの著作がありますが、この本が初心者向けにはもっ とも適しているので、一読をお勧めします。
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<2> 生物学の歴史と社会
その基礎となる博物学(Natural History)
1. ヨーロッパに蓄積された博物学的伝統 ヨーロッパの博物学の蓄積は、質量ともに桁違いに豊富です。いっ たいどれだけのものが集められているか、想像をはるかに超えていま す。ヨーロッパでは、ほとんどの国に例外なく自然史博物館があり、 膨大な品々が展示されています(もちろん、その大半は植民地統治時代 に、世界各地の植民地から収奪した戦利品ですが)。たとえば、ロンド ンの自然史博物館は、とうてい1日では見ることはできず、全部きち んと見ようとしたら、まず1週間はかかるでしょう。つい最近も、フ ランスの学会に出席したとき、パリの自然史博物館を訪れましたが、 骨格を持つあらゆる生物の骨格標本、胎児や奇形児の骨格、脳など膨 大な標本が陳列されており、収集の執念すら感じました。これは東洋 にはない発想です。こうした陳列品は人類全部の財産であり、未来永 劫、保有・展示していくことが義務であると信じているからにほかな りません。当然、国家としての予算措置もとられています。 それに対して日本では、近代科学は、江戸時代末から明治維新を経 て、お雇い外国人によって広められたとされています。東京大学に動 物学教室が設置され、モースなど外国人科学者によって日本の近代生 物学は始まりましたが、ヨーロッパ的な博物学の素地と蓄積のないと ころからスタートしているため、いまだに日本の生物学は、博物学的 な基礎が脆弱であるという課題を抱えています。 2. アリストテレスからキリスト教の確立まで 前回の講義で指摘したように、生物学の歴史は、大きくは次の4つ17 の時代に区分することができます。それぞれ、次の時代に進むにつれ て、期間が飛躍的に短くなっていますが、その概要をここでもう一度 簡単に述べておきましょう。 (1) 類人猿時代からの「博物学的知能」 周囲の生物に対する感覚的知識が中心の時代 (2)紀元前ギリシャから 19 世紀半ばまで 記載と分類の開始から、生気論の終焉までの時代 (3)19 世紀半ばから 20 世紀終わりまで 生命機構(とくに遺伝)の還元的解明の時代 (4)20 世紀終わり以降 ゲノムレベル大容量情報、複雑系を基盤とする生命解明の時代 最初の区分である類人猿時代からの「博物学的知能」は、長い歴史 の間に培われた、周囲の生物に対する感覚的知識と位置づけることが できます。次の古代ギリシャから19 世紀半ばまでの 1900 年以上の歴 史の中で、特筆すべき思想や考え方の流れがあります。その第一のポ イントは、アリストテレス(紀元前 384∼322 年)です。彼は周知のよう に、プラトンの弟子ですが、アレクサンダー大王の家庭教師もつとめ ました。彼には、動物誌や自然学の著作がありますが、先見の明と古 臭い考え方が同居しています。彼が実際に詳細に観察した生物の基礎 的な知識は、現在でもほぼ正しいものばかりです。しかし、見えない ことについてはたくさんまちがっています。また彼は、生気論や物心 二元論の元祖とされており、「生物は霊魂を持つことで無生物と区別さ れる」とか「人間は理性を持つことで他の動物と区別される」などと 主張して、霊魂や理性の存在が人間と動物を区別するものであると明 確に論じました。 アリストテレス自身はキリスト教とは無縁だったのですが、その後、 ヨーロッパ世界が近代科学にめざめる前、キリスト教確立の時期には、 その考え方がキリスト教と相性がいいため、都合よく取り込まれてい きました。そのためアリストテレスの哲学は、すべてキリスト教的に
18 合致するように解釈され、キリスト教の理論的支柱になりましたが、 それは、アリストテレス本人にとっては不本意なことだったかもしれ ません。 第二のポイントは、ローマの実用主義と神秘主義です。ローマは、 古代ギリシャの精神を受け継がず、実用主義的民族性の強みを生かし て、土木工事や軍事技術を発達させ ました。【写真1】は現存する上水道 施設ですが、人力だけで完成させた 素晴らしい建築物です。総じてロー マでは、古代ギリシャのような明晰 な説明知は求めなかったのですが、 反面、政治的、社会的に不安定な時 期には神秘主義も流行しました。 とはいえ、紀元1世紀までのロー マでは、古代世界でもっとも重要な 科学的著作のいくつかが、ギリシャ 語で書かれています。たとえば、ア レキサンドリアのヘロンによる気体学、機械学、光学、数学や、メネ ラオスの『球面幾何学』、プトレマイオスの『アルマゲスト』などです。 なかでも、ペルガモンのガレンス(129∼200 年)は、剣闘士の外科医と して多くの怪我人に接し、また豚などの動物の解剖によって知識を蓄 積して、解剖学の基礎をつくりました。彼は、150 冊にのぼる医学書 と生物学書を著しています。後に述べますが、ヴェサリウスが登場す るまで、実に 1400 年近くも、ヨーロッパの解剖学はほとんど進歩し なかったのです。 しかし、やがて話す人も減ってギリシャ語はすたれていき、ギリシ ャ語で本が書かれることもなくなりました。そして3世紀ごろのヘレ ニズム時代になると、ギリシャの科学理論を正確に伝えて発展させる のではなく、通俗化して百科全書のようなものを作る傾向が始まりま す。いわば、「学問の便覧化」です。こうした通俗化、マンネリ化、便 【 写 真 1 】 ロ ー マ 時 代 の 上 水 道 施 設
19 覧化によって、全体的にローマの活力がそがれていきます。 便覧化の例としては、セネカの『自然学の諸問題』がありますが、 これはただのアリストテレスの解説書です。また、大プリニウス(22 ∼79 年)はローマの博物学者、政治家、軍人で、彼の『博物誌』(37 巻) は、宇宙、地誌、生物、人間などの分野の細目事項をノリとハサミで 切り貼りしただけのギリシャ科学解説にしかすぎず、解説書としても 不十分です。おそらく彼には、全体の理論的把握は無理だったのでし ょう。ただし彼は、地中海艦隊の司令官として南イタリアにいたとき、 ヴェスビオス火山の噴火を目撃し、その観察中に死亡しているので、 観察志向はあったようです。なかでも最悪なのは、ソリヌス(3∼4世 紀)で、『注目すべき諸事実の大成』の書物でもっとも注目すべきは、 そのほとんどすべてがプリニウスの剽窃であることでした。しかし、 その後、ソリヌス自身も徹底的に剽窃されました。 キリスト教の時代は、キリスト教的哲学がヨーロッパ世界を支配し ていましたが、この考え方は、現在、東洋の神を信じるわれわれの立 場からはよく理解できないところがあります。キリスト教哲学では、 聖書の説明で科学をつくらなければなりませんし、そのための大変な 知的作業を求められます。なぜ、キリスト教に合致する説明体系をつ くるのかと言えば、それは、キリスト教が支配体系だからにほかなり ません。つまり、キリスト教は、単なる宗教ではないのです。それゆ え、支配体系として、人を納得させ、納税させるための確固とした説 明が必要になるわけです。その点、日本の仏教とは違います。歴史上、 天皇家や貴族におもねって、権勢をふるった僧侶はいましたが、支配 体系の構築までには至りませんでした。キリスト教世界では、どこか ら突かれても正当な答えができる学問体系を確立させなければならな かったために、アリストテレスなども総動員して、世界をキリスト教 的に説明してきたわけです。 そういう状況が進む中で、結局、人々は自分の目で観察することを やめてしまったのではないでしょうか。人々は、神の僕であり、真実 は聖書の中にあるのですから、極言すれば、アリストテレスと聖書に
20 矛盾しなければいいわけです。想念の世界だけでは何とでも言えます が、想念がどこか変なところに行かないようにするのは、観察の力で す。その観察をやめてしまえば、想念だけのヘンな哲学になりかねま せん。その究極がスコラ哲学などと言ってもいいでしょう。 3. 大航海時代がもたらした世界と人種の発見 しかし時代がもうしばらく下り、15 世紀になると、少し新しい風が 吹き始めます。それが、第三のポイントである、大航海時代と世界の 発見です。大航海時代以前は、ヨーロッパと中近東、アフリカの一部 のみが、ヨーロッパ人にとっての世界でした。ところが、南北両大陸 の発見やまったく新しい動植物や人間の発見で、ヨーロッパ人の世界 観が変わってきました。 この時代の代表的な旅行家は、まずマルコ・ポーロ(1254∼1324 年) で、彼はベネチアの商人でもあり、『東方見聞録』によれば、1271 年 にイラン、中央アジアを経て中国に至っています。それに対してマン デヴィルの旅行記(14 世紀)では、1357 年から 1371 年にかけて世界を 旅行したことになっていますが、【図1】のように、頭から木が生えて いたり胸に顔があったりなど、ウソばかりで、本当はどこにも行って いないのではないかとさえ疑られています。 クリストファー・コロンブス(1451∼1506 年)は、よく知られて 【図1】シベリアの人々、エチオピアの人々(マンデヴィルの旅行記より)
21 いるように、大西洋を横断して中国に行こうとして、1492 年にカリブ 海諸島に到着しており、これがいわゆる新世界の 発見 につながっ ています。これまでも聖書には、セブやハムなど地中海周辺で中近東 からアフリカに住む民族についての記述はあるので、黒人の存在は認 めていましたし、それ以外にもいくつかの人種は記述されていました が、コロンブスのアメリカ大陸 発見 以来、聖書の系図に記載のな い人間が登場してきたわけです。彼らは人間なのかどうかが真剣に論 争され、その後の人類学は、聖書に記載のない人種は人間ではないと いう説と、アダムとイブ以来すべて彼らの子孫であるという説が対立 してきました。 先に、デカルトの動物機械論が私にはしっくりこないと述べました が、犬を蹴飛ばして鳴くのは、ゼンマイ時計を蹴飛ばして音が出るの と同じであるという主張をする人の心が分かりません。現代の視点で 判断してはいけないのかもしれませんが、同じように、何語をしゃべ っていようと、どんな衣服を着ていようと、どんな生活をしていよう と、人間を見て、人間ではないと考える人の気持ちが私には理解でき ません。しかし、キリスト教世界のアリストテレス注釈哲学を信奉す る人たちは、他の世界の人間を見たとき、本当に人間かどうかという 議論を真剣に始めたのです。そして、人間ではないという説の具現化 が奴隷制度などでした。もっとも、最初にアメリカ大陸を発見したコ ロンブスは、カリブ海諸島人について、かなり好意的に差別のない目 で見ているように感じます。 また、ほぼ同時代人に、アメリーゴ・ヴェスプッチ(1454∼1512 年)がいます。彼は、メディチ家に雇われたフィレンツェの旅行家で、 1499 年から南米大陸の探検を始め、大きな貢献をしました。アメリカ の名前の由来となった人物としても知られています。おもしろいこと に、祖父はとてもハンサムだったそうで、かの有名なミケランジェロ にしつこくつきまとわれたというエピソードも残っています。
22 4. 19 世紀前半の帝国主義的発展 博物学的あるいは地理学的探検は、研究者からすれば、純粋な学問 的興味に基づくものですが、資金を提供するスポンサーやパトロンは、 ほとんどある種の征服の野望があるので、それがもっとも顕著にあら われたのが、大航海時代と後に述べる帝国主義的拡張の時代だったの です。そして、それが現在の博物学の基礎を築いたのは否めない事実 です。 たとえば、アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769∼1859 年) は、地理学者、博物学者で南米を探検し、フンボルト海流の発見など いくつかの業績をあげています。またフンボルト財団も創設しました。 彼の時代の探検は、フンボルト的野望とも言われるように、帝国主義 的野望を象徴するものでした。また、ジョーゼフ・バンクス(1742∼ 1820 年)は、キャプテン・クックの第 1 回航海に同行し、南太平洋 の非常に細かい博物学調査を行いました。特に植物調査で知られ、現 在、オーストラリアには、彼の名前がついているバンクシア属という 植物がたくさんあります。この植物は、野火が広がると種子が飛ぶと いう性質をもっており、定期的に野火が生じないと生息できません。 雷などの自然現象の他、オーストラリア原住民のアボリジニが時々火 入れをして獲物を追い出すときなどを利用しています。このように、 環境に適応した植物が存在することを発見したのがバンクスだったの です。 こうして【図2】のように、探検のさまざまな手法を通じて、世界 のすみずみまで調べて記載し、すべてを標本にしていこうという博物 学的方法が発達しました。
23 5. ヴェサリウスによって進んだ人間の解剖学的理解 一方、人間という生物については、すでに述べたように、聖書に記 載されていない人間が人間かどうかをめぐってさまざまな議論があり ましたが、解剖の知識が進むとともに、さまざまな「人種」が発見さ れるようになりました。 なかでも、ヴェサリウス(1514∼1564 年)は特筆に値します。先に、 ガレノスが150 冊の解剖の本を書いたと紹介しましたが、彼を大きく 超えたのが、ヴェサリウスだったのです。逆に言えば、ガレノスの時 代から約 1400 年もの間、人体に関する知識はまったく進んでいませ んでした。その大きな理由は、人間を解剖してはいけないというキリ スト教の原則があり、中世まではその原則を忠実に守ってきたからで 【図2】世界中で発見された動植物の記述
24 す。ガレノスは剣闘士の外科医でしたから、実際に解剖したわけでは なく、剣で刺されたり切られたりした身体を観察しただけでしたので、 知識が限られていました。また、その知識も豚の解剖に基づいている ことが多かったのです。この結果、ガレノス以後のヴェサリウスが登 場するまでの長い間、人体の構造が改訂されることはありませんでし た。 ヴェサリウスは、どういう理由からはよく分かりませんが、処刑さ れた犯罪者を解剖することによって、人体の構造に関して正確な記述 ができるようになりました。【図3】の左は13 世紀の解剖図です。よ くこれで医者がつとまった思うほどのデタラメぶりで、右のヴェサリ ウスの解剖図とは雲泥の差です。彼は、実際に解剖した結果をもとに、 骨や神経の1 本 1 本まで正確に記述し、『人体の構造について』(1543 年)を著わしました。 このように本当に自分の目で観察して記述するようになったことは、 アリストテレス主義の脱却後、近代科学成立に至る道筋の中で、非常 に重要な転換でした。 6. 19 世紀前半の帝国主義的発展 こういう流れが連綿と続き、大航海時代を経て、ヨーロッパの帝国 【図3】<左>13 世紀の解剖図 <右>ヴェサリウスの解剖図
25 主義的拡張時代を迎えます。ヨーロッパが富の源泉として植民地の拡 大をめざしたこの時代に、博物学は飛躍的に発達します。その点、日 本は帝国主義的拡張の時代が非常に短かったので、アジア世界の探検 などもそれほど積極的には行なっていません。しかし、日本でもその 例がないわけではありません。間宮林蔵の探検の頃は、まだ帝国主義 的野望がそれほど明確ではありませんが、第二次世界大戦に至る前 1920∼1930 年代に行なわれた探検は、すべて軍部の帝国主義的野望 と結びついたものでした。その有名な1人が、京大人文科学研究所の 今西錦司です。彼は、戦後 1970 年代頃までのアフリカ探検で日本の 霊長類学の基礎を築きましたが、戦前・戦中の大興安嶺山脈や蒙古探 検の資金は、(あまり知られていないことですが)石原莞爾の関東軍か ら出ていました。 もう1つ忘れてはならないのは、19 世紀前半、イギリス、フランス を中心に国家をあげて植民地競争を行ない、帝国主義的発展をしつつ ある中で、同時にその原動力として中産階級が勃興してきたことです。 この当時ヨーロッパで興隆した中産階級の大きな特質は、自由になる お金と時間が豊富にあったことで、彼らは、アマチュアとして博物学 的興味を広げていきます。 また、ナポレオン失脚後、一応ヨーロッパは平和になり、それまで お互いに戦うために軍備を拡張し、保有していた軍艦と兵員が大量に 余ってしまいました。たとえばイギリス海軍(Royal Navy)には、士官 から一兵卒まで大量の海兵がいましたが、戦争後は無用の長物と化し た軍艦とともに、維持費用の捻出に苦慮していました。そこで、先の バンクスなどが中心になり、世界に探検に出ていくようになりました。 そして世界中の多種多様な資源を探索、開拓して、戦争以外の方法で、 国家の富の増強と帝国主義的発展をめざしたのです。 また、Royal Society は科学者の集まりで、学会の元祖の 1 つです が、海軍と連携して世界の探検に人を派遣しました。その1 つがダー ウィンによるビーグル号の航海で、その世界探検の名目は、世界中の 経線を観測することでした。ダーウィンは新興中産階級の典型で、妻
26 の実家は産業勃興で富をなしたウェッジウッド家です。彼らのような 中流階級層はこぞって博物学に興味を抱き、新種の発見なども関心の 対象となりましたし、また自分たちでも顕微鏡で細かいものを観察し て、驚いたり楽しんだりすることも趣味としていました。さらに、博 物学の細密画や、その塗り絵も流行しました。ウェッジウッドやスポ ードなど、有名な陶器の老舗の食器デザインの定番は動植物が多いこ とはご存じでしょう。そのことも、19 世紀における大衆の博物学趣味 をよくあらわしています。 7. リンネが確立させた分類学 こうした流れに関連して、スウェーデンの植物学者、カール・フォ ン・リンネ(1707∼1778 年)は二名法による分類学を確立した点で 重要です。何であれ分類するためには、それに足るだけの素材がたく さん集まる必要がありましたが、ちょうどこの時代には、多くの素材 が集まってきていましたので、体系的な分類をする必要にも迫られて いました。リンネは、それまでに大量に集まっていた素材を分類した 点で画期的な業績を上げたと言えます。 リンネについては、進化の講義のときに、もう一度詳しく述べたい と思いますが、彼がすばらしいのは、18 世紀のキリスト教的な世界に あって、ヒトを別格の特別扱いにせず、哺乳類の霊長類に分類したこ とです。すべての生物を二名法で分類し、ヒトについても、サルなど 他の霊長類との関係性は記述せずパターン化して分類しただけでした が、ダーウィンの進化論より100 年も前のこの時代にあっては、それ 自体すごいことだと思います。 またあまり知られていないのですが、リンネは人類にホモサピエン スという名前をつけ、その中で、ヨーロッパ人、黒人、アジア人、ア メリカ・インディアンの4種の亜種を記載し、それぞれの特徴を記述 しています。たとえば、ヨーロッパ人は白い肌、金髪、青い目、すら りとした身体をもっていて、頭がよく発明の才があり、法律によって
27 支配されている。アジア人は低い鼻、細い目、黒髪をもち、何を考え ているかわからず陰険で、慣習によって支配されている。黒人は黒い 肌、縮れ毛、平たい鼻をもち、頭が悪く性欲が強く、何も発明せず、 欲望によって支配されている。アメリカ・インディアンは赤っぽい肌、 直毛をもち、頑丈、強壮で、気まぐれによって支配されている――こ のように、人間に関しては、きわめて主観的評価を下しています。し かも動植物にはあれほど論理的に美しく記載したリンネが、人間には なぜこれほどまでに主観的な記述をしたのでしょうか。その意味で、 リンネの人種の記載は矛盾に満ちていますし、だからこそ当時の人種 感をよく反映していると思います。 余談ですが、リンネ協会はイギリスのロンドンに本部があります。 リンネはスウェーデン人なのに、なぜ協会がイギリスにあるのでしょ うか。これには興味深い逸話があります。1778 年にリンネが死ぬと、 イギリスの若い大富豪だったスミス(Sir James Edward Smith)が標 本類を全部買い取りました。そして標本、論文、蔵書などを帆船でイ ギリスに持ち帰ろうとしました。すると、スウェーデン国王がそれを 察知して、秘かに奪取するために軍艦を派遣して帆船を追わせました。 しかしイギリス側はいちはやくそれを察知して援護し、帆船は無事に イギリスに到着することができました。スミスはこれらの標本をもと にリンネ協会をロンドンに設立し、初代会長に就任しました。以後、 リンネ協会は、生物学的、博物学的研究に貢献することになります。 なお、リンネと同時代人として、ビュフォン伯爵(本名ジョルジュ・ ルイ・ルクレール、1707∼1788 年)も忘れてはなりません。彼も 18 世紀のすぐれた博物学者ですが、1739 年からずっとパリ植物園の園長 をつとめ、『一般と個別の博物誌』全36 巻を著わしました。これがベ ストセラーになるほど、大衆の博物学に関する興味が高まっていたの です。この書の特徴は、典型的なものを記載すると同時に、個別的な ものについて非常に細かく記述しているところにあります。ビュフォ ンはほとんど無神論者だったようで、神やキリスト教的体系に縛られ ず、自由に細かく記述しています。よくこれでキリスト教側から攻撃
28 されなかったと思いますが、彼は、フランス革命前夜に亡くなってい ます。フランス革命は神や従来の権威を否定し、 科学教 を生み出し ましたので、その寸前のぎりぎりのところで無神論的に活動していけ たと言えるでしょう。 8. 一般化への志向をもたない東洋の博物学ブーム 一方、東洋ではどうだったのでしょうか。やはり東洋でも、18、19 世紀には博物学ブームが起こっています。特に、日本の江戸時代には 博物学ブームがまきおこり、世界中からさまざまな珍しいものが集め られ、すばらしい物産会が何度も開催され、庶民が楽しんでいます。 江戸は当時人口100 万人の大都市でしたから、何度も開催されていま すが、名古屋、大阪、堺などの都市でも開催され大賑わいでした。そ こでは、薬草、漢方などの有用性のあるものから、何の役にも立たな い大蛇の抜け殻、熊の皮などが、まるで今日の物産展さながらにとこ ろせましと展示されていました。それらの多くは、薬草について記載 する中国の本草学がベースになっています。また、細密画のような博 物学の絵も流行っていました。 このように、19 世紀のヨーロッパと日本でも、同様に博物学的興味 や収集熱が高まっていたのですが、両者には大きな違いがありました。 博物学はどのような対象であれ、先のビュフォーのように、一般性、 普遍性の追求をしていきます。しかし日本における本草学や物産会は 個別性にとどまり、一般性追求への志向はみじんも見られません。科 学者は一般性、普遍性で説明できることを求めますが、今日でも、全 般的に日本では、「物事は理屈ではない」という言い方をして、普遍性 で説明できることを嫌う傾向があります。理屈ばかりで本質が見えて いないとか、一般性、普遍性で記述することを 浅い として敬遠し たりします。どうも日本は理論化を嫌う性向があるように思えます。 ですから、理論的に物事をとらえることは、細部をよく見ていないこ とに通じ、まだ若い、浅いなどという表現をします。細々したものに
29 ついて筋道を通して体系的にとらえないのではなく、むしろ積極的に 嫌うのだと思います。そこからは、科学の特質である説明体系の一般 性や普遍性の抽出は導き出せません。したがって、本草学、物産会は、 いかに多くの品々を集めても、博物学にはならなかったような気がし ます。 そのあたりの事情については、西村三郎の『文明の中の博物学―― 西欧と日本(上下)』(紀伊國屋書店、1999 年)に詳しく書かれています。 この中で、いかに多くの品物が物産展で展示されているかが浮世絵な どとともに紹介されています。彼は、東洋では、なぜ博物学が理論体 系としての生物学にならなかったについて分析していて、江戸時代の 本草学は個別性にとどまったと指摘しています。そういう点でも、民 族的な文化の違いがあるように思えます。それとも関連して、日本の 博物学はかなり中途半端に終わっています。博物館にしても、欧米に 比べて、未来永劫、人類の遺産として公開しつづける決意がない点に も通じているのではないでしょうか。 <質疑応答> ●カソリックの柔軟性 vs プロテスタントの原理主義 ―― 昔の西欧では、キリスト教的な思想から人体解剖が禁止され ていたそうですが、現代では、臓器移植や脳死は受け入れら れています。これはどのような経緯で受け入れられていった のでしょうか。 長谷川 解剖をどう認めたか、私自身、経緯については詳しくありま せん。カソリックとプロテスタントとの違いなど、いちがい に言えないことがたくさんあります。死体についての認識も、 魂が抜けた後はモノとして扱う宗派もあれば、尊厳をもって 扱う宗派もあります。臓器移植については、ヨーロッパでは
30 それほど抵抗感はないようですね。総研大にスペイン人の研 究者のテレサ・ロメロさんがいますが、スペインは先進国の 中でも臓器移植率が圧倒的に高いんですね。どうしてそんな に高いのかと質問したところ、「みんな脳死が人の死だと思 っているし、どうせ生き返らないのなら、臓器を役立てたほ うがいい」といとも簡単に答えました。それが一般的な認識 なのかどうかもよく分かりませんし、この問題については、 いいかげんなことは言えないですね。 ―― キリスト教でも、カトリックはプロテスタントとはかなり違 いますが、プロテスタントの生まれた背景と科学思想は連動 しているのでしょうか。 長谷川 カトリックとプロテスタントの世界観や宗教観はかなり違 うので、たしかにそれは重要な点です。プロテスタントの登 場はルターの宗教改革以後ですから、カソリックよりは新し い宗教でしょう。近代科学が成立する前には、スコラ哲学が キリスト教的世界観でヨーロッパの知性を支配していまし たし、その時代の宗教はカソリックでした。カソリックにお いては、神は全知全能で世界を設計したことになっています が、聖書の中ではどのように世界を創造したかが明示されて いないので、人間は神の意図を探ることができる、それが科 学の探求であるというところで折り合いをつけていました。 だから、神が第一原因として存在することはかまわないけれ ども、その神がどのように素晴らしくこの世界を設計したか が自明ではないので、それを科学的に解明していこうとしま すが、その場合に、機械論的自然観で十分であると考えたわ けです。つまり、すべてのものに神が宿るのではなく、ある 法則によって世界が動いているにちがいないので、その法則 を科学的に探究すれば、最終的に神の意図が理解できると考 えて、宗教と科学が対立することなく進んできたのです。 その世界観と最初に対決するのが地動説でした。ガリレオの
31 地動説は、確実に聖書が記述する天動説に相反していたから です。しかし、その後時間がたつと、いくら聖書に書いてあ ることに相反するといっても、地球は丸いし、地球のほうが 動いていることが証拠として見えてくるわけです。逆に、観 察を通じて、地球が太陽のまわりを回っていることを前提に しないと、さまざまな事実が理解不能になることもわかって きました。 その点、カソリックは柔軟でした。最終的には、1992 年に ヨハネ・パウロ2 世がガリレオに謝罪しました。また、代々 の法王の周囲には多くの科学者集団がいて、最高水準の科学 的見地から、カソリックとの整合性をとっています。その意 味ではカソリックは、優秀なシンクタンクを抱えて対処して います。また、その後1996 年に進化論の正しさも認め、最 終的に人間の精神だけは別としましたが、人間も他の生物も 進化の産物と認めました。このようにカソリックは、自然哲 学の中で世界を整合的に説明しようとしてきて、争点となっ た地動説と人間の精神以外の進化論についても認めました。 つまり、どうしようもなくなると認めるという柔軟性をもっ ているわけです。 それに対してプロテスタントは、ルターによるカソリックの 批判から誕生したので、自分たちの教義にこだわる意識は強 いと思います。その中でも、オランダを代表とする17 世紀 のヨーロッパのプロテスタントは、多くの宗教戦争を通じて、 政教一致が得策ではないことを学び、政教分離の方向に向か ったのでしょう。また同じ地域に、さまざまな宗教の人々が 住んでいてもかまわないという寛容の方向に向かいました。 それを嫌った人々が移住して作ったのがアメリカですから、 アメリカのプロテスタントは原理主義が強いわけです。そう いう意味では、プロテスタントはその生まれた背景から考え ても、融通がきかない面があります。特に、ヨーロッパの他
32 の宗教と比べると、アメリカの原理主義は特殊だと思います。 実際に、今でも進化論をまともに教えられない州も少なくあ りません。その意味では、プロテスタントのほうが原理原則 を変えず、カソリックのほうが柔軟かつプラクティカルだと 言えるでしょう。 ●18 世紀の物理主義が理解できなかった創発生 ―― 近代科学成立の過程において、生気論と機械論の生命観の違 いがよく分からなかったのですが。 長谷川 機械論は、生物も無生物も物理の用語ですべて説明できるは ずだとする考え方です。それに対して、18 世紀後半から 19 世紀にかけての当時の生物学の知識では、遺伝や発生や進化 が分からないので、生き物の不思議さを、(当時の物理学の 知識での)エネルギーと物質と力で説明できるのかと問うた のが生気論だったのです。たしかに、それでは説明できない でしょう。先にあげたウニの定義などにしてもそうですが、 物理的描写では、生物の本質にとうてい迫れなかったわけで す。では、生き物の不思議さを何と呼ぶかと考えたときに、 生気論者たちは、当時の物理学では知られていない「第三の 力」を想定し、それは生命にだけしか働かないとしました。 そして、それらにエラン・ヴィタルなどの言葉をつけたので す。その当時知られていた物理の法則や要素で生命は理解で きないし記載できないから、生物や生命に固有の 何か を 想定しなければいけないと考えたわけです。 ―― 現在は、生気論が想定した固有の物質とは、遺伝子などであ ることが判明してきたのですね。 長谷川 そうです。そしてそれは、「第三の要素」ではなかったわけ です。遺伝子などは、ちゃんと物理や化学の言葉で説明でき たのです。