武
田
元
有
〔
Ⅲ〕パクス 。オ トマニカの解体とモルダヴィア・ ワラキア
英仏両国はそれぞれの国内動乱を鎮静 した17世紀後半か ら再び海外貿易の発展に努め,新
大陸・ 東イン ドをめ ぐる覇権抗争 を展開する一方,東
欧諸国は啓蒙専制主義の もと経済拠点への領土拡張 と海外貿易の振興 を進めた。以上の動 きは相互 に連動 しつつ展開 し,最
終的にオース トリア継承戦 争 (1740-48年 )・ 七年戦争 (1756-63年)を
経てイギ リスは二大植民地 を基礎 とする第一次大英 帝国を建設する一方,プ
ロイセンは新興の大陸強国 としての地位 を確立する。かかる世界史的条件 のもと,換
露両国は自ず と領土拡張の方向をバルカン・黒海地域へ と向けることになった。 まずロシア皇帝 ピヨー トル1世 (在位:1682-1725年)は
即位後問もな く露土戦争 (1686-99年) を遂行 し,1700年 コンスタンチノープル講和条約の もとアゾフ海を併合 している。続 くスウェーデ ンとの北方戦争 (1700-21年)と
1721年ニスタット条約ではバル ト海進出を実現 したが,た
だ しこ の間スウェーデン=ト ルコ同盟を破断するべ くモルダヴィア公国君主デ イミトリエ・カンテ ミール Dimittie Cantemir(在位:1710-11年)と
同盟 しつつ遂行 された再度の露土戦争 (1710-13年)に
は敗れ,1711年プルー ト条約 。1713年ア ドリアノープル条約において逆にアゾフ海を返還 している。 またオース トリアは皇帝 レオポル ト1世 (在位:1658-1705年)治
世の神聖戦争 (1683-99年)と
1699年カルロヴイツ条約 によるハ ンガリー・ トランシルヴァニア奪回に続 き,カ
ール6世 (在位: 1711-40年)治
世にはヴェネツイアと連合 した再度の神聖戦争 (1714-18年)と1718年パ ッサロヴイ ツ条約 によリセルビア北部・ワラキア西部 (オル ト河以西5州=オ
ルテニア)を
併合 した (図 1)。 続 く1730年代のポ‐ランド継承戦争 (1733-35年)で
はフランスが仏土同盟 を形成 して嶼露両国を 挟撃 したため東欧両国の対土戦争 (1736-39年)が
再発するが, しか し換露両国はこれに敗れ,オ
ー ス トリアは1739年ベオグラー ド条約においてワラキア西部 を返還 し,ま
たロシアは同年 コンス タン チノープル条約 によリアゾフ海における中立義務 を甘受 している。か くしてヨーロッパ国際紛争 と 連動 して北欧・フランスが トルコを支援 した当該段階においては東欧列強の進出になお一定の限界 が存在 したと言える。(1) なおオスマ ン帝国はこの間にサフアヴイー朝ペルシアと二次 にわたる戦役(1722-32,32-36,
42-46年 )を
展開 してお り,バ
ルカン戦線 と並 び東部国境の防衛にも絶えず留意せねばならなか っ た。 また南方のエジプ トでは帝国政府が任命するエジプ ト総督の後退 と在地貴族マムルーク・ベ イ の伸張が明白とな り,と
りわけイブラヒム・カ トフーダ (在任:1743-54年)は
帝国か らの脱却傾 向を強めている。か くしてアラブ地域においてもオスマ ン支配体制の動揺は顕者 となった。鬱) 以下本節ではパ クス・オ トマニカの解体が進行する18世紀前半を対象に,オ
スマ ン帝国のルーマ *鳥取大学教育地域科学部 地域社会講座ハ プス プル ク帝 国
モ
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トランシルヴアニア オルテエア 図1:モ
ルダヴィア・ ワラキア (18世紀) 1718年 オース トリアに割譲・W39年フラキアに返還 1775年 オース トリアに割譲 1812年 ロシアに割譲 〔典 拠 〕V.GcottcSCu,少 蕨,p.95. ニア統治における政治的・経済的特質とこれに伴 うルーマニア農業の変化について検討 しよう。(1)フ
ァナ リオ ト制度 とルーマニア国家 周知の如 く18世紀バルカン地域では徴税請負権 ・行政官職 を掌握する地方名望家層 アーヤー ンの 興隆により,旧
来の集権的なオスマン支配体制の弛緩が進行する。対 してルーマニアでは東欧列強 の進出を阻止するべ き防壁 としてオスマン支配の再編 。強化が志向されてお り,1711年D・ カンテ ミールの反乱 を契機に在地ボイエールを公国君主 として任命する14世紀以来の自治制度は廃止 され, 以後1820年代 までオスマ ン臣民たるキ リス ト教徒ギ リシア人 (「ファナ リオ ト」Phanariote)を公国 君主 として指名・派遣する「 ファナ リオ ト制度」Phana otismが導入 された。この結果公国君主の 任免権は全国議会か らスルタンヘ と移行 し,君
主の性格 は公国利害 を代弁する君主prince(ヴ オイ ヴォダ vOivoda)か らオスマ ン統治を媒介する知事gOVemor(ホ スポダル hOspodar)へ と転換す る(17世紀「黄金時代」Golden Ageか ら18世紀「鉄の時代」IrOn Ageへの移行)。
ただ し他のバルカン諸国が形式上は依然 としてテ イマール制 によるオスマ ン政府の直轄支配 を受 けたのに対 し
,ル
ーマニアはファナリオ ト体制の もと問接統治を受けるにす ぎず,国
内政策の領域 においては全国議会の存続 と広汎な自治を認め られている。またファナ リオ ト君主は必ず しもコン スタンチノープル居住ギリシア人から登用 されたわけではな く,む
しろルーマニア現地での穀物買 付 ,宗 教活動及び在地貴族 との婚姻関係 を通 じて「帰化」rumanizedし たギ リシア系ルーマニア人 か ら大半が輩出されたこと, したがって必ず しもオスマ ン支配の尖兵 としてのみ機能 したわけでは な く,同
時に近隣東欧諸国の啓家専制主義に触発 された種々の先進的内政改革をも推進 したこと, が指摘 されている。●)以
下,か
かる二面性 に留意 しつつ ファナリオ ト制度の政治的特質を考察 しよつ。 ① 公国財政の危機 と財政改革 フアナリオ ト君主の一連の国内政策において最大の課題は財政改革にあ り
,後
述する他の内政改 革は全てこの財政政策の手段 として実行 されたにす ぎない とさえ言われる。財政改革がかかる枢要 な位置 を占めたことの背景 には,一
連の国際紛争 に強 く規定 された深刻 な財政危機が存在する。 第一はオスマ ン政府 に対する貢納義務の強化である。貢納義務それ自体 は既 に14世紀以来存在す るが,そ
の負担は18世紀 におけるフアナ リオ ト制度の導入に伴い一段 と強化 されることになった。 まず年間貢納金については,貨
幣価値の持続的下落 による実質年額の減少 を相殺するとともに,東
欧諸国との紛争 による軍事経費の膨張 を補填する必要か ら漸次引 き上げ られ,ワ
ラキアの場合18世 紀 を通 じて130,000タ ー レルか ら230,000ター レルヘ とほぼ倍増 している。 また君主即位 に伴い納入される「国旗税」nag tax(banii steagului),及 び即位
3年
目に長期統治の慶賀 として納入 される 「ムカレル」mucarclに ついては,そ
の最高価格 を提示 した者 にフアナ リオ ト君主の地位が付与 さ れる競売制度が採用 されていた故 に,や
は り上昇傾向にあつた。か くして世紀初頭のワラキアでは 毎年400,000-500,000タ ー レルがオスマ ン本国に送金 されたと言われるが,こ
れは当該期公国財政 の年度予算500,000-600,000タ ー レルの80%に
相当する。 しか もファナ リオ ト君主はその地位 の落 札のために投下 した自己資金,及
びギリシア商人 より借 り入れた資金 を即位後の国内課税 によつて 回収・返済するのが通例であった。か くしてルーマニア臣民はオスマン帝国向け貢納のみならずファ ナリオ ト君主 自身の財政需要 をも充足 し,過
酷な租税 を負担 したのである。 “ ) 第二はルーマニア国内人口の減少である。ルーマエア両国の農村住民は戦時における外国軍隊の 度重なる侵入 と農地荒廃 ・略奪 ・殺親によって多大な損害を被ったのみならず,平
時においてはフア ナリオ ト君主により過重な租税負担 を要求 され,安
定 した生産活動 を阻害 されることとなった。こ の結果,農
村人日の多 くは軍事作戦の舞台 となる平原地帯から外国軍隊の侵入が困難な山岳地帯ヘ と,さ
らにはより良好 な地位が期待 される隣国 (露領 ウクライナ・壊領 トランシルヴァニア・ 土領ブルガリア)へ
と大量 に流出 している。 と りわけ対嶼国境 に接するワラキア西部のオルテ エア5州では1714-18年神聖戦争期 にオース ト リア軍隊が侵入 した平原3州 (Doも,Mehedi , Roman)を
中心 に農村 の遺棄が進み,1720年 代 には村落総数が当初の6割
まで激減 している (表1)。 かかる担税人口の急速 な減少 により公 国財政の基盤は大幅に縮小することになった。6) 以上の如 き一方での財政支出の膨張 と他方での財政基盤の縮小 を背景 として初代 フアナ リオ ト君 主ニコラエ・マヴロコルダー トNicolae Mavrocordat(モ ルダヴイア君主:1709-10,11-15年
・ワ ラキア君主:1715-16,19-30年
)は
一連の財政改革に着手 している。 まずD・ カンテ ミールの反 乱平定のためモルダヴイア君主に着任 した際には,単
純 に農民課税 を強化す るのではな く,む
しろ 納税義務 を緩和することで逃亡農民の帰郷 を促進 し,か
かる国内人口の回復 によつて担税基盤その ものを拡大することが改革の方針 とされた。 この原則の もと農民 にとつて重圧であった各種租税 (家畜税・ワイン醸造税・果樹 園税)は
廃止 され,納
税年額の査定制度 と四半期毎の分割納入 を特 表1:オ
ルテエアにお ける村落総数 1716-18年 1722年 総 数 うち廃村 Vilcea Gori Doli 145 Mchcdinti 刀 ■ Romanati 計 977 201 〔典 拠 〕S.Columbeanu,CP・ p胞跡 η ",勉 め お ゐ "'ガ,79s 9rt/rJ′,θカル,″ I19 dたcル,Bucarest,1974,pp.34,44質 とす る独 自の人頭税 が導入 され る一方
,ボ
イエ ールに よる財務管理の不正行為 は厳重 に防止 され た。 また1714-18年神聖戦争 の戦局 を打 開す るべ くワラキア君主 に就任 した際 には,早
急 な戦費調 達 の手段 として旧来免税特権 を享受 して きたボイエールヘの課税 を実施す る とともに巨大私領の回 収 と直轄地の拡大 を強行 し,課
税 基盤 を農民 か らボイエールヘ と漸次転換 している。 “ ) また最大の フアナ リオ ト君主 とされるその息子 コンス タンテ ィン・マ ヴロコル ダー トCOnsttntin MavЮcordat(モ ル ダヴ ィア君主:1733-35,41-43,48-49,69年
・ワラキア君主:1731-33,35
-41,44-48,56-58,61-63年
)は
,1736-39年
換土戦争 に伴 う軍事支 出の膨張 と担税農民 の流 出 に よ リワラキア財政の逼迫が進 むなか,一
連 の財 政改革 を展 開 している。 まず公 国財政の種桔で あ った貢納負担の緩和 をオスマ ン本 国に要請す る一方,国
内では入植 農民 を優遇 して担税人 口の育 成 に努 め,ま
た1739年 ベ オグラー ド条約の もとオルテニアが返還 される と,当
地 で20年 にわた り実 施 されて きたオース トリア政府 の絶対主義政策 を模倣 しつつ,村
落有力 者 を介在 した徴税 請負 ・連 帯納税 制度 か ら国庫官吏 による直接徴税制度へ の移行 を志向 した。 さらに1739-40年には ワラキア で,続
く1841年 にモルダヴィアで,所
謂「大憲章」La grande charteを 発布 し,税
制改革を基軸 と する組織的な内政改革に着手 している。とりわけ直接税の中核をなす地租については,父
親ニコラ エの施策を模範として全国的な人口・資産調査を実施 しつつ,各
戸の納税年額の確定によつて課税 原則 を外形標準か ら応能主義へ と転 表2:ワ
ラキアにおける農村世帯1740-60年
換 し,か
つ5-10戸
編成の「10ude」 による連帯責任 と年4回の賦払制度 を採用 して負担の緩和 をはかった。 また特 にワラキアでは1746年勅令 を 発布 して逃亡農民への課税 を優遇 し, 国内に定住 してか ら6年間の免税 を 認めるとともに以降の税額 も最大5 ターレルまでに制限 している。0) しか しなが ら以上の減免措置 を梃子 とする税収基盤の拡大 にもかかわ らずオスマ ン政府への貢納 義務 とファナリオ ト君主 自身の資金需要は充足 され得ず,歴
代君主はむ しろ各種の新税 を度々導入 することになった。なかで もミハイ・ラコヴイタMihai Racovita(モ ルダヴイア君主:1703-05,07-09,15-26年
・ワラキア君主:1730-31,41-44年 )は
1742-46年の第三次 トルコ=ペ
ルシア 戦争 に伴い強化 された貢納義務 を履行するべ く重税政策 を復活 し,特
に直接税の低迷 を補填する手 段 としてあ らゆる対象 に問接税 を導入 した。 また40年代後半 にはグリゴレニ世ギーカG gore II Ghica(モルダヴイア君主:1726-33,35-41,47-48年
・ワラキア君主:1733-35,48-52年
) が 自身の公位獲得 に伴 う経費 を回収するべ く同様の政策を継承 し,公
国財政収入の90%を
農村共同 体 より調達 したと言われる。ω)この結果1740年代 を通 じて一層の農民逃亡が発生 し (表2),ワ
ラ キアの場合,1739年において147,000と推計 されている担税人口 (〓世帯総数)は
1741-42年には 116,000,1745年 には70,000,1753年 には40,000,へ と減少を続けた。①) ② 貴族制度改革 とギ リシア・ トルコニ重支配体制の成立 ファナ リオ ト君主の農民保護 を基調 とする税制改革は,既
存のボイエール階級が政治的には全国 議会 を梃子に君主権力 を統制 し,経
済的には巨大私領 において排他的な農民支配を展開する限 り, 十分 な成果 を生むことは困難であつた。実際N・ マヴロコルダー トは,モ
ルダヴィア財政再建の手 〔典拠〕S,Columbeanu,夢 ″,pp.39-43.段 として中小農民の保護 とボイエール階級の統制を試みなが らも
,同
時に対土反乱の勃発 を未然 に 回避するべ くボイエール階級 と協調する必要に迫 られたため,自
ず と農民保護政策は頓挫せ ざるを 得なかった。 また神聖戦争の勃発 に伴いワラキア君主 に即位 した際には,オ
スマ ン支配か らの脱去,を志向するボイエール階級が神聖同盟のワラキア侵入 とオスマ ン軍隊の駆逐 を支援 したため
,後
任 のヨアン・マヴロコルダー トIOan Mavrocordat(在位i1716-19年)は
戦局打開のため国内ボイエー ルの協力 を必至 と認識 し,そ
の利害の保護 を約束 している。以上の如 く外来ファナリオ ト君主 に抵 抗するボイエール階級 は,オ
スマン帝国に対峙する東欧両国と共通の利害関係 を有 し,フ
アナ リオ ト体制への率肘 として機能 したのである。(Ю) かかる状況の もと財政再建の前提条件 としてボイエール階級の社会的地位 を抑制することが課題 とされ,C,マ
ヴロコルダー トは1739年ベオグラー ド条約による対換戦争の終結 を契機に一連の行 政改革 に着手 している。 まず軍隊機構 に関 しては既 にフアナリオ ト制度の導入以来公国領上の安全 はオスマ ン軍隊によつて保障 される原則 となっていため,最
終的に1739年においてボイエールの従 軍義務 に立脚する軍隊は解体 された。(11)また続 く上記1740・ 41年大憲章の もと貴族制度改革が断 行 され,以
後貴族身分の資格 ・要件は土地所有ではな く官職保有に置かれるとともに,そ
の格付 も 所有土地面積の大小 によつてではな く保有官職の階位 に応 じて規定 されることになった。 これに伴 い旧来 の世襲土地貴族 hereditary■obilityは原則 と して廃止 され,新
たな官職保有貴族 servicenobility・ noblesse de fonctionがボイエール階級 の中核 を構成す ることになる。(lDこれに伴 い地方 官制 に関 しては新規 に直轄の有給地方長官coalmissaires(ispravniks)が派遣 され
,ボ
イエールの 地方行政活動 は制約 されて中央集権の強化が志向 された。(1働 なおボイエールの牙城であつた全 国 議会はそれまで形式的なが らも維持 して きた君主選出権 を1730年 には放棄 し,さ
らに後述する1749 年の開催 を最後 に活動その ものを停止することになる。代わつて既存の公国評議会Senttc/D an が最高の国政機関 となるが,そ
の権限は専 ら司法領域 にとどまり,ま
た12名の成員は終身の大司教 を除き公国君主の任命による故,実
質的に君主の諮問機関にす ぎなかったと言える。(1のか くしてルー マニア内政におけるボイエールの政治的地位 は大幅に後退することになった。 しか も上記の如 き恒常的な財政危機に伴い,歴
代君主は財源捻出の手段 として官職売買 に依存す る傾向を強めた。なかで もマテ イ・ギーカMatti Chica(ワ ラキア君主:1752-53年 ・モルダヴ イ ア君主:1753-56年)は
オスマン向け貢納供出の維持 と自身の公位買収 に要 した資金の回収のため, 着任後間 もな く総計120のボイエール身分 を新たに創出・売却 した と言われる。 この結果,経
済活 動により資産を蓄積 した一般市民, とりわけ首都向け穀物貿易 を独 占する帰化ギ リシア商人が高級 身分 を買収 し,フ
ァナ リオ ト君主の家産官僚へ と転化する現象が発生 した。か くして支配階級の編 成においても外来ギ リンア人の台頭 と土着ボイエールの後退が進み,国
制の頂点におけるファナ リ オ ト君主の君臨 と相倹 つて,実
質的なギ リンア支配体缶Jが構築 されたのである。(1働(2)オ
スマン帝国経済の再編 とルTマ
ニア海外貿易 対仏戦争 を通 じて二大植民地を獲得 したイギ リスは東方貿易の中継地点をなす レヴァン ト市場か ら漸次撤退 し,以
後対欧貿易の基軸は対仏軍事同盟 と1734年・66年英露通商条約 を背景にむ しろ対 露バル ト海貿易へ と移行 した。(10逆に対英戦争 に敗退 して植民地市場 を縮小 したフランスは羊毛 製品輸出・原綿輸入の代替市場 として東地中海域 に注 目し,一
連の対換戦争に伴 う仏土同盟 と1740 年カピチュレーシ ョンを梃子 にレヴァン ト貿易 を掌握する。(W)かくして植民地戦争の結末 とは対照的にレヴァン ト市場の主導権 はイギ リスか らフランスヘ と移行 し
,取
引の性格は東方奢修品の中 継貿易から工業製品・農業産品の交換関係へ と,ま
た トルコ海外貿易の拠点はシリア・エジプ ト商 業都市からバルカン沿岸都市へ とそれぞれ転換 し,バルカン西岸地帯の世界市場編入が進行する。(181 他方オース トリアのバルカン進出とエジプ トの離反傾向は,オ
スマ ン帝国の二大穀倉地帯たるバ ルカン・エジプ ト地域の本土向け穀物供給 を度々遮断 したのみならず,首
都 コンスタンチノープル ヘの難民流入を加速 して食糧需要を上昇 させ,オ
スマ ン政府は黒海冶岸 を帝国の食糧供給地帯 とし て再編成する必要に追 られた。か くしてルーマニア両国では今やスルタンに直轄 されるファナ リオ ト君主 を媒介 に一層厳格な通商規制が実施 されることになった。(191 ① オスマン帝国の食糧供給政策 と黒海・ルーマニア貿易 まずアフメッ ト3世 (在位:1703-30年)は
,嶼
露両国 との戦争により領土危機に陥 りなが らも, ロシアとの和平交渉では1700年コンス タンチノープル条約以来 「南方へ の窓」hc window to he southの開放 を繰 り返 し求める ピョー トル1世に対 して,黒
海は露土国境 にあ らず「帝国領内」ahousc wihin he inteior of his realm,「 帝国の内海」an inland sea of thc Empireであるとの見解 を 譲 らず
,露
土貿易の発展 には好意 を示 しつつ も黒海貿易の開放 については一貫 して拒否 している。 ●の またオース トリアとの1718年パ ッサロヴイツ条約では穀倉地帯の一角をなすワラキア西部の割 譲 とともに ドナウ河の自由航行,及
び小麦取引の自由を承認 した ものの,黒
海の自由航行 について は依然禁止するとともに,穀
物買付 もオスマ ン政府の事前の承諾 を条件 とした。 しか もオスマ ン政 府は翌1719年にフアナ リオ ト君主にルーマニアのオース トリア向け灰汁輸出に関する情報提供 を求 めつつその制限を志向 し,ま
たエジプ ト反乱が勃発 して地中海経由の穀物供給が停滞 した1729年に はルーマニア両国のオース トリア向け穀物輸出を禁上 している。91)オ スマ ン政府はかかる黒海貿 易独占を前提 に旧来通 り黒海・ ドナウ1可沿岸地帯で生産 される穀物の帝国領外向け輸出を制限 し, その買付及び首都向け輸送 をギ リシア商人を中核 とする政府任命の特権商人のみに認可 した。すな わちまずアルメニア商人はペルシア=コ
ンスタンチノープルの陸路通商 に,ま
たギ リシア商人は西 欧=レ
ヴァン ト・黒海の海路通商に,さ
らにユ ダヤ商人はレヴァン ト会社 と現地オスマ ン官僚 との 仲介において,そ
れぞれ活動 している。。Dか
くして黒海は依然 として世界市場か ら隔離 され,オ
スマ ン帝国の独占的食糧供給市場 として機能 し続けたのである。 続 くマフムー ト1世 (在位:1730-54年)は
,フ
ランスの支援 により1739年ベオグラー ド条約の もとワラキア西部 を回復する一方,そ
の代償 として1740年カピチュレーション協定ではフランス商 人にオスマ ン領内における自由通商を認めざるをえなかったが,た
だ し黒海・ ドナウ河 ・両海峡は 依然その対象か ら除外 されている。む しろ同帝は1742-46年の第三次 トルコ=ペ
ルシア戦争 に伴い ルーマエア両国への穀物貿易統制 を強化 し,1748年にはフアナリオ ト君主に指示 して両国に市場割 当制度を導入 しつつ従来不定期であった穀物輸出義務 をほぼ毎年化 している。続 く1750-51年には 厳冬 に伴 う飢饉 によリブルガリアが首都向け穀物輸出を武装蜂起 によって拒否 したが,そ
の際オス マ ン政府はポーラン ド小麦の輸入によって当座の食糧危機 を回避する一方,以
後ルーマニアは穀物 その他の特定産品についてはオスマ ン市場の需要が充足 されない限 リー切の海外輸出を禁止 され, ここにルーマニア穀物輸出におけるオスマ ン帝国の先買権が確立 された。 また旧来ルーマニア穀物 貿易には トラブゾンのラズ部族 Lazes商 人が参入 していたが,そ
の買付・輸送業務 における不正行 為が発覚するに及びその貿易特権は剥奪 され,以
後 コンスタンチノープルを拠点 とするギ リシア系 オスマ ン商人がルーマニアの対土穀物輸出を独 占することになった。90
表
3:オ
スマン帝国の穀物供給市場構成1758年
(単
位 iキラ ) 主 体 供給地帯 港 湾 小麦 大 麦 海運組合 ドナ ウ河流域 Kllyakili 150.000 Ismail 110,000 40,000 rOlca o Macin 62,500 12,500 Isakca 125,000 25,000 Braila・ Kalas 250,000 Hi sova 62,500 12.500 Akkeman 250.000 100.000 小 計 1,110,000 490,000 黒海沿岸地域 Burgas 314,000 59,000 Varna 350,000 100,000 Balcik 300,000 100,000 Kivama 200.000 50,000 卜CanЯalve 3501000 Constantza 400.000 50.000 Karaharttaan 50.000 小 計 2,164,000 459.000 Karesi Mihalic トラ キ ア Γekfurdagi 1.800.000 小 計 6.423.000 独立商人 47,000 政府代理商 Tirhala Piatamona Morea Anapoli Selez Эrfani Salonica Salonica Yenisehifanari Golos lvttrlvЯ Pireus 20.000 」ヽ 言十 580.000 総 計 7,050,000
〔典 拠 〕L,Gucer,HCrain Supply of lstanbul in the 18血Centurメ1,C ISSawi,影ιβθο″ο脇
'C rri的 4/げ触 汁?′∂θO― ′9′イ,Chicago, 1980,pp.30-31 図
2:オ
スマ ン小麦価格 の動向15-19世
紀(単
位 :純銀 グラム/キ
ログラム ) 1400 1450 1500 1550 1G∞ 1650 1700 1750 1000 1850 〔典 拠 〕L Beriov,HChanges in P ce Conditions in TI・ade betwecn Turkey and Europe in the 16th―CenturyH,β脇】♂s bα′脇″η″奮,V01.3,1974,p171 勒 m 畑 m m m 囲 ︲oo 80 60 40 20
またオスマ ン3世 (在位
:1754-57年
)治
世には,1754年のイブラヒム・カ トフーダ死去 に伴 う エジプ ト状勢の混乱により首都向け穀物の海上輸送が寸断されて穀価高騰が進み,1755-58年
には コンスタンチノープルにおいて深刻な穀物不足が発生 した。ここに安価穀物の安定供給が急務 とな り,1755年にワラキアは単独で300,000キ ラの小麦 ・200,000キラの大麦 をコンスタンチノープルに 搬送 している。94)さ らに当該期 よ リルーマニア穀物貿易 に関 して以下三種の取引形態が整備 され たと言われる。第一は海逗組合に帰属する巨大商人であ り,1755年10月の団体契約 により56人の船 主が保有する120隻の商船 に対 して以下の特権が承認 された。すなわち, まず当該団体の帰属商人 はブルガスBurgasか らオデ ッサに至るブルガリア・ルーマニア黒海西岸諸港か らの穀物輸入 と1隻 当た り700キラの穀物運搬 を承認 され,コ
ンスタンチノープル以外のアナ トリア諸港への輸出を禁 止 された。ただ しかかる穀物取引は,穀
物取引所長官 ・海運組合の承認 を条件 として上記120隻の 登録船舶以外 にも容認する門戸開放open doorを 原則 とした。 したが って当該契約は決 して上記56 船主の穀物取引独占を保護するものではな く,む
しろ必要穀物の供給維持が 目的であったと言える。 またその際の買付価格は中央政府派遣官僚の設定する公定価格で実施 されるとされたが,こ
の結果 穀物生産者は安価 な政府買付 を回避 して高価 なやみ市場を選好 したため,1756年には両者 による取 引価格の協議が規定 された。第二はかかる海運組合に帰属 しない独立中小商人であ り,上
記団体契 約には加盟せず,
トルコ政府 による個別認可の もと黒海地域 における穀物取引 を展開 した。ただ し 穀物買付は上記特権商船による取引の終了後 にのみ許可 され,ま
た市場価格 による買収 を基本 とし た。 これら民間商人による供給総量は1758年で6,510,090キ ラに達する (表3)。 第三は政府代理商 の取引であるが,そ
の総量 は全体の一割 に相当する560,000キラにとどまり,民
間商船の供給のみ では首都の食糧需要を充足 し得 ない緊急時に限 られた。鬱D さらにムスタファ3世 (在位:1757-74年)治
世 には前帝時代か らの食糧不足が依然続 く一方, 1758年には黒海北岸のクリム汗国が 自身の食糧危機か らコンスタンチノープル向け穀物輸出に対 し て武力抵抗 を行 う事態 も発生 している。かかる状況において同帝は1759年勅令 を発布 してルメリア 全域の港湾都市 にコンスタンチノープル向け穀物供給 を義務付ける一方,1765年勅令では特 にルー マニアの穀物供給義務 を強化 している。すなわち当該勅令によリガラツ (モルダヴィア)。 ブライ ラ (ワラキア)両
港は,旧
来の戦時における無償穀物供出の義務に加えて,以
後平時には春 ・秋の 2回にわたって年間合計35,000キラ (10,752ト ン)の
穀物 を低廉 な国定価格 にて供給する義務 を負 う ことになった。旧来の軍隊向け兵糧提供 を目的 とする戦時強制供出に対 して,主
に首都向け食糧供 給 を目的 とするこの新たな平時買付制度は「春秋供出J prOvision du p ntemps et dc Lutomne。 「有 償供出」ravitalllenaent payё (moukttssc)と 称 され,両
者は厳格 に区別 されている。その搬送 にはオ スマ ン官吏が随伴 し,貨
物の横領 を防止するべ く指定港湾での搬出・搬入 を監督 した。●0こ
の結 果同帝治世においてオスマ ン小麦価格は一時安定することになる (図 2)。 以上の方策を通 じてほぼ以下の如 き食糧供給体制が整備 されることになった。 まず軍隊向け兵糧 (穀物 ・蜂蜜・油脂 ・乳製品)の
買付 についてはコンス タンチノープル穀物取引所grand marche (kapan)に 帰属するギ リシア商人組合の穀物商人kapanlisによつて,公
定価格 において実施 された (ミーリー制度Mi purchasing)。 この公定価格は18世紀初頭で1キラ当た り小麦20パラpa盟・大麦10 パラを上限 とし,い
ずれ も市場価格 を大幅に下回つていた。また羊肉買付 についてはコンス タンチ ノープル精肉局長le chef des bouchers(kasapbasi)の 派遣する羊肉商人bouchers(kasap)・ 牧人patresルヘ の食糧供給 を維持す るべ く
,ま
ずモ ル ダヴ イア ・ワラキア を小 麦 の主要供給基地 と し,ダ
ブ ロジア・ブルガ リアを小麦 ・大麦・ライ麦の調達地帯 として
,か
つ黒海北岸の クリミア半 島及 びバ ルカン西部 のマケ ドニア・ トラキアを ドナ ウ平原の補完市場 として
,そ
れぞれ位置付 け,エ
ジプ ト市場 を代替 す るべ き域 内食糧供給体制 を構 築 したのであ る。 なかで もルーマニア両 国は「 コ ンス タ ン
チノープルの養父」pOrc nouricier de Constantinople・ 「 ヨンスタンチノープルにとつて不可欠の穀 倉」lcs grcnicrs indispensables de Constantinoplcと 称 される極めて重要 な地位 を占めた。骸働 かかる ギリシア特権商人を媒介 としたオスマ ン帝国のルーマニア穀物市場統制は
,フ
ァナリオ ト君主 を媒 介 としたルーマニア間接統治体制 に経済的に対応するもの と言えよう。 ② 東欧列強の官房主義政策 とバルカン・黒海貿易 以上の如 きルーマニアにおける高度なオスマ ン貿易独占の展開の一方で,当
該期 には東欧諸国の バルカン・黒海方面への販路拡張が進められつつあったこともまた事実である。 まずオース トリアは対仏関係の悪化によリネーデルラン ト経由での販路獲得が困難 となったため 市場拡大の方向は自ず とバルカン・ トルコ方面へ と転換することになった。この結果 カール6世
治 世には1718年パ ッサロヴィツ条約のもとワラキア西部 を併合する一方,旧
来のカピチユレーシ ョン 規定 を再認 して従価3%関
税 を維持 し,ま
た ドナウ河 自由航行権 を獲得 してバルカン市場進出の足 場が築かれた。 さらに当該条約に前後 して1717年 にはア ドリア海航行 を外国船舶に開放する一方, 1719年にはフイウメ・ トリエステ両港 を自由貿易都市 に指定するとともに同年「オリエ ン ト貿易特許会社」Kaiserlich p vilcgihc orientalische Kompagnicを 設立 してバルカン西岸地帯 との貿易取引 を 奨励 している。なかで もワラキア西部は現地駐留のオース トリア軍隊向け食糧供給
,嶼
領 トランシ ルヴァニアの繊維工業向け亜麻輸出,さ
らにはオース トリア本国向け穀物輸出,を
展開 し,重
要な 食糧 。原料供給市場 として機能 した。か くして当地はオース トリア治下の1718-39年においてオス マ ン帝国経済か ら脱去,し,む
しろハプスブルク帝国の農業植民地 として編成 されたのである。の9) 他方黒海進出に挫折 したロシアは,む
しろ北方戦争 に伴い獲得 した港湾都市ペテルブルクを拠点 に当面はバル ト海貿易 を基軸 として世界市場 との接触 を深めることとなった。特に女帝 アンナ・イ ヴァノヴナ Anna lvanovna(在 位:1730-40年)治
世の1734年には英露通商条約が締結 され,活
発 なイギ リス向け穀物輸出が展開されている。 しか しなが らバル ト海貿易の発展には重大な障害が存 在 した。 まずバル ト海貿易 と連動するロシア北部の農業地帯は石灰質の土壌 と多数の湿地 ・湖沼に より大規模 な穀物生産に不適であるのみならず,生
産地帯 と港湾都市 との間の輸送は多 くの時間・ 費用 を伴い, しか もバル ト海諸港は冬期 に凍結 した。対 して黒海北岸のロシア南部は肥沃 な黒土地 帯を擁するとともに黒海に注 ぐ多数の大河を通 じて輸送 も簡便であ り,か
つ不凍港の建設が可能で あったため,続
く女帝エ リザベータ・ペ トローヴナElizavcta Pc伊ovna(在位:1741-62年)治
世 に は種 々の黒海貿易計画が策定 されることになった。.まず1745年には商務省Ko4almerzぃ Kollcgiu14総 裁 を務める皇子B・ F・ ジュスポフJusupovが覚書 を作成 し,ロ
シア海外貿易 において英蘭経 由 よ りも黒海・海峡経由での地中海貿易が重大な意義 をもつ こと,今
やベオグラー ド条約での対土戦争 終結に伴い黒海貿易発展の条件が整備 されている以上,ロ
シア・レヴァン ト貿易の現状 を調査する 必要があること,を
指摘 している。これを受けて1756年にはロシア商人が「ロシア・コンスタンチ ノープル貿易会社」Russian Cotmcrcial Company Trading in Constantinopleを設立 し,
ドン河河日 テメルニクTem( ikにおける対 トルコ・イタリア貿易の独占権 を獲得 した。その際作成 された輸 出 品目一覧 には毛皮 ・各種船材 (帆布・亜麻),及
びロシア国内産業 にとつて重要な鉄鉱 ・鋳鉄カラJ表
4:オ
ル テニアにお ける村落・ 世帯状況1722年
(カ
ッコ内は%)
〔典拠〕S Columbeanu,ψ れ,pp 34,38,4生 H.H.Stahl,ゅ 滅,p・ ll・ 直轄地はオース トリア政府 のそれを指す。 表5:ワ
ラキアにお ける巨大所領 領 主 所有村落 地帯構成 ボ イ エ ー ル Bengescu 37.5 うちGoriに34.5 Brailoiu うちvilcea・ co面に28 BrancoveanuGlogoveanu 者」ЧξMchedinti Obedeanu うちDoliに14
P∝nam うちDo"に9.5,Mchedintiに7
Socoteanu 9 うちDoliに8
Strimbeanu 20.5 うちDoⅢに9,Mehdiniに8.5
Stirbei うちDoHに5。 Vilceaに 5
Viasto うちVilcedに 11 ブ カレス ト大司教 っち1lfovに 27・Vlascaに 33 〔典拠〕S,Cdumbeanu,夢 れ,pp.27-28,30 図
3:ワ
ラキア行政区画 教会所領 世俗所領 自由村落 直轄地 計 Vilcea 村落数 31(23) 25(19 76(56) 135(100) 世帯数 2,699(30) 1,716(19 4,190(47) 387(4) 8,992(100) CO可 村落数 91(55) 164(100) 世帯数 515(10) 2,321(44 2,133(4ユ 253(5) 5,222(100) Dou 村落数 16(15) 41(38) 44(41) 108r100う 世帯数 783(19) 1,331(31) 1,381(33) 731(17) 4,226(100) Mehedinti 村落数 17(16) 46(45) 36(35) 103(100) 世帯数 592(21) 1.150(40) 763(26) 381(13) 2,886( Romanati 村落数 15(19) 370(46) 13(16) 15(19) 世帯数 626(14) 1,748(40) 734(17) 1,274(29) 4.382r 計 村落数 90(15) 205(35) 260(44) 35(6) 世帯数 5.215(20Ⅲ 8.266(32Ⅲ 9,201(36) 3,026(12) 25,708(伍
乾
▼
就
枕
〔典 拠 〕I.Colfus,Lttθ″//Z″″/4カrみ,9 atttヵ″腕 純 ″就 'と ″ 蘊 9,″彦,Bucattst,1969,pp.48-49.表
6:ワ
ラキアにおける穀物生産の動向1738-41年
(単
位:キラ)
IIfov Prahova Vilcea Romanati Gori Doli
修道院 Mihai― Voda Mislea Cozia Brancoven Tismana Settarce
年 度 1737 小 麦 トウモロコシ キ ビ 大 麦 7 燕 麦 2 計 〔典拠〕S,Columbeanu,″ 肱,pp 56-62. 表
7:ワ
ラキア穀物生産 における領主直営地・農民保有地の比重関係1738-40年
(単
位:キラ ) 修道院 年 度 穀物 領主の地代収入 農民保有地 の生産総量 直営地生産の比重 直営地賦役 貸与地地代 Muscel Cimpulung 小 麦 7 7/ 120 = 1 / 17 トウモロヨン 1 / 10.4 小 麦19/ 35=1/ 18
トウモロコン ユ / 117 Vilcea Hurez 刀ヽ麦 72 / 940 = 1 / 13 トウモロヨンH2.5
1125 86 /1,125 〓 1 / 13 キ ビ 97. 5 97527/ 975=1/36
Bistrita 小 麦 1 / 32 トウモロコン1/13
Romanati BHncovenl 56 /1,360 = 1 / 24.3 Caluiu 小 麦 トウモロコシ / 9 Saint‐Georges 1, 200 50 /1,200 = 50 / 800 = 〔典拠〕S.Columbeanu,ψ 肱,pp 83-87. 表8:領
主所領収入内訳1730-40年
度平均(単
位:ターレル )Bucarest Prahova Vilcea
修道院 Cotroceni Coltea Saint―Jean Margineni Cozla
1730‐35 1736-40 1732-35 1736‐39 1733‐35 1736-40 1730‐35 1736‐39 1736‐41 売 却 収 益 酒類 893.8 6345 2,1837 2,367.0 家畜 526.8 43.0 穀 物 養蜂 172 242.3 製塩 202.5 1,300,0 各 種 使 用 量 放牧地 267.2 林 野 湖 沼 45,3 橋 梁 62.8 圧搾機 地 代 店舗 5564 農 地 2,251.0 1,704.0 徴税収入 1,3585 756.4 203.8 計 3,3991 3,002.8 3,5414 3,2977 1,272.4 4,350.8 3,457.9 7099 〔典拠〕S,Columbeanu,ψ 肱,pp 145‐ 147
挙 され, トルコ貿易への関心の高 さを確認で きる。かかるロシア商業資本の市場利害 を背景 としつ つ
,以
後黒海北岸領土の獲得 と黒海 自由貿易の実現が歴代 ロシア皇帝の外交課題 となる。傷ω(3)ル
ーマニア農奴解放の展開 周知の如 く18世紀以降バルカン各地では,政
治的にはオスマ ン支配体制の弛緩 に伴 う地方名望家 層 アーヤーンの台頭,経
済的には対欧 レヴァン ト貿易の発展に伴 う輸出向け一次産品生産の発達, 以上 を背景 としてイスラム地主の農民支配 と市場向け換金作物生産を基調 とするチフ トリック経営 が広汎 に展開する。。1)対 して在地貴族ボイエールの土地所有 を維持す るルーマニアでは,一
方で のファナリオ ト君主の台頭 と土着ボイエールの抑制,他
方でのオスマ ン帝国経済の再編 とルーマニ ア穀物貿易の促進,以
上 を背景 として農地制度の一定の再編 を見ることになる。 ① オスマン帝国経済の再編 とルーマニア農奴制 研究史上18世紀前半ルーマニア人口に関する情報は極めて少な く,1722年にオース トリア官僚D。 フイルモン トViHnontが壊領オルテニア5)`‖を対象に実施 した人口調査 (所謂「フイルモ ン ト徴兵台帳」conscrゃtiOn vimontieme)が 貴重 な統計史料 となっている (表 4)。 それによればオルテニア 農村全体の2割弱が教会所領
,4割
弱がボイエール所領,残
る4割強は聖俗領主の支配 を受けない自 由農村であ り,世
帯数 も同様の分布 を示 している。その際,カ ルパチア山脈 に沿 う山岳2州 (Vilcea, Go可)で
は農村全体 の6割を自由農村が占め,逆
に ドナウ河沿岸 の平原3州 (Doli,Mehedintil Romanati)で はボイエール所領の比重が顕者 となっていることが留意 される (図3参
照)。●の また 表5は18世紀ルーマニアにおける著名な巨大ボイエールの所領状況 を示 しているが,世
俗領主では 公国君主を輩出 したブランコベアヌ家が最大の所領を支配 していること, またブカレス ト大司教領 はムンテエア平原地帯 を基盤 とする104の村落 を所有 して聖俗 を含むワラキア最大の領主 となって いること,い
ずれの巨大所領 も平原諸州 を基盤 として展開 していること,が
確認で きる。以上の如 き平原地帯における領主支配の優位 と山岳地帯 における自由農村の残存 という地帯構造は当該期の ルーマニア全般に該当する現象 と推定 されているが,こ
れは第一に外国軍隊の侵入及びフアナリオ ト君主の重税政策に伴い自由農民が平原地帯から山岳地帝へ と移住 したこと,第
二にフアナリオ ト 君主 を梃子 としたオスマ ン向け穀物輸出の拡大 に伴い領主階級は平原地帯 における大規模 にして集 約的な穀物生産を志向 したこと,以
上の事情 を反映するもの と思われる。僧D以
下,か
かる地帯構 造 を暗 まえつつ,平
原 ・山岳それぞれにおける農業生産の特質について考察 しよう。 まずモルダヴイア及びムンテニアの平原地帯に展開 した巨大所領の経営状況 を見れば,表
6の示 す如 く領主の穀物収量 において最大の作付穀物は小麦,こ
れに次 ぐのは18世紀 にアメリカ大陸より 伝播 した トウモロコンmaizc,又は在来のキビmilletと なってお り,基
本的に小麦の単作,乃
至小 麦・ トウモロコシの複作傾向が顕著 となっている。領主はここか ら主に雑穀 を領内 自家消費分 とし て控除 した後,小
麦の大半はオスマ ン政府向け輸出分 として提供 してお り,
したがつて小麦生産ヘ の特化傾向は何 よりもオスマ ン帝国の食糧需要に対応するものだったと言 える。なおオスマ ン向け 輸出を充足 した後の余剰作物は内外の自由市場に売去,しえたが,1730年代後半 には嶼土戦争 に伴 う 生産総量の下落 とオスマ ン軍隊への兵糧供給のため可処分作物はほとんど存在 しなかった。●り 以上の如 き輸出向け穀物の生産形態に関 して,か
つてルーマニア・マルクス主義は領主直営地の 拡大 と再版農奴制の形成 を先験的に措定 してきたが,第
二次大戦後における特 に修道院所領記録の 分析 に基づ く実証研究は,む
しろかかる史像が幻想 にす ぎないことを示唆 している。 まず表7によれば
,領
主が地代 として獲得 した穀物総量は大半が農民保有地か ら供出される現物地代 をもって構 成 されてお り,領
主直営地での農民賦役 に由来する作物の比重 は小 さい。同様 に領内の穀物生産総 量 に占める直営地生産の割合 もまた5%程
度 にす ぎない もの となっている。 また18世紀前半 におけ る賦役義務の水準 を見れば,確
かに穀物生産需要の上昇 に伴 う年間 日数の強化傾向こそ確認で きる ものの,そ
れで もボイエールとの洸務契約で規定 されるべ き自由農民の賦役は1700-18年の年間 3-4日程度か ら1718-39年の3-9日程度へ と延長 されるにとどまり,ま
たボイエールの恣意 に依存す る農奴の賦役義務 も18世紀初頭段階で平均6-12日程度 にす ぎなかった。かかる軽微 な年賦役 の存 続は,直
営地面積が絶対的に小規模であったことを意味 している。か くして近世ルーマニアにおけ る穀物生産の主軸は,決
して領主の高度な農民支配 による直営地経営 にではな く,あ
くまで農民保 有地における小農民的生産にこそあつたのである。●の しか も領主の所領経営に占める穀物生産の相対的位置 を確認すれば,表
8の如 くいずれの修道院 領の場合 も市場向け売却 において酒類 (葡萄酒 ・ブランデー)が
最大の収益源泉 となっている。次 点の品 目については所領 ごとに偏差が認め られ,Coziaで
は穀物が第二の市場向け産品であるが,Saint‐Jcanで は穀物 ・家畜の地位がほぼ拮抗 し, さらにCottoceniでは家畜,Coltea,Margineniで は
製塩が酒類 に次 ぐ数値 を記録 してお り
,商
品作物 としての穀物の地位は必ず しも高 くはなかったこ とが判明する。またいずれの所領で も養蜂 による蜂蜜が重要な換金作物 となっている。かかる穀物 取引の低位は,穀
物が主にオスマ ン向け輸出商品 として国定価格での取引を強制 され, したがって その収益 には自ず と限界が存在 したのに対 し,他
方の各種産品は専 ら嶼領 トランシルヴアニア・ポー ラン ド向けに市場価格で輸出され, したがってより巨額の収益が期待 されたことによる。領主はか かる特に酒類のもつ市場価値 を意識 し,穀
物生産における現物地代への依存 とは対照的に,葡
萄生 産に関 しては直営果樹園で一層高度な賦役 を導入 したと言われる。●0 以上の如 くオスマ ン通商規制に伴い領主の穀物生産が低迷するなか,ル
ーマニア穀物貿易 を独占 する特権ギリシア商人は,原
則 としてオスマ ン臣民の土地所有が禁止 されていたにもかかわ らず, 違法 。合法種 々の手段 に よつて土地所有 を実現 している。 その第一 は在地領主 との小 作 契約 felmagcに よる土地保有である。 もともとギ リシア商人はルーマニア現地で買い付 けた家畜 を輸出 の時期 まで飼育することを目的として,現
地領主か ら一定の放牧地 を冬営地 として賃貸することを 認め られていた。 しかるにギリシア商人はこの借地契約 を放牧地のみならず農耕地にも漸次適用 し, ルーマニア領主に地代 を支払いつつ,現
地農民の労働 に立脚 して首都向け穀物を生産する農場経営 を開始することになった。前掲表8における地代収入の項 目はまさにかかる小作制度 に伴 う収入を 示 している。第二は農民への高利貸付 に伴 う土地占拠である。ギリシア商人の多 くは首都向け作物 を安価 な手付 け金arhes(sel( akccsi)で収穫前 に青田買い し,こ
れをオスマ ン本国に高価で輸出 することによって巨額の利益 を得ていた。 しか し自然災害 ・国際紛争 などの不測の事態 によ り農民 が当初契約 した総量の作物 を供給 し得なかった場合,ギ
リシア商人は多額の賠償金を請求 し, これ が不可能な場合はその土地 を差 し押 さえて商人 自身がその事実上の所有者 となる事態が発生 してい る。9つ か くしてルーマニアのオスマ ン向け食糧供給 は,ギ
リシア商人による特権商人 としての穀 物買付 とともに,そ
の寄生地主 としての穀物生産によつて,流
通・生産の両面で二重に保証 された のである。 なおオース トリア治下オルテニアの平原地帯では,ハ
プスブルク帝国向け一次産品生産の発達 に 対応 したボイエールによる農民支配の強化 を確認で きる。すなわちオース トリア政府は上記1722年の人口調査 により自由村落の広汎な存続が半U明するなか
,む
しろ市場需要に対応する効率的な食糧 ・ 原料生産を志向 し,既
に1721年には自由農民の うち特 に大型家畜 を保有する階層に対 して年間18日 の役畜賦役 を義務付 け,続
く1722年 には全ての 自由農民 に対 して毎週1日 (=年間52日)の
賦役義 務 を導入 している。●働 か くしてオース トリア絶対主義下のオルテエアでは,フ
ァナ リオ ト体制下 のルーマニア本国におけるよりも一層高度な農奴制が形成 されたのである。 また自由農村の残存する山岳地帯 においては一般 に小農民的経営が展開 している。生産の基軸は その地勢特性か ら牧畜 ・酪農にあるが,フ
ァナリオ ト君主への貨幣形態による納税義務 を充足する べ くその余剰産品の市場向け売却が発達 し, とりわけカルパチア山系 を媒介 として各種産品が東欧 向けに輸出された。 また穀物生産に関 しては一般 に外来品種の トウモロコシが主力作物 となってい るが,こ
れは トウモロコンがオスマ ン本国では家畜飼料 とされて食用穀物 とされなかった故 に輸出 規制の対象 とはならず,か
つその生産効率 ・栄養価はキビよりも高かつた故にルーマニア農民の主 要食物 として普及 し,重
要な国内市場向け産品 として成長 したことによる。か くしてオスマ ン本国 (及びオース トリア本国)向
けの組織的な穀物生産が展開された平原地帯 とは対照的に,山
岳地帯 では東欧市場及び域内市場 と連関 した農民経営 を基盤 とする小商品経済が発達 したのである。●ω ② 公国財政の危機 とルーマニア農奴解放 担税基盤の拡充 を目的 とするファナリオ ト君主の農民保護は,前
述の財政・行政改革にとどまら ず農地政策の領域にも及び,1740年代 には一連の農奴解放が展開 されている。 まずC・ マヴロコルダー トはワラキア君主 として1739年ベオグラー ド条約のもとオルテニアの回 復 と東西 ワラキアの統一を実現 した際,過
去20年のオース トリア支配に伴い生 じたオル ト河 を境界 とする土地負担の東西格差 を解消するべ く,1740-41年
において賦役総量 をまず年間24日 に,最
終 的にはその半分の12日に統一かつ縮小 した。 またモルダヴィア君主 として1741-42年には特 に教会 所領 において同 じく年間12日の賦役規定を導入 している。 これは年間10日程度の賦役が通例であつ たム ンテニア・モルダヴィア農民にとってこそ土地負担の漸増に相当するが,他
方年間賦役が50日 を超 えたオルテエア農民にとっては大幅な負担軽減 を意味 した。●ω しか しなが ら続 くM・ ラコヴイタ治世の重税賦課 により農民逃亡が加速 したため,オ
スマ ン政府 は再度C。 マヴロコルダー トをファナ リオ ト君主に任命 し,1740年代後半において農奴解放が断行 された。 “ 1)まず1746年にはワラキアで農奴解放令が発布 され,農
奴の人格的従属 については無償 解放 を規定 しつつ,そ
の土地負担についてはボイエールの既得権を考慮 して有償解放方式を採用 し, 国庫 によるその支援 を確認 した。これによつて領主直営地をボイエール所領面積の三分の一 に制限 して残 りの三分の二 を農民保有地 とする一方,農
民に一定金額 (10アクチェ)の
支払 による自由身 分の買戻 を認可 し,か
くしてボイエールの農民支配 を制限 している。続 く1749年にはモルダヴイア において同様の勅令 を発布 した。その際に召集 された全国議会において土着ボイエールは農奴解放 に強 く抵抗 したが,他
方 ブカレス ト大司教 ネオフィ トNёophiteを筆頭 にギリシア正教会はむ しろ 君主の発案 を支持 している。その理由は領主の過酷な農奴支配がキ リス ト教の博愛精神 に矛盾する との人道的見地によるが,現
実にはギリシア系新興ボイエールとともにギ リシア正教会が ファナ リ オ ト体制の支持基盤の一翼 を構成 していたこと,ま
たルーマニア領外の本山に対 して送金義務 を負 う寄進教会 にとって,オ
スマ ン政府への貢納義務 を負 う公国君主 と同様,ボ
イエールの農民搾取 を 輩制 して担税基盤 を維持することが死活問題であったこと,に
由来すると言える。eD
か くしてルーマニアは当時の東欧諸国の中で もいち早 く農民解放 を遂行 し,C・
マヴロコルダー卜は「農民解放のパ イオエア」a pioneer Of peasant live守
,そ
の農奴解放令 はルーマニア「農奴制 の死亡診断書」Tactt de docSs du servageと 称 されている。 しか しこの事業は,前
記の行政改革 と同 様,ボ
イエール階級が中核 をなす公国君主=ボ
イエール=農
奴関係の解体,す
なわち君主が体制の 基盤 として農民 を直接掌握するファナ リオ ト君主=農
民関係の構築,を
当面の課題 とし, したがっ てオスマ ン向け貢納義務に伴い逼迫 した公国財政の再建を究極の目的 としていたのであって,結
局 のところオスマ ン帝国のルーマニア支配 を補強するものであったことが留意 されよう。 “ 働 しかも以上の農民保護政策には限界 も存在 した。すなわちボイエールは農民解放への補償 として 自己の所領に付着 した特殊 な農民範疇である家内隷農「scutehici」 及びジプシー奴隷 を旧来通 り維 持することが認め られた。他方ギ リシア正教会・領内居留外国人は独 自の家内奴隷「posluiiniCi」 を支配 したほか,異
民族奴隷「sluii」 。「brcsiasi」 も存在 してお り, これ ら各種隷民人口は両国全 体で30,000人以上 に達 している。e4)かくして,上
記のフアナ リオ ト君主=中
産農民関係 の形成 に よって旧来のボイエール=農
奴関係が動揺するなか,こ
れに代 わるもの として新たにボイエール=
下層農民関係が形成 されつつあつたと言えよう。〔
V〕ロシア南下政策とモルダヴィア・ワラキア
18世紀前半段階にはなお均衡状態にあつたバルカン・黒海地域 をめ ぐる東欧列強・オスマ ン帝国 の勢力関係は,世
紀後半において前者の明確 な優位 によるオスマ ン領上の分割へ と帰結する。 まずロシア皇帝エ カチェリーナ2世 (在位:1762-96年)は
1768-74年の露土戦争 と1774年キユ チュク・カイナルジ条約の もと,ク リム汗国の独立,黒
海北岸 (ブグ=ド
ニエス トル1可間)の
併合, オスマ ン領内ギ リシア正教徒保護権の獲得,以
上 を実現 した。 “の 対 してオスマ ン政府はクリミア 出兵 をもって抵抗するが敗れ,続
く1779年アイナ リ・カヴァク条約Ainali Kavakに おいてクリム 汗国の独立が再度確認 されている。●ω またオース トリア皇帝 ヨーゼフ2世 (在位:1765-90年)は
1772年の第一回ポーラン ド分割で獲得 したガリツイアを既存の嶼領 トランシルヴァニアと連結する べ く,露
土戦争 における中立維持の代償 として1774年にモルダヴイア北部 ブコヴイナ Bucovinaを 併合 した (前掲図1)。●Dさ
らに嶼露両国は1781年秘密条約を締結 し,ロ
シアによるモルダヴィア・ ワラキア両国の統合 とロシア皇子 を元首 とする「ダキア帝国」Daciaの 建設(=「
ビザ ンツ帝国の 復興」),及
びオース トリアによるセルビア・ボスニア・ヘルツェゴビナ支配,以
上の如 き両国によ るバルカン半島の東西分割 (所謂「ギ リシア計画」Grcck Schcme)を策定 している。 これを後盾 としてロシアは1783年にクリミア半島及びコーカサス北部 を占領 し,翌
1784年の新たなアイナリ・ カヴァク条約でその領有 を承認 された。 “ 働 以上の如 き東欧両国による トルコ領上分割の成功は当該期に固有な国際関係 にも強 く依存 してい る。 まずプロイセ ン国王 フリー ドリヒ2世 (在位 :1740-86年)は
ポーラ ン ド分割 におけるポンメ ルン獲得の代償 として両国の南方進出を支持 し,ま
たイギ リスは18世紀前半対仏戦争における英露 友好関係の構築,1766年通商条約に伴 う英露バル ト海貿易の発展,及
びロシア南下政策に伴 う英露 黒海貿易への期待,以
上を背景に好意的中立を維持 した。とりわけ1768-74年露土戦争に際 してC・ 」・フオツクスFoxはバル ト艦隊の ドーバー海峡通行やジブラルタル海峡寄港 を承認するなど種々 の便宜を図つている。他方オスマ ン帝国の伝統的友好国たるフランスは,当
初は軍事使節 を派遣 し てその領土防衛 を支援 した ものの, しか しイギ リス包囲の手段 としてむ しろ七年戦争以来の仏換同盟や新 たな仏露友好 を重視 した結果,1786年には軍事顧問団を撤収 している。徽ω か くして今やい ずれの列強 も基本的に換露両国の トルコ領土進出を容認する立場 を示 したのである。 他方
,北
方における東欧諸国の進出は,南
方 におけるエジプ トの離反傾向をも一層促進すること になった。すなわちエジプ ト太守アリー・ベイ (在任:1768-73年)は
その就任直後 における露土 戦争の勃発 を機会に1769年に独立 を宣言 し,続
く1771年にはオスマ ン帝国のアラブ支配の拠点 をな すシリア地方 に侵攻 している。その後1775年のメフメ ト・ベイ死去 による無政府時代の開始 とエジ プ ト支配をめ ぐるムラ ト・ベ イ=イ ブラヒム・ベ イ相互の内紛 に伴い組織的独立運動 はむ しろ停滞 するものの,い
ずれにせ よエジプ トの離反傾向は決定的となった。6の 以下本節ではロシア南下政策の攻勢 を見る18世紀後半 を対象に,オ
スマ ン帝国のルーマニア支配 体制の政治的 。経済的動揺 とこれに伴 うルーマニア農業の再編について検討 しよう。(1)ロ
シア南下政策 とルーマニア国家 アーヤーン層の興隆により離反傾向が進むバルカン地域 とは文す照的に,フ
アナリオ ト制度の導入 により高度な集権体制が構築 されたルーマニア両国は,一
連の露土戦争 に伴い度 々ロシア軍隊の占 領政策 を甘受する一方,オ
スマ ン政府への従属 を緩和 されて次第に親露傾向を強め,当
該期 を通 じ てオスマン帝国の対露防壁か らむ しろロシア南下政策の前線基地へ と転換することになる。 ① 南下政策 とロシア・ トル コニ重支配体制の成立 ロシアはまず1768年の露土戦争勃発 に際 してルーマ■アのキリス ト教徒 をオスマ ン支配から解放 する宣言を発 し,1769年以後6年間にわたつて両国を占領 した。1774年キュチュク・カイナルジ条 約 においてロシアはルーマニア両国を返還 したが,当
該条約第16条ではその交換条件 として,ル
ー マニア両国の貢納義務 を2年間免除 し,そ
れ以降は貢納年額 を定額化す ること, コンスタンチノー プルにルーマニア両国の領事 を設置 し,駐
土 ロシア大使がこれを保護すること,以
上が確認 されて いる。 “ 1)この結果公国君主の選出にはロシア政府の意向が強 く反映 されることにな り,実
際1774年 にはモルダヴィア君主 に親露派のグリゴレ三世ギーカGrigore IΠ
Ghica(モ
ルダヴィア君主 :1764-67,74-77年
・ワラキア君主:1768-69年)が
,ま
たワラキア君主にアレクサ ン ドル・イプ シランティAlexandm IPsilani(モルダヴィア君主:1785-86年・ワラキア君主:1774-82,96-97
年)が
,そ
れぞれ任命 されている。 “め また新帝アブデュル・ハ ミド1世 (在位:1774-89年)は
ロ シア政府の圧力の もと1774年ハ ッテイ・シェリフを発布 し,こ
れによリルーマニア穀物供給義務の 改善 を約束するとともに,特
権ギ リシア商人を例外 としてオスマ ン臣民のルーマニア入国を厳 しく 規制 した。63) 続 く1778-79年の紛争に際 してオスマ ン軍隊は上記条約の規定に反 しルーマニア両国において多 数の略奪・殺象行為 を展開 したため,ロ
シア政府は1779年アイナリ・カヴァク条約の もと,規
定金 額 を超過する貢納賦課 を禁止 し,貢
納金の支払は以後隔年毎に実施すること,ル
ーマニア両国にロ シア領事 を設置すること,以
上 を要求 している。 これを受けて1782年よリブカレス ト(1792年 より ヤ ッシユ)に
ロシア領事が駐在 し,こ
れを媒介 とするロシアのルーマニア内政干渉が可能 となった。 なお続 く1783年にはオース トリアが,ま
た1785年にはプロイセンが,)贋次ルーマニア領事の設置を 承認 されてお り,当
該地域 における東欧諸国勢力の伸張 と排他的オスマン支配の崩壊は決定的となっ た。 “ 4) さらに1783年クリミア半島をめ ぐる露土戦争の終結 に際 し,駐
土 ロシア大使A,S・
ス タキエフSttkiev/Y・ I・ ブルガヨフ Bulgakovは ヴアチカン公使H・ ラ トキールRathkealと ともに トルコ 政府の過重なルーマニア支配を非難 し