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無の存在(一)-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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(1)

∵ ■鯉 の 存 在 の 問 題

こ 無 の 意 義

一ニ.無の解繹の歴史的瞥見

四 絶 対 的 無

五 有によつての無の顕示 六 絶対的無即現資性 七 現賓性と可能性・必然性 ∵ 二切のものは、矛盾するものか′ら矛盾するものが成る、といふ如くに生成する﹂といふプラトンの洞敬と、﹁生 成は存在と非存在との中間に在り﹂、﹁生成されるものが生成され終へた時に、それは存在するものとなえことい 無 の 存 在

無 の .存 在 ︵こ

高 階

︵一五七︶ 六七

(2)

○五入︶ 六入

第十二義 英二渋

ふアサストテレスの解樺とを根城として、﹁凡て矛盾するものが矛盾す為もの∼存在を可能ならしめる﹂といふ、

存在の矛盾性の原理が確立され得るとするならばハ本誌第九琴錦三・四塊特種﹁記念論文集﹂・内撒稀﹁存在の矛

盾性﹂参照︶、義に存在はその矛盾着たる非存在によつてその存在が可能であり、まに非存在は非非存泰即ち

存在によつて初めで非存在としでの存在性を試ち得ることが、常然にもいはれ得るであらう。存在するものは一

般に、その自然現象・文化現象・精細現象・生命現象の何れたるとを間はや、香、むしろこれらの何れをもすべ

て包括しでこれを有Seinと名づけることができる︵本誌第七容第四披拙稿﹁生ゃ意識・慣倍・物質の四存在領域

について﹂参照︶。それに封するとき非存在は無芸cト打といへるであらう。怯って右の原理は﹁焦が有の存在を

可能ならしめる﹂と艮・有が無の存在を可能ならしめる﹂ともいひ得られるであらう。かくて無は常に有の根粒に

ある領域的存在として、有を有たらしめてゐる非僧衣であり、また反封に有は常に無の根接として、無を無たら

しめてゐる存在であることが明かである。有るもの∼存在については何人と雉もこれに封して発ひを抱くことは

ないであらう。けれども無いものが存在するといふ昔ひ方は、それ自身矛盾するものとして、普通の人々に疑惑

を惹起せしむるに充分であらう。随って我々は発づこの無の存在が何々意味してゐるか、、そしてまたそれが如何

にしで可能であるかを革初に考察して見なければならぬ。

詮 無崇0富と非有我は非存在穿富eぎとは、痕凍な意味では空謁;はいひ得ぬであらう。例へば。−エンなど は非望彗と妹也芽官s即ち凰とC㌻を放壊に区別してゐる。併し我々は今はこの区別に深入りすることをしな

(3)

いで置く。只、無といふときは非存在もーつの存在であると琴へられた意嘘であり、非存在といふとき・.それば存在 の単なる論理畢的否定を意威する 無が存在ずるといふ時、我々は閻が光るといふ時の虹き仙種の矛盾を威する。無は非存布であるが故に、・軋れ は面々存在してゐ㌫サいことをその本質としてゐるのではないか。荒しそれが存在するとせば、即ち存在といふ形 態をとるものとすれば、それは既に有であわて無では甘いのではないか′むそれ散に無の存在を間ふこ主は恰む曙 い光を求めるが如きものではないか。ましてその無についてをの存在性の考究をなさんとする如きはヽ恰もlアン ブを以て閣を探し求めんとする類ひではないか?併しながら、無の存在を聞ふことは、−我々にとつて決しで暗い 光を問ふことほとに無意義なものではない。.何政ならば、我々の問題にするのは、曙い光ではなくしで博さにぬ ける光であり、ま/たそれ故に、光る閻ではなくして、光の中の問を、謂.はゞ、光あることによつてのみその存癒 の可能である閻の如き無そのものゝ布衣を、問ふことにあるからである。光が感能に輿へられない場合には、カ 註 ソトもいへる如く、曙黒も亦決しで表象されることはないり暗黒が表象され思惟されえ∴以上、それは必す光の申 のそれでなければならぬ。有が有として有本するために.は、それに矛盾する無が、また無が無として布衣するた めには、肴が、各々その板柾的・領域的存在として存在してゐなければならぬ。有と無とは相互相即に於て、初 めで各その存尭性を確立し得るの、である。即ちi切の有はそれ自ら必ず無を負ひ、有は無と結合することによ? でのみ、和めでその存在が可能となるのである㌣それは恰も、生の存在が死と結合することによつてのみ、また 無 の 存 在 ︵一五九︺ 六九

(4)

ハ.〓ハ○︶ 七〇 兎十軍令.斗磨二賠 死の存在は生けるかのの死たることによつてのみ、存在が可鹿であり、死無ぎ生や生無き死は、仰の生や無生物 の死の加ぐ、生または死としての存在が不可能であることの郡と同じである。存碑の矛盾鮭とは、まさ心くかゝ る事態を意味せ・るものに外ならなかった。 註内gt︰閂→i訪kd卑邑nenく望n告辞仇・望申 さて然らば、かくの如く有の存在を可能ならしめてゐる無そのもの∼存在は如何にして除籍し確保し得られる でぁらうか。勿論我々はこの存在を形式論理塾的に証明するなどのことはできない。何故ならば形式論理畢の適 用できる範鞠は無ならぎる有にありヾ而もその有の中の時・基・因果的等質の世界に於てのみ存在するものであつ で、それ以外には存在し得ぬものだからである。無の世界はかゝる寄嘗的世界の山管奥深きところに、かれを超 越して打ち潜める存在である。それ故にハイデッガーーヰbいへ牒如く、無及び存在に閲す1る間閻領域に於では、悟 性の力が破壊し去られてしまふのである。併しながら固より悟性による形式論理畢的方淡のみが畢の方法である ′のではない。それは綬密性を特質とする佃々の自然科挙に封してこそ必螢にして充分なる畢的方法となるのセは あるが、厳粛性を鎗ぷ管拳、殊に即存在的なる基礎的存在塾たとつでは、それは最早如何なる用にも立たぬもの である。.然らば無の解明にとつ・て﹂贈他の如何なか塾的方法がそれに恰適する臥のであらうか。我々はこゝに、 群詑津朗方法を拳示しなければならぬであらう。即ち﹁矛眉す竃ものが矛盾す各も紗1偏在を可能ならしめる﹂と いふこの原理牽確乎不動のものとするヾ即存在的特殊の方法がそれである。無の世界を劇つの存在の世界とし

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て、有の世界と同様に、拳の領域にまで蒋ち来すための、謂はゞ前作業も、かゝる特殊の方殊によつでなきれな ければならぬ。 無の存在については、ペんグソンも適切に造機せる如く、今までの野畢者は殆どこれを貴大硯してゐなかっ た。それにも拘はらす無の観念は哲畢的思索の慣れたる活力素であり、見ぇざる原動力であることが多かった、。 人々が哲拳的反省を始めたその嘗初から、意識の面前に困難なる問題を捉供し、我々を困惑惧憶せしめたものも 謹 まさしくこの無の観念であつた。然るに世には無は非存在であり、基であち、虚無であるが故に、その存在は全 く思惟し得られす、随って無についでの如何なる諭穿も言表も我々には全く不可能であり、且つ不必要であると 説′、ものがある。手近き叫例を奉げるならば先づフォイ罵ルバッハの如きである▲。彼によれば﹁無は梅封的無風 想・無理性的なものである。無は全く思惟され得ない﹂。﹁無が思惟されるとしたら﹂それは規定され、従ってこれは もはや撫ではなくなる﹂。﹁無は絶封的眉己欺瞞、太初の鱒り卓ぎ・モ苫£宮それ自身に於ける絶封的虚偽である。 無の思惟味、それ自身を反駁する思惟である。無を思惟する著は、即ら思惟しないものである。無は思惟の否定 である。﹂﹁無こそは絶到に無理性的なもの﹂﹁根概なきもの、役に立吏ないもの、あれ又はこれといふ山定心た ものでないもの、合理的でないもの、その他そういふものを、手短かに気取つで云ひ現はしたものに過ぎないど ︵一︶ ﹁無は思斯的基想の幽箆でなくて何であらう。﹂無の存在は重く無目的であり、無意味であり、由解し得ぬもので 偽る。無の布衣の穂意味といふことの中に、無の存在の贋の意味が見出される、とするのである。併しながら我 無 の 存 在 ︵二ハニ 七︼

(6)

々の混を劇てすれば、かくの如く無についての問ひの無意味を信七月つその不可締を説く者は、全く南棟的形式 倫理螢の立場にのみ溺跨する着であり1それはまさしく自ら﹁督単は再び自然科単に結びづかねばならや、自然 ︵こ︶ 料率は習単に結びつかねばなちぬ﹂せ認くところの自然料率的唯物論といふ重く憎く沈獣せる立場にのみ固執す る着であ牒。かくの如き唯物論的立場は、存在の存在性そのものへ端的に奨宮入って即作確約にその東質を把痙t せぅとする我々の立場から見る時は、.粂く問題の根本を忘れて末梢間鴨にのみ繭献上る如き感なきを得措い。何 故ならば∵厳粛性を念とする存春解そのものは、ハイデッガーも詮く如く﹁原則的にまに明確に、そしてまた弼 り事態そのものにのみ、最初にしてまた最後の言草を輿へることに存してゐ、かく寄態性に即もて問ひ∵硯定 ︵三︺ し、′基礎づけることの中に、存在者々れ自身の許への服従が賓行し得られる﹂かちである。然るに﹁事態その.も のへ﹂なるこの態度を持して存在の稲凝性を働やる時、有は無により、無は肴によつてのみ初めてそれうの恋鹿 の可能で透ることが明かであつに。・それ故にこそ、﹁若しも挙が無を眞両日㍍考へないならば、その革の誤れ為 ︵四︶ 浄辞さと卓越さとは笑ふべきものとなる﹂より外に仕方がない。か ろの存在の存在性の拳を、即ち第仙哲撃としての形而上革をその前提と心、・それによつて根墟づけられる、ことが なかったなうば、、それは重く沙上の棋閣たるもの五過ぎぬことゝなる′で洩らう。∴ましでそれが偏窟なる自己の立 場をのみ唯﹁絶封の立場となし、無の存在をも有の存在と同様に取扱はんとするこ鱒棍恕的なる単の存在を指否 せんとするが如きこと々なすとするならばし、それほ罫に笑ふべきことなるのみな㌃サ、許すべかもざる地幡であ 弟十三巻 第 二駅 ︵山大二︶ 七こ

(7)

り、敷島ぎる猫讐もある言らう。かく自然科螢的唯物論の立場にのみ馨しで他を麒みるに由亨、全く

猫勘的信念の上に諾し、行管すら逐警官んとする者は、ノ今芸が闘七島ほ絶警はい骨得ぬであち

う。か′\の如きに封しでその警啓き、その越概賢し諾、その瀾断を覚書食めに、無の存在の存在怖を

琴不することは、必要不可快のことでは花かうっか。

諌出e童On︰巳晋01u−iOne卦tri完︸押迫P ︵こフォイエルバツ⋮−ゲル管垂の批列﹂︵芸文磋妄五1KO貰。その凛についての同様の見解は﹁璧禁壷

畢の根本問題﹂中にもある。

︵二︶ アオイエルメツ二贈衆の管掌の根本問題﹂︵碧汲女庫版︶三四賀 ︵三︶穿idegger︰宅琵ist已e苫首ikり小S・P ︵四し ibid・︸S・N♪

以上に論述し来った我々の韮坂に於では、無は確かに布衣する或ものであり、非存在も存在たるが故にこそま

さしく非存在といひ得るものてあつた。否むしろそれは、布衣即ち有の世界初奥種にあつてそれに布衣性を附輿 ヽ︳

してゐる領域的存零すらもあつ仁。全く何も禁こと這無ごーセ﹄の意味に於ける写、ヘーゲルのいふ抽

象的無、或はフォイ完バッハの考へたる−香、考へられぬとなしたる・11無迂、如何にしてか∼る覇の板掠 ヽ 無▲の 存 在 ︵〓ハ三︶ 七三

(8)

笥十≡啓 発こ戟

、 ︵二ハ四︶ 七四

としてその頃破的領域的存在たり得るであらうか。こゝに於て我々の意味してゐる頸は、かくの如き抽象的苛味

の簸ではなくしT、有と矛盾封立をなして存在することを得、それ故にこそそれについで思惟も規定皇義もし 得られる如き撫であることが明かである。即ちそれは軋nNicぎ詳wastScinとしでの無でなければならぬ。け

ヽヽ れども無はまにまさしく非存在であつで決して存在そのものでは

否、即存在的であればあるほど愈々、その無の直接囁別の解明は許されてあらぬが如くに思はれる。ミに於て

我々は、無を解明せねばならす、而も解明し得ぬものとしてその無を見出したといふ全くのアポリア的苦境に押

し込めちれ終った如くにも思はれる。

併しながら、我々は耽に﹁すべて矛盾するものが矛盾するもの∼存在を可能ならしめスこといふ原則を不動の

ものとして確立しで釆たさ﹂の原則が右のアポリアに這の新路を開拓せしめるのである。即ち無の存在を可能

ならしめてゐるものは賓に無それ自らではなくして嘉の有の世界でありV謂はゞ無は有の中にのみ紆示し得亮

が故に、我々は無を語る時それを常に有に於てなし、謂はゞ有の中の鍵を、即ち有に乾し出されてゐる限りの銀

牽語うねばならや、またそれによつて少く七も無について語ることは既に充分とせられ得るのである。こ∼に於

て我々の立婁は、無を槍へる有をしてその無を語らしめるといふが如きものでなければならぬ、かくで我々と錐

も、無そのものを直援に顛示することはせやに、むしろ、無なくしては存在し得ないところの存在者を明示する

ことによつて、謂はゞ間接的仕方に於て無の存在を保許し、その存在性を確立せんとするのである。′それは恰も

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鎮によつて自らの葵を見る如く、皇たは曙さを光の影に於て見出す如くにである?然らばその有によつでの無の 顛示とは如何なることであらうか。これを明かにする前に我々は兜づ、無とは∼慣何であるかといふことについ て剛管して置くことをしなくてはならぬ。 無は普通には非有と同意義に周ゐられ、前述の如く習畢上甚だ重勢な概念であるが、これをその意義の上か宣 類的に分つこと掛困難であらう。何故ならば、分弼とか踪合とかいふ如き論癒的魔理は、寄ら有についてのみ可 能である如くに思はれるからである。番蟹に於で悟性の領域にのみ踊躇たる形式諭鞘螢の立場に於では、無はま さしく如何なる規定にも値せす、随つでその分糊などの全く無意養であるのみならす、それはまた不可能なるこ ヽヽ とでもあつた。併し我々は既にかトる︼軒的立婁からは全く船脚して自由のよヤ包括的なる立婁に立つが故に、 無についでの論究をなし、その分類をも企て得るのでぁる。 ヽ︳ 私は今無を分類するに、以下の叙述に於て次第に明かになるであらうところの理由によつで、■これを先づ抽象 −、■・,−,−− 謹 .、,−,、 的無と具鰭的無の二と指し、労にその具慣的無を相封的無と絶封的無せに区別しょうと思ふ。 話 無を抽象的と具鰻的と忙分ったことは、例へばベルグリンが無を分つに思惟されたものと、想像きれたものとの二を 以てせること︵Ber囁。n︰巳甘01u許ncr賢rieeも・8一︶など忙於ても弱敵せら丸るところであり、また無を相封的と 緒封的とに分つことは、中性スコラ菅畢に於ては普通K行はれたこ てゐるやうである︵ibid.も.∽0串︶が、、これから次第に明かになるであらう如く、私の今の分頬は、必ずしむとれらと 仝く同じ意味のものであるのではない。 無 の 存 衣 ︵一六五︶ 七五

(10)

策十≡各 界二渋 ︵.二ハ六︶ 車六 先づ無は、例へば前述のフォィエル.ハツハの考へにも見られる如く、重く何ものも存辞せざること、隣ってを れについでは如何なる思惟旦一日表も不可能であり月つ無意味なものであると考へられる。かく有とは重く無関取 ヽヽヽヽ、 にそれ自身に於て何もないもの、それ故に哲畢上の間箱とは行アり得ぬと思惟された無を、私は抽象的無と名づけ て笹く。これはヘーゲルの用語によれば、負しき抽象d註患eAbsraki。莞nとしての無であり、我々の立場 に於ても何等の問題を逐儒成するに由克き無である。併し無は本来かゝるものとしてのみ呼ばれるのではない。 山方鍵はまた、例へばハイデッガリに於ける如く、.叫つの墟る存在として考へられ、随ってそれについて考究も 富豪も可能であるとなされ得る。かヽる意味の無は、我々の立場に於ては、有の存在と同様にその存在性或は本 ヽヽヽ 質性の靂要祓さるべき牒の‖であ牒。かゝる鹿を前者に封しで具鰻的無と冬づけること\する.そしで更にか>る 問題となり得る無の中で、常に有と封立するア㍑とによつて初めてその存在が確立せられ、有の矛眉者としての み、即ち有に相封するこ上に於てのみその#在の考へられる如き無、例人ばアリストテレスの紋如としでの無の ヽヽヽ︳ 如うものを我々は相劉的鹿と呼び、かく宥と劇立することなく、 自的に純粋に存在し得る如き無、例へばプロティノスが乾物碓出の根源として考へた一笥や、ヘーゲルが桁腰放 線 の始克として措定した絶封審を柄して無といひ、また老子が﹁天地萬物、生於有、有壁於如ごといへる如学場合 ヽ︳ヽヽ の無を稲して、それを絶射的無よ呼ばふと思ふ。 謹 ヘーゲルの粋記法忙於ける始元をかくの如く解するととには、或は異説があるかも知れない。何故ならば、これ符恥

(11)

純な蘭規女性ではなくして蘭象朗有の、盲的消極的規定或は芸抽象的自覚とtての無の芝過ぎないとゐ解搾も可 能であらうからであるG前述のフォイエルメツハの解繹の如きは、それの磁場なものといへろであらう。か1る意味 ヽヽ ではヘーゲルの舶元は却って我々のいふ抽象的無忙より近きものとなる。併し我々はかゝる解繹忙よらず、その始元 を以て純粋有としての純粋無と解し、而もそれは常に絶封者の自己完結鰹と見、相封的有無の未だ教せぎる絶射的根 汎となし、その意味でプロティノスの妄の如き意疲のものと考へ、そ九故に絶封無と呼び得らるべきものとするの である。︿−ゲル自らは、その垂冗を簸で︰なく有であるとLてゐノるととも審欝であらうが、併tその有は無を押帝し ヽヽ た 凝封的無と名づ竹て置くのである。 かくで抽象的発とは、二鱒に何軒のも存在せ▲ぬと悟腰を以て抽象的、に思惟された仝くの虚無であサ、それから ほ何ものも生や せらといふ意味の、即ちa−a監の零である。、縫ってそれについでほ考究皇宮表も不可能であり、粂然如何な る挙の封象とむなり得ぬものでみる。勿論をれも無意味といふ意味を有つ鮎では、甥象革などの領内には入れら るべきものであ㌃がヽその場合には・・それは無をのもめとしT.では甘く、各て意味なきもの即ち無意味の意味とし て取扱はれてゐるに過ぎ稼い。中世期に於では四角な鳳といふ如きものが絶封舶⋮として疲かれてゐるが′、我々は むしろベルグソン流に解してこれを抽象的無塵呼ぶのである。ベルグソ㌢によれば﹁あらゆるな寧の絶滅といふ ま こと.は、資するにかの四角な圃と同蝉に、眞の観念ではなくして翠なる轟語に過ぎない﹂ものである。 無 の 布 衣 ︵〓ハ七︶ 七七

(12)

註 Beり顎○臼︰巳曾01きi宍=宰訂t払完∴ロム○♪

これに封するものとして真髄的無がある。これは常にそれの布衣性の問題になら得るものであり、またならね

ばならぬものであう幾何車上の鮎は極限としての琴であう、その意味で撫であるが、その存在は疑ひ待ぬもの

であり、それについての考究や音義も必須的のものである虻相封的無とはか∼る具鰻的無の中の而も相封的のも

のと考へ得られ、有に封してその映如たるが加筆意味を有つ。それ故に→息惟の封象たることも可能であり、そ

の限り;の封象性を有つ。我々の直接に認知し得る無は、この相封的無のみであるといへる。ベルグソンが 、ヽヽヽヽヽ ﹁﹃存在しない﹄ものゝ観念は、冒在する箸のゝ観念とそのものが積極的賓在によつて除去e已乱Onされたと 註 ,, 、I いふ観念との結合せるものである﹂といひ、﹁鵬つのものが無になるとは、資は他のものに置き換はることの意 、、、ヽ.︵即し であり、↓つのもの∼紋如−﹀absenc¢を考へるためには必ず或る他のもの∼存在を考へなくてはならない﹂と説

いで認容するところの無は、ょさしミしの意味の相封的無といへるであらう。それは有がその有性を漸減して極

限に達した無限小としての零と見ちれ、併典に謂ふところの隣虚であつて、政審的には1声の、記披で示すことも

できるであらう。

謹 宮r顎○巳ト.晋○冨iOn馬かatri藷−増.望〇. ︵一︶ibid●−憎.ひ○叫

次に絶封的無は、茸は強とも有とも一義的には規定し得られない如き絶剖着であつで、謂はゞ相封的有顛を超

昇十三巷第こ鍍 ︵一六人︶ 七八

(13)

越しでそれ自憾に於て存在する純粋の無規定着である。それ故にこれは例へばヘーゲルに於てしか呼ばれでゐる

如く、純粋無r軋n莞穿hl∽とも呼ばれ得るものであり、或はむしろ却つで純粋有reinesSeinとさへも呼ばれ 得る如きものである。即ち有にして無、.無にしで有た急議定着であり↓﹁それ自ら臥うちに有を包含する撫であ

ると共に、またそれ自らのうちに無を包含する有である﹂ところの具購的現貰着である。琴冗などが、併性は無

にして↓切の存在に於て自己㌢現はすといふ時の無は、かくめ如きものと解樺せられ、畠田哲挙が、人格界を無

の二鱒者のせ界として意味づける時、その無もやはりかくの如き無規定的絶封着でなければならぬであらう。す

べてのものはか三強にその生成の椒滋を有つと共に、それはまた究極に於てかゝる無に眉入せねばならぬもの

である。偽ほ敬重的にこれを示すならば、或は。了を以で示すべきでもあらう。。すは不定敬を示すものであり、

それは如何なる傲を以でも充たさるべき性質のものであるが故に、そこに何等か任意の内容を以て充たさるべき

あらゆる期待を含んだ未規定者と解し得ちれるが放である。ベルグソンは﹁か∼る無の観念は決しで有に封立して ゐる.無、または有の前に存在しでその梶棒をなしでゐる無ではなくして、表に存在を包含しでゐるren許m焉 へ一︶ 無といはぬばならぬ﹂主なしてこれが認容を挺むのであるが、併し彼が認容を撫むの.はそれを無と呼ぶことであ

つで、それの存在の可能であることではない。乱々はかくの如き無規定的絶封著を究椅的なものとして認容する

と共に、何も例へばまにブロティノスなどの用語に倣って、これを最も溌き意味に於て無と呼ばんとするので

ある〇

無 の 春 名 ︵〓ハ九︶ 七九

(14)

以上の如き無の分類に於ては、抽象的無は仝ぺ形式論珊拳的に考へられた無であり、具鰹的無は癖務漁的に考

人られた無である之いへる。そしで兼に相封的佃は存在論的に考しへちれ㌍無であり、絶封的無は即存耗的なる⊥

の神秘的宗教的直観によつて認得せられた撫であるともいへるLであ与ワ。﹁錬かちは無が生やる﹂賃乱臣Onig

穿とりふ時、即ち触からは有たる何ものも生ぜぬといふ時、′その雛は抽象的無を意味するもので

ぬ。併し.﹁無から存在者として、のす.ペての存在が生ずる﹂e舛nig00計eensquaenこitといふ時、その無は 相封的無蓋息昧するものである。そしで兼に、﹁扱から被創造物が生する﹂e舛nihi−sfitへnSCreatumといふ時﹂ それは超勤的撫窒息味するものであ名。我.々は土∼に以上の中の相封的無を先づ問題となし、次に穿極に於て絶 封的無の存在を認容し、かくすることよつ・.T労に抽象的無に封しでもそれ相應の意味、即らそれは全く意味なき

抽象概念として・の無であつて、賓は我々の意味する撫の範固からは除外されねばなうぬといふその寮味を附期せ

んとするものである。

無は以上の如く主分して考へ、られるが敵に、、無に関する限りの拳誅はその中の何れを皐としで論ずるかに随つ

で、土れ聖二つに分難して考察することができよう。血ち蒜抽象的撫のみを問題とするもの、縫って無は脊椎

もし得や1考へもれもし栂ぬとするもめで、例ペば古くは。ハルメェデス、ゴルギアス、近他に於てはブ才イエル 第十三春 希二鶉 議 冒eg2︼︰出コ8e−Op蝕象eこ.Rr ︵二︶⊥思r顎On︰巳晋。︼−己○出Or訂t恩ce﹀憎“∽○∽. ︵叫七〇︶ 八〇

(15)

バッハなどの詮がこれに富るであらう。二は相動的蝕を秦脹するもの、即ち無は有と共に存在し且つ単の封象と 過行り得るとするもので、例へばデモクグ!ぺプラトン、現代に於てはベルグソンなどの詮がこれに常ると思 はれる。規資性の紋如者、即ち可能的存在を以て無と見倣すアりノス、トテレスの訟も、これに廃するといへるであ らう。豪⋮を相囲概念Re−a−i。n00けe温持となせるショウベンハウエルなどの立場も、これに擬するといへる。三は 絶封的無にその主張の小心を棍くもので、これに屡するものとしでは古くはブロティノス、近くはヘーゲル、現 代に於てはハイデッガー、西山暫拳なとぉ螢げることができよう。カントは周知の如く無について拘つの置別を なし、○︶封象なき蛋虚な概念としでの無即ち思惟的存在、・︵二︶概念の塞虚な封象としての無即ち軟性的無、 ︵三︶封象冤き賽虚な直観としての無即ち構想的智証、︵聖職念なき基虚な劉象としての無即ち否定的無を奉げ、 銑〓の思惟物と第凶の不合理物とは共に可能的上り得ぬ名くの蛋虚な概念としてこれを斥け、第二の紋椎的無と 第三の構想的存在は概念に封する基虚な興件で虜るとしでこれが可能性を認めてゐるが、これは以上の中の相動 的無主張の立態と見ることができる。勿論以上の三つの立場の畢訟は、それぞれその立場のみを間守しで他を顧 みな小といふ如きものではない。例へばアリストテレスの如き主として相劉的無としての可能性を詑きながら碕 ほ絶封的無と解され得る太瀕↓⋮音字を認容して居り、またヘーゲルの如き即自的な絶封的無を認めると共に 封自的な相封的無を紛いてゐると恩はれるのである 併しこれらに紺する詳述は固より只今の携はり得る仕事ではない。今は只撫に闘する主なる畢詮についてその 無 の 存 在 ︵一七ふ︶ 入山

(16)

塵史的忘岩なし、その上に直ちに赦そのものゝ存在性についての解明をなさんと試み得るだけである。 三 さて顛が少くとも拳的関心の封象となり、哲嬰的に問題となる以上、それは必ず上述の三椀の中何れかでなけ ればならぬ。ギリシャ哲畢の始組クレスに於ては、哲壁間趨は寄ら自然音q六のみに係り、その自然はたとひ鵬 つの存在として問題とはせられたが、併し未だ眞の意味での存在晋そのものは間越とはならなかつにかに見え る。縫ってまた嘗お非有芋‡て即ち無も彼に於ては未だ問題ではなかった。自然は彼に於て水を意味したが、そ の後アナクシマンドロスはクレスの水に換へるに無限者↓かぎへト℃0ヒを以てした。これは不死不欒の無限なる瞥料 であり、〓切の事物の生成し来る漁であると共に、またそれらの必然的に締りゆかねばならぬ踵着地なりとされ た。かくてこの無限者が、存癖する究極の存在者とされるが故に、これに封託する有限恵三中風展は無の意味を ヽ 有つものとされた。これが後にギリシャ哲撃に放ける非有即ふ無の源泉をなしたものといはれる。併しながら、 蝕への進展の波及をなしたものはこの有限者のみではないであらう。後世に於いて特に重安なものとなり釆った 我々の所謂絶封的無の波及は、この有限者にはなくして、むしろ無限着の方にあつたといはねばならぬ。このこ と例へばプロティノスの〓軍が査と呼ばれる所以を想起することによつでも充分に明かにされることであらう。 ギリシャ曹単に於て、存在を縫ってまた非存在を展に存在論的に問題にしたものは、普通にいはれでゐる如 罫十三巻 第二渋 ︵岬七二︶ 八こ

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く、エレア笹沢の喝ハルメ千デスであらう。併し紋の問越とせるものは我々の所謂抽象的無のみであり、随つて 蜜は彼に於ては非存在即ち無は存在せぬもの、考へられぬもの、随って全く拳闘的研究の封象とはなり得ぬもの 註 として取り叔・はれた。.ハルメ千デスの畢詮の板柾をなすものは﹁有は存在する、併し非有は存在しない﹂といふ のであった。﹁何故なれば非有を汝は知ることもできや︵といふのは不可能であるが故に︶また話すこともできな 話 謹 いから。﹂﹁考へることゝ有ることゝは同山である﹂といふ彼の立場に於ては、知ることも話すこともできぬもの は存在せぬものであつた。存在するものは有であるが故に、その矛盾着たる非有即ち無は存在し得る埋なく、随 って固より思惟し得られぬものである。何故ぢらば、思惟し得られるものは存在するものでもあり、跨ってそ れは有だからである。有のみが常に存在し、而もそれは嘗て在りしものでも将来在るべきものでもなく、今現に さうして常にいつでも存在するものである。嘗て在りしものや瀞栗在るべきものは在るものではない。それ故に 有は鋸始無給であり、不欒恒常である。それが無より生じたり、また無にまで杓え㌍りすることはあり得ない。 即ち無は如何なる意味に於ても考へることができす、随ってそれはまた絶封に存凝することのできぬものであ る。これパルメモデスの訟は抽象的無のみの主張であるといはれる所以、ヘーゲルがパルメニ≠スの有を自らの 有と直別してそこに梧譜法的契椒を否認したのも、それはそれと聯闘せるその無が全く抽象的のものでヘーゲル 自らの無とは典ることを示したものといへるであらう。かゝる抽象的無のみを問題とせりと思はれるものに、そ め後エムペドクレスやアナクサゴラスなどがある。・ 無 の 存 衣 ︵劇七三︶ 八三

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註 ︸︸弓≡eH︸id仙S︰写品−諸星e・の︼やぴ・ 上れに反して、相封的無のみを認めてこれを強調しにと思はれるものがアトム論者であり、その中で阜殊にヂ キクり を舛しく存在する牒のとしでこれを認容する拳的根嬢の上に初めて可能にされるも咽であつた。何故ならば、ア †ムが存在し且つ運動し得るためにほ必ず血定の蛋郡の存在を橡想せねばならぬからである。こゝに於て﹁有の 隷 春在することは非有の存在することよりも健ることがない﹂といふこせがその中心思想となる。即ち有と非有と は共に平等にその存在怖が保蘭せられ、有の有療は非有の存在によつて、まに非有の存在は有の存葎によっ丁稚 麗克牒のとなる。かくでこ1では怨も亦劇秤の存在として取扱はれ、有と轡しく蓼的研究の封象とせら新得る。 アナキシマンドロスの限界あるもの↓レ長官︵がこゝではその限界なきものコ︶ぎ琶ヒと御株に存存の樺利を宥つ 以上の如きパルメ三アスとデモクリトスとの対立に類するものは、和々降ってゴルギアスとプラトンに於ても 諌め得られる、。ゴルギアスは彼の有名望二否建に徹しても明かである如く、有の存在の由封的否定着であるが、 有の有償の絶封的否定は、よた同時に無の存在の絶封的否認藍息昧するものでなければならぬ?無の存在の否認 とは併し、抽象的無の是認に外ならなかつた=jれに封しプラトンは形相的イデアの世界を認めでこれを有とな 滝のと写0。かくて彼は相勤朗撫の支持者といふことができる。 藷 Delき峯tOS︰﹁⊇的mente二浣・ 第十三巻.第 二 耽 ︵㌻雷四︶ 八開

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し、展にあるもの晋コ烏晋 として何ものにも優るその存在性の確賞を主張した。併し単にそれのみに止らす、 それに封立せる非有として質料的はるものゝ存在をも謎めるのである。彼によれば、個々の事物が只イデアの覚 束なき影を宿すに過ぎぬ所以は、その資料的なる非有の存在によつで妨げられるからである。即ち何物界の形相 としてのイデア即ち有と、質料としての非有即ち無との結合に外ならぬ。かく有に封する無を認むる鮎に於て、 彼は相渕的無の是認着であるといふことができる。 併しながら、有と無とはプラトンに於ても或だ琴“同等にその存在性が保誇せられ主張せられたとは見ること ができぬ。何故ならば、イデアは質料に比して遥かにも増してその存在性の強く毒張せらるべきものであつたか らである。即ち無の存在は否認せられなかったが、有の存在ほどに横磯的にその存在慄は主張せられなかったので ある。こゝに於て、.屍の意味に於て無の存在を有の存在と周様に認め、この二つの布衣の布状惟を同等に確保し たもの主して、我々はアリストテレスの畢詮を螢げなければならぬ。こゝに於ては、形相が質料に比しで遠かに も優れてそS有准性が弘く主張されるなどのことなく、形相はむしろ質料の布衣にょつて春慶すること、恰も質 料が形相との結曾に於て初めて存在することゝ興るとこネがない。即ちプラトンに於ては、イデアは質料を離れ てもそれ自醍に於て存在し得るものであつたが、アリストテレスに於ては、質料が形相を騨れて存在し得ぬと同 校に、形相も亦質料を離れては存在し得ぬものである。かくて有は無の存在によつて、そしてまた無は有の存在 によつて存准することができる。即ちア川ソートテレスも相封的無の主張者と見ることができる。このことは、彼が 無 の 存 在 ︵脚七五︶ 八方

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無を以て有の紋如的存在と札なしたことなとからも明かにゼられることであらう。 かくアリストテレスに於ても亦無は勃々の意味する相劉的無であつに。即ちその限り、我々の意味する最も根 源的なる謂はゞ有をも無をも超越せるが如き乾封的無の思想は、彼に於でも未だ明かには掛かれてゐなかったや いへ、傭ほ未だ蔭に潜んでゐて、それが無としで強く表軌に現はれでゐないやうに考へられる。然るに我々の立 の有つべき地位を保たしめんとするにあつた。こ∼に於て我々は、我々の思索の道程への〓警礫となさんがため に、アり︰トテレスに於ては未だ明かには硯はれざるその絶封無の存在督何より謹んじてこれを明かにせる如き解 無について瞼嘉することより進んで、これらの人々の思想に硯はれにる無について一瞥することをしなくてはな ら隠。 さでアリストテレスに於て無は何もないァいとではなくして、有の映如せる㌫消極的状態としでまさしく存 昇十二仙巻 第 二渋 ︵脚七六︶ 八六

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在すてのであつた。我々はこ∼にパルメーーデスの讐は反封富者昧の管慧することができる。即ちアリ

ヽヽ

ストテレスに於て無は相封的無であり、無とし㌧存在するものである。即ち非存在も亦非存在である↓;‡ヒ

㌻さ二息よテのであつて、存在でないものとしで存在するのである。即ちそれは、有に封宜して布在するところの

撫である。然らばその無とは何か。アリストテレスは非存在に三つの意味の存することを述べてゐるが、その三

つとは如何なるものであらうか。﹁併し存在と非存在については、−方範疇の形式に閲しで語られ、他方これらの

ものゝ可能性や現蜜性或はその反封のものに関して語られる。けれどもまた他方︹最も根源的なる意味での存在

︵こ

は︺展望ものか偽なるものかである。﹂といふ富共に於ても明かなる如く、存在に対する非存在は、第こ範疇

につノいて、第二に現資性に封する可能性について、さうして第三に炭魂に期する虚備についでいはれでゐる。倫

ほこのことは次の言葉によつて忘明かである。﹁非存在は併し、範囁の存在する限りの種々の個々の場合に語 ︵二︶

られるが、その外に非存在は虚偽なるものとしても語られ、可能性についても語られる。﹂これらによつても明瞭

である如く、アサストテレスによつて意味される非存在は、︵ニ範疇の存在する限りの個々の場呑た於けるもの よ歪■−:せり冬雲㌻言合ヨ発雷ヨ官営例へば人皿でないところのもの、白くないものなとであら、︵二︶虚偽 としてのもの↓妄言晋例へば誤れる命題の如き、︵三︶可能に於けるもの↓⋮彗−妄⋮ち、例へば人間でぷく

而も可能的に人間であるものなとである。

謹 A卦tOte訂︰呂etpph甘cs二8夢亭 無 わ 存 在 ︵一七七︶ 八七

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然らばこれらこぢの意味に於てその何れがアリストテレスに於ける眞の意味の非存在であらうか。それはいふ までもなく可能性としてのそれであらう。何故ならば後にも述べる如く、生成ご恥羞トnがアリストテレスに於 ● 話 ける中心的概念であり、面もその生成は消極的なものから積極的なものへの欒化に外誓っす、随つ→それは非存 在から国教して存在にまで到達することであり、そしてその生成が如何なる椰類の非存在から出張するかといふ ︵仙︶ とき、そこに﹁もし或ものがあるとすればそれは可能的なものだ﹂からである。即ちアリストテレスの非存在は 重くの基虚即ち抽象的無ではなくして、ひしろ可能的存在であり、翠に硯襟性でないといふ瓢で、即ち存在性を 防如してゐるといふ鮎で無といはれるものである。この諸味で、今もし存在を形相とすれば、非存療は質料とも 小へるであらう。何故ならば、質料は形相たらんとしてゐる可能性であり、それれが硯賞睦となるときに形相と なると見らるからである。資料は明かに形相に射するものであり、またその限りに於て質料仁るものである0縫 ってまた可能性は硯寛性に封し、そしてその限りに於で可能性たるものであり、同様に非行在は存在に封し、而 もその択りに於て非存在たるもの′である。かく有に到してのみ無は無として存在するが故に、アけ′ス∴トテレスの 無は噴かに警の所謂相対的純に苦るものと見ることができる。このことは尚ほアリストテレスの映如の思想が よくこれを硯はしてゐる。何故ならば非存在は存在性S映如せる或ものに過ぎぬからである。払って故に於ては 第十三忽 然二筋 ︵一︶ i慧d.−岩望辞讐−一〇望b拉. ハエ︺ ibi㌣一〇⋮ぎ箋−誌. ︵仙七八︶ 八八

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︵二︶ 例へば偶然的なるものは存在ではなくしてむしろ非存在に近いものである。 謙 Lぎを貫e一es︰呂e訂p首sies二〇笥bヒ﹃. ︵仙︶.i︼︶iチ一〇の欝l−管 ︵ェ︶帥bidJ一〇N夢㌔・ 然らばアリス′トテレスに於て我々の意味する縦軸的無に常るものはいづこに考へられてゐるであらうか。それ は彼が所謂究趣者即も太濾二よヨ邑3−モと名づけてゐるものゝ中に見出し得られると思ふハ勿論これを彼が無と呼 んでゐるといふのではない。それはむしろ、他の何ものについても連語として述べられることなき究極的基慣 訂㌻官⋮−こq竜3℃といふ意味では襟筋q訂㌻とも昧ばるべさものであり、それによつて事物が存在し、或は生成 し、或は認放されるに至るその昔のものといふ意味では始波音もとも名づけらるべきものである。併し如何な る富美を以ても規定し得ざるもの、即ち無償定着にるの意味で、それはヘーゲルなどの用語法に於ては、無と呼 ばれるに充分なものであらう。即ちアリストテレスに於でも努極的なものは始源着であり、且つそれは定量でき ぬものであつた。定義を表示する概念は或ものについで凌ものを述べるのであつて、その場合∵万は質料の放電 藷 にあり、他方は形相の位磋にあるものでなければならぬが、究極的太濾はかゝるものに分ち得ないからである。 ︵鵬︶ 究秘者はまた何等相戊するところのものを有ち得ないものである。戊封的封立をなすものはすべて質料を有つも のであり、可能的に同山のものであるが、究槻者は質料を宥つことがないからである。かく質料なく形相なく、 無 の 存 在 ︵T七九︶ 八九

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弟十=惑 第二既 ︵一入〇︶ 九〇

且つ概念的に規定し得られぬものとすれば、それは絶対的無の名によつで雷同にも呼ばれ得るものでなければな

らぬ。尤も、アけーストテレスの形而上単に放てこれらのことは明瞭には語られてゐないやうに恩はれる。

註 Aris蛋e訂︰試et属官首訂∵岩蓋b笠−写 ︵こ ibid−二〇謡b技. この↓㌻号等は、ブ芸イノスの妄1宗となるに至って、初めて明かに絶封的無としての意味を有つも

のとなる。勿論彼も亦それを明かに絶封無と呼んでゐるのではない。むしろ〓切の光を放射する太陽の如きも

ヽ︳ のとして説いてゐる。随ってそれは無といふ1㌻りは却つで紀封的なる有と呼びなす方が、掌り安首的であるであ

らう。併しそれは賓は有とも無とも一義的には規定し碍ないところの、そしてあらゆる存在、存在の苗を生み

成す絶封着であ.るが故に、我々の所謂絶封的無に相賞するものであることを思ふのである。プロティノスによれ

ば、すべ・てのも㌢存在は、この二者によつて直接にその有産性を附興されることによつてのみ、初めで存在し

得るものであるっそれ故に、妄は此のもの彼のものといふが如き個々の相封的存赤ではなく、それらの有水の

蒜を超越し、その根嬢的存在として存在するところの或ものである。かく蒜を超越するものであるが故に、

勿論それは一定砂形相を有つものではなく、また定まつた形態豊ハ僻してゐるものでもない。それは全く無形相

であり、無形態である。そして鸞はそれ故にこそよく壷を超越すると共に、まによく壷の存在をして存在に

らしめ得るものである。かく三者はすべての存在の税政であり、それ故にこそ太源↓㌻官等と呼ばれるので

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凍る。かくの如く、それ自ら自巳を限定することによつで初めで他の一切の仔姦を可能ならしめる常のものであ るが故に、二有それ自身は他の如何なる存在によつても限定せられることなく、随つでまたそれは如何なる屈性 をも有づことなき絡封着でなければならぬ。政にそれは驚は存在するとも存在しないともいひ得ぬものでさへあ る。か.く有無の封立をも超越しっくせるところの或る絶封着である。院ってそれは我々の理解を超越したところ の、謂はゞ有限的なる我々の思惟によつでは遜に理解し能はぬところの、紳とも呼ばるべきものである。紳はそ れ自身無であるが故によく萬物を自らの裡に映為することができる。萬物は帥の中に自己の姿を謁すことによつ てよく自ら存凝着たることができるのである。かくて紳は叫切を質す銭とも見ることができる。即ちカミはカガ ミである。鏡がすべでを為し得る所以はそれ自ら無にるの性質を有つからである。かくてプロティノスの山者は かくの如き鏡にも比すべき絶射的撫であるといひ得られるのである。 併しプロティノスに於てはか∼.る絶勘的無の外に今て?無的意味のものが考へられるの即ちそれは一着とは韮 反動の地位にある物的なるものである。萬物は究鹿絶封の一着より洗出し来ること恰も光が太陽より流出し葬る 如くであるが、その光は太陽から遠ざかるに従って次第に薄らぎゆくやうに、萬物も∵翠を遠ざかるにつれて漸 次その完全性を感じ、そして最も遠き、謂はゞ最下の段階に到達せる存春はその完全性即ち春在位の全き紋如の 故に、恰も兼の全き紋如が闇と呼ばれる如く、それはまた無と呼びなさるべきものである。かくの如き意味の無 は、すべて或る形相と結合することによつで初めて具牒的存在者にり得るところの質料の如きものであり、二部 無 の 存 在 ︵劇八一︶ 九l

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の生成を成立せしめる感性的基牌ともいはる∴ぺきものである。随づでそれは、例へばパルメ一〓ブスの無の如く、 革に抽象的に考へられにる基鹿ではなくして、むしろアリストテレスの可能的存在が硯襟性の紋如の故に無的性 質のものであると解された場合の無の如きものであるであらう。それは二者に柏判して弼立に布癒するものでは なく、全く消極的であり非有である。かく、それ自らは撫でありながら両も軍に存療件の絞如者といふだけで、 やはり存在者たることには攣りなく、萬物が二者から流出されるために必要な可能的條件とも見らるべきもので ある。この意味でこれを相封的無と呼んでむ美文へないであらうと忍ふ。かく考へる時プロティノスに於では二 つの無即ち絶封的無と相由的無とが考へられ、それらの典の聞に理性邑へや養親官きなどの相調存在の世界が 介在してゐるやうに思はれる。隠つてこれらが無に射する有の他界を構成してゐるものと考へられる。かくの如 く考へ来る時、ブロティノスの二つの無は何れも有に封して存在するものであり、血は有を生む積極的能動として の無であり、他は栴檀的所動としての謂はゞそれによつで有のつくりなされる質料としての無である如くに思は れる。何故なれば我々のいふ抱射的鯉は〓別の非存在は勿論すべての存在をすらも打って一丸とせるが如き包拓 的耽叫の究極的絶封着であり、それ故に葦は有とも無とも勅裁的には規定し得ざる如きものとしで脊するものだ からである。併しプロティノスの叫者と雄も物的なるものに相附すると考へられに時には、或は所動に射する能 動、消極に射する積極とも考へられ待ようが、二者自照は、猫立に、所動とも能動とも、また積廠とも拘極とも 規定せられぬ、むしろそれらを超越した砲封者と見られねばならぬ。何故ならば、一切の封立を糾した存在であ 第†三怨 第 二躾 ︵・加入二︶ 九二

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jが故にこそ、絶剖的鮎川なる名にも佑し特にものだからである。こ∼にまたそれが義的に規定し得られす、随

づで歯に宗教的惟験によつ、てのみその存在他の確給うれる紳の如き尾ので透る所以もあるであらう。

かぺてプ言イノス竺老は多者に到立せる〓有ではなく、むしろ㌻多を統一して布森する絶倒不可分の仝

感寓で凍る。そこに一切の型皿が許されないといふゃ牒∵割立はもともと二であり、ニは多であるに外ならぬか

らである。それ故に二者は、所動・磯動、瀾機∴税極、瀞・動などの封☆〓切替超越し、而もこれらのすべでを

打って山丸とせ

ぁる。意識するものでも意識されるものでもない。自己意識をすらもそれは超越する。何故ならば自己層識は自

己反省であり、自己反省は二でぁって石は肯いからである。かくてそれはまに、善悪、美醜、眞偽などの諒

の牒僻的判事品聾呈パそれ自身尊者↓言きと呼ばれること凍るも、それは憩に引立せる意味の曹ではな

い∩存灘す牒ものは庖善であるといふが如きアウダスティ芸的意味の善でや。。かく、扁の封立を絶したも

のとせば、その仙窟点抑々如何にして我々の認故領内に入ら釆小得るであらうか

叫者

的恩桝によつて可能でなければならぬこさを論評しょうとする。即ち我やの日常鮭験が多の世界であるが故に、

それの統山者として一者が存廃せねばならぬとす藩のである。こゝに於て明かなることは、ブ≡アイノスの二者

も、その存在が理論的に考へられた限りに於ては、やはう多の統劇としての・血であり、多に封立す竜山として初

恕⋮の 存 在 ︵山八ニC 九三

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第十≡巻 罪こ戯 ︵劇八四︶ 九掴 めてその存在性が明かにせられるといふことである。絆しそれが理締約にかく思惟されねばならぬからとで直ち にそのやうにそれが存在してゐるとは限らない。一着の一着にる所以は㌻多統一の粒封者にるところにあるが 故に、その存在は途に理論のみを以てしては明かにせられぬものであるといはなければならぬ。即ちそれは宗教 的鰭験の封象たる仰の如きものとして最も明かに我々の前に規はれる。縫って相封的世界の存在を有として性質 つける我々にとつて、“者はまさし′、無たるの意味を有つ。叫切の相到着を流‖せしむる流濾としての絶封的 頗、をれがプ。ティヌスの山背に典へられる存在性でなければならぬ。我\々は次にか㌧っした転封的無に関係ある ものとして、ヘーゲル並にハイデッガーの無について、二腎することにしよう。 ヘーゲルに於ける頸をプ。ティノスの亀封者の如く解すること、否な少くともブロティノスの絶射的無と解さ れるものをヘーゲルの梧紆法の中心的なものとなすことには、或は多くの輿論があることゝ思はれる。何となれ ば、その有名なる料語法が正−戊′合の三股法によつて周く知られて居り、そしてそれが所謂有−−廉− 威の追行であるとなされでゐるが故に、その有は常に頸に封立し、無は有に封宜してのみ存在し得ると解せ㌻ れ、随って彼に於ては相射的なる有または銀のみが考へ得られるやうに思はれるからである。さうしてか>る考 へは確かに1仁者なものと認めざるを得ない。即ち有と簸とは相封立せるものであつで、両者全く同州のぁのでは 諌 なく、﹁それらが端的に興ってゐるといふこと−一方は他方のあるところのものではないといふことも亦a喜E ヽヽ 彼に於では正しいとせられるからである。併しながら、かく全く異別的なるものとも考へられたる相動的有と無

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は﹂ ヘーゲルに於ては各々それが共に抽象的であることの故に、それらは・共に共通の性質を有するものであつ た。さうしでその共通の性質まはまさしく鍵内容計hai邑○詣であり、暴虎訂巾r認であるといふことであつに。 即ち﹁これらの始−冗についで知らねばならぬことは、それらがかゝる基虚なる抽象以外の何ものでもなく、有と ︵劇︶ 撫とのそれぞれ臥ものは共に等しく塞鹿であるといふことである。﹂かく有も頼もそれが拳の始めとして、或は摺 説法的進行の始克として考へられた時には、共に全く碁鹿なる無内容者としでのみ存し得るのであるが、このこ とは一倍何を意味しでゐるのであらうか。 話 l叫egel︰胃nO笥一〇p監ざ溺00・ ︵こ ibid・u曲00﹁・ 有が全く無内容であり、基虚であるといふことは、とりも直さやそれが無であることを意味してゐるのではな いか。同時にまた無が重く無内容であり暴虎であるといふことは、それが却って有なる嘆賞を宥つことを意味し ではゐまいか。即ら有も無もそれが相互に封立しで居り、有は着であり無は撫であつて、相互に差別的のみであ ると見られてゐる限りに於で、それは重く抽象的性質のものであり、それ故に全く容虚無内容であり、かく基虚 無内容であることの故に、まに嘗は有が無の性質を、そしで無が有の性質を規はすに至らねばならぬのではない か。即ち有と鋸とは封立的であるが故に却って各々他の性質を有つことゝなり、両者合一の契機を負ひ、こゝの 所謂成による開署の止揚も必然的に可能となるのではないか。然りとするならば、有−−恕仁一虚なる三股法的 無 の 存 在 ︵〟八五︶ 九五

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範十二葱 鮪二 戟 ︵什八六︶ 九六 耕詑法の進行を可能ならしめる始元としての有は∵常に全く無と鼎封宜しで、封自的に分離しで存在するもので はなく、′それはまさしく即自的に存在するものであり、さうしてその、中には既に無的な電もの、それ故にこそ頗 ぺの進行も可能となるところの契機が包含せられてゐるものと見なくてはならぬ。まさしくヘーゲルの有は既に 註 見難った如く、それ自ら叫の矛盾的存在として、自己に矛盾するものを自らの中に含有してゐるものでぁった。 即ちそれは有であると共に非有即ち無を偏らの中に包懐しでゐるものに外ならなかったαかくてヘーゲル本葬の 意味に於ける有、即ち摺謹法的進行の始元としての有は、賓は無と外々しく判立しでゐるもので粛なくしで、そ れを自らの中に包有してゐるものであり、有と無とはこゝに全く同岬であるとも考へられるものであつた。この ことは例へ.ば、彼がへラクレイトスの思想を欄承教展せしめたものと正賞にもいはれてゐる事背からも明かであ らう。何となれば、萬物流抽を詮くへラクレイトスの児想の中には、既に。ハルメニデスがこれを指摘しで雑じて 二︶ ゐるといはれるやうに、萄と無とは全く同州のものとされたからである。かくてヘーゲルの有と無とも只常に曲 封立してのみ存在するのではなく、むしろ雨着互に他を包有しでゐるものであカ、それ故にこそ耕誇絵的進行を も可能ならしめるものであることが明かである。それ故に我々の今まで考へ米つ仁絶封的無が、ヘーゲ几に於て も明かに見出されなくてはならぬ。何となれば我々の所謂組封的無とは、相封的有無を包有すると共にまたこれ を超越した嘗のものに外ならなかつたからである。随ってそれはまた、或は絶剖的有とも箸づけられ得るもので あつた。そしてヘーゲルに於てはかく呼ぷ方が室常でもあらう用彼に於て粁謹法の始︰冗をなすものは常に無では

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︵二︶ 克くして有であるからである虻併し我々は後に述べるが如き理由に於て、これを絶封的銀と呼ぶのである。 証 本謎第九璧望丁四輩特輯﹁記念論文集﹂四〇入貢参照 ︵こ パルメニデスはその際斤六に於て.監に全く知るととなき人間ども、開館動物、聾者富者の如く唖然たる旛連、列 警晶集の義として﹁彼等には青森すること1存在しないことゝが同言而品言ないと考へ 遺は相反封せるものであるとされる﹂ことを怨げ、これを批難してゐる。とれは明かにへラクレイトス一輝の主張 を難じたものとされる。ヘテクレイースの断片五言は﹁人は互に相離反しようとナるものの合山Lつゝあるを知 らぬ。それはまことに弓や琴に於ける如く、反撥するカの一致である﹂ことが説かれてゐる。 ︵ご︸ 後述也の部象照 和射的有無を自らの申に包含すると共にこれらを超越する絶封者としての性質は、ヘーゲルが耕詑法の始克と して指発しに純粋有の中に何よ.りも明白であるといへる。即ち彼は純粋有について次の如く説通する﹁純粋有は 始元をなす。何となればそれ、は純粋なる思想であると共にまた無規定的であつて.、革純なる直接着であるからで 謹 める。併し究極の始元は決して媒介羊れ・たものでもまたそれ以上に規碍せられ㍍ものセ.もあり得ないごかく述べ られたる純粋有は勿論全く抽象的であ?て蛋虚であるところの有であるに外ならない。併しながら、これはそれ 故にこそまた▲我=我とか、絶到的無差別性せか、或はまた同産なととしナエ細られ.ると蔓つの純粋直接性であ ぅ、その由りまた我々.にとつて却って放る具憾的なもの‖ですらもあり得るのである。′かくてそれは﹂勿論直接に ほ他の灘朝克る戊のにもそれ臼醍銅棒智有つものではないが、、併し摺鐙法の始叫であるが故に、一それはやがて無 無 の 存 在 ︵︼入力一九カ

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︵山八八︶ 九八 第十三巻 弟 こ班 にまで移行せねばならぬものである。然らばそれは如何にして可能であるか。山見至難の如く見えるこの問題 も′、ヘー・ゲルに於ては何等の困難をも伴ふものではなかった。何故なちば、純粋着はかくの如く蛋鹿であが、無 内容であつて、且つ仝ぐ無規定着であるが故に、それは直ちに無であるとされ得たからである。即ち次の如くい ふ﹁さてこの純粋なる有は純粋抽象であり、随って縫封に否髭的なるものである。それは同じく直接的にとれば ︵ 簸である。﹂純粋者はかく無規定性であるが故にそれ自身直ちに撫であり、富詮すべからざるトのである。その中 には二部の差別性なく、直観さるべきまたは思惟さるべき何ものもない。それ故にこそそれは撫であり、撫以上 嗜も無以下でもあり得ない。無とはこの場合完全なみ基虚性・無内容性・無規定性であり、自己自らに於ける無 差別性である。これらの性質の故に有は無である。かくてヘーゲルに於ける澤誇法の始元は存在すると共に存在 せぬものであゎ、、有であつて無たるもの、撫であつて有にるちの、謂はゞ有無の無差別的に合一せるものであ る。かくそ彼に於ては﹁純粋有と純粋無とは同山のものであ各﹂とされるのである。 証 冒ege−︰Enc甘lOp邑e.芯の. へ一︶ ibid.”筍♪ ﹁有と無とは同石かるといふこの命題は表象或は悟性によつては甚だし鳶逆設的命竃として現はれる。その 話 ために、それらは恐ちくそれを眞廟欄に意味さ■れ圭牒の漣して受けとることはないであらう﹂とヘーゲル自らも いふっけれども併し、それはまさしく只表象や悟性に封しての限乃に於てのみ逆説的に見えるのであつで、純粋

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なる存在の存在性に即して観ずる時は両者はまさに全く同十であるところの規鱒を包含してゐる。このことは、 例へば次の如き側に敬して自ら明白で 即ち全く純粋なる閻とは、単に表象や悟性に於て思念せられに限りに於ては全く興別的・差異的のものであると しか思はれぬが、革質、存在そのものとしては摘兇的に何も見えないといふ鮎で、雨着全く同一のものであると いふことである。かくて純粋甘光と純粋な問とは、二つながら共に糊覚に於て全く姦虚であり撫である。即ち規 定を受けない光即ち愕まされ太い光や、規定を受けない問即ち明くされない曙さの中に於では、すべては無差別 的であり、無規定的であつて、それ故にすべでは無である。随って無規定的な牒光や閻の中には、賛は明るさや曙 さといふこともないわけである。それと同じく無規定的なる有無の中には有無の院別なく、随つで有と無とが全く 同鵬のものにり得るのである。かくてヘーゲルは﹁有を無から区別することは常なる臆見die b−OSS00Meinung である﹂とさへもいふのである。 藷 冒egel︰Enc罵言p覧訂∴∞叫u芯山− 純粋なる有無の全き同仙性は、叫而よ功観やる時雨宥の全き合一性と解し得られ、雨着の直接的合閻・無差別 的統仙と解し得られる。縫ってこの場合常然有は看であると共に無を含み、無は無であると共に有を含むものと なる。即ち純粋有は無を包む看であり、純粋無は有を包む無である。かく無を包含する有、有を包含す懲無は︵・ 相封的有無の名に伯ひするよりは、むしろ絶封的有無の名に伯かするもの、それ故にへ十ゲルに於ける摺詮法の 無 の 存 在 ︵加入九︶ 九九

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罪十享恕一節二戟 〓九〇︺山00 始克と心て¢有は紙料的なる或ものであると見られなくてはならぬびヘーゲルは革質紀封的なるもの教鞭明し て、それは第γに、有であつてまた嬰一に無であるとなしでゐる。嘘つでそれはまた絶封的有とも紙料的頸とも 補し得られjもの、ヘーゲルの耕諸法はまさしくか、るものを始元として有ち、まに有にねばならぬ▼。‖\か、.各も のにしでこそ初め土成にまでの進行を可龍ならしめ得るからである。即ち自白矛原著のみがよく自ら遣軌するこ とができる。・眉ら矛嫡し反封することのないものが耽帆される必要があるであらうかC有にして無なるもののみ ょく自己酪この運動をなすことができる。ヘーゲルの域はまさしくかゝる道勤に外ならなかった。即ちいふ﹁無 はこの直接的なる自己同⋮穿と←て、まに逆に宥があると土ろのものと同叫である。それ故に有の眞埋灘びに無 話 の選球は病者の統一であり、さうしてこの流山は成である﹂と。かくの如く成が有無包有の精勤的なるものによ って初めで可能であるとすれば、その巌劉的榛るものは、例へばプロティノスの劃者の如きものとも解し得られ るであらう。これ即ち我々の斬謂絶劉的無なるものである。勿論ヘーゲルはこれを絶剃的無とはいはすしで絶封 的有といふでもあらう。けれども既に純粋有が純粋撫である以上、絶射的有は直ちに絶封的無であらねはなら ぬ。何故ならばそれは雨着とも全く無媒介的なる直接着たることに於て鼻息ところがないからである。これヘー ゲルの塀詮嘩の始元を望りものゝ中に、我々の桝謂精勤的無の如きものを見出し得るとなす川以である・。 話Hege−︰崗ne罵lOp監i♪押B 併しながら、かく一方宥と無とが全く同Tのものであ勺、そこに何等の発別も封豆もないものとすれば、それ

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は既に無券別的統山内に存するが故にそれ以上統一される必嬰がなく、随ってそれは特に成によつで止似せられ る必要もあり得ないも牒、やうに思はれる。姦るに封立せる有無を止揚してこれを統こまでもたらす邁動とレ ての生成は、まさに掛評決の本質を成すものである。随つでへ一−ゲルに於ける有無、即ち蜃療法的動向を可瀧な らしめる契機としての有無は、常に成に於て止似せちれ統劇される運動の槍有者として存在せねばならす、その 限りに於てそれはやはり互に相封的にのみ存赤するものでなければならぬ竿である。こゝに於て普通に有イー癒 − 成なる三股法によつて考へられてゐる限りの有及び無は、やはり共々即白的存在としての同脚性であるより もむしろ封自的存在としての差別性のものでなければならぬことが明かである。何故ならば、ヘーゲルに於ても 有が無によつで規定せられ、無が有によつて規定せられて、各々その有無としての布衣件をかち得ることば、恰 も明が曙によつ.て規定せられ、曙が明によつて規定せられて、初めて明た句曙たることができると同じであると されでゐるからである。こゝに於て我々は、ヘーゲルに於ける粁語法の始充たる或ものは、蜜はそれ自ら絶封着 たると共に柏酎着たるものでなければならぬことを知る。即らその始元は兜づ未だ何ものをも存在せしめす、而 もそこから一切哲生ぜしむべき或る絶封着であり、それ故に有と無との両方を包含してこれを鮨〓し、有即無、 無即承王る無差別着であるけれども、次にそれはまた同時に有と無とを差別的に存在せしめるものであり、それ・ 自ら有に封する無、無に封する有、随って未だ統血せられす、これから線二せられんとするところの相封着でも あるのである。かくて我々はへ・−ゲルに於てもまさしく、こつの有或は鎌を笛糾せねばならぬことの埋を明白に■ 無 の 存 在 ︵仙九︼︶鵬○劇

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