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十
「絨毯の下絵」 の謎 ―
一
長 柄 裕 美 (1992年6月29日受理) は じbに
ヘ ン リー・ ジェイムズ(Henry JameS,1843-1916)の作品の中 には,「芸術家・作家 もの」 と呼 ば れ るグル ー プが あるが,こ
れ は簡潔 にま とまった中・短編 に多 く見 られ る。「巨匠 の教訓」 (“TheLesson of the Master",1892)を 始 め,「『ベル トラ フ ィオ』 の作 者」 TThe Author of Bcrtγ prrfο",
1884),「 ア スパ ンの手紙」(“The Aspern Papers",1888),「 初老」T`The Middle Years",1893),「 有
名作家の死」t`The Death of the Lion",1894),「繊毯 の下絵」 (“The Figure in the Carpet",1896)な
ど優れて完成度の高 い作品が 目立つが
,こ
こには ジェイムズ自身 の芸術観がエ ッセ ンシャル に表現 されていると言 えるだろ う。 これ らの中・短編 には,
しば しば私達読者 を惑 わせ るよ うな謎 が隠 さ れてお り,そ
れ を読 み解 くことが,そ
の作品のみな らず ジェイムズの文学全体 を理解す るための手 がか りになるもの と考 え られ る。本論 は,中
で も「絨毯 の下絵」 を取 り上 げ,
ジェイムズ文学の謎 の一端 に触れ ようとす るものである。 「真珠をつな ぐ糸」 「絨毯の下絵」 は「私」(`I')と い う一人称 の語 り手の視点か ら語 られ る物語で ある。「私」 は若 い文芸批評家であ り,同
じ批評家仲間で あるジョー ジ・コー ヴィック(George Cor ck)か ら,自
分 に代わ って有名文芸紙 『 ミ ドル』紙 (T力8M,」J12)に作 家 ヒュー・ ヴェ レカー (Hugh Vereker)の 最 新作の書評 を書いて くれ と依頼 を受 ける ところか ら物語 は始 まる。願 って もないチ ャンスとそれ を 引 き受 けた「私」 は次 の 日曜 日あるパ ーテ ィで ヴェ レカーに会 い,そ
の書評 は よ く書いてはあるが,他の多 くの書評 と同様 に 自分 の全作品 を貫 く「ち ょっ とした肝心 な点」 (`my little pointり ,① 「あ る も くろみ」 (`an idea'(p.230)),「 この上 な く微妙で充 実 した意 図」 (`the anest fullest intention'(p.
231))が 抜 け落 ちて い る こ とを知 らされ る。 自分 だ けが偶然 耳 に した この秘密 を探 り当て よ うと 「私」 は躍起 になって全作品の再読 に取 りかか るが
,一
ヶ月後,何
一つ手がか りを得 ることな くそ糸
ノ \ な つを
珠
真
れ を断念 して しまう。失意 と苛立 ちの中で 「私」が この ことをコーヴィックに話す と
,今
度 は彼 が 秘密探 しの虜 になって しまい,恋
人で作 家 の グウェン ドレン・ アーム (GwendOlen Erme)と ともに 熱狂的 に探求 を始 め る。既 に 自力で捜 し当て ることを諦 めた「私」 は,コ
ー ヴイックな ら見つ ける のではないか とい う予感か ら,そ
れ を傍 らで見守 って行 く姿勢 に徹す ることとした。やがて ヴェレ カーは病気の妻 の健康 のためにイギ リスを離れて南仏へ渡 って しまい,さ
らに半年後 コー ヴィック が仕事のためにイン ドヘ長期 の旅 に出て しまう。残 された「私」 とグウェン ドレンは共 に彼か らの連 絡 を待つが,半
年後,グ
ウェン ドレン宛 に「ワレハ ツケ ンセ リ カンム リヨウ」(`Eureka.Immense.' (p.251))と い う電報が届 く。一 日も早 くその秘密 を聞 きたい と待つ二人 に対 し,
コー ヴィックは ヴ ェレカーに会 って確認す るまでは言 えない と言 う。やがて,一
点 の違 いな く確認がで きた こと,一
ヶ月 ヴェレカー とともに滞在す ることを告 げる電報 (`Just seen Vereker― not a note wrong.Pressed me to bosom―keeps me a month.'(p.255))が グウェン ドレン宛 に届 くが
,秘
密 の 内容 は結婚後 に明かす と知 らされ
,二
人 はさらに待 た され ることになる。 そ うす る うちに「私」 は急病の弟の看病 のために ドイツヘ渡 らざ るを得 な くな り,コ
ーヴィックか らは「私」宛に,
ヴェレカーに関す る仕 事 を始 めたのでそれが完成す るまで秘密の報告 を待 って欲 しい旨連絡 が入 る。傍観者である「私」 は,異
国で事 の成行 きを見守 ることとなるが,そ
の3カ月余 りの間 にコーヴ ィックが帰国 し,帰
っ たその 日にグウェン ドレンと婚約,そ
の後 のハネムーンの旅行中に馬車 の事故で あ っけな く死亡 し て しま う。直接秘密 を聞 き出すチ ャンスを絶たれた「私」 は,そ
れ を聞いた はずの グウェン ドレン か ら聞 き出そ うとす るが,コ
ー ヴィックの未完の批評 にはまだ秘密が明か されてはいないこと,自
分 は聞いて知 ってい るが他言す る気 のない ことを知 らされ る。「私」 は帰国後 さらにグウェン ドレ ンに秘密 を明か して くれ るようせ まるが,自
分 の「生命」で あ り,絶
対 に言 わない とつ っぱね られ て しま う。 コー ヴィックの死か ら一年半後 グウェン ドレンが第二作 日の作品 を出版 し,「私」 はそ こに秘密が隠 されて はいないか と飛 びつ くように読 むがやは り見 あた らない。 しか も『 ミ ドル』紙 に書評 を送 ってみ る と,既
に コー ヴィックの友人 ドレイ トン・デ ィー ン(Drayton Deane)が 出版 の 手続 きを済 ませていた。 さらに6カ月後 ヴェレカーが最新作 を発表 し,「私」 は誰 よ りも早 く手 に 入れたつ も りで グウェン ドレンに届 けに行 くが,既
にデ ィー ンが届 けた後であ り,彼
が『 ミ ドル』 紙 で書評す る予定であ る とい う。そ こに ヴェレカーが ローマで倒れ た とい うニ ュースが入 り,そ
の3週
間後 に ヴェレカーは亡 くな り,「私」 に とって貴重 な望みの綱 で もあ ったその妻 も,後
を追 う ように年 内に亡 くな って しま う。 こうして全ての可能性 は絶たれて しま うが,グ
ウェン ドレンがや がてデ ィーンと結婚す ることによって,「私」 の探求の綱 はさらにつ なぎ留 め られ る。「私」 はデ ィ ー ンの批評の中にその秘密 を知 ったことの影響が表れは しないか と目を光 らせ るが,求
めるものは 見 当た らない。 また グウェン ドレンの第三作 日もなん ら変 わ りば え しない。「私」 はデ ィーンに付 きまとい何か とヒン トを得 ようとす るが,彼
の様子か らも何 も見抜 くことがで きない。そ うするう真珠をつなぐ糸 211 ちに
,当
の グウェン ドレンが二人 目の子供 の出産 の際 に亡 くなって しま う。一年 後,「私」 は偶然 デ ィー ンと出会 い,積
年 の思いを打 ち明けるように秘密 につ いて尋ね るが,驚
いた こ とに彼 はその 秘密の存在す ら知 らない と答 えた。 デ ィー ンの驚 きと動揺 の様子か ら判断 して,こ
の答 えに偽 りは ない と思われた。「私」 は満 た されぬ欲望 を抱 えた まま置 き去 りにされて しまい,デ
ィー ンの苦 し む姿 に しか心の慰 めを求 め ようが ないのだ った。 さて,以
上の ように主人公の視点か ら秘密のあ りか に限 って プロッ トを追 って行 くと,確
か に在 ったはずの ものが最終的 には跡形 もな く消 えて しま うとい う手品の手際 に 目を惑 わ され,亡
然 と挫 折感 にひた る彼 の姿が浮かび上が って来 る。 これ は しば しば指摘 され る とお り,同
じ く「私」 とい う一人称 の語 り手 によって語 られ る長編 『聖 なる泉』 (勁 cS,ctt」Fοttη′,1901)の
モ チー フと同一 のものであ る。『聖 なる泉』 において求 め られた秘密 は人間関係であ り,「繊毯 の下絵」 の場合 はそ れが小説 の隠 され た意図であったに過 ぎない。「発見 した!」 (`Eureka l')② と叫 びなが ら,そ
の内 容が明 らか にされ ないまま物語が進行 し終 わ って しま うの も同様で ある。 この物語 の重要 なポイン トであるヴェレカーの秘密 は,作
品中繰 り返 しい くつかの比IIPで表現 され る。 タイ トルの 「絨毯の下絵」 はその一 つで あ り,「秘 め られ た秘宝」(`the buried treasureつ と
も呼ばれ るが
,中
で も「真珠 をつ な ぐ糸」 (`the string the pearls vere strung on')と い う表現 は この物語 を読 む上で極 めて示唆的である と思 われ る。 これ は他 の比喩 と違 って ヴェレカー 自身が最初 に 用 いた比喩 であるためなお さらで ある。真珠の首飾 りが彼 の完壁 に仕上 げ られた作 品一作一作 を表 してお り
,そ
の陰で作品の完壁 さを支 えて いる彼 の意図 を「糸」 にた とえた とも取れ るし,二
十巻 もある とい う彼 の作品一作一作 を真珠 の一粒一粒 にた とえ,そ
れ全体 を貫 いて流れ る一つ の意図を 「糸」 と呼んだ とも考 えられ る。 しか し興味深 いのは,私
達 が 「私」 の意識 にそ って この物語 を辿 って行 く経験が,あ
たか もこの「真珠 をつ な ぐ糸」 を辿 るプロセスと相似形 をな してい るように感 じられ ることで ある。物語中の 「真珠」 は登場人物 の一人 ひ と りで あ り,「私」 はその一粒一粒 を つな ぐ糸を辿 るように,確
かに伝授 され たはずの秘密のあ りか を辿 ってい くので あ る。 これ は,例
えIず「私」 が ヴェレカーの秘密 を探 るべ く彼の全作 品 を綿密 に再読 した際の作業 プ ロセ スと一致 し ている。 この ように プロッ トの構造上か ら見て も,
ヴェレカーの作品 に秘 め られ た意 図の発見 と, この物語 に秘 め られ た人間関係の図式 の謎 の解 明 とは,軌
を― に してい ると言 えるだ ろ う。 しか も ヴェレカーの作 品 を直接読 む ことを許 され ない私達 にで きるのは,こ
の も う一方 の相似形 の謎 の解 明に向か うことだ けなのである。 物語の冒頭,
ヴェレカー自身が 「私」 に 自分 の作 品の意図につ いて語 る場面 を考 える と,極
めて 真摯 な心情 の吐露であ り,そ
こには後 に「私」が疑 うような「私」 をか らかお うとす る態度 は全 く 読み取れ ない。「私」 自身,自
己の無能 さを嘆 く気持 ちの裏返 しとして ヴェレカーを責 め る言葉 を漏 らす ことはあって も
,心
か ら秘密の存在 を疑 った ことはおそ らく最後の瞬間 までなか ったのでは なか ろ うか。そ して物語の結末,デ
ィー ンが「私」 に ヴェレカーの隠 され た意図な どその存在 も聞 か されていない と答 える場面 について も,彼
の驚 き慌 てぶ ため く様子 はそれが嘘で はない ことを明 瞭 に物語 って い る。 そ うだ とす るな らば,「私Jが
この作 品中で辿 ってい る「糸」 は,確
か な「存 在」か ら同 じ く確か な「不在」 へ と,一
直線 に結 ばれ た ものだ った と言 えるだろ う。「糸」 は「有」 か ら「無」へ と,
どの過程で,つ
ま りどの真珠 とどの真珠 の間で変質 して行 ったのか とい う疑間が, 「糸」 を遡 って行 く。「私」 とともに「有」 を信 じて「糸」 を辿 って きた私達 は,ま
た「私」 とと もに「無」か ら始 まる「糸」 を逆 に辿 って行 くことになるのである。 しか しその行 き着 く先 は,再
び確か な「有」で あ り,私
達 は メヴィウスの輪 を思 わせ る極 めて ジェイムズ的 な堂 々巡 りに取 り込 まれて行 くこ とになる。結果的 に,前
提 としていた両端の確 か さを疑わざるを得 な くなるが,
どの ように読んで もこれ らの場面 には疑惑 を差 し狭む余地 は見いだせないのである。 この出日のない迷 路 は,「私」 が ヴェ レカーの全作品 を丹念 に読 み直 した ときにも経験 した ことではなか ったか と容 易 に想像で きる。 ヴェレカーによれ ば確 か に存在す るはずの隠 された意図 ― しか し様 々な仮説 を 立てて読 み進 めて もどれ一つ として全作 品 を貫 ける一本の「糸」 にはな り得 ないので ある。「糸」 は途中で変質 して しまい,始
ま りと終 わ りで は別の ものになって しまう。終 わ りに至 ったもう一つ の仮説か ら逆 に辿 って行 くがやは りそれ も二十巻 とい う膨大 な量の作品 を完全 に網羅す ることはで きない。「私」 は この堂 々巡 りに堪 え きれ ず,秘
密 の探求 を 自ら放棄 したので はなか ったか。 しか し,物
語空間の中では,
ヴェレカーの作 品 自体 を対象 とす るこの探求は,登
場人物 間の関係 を対象 とす るもう一方 の探求 に比べれ ば,は
るか に可能性 を残 していた と言 える。なぜ な ら,人
間関係 を 辿 ろ うにも人物 はデ ィーンを除いて皆亡 くなって しまい,実
際 に「糸」 の辿 り直 しをす るこ とはか なわない ことだか らである。一度限 りの プロセスを,「私」 は一人想像 の世界 の中だ けで繰 り返 し 往復す る しか ないのである。それ に対 して,物
語中,
ヴェレカーの作品は永遠 の命 を持 って存在 し, 無限 に「糸」 の辿 り直 しが可能で ある。言 い換 えれば,「私」 で ない登場人物 には,依
然 として彼 の作品の真実の「糸」(「有」か ら「有」 へ至 る「糸」)を
見つ け出す可能性 が残 され ていた とい う ことで もある。そ して実際,物
語中にそ うした人物 は存在 したので ある。 この ことは同時 に,私
達 読者が,そ
の相似形である物語の人間関係の図式 に,確
か な「糸」 を見 出す可能性 が残 されてい る ことを示 してい る。 深層の糸 と表層の糸 ヴェレカーの秘密の意図を捜 し当てたのは,「私」ではな くコーヴィックで あった。物語の結末 か ら疑惑が遡 って行 くとき,疑
いをか け られ る「真珠」の一つはコーヴィックである。果 して彼 は真珠をつなぐ糸 213 本 当に秘 密 を捜 し当て た のか
,そ
れ を ヴェ レカーに確認 した と言 う言葉 に嘘 は ないのか とい う疑 惑 で あ る。 これ を証 明す る明 らか な証拠 は物 語 中存在 しないので あ るか ら,当
然 の疑惑 と言 うべ きで あ ろ う。 しか し,私
達 読 者 は,コ
ー ヴ ィックを疑 わ ない。 なぜ な ら彼 が秘 密 を捜 し当て るべ き人物 で ある こ とを私 達 に伝 え るメ ッセ ー ジは,短
編 中 に絶 えず ほ の めか され て い るか らで あ る。 私達 は, それ を「私」 とい う語 り手 の視 点 を通 して読 み取 って行 く。 つ ま り私 達 読 者 は,「 私 」 の視 点 にそ って物 語 を辿 る と同時 に,そ
の視 点 を通 して も う一 人 の人物 の意識 を も辿 って い るの だ。 しか も実 はその も う一 人 の人物 コー ヴ ィックこそ,物
語 の真 の主 人 公 で あ る こ とに私 達 は気 づ いて行 くので あ る。 ち ょうど翌 年 に書 かれ た 『 メイ ジーの知 った こ と』 (V力αι Mαls'9【■9初,1897)に
お い て, 大人 の世 界 を完 全 に は理 解 しな い ま ま見 て い る子供 メイ ジーの視 点 を通 して,私
達読 者 が大 人 の世 界 で実際 に起 こ って い る こ とを読 み取 って行 くの と同様 で あ る。 つ ま り,こ
の物 語 にお け る「私」 の観察 は,
メイ ジーの視 点 にた とえ られ るよ うな不 完全 な もので あ る。『 メイ ジーの知 った こ と』 と い う作 品全体 に メイ ジーの幼 い視 点 に苦笑 す る大人達 の意識 のベ ール が か か って いたの と同 じよ う に,「私」 の視 点 を客 観 的 に嘲笑 す るも う一 つ の意識 が,絶
えず この物 語 の底流 に あ るので あ る。③ それ は,物
語 の 冒頭 か ら既 に現 れ て い る。 や む を得 ない理 由か ら書 くはず だ った書 評 を友 人 に依 頼 せ ざ る を得 な い コー ヴ ィック と,そ
れ を喜 ん で 引 き受 けた 「私 」 との別 れ 際 の会話 は次 の よ うで あ る。“Of course you'H be all right,you know."Seeing l was a trifle vague he added:“I mean you won't be silly,''
“Silly―――about Vereker t WVhy what do l ever find him but awfuny clever?"
“Wel, what's that but silly? What on earth does`awfully clever'mean? For God's sake try
to get αt hiln, Don't let hiln suffer by our arrangement. Speak of hi=n, you know, if you can, as I
should have spoken of hirn,"
I wondered an instant,“ You mean as far and away the biggest of the lot―一that sort of thing?"
Corvick almost groaned.“ Oh you knOw,I don't put them back to back that way;it's the infancy of art i But he gives me a pleasure so rarei the sense of"― ―he mused a little― ―``something or
other."
I wondered again.“The sense,pray,of what?"
“My dear man,that's just what l want)ο tt tO Say!"(p.221)
不安 に駆 られ て 「馬鹿 な こ とを しないで くれ よ」 と念 を押 す コー ヴ ィックに対 して,「私 」 は
「本質 を突 くよ うに」書いて欲 しい と言 うと,「私」 は
,で
は「群 を抜 いて偉 大 な」 とで も言 えば いいのか と答 え,コ
ー ヴィックは この あま りに も「幼稚 な」「私」 の芸術 セ ンスに思わず うなって しまうのである。 そ うで はな くて,
ヴェレカーの作 品が持つ言葉 に表せ ないある「感 じ」 を表現 し て欲 しい とコー ヴ ィックは訴 えるが,一
方「私」 はそれが どん な「感 じ」 なのか全 く想像 もつか な い様子である。 この引用 力所 に続 いて,そ
の 日夜遅 くまで作 品 を読 みふ けった「私」 は,や
は リヴ ェレカーは「恐 ろ し く頭が切れ る」作家だ と感 じたが,「群 を抜 いて偉 大 な」作家 だ とは全 く思 わ なか った とい う。 そ して「群」 に言及す ることを避 けることに よって,あ
っばれ 自分 は「幼稚 な」 芸術 セ ンスの域 を脱 した と自負す るので ある。 この部分 は,作
品 を表面的 に読んで通俗で浅薄 な評価 を与 えることを批評で あると勘違 い して い る未熟 な批評家 「私」 と,同
じ く未熟 なが ら作 品の深 い本質 にせ まる芸術観 の芽 を感 じさせ る批評 家であるコー ヴィック との対比 を,強
く印象づ けるもので ある。以後物語 は,表
層 を滑 る「私」 と 深層へ向けて深 く潜行 して行 くコー ヴィックとい う二つの タイプの意識が,同
時進行す る形 で進 ん で行 く。構造の上 で も,「視点」 として物語の表面 に現れ る「私」 に対 して,コ
ー ヴィックは「視 点」の裏側 に潜んで物語の和音 を奏 していると言 えるだろ う。 そ して,こ
の二つの意識の間 を往復 しつつ,双
方 の辿 る「糸」 を巧みに よ り合わせて行 くのは,言
うまで もな く私達読者である。 で きあが った書評 は,「私」 の 自信 にもかかわ らず コー ヴ ィックを満足 させ るもので はな く,
ヴ ェレカー本人 もそ こには何か 「肝心 な点」が抜 け落 ちてい る と感 じてい る。 ここで コー ヴィックと ヴェレカーの違 いは,
ヴェレカーが その「肝心 な点」 を明確 に把握 して言葉で表現で きるの に対 し て,コ
ー ヴィックは未だそ こに至れ ない ことで ある。言 ってみれば このギャップを埋めるプロセス こそ,陰
の主人公で あ るコー ヴィックが くぐり抜 けね ばな らない魂 の試練 だ ったのである。 第三章全体 が,自
己の作品 に潜在す る「肝心 な点」 について説 明す るヴェレカー と「私」 との会 話で成 り立 ってい る。 ヴェレカーの言葉 を要約す る と,そ
の「肝心 な点」 とは次 の ようなもので あ る。す なわち,芸
術の炎が最 も激 し く燃 えさか る情熱 の心髄 であ り,そ
れ無 しには作家が作 品 を書 き続 けることので きない もので ある。 自分の全ての作品 に念入 りに生か されてお り,そ
れ に比べれ ば,他
の要素 はみ な作 品の表層 をいたず らに戯れ るものに過 ぎない。 しか もそのほんの片鱗で も捕 らえた人 には,
日の前 にある物体 を見 るの と同 じ くらいはっき りと見 えて来 るものである。彼 自身, それ を秘密 に しよ うとい う意図な ど全 くな く,読
者 に対 して大声で訴 えるような気持 ちで,常
に作 品中の一字一旬 に至 るまでそれ を行 き渡 らせているつ も りだ と言 う。``My whole lucid effort gives hiln the clue― ― every page and line and letter. The thing's as
concrete there as a bird in a cage, a bait on a hook, a piece of cheese in a mousetrap. It's stuck into every volume as your foot is stuck into your shoe. It governs every line, it chooses every
真珠 をつ な ぐ糸 215
vord,it dots every i,it places every comma."(p.233)
この時の二人の会話 は
,私
達読者 に とって もヴェ レカーの芸術観 を本人 か ら直接 聞 き取 る唯― の 貴重 な機会で あるが,同
時 に,物
語 の究極 の表層 に位置す る「私」 と究極 の深 層 に位置す るヴェレ カー との芸術観の対峙場面 にな ってお り,そ
の極端 なずれが極 めて アイ ロニ カル な効果 を生んでい る。誰 に も話 した ことのない 自己の文学 の心髄 に触れ る話 を,ふ
とした きっか けか ら初対面 の若 い 批評家 に話 し始 めた ヴェ レカーが,相
手 の反応 のあま りの未熟 さに,徐
々に後悔 の気持 ちを強 め, その場 を逃れ ようとす る様子が読 み取れ る。 「私」 の反応 に対す るヴェレカーの対応 を追 ってみ ると,ま
ず 「ち ょっ とした肝心 な点」 が欠 け てい るとい うヴェレカーに対 して,「私」 はそれ は どん なもの なのか赦 えて欲 しい,そ
れ を見つ け るための「手助 け」 をして欲 しい とあま りにも素朴 に求 るが,そ
れ こそ批評家 の仕事ではないか と 指摘 して「私」 を赤面 させて い る。 そ して,そ
れ はある種 の 「秘伝 の メッセー ジ」 なのか(“Is it akind of esoteric message?")と 「私」 が尋ね た とき
,ヴ
ェ レカーは明か な失 望 を示 して別 れ の握 手 を求 めつつ,そ
の よ うな「安 っぽ い新 聞用語」 で は表 せ ない もの なのだ(“it can't be described in cheap journalese t")と諭 すので あ る。 しか し「私」 は さらに作家 を引 き留 め,「 それ で は も し秘 密 が発見で きて記事 にす るときも,そ
うした表現 は避 けるように しよう」 と答 える。 これ は,コ
ー ヴ ィックに「幼稚 な」表現 だ と批判 され た安易 な評価 の言葉 を,半
ば意識的 に避 けた ことに よって, 自分 は「幼稚 な」域 を越 えた と短絡的 に考 えた先 のエ ピツー ドとあま りに も似 てい る。そ して さら に「手がか り」 を荻 えて欲 しい と求 め るので,ヴ
ェレカーは先の引用 の とお り自分 の作品 は一宇一 句に至 るまで全て 「手がか り」 だ と対応 す るが,そ
れではあま りに漠然 として い る と考 えた 「私」 は,い
くつかの選択肢 を設 けて問い直すのであ る。つ ま り「文体」・「思想」。「形式」'「感情」 の何れに属す るものか(“Is it something in the style or something in the thought?An element of form or
an element of feeLng?"(p.233))と い う聞 いで あ るが
,こ
れ に対 して ヴェレカーは ほ とん ど友 れ み と言 って もいい感情 を込めて,「も う気 に しないで休 み なさい」 と声 をか けて い る。紛れ もな く, 彼はこの ような未熟 な批評家 を相手 に 自己の文学 の精髄 ともい うべ き点 を吐露 しようとした ことを 後悔 してい るので あ る。 しか し彼 がため らいが ちに言 う次 の比喩 は極 めて示 唆的 な もので あ り, 「私」 に対す る最後の ヒン トであ った と言 えるだろ う。彼 によれ ば,肝
心 な点 とは人 の「′い臓」 の ようなもので あ り,「形式」 に属す るもので も「感情」 に属す るもので もな く,あ
る種 の「生命体」(`he organ Oflre')なのだ と言 う。 しか し
,こ
れ に対 して も「私」 は正 し く理解す るこ とがで きず全 く的 はずれ な反応 を して しま うのだ。すなわち
,そ
れ は「生命観」 とか「哲学」 の ようなものなのか
,そ
れ とも「文体」や 「言葉」 を使 った遊 び,例
えばPの
文字 を多用 して み る とい った ようなこ となの か (“I see―― it's some idea αbο
“′
game you're up to with your style, something you're after in the language. Perhaps it's a preference for the letter P I Papa,potatoes,prunes― that sort of thing?"(p.234))と 尋 ね るので あ る。 ここに
至 っては寛大 な ヴェ レカーもうん ざ りした表情 に変わ って しまい
,た
だ「Pは
はずれ だな」 と答 えてい る。 もはや「私」 に理解 され ることな ど期待 もしていないことは明かで ある。 この会話中
,ヴ
ェレカーの表情が明 る くなるのは「私」が問題 の点 を「埋め られた秘宝」 にた とえた瞬間だけであ
る。別れ際
,途
方 に くれ た表情で 自分 を見送 る「私」 を振 り返 り,ヴ
ェレカーは不 出来 な息子 を気遣 う「父親 の よ うな」調子 で 「秘 宝」探 しを諦 め るよ う忠告 して い る。 (,中he turned and caught
sight Of my puzzled face, It made hiln earnestly, indeed l thought quite anxlously, shake his head and
wave his finger.“ Give it up――g e it up!" This wasn't a challenge― 一it was fatherly ad ce.(p.235))
この二人のや り取 りを辿 って行 くと
,
ヴェレカーの言 う「肝心 な点」 とは作品の表層の戯れ とは 違 う作家 の情熱 の核 の ようなもので あ り,分
類 に馴染 まない一種 の「生命体」 とも言 うべ きもので あるのに対 して,「私」 の思 い描 くその秘密 は,あ
くまで も作 品の表層 に表れ,一
言 で説 明の可能 な極 めて単純 な 目先 の トリックの ようなものである。 この ような発想で向か う限 り,「私」 が問題 の点 に到達で きる可能性 は極 めて薄 い と言わざるを得 ないだろ う。 ヴェレカーの後悔 は,後
日「私」 の元 に届 け られ る手紙 とその後の彼の対応 に表れている。手紙 の内容 は,無
思慮 にも誰 にも語 った ことない秘密 を打 ち明けたことによって 「私」 に重荷 を負わせ て しまった ことと,実
は自分 の秘訣 を人手 には渡 した くない ことが書かれてお り,誰
にも決 して他 言 しないで欲 しい と懇願 す るものだ った。その時すで にコー ヴィックに打 ち明けて しまって いた 「私」 は慌 てて ヴェレカーを訪ね詫 びを入れ るが,意
外 にも彼 は動揺 を示 さず無 関心 な様子で ある。 それ どころか,コ
ー ヴィックが頭の切れ るヴェレカーの熱烈 なファンであ り,自
分 の話 に強 い関心 を示 した こと,婚
約者である女性 とその謎 の解 明に熱狂的 に向か っていることを話す と,半
ば期待 を寄せ るかの ような日ぶ りで さえあ る。 しか も再び秘密の解 明は諦めるように忠告 を受 けた「私」 は,ヴ
ェ レカーの真意が理解 で きず彼 は「気分屋」 だ と考 える しか ないのだ った。(.¨I couldn'thelp pronouncing hirn a man of unstable moOds.He had been free with me in a nood,he had repented in a mOOd,and now in a mood he had turned indifferent,This general levity helped me to beheve that, so far as the subject of the tip vent,there wasn't much in it,(p.240))「私」 の当惑 に もかかわ らず
, 私達 は
,ヴ
ェ レカーがただ単 に「私」 を相手 に 自己の心情 をあか らさまに述 べ た こ とを後悔 し , 「私」 の 日か ら秘密の件が表層的なものに歪 め られて他言 され ることを恐れて いたに過 ぎない こと を容易 に理解す るので ある。 さて もう一人の主人公であるコー ヴィックは,こ
の同 じ問題 の点 を どの ように捕 らえるのだ ろ う か。すでに述べた ように,彼
は「私」 とは対象的 に作 品 をよ り本質的 に読み取 ることので きる可能 性 を感 じさせ る人物で あった。「私」か らヴェレカー とのや り取 りを聞か され た コーヴ ィックは,真珠をつなぐ糸
217
激 しい興奮 を示つつ
,も
とも とヴェレカーの作 品には「何か 目には見 えないものが ある」 と感 じていた(`the sense he had had from the first that there was more in Vereker than met the eye.り と言 い,
それ こそ書評で触れて欲 しか った ことだ と言 ってい る。 また もし自分 が予定通 り書評 を書 いていた ら,「この作家 の芸術 の内奥 には明か に未 だ分 か って い ない ものが あ る」tthere was e
dendy血
the writer's inmost art something to b9 understood.'(p.237))と 書 いて お きたか った とも言 う。 さ らに
,か
つてか らこの作家 には「言葉 に し難 いほのか な気配」や,「秘 か な音楽 の微 か な調 べ」 の ような もの(`vhiffs and hints of he didn't know what,色 int wandering notes of a hidden music'(p.244))
を感 じ取 っていたので あ り
,そ
の彼の魅力 こそ ヴェ レカーの謎 にぴ った り合 うのだ と答 えて い る。まさしく,「私」 の反応 に比 べて
,こ
の表現 は何 とヴェ レカーの言葉 に近 い もので あろ うか。彼 自身言 ってい るよ うに
,コ
ー ヴィックはまだ問題 の正体 をつかんではいないがその「尻尾」 を捕 らえてお り
,そ
れ を手 がか りに必 ず本質 を引 き出すで あ ろ う可能性 を秘 めて い る と言 え る。(He had hold of the tai1 0f somethins he would pun hard,pull it right out,は 237))コー ヴィックは恋人の グウェン ドレンとともに
,か
つて「私」が したの と同 じように作品の再読 にと りかか る。ただ し彼 は「私」の場合 と違 い,
じっ くりと仲陸 ま じ く,希
望 を持 って楽 しみつつ, 古典で も読 む ように一 ペー ジーページゆ っ くりと「吸 い込 み」,絶
えず作家 を 自分 の内 に「染 み込 ませ る」 ように読んで行 く。彼 にふ さわ しい読 み方 だ と言 えるだ ろ う。 そ して確かに ヴェ レカーが ほのめか した ように,恋
人の存在 は彼 の忍耐力の助 けになったのか もしれ ない。 しか しそれ が グウ ェン ドレンとい う特定の女性 で あった ことに意味が あ ったはずで ある。す なわ ち,彼
女 は 『深 き 底 にて』(“Deep Down")とい う小説の作者で あ り,こ
の作品 を再読 した 「私」 は次 の よ うに言 って いる。'
I got hold of“Deep Down''again: it was a desert in which she had lost herself, but in which too
she had dug a wonderful hole in the sand― ――a cavity out of which COrvick had still lnore remarkably
pdにd her,い。250) グウェン ドレンはこの作品の中で,「自分 自身が迷 い込んだ砂漠」の中に彼女な りの「素晴 らし い穴」を掘 っていると言 う。このことは彼女がすでに自分の人生の意味を孤独に突 き詰めた経験の ある女性であることを意味 している。すなわち自己の人生の「深 き底」を知る人であることを
,
こ のタイ トルは象徴 していると言えるだろう。そしてそれを認め,こ
の作品を書評で高 く評価す るこ とによって,彼
女 をその孤独な「穴」か ら引き上 げてや ったのが コーヴィックだったのである。 グ ウェン ドレンが,コ
ーヴィックの恋人 として,ま
た彼が ヴェレカーの作品の「深 き底」に潜行 しよ うとする際の同志 として,そ
して後には人生の伴侶 として,ふ
さわ しい女性であったことは間違 いない と言 える。 しか し
,コ
ー ヴィックがその後迷い込 む ことになる「砂漠」 と,そ
こに彼 が堀 るこ とになる「穴」 は,彼
女の想像 をはるか に越 えるものだ ったので ある。 恋人同志額 を寄 せ合 うように作 品を読んだ一時期 を過 ぎ,や
がて コー ヴィックは義兄の勤務 す る 地方新聞社の特派員 とい う立場で,単
身 イン ドヘ旅立つ ことになる。高 尚な文芸趣味 をきっば り捨 て,通
俗 向きの読物 を書 くことに徹 しようとす る彼 の変 わ りようを,「私」 は反対 されて いるグウ ェン ドレンとの結婚 を成立 させ るための財産作 りと理解す るが,半
年後,グ
ウェン ドレン宛 に彼 が ヴェレカーの秘密 をついに発見 した との電報が入 り,彼
女 の 日か ら,こ
の旅 の意味が初 めて「私」 に明か され るのであ る。“IIe hasn't gone into it,I know; it's the thing itself, let severely alone for six mOnths, that has
simply sprung o!t at him like a tigress out on the jungle.He didn't take a bOOk with him
―
On
purpose; indeed he wOuldn't have needed to――he knows every page, as l do, by heart, They an worked in hiin tOgether,and some day somewhere, when he wasn't thinking, they fen, in aH their superb intricacy, into the one right combination.The figure in the carpet came out.That's the way he knew it wOuld cOme and the real reasOn――you didn't in the least understand, but l suppose I may ten you now__why he Vent and why l cOnsented to his gOingo We knew the change wOuld dO
it―that the difference of thought,of scene,would g e the needed touch,the magic shake,We had perfectly,we had ad■ lirably calculated.The elements vere an in his ilind,and in the s9cοttSSゼ of a new and intense experience they just struck light."(pp.251-2)
グウェン ドレンの言葉か ら
,私
達 はコー ヴ ィックの行動 が計算 に基 づ いた,
しか し同時 に一 種 の捨身の賭 で あった ことを知 る。 グウェン ドレン自身,こ
の旅行 の意 図 を充分 に理解 した上 で, コー ヴィックを送 り出 していた ことが読 み取れ るが,あ
くまで も彼女 はそれ を見守 る立 場 に徹 したので あ り,自
らこの賭 に身 を投 じることはなか った。作品を「吸 い込 む」 ように,作
家 を 自 己の内に「染 み込 ませ る」 ように読 んで来 た二 人 は,も
うすで に作 品全 て を「暗記 して いた」 と言 う。 いわば対象 を 自分 の一部 として直接感 じるこ とがで きる域 に達 していた と考 えて いい だろ う。彼 女 と共 に根気 よ く作 品の 「深 き底」 へ と潜行 して行 った コー ヴィックは,や
が て, さ らに深 い底 へ と掘 り進 め ようとす るに至 る。つ ま り,最
大 の理 解 者 で あ るグ ウェ ン ドレンの 元 を離れ,そ
れ どころか イギ リス,い
や 西洋 の地 さ え離 れ て,未
知 の土 地 で あ る東 洋 の 国 に敢 えて孤独 な ままに身 を置 くこ とを選ぶのである。そ して,こ
うした徹底的 な刺激 の変化 に晒 され るこ とに よって初 めて,彼
の中に蓄積 され た ものが,一
つ の総体 とな って彼の魂 に作用 したので ある。真珠をつな ぐ糸 219 そ して
,旅
の真意 を知 った私達 には,旅
に出 る前 にコー ヴィックが言 った グウェン ドレンとは 「婚約 を していない」 とい う言葉が,グ
ウェン ドレンの「婚約 してい る」 とい う言葉 と食 い違 いを みせてい ることも,納
得 が行 くのである。 イ ン ドヘ旅立 とうとす る彼 は,婚
約 ・結婚 はもちろん, 自己の信 じる文芸の仕事す ら捨て,さ
らに自国 さえ捨てて,あ
くまで も択独 に,全
く異 なる価値観 の中に身 を投 じようとい う覚悟 を固めていたので はないか。だか らこそ,秘
密 の発見後旅 か ら帰 っ た彼 は,そ
の 日に改 めて婚約 の し直 しをす るので ある。 これか ら自分が身 を投 じようとす る深 き, さらに深 き底 をのぞ き込 む彼 の 日付 きが,「私」か ら見て「浮 かぬ顔」 と映 ったの も不思議 はない。 また急 に言葉少 なにな り,秘
密 の ことを全 く日に しな くなるの も自然で あろ う。 深 き,深
き底へ と掘 り進 ん だ コー ヴィックが見 出 した ものは何 であ ったのか。 ヴェレカーに会い 意気統合 した彼が興奮 して伝 える ところによれ ば,発
見 され た 「秘宝」 は 「全 て資金 と宝石」で あ り「眩 しいばか りに光彩 を放 っている」 と言 う。そ して発見 した とたん に「目の前でみ るみ る増 え て行 く」 ようだ とも言 う (p.256)が,ま
るで 目の前 に見てい るかの よ うな日が りにもかかわ らず, 彼の言葉 にはやは り「秘宝」 の内容 を説 明す るものは何 もないので あ る。 しか し,対
象であった作 品を全て 自己の内部 に「吸収」 し自己の一部 として 「生 き」た彼が,不
可解 さの極限 に直面 して捨 身で得 た もの とは,芸
術 と人生 の真実の融合で あ り,そ
れが隅 々まで張 り詰 めた ヴェ レカーの作品 の,新
たな意味の発見 に他 な らなか った と私達 は確信す る。それ以上の説 明は,物
語の本 当の結末 を待たなけれ ばな らないだ ろ う。 ともか く,こ
うして コー ヴィックは孤独 な魂 の試練 を くぐり抜 け, ヴェレカーの待つ作品の深層 につ いに到達 したのである。 イギ リスで秘密の内容 を知 らせ る手紙 を待つ グウェン ドレンと「私」 に対 し,コ
ー ヴィックは, 結婚 してか らで なけれ ば言 えない とか,新
しい批評書がで きあが るまで待 って欲 しいな ど様 々な理 由をつ けて報告 を先送 りに してい く。未 だ作 品の表層 に とどま り,一
言で説 明で きるような安易 な 秘密の暴露 を待 ってい る「私」 はもちろん,現
時点で は彼の至 った深 み には とうてい及 ばない グウ ェン ドレンに対 して も,彼
の発見 はあま りにもか け離れていて手紙で伝 え られ るよ うな ものではな か った ことは明 らかで ある。 グウェン ドレンには,結
婚 に象徴 され る二人の人生の融合 を通 して, 無形の メッセージを送 ろ うと考 え,彼
女 にはそれ を理解す る潜在力が あ ると信 じた。一方,限
界が あるとして も,仕
事仲間で ある「私」 にはあ くまで も仕事 を通 してそれ を伝 えて行 こうとす るのは コー ヴイックの誠意の表れ と考 えるべ きであろう。 ドイツか ら「私」が帰 って来た時 には,グ
ウェン ドレンは既 に未亡人 になっている。そ して「私」 の 目に も明 らかな変化 が表れ てい る。今 まで以上 に円熟 した美 しさと深い品位 を感 じさせ ると同時 に,そ
れ まで共 に秘密 の報告 に一喜一憂 して きた 「私」 に対 して,突
き放 す ような よそ よそ しさを 示 して いる。 これ は彼女 の冷酷 さとか,「私」 が考 えるように「気の高ぶ りか,心
の迷 いの遼巡か,refinement of 10yalty'(p.265))で はな く
,コ
ー ヴィックが伝 えた無形の メッセージの重 さに圧倒 され
,そ
の魂の財産 を大切 に育んで行 こ うとす る彼女の決意 と,「私」 と共 に安易 な報告 を待 っていた 自分 の浅 はか さに対す る後悔の表れ と考 えられ る。 この ことは彼女の第二作 目の小説『圧倒 され て』t`Overmastered")の タイ トル にも明 らか に表れている。 この作品を読んだ「私」 は
,一
作 目よりもはるかに出来が良 い としなが らも,「それ な りの複雑 な模様 を持つ繊毯 ではあるが
,自
分 の求め る模様 で はなか った」 (`As a dssue tolerably intricate it was a carpet with a figure Of■ s own;but
the agure was not the figure l was bOHng for。 'い。267))と 言 う。 しか し,「私」 が相変わ らず表層に
現れ る「模様」のみを求めてい る限 り
,こ
の作品 に表れていたであろ う秘 密 の ヒン トは彼の知覚で きるものではなか っただろ う。 こうして グウェン ドレンとも決別す ることによって「私」 は,深
層 へ向けて潜行 して行 く物語の流れか ら,さ
らに置 き去 りにされてい くことにな るので ある。 この こ とは,「私」の視点が徐 々に信憑性 を喪失 してい くこ とを意味 し,そ
の視点 に導 かれ る物 語 その も のが次第 に曖味 さを深 めて行 くことを示 している。 グウェン ドレンの突然 の よそ よそ しさに対 して,「私」 は秘密 を知 りた さに様 々な思 いにふ けっ て行 くが,中
で も心 を離れ ないのは次 の よ うな もので ある。すなわち,「 コー ヴィックが,二
人が 結 ばれて初 めて秘密 を明 らか に した ように,グ
ウェン ドレンもそれ に倣 って,新
たな関係 を結ぶ ま でその秘密 を明かす気が ないので はないか。秘密が,夫
婦か親密 な恋人 同志 で しか伝 え合 えないも のだ とすれば,自
分が秘密 を手 に入れ るためにはグウェン ドレンと結婚す るしかないのではないか」とい うもので あ る。(Corvick had kept his infOrmatiOn from his young friend till aFter the removal of the last barrier to their intinacy― then only had he let the cat Out of the bag, Was it GvendOlen's
idea,taking a hint from hiln,to liberate this anilna1 0nly On the basis of the renewal of such a relation?
Was the figure in the carpet traceable or describable only fOr husbands and wives
― for 10vers supremely united?.中 there was enough to make me wonder if l shOuld have tO marry Mrs.COr ck tO get what l wanted.● .265))し か も,「私」 はそれ を秘密 を入手す るための完全 な「代償」 Cthe priceり と見なしてお り
,グ
ウェン ドレンとの結婚など「考えるだけで気が変にな りそうだ」 とも言 う。 この ことは,ニ
ューマ ン (Benjamin Newman)が 指摘するように「私」が芸術の中の人生のみな らず実人生か らも疎外された存在であったこと,① そ して作品の表層 しか読み取 ることができない の と同じように,機
械的で表面的な人間関係 しか持 ち得ない病的な人物であることを確認 させるも のである。「私」には実人生が欠落 しているか らこそ,彼
は作品の中にみなぎる人生 を感 じること か ら疎外 されている。 ミラー(J.H■ lis Miller)が言 うような性的な不能だけでな く,⑥ 「私」の人生 の不能 さを象徴的に感 じさせる場面である。 当然のことなが ら,グ
ウェン ドレンと「私」 との再婚は有 り得ない。彼女が新 しい伴侶 として選 ぶのはコーヴィックの批評家仲間の一人である ドレイ トン・ディーン(Drayton Deane)であ り,彼
真珠 をつな ぐ糸 221
女が彼 を選んだわけと秘密を彼に伝達 したか どうかが
,私
達 を悩 ませる最後の謎である。 しかし,これに関 しても
,書
物のタイ トルがあるヒン トを与 えて くれ る。つま り,ヴ
ェレカーの最新作『通 行権』t`The Right of Way")を 「私」 より先に入手 し,書
評 にこぎつけたデ ィーンは,文
字通 り,秘密に至 る「通行権」 を手に入れたのではないか。「私」が尋ねた時点でそれに至 っていな切ゝった としても
,彼
にはグウェン ドレンとの生活を通 して得た無形の財産が残 っていたはずである。 グウ ェン ドレンが命 をかけて生み,彼
の元に残 した二人の子供はその象徴である。今後その財産 を大切 に育み,グ
ウェン ドレンが言葉にならないままに残 して行 った メッセージを自力で発見す る潜在性 を,彼
は無限に (命ある限 り)秘
めていると言えるだろう。そ して,そ
の能力を認めたか らこそ, グウェン ドレンは彼を秘密の伝承者 として選んだのではないだろうか。もう一つ考えられ るのは, コーヴィックの発見 した秘密が,継
承 され る過程で一般化 されて行 ったという可能性である。すな わち,グ
ウェン ドレンか らデ ィーンヘの秘密の伝達が,も
はや ヴェレカーの謎 とい う個別の形では な く,全
ての芸術活動に共通する真実 とい う,よ
り普遍的な形で潜行 して行 った可能性が考 えられ る。そ うだ とすれば,「私」か らヴェレカーの秘密 に関す る「情報」(FinfOrmaion')と い う軽率 な 聞き方 をされた ときに,デ
ィーンが思い当たらないのはやむを得ないことだったのかもしれ ない。 グウェン ドレンが コーヴィックか ら受け取 った秘密 を,自
分一人の心の中に秘めたまま,永
遠 に鍵 をかけて しまった とする解釈は,デ
ィーンの存在の意味 と,物
語の整合性を希薄にして しま う。デ ィーンが 自覚 しているか否かは別 として,グ
ウェン ドレンがなん らかの無形のメッセージを伝 えた ことは確実であろう。一方,デ
ィーンに至 って,物
語はいよいよ不確かなものになって行 くと言わ ざるを得 ない。真相 を見極めようとする「私」の視点は,限
りな く不透明に近づいて行 くのである。 「人形」 と「騎士」 さて,冒
頭 に述べた ように,こ
うして物語の流れ を辿 って行 くとき私達が常 に意識 して い るのは, 「私」が傍観者 として辿 って行 く物語の表層の「糸」 と,そ
れ を通 して私達が認識 して行 く真相で ある物語の深層の「糸」が,絡
ま りつつ同時 に進行 して行 くことで ある。表層の「糸」 とは,一
歩 も踏み込 む ことな くあ くまで も物語の表層 に留 まる (すなわち,物
語の本質 に一度 も自ら関 わ るこ とな く外か ら内を観察 して行 く)「私」が,重
層的 に展 開 して行 く物語 の流れ をあ くまで平面 的 に 捕 らえて行 く過程 を意味 している。一方深膚の 「糸」 とは,「私」 の観察 を よそに,
ヴェ レカーか らコー ヴ ィックヘ,さ
らにグウェン ドレンヘ,そ
しておそ らくデ ィーンヘ と,微
妙 に,
しか し着実 に伝 え られて行 く作家の深 い意図の伝承過程 を意味 して い る。物語 の冒頭,「私」 とコー ヴ ィック はその潜在す る可能性 に差 は認 め られ るものの,共
に未熟 な批評家であ り,意
識 の上で比較 的近 い 位置 にい る。 しか し,そ
の後 コー ヴィックは作家の秘密 を追 って荒涼 とした魂の 「砂漠」 に迷 い込み
,そ
こに自分 な りの「深 き底」 を見出そ うと「穴」 を堀 り進 めて行 く。物語の中で,コ
ー ヴィッ クが大 き く成長 し,表
層か ら深層へ と座標 を急速 に移動 して行 くことを私達 は読み取 って行 くわ け だが,一
方 「私」 は物語の始 めか ら終 わ りまで全 く成長す ることな く,同
じ平面 (座標0)に
留 ま り続 けるので ある。そ してそのために,物
語が進 行 す るにつれ て,「私」 は他 の登場人物 達 の意識 か ら徐 々に置 き去 りにされて行 くことになる。他の登場人物達の度重なる死は,あ
る意味では「杓 が物語の深層へ至 るための梯子 を,一
つ一つ外 されて行 ったことの象徴でもあるだろ う。 しか し物 語 はその「私」 の視点か ら語 られ るわけで あ り,そ
こに私達読者の ジレンマがある。 メイジーが, 物語の進行 とともに大人達 の真相 に近づ き,あ
るいはそれ を越 えて しま うの に対 して,「 私」 は, 物語の進行 とともに他の登場人物達の真相か ら確実 に遠 ざか って行 くのである。そ して表層の「糸」 と深層の「糸」 の距離が広が るにつれて,当
然 の ことなが ら,私
達 に とって も物語 は曖味性 と解読 不可能性 を高 めてい く。⑥ す なわち,二
つの「糸」 の よ り合わせは困難 なものになって行 くのであ る。徐 々に先細 りになって行 く深層の 「糸」 を,私
達 は「私」 の曇 った眼鏡越 しに辛 うじて辿 りお おせた と信 じるに過 ぎない。 表層の「糸」 と深層の 「糸」のギ ャップは,私
達 の ジレンマを誘 うだけで な く「私」 とい う視点 の人物 に対す る強 いアイ ロニーを生んでい る。冒頭 に述べた ように,物
語全体 に「私」 を嘲笑 す る コ ミカル な トーンが流れ続 けるのはこの表れである。 しか し,物
語の奥行 きが意味す る人生 に一歩 も踏み込 む ことな く,物
語がいか に進展 して行 こ うとも一 向に変化 も成長 もしない この人物 は,徐
々に非現実的な,む
しろ非人間的 なニ ュア ンスを帯 びて来 ると言 わざるを得 ない。「私」 はいわば パペ ッ トとして この物語の役割 を果た しているのではないか とい う思いが,私
達 の心 を徐 々に占領 して行 くので ある。 この思 い を裏付 けるような記述が,ジ
ェイムズの ある評論の中 に見 られ る。1891年3月の『 ニ ュ ー・ レヴュー』誌(Nゼp R9υ√ゼ切)に掲載 され た「批評 の科学」t`The Sdence of C 缶cねm")と題 す る 評論で ある。の この中で彼 は,文
芸批評 とい うものが イギ リスにおいて異常 なまで に氾濫 して い る ことを述 べ,
しか し数 は どん なに豊富で あろ うとその質 は極 めてお粗末 なもので あることを嘆 いて い る。作 品 に忠実 な実証的議論は少 な く,単
に主義主張 だけがむやみ と饒舌 に宙 に浮 くよ うに語 ら れているに過 ぎない と指摘す る。そ して この現実は,ジ
ャーナ リズムの現状が「書評」 とい う「批 評の技術 とは無関係 の慣習」 を生み出 したために起 こったものであると述べるのである。 この ジャ ーナ リズムの現状を,彼
は時間が来れば発車す る「定期列車」 にた とえて次のように説 明 している。It is hke a regular train which starts at an advertised hour, but which is free to start only if
every seat be occupied. The seats are many, the train is ponderOusly long, and hence the
真珠 をつな ぐ糸 223
is thrust into the empty seat,where it rnakes a creditable figure tili the end of the journey.It lookS
sufficiently like a pasSenger,and you know it is not one only when you perceive that it neither says
anything nor gets out.The guard attends to it when the train is shunted,blows the cinders from its wooden face and gives a different crook to its elbow,so that it may serve for another run,In this way,in a、ven―conducted periodical,the blocks of rゼ ηゅ,,sSαgι are the dunlmies of criticism.… .C8)
ここで ジェイムズは,「定期列 車」 の よ うに発車時間 をコン トロール され た ジャーナ リズムの世
界で は
,そ
の空席 を埋 め る乗客代 わ りの「人形」(`dummies'or Fa Stured manniHnり として,当
然 の ように「書評」 とい う怪 し気 な存在が幅 をきかせてい ることを指摘 してい る。中身の空虚 な「人 形」 は「何 も言わない」 し「何の行動 も取 らない」 が,「十分乗客 の ように見 える」 ので あ り,終
点に着 けば「顔 にかか ったすす を払 い,肘
を違 ったポーズに曲げ直 して」やれ ば,何
食 わぬ顔 を し て同 じ「人形」が また次の旅 の乗客 にな りす ます ことがで きるのだ と言 う。 この「何 も言わない」 (言えない)し
「何 の行動 も取 らない」(取れ ない)「人形」 とは,ま
さ し く中心 にあ るべ き人生 が 欠 けた書評家である「私」 の像 その もので はないだろ うか。「人形」 で あ る「私」 は成長 もしなけ れば変化 も受 け入れ ない。 ヴェレカーの謎 が不可解 なままに一段落 して しまえば,ま
た次 の対象ヘ と何食 わぬ顔 を して向か うであろ うことは容易 に想像で きる。 一方 ジェイムズは,理
想的 な批評 とは「深 い源泉」 と「経験 と認識 の見事 な結 び付 き」か ら生 ま れ るものであ り,こ
うした批評の書 ける批評家 は,芸
術家の良 き「援助者」,「先導者」,「解釈者」, 「兄弟」 となるとして,そ
の像 を次 の ように描 いてい る。中●When one considers the noble figure completely equipped―一armed ctrp―ヵ―♪抱 in curiosity and
sympathy― one falis in love with the apparition. It certainly represents the knight who has knelt through his long vigil and who has the piety of his office.For there is something sacrificial in his
functiOn,inasmich as he offers himself as a ttneral touchstone.To lend himself,to project himself and steep hinself, to feel and feel till he understands,and to understand so wen that he can say, to have perception at the pitch of passion and expression as embracing as the air, to be infinitely curious and incorrigibly patient, and yet plastic and inflaHllnable and deterHlinable, stooping tO
conquer and serving to direct.… 。③
ここで理想的な批評家 は,「好奇心 と共感」 とで全身 くまな く武装 した高貴で忠 実 な「騎士」 の
姿にた とえ られてい る。彼 は「騎士」の ように 自己犠牲的 に自らを投 げ出 し
,情
熱 を燃や し,徹
底重 の意味で人生 と結 び付 いて い る」 ことを指摘す るのである。なぜな ら
,彼
は「直接,間
接 に人生 を扱 う」,す
なわち「まず他人 の経験 を扱 い,そ
れ を自分 の経験 に組入れ る」(`he de』s wtth Hfe at second―hand as ven as at first, that is,he deals with the experience of others,which he resolves into Ms Own,ぃつ⑩ か らであると言 う。これはコーヴィックが,捨
身で ヴェレカーの作品の解 明に向か った姿勢 と一致 していると言えないだろうか。 このように私達は,「私」 とコーヴィックが,「人形」の ように卑俗 な悪 しき批評家 と,「騎士」 のように英雄的な理想の批評家を,各
々代表する人物であることを確認することがで きる。同時代 の批評に対する不満はジェイムズの「序文」(`Preface')の中にも触れ られてお り,感
受性の床痺 し た無神経な世間の中で,真
摯な芸術家が意図 した意味をほとん ど理解 され ないままに放置される孤 独を嘆いている。秘密を発見 したコーヴィックが,そ
の秘密が今 まで見逃 されて来たのは「万人が 鑑識眼 を失 って堕落 し,あ
らゆ る感受性 が枯渇 し果てた現代の,底
知れ ぬ俗悪 さ」 (`the bOt― toHlless vulgarity of the age,vith every one tasteless and tainted,every sense stopped'(pp.256-7))のせいだ と言 うのはその表れで ある。そ して ヴェ レカーが,「私」 だけで な く誰 にも彼の秘密 は未 だ 発見で きていない (pp.226-7)と し
,今
後 も無理 だ ろ う (p.232)と 言 ってい ることか らも分 か る ように,「人形」 の ような批評家 は無数 に存在す るが,「騎士」 の ような理想的 な批評家 はあま りに 稀で ある。「序文」 の中で ジェイムズが,コ
ー ヴィックに「敢 えて成熟 した知性 を与 えた」(傍点筆 者)と
述べているのはそれ を裏付 けてい る。 しか し,だ
か らこそ ジェイムズは芸術家の多大 な努力 と挫折 した計算の陰で培 われ るで あろう「あの稀にみる美 しさの,あ
るいは風変 りで魅力的な要素」(`those rare and beauttful,or at all events Odd and attaching,elements'(p.xvi))に 無 関心 で はい られ
なか った と告 白 している。す なわち
,そ
の数少 ない貴重 な「要素」 こそ芸術家の意図であ り,ヴ
ェ レカーの秘密 はそれ を象徴す るものだったのではないだろうか。以上 の ような意味 において,彼
ら の物語が一つのア レゴ リーであった ことは明白である。 さて再び ジェイムズの評論 にか えって この三者の関係 を探 ると,行
き当 りば った りの書評 と素晴 らしい ジャーナ リズムの組織 が一つ になって「卑俗 さと粗雑 さと愚か さ」 を世間にまき散 らしてい ることについて,次
の ように述べてい る。The bewildered spirit may ask itself.中 What is the function in the life of lnan of such a periodicity
of platitude and irrelevance?Such a spirit will wonder how the life of inan survives it,and, above al,what is much more important,how literature resists it, whether, indeed, Lterature does resist it and is not speedily going down beneath it. The signs of this catastrophe will not in the case we
真珠をつなぐ糸
225
つ ま り
,真
の芸術家 に とってその卑俗 さは,「人生」 を,そ
して とりわ け「文学」 の存在 を危 う くさせ,「破局」 に至 らせ る可能性の あるものだ と映 るので ある。 さらに,
The case is therefore one for recognizing vith dismay.中 that the multiphcation of endowrnents for chatter may be as fatal as an infectious disease; that hterature hves essentiaHy, in the sacred depths of its being, upon example, upon perfection wrought; that, like other sensitive organisms, it is highly susceptible of demorahzation, and that nothing is better calculated than irresponsible pedagogy to make it close its ears and lips, To be puerile and untutored about it is to deprive it
of air and light,and the consequence of its keeping bad cOmpany is that it loses an heart.Qの
と述べて
,愚
劣 な批評 の蔓延 は「伝染病」 の ように「命取 り」 になる可能性が あ り,完
壁 な作 品だ けを糧 に言 わば純粋培養 され た文 学 は「敏 感 な生命体」 の よ うに傷 つ き易 く,「秩 序 の錯 乱」 や 「無責任 な教育」,「
文学 に対す る幼稚 な理解 と無知」 に よって容易 に感覚 を失 い,命
を も落 とす と警告 してい る。 これ に対 して フランスに見 られ るような理想的 な批評 は,「最 も困難 で,最
も微 妙で,最
も稀 な芸術の一つ」 と見 なされ,芸
術 の場合 と同様 に「最 も生 き生 きとした経験か らのみ 生 まれ 出 る」 もので あると言 う。「人形」 の よ うに うわべだ けの表情 しか持 たず,物
語 中絶 えずそ の浅薄 さを嘲笑 されて きた「私」 が,実
はその 「無知」 と「幼稚 さ」 ゆえに真 の芸術家や理想的 な 批評家の命 を次 々と奪 って きた とすれば,こ
の物語全体 の コ ミカル な トーンは極 めて不 気味 に響 き 始め ると言わざるを得 ない。登場人物達 の異常 なまで に度重 なる死 は,こ
の批評界 の無理解 にさら され る芸術の苦 しみ を,象
徴的 に表現 していたのではないだろ うか。 以上 の指摘か ら,
ヴェレカー と「私」 とコー ヴィック及び他 の登場人物達 の関係 の図式 は既 に明 らかで はないか。す なわち,ヴ
ェレカーに代表 され る真 の芸術家 とその秘 めた る財宝 が,「私」 に 代表 され る大多数の「人形」の ような愚劣 な批評家 と,コ
ーヴィックに代表 され る稀 に見 る「騎士」 の ような理想 の批評家 によって追求 され る。熱 し易 く冷 め易い「人形」 はやがて骨 の折れ る追求 を 投 げ出 して しまい,自
己犠牲的 に身 を捧 げる「騎士」の働 きを通俗 な,
しか し圧倒的 な好奇心 を持 って傍観 してい る。やがて「騎士」 が 目的 を達 した と聞 き,自
ら手 を染 めることな く安易 にそれ を 手 に入れ ようとす るが,「騎士」 は命 をか けて手 にいれ た財宝 の あ りか を簡単 には「人形」 に教 え ようとは しない。「騎士」の望むのは財宝の価値 の分 か る数少 ない仲間 を増やす こ とで あ り,そ
れ によって財宝 の価値 を継承 して行 くことで ある。一方 「人形」 の俗悪 な好奇心 に満 ちた視線 は強 い 毒性 を放 ち,免
疫 のない「騎士」 とその同志達,ま
た当の芸術家 までが,そ
の視線 を浴 び続 けるこ とによって次 々と命 を絶 ってい く。仲間 を失 い先細 りにな って い く不安 の中で,「騎 士」 の後継者 達 はか ろ うじて財宝の価値 を継承 し続 けて行 く....
このア レゴ リカル な関係の図式が伝 えるメッセージは
,ジ
ャーナ リズムを後 ろ楯 に ます ます感受 性 を鈍 らせ,通
俗化 してい く批評界及 びそれ に先導 され る世 間の中で,死
に絶 える寸前 にまで至 っ てい る純粋 な芸術活動 の喘 ぎであ り,同
時 に,だ
か らこそ一層それ を大切 に守 り,継
承 して行 こう とす る真摯 な芸術家の情熱で ある。物語 を読み進 むにつれて私達のなかに高 まって行 く解読不可能 性 に対す る苛立 ちは,そ
のまま真の理解か ら見放 された瀕死 の芸術の痛みで ある。そ して また解読 を不可能 に してい る視点人物 に対す る私達 の嘲笑 は,鈍
感で無知で浅薄であるために,無
自覚の う ちに芸術 を死滅 させかね ない世間の不気味 な力 に対す る恐怖の裏返 しである。その恐 ろ しいまでに 無知 な世 間 を,
ジェイムズは敢 えて視点人物 に据 えることによって,戯
画化 してみせ よ うとしたの ではないだろ うか。物語の関係の図式 を読み取 った とき,私
達読者の内に生 じ続 けて来た様 々な緊 張感 の意味が ようや く解 き明か されて行 くので ある。 さて,こ
うして私達 が物語の登場人物達 の関係 の真の 「糸」 を捜 し当てた今,遡
って,そ
の相似 形で あるヴェレカーの作品の真の 「糸」 とは何 で あったのか,改
めて考 えてみたい。 そのためには 前述 した ヴェレカー 自身の言葉 を思 い出 してみ るだけで十分 で ある。彼の言 う「肝心 な点」 とは, 「芸術の炎が最 も激 し く燃 えさか る情熱 の心髄」 であ り,「それ無 しには作家が作 品 を書 き続 ける ことので きないもの」であった。それ は彼の「全作品中,一
宇一旬 に至 るまで」 くまな く行 き渡 っ てお り,「それ に比べれ ば他の要素 はみ な表層 の戯 れ に過 ぎない」 ものであった。 そ して それ は分 類や分析 に潮‖染 まないある種 の 「生命体」 ともい うべ きもので あったる こうした表現 が その まま私 達が読 み取 った関係 の メッセー ジ,芸
術家が命 をか けて守 り抜 こうとす る真の芸術 の姿 に一致 す る ことは明白で ある。つ ま り,
ヴェレカーの言葉 は,も
ともと秘密 の内容 を最 も端的 に説 明す るもの だ つた と言 えるので はないか。そ して,コ
ー ヴィックが生命 をかけて捜 し当てた ものは,既
にある その言 葉 に 自分 の生 命 を吹 き込 み,そ
れ を 自分 の一部 として実感 し,自
分 の言葉 とす ることだ っ たのではないか。それではそれ を直接聞いた「私」 にその特権が与 えられ なか ったのはなぜか。そ れ は,ヴ
ェレカ‐が言 うように,見
える人 には 目の前 の物体 と同 じくらいはっき りと見 えるが,見
えない人 にはい くら「大声で どなるように」訴 えて も,決
して見 えない ものだか らで あ る。 コー ヴ ィックの魂 の旅 は,
日の前 にア・ プ リオ リに存在す る対象 を;は
っき りと「見 る」 こ とので きる心 の眼 を獲得す るための ものだ ったので ある。それ はコーヴィック自身が言 うように「偉大 に してな お極 めて単純,単
純 に して なお あ ま りに も偉 大」 (“It was great,yet so simple,was simple,yet sogreat●
中
"0●257))な結末である。そしてこの二つの相似形をつなぐ「糸」が
,さ
らに大きな相似形
であるジェイムズの全作品を一貫 して流れる「真珠をつなぐ糸」に
,み
ごとに重なるものであるこ
とは改めて言 うまでもないだろう。
「序文」の中で ジェイムズは こう言 ってい る。物語の中で「何人かの善意の人 々が試練 に挑む」
真珠をつなぐ糸 227
よ うな結 論 に至 るか は, 読 者 に まか さヤ化て い る」 (`The reader is,on the e dence,left to conclude' (p.xvi))と 。「見 え る」 眼 を持 って い るか ,「 見 え ない」 眼 を持 って い るか
,試
され て い るの は私 達 自身 で あ るのか も しれ な い。注
(1) Henry James,“ The Figure in the Carpet",T′ ゼⅣου¢Js αれどTα】¢sοデ打¢,7)Jα
“
¢S(New Yorki Charles Scribner's Sons, 1909)pp.229.以下 ペー ジ数 は本文 中に記す。 日本語訳 は
,桂
田重 利訳 (国書 刊行会)を参考 に させて いただ いた。(2) Henry James,T力 ¢S,cr¢」Fοttηι(New York:Grove Press,1953)p.44
(3)これ に関 して は,拙論 「無知 の知恵 ― 『 メイジーの知 った こと』試論 ― 」,『鳥取大学教養部紀要』第25巻 (平成3年■月)pp.181-98で 触れ た。 (4)Beniamin Newman,S¢ α/c力 批暇 チοrサ 施 Fを,7¢ '■ サル Cαr,¢ ど,■肋 ゼTαJ¢sοデrf¢″r)J,加¢sI R¢ デ,9ct'ο,Sοデ α “ Or」 '打 α″) R¢α」?r(New York:Peter Lang,1987),pp.63-84
(5) J. Hillis Mller, “The Figure in the Carpet", Arο」9″η cr,t,c,, f,ど ゼィクr¢ιαと,ο,sI Dα Fs)Ar,ど,¢″, Tヵゼ T,r, οr ,力 9 Scr¢ω,α″」0どIJ¢r TαJ¢s(New Yorki Chelsea House Publishers,1987),pp.61-74
(6)同
上。Mllerはこの評論 の中で`unreadabihty'に ついて, `ambiguity'と も`perspectivおm'と も異 な るもの と して定義づ け
,独
特 の議論 を展開 してい る。(7) Henry James,“The Science of Criticism",T力¢Cr,,cαJ Ⅲrtts¢is¢J?ct¢J Ljι¢rα″】CrJと,cFs胞 (Penguin Books,1987)毛発 にEssα)sl'Lο,」οηαηJ Els¢励 ゼr9(1893)に収録の際, “Criichm"と 改題。 日本語訳 は,岩元巌訳 (国書刊行会)
を参考 に させていただいた。 (8) rb,ど,,pp.290-1 (9) rb,ど,,p.293 1101 rbFど,,p.294 11り rb,ど.,pp.291-2 11D fb,ど.,p.292