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河井寬次郎の造形思想に関する研究

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Academic year: 2021

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(1)平成19年度 修士課程学位論文. 河井寛次郎の造形思想に関する研究. 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科修士課程 教科・領域教育学専攻 芸術系(美術)コース. MO6264E. 三好 研太.

(2) 河井寛次郎の造形思想に関する研究. 一目次一 1. はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…. 第1章 河井寛次郎の生涯と民藝運動について. 第1節 河井寛次郎の生涯・・・・・・・・・・・・… 第2節 民藝運動との関わり・・・・・・・・・・・…. 3 12. 第2章 河井寛次郎の造形思想と作風の変遷 第1節 中国・朝鮮古陶磁器研究期・・・・・・・・…. 22 28 34. 第2節 二二傾注期・・・・・・・・・・・・・・・… 第3節 民藝超越期・・・・・・・・・・・・・・・…. 第3章 河井寛次郎の作品の特質 第1節 個々の作品の特質・・・・・・・・・・・・…. 40. 第2節 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・… 58 おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…. 62. 引用文献および参考文献・・・・・・・・・・・・・・…. 64.

(3) はじめに 中学校の美術の現状として、経験の不足が言われている。発想力の乏しさ や、思いを形として伝達できない表現力、持続できない集中力などといった 問題が、この経験の不足に起因していると思う。. 私が以前実施した授業アンケートでは、工芸は生徒の経験の不足や一人一 人の経験の差が如実に表れるにもかかわらず、絵画・彫刻・デザインと比べ て好感度が高いという結果が出た。工芸は指導者自身の経験や学校の施設設 備が授業内容に大きく影響する分野だが、授業で道具を使って材料と取っ組 み合うような経験が、制作へのねばり強さと、立体としてものをとらえたり、. 形を何かに見立てたりするような力を育てるのではないかと思い、工芸の授 業の可能性に関心をもつようになった。. 私の陶芸との出会いは、大学1年生の陶芸実習の授業だった。電動ろくろ で一瞬に形が立ち上がる不思議さや寝ずの番の窯炊きを、今も使っているそ. の器を見るたび思い起こす。教員10年目に赴任した中学校で本焼き可能な ガス窯が設置されていたため、授業で陶芸を教えてみようと教材研究をする うちに、自分自身の興味も一層深くなっていった。. 河井寛次郎の陶器を意識し始めたのは、とある雑誌(図1)を偶然書店で見. てからだが、まず、表紙の花瓶の異様な存在感に目 を奪われ、ページをめくるたび現れる、まるで自分 が思い描いていた「私が目指そうとしている造形」 に、すっかり参ってしまった。寛次郎は「民藝運動」. の作家だという程度の知識はあったのだが、「用即 美」が大原則である民藝にあって、雑誌に載ってい た寛次郎の作品は用や機能というものを意に介して いない作品の方が多く、私が魅入られた作品もまた 民藝陶器とは思えないような作品だった。. (図1)雑誌表紙. また、作品もさることながら、寛次郎を紹介する 逸話にも心動かされた。それは、寛次郎が手製の額 縁に入れて大切に飾っていた写真が実は汽車の連結 器を撮した新聞の切り抜き(図2)で、「美しいものは. 無条件で美しいのだ」と、人に聞かれて答えたのだ 聖. そうだ。. 寛次郎の作品を分析することで、「私が目指そう としている造形」がどういうものかを、もっとはっ. 1. (図2) 汽車の連結器の写真.

(4) きりさせたいということと、実際に形として表現していた河井寛次郎なる人 物が、どのようにしてその形をつくるに至ったのかを知りたいと思い、研究 療胎ゼ)浄 』 ノーH 響ノ 「一〇. 社会的背景にも留意しながら、寛次郎本人や友人などによる記録を基に寛 次郎の生涯と作風の変遷を調べ、それぞれの時期による大まかな造形思想を 浮かび上がらせたい。その上で、一つ一つの作品の特質を筆者なりに分析し、. 実際の作品に込められた寛次郎の造形思想がいかなるものであったかを検証 したい。. 一2一.

(5) 第1章 河井寛次郎の生涯と民藝運動について. 第1節 河井寛次郎の生涯 河井寛次郎は、明治23年目1890)、島根県安来町 (現安来市)の建築業を営む河井大三郎・ユキの次 男として生まれる。. 明治27年(1894)、4歳。生母コ・キが没し、里親. 山崎家に世話になった後、継母カタを迎える。この 年、日清戦争開戦。(図3小学校時代の寛次郎). 明治38年(1903)、13歳で島根県立第一中学入. (図3)小学校時代の寛次郎. サ層ギ ・鮮. 学、叔父足立健三郎の勧めにより、中学二年で陶器 の道に進むことを決心。中学時代よりの友人太田直 行の回想によると、寛次郎は中学三年から頭角を現 し、学科はもちろん文筆・弁論やスポーツに秀で、. 模範生として校外寄宿舎を預かり下級生の信望も厚. −浅. く、いずれは帝大か外語大から政治家か外交官にな. v噛. るものと周囲は思っていたので、「河井が焼物屋に. 噛“.A.. なる」と聞いて一同大変驚いたという。(図4島根. (図4)島根県立第一中学校時代. 県立第一中学校時代). 明治43年(1910)、20歳。島根県立第一中学校 を卒業、学校長の推薦により東京高等工業学校(現 東京工業大学)窯業科に無試験入学する。この年、 雑誌「白樺」創刊。韓国が日本に併合される。. 明治44年(1911)、21歳。バーナード・リーチ の新作展で感銘を受けて壺を買約し、後日リーチの 居宅を訪問。この年、辛亥革命勃発。. 大正2年(1913)、22歳。腸チフスで1年間休学。 静養中は郷里の野山で詩作にふける(図5)。この年. 轟. 芦. (図5)東京高等工業高校時代. (郷里にて休学療養中) 壽’戸. ,. から、産業工芸の振興を目的として農展(農商務省 主催図案及応用作品展覧会)が始まる。. 大正3年(1914)、24歳。卒業とともに京都市陶. ,騨 ’ll. 磁器試験場に入所。先輩の小森忍らの指導を受けな. がら、紬薬の研究・試作に取り組む。2年後、東京 高等工業学校の後輩で生涯の友となる濱田庄司が入 所(図6−7京都市陶磁器試験場時代)。横山大観らが. 日本美術院を再興し、梅原龍三郎らが二科会を結成. 一3一. (図6)寛次郎(左)と濱田.

(6) する。この年、第一次世界大戦開戦。. 大正6年(1917)、27歳で試験場を辞め、. 五代清水六兵衛の顧問として2年間紬薬作. ・戸. りを手伝う(図8)。濱田とともに沖縄、九州. の窯を巡る。この年、ロシア革命が起こる。. 大正8年(1919)、29歳。父大三郎・祖 父足立春台死去。濱田とともに朝鮮・満州 に旅行し、満鉄の研究所に小森忍を訪ねる。. ■. 一M「 (後列右端). (図7)京都市陶磁器試験場時代. この年、普通選挙運動が起こる。ベルサイユ条約調 印。バウハウス設立。文部省美術展覧会(文展)を 帝国美術院展覧会(帝展)と改称。. 大正9年(1920)、30歳。山岡千太郎の支援を受 けて、京都・五条坂の清水六兵衛の窯を購入し「鐘 漢窯」(図9)と命名、作陶を開始。京都市立陶磁器. 試験場出身の楠部弥弍らが「赤土」を結成する。三 上やす(つねと改名)と結婚(図10)。濱田がリーチ. (図8)大正7年(1918). 六兵衛窯顧問時代. に連れられ渡英する。この年、国際連盟が成立し、 日本が常任理事国となる。. 大正10年(1921)、31歳で東京および大阪の高 島屋にて個展「第一回創作陶磁展観」(図11)を開催. し、好評を博す。生涯にわたる親交を結ぶことにな る同店宣伝部長川勝堅一と知り合い、以降の定期的. (図9)鐘渓窯. な作品発表は高島屋で開催されることになる。柳宗 悦が主催する李朝陶磁展を見て、そのすばらしさに 衝撃を受ける。. 引藝. 大正11年(1922)、32歳。前年の自信作10点 による「鐘渓窯第一輯」を刊行。「第二回創作陶磁 展観」が批評家に絶賛される。この年、ソビエト社 会主義共和国連邦成立。. 盤 (図10)大正10年(1921). 大正12(1923)、33歳。「第三回創作陶磁展観」. 新婚旅行・日光中禅寺湖. を開くが、名声の高まりに反して自らの作陶に疑問 を抱き悩み始める。この年、関東大震災が起こる。. 大正13年(1924)、34歳。イギリスから帰国し. 一;謡. た濱田が持ち帰ったスリップウェアに触発されて実 用陶器に新たな方向性を見出す。この時期、浜田を 介して柳との交友が始まる。「陶器の所産心」と題 一4. (図11)大正10年(1921). 第一回創作陶磁展観会場.

(7) し、京都博物館で講演を行う。富本憲吉と協力して関西美術会展に工芸科を 作り、審査員を務める。長女須也子誕生。. 大正14年(1925)、35歳のとき、叔父足立健三郎死去。「第五回創作陶 磁展観」では技巧は簡素になり雑器が際だつようになる。柳・濱田と紀州へ 木喰上人の足跡を訪ねる車中で「(民衆的工藝)民藝」という言葉を発案。 この年、治安維持法公布、普通選挙制成立。. パリで「近代の装飾および産業芸術の国際 展(アール・デコ展)」が開催される。. .一. 大正15年(1926)、36歳で、柳・富本. 亀. ・濱田とともに日本民藝美術館設立趣意書 を作成。「作家としての信念が生ずるまで」. と新作の発表を控え制作に専念する寛次郎 のため、「河井氏後援会」が発足。. への. (図12)昭和2年(1927)上賀茂民芸協団座談会 寛次郎(左から2人目)・柳(右から3人目). 昭和2年(1927)、37歳。「河井氏後援 会主催作品展」を日本工業倶楽部で開催。柳・富本. 監. ・濱田・リーチ・黒田甘薯らと「上賀茂民芸’団団」. (図12)創立。この年、金融恐慌が起こる。帝展に工 芸部増設. 昭和3年(1928)、38歳で柳・濱田らとともに「御 大礼記念国産振興東京博覧会」に「民藝館」(図13). を出品。博覧会後に朝日麦酒の山本為三郎邸内へ移 築され、「三國荘」と命名。この年、三・一五事件 および張笹森事件が起こる。国立工芸指導所設立。. 昭和4年(1929)、39歳。柳と「日本民藝品展」. を京都大毎会館で開催。3年ぶりに開催した東京高 島屋での「第六回新作陶磁展観」では、古典の模倣 から脱却して日常の用に即した作品を出品。この頃. .墨 (図13)御大礼記念国産振興. 東京博覧会出品 民藝館. から銘や落款が作品から消える。「帝国美術院展」. に工芸部門開設され、無鑑査推薦で出品する。渡英 中の柳・濱田の斡旋により、ロンドンのボォ・ザァ ル・ギャラリーで個展を開催。この年、世界大恐慌 が起こる。. 昭和5年(1930)、40歳(図14)。渡英中の柳の肝. いりで開催されたハーバード現代美術協会主催の 「日英現代工芸品展覧会」に出品。「聖徳太子奉賛. 美術展」に出品。東京高島屋で「第七回新作陶磁展 一5一. (図14)昭和5年(1930). 工房で柳と.

(8) 観」、「河井寛次郎作陶10年記念回顧展」を大阪美術 倶楽部で開催。. 昭和6年(1931)、41歳。柳・濱田・富本らと同 人誌「工藝」(図15)を発刊する。柳と鳥取で牛の戸. 窯論点に立ち会い、島根の松江では工人の指導に当 たる。郷里初の個展を松江商工会議所で開催。ニュ ーヨークで個展を開催。この年、満州事変が起こる。. 昭和7年(1932)、42歳。ロンドンの山中商会で. (図15)昭和6年(1931). 雑誌「融融」創刊. 個展を開催。この年、満州国建国。五・一 五事件が起こる。. 昭和8年(1933)、43歳。日本民藝美術 館主催「綜合新工藝展覧会」に出品。「第人 回国展」に賛助出品。大原孫三郎の要請で、. 倉敷にて個展を開催。工芸指導所にブルー ノ・タウト招聰される。. 昭和9年(1934)、44歳。東京上野松坂. (図16)昭和9年(1934)リーチを囲んで 寛次郎(後列右端)・リーチ(前列中央). 屋で「現代日本民窯展」、東京高島屋で「現 代日本民藝展」を開催、「追駆田家展」に出品する。. 14年ぶりに来日のリーチ(図16)を年算窯に迎え、 ともに制作。. 昭和10年(1935)、45歳。大原孫三郎から「日 本民法館」設立のための資金援助を受け、建設準備. (図17)昭和11年(1936). 木喰仏と. に尽力する。中国や朝鮮李朝の硯の造形に惹かれ、 国璽制作を志す。. 昭和11年(1936)、46歳(図17)。黒酒の制作に 専念し、東京および大阪高島屋で「陶硯百種展」を 開催。棟方志功が国画会に出品した「大和し美し」 (版画巻)を日本民藝館で買い上げ、棟方を四十日. 嬰」. d墨. (図18)昭和11年(1936). 日本民藝館東京駒場に開館. に亘って自宅に招く。柳・濱田と朝鮮半島を旅行。 「日戸」第六十八号・河井寛次郎特輯号発刊。東京 駒場に「日本民藝館」(図18)開館。この年、二・二 六事件が起こる。. 昭和12年(1937)、47歳。「パリ万国博覧会」 への出品要請を承諾しない河井に代わり、川勝が独 断で自分のコレクションより出品した「鉄辰砂草花 図工」がグランプリを受賞。室戸台風で傷んだ旧居 一6一. で (図19)昭和12年(1937)河井劃.

(9) を解体し、日本や朝鮮の農家の建築美を取り込んだ自宅を自ら設計し、郷里 より実兄を棟梁とする安来大工一行を呼び寄せて新築(現「河井寛次郎記念 館」(図19))する。この年、薦溝橋事件により、日中戦争が始まる。. 昭和13年(1938)、48歳。兄、善左衛門安来にて死去。米人ヘンリー・ グリーンが弟子入りする。国家総動員法公布。. 昭和14年(1939)、49歳。日本急斜協会同人と 沖縄旅行(図20)。「月刊民藝」発刊。米人ジョン・. ギルバートソンが弟子入りする。この年、第二次世 界大戦開戦。. 昭和15年(1940)、50歳。銀座鳩居堂で富本・ 濱田と「三人展」開催。柳編集による作品集刊行。. 東京および大阪高島屋で川勝所蔵品による「河井寛. (図20)昭和14年(1939) 沖縄壺屋寛次郎(前列中央). 次郎氏作陶二十年記念展覧会」(図21)開催。仏人イ. ンテリアデザイナーのシャルロット・ペリアン来. ∫. 訪。. 昭和16年(1941)、51歳(図22)。柳・濱田と朝 鮮・中国華北を旅行。「第一回現代陶芸美術展」に 板谷波山・清水六兵衛・富本・濱田らと出品する。. 重 (図21)昭和15年(1940) 作陶二十年記念展覧会川勝と. 自ら考案・指導した竹家具による「竹下生活具展覧 会」を東京・大阪・京都の高島屋にて開催。この年、 太平洋戦争開戦。. 昭和17年(1942)、52歳。京都市美術館で「国 民生活用具展」を開催、生活(用)と美の不可分を 提起する。「機械は新しい肉体」という自覚を深め、. 手と機械が本質的に同じであると説く。「青森県民 藝協会」設立に際し、柳と東北を旅行。 (図22)昭和16年(1941). 昭和18年(1943)、53歳。東京および大阪高島. 自宅庭にて. 屋で「濱田庄司・河井寛次郎新作陶器展覧会」開催。. 戦局の悪化に伴い「近作陶器博覧会」を最後に個展. 6“ .、. を中断。. 昭和19年(1944)、54歳。「戦時特別文展」に 出品するも、戦火激しく窯を立てられず、文筆活動 に没頭。. 昭和20年(1945)、55歳。第二次世界大戦終結。 棟方が酒事窯を讃える「鐘卒土版画柵」(図23)を制. 作。この年、広島・長崎に原爆投下。ポツダム宣言 7. (図23)昭和20年(1945) 棟方志功「鐘渓頒 祭巴の柵」.

(10) を受諾し、無条件降伏する。(図24木彫拓本制作). 昭和21年(1946)、56歳。高島屋で「新作陶器 展覧会」開催。長女に養嗣子博次を迎える。この年、 日本国憲法公布。. 昭和22年(1947)、57歳。「第二十一回国展」 に20点の作品を出品。京都民藝協会主催による「機 械製品展」を開催し、工業製品の美を提唱する。. 棟方志功板画で詩集「火の願ひ」を刊行。陶板によ る詩集「いのちの窓」の制作。川勝邸の改築に際し て、設計・監督に当たる。育母カタ死去。. (図24)昭和20年(1945)頃. 木彫拓本. 昭和23年(1948)、58歳。西村書店より「化粧 陶土」、「いのちの窓」(図17)出版。大阪高島屋で陶. ヒ瞬魯. 板「いのちの窓」の展覧会開催。. ア♂. 昭和24年(1949)、59歳。日本民藝’協会富山支 部主催「河井寛次郎・濱田庄司作陶展」(図25)開催。. 「辰砂について」と題し、日本民藝館で講演を行う。. あ♪縦 灘i罫1・_.ノ. 鶴文庫より柳著「河井寛次郎の人と仕事」刊行。. 昭和25年(1950)、60歳。東京および大阪高島 屋をはじめ松江と日本民藝館で「還暦祝賀展」が開 催される。パリ・チェルヌスキー美術館開催「現代 日本陶芸展」に出品。本格的に木彫を始める。この. .隷考こ. _ノ. 年、朝鮮戦争が起こる。. 昭和26年(1951)、61歳。イタリア・ファイン ツァ陶器博物館日本部新設にあたり作品を提供。東. (図24)昭和23年(1948). いのちの窓. 京および大阪高島屋で「作陶三十周年記念博覧会」. 開催。この年、サンフランシスコ平和条約調印によ り、被占領国から独立国家となる。. 昭和27年(1952)、62歳。東京高島屋で富本・ 濱田との「三人展」、東京および大阪高島屋で「新. (図25)昭和24年(1949)富山県. 日本民藝協会第3回全国協議会. 作陶器展覧会」開催。仏人クロード・ラルーが弟子 入りする。. 昭和28年(1953)、63歳。朝日新聞社より「火 の誓ひ」出版。「いのちの窓」英訳を刊行。東京高 島屋(主催、東京光輪閣会場)および大阪高島屋で 「作陶四十年記念展」開催。(図28木彫制作). 昭和29年(1954)、64歳。東京高島屋で富本・ 一8一. (図28)昭和28年(1953). 京仏師松久宗琳と木彫する.

(11) 濱田との「三人展」、大丸神戸店および東急東横店でリーチ・濱田との「三 人展」、東京高島屋で富本・リーチ・濱田との「四人展」を開催。この年か ら、日本伝統工芸展が開催される。. 昭和30年(1955)、65歳。大阪高島屋で「新作陶器展覧」開催。真鍮キ セルのデザインを始める。(図29柳とオリエンタルホテルにて). 昭和31年(1956)、66歳。日本民選館本館修理のため、濱田と抹茶碗5 0個を寄付し、柳の書幅とともに頒布会を開催。名古屋松坂屋で「河井・濱 田新作陶器展覧会」開催。東京および大阪高島屋で. 「新作陶器展覧」と、20年ぶりに新型陶硯の展示 会を開催。この年、国際連盟への加盟が承認される。. 日本デザイナークラフトマン協会(現、日本クラフ トデザイン協会)設立。. 昭和32年(1957)、67歳。朝日新聞社主催「陶. (図29)昭和30年置1955) 柳とオリエンタルホテルにて. 業四十年展」を東京および京都高島屋と名古屋オリ. 、饗. エンタル中村で開催、目録「河井寛次郎陶業」を刊 行。「沖縄伝統工芸視察団」団長として渡沖。川勝 が独断で出品した「白地草花絵扁壺」がミラノ・ト リエンナーレ国際工芸展でグランプリを受賞(図30). (図30)昭和32年(1957) ミラノ展受賞の日棟方と自宅で. する。. 昭和33年(1958)、68歳。木彫が手から人物、 動く手・足へと発展する。次第に「面」にも興味を 持ちはじめる。腸閉塞と腸癒着のため大手術を受け、. 京都市交通局病院に約2ヶ月入院。東京および大阪 高島屋で「新作陶器展覧」開催。. (図31)昭和34年置1959). 昭和34年(1959)、69歳。「面」の木彫を盛ん. 面を彫る. に制作(図31)する。東京および大阪高島屋で「新作 陶器展覧」開催、木彫面も多数展示。. 昭和35年(1960)、70歳。札幌民藝協会設立記 念として、柳・濱田との「三人展」(図32)が青磐舎. (図32)昭和35年(1960). 主催で開催、北海道へ赴く。大阪阪急百貨店で濱田. (左より寛次郎・濱田・田中). 札幌三人展. ・棟方・黒田・芹沢錘介と「工藝五人展」開催。東. 京および大阪高島屋で「新作陶器展覧」開催。木彫 面から陶彫面を制作する。. 昭和36年(1961)、71歳。柳宗悦死去。大原美. (図33)昭和36年(1961). 術館がリーチ・富本・河井・濱田の作品を常設展示. 大原美術館陶磁器館開館式. する「陶一三」を開設、開館式(図33)に出席。この. ・寛次郎). 9. (左より富本・濱田・リーチ.

(12) 年から、日本現代工芸展が開催される。. 昭和37年(1962)、72歳。雑誌「民藝」1,月号 より「六十年前の今」を連載。天満屋で個展、高島 屋で作陶展開催。. 昭和38年(1963)、73歳。名古屋オリエンタル 中村、岡山天満屋で個展開催。大阪高島屋・東京高 島屋で作陶展開催。デンマーク王女マルガレーテ来 訪。富本憲吉・板谷波山死去。. 昭和39年(1964)、74歳(図34)。名古屋オリエ. (図34)昭和39年(1964). 自宅の庭気に入りの丸石に寄る. ンタル中村で個展、大阪高島屋・東京高島屋で作陶 展開催。この年、オリンピック東京大会が開催され る。. 昭和40年(1965)、75歳。NHKで大原総一郎 と対談。広島天満屋で個展開催。福山天満屋での「民. 藝館同人新作展」に賛助出品。大阪高島屋・東京高 島屋で作陶展開催。. 昭和41年(1966)、76歳(図35)。東京高島屋で. (図35)昭和41年(1966). 河井博次・河井武一と合同三人展、名古屋オリエン. 自宅にて. タル中村で博次と二人展、岡山天満屋・東京高島屋・大阪高島屋で個展を開. 催。6.月あたりより身体衰弱し、11,月2日京都専売公社病院に入院、11 月18日永眠。 寛次郎の生涯を追った結果、以下のようなことを思うに至った。 ・ 寛次郎は、ただ思想家柳が唱えた民藝運動の理念を具現化するため、. 柳の手足となって作品を作り続けた民藝作家ではなく、柳とともに民藝 運動を立ち上げた人物であった。. ・ 作品から「銘」を消し、自ら美術展に出品することもなく、濱田や芹 沢といった民藝作家たちが人間国宝となる中、人間国宝や文化勲章を辞 退し続け、自らを「陶磁器製造業者」と言った寛次郎は最後まで民藝運 動の理念を貫いた民藝運動家であった。. ・ 我々は、河井寛次郎イコール民藝作家という既成概念を持っている。. ところが、河井寛次郎自身の創作活動はというと、民藝が奨励する方向 から少しずつ、やがては大きく離れたところにあるように見える。それ までの「上手もの」と呼ばれた装飾工芸品に対して、「下手もの」と呼 ばれていた日用雑器の中に「用の美」の美しさを説いたのが民藝運動で あるにもかかわらず、寛次郎の作品は装飾的すぎたり実用に適さない造 形になっていく。にもかかわらず、中国・朝鮮古陶磁器を範にとって制 10一.

(13) 作していた時期から民藝運動に転換しようとしたときのような悩みや迷 いが見られない。これは、自分の造形を追求するうちに、自然と民藝を 超越した表現になっていったということなのだろうか。作風が民藝を超 越した時期になっても民藝運動を推し進める活動を行っていることに、 寛次郎自身は矛盾を感じていなかったのだろうか。. これらのことについて、寛次郎本人が語った言葉や、柳・濱田といった民 藝運動の同志たち、また、批評家の見解等から検証していきたい。その上で、. 河井寛次郎の個々の作品の特質分析を通して河井寛次郎の造形思想を探って いきたいと思う。. 11.

(14) 第2節 民藝蓮動との関わり 前節河井寛次郎の生涯でもふれたように、河井寛次郎を語る上で舟囲運動 は大きなウエイトを占めている。ここでは、民藝運動の趣旨や歴史的背景な どについて調べ、寛次郎と民国の関わりについて明らかにしたい。. まず、民藝とはどういうものであるかについて、民習運動の創始者柳宗悦 は、その著書「民藝の趣旨」の中で次のように述べている。. 「民藝(民衆的串藝)とは云わぱ貴族的な工藝美術と相対するものです。一. 般の民衆が日常使う用器が民藝品なのです。我々の生活に必要な品、即ち衣 服、家具、食器、文房具など、皆この範疇に入ります。広い意味で民藝品は、第. 一は実用品である事、第二は普通品である事.即ち贅沢な高価な僅かより出来. ないものは民藝品とはなりません。作者も著名な個人ではなく、無名の職人 達です。見る為より用いる為に作られる日常の器物、言い換えれば民衆の生活 になくてはならぬもの、普段使いの品、沢山出来る器、買い易い値段めもの。. 即ち工下品のなかで、民衆の生活に即したものが広義に於ける即智品なので す。ただ民衆的な実用品と云っても店頭に並ぶあらゆる安物も民藝品と呼ぶ ことはしません。民碁勢が当然有つべき特質を規定すると「用の目的に誠実 である」ことが本質です.利益を求め、用が二の次という商業主義で作られる 品は、用には不忠実なものです。また、風流をねらったいわゆる贈物は趣味的. なものが多く、無用な飾りや単なる思いつきのために用が二の次となり民藝 品とは呼びません。従って「民藝品」とは、用途を誠実に考えた健全なもの、質. への吟味、無理のない手法、親切な仕事が重要であり、これを基にして生活に 役立つ誠実な用器が生まれるのです。質よりも見かけに重きを置いたり、親切 に作るより出来るだけ手をぬいたり、色が俗であったり、姿が痩せていたり、 じきにこわれたり、剥げたりするなどのものは用に対して不誠実です。このよ. うな品は不道徳な工藝品と呼びたいのです。それ故剥暦とは、生活に忠実な 健康な即興品でなければなりません。我々の日常のよき伴侶であるべきで、使 いよく便宜なもの、使ってみて頼りになる真実なもの、共に暮してみて落ち着 くもの、使えば使う程親しさの出るもの、これが民藝品の徳性です。それ故、 自然で、素直で、簡素(但し粗悪ではいけない)で、丈夫で、安全なものが民藝の. 特色なのです。誠実な民衆的工藝が民藝であり、その美は用途への誠から生 まれるもので、健康の美、無事の美と呼んでいいでしょう。」1). そして、このように、今まで顧みられることのなかった民藝品に「用の美」. というすばらしい美が存在することを提唱し、使うことだけを誠実に考えて 作られたもののなかには、健全な暖かみのある美しさが現れることを世の中 に紹介し、広めようとする活動が民藝運動であると説いている。(ここで注. 12一.

(15) 意しておく必要があるのは「用の美」の捉え方である。ここで言う安価で使 いやすいものとは、文頭の一文「民藝(民衆的工藝)とは云わば貴族的な外 耳美術と相対するものです。」が示すように、有名作家の一点もので鑑賞す るためだけの使うことを前提としない「美術工芸品と比べて安価で、実際に 使うことができる」程度の意味に受け取ると、理解しやすい。加えて、ここ での「使う」は、機能的な「便利」とか「高効率」とかではなく、「使う愉 しみ」とか「手に取る喜び」のようなニュアンスも含まれている。また、文 中の条件を満たしたものすべてが美しいのではなく、条件を満たしたものの 中に時鐘と呼べる美しさを持ったものがあるのだということである。そうで なければ、民藝館は民俗博物館と何も変わらなくなってしまう。)民藝運動 は、柳・富本・河井・濱田らが中心となり大正15年(1926)に「日本民藝美 術館設立趣意書」を発表したことが始まりとされ、以下のような取り組みが なされた。. ・ 歴史の中で育まれてきた、一日前の古い雑器・雑貨類の中から、民藝 の美(用の美)がある品を発掘・蒐集すること。. ・ 近代化の波に押されて、廃れようとする伝統的な手仕事から生まれる 美しさを発掘し、その技術を保護・復興すること。. ・ 民藝運動の個人作家を指導者として位置づけて支援し、伝統を踏まえ つつ時代に即した新しい民藝黒づくりを推進すること。 ・ 民藝運動の活動拠点として日本回章館を設立し、発掘・蒐:集した古い. 民藝品と個人作家による新しい丁々品の展示によって民藝運動の広報活 動を活発に行うこと。. ・ 民藝運動の趣旨と成果を雑誌「工藝」(雑誌「民藝」の前身)などの 出版物にまとめ、発行すること。. 日本軍藝館は、「日本民藝美術館設立趣意書」発表から10年後の昭和11 年置1936)10月に、大原孫三郎をはじめとする有志の援助のもと開館し、初代 館長となった柳は日本民藝館についてこのように述べている。 「民藝館の使命は美の標準の提示にある。その価値基準は「健康の美」「正. 常の美」にある。美の理念として之を超えるものはない。かかる一貫した美 の目標の下に個々の品物を又全体を整理することは極めて重要な仕事と思は れる。云ふまでもなく,かかる標準を最初から理論で組み立てるべきではな く,深く直感に根差すべきなのはもとよりである。ここで民俗博物館との差. 異が起る。後者は直感に基く美的価値を中心とする美術館ではない。民藝館 は単なる陳列場ではない。従って列べ方も事情の許す限り物の美しさを活か すやうに意を注いである。品物は置き方や,列べる棚や,背景の色合や,光 線の取り方によって少からぬ影響を受ける。陳列はそれ自身一つの技藝であ 13.

(16) り創作であって,出来得るなら樹蜂館全体が一つの作物となるやうに育てた いと思ふ。とかく美術館は冷たい静止的な陳列場に陥り易いのであるから, もっと親しく温い場所にしたいといつも念じてみる。」2). 即ち、日本民藝館は、その展示品の選定や展示方法、建物全体までもが、 直感で捉えた「民藝の美」という価値基準によって統一された美の殿堂であ る、ということだ。この「直感に基く美的価値を中心とする」ことを柳は著 じきげ. 書「日本の目」の中で「直下に見る」とも言っている。. 「ここで一応眼力とは何かを語っておこう。誰だとて物を見ているが、見 方が色々なので眼に映るものも同じではない。何がそのうちの正しい見方か。. 結局は純に見るという事に尽きるが、多くの人は見方に純度が乏しい。即ち 見るのではなく、考えに支配されて見る場合が多い。「見る」ほかに「知る」. 力が加わって見るのである。有名だからよいと思って見たり、評判に引きず られて見たり、主義主張から見たり、自分の小さな経験を基にして見たり、. なかなか純には見ぬ。純に見る事を「直観する」というが、直観はその文字 が示す通り、見る眼と見られる物との間に仲介場を置かず、じかに見る事、. 直ちに見る事であるが、この簡単なことがなかなか出来ぬ。多くは色眼鏡を かけて見てしまう。あるいは概念の物指を出して計ったりする。ただ見れば よいのに、いろいろの考えを持出して見る。そうなるとじかには見ぬから、. ものそのものは見えぬ。色眼鏡を通すから本来の色が見えぬ。眼と物との間 に介在するものが在る。これでは直観にならぬ。直観は即今に見ることであ る。昨日見たなどというものは、もう直接でなく、間接なものに去ってしま う。今直ちに見る意外に直観はない。何ものも介在させずに直下に見るのだ から、これを簡単に「ただ見る」といってもよい。ただ見るのが直観の働き である。禅的にいえば、「空手にして受取る」といってもよい。」3). 民報運動には、「耳蝉の趣旨」で説明されている民藝の定義についての理 論的な一面と「日本民藝館の仕事」や「日本の目」で述べられている主観的 な価値観による一面とがあった。日本の伝統文化や伝統産業を保護する一方、. 生活の質の向上を掲げた西欧のモダンデザインにも共鳴した。産業生産との 結びつきもあれば、既成の権威にとらわれず直下にものを見ることは純粋美 術への道でもあった。民藝運動はこれらの面を持った多面体と捉えればよい のかもしれない。それ故に違う方向性を持ったものが集い、今もなお人を引 きつけて止まない魅力があるのだろう。. 次に、柳や寛次郎たちがこのような考えを持つに至った要因の一つには、 工芸を取り巻く社会の現状があったと思われる。ここで、デザイン・工芸史 を中心とした時代背景を大まかに見ておきたいと思う。. 18世紀にヨーロッパで挙った産業革命によってものが大量生産されるよ 14一.

(17) うになると、ものや貨幣の流通が活発になり、王侯貴族ではない新たな富裕 層や中流市民層が生まれ、新しい文化を育もうとする基盤ができてくる。そ の一方で、社会全体が合理性や実利性に重きを置く様になったことから、環 境破壊や非人間的な生活条件など社会問題が現れるようになる。また、それ まで特権階級のものであった美術工芸品を表面だけまねた粗悪な工業製品が 氾濫するとともに、昔ながらの手工芸は衰退を始める。. 欧米列国は競って海外に富を求め、19世紀には中国とアヘン戦争を起こ し、日本も開国を余儀なくされて明治維新を迎える。その前年の慶応3年(1 867)大政奉還の年、日本幕府と薩摩藩、佐賀藩がパリの国際博覧会に初めて 出展、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会から日本政府として公式出展し、. この時展示した浮世絵がモネらフランスの画壇に影響を与え、その後のジャ ポニスムの流行を生む。また、日本も万国博覧会を通して西欧を食欲に吸収 し、アジア諸国がヨーロッパ列強国の植民地化される中で、日本は西欧に追 いつくべく富国強兵・殖産興業を目指して国内産業の近代化を強力に推し進 めようとするが、工業化に必要な技術の導入やエネルギー供給等のインフラ 整備は一朝一夕にできるものではない。国内の産業を活性化させつつ輸送網 を整備し、貿易によって外貨を稼ぐために選ばれたのが産業工芸(輸出工芸). であった。工芸は日本各地で地場産業として根付いており、多少の投資で発 展が見込まれることと、なにより万国博覧会の会場で、西欧に日本を強く印 象づけたものが、優れた伝統技術に支えられた工芸品であったためである。. 明治10年(1877)第1回国内勧業博覧会が開催される。明治26年(1893)シ カゴ万国博覧会では、日本が出品した美術品・美術工芸品が美術作品として 展示され、日本の伝統美が世界の美術の水準として認められたことを示して いた。. イギリスでは、ジョン・ラスキンが、芸術や趣味が衰退することは精神文 化の危機であると、資本主義的・重商主義的な経済政策の弊害や危険性に対 して声を上げ、ウィリアム・モリスは、物質的豊かさのため人間が機械の奴. 隷となっている機械生産に対して、熟練した手業(クラフツマンシップ)に よる中世の職人組合(ギルド)生産様式で平和や秩序や自由といった精神的. 豊かさや人間性を取り戻そうとアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントを 起こしたが、一度回り始めた資本主義的近代化の社会構造を変革することは できなかった。. 近代のヨーロッパ社会は、モリスが夢見た中世の牧歌的生活による人間性 の復興という社会変革よりも、芸術を一般大衆の生活に取り入れようと、芸 術の側が人間社会に寄り添うような世界を望んだ。アール・ヌーヴォーは「新. しい芸術」を意味する。過去の装飾様式と決別し、自然の植物などの形態を 15一.

(18) モチーフにした流麗で装飾性豊かな表現が特徴であり、産業の近代化に伴っ て現れた生活環境や労働条件の悪化、功利主義による精神文化の荒廃に対す るアンチテーゼや癒やしの面も持っていた。19世紀末のアール・ヌーヴォー やユーゲントシュティール、ゼセッシオンは、そのスタイルの表面的な部分 がコマーシャライズされ流行として一般市民にまで広く浸透していった一方 で、自然物の造形の中に適応性・論理・構造といった構成を見つけ、装飾を 構造体の一部として有機的に機能させていた点においては、この後のモダン ・ムーブメントと同じ方向性を持っていたといえる。しかし、大半が作家個. 人の一点ものという芸術性の高い手工的生産であったアール・ヌーヴォー は、明治33年(1900)パリ万国博覧会を運動の頂点とした後、工業化による 大量生産を目指し加速する近代化の波に飲み込まれ急速に衰退してしまう。. 日本は、明治33年(1900)のパリ万国博覧会に伝統的様式で建設した法隆 寺金堂風の日本館を建て好評を博したが、伝統にこだわって変化のない出品 物は飽きられて酷評され、明治政府は輸出振興のためにデザインの必要性を 認識することとなる。翌年結成された大日本図案協会は日本初のグラフィッ ク・デザイン雑誌「図按」を発行し、当時パリに留学し、アール・ヌーヴォ ーの洗礼を受けた洋画家浅井忠は、明治36年春1903)図案家や工芸家たちか らなる図案研究会「遊陶園」「京間園」を立ち上げる。明治40年(1907)第 1回文部省美術展覧会(文展)が開催されるが、工芸は美術家が考案した図案. などを利用した応用美術であり、絵画や彫刻より一段低いものだと考えられ ていたため、部門が与えられなかった。一方では輸出産業の花形として持ち 上げられ、一方では美術ではないと蔑まれてきた工芸は、一層実用性を捨て てより豪華絢燗にすることで、純粋美術へ近づこうとしていった。. 大正2年(1913)からは、産業工芸の振興を目的として農商務省主催図案及 応用作品展覧会(書展)が始まり、多くの工芸家がここを活動の舞台とした。 大正8年(1919)にフランス語の「アール・デコラティブ(art decoratif)」. を装飾美術と訳し、新しい工芸への姿勢を示した「装飾美術協会」が結成さ れる。この会には後に伝統工芸界の革新を先導する工芸家たちが集まってい た。大正12年(1923)に起きた関東大震災後の復興に際して、アール・デコ やバウハウス・デザインを取り入れたコンクリートのビルや鉄橋が造られ、. 東京美術学校や東京高等工芸学校で学んだ若い工芸家たちが、積極的に西欧 に目を向けるようになった。. 一方、より機能的なデザインを指向するムーブメントが明治40年(1907) ドイツで始まる。ドイツ工作連盟は、ヘルマン・ムテジウスを中心に、近代 社会にふさわしい芸術と産業と職人技術の統一によって工芸の質を高めるこ とを目的として生まれ、第一次世界大戦後にその活動理念はバウハウスに受 16一.

(19) け継がれた。ヴァルター・グロピウスが大正8年(1919)に設立したバウハウ. スは、はじめ、彫刻・絵画・工芸などの諸芸術のすべてが工房と手工作とい う「職人の新しいギルド」をつくり、一切の造形活動を結集して生活機能が 総合された「建築」のもとに芸術と技術の再統一を図ることを目標としたが、. 後に工業技術を造形の近代的手法として認め、機械による大量生産工業時代 への対応を掲げている。. 大正14年(1925)にパリで開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧 会」(略称アール・デコ博)にちなんで呼ばれるようになったアール・デコ は、第一次大戦と第二次大戦の間のわずか単数年間の短い平和に浮かれた軽 薄で享楽的なデザインとの評価もある一方、日常生活の中に芸術の香りを取 り込むべく、伝統という制約を持たないアメリカで花開いた、大量生産・大 量消費の時代に対応する装飾様式でもあった。. 日本は、当初100年はかかるであろうと言われた産業の近代化を50年 足らずで成し遂げ、工業生産は西欧と肩を並べるくらいに発展したが、明治 33年(1900)のパリ万国博覧会での反省と対策は、技術導入にのみ力を注い だ産業界の隅々までは染み渡らなかった。特に、日常生活品などのデザイン は、過去の日本の伝統工芸品の模倣か、あるいは外国製品のコピーであり、 日本の工業製品自体の質やイメージの低下を生んでいた。. このような日本の現状を改善しようと、多くの知識人や教育関係者、芸術 家たちが展開した運動の一つが「蝉吟」である。その他の主な団体としては、 同年大正15年(1926)に発足した「帝国工芸会」・「縞目(ムケイ)」・「商業. 美術家協会」や、翌昭和2年(1927)の「木の芽舎」・「工人社」、昭和3年(1. 928)の「形而工房」などがあった。「帝国工芸会」はドイツ工作連盟をモデ ルに、西欧の流行を取り入れたデザインによる産業の活性化と輸出振興を目 指した。「外型」は、装飾技術に偏った美術工芸に対して民藝と同じように 「用と美」を主張する一方、「工芸は時代の生活を反映する」という考えか ら、当時流行した西欧の新しい生活様式を反映した制作がおこなわれた。最. 低限の「用」が備わっていれば、あとの表現は作者の個性に任せられるとい う考え方に大正モダニズムの流れを見い出すことができる。「伝統は崇厳で あり完美であるが、それは古人の生活の堆積であって、その形式を現代に持. 参してはならない。吾人は全く新しい現代のものを創造して、祖先以来の伝 統を栄えあらしむるであろう。伝統は形式ではなく精神であらねばならない。 (第1回元型展)」。「轡型」の活動は、日本の工芸に西欧スタイルを導入す. ることが中心となっていったようだ。「商業美術家協会」は、雑誌「商業美. 術」を発行するなど積極的に活動し、「大阪商業美術家協会」など日本各地 で関連団体が次々と結成された。「木の芽舎」はぜセッシオン運動(実用家 17.

(20) 具運動)の様式を取り入れた目本初の洋家具デザイナーのグループである。. 金工の工芸作家が中心となって結成された「工人社」は、鑑賞のためではな く、現代の生活のなかで実際に使用するための工芸の制作を主張した。「形 而工房」は、ドイツ工作連盟やバウハウスの思想を強く受け、規格化による 生産の合理化を目的としたデザインを目指した。「生活ヲ囲ム建築、工芸製 品二三テ、我々ノ時代二対スル意識的企画ヲ有スルモノデス。」と結成の趣 意を述べ、設計した室内装飾の展示会・頒布会を開いて、デザイン思想の普 及に努めた。「墨型」・「木の芽舎」・「工人社」など、「民藝」と同様に実用. 性を持った工芸を主張したが、実際に作られたものは西欧のデザインを引用 したものであった。日本の工芸界は、(政府や産業界をはじめとする時代の. 要求である)西欧デザイン導入運動と、これに対する伝統重視派の対立が論 議の中心となってしまい、西欧・アジア・日本とグローバルに目を向けなが ら「用の美」を念頭に活動や制作に取り組んだのは「民藝」だけであったと いえる。これらのことから、「民藝運動」が生まれるに至った歴史的な要因 は次のようなものではないかと思われる。 ・ 明治政府の国策による後押しもあって、当時の工芸(美術工芸)品は、. 手の込んだ技巧によって華美であり値も高く、繊細で使用に耐えない ものとなっていた。そのため、「用の美」を主張するいくつかの運動団 体が結成されたが、その多くが西欧デザイン導入是非論議に力を割かれ てしまった。. ・ その一方で産業の近代化により、身の回りのもが大量生産された機械 製品に急速に置き換えられようとしていた。西欧からは産業デザインに つながる思想が流入し、日本においてもいくつかの運動団体が結成され たが、産業界としてはまだ、技術や性能で西欧に追いつくことに主力を 注がねばならない時代であった。. ・ 当時一般に出回っていた機械製品は、安いが形が醜悪で質も粗悪なも のが多かった。. ・ 明治維新によって西欧の文明と文化が一気に流入し、日本が生まれ変 わろうとする過渡期であった。何もかもが急激に西欧化されるとともに、 反動による伝統的な生活への再評価も起こった。 ・ 西欧の変革の成果や反省を手本にすることができた。. ・ 朝鮮の実情から、民族(や民衆)の伝統文化にたいする重要性を認識 させられた。. このように時代の要請でもあったかのようにして生まれた「鱗釘運動」で あるが、今では広く耳なじんでいる「民事」という言葉は、この時の彼らが 作り出した造語であり、前節で紹介したように、柳・寛次郎・濱田が紀州へ 18一.

(21) 木画上人の足跡を訪ねる車中で「(民衆的工藝)民藝」. という言葉を発案し. たとなっている。. 濱田庄司(図36)は、前節で紹介したように東京高. 等工業学校の2年後輩であり、寛次郎と同じように 工場の高級技師養成のための学校で陶芸家を目指そ うとしている噂を聞いて「濱田というのは君か?」. と寛次郎が声を掛けたことから、生涯の友となる二. 人の親交が始まったという。濱田は明治27年(189 4)、神奈川県川崎市に生まれる。東京府立一中(現 東京都立日比谷高等学校)を経て、大正2年(1913)、. 東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、. (図36)濱田庄司. 板谷波山に師事する。大正5年(1916)同校を卒業、寛次郎が勤める京都市立 陶芸試験場に入所し、紬薬の研究を行う。この時期、柳や富本、リーチの知 遇を得る。大正9年(1920)、帰国するリーチと渡英、共同してセント・アイ. ヴスに葦戸・作陶し、大正12年(1923)にはロンドンで個展を開催する。大 正13年(1924)に帰国し、京都河井邸に滞在して河井と柳の仲を取り持つ。. 約5年間沖縄の壷屋窯などで学び、昭和5年(1930)、益子焼の産地である栃 木県益子町に築窯・作陶を開始する。奇をてらわないシンプルな造形と、紬 薬の流描による大胆な模様を得意とし、焼き物本来の健やかで堅実な作品を. 制作した。昭和30年(1955)、民芸陶器により人間国宝に認定され、昭和3 7年夏1962)、柳のあとを継ぎ日本民芸館館長に就任。昭和43年目1968)には. 民国の美しさを国際的にひろめた業績により文化勲章を受章し、米国ミシガ. ン大学、英国ロンドン王立大学より名誉学位を受けている。昭和52年(197 7)に益子参考館を開館、翌昭和53年(1978)、没。享年83歳。 思想家であり民芸運動創始者、柳宗悦(図37)の略. 歴は以下のようである。明治22年(1889)、東京都 港区に海軍少将で和算家でもあった柳三従と嘉納治 五郎(教育家で煙道館柔道の創始者)の姉勝子の三 男として生まれる。明治43年(1910)、学習院高等 科在学中に、文芸雑誌「白樺」の創刊に参加。大正 2年(1913)に東京帝国大学哲学科を卒業、哲学・宗. 教の研究と同時に、芸術にも深い関心を持つ。朝鮮 陶磁器の美しさに魅了され、大正5年(1916)以降度. (図37)柳宗悦. 々朝鮮半島を訪れる。無名の工人が作る日常品の健 康な美に目を向け、 リーチ、富本、濱田、寛次郎らとの親交の中で、新しい. 美の思想を確立していく。大正14年(1925)に河井・濱田と「民衆的工藝(略 19.

(22) して民藝)」を発案、翌年「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。朝鮮:陶磁. 器、木喰仏、大津絵、小鹿田など日本各地の民窯、英国の古陶スリップウェ アなどの評価を通して、生活の中の美を啓発。昭和6年(1931)、雑誌「工藝」. 創刊、昭和9年(1934)に「日本民藝協会」を発足、民藝美論の普及に努める。. 昭和11年(1936)、「日本民藝館」を創設し、初代館長に就任。以後、ここ を拠点として、沖縄など各地の工芸調査や近代化の過程で消滅しつつあった 手仕事の保護・育成や、優れた民藝品の蒐集と展示など、旺盛な活動を展開 する。晩年には、仏教の他力本願の思想に基づく独創的な仏教美学を提唱。 昭和32年(1957)、文化功労者指定を受ける。著作は多数あり「柳宗悦全集」. 22巻に収められている。昭和36年(1961)、没。享年72歳。 柳と寛次郎の出会いのきっかけは、大正10年(1921)の柳主催「李朝陶磁 展」にある。昭和33年(1958)、島根新聞の対談の中で寛次郎は当時をこう 振り返っている。「その当時の私の作風を評して唐、宋、李朝の模倣だとい った人があるが、それは違う。私は模倣なんぞということを一度だって考え たことはない。ただ好きで好きでたまらなかったんだ。その影響はうけたか もしれぬが…。柳宗悦とケンカして又知り合ったのもそのころです。人間の 縁なんで不思議なものだということを、つくづく感じたのが、柳との交友だ。 当時、二十幾歳の私が東京高島屋ではじめて展観をやった。そして三百円も の値段(現在貨幣価値で百万円位)をつけた青磁の壷など幾つもうれた。細. 川候や岩崎小繋太さんなども買われた。ところが柳が、この展観を見て雑誌 「工芸」にこっぴどく批評した。私はバラが立ってネ。(笑)それで「工芸」. で負けずにやり返した。これを「工芸」の編集長がおもしろがって、ますま すケンカをけしかける。(笑)そしてお互は一度も口をきいたことがない間. 柄なんだ。」4)実は、当代一といわれた陶磁器研究家で東洋陶磁研究所を 設立した奥田誠一が「天才は彗星の如く突然現わるるものである」と寛次郎 を絶賛した一方で、柳の集めた李朝の焼物には美的価値がないと酷評したこ とに対して、柳は反駁文を書いてその最後に「こんな批評家がほめる河井の 仕事は中国・朝鮮の古陶磁のイミテーションに過ぎぬ」と八つ当たりのよう な一言をつけ加えたのが発端であったようだ。対談は続く。「そのうち柳が. 東京神田で李朝の展覧会を開いた。そこで私も知らぬ顔で行ってみると、李 朝の陶器の素晴らしさに私は参った。そしてフラフラになったネ。帰りの電 車を乗越したほど感激してネ。(笑)その時、会場の奉加帳に名を書かず金 だけ置いてきたんだが、あとで聞くと柳も私が来たことを知っていて、わざ と素知らぬ顔をしていたそうだ。そして「河井のやつ、来やがつたナ」と監. 視していたんだ。それがそもそものはじまりです。」5)浜田も「河井との 五十年差の中で、そのとき寛次郎について「(会場に)はいったとたんに、. 一20一.

(23) 一ぺんになぐりつけられたような気がした。今までの自分の仕事というもの は、衣裳の勉強であり、お化粧の勉強であった。中身の体はどうしていたか、. 心がけはどうしていたか。そう思うと、恥かしくて李朝の陶器を見ているう ちに、その場にいたたまれないような気がした。向こうにいるのが、あれが 柳さんという人だろうとすぐにわかったけれども、とても名乗る勇気もなく、. ただくやしくて、帰りの電車に乗っても、高島屋前でうっかり乗り過ごして しまった。李朝の焼き物から学んだとか、なんだとか、そんな生やさしいも のではない。とにかく驚いて帰ってきて、それから仕事ができなくなってし まった」6) と書いている。しかし寛次郎は「柳は、このとき私がはじめて. 無名陶のすばらしさに開眼されたとおもったらしいが、そうじやない。私の 関心はもっと前からである。」とし、柳とのその後については次のように述 べている。「東京震災があり、濱田がヨーロッパから帰ってくると家が焼け ていたので、私の家へころがりこみ、しばらく私と一緒に仕事をした。とこ ろが柳も震災にあって京都へ疎開をした。その柳がある日、私の家をたずね てきたが私にあいたいと言わない濱田をたすねてきたという。そんなら私も あう必要がないので、結局あわなかった。そうこうしているうちに濱田が是 非柳の家へ行ってみようと誘うものだから、お前がそこまで言うんなら、行 ってもよいと引きずられるようにして吉田山の柳の家を訪れた。」7). 朝日新聞学芸界美術記者橋本喜三によると、二人はただ反目し合っていた わけではなかったようだ。濱田が柳と寛次郎を引き会わそうとするが、寛次 郎は李朝展で柳に負い目を感じて会いに行きにくく、柳は柳で寛次郎への酷. 評の件でひけ目を感じていたらしい。「床の間に李 朝の白磁の香炉、その横に変な仏様が三体並んでい るんですよ。しゃぶるようにみたが、体が煮え立っ たですね。私の喜びが柳の喜びでもあってね。今ま での反目なんか吹っとんでしまったですわ」と寛次 郎は語ったそうだ。寛次郎は木喰像(図38)とは初対. 面であったが、明るく、たくましい土俗的な仏像に 一目ぼれしてうなるような声をあげたという。「こ いつは面白いやつだ、これで心が解けたと思った」 と柳はのちに河井に話したらしい。木喰像を奇縁と. して三人の心は強く結ばれ、木鼻仏探しの旅が下手 物(雑器)探しとなり、民藝運動へとつながってい った。. 一21. (図38) 木喰仏.

(24) 第2章 河井寛次郎の造形思想の変遷. 第1節 中国・朝鮮古陶磁器研究期 寛次郎が陶磁器を意識し始めた時期は、子供の頃 まで遡る。大名物「喜左衛門井戸(図39)」を所有し. ていた松平不昧公のお膝元でお茶が盛んであった鳥. 湖. 取県安来は、庶民の生活にもお茶の文化が根付いて おり、特に戦時食として始められた「ぼてぼて茶(図. 図39 喜左衛門井戸. 40)」を朝夕立てておしゃべりをするのが安来の人 たちの日課だったそうだ。寛次郎は、大人達が茶道 具の茶碗についてよく話しているのを聞いて、焼き 物に興味を持ったのだという。近所には、半長半農 の人たちが農業の合間に日用雑器を焼く、皿山と呼 ばれる窯業所があり、そこで陶磁器造りを見て、作. 図40ぼてぼて茶. り方を覚えるほど親しんだらしい。皿山は、現在「錦. 山焼(図41)」と名乗り、民藝調の陶器を生産してい. でロ. る。「ここは四季を通じて子供達にはかけがへのな い遊び場所で始終見に行った。で何時の間にか子供 達は眼だけの陶工にされてみた。形のないものの中 から湧いて来る形の不思議。もの凄い火、生き盛っ. 5. た火。土を石に変へる火の魔術、子供達は遊びなが. ら知らぬ中に書かれてない書物をここで読んでみ. =三}. 。. た。」8)と著書「六十年前の今(図42)」の中で書い. ・顎暉. ている。. 小学校の成績は抜群で、特に手工(工作)の点がよ. かったらしい。中学生の時、京都で産婦人科医をし. 図41皿山(現錦山焼)の器. ていた叔父の足立健三郎が、寛次郎を養子にして医 者を継がせようと帝王切開の手術を見せたところ、. 気を失ってしまったため医者にすることをあきら め、芸術をやりたいのであれば陶芸はどうかと勧め た。寛次郎は中学二年で陶芸の道に進むことを決心. 六+年矯9参・ 珊ヲ礎瀕F ・ρ・♂、.. う」尺. 、. したらしいが、その頭の中に描いていた陶磁器は、. ぼてぼて茶などのお茶碗なのか、皿山の日用雑器な のか、はたまた芸術全般に深い造詣を持っていた京. ミ.). 都の叔父の趣味とするものであったのか、記録はな. 図42 「六十年前の今」. い。. 一22一. ’稲.

(25) 工業高校時代は授業で習う科学などに興味はなく、美しいものしか興味は なかったと述懐している。しかし、河井記念館にはびっしりと几帳面に書き 込まれた数冊の講義ノートが残っており、後年、寛次郎本人も「学生の頃に 私が嫌った学科が、その後、さて陶器を作り出してから、一番役に立ちまし た。いったいに、今の美術教育では、科学の基礎的訓練をふまないことが欠 点になっていますが、私なども、もし高等工業学校で科学を通ってこなかっ たら、しょうもないものになっていたろうと思います。」と語っている。. この頃、後に同じ魚鋤の道を歩むことになるバーナード・リーチ(図43) の作品との出会いがある。「明治四十三年(或は四年か)赤坂の三会堂で雑 誌白樺主催のロダンの展覧會が開かれた時、同時に並べられたリーチの製品 は陶器の志願者であった自分にとっては一つの大事であった。確かに新しい 陶器の方角に既に踏み出しているこの西洋人は驚きであった。これまでに見 聞きしては持ちかかえていた吾等の陶器に、未だ嘗て見たことのない生気を 投げ込んでいることは念懲であった。自分のやりたい事に手をつけられたよ うに思えてやりきれなかった。それも今から思えば陶器の眼を覚ましてもら った一人であるといった方が妥当のようだ。並べられた紅茶器や香ごうや壷. は激しく自分の意慾をそそった。吾々の土焼の番茶 器に手が附けられてそれが紅茶呑になっていた。吾. 蟹’「 ・4.。.. 々の土瓶はそのまま茶注であった。古い漆器の独楽 形の刻煙草入れは楽焼の新しい香ごうであった。支 那の生姜壷は豊かな花瓶になっていた。我等に伝統 されたこんなものが不思議に生れ変っていた。」9). と、そのときの衝撃を語っている。残念ながら当時 のリーチの作品は見つけられなかったので、年代の. 謬、 (図43)バーナード・リーチ. 明治20年∼昭和54年 (1887∼1979). 近い1919年のリーチ作の土瓶と湯呑(図44)と後年 のリーチポッタリーによるマグカップ(図45)を参考. に挙げておく。さらに寛次郎は「壊れて金繕いのあ る壷を一緒に行った従兄と買約しようとしたところ が、更によいのを作るから暫く待ってくれとの事で 約束して帰った。一ヵ月ももっと経ってからの事だ. 1魂 (図44)リーチの土瓶と湯呑. (1919作). と思う。出来たから来てくれという端書が来たので 直ぐに上野の桜木町のリーチを訪ねた。新築のさっ. 蕊. ぱりした家で、通された座敷の畳の上は坐ることも 出来ない程の陶器で一杯であった。其処で丈の高い 鷲のような鼻をした西洋人が出て来た。これが初対 面のリーチであった。四十位の老人だと自分には思 一23一. (図45)リーチポッタリーの. マグカップ.

(26) われたが、後で自分より三つか四つ上だと聞いて大笑した。自分の英語は勿 論片言である。彼の日本語もまた片言であった。こんな面倒な奥にいる彼を どうすることも出来ない。だから僅かに用を弁じたに過ぎなかった。しかし そんなことは何でもなかった。それよりも好きな壷を得たことで充分であっ た。この壷は永く従兄と共に愛した。郊外の丘の大根畠の中の家でコスモス やダリヤを一杯に入れたり、菊や芒をさしたりした。ふっくらとした形で煉 ぶった磁質の面に、鉄気の多い戯評で画かれた小屋や煙突や荷車や沼の集約 的な日本の風景が今でも思い出される。この壷は引越の時に従兄が人にやっ てしまった。後で聞いた自分は残念であった。確か底には千九百何年と年号 が入れてあった。」10)と書いている。これについても確定出来なかったが、 リーチによる仔細不明の白磁に呉州による絵付けの壺(図46)があったので、. 参考に挙げておく。リーチは、明治44年(1911)に富本憲吉と参加した青年 美術家たちの会合で余興で作った楽焼きに夢中になり、翌明治45年(1912). から、6世尾形乾山に本格的に陶芸を学び始めている。富本も、リーチに陶 芸についての通訳をしているうちに本気で陶芸に取り組むようになった。寛 次郎が「自分のやりたい事」のように思えたりーチ の「新しい陶器の方角に既に踏み出している」作品. →. は、当然、当時主流であった争奪豪華な美術工芸な. ’㌧・. どではなく、おそらくは楽焼き茶碗に見られるよう. を脱 パ’. な技巧を廃した柔らかで素朴なものだったのではな. 趣. 1 曾. いかと想像できる。. 象嵌雲龍文蓋付壺(図47)は河井寛次郎初期の作 品である。大正2年(1913)、東京高等工業高校在学. (図46)リーチの絵付け壺. 中の22歳の作で、リーチの壺を買って1∼2年後 ということになる。腸チフスにより東京高等工業高. 校を1年間休学して郷里安来で静養の折りに、近く の錦山窯で作陶した酒瓶で、天界酒造は叔父の家に あたる。どっしりした実用本位の器体は底の部分に 注ぎ口を設けて酒甕としての用をなすとともに、素. 朴な雲龍文や屋号を古典技法の白土象嵌で入れた. (図47)象嵌雲弔文蓋付壺. 「用の美」を持つ民事的な作品で、後の作風の片鱗 が伺われる。. 明治期は、政府の輸出振興目的で、東京高等工業 高校や明治29年(1896)に開所した京都市陶磁器試 験場でも西洋のマジョリカ陶器(図48)の研究に当 たっていたが、大正期に入る頃から古陶磁を科学的 一24一. (図48)マジョリカ陶器.

(27) に研究する傾向が高まったため、陶芸界全体の趣向. 「. や研究主体も西洋陶磁器から中国古陶磁器(図49)へ と移り変わっていった。京都市陶磁器試験場では、. 初代場長藤江永孝が研究資料として持ち帰った中国 の陶芸品や、当時出版されていた中国古陶磁器コレ. 《. クションの豪華本や文献が多く集められ、寛次郎が 入所したときには、紬薬の達人と呼ばれた小森忍(図 50)辰砂紬六角花瓶)を中心に中国の古陶磁の紬薬や. (図49)元代 景徳土窯. 焼成に関する研究が行われていた。これらの影響も あり、寛次郎は唐から清の時代にかけて造られた中 国の陶磁器の美を追い求め、その高度な肌合いを作 り上げるために、唐三彩、青磁、白磁、辰砂など1 万種にも及ぶ紬薬の試作に熱中する。紬薬について は、技手主任の小森と後に入所する濱田とともに「試 験場の三羽烏」と、その偉才ぶりが陶芸界でも評判 となる程であった。その後、小森は中国の餅代の古 陶磁や清里の技術解明のため、京都市陶器試験場を. (図50)小森忍 辰砂紬六角花瓶. 退剥して南満州鉄道株式会社の中央試験所窯業料研 究部主任となった。寛次郎と濱田は朝鮮を経て満州に渡って大正八年に大連. で小森と再会し、10日間、小森宅に滞在して辰砂を中心とした研究の成果 を見せてもらった。寛次郎はとくに深みのある神秘的な赤い紬調に興味を示 し、帰国後、扱いにくい辰砂のぼかしが判らず、古美術商から釣窯の本歌を. みせてもらいながら研究するなど辰砂に熱中したようだ。3年で試験場を退. 呈した弱冠27歳の寛次郎は、五代清水六兵衛の工場の顧問として、経営立 て直しのために寛次郎が作った紬薬を提供することを条件に、元々高給であ. った試験場のさらに数倍の高給に加え、勤務は3日に1回それも半日でよい という破格の厚遇で迎えられている。. 以上のように毒薬に対しては充分な知識もキャリアも身に付けた寛次郎で あったが、果たして形(造形)はどうであったろうか。東京高等工業高校では、. 輔櫨の実習はわずか2週間しかなかったらしい。東京高等工業高校を卒業し て京都市陶磁器試験場のある京都に来たときも、「窯がなくても、ここなら 借りて焼ける。土は粗いが、この地煙を使ってみたかった。それで京都に来 たんですよ。有名な先生に就こうなど毛頭考えていなかったし、はじめから 無視していましたね。ところが、糖轄をひくとひん曲がってしまうし、ひね りで大手を作ると、翌朝にはへたへたと潰れてしまっている。東京で何を勉 強してきたんかと思ったが、あのころは全くの書生っぽでしたわ。」と後年 一25一.

(28) 振り返って語っている。しかし、京都市陶磁器試験. 場時代の大正4年(1915)、寛次郎25歳の作品であ る白井人物文壺(図51)の、手を合わせて拝んだり、. 両手を挙げて喜ぶ人たちの姿と「誕生歓喜・千九百 十五年春睡中」の文字から、寛次郎の制作する喜び が初々しく伝わってくる。また、この翌年の農展に 出品した作品は褒状をもらっており、独学にもかか. (図51)白甕人物文壺. わらずわずか数年でこのような結果が出せたこと は、寛次郎の天賦の才と言えるかもしれない。 1註. その寛次郎の才能に早くから注目していた久原鉱. 尋. 業監査役で山水画や古陶磁にも造詣が深かった山岡 千太郎は、陶磁器試験場にもなかった高価なボブソ ンの「中国陶磁史」やメトロポリタン美術館で開催. (図52)青甕鰭血文桃注. された「唐宋陶甕及び彫刻展」の目録、ユーモホプ. ラス・コレクションの6冊揃いの図録などを買い与 えて励ましていた。大正9年(1920)、30歳になっ た寛次郎のために、鐘鋳町の清水六兵衛の持ち窯と 土地を購入する援助を山岡が申し出、これをもって、. 寛次郎はいよいよ「鐘漢窯」を開き、翌10年の春 に最初の個展「第一回創作陶磁展観」を東京高島屋 で開催する。その開催に際して、寛次郎は「無心に 何の為図もなく自然に私の頭にあるものがその通り 手に働いてその形が生まれてこそ、そのものに真の 力が表れるべきだと思います」と語っている。紬裏. 紅窯変花瓶や青甕鰭横文桃注(図52)など181点を 出品し、満州での小森の研究を踏まえた辰砂や青磁 ・天目・鉤窯・練上・筒描き・貼付文・三彩と、李. 朝の刷毛目・三島手など、宋・元・明・清代の中国 と李朝初期の朝鮮の古陶磁の紬薬や技法(図53)を自. 在に使い、寛次郎独自の感覚でアレンジされた作品. 膨. に人々は魅了され、陶芸界は圧倒される。「河井氏 の奇才は科学に立脚して豊富なる天分を発揮し……. 薩i蒲.. 氏一流の創造を以てしたので全然旧縁に泥まず、新 書を出し而も露命、頗る見るべきものがある。(東 京朝日新聞)」「其製作が支那銘器の塁を摩するのは. 勿論、前人未到の新境をも開拓せずば止まないとい 。26一. (図53)中国と朝鮮の古陶磁の. 紬薬や技法の例.

(29) つた調子(東京時事新間)」などと書き立て、陶芸史家の第一人者、次郎坊 主人ごと東洋陶磁研究所泰斗の奥田誠一は、「鐘渓窯第一輯」のはしがきで、. 「天才は彗星の如く突然現わるるものである……其閃々たる光芒が吾が芸術. 界に如何なる光彩を投じて行くであろうかは、吾人の大なる興味と期待とを 待つ所である……」と絶讃し、唐・宋代の中国美術コレクターであった三菱 財閥の岩崎小弥太、国宝保存会会長の細川護立、政界の大御所牧野伸顕、東 大教授の黒板勝美らを紹介して、所蔵の名品を寛次郎に見せてくれるように 取り計らったりもしている。この時期の寛次郎は、今まで習得してきた自分 の技術のすべてを見てもらいたいという強い思いから、一つ一つの作品に大 変こだわった名称(紬裏紅、鰭血文、砕苺紅、兎糸紋、火焔青、茄子花紫な ど)をつけている。箱書きについても箱の裏表両面に及び、作品の雰囲気を 醸し出すために自らの漢詩を添えた凝ったものとなっていたらしい。このよ うに、寛次郎は優れた技術と多彩な表現によって、陶芸家としてのデビュー 当初から名声を得、その後の創作展観も好評を博すことになる。. この時期を中国・朝鮮古陶磁器研究期とまとめるならば、寛次郎は、古陶 磁に使われていた紬薬や技法の再現を研究する中で、宋・元・明・清代の中 国や李朝初期の朝鮮の古陶磁に魅了されていたが、以前に行っていた西洋の マジョリカ陶器や、リーチの素朴さや茶道の俺び寂の表現といったものも寛 次郎の中で混然となっていたため、単なる倣古主義に陥らずにオリジナリテ ィーのある作品づくりができたのではないだろうか。また、当初から、職人 でも陶磁器研究者でもなく、個人作家として陶芸を志したことや、大家に弟 子入りすることもなく独学で制作・研究に打ち込む条件を揃えることができ た点も大きいと思われる。. 一27一.

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