・、一
(図82)青甕鰭血文桃注 高10.0㎝ 大正11年頃(01922)河井寛次郎記念館所蔵
にした茶道や煎茶道で使う水注である。書 道の水滴と勘違いしていたために実物を見町
るまで小さいものだと思い込んでいたが、
高さが10cmで幅20c皿近くという両手の平サ (図83)対照的な配色の例
イズの大きさになる。桃の葉は繊細で、青青磁紬裏紅蓮花文鉢清朝 昌盛がたっぷりかかってぼってりとした桃
の実が可愛らしく福々しく、瑞々しい。辰 砂紬のかかった枝は珊瑚のようである。全 体に施された青馬紬の一部を銅紅鶴が彩る 対照的な配色(図83)は、清の康煕時代に始 められたものらしい。古来より桃は、中国 の説話「西王母と天桃」に出てくる不老不 死の仙果として長寿の象徴と考えられ、さ まざまな工芸品(図84)の意匠に用いられて
ぜ
(図84)桃果を意匠に使った例 青磁桃果形筆洗 清朝
きた。寛次郎の作品が、色鮮やかで可愛らしい形にもかかわらず、土産物品 の様に見えないのは、やはりその生命感が内から溢れ出すからであろう。
(図85)三彩鳥天使雨注 高15.7㎝1大正12年頃(c1923)河井寛次郎記念館所蔵
三彩弁天使水注(図85・86)は、名声の高ま りに反して自らの作陶の進むべき方向に悩み ながら「第三回創作陶磁展観」を開催した3
3歳頃の作品。高さ15.7cm、両手の平サイズ
の型を使った水鳥型水注で、中国・朝鮮古陶 擦 磁に例(図87)があり、国内でも模してよく作
られている。寛次郎の唐三彩は、本歌を彷彿 とさせる出来で評判がよく、古典的な獅子や 草花、瓜虫などを浮き彫りや型抜きして貼付
した上に白化粧し、黄鰍と繍を掛けてレ・(
T;矯朧鵬を
る。しかし、この作品は中国の唐三彩であり
ながら、白鳥のような水鳥に翼の生えた西洋 ・、
の天使を乗せ、ギリシャ神話のレダの物語を 。
一流の創造を以てしたので全然旧縁に泥まず
(東京朝日新聞)」であり、柳の「模倣に過 ぎない」との評は、全く奥田誠一に対する当 (図87)三彩鳥型水注の例
てつけに過ぎなかったことがわかる。 三彩鴛鴛壷遼代
流し描扁壺(図88)と流し描 皿(図89)は、英国の「日英現 代工芸品展覧会」出品やニュ ーヨークで個展を開催し、国 内では同人誌「工藝」を発刊 し、「河井寛次郎作陶10年記念
回顧展」を開催した40歳の 頃の作。大正13年目1924)に 濱田がイギリスからスリップ
・ウェアを持ち帰ってから6 年後になる。流し描きは、黒
い化粧土の上に、イッチンや 柄杓を使って白化粧土で文様
を描き、黄紬を掛ける。「黒い 泥の池の中に白く盛り上がっ た線が泳いでいる。楽しく泳 いでいる。安心して泳いでい る。」と寛次郎は感嘆した。こ の壺の梅鉢模様は、寛次郎の オリジナルデザインになるら しい。兵庫県立陶芸館のミュ ージアムショップで見た湯町 窯(島根県)のコーヒーカッ プも同様の模様が入っていた。
昭和5年頃(c1930)
ノ窯餌
リーチの指導を仰いだという.〉食、,:,\一一.
簑葺野鳥こ二鰐萬鐸.乏一監じ響琴
つたことから、ずいぶん流行
(図89)流し描皿 径12,9㎝ 昭和6年頃(01931)
つたと思われる。筆者も白化 河井寛次郎記念館所蔵 粧土と黒藻で試してみたが、
化粧土が動くうちの短時間に模様を仕上げるためには、作為を捨ててその操 作に慣れて馴れて熟れなければならない必要を感じた。慣れれば基本は難し くないが、それだけに作品の精神性が問われ、そういった意味で、この技法 は正に理趣の作品制作そのものを表していると言えるだろう。スリップ・ウ ェアを英国で発掘した濱田やリーチがどれだけ驚喜し、日本で待ち受けた柳 や寛次郎がいかに熱中したかがわかろうというものだ。
(図90)海鼠紬六角皿 径14.2cm 昭和7年頃(c1932)河井寛次郎記念館所蔵
海鼠紬六角皿(図90)は、ロンド ンの山中商会で個展を開催した4 2歳頃の作。海鼠紬は白濁した青
や艶昧の失透紬で・網まりや開疑1 環躍、
流れ模様が美しく、シンプルな6
(図91)径21.50m 昭和7年(1932)
角形の皿によく映える。紬の溜ま 京郁近代莫術館所蔵 る量によって底の表情が変わって・
楽しい。同年頃に作られた黄六方
るように工夫してあるのがわかる。
ここに挙げた3点の作品は、いず(図g2)鳥文六角皿径15,淵大正13年頃(01924)
れも生乾きの素地を型にかぶせて 京都近代蔓術館所蔵
変形させ、非円形の器を作る型打ち成形の技法で作られていると思われるが、
雑器の美に進むべき道を見つけようと煩悶した民藝初期の作(図92)と比べる と、土味を感じさせる簡素でたくましい造形となっているのがわかる。型の 使用は、簡素な技法で多作でき、民芸の趣旨に合致している。
駐
(図94)早薬陶硯 維21.5cm
大正11年(1936)京都近代美術館所蔵
(図95)会意算木文幽幽 綬13.90m 李朝 大山崎山荘藁術館所蔵
(図96)白磁角型祭器8.7x19.2刈9.20m 李朝 日本民藝館所蔵
(図93)黒紬蓋付陶硯 縦22.8㎝ 昭和11年頃(c1936)
河井寛次郎記念館所蔵
黒紬蓋付陶硯(図93)と妙薬陶硯(図94)は、
東京駒場に「日本民藝館」を開館させた4 6歳頃の作。柳はこの年の「引潮(第68号)
河井寛次郎特輯号・序論小註」で寛次郎の 陶硯について「個人陶工でこんなにも多く 作った人は歴史に無いと思へる。」と述べて いる。濱田も「河井との50年」の中で、
民藝館所蔵の朝鮮硯に惚れ込んだ寛次郎が 陶硯づくりに夢中となり、次の個展を心配 した高島屋から相談を受けた濱田が、臨時 に「四脚百種展」を開くよう取り計らったことを書いている。李朝の陶硯(図 95)の方形四足の剛健な造りはいかにも寛次郎好みであり、寛次郎作品の脚 や透かしの形は、李朝の祭器(図96)に見られる意匠と共通性が感じられる。
朝野蓋付陶硯(図93)は、蓋に松園文を筒描しており、柔らかな透明黒紬と陸 の白土の対比は、緊張感があって美しい。鉄薬陶硯(図94)は、透かし部分の 花菱の意匠や塗り分けた鉄紬の朱茶色が華やかで、黒漆の盆にでも置くとさ ぞかし映えることだろう。筆者は、端渓などといった石硯の知識しかなかっ たが、硯は初め陶磁器で作られていたのだそうだ。ここで紹介する作品は実 用にも適う陶硯制作第1期であるが、約20年後の昭和31年(1956)を中心 に、より自由な意匠による陶硯づくりに熱中した第2期がある。
『駅b
(図98)鉄辰砂草花図壷 30.5x28.5cm昭和10年(1935)
河井寛次郎記念館所蔵
白地草花絵扁壺(図97)
は、「月刊民藝」を発刊し
た49歳の作。2年前の 昭和12年には、鉄辰砂
草花図壺(図98)がパリ万 国博覧会でグランプリを 受賞しているが、この作 品(図97)は、18年後の 昭和32年(1957)にミラ
K鞠置.
嘉 ・1
(図97)白地草花絵篇壷 33.Ox30. O x 22. Ocm
昭和14年頃(01939) 京都近代莫術館所蔵
ノ・トリエンナーレ国際工芸展でグランプリを受賞する。高さ33cmの白地 の器胎は堂々として、予想以上の大きさに感じたのが第一印象だった。この、
膨らみ続けようとする白地の器胎を上下からがしつと押さえて閂を掛けてい るのが口と高台の濃い鉄紬で、同じ鉄紬でも胴の上下に引いた帯や草花文は 薄めに使って軽やかな仕上がりになっている。 鉄辰砂草花図壺(図98)が丸 胴に丸窓を描き、その中に草花文を収めているのに対して、上から見ると菱 形になった方形の胴に、草花文自体の茎が円を描く図案も軽妙だ。肩上の角 から頸へ、三下の角から高台へと伸びている草模様が、方形の町回という特 殊な形を効果的に強調している。(図99)のa
の様に胴の稜線が凹形に反っていることも、そ れを一層強調するのに役立っているが、まだほ どほどで抑えられて「過ぎていない」ところが この時期の特徴である。また、高台の稜線が胴 を貫いて頸へと繋がっていることが、全体のま とまりを生んでいるように思う。河井寛次郎記 念館に、同じ型から作られた兄弟作品がある。
a≡≡≡≡≡
『
(図99)白地草花絵扁壷の 構造図
海鼠五角食紅(図100)と鉄 紬五角食初(図101)は、若干 サイズが違うが、同じ型から 作られた兄弟作品と思われ る。「機械は新しい肉体」と いう自覚を深めて、手と機械 が本質的に同じであることを 提唱した52歳の作。蓋を形 作る5弁の花びらの3次元造 形に目を見張る。おそらく本 体は縦に二つ割りし、蓋は(中 央の花心の先の飾りは抜いた 後に付けるとして)一体で型 から抜く(図102)ものと想像 できる。一体で抜くとなれば 逆のRは付けられないから、
それだけ造形は制限を受ける にもかかわらず、このボリュ ームを持った花弁を考え、形 にまとめたことに驚かされ
る。相当なスキルがなければ、
このような形を一つの型で抜 けるようには造れないし、ま た造ろうとも思わないだろ
う。寛次郎の型の多用は、桃 頓で引けない(円でない)形 を作るためで、次から次へと 浮かんでくる形に、原型造り が楽しみで仕方なかったとい
う話も納得できる。図録の写 真では花の可憐な形に誤魔化 されて、香盒程度の大きさと 思い込んでいたが、直径は2 0cmもあってラーメンどんぶ りより大きい。これだけ美き
(図101)目凹五角食籠 17.5x20. Oom 昭和17年頃(1942) 京都近代奨術館所蔵
(図102)
一llllllllllilllll瀟llll幽
いと、茄子や柿のヘタに見えてしまったりもする。